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  3. 桃屋五郎左衛門さんのレビュー一覧

桃屋五郎左衛門さんのレビュー一覧

投稿者:桃屋五郎左衛門

23 件中 1 件~ 15 件を表示

アウシュヴィッツの「証言」についての注釈〜生政治と現代の生の倫理

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

≪アウシュヴィッツの残りの者 — 証人たち — は、死者でもなければ、生き残った者でもなく、沈んでしまった者でもなければ、救いあげられた者でもなく、かれらのあいだにあって残っているものである。≫

 『アウシュヴィッツの残りのもの』は、著者自身の言葉によれば、アウシュヴィッツ収容所で生き残った人々の「証言の終わりのない注釈」として、「アウシュヴィッツの流儀で証明されたエチカ」として構想されているという。それにしても何と手ごたえのある書物だろう。

 秀逸なミシェル・フーコー論としても読める(特に第四章)本書の中でアガンベンは、アウシュヴィッツをフーコーの「生政治」の概念を用いて読み解くと同時に、フーコーの「言表における脱主体化された主体」の問題をアウシュヴィッツの「証人」たちの言説を通じて問い直す。このように「恥じることなく名状しがたいものを凝視」することによってはじめて、アウシュヴィッツを「言語を絶する理解不可能」な出来事の領域に押しやることなく、その意味を明らかにしていくことが可能となる。

 ここでいう「証人」とは、いうまでもなく、ラテン語の<testis>、すなわち裁判や訴訟において第三者の立場に立つ者の意味ではなく、<supersics>、すなわち何かを体験したり、何らかの出来事を最後まで生き抜いた生存者であるため、それについて証言しうる者という意味だ。だが、こうした「証人」のひとり、プリモ・レーヴィによれば、アウシュヴィッツに関する数多くの「証言」には実は重大な欠落があるという。「生と死の境に住む人々」、「いっさいの気力を奪われ底に触れた者たち」、完全な人間性の破壊によって言葉すらも失ってしまった人々、すなわち収容所内の隠語で「回教徒」と呼ばれていた人々の「証言」がそれだ。

アガンベンは、レーヴィが遺した「回教徒こそが完全な証人である」と「人間は人間のあとも生き残る者である」という二つのパラドックスの解読を通じて、「証言」の生起する場=非−場所を、「生にして死の空間」である収容所を成立させる「生政治」の機構を、さらに自己喪失とそれが端緒を開くさまよいのうちに存在する人間の姿を浮かび上がらせ、後半におかれている表題となった「残りのもの」についての考察に読者を導いていく。

≪残っているものとしての言語とはなんだろうか。どのようにして言語は、主体のあとに、そしてまたその言語を話していた人々のあとにさえも、生き残ることができるのだろうか。残っている言語で話すこととは、なにを意味するのだろうか。≫

アウシュヴィッツにおいて鋭く浮き彫りにされた現代の「生政治」の様態とその中での生の倫理を繊細にして稠密な思考によって問い直してきたアガンベンが最後に取り上げるのは、レーヴィの死後にまとめられた論文集に収められた、かつて「回教徒」であった人々の「証言」、すなわちアウシュヴィッツの「残りのもの」としての「声」だ。レーヴィが指摘したアウシュヴィッツについての「証言」の欠落を補い、しかもレーヴィの二つのパラドックスが正当なものであることを証明するこれらの「声」が、本書の中ほどに記された次の一節 −−− 安易なヒューマニズムを寄せ付けぬ、何と重く力強い人間性についての言葉だろう! −−− と呼応していることはいうまでもない。

≪人間的なものについて真に証言するのが人間性が破壊された者だけであるとすれば、このことが意味するのは…人間的なものを完全に破戒するのは不可能性であること、常にまだ何かが残っているということである。証人とはその残りのもののことなのである。≫

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紙の本ムーミン谷のひみつ

2011/06/20 21:09

孤独と自由

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 『ムーミン』シリーズに登場する個々のキャラクターを紹介しながら、このシリーズの独自の世界観を概観する一冊。個と共同体をめぐってあれこれと考えさせられる本でもある。

 著者は、まずムーミン谷の住人たちの生活に「伝統や安定を是とするブルジョワ的なものと、自由や気楽さを重視するボヘミアン的なものが、かなり無頓着に混じりあっている」と指摘した上で、ムーミン谷という空間そのものが閉じているようでいて、多様な来訪者を迎え入れる開かれた場所としてある、と述べる。実際、ムーミン屋敷は家族のための空間のほかに、定住者たちの空間や来訪者のための空間も用意されている。そしてムーミン一家は、たとえば永遠の放浪者であるニョロニョロに魅入られたかのように父親が家出してもとりたてて騒ぐこともない。それは「どうでもいいと考えているからではない。互いの意志や自由をたいせつにしているから、いらぬ手出し口出しをしないだけだ」からだ。

 いうまでもなく、<私>とは、他者に対する何者かとして定義される。<私>が<私>であるために、他者の眼差しを媒介する。忌むべき冬を象徴する存在として誰からも排除されていたモランもまた、ムーミントロールの親密な眼差しを受けて喜びの舞を舞う。しかし、ことさらに誰もが仲良くあらねばならぬという奇妙な圧力も存在しない。

 自由な空間としてのムーミン谷。それは、ひとりでいることを許容しつつ、必要とあらば、相互に承認し合い、共感し合う共生関係が成立している空間ということだろう。あるいは「孤独」であることが、負の価値であろうとは見なされない空間ともいえるだろう。いうまでもなく、ここでいう「孤独」とは、 “solitude” としてのそれであり、 “loneliness”としてのそれではない。そして、このような「孤独」を許されることもまた自由であることの条件となる。

 ただし、こうした個と共同体のあり方を安易に北欧的な社会思想と見なすのは慎まなくてはならない。外の強力な力の抑圧は、内にその相似形を生むこともあれば、それに抗する強力なナショナリズムも生む。そのいずれもが内部の少数者の抑圧に転化しうる。フィンランドには人口の6%ながら、スウェーデン語を話す住民が居住する。トーベ・ヤンソンはこのスウェーデン語系フィンランド人の作家であり、『ムーミン』シリーズは、こうした言語的少数派によって書かれた作品だという。つまりムーミン谷とは、言語的マイノリティによって描かれた、一種の理想郷であるとも考えられるからだ。

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紙の本地図のない道

2002/08/17 21:09

場所が人々の記憶を呼び覚ます

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『地図のない旅』には二つのエッセーが収められていて、表題作はイタリアのユダヤ人たちの悲劇を、「ザッテレの河岸で」は、ヴェネツィアの娼婦たちの末路をそれぞれ主題としている。
 何よりも心惹かれるのは流れるような記憶の連鎖のリズム。筆者のペンは、様々な場所や事物をめぐるひとつのひとつの記憶をひとりひとりの人物の記憶と結び合わせ、縒り合わせる。たとえば1943年のローマでのユダヤ人強制連行に関する本の思い出がローマのゲットの記憶につながり、それがユダヤ系の青年とその家族の思い出や、筆者にヴェネツィアのゲットを案内した看護婦の思い出を呼び起こし、ヴェネツィアの幾多の橋の記憶が『心中天の網島』の橋づくしと呼応して、道頓堀に住んでいた祖母の記憶を呼び覚ましていく。さまざまな「場所」の記憶とさまざまな生の断片の記憶。その生の記憶は充分な手ごたえと鮮やかさをもって描かれている。
本書でもっとも痛切で、しかも筆者の対象に向かうスタンスをよく表わしていると思われたのは次の一節。ローマのゲットのレストランで賑やかにふるまう人々を見ながら、ナチによって絶滅収容所に向かう列車に追い立てられていくユダヤ人たちへの思いを綴って、筆者は次のように書く。

「あの悲劇の主人公たちも、かつてはこの若者たちとおなじように満ち足りた愉しい時間を、人生のどこかで持っていたのだろうか。そう考えると、いくつかのせまい部屋にわかれたこのレストランの白い壁を爪で掘ってでも、あの日、ここで起こったことどもを、尋ねたかった。人間の歴史が生んだ、そして私たちがなんらかのかたちで自分のなかに抱えつづけている、無数の《パオロ四世》や《ヒットラー》たちのことを、ゲットの白い壁はだれよりもよく知っているはずだった」。

 須賀敦子という人は、なにげない通りの一筋や建物のひとつひとつにも、そこに生き、暮らした(あるいはそこを訪れた)人間の記憶が封じ込められていることに深い思いを寄せる人だ。さらに、上の引用箇所で筆者は安易に自己を弱者に語ろうとはしない。つまり、絶対に自分は弱者の立場には立ち得ないことを自覚し、ただ人々の発する声に耳を澄ませようとするだけだ。そうした姿勢がこの美しい文章とこの筆者に対する信頼の拠りどころとなる。

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紙の本安土往還記 改版

2011/06/15 00:49

孤独な絶対の探求者の肖像

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 この作品は、辻邦生の他の作品にしばしば見られる、ある人物の生についての証言という形式となっている。証言者は室町末期に宣教師について日本に渡ってきたジェノヴァ出身の水夫であり、彼は京都や安土の教区で宣教師たちの補佐をする傍ら、「尾張の大殿(シニョーレ)」に軍事顧問のような立場で接する。そしてこの小説はそこで見聞したことを故郷の友人に書き送った手紙という体裁となっている。むろん南仏の蔵書家の書庫から発見されたというこの書簡は作者・辻邦生による創作であり、巻末の改題によればフロイスやロドリゲスらの文書や『信長公記』などを題材として、それらを作者独自の視点で再構成して書かれている。(そのことは手近なところでは岩波文庫のルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』などで確かめることができる。)

 そして何よりユニークな点は、この書簡の書き手である話者をスペインのコンキスタドールに従ってメキシコに渡った経験もある、技術者に徹した世俗の人間としたことであり、しかも話者が書簡を送る友人がマキャベッリを容易に想起させる「フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリ公国における政体比較研究」なる書物の著者とした点だろうか。ここに描かれているのは合理主義的な精神の持ち主の共感に満ちた眼差しによって捉えられた合理主義的精神を徹底する政治家の肖像となる。

 すなわちここに描かれた「尾張の大殿」は「自分の選んだ仕事において完璧さの極限に達しようとする意志」の持ち主であり、「力の作用の場において力によって勝つ」という政治的原則のもとにあらゆる戦略を組織し、異常なまでの好奇心と探究心をもって「この世における道理」に執着する。そしてフロイスやオルガンティノら、「信じるもののために危険をおかし、死と隣りあって生きて」きた者へは友愛と信頼を寄せ、わけても巡察使ヴァリニャーノに対しては、「仕事のなかに自分のすべてを燃焼させ、自己の極限に生きようとしている」者同士の「寡黙のなかの友情」を結ぶ。

 しかし、その一方で己れに課した「事が成る」ための不断の克己と緊張、そして「理にかなう」方法の徹底を周囲に対しても過酷なまでに要求することで諸将との間の距離が広がり、次第に孤独の影を深めていく。「明徹な理知」によって「事物の理法」を見抜く眼をもつ一方で人間の弱さに対する愛情をも併せもつ「明智殿」との対比を通じて「大殿」の孤影を色濃く描き出していく。

 そうして深い信頼と共感を寄せられながら「孤独な虚空へとのぼりつめる」ことを要求されつづけることに疲弊した「明智殿」の謀叛によって、この「理法の王国」が音もなく崩れ去ったことへの衝撃とそれに続く無為の十年が語られて話者の証言は締めくくられる。言うまでもなく、「尾張の大殿」によってほぼ完成されようとしていた「理法の王国」の崩壊とは話者にとっても「大殿」を通じて実現しようとした理想の挫折を意味する。

 この孤独な絶対の探求者によって安土の城下に出現したつかの間の祝祭空間がこの作品のクライマックスとなる。闇の中に無数の松明によって浮かび上がる壮麗な安土城とやはり松明を掲げて疾走する黒装束の騎馬武者たちの奔流。そして彼らと同じいでたちで馬を駆り、ヴァリニャーノに別れの挨拶をする「大殿」。このとき合理主義的な精神を徹底することによって絶対の探求者となった「尾張の大殿」の相貌は、作者・辻邦生がしばしば主人公とした芸術家たちの相貌に近似する。

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日本語で世界と関わるということ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 人は言語によってのみ世界内に存在し、言語という森の中に深く住まう。それゆえ、かえって自らが発する言表を客観的に捉えることが困難になる。だから日本語を母語とする者にとって日本語はあまりに自明のものとして映る。ところが多言語を母語とするものからすれば、それは尽きせぬ問いを誘発する。
 なぜ「行ってきます」という言表には「行く」と「来る」の二つの動詞が含まれるのか。「ちょっと待った」という言表のように、どうしてまだ実現していないことについても「た」がつくのか。フランス語を母語とする著者のひとりフランス・ドルヌは日本語という森の中で、日本語を母語とする者が何故そのように言うのか気にも留めない表現やそういうものなのだとやり過ごしている表現のひとつひとつを注視する。そしていくつもの不思議を見つけては目印をつけていく。観察の対象は日常的な日本語の会話文であり、それらを品の良いユーモアを交えながら、肩の凝らないレポートとしてまとめている。それは日本語を母語とする者にとっても日本語という森を散策するための良質なガイドブックとなる。
 バンヴェニストの流れを汲む発話操作理論の言語学という立場に立つ著者の狙いは、日本語(とフランス語との比較)を通じて、人間の言語能力のあり方を探ることにある。より詳しくいうならば、人間は、何らかの発話をするたびに、発話する主体である自分と外界との間にどういった操作によって関係の網を構築していくのかを探っていく。
 したがって本書の目的はあるべき日本語の姿を見定めたり、その文法体系を確立したりすることにはない。しかもこの案内人はヨーロッパ言語を規範として日本語を特殊性の枠に押し込めるようなこともしない。ただ人間の言語能力の中で一般化可能なものが異なる回路を通じて現れているに過ぎないのではないかと考えている。
 以下、本書が示す日本語の森の散策の経路を簡単に辿りなおす。
 まず「奥のほうへ進んでください」や「玄関先で失礼します」といった言表に見られる空間表象の仕方にはじまり、そこから空間表象においても重要な役割を果たす格助詞と動詞の述定関係が「表参道で降りる」「先生に本をもらった」という言表を通じて観察され、次に「行ってきます」「助けて!」という言表とともに時間に関する表現とともに、複数の発話主体をもつ発話状況が分析される。
 述定関係と発話状況の分析は「お湯を沸かして」「捻挫は治った」という言表を通じての自動詞・他動詞やアスペクトの分析につながり、また一方で「よくまあいらっしゃいました」「よく言うよ」といった質と量に関する表現の観察からモダリティの問題が取り出される。それが「ちょっと待った!」「しまった!」という言表における時間表現のシステムとともにより深く分析されたところで、最後に前述定関係を含む「いたっ!」という言表や終助詞を用いた「すごいよね」という言表の観察を通じて主体と発話の関係を探り、感覚や感情といった「原初的な領域」に分け入り、社会的な要素も含んだ日本語の発話空間の特質に迫り、話を締めくくる表現を取り上げた最終章で総括される。こうして読者は著者とともによく考えられたコースを辿りながら、自分が日本語を通じてどのように世界と関わりあっているのかを知ることになる。
 なお、アスペクトやモダリティといった述語についても本文中に噛み砕いた説明が加えられている。
 「おあとがよろしいようで」とは寄席で、噺のおわりを告げるとともに、次の演者に引き継ぐ言表だった。この言表は次のフランス語の言表に置き換えられる。
 Toute fin n’est jamais qu’un commencement.
(どんな終わりもなにかのはじまりにすぎない。)
この言葉とともに日本語の森の探索のつづきは読者に委ねられる。

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人間を読み解く鍵

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 家は、そこに人が住まうことで家である(人が住まぬ家はやがて廃墟となる)、ということは、しかしそれが余りにも自明のことであったせいか、しばしば見落とされてきた。そこで多木浩二は本書の表題を『生きられた家』という日常的な語感からすれば、ともすれば違和を覚える語句とすることで、このことを読者にあらためて印象付ける。
 家とは「外化された人間の記憶であり、そこには自然と共存する方法、生きるためのリズム、さらにさまざまな美的な基準となるべきものにいたるまでが記入された書物」であり、(より簡潔にまとめるならば)「人間によって生きられた空間と時間の性質があらわれた記号群」であると考える多木浩二にとって、家というテキストを読解することは人間を理解することに通じる。つまりこの『生きられた家』という書物は、単なる建築論・住宅論として書かれているわけではなく、家とそこに住まうことの意味を問うことで人間とその文化を問い直すための試みということになる。
 もう少し違うまとめ方をしてみよう。
 空間と時間とを創造したことは、道具を手にしたこと以上に、人間にとって決定的な意味を持っていた。この空間と時間を分節化、あるいは統合することで人間的な時空間として創造するのは、言語として構成される欲望や知覚や無意識であり、しぐさや身振りといった文化的に構成された身体であり、つまり一言でいえば、文化であるということになる。文化的コードの差異は空間の表象の仕方や操作の仕方の差異となってあらわれる。たとえば(西洋のように)遠近法的な奥行きをもつ空間を表象する文化もあれば、(日本のように)「おもて/うら」という心理的な奥行きをもつ空間を表象する文化もあるといった具合に。
 この出来事(行為)として表出される言語能力や身体能力と一体化した空間化能力によって表象され、操作される家を読むことを通じて、私たちは言語や身体に刻み込まれた文化の特質を理解し、場合によっては、ある個人がアイデンティティを模索した痕跡を辿ることが可能となる。それが家を読むことは人間を理解することになるという意味だ。
 多木浩二の他の本と同様、本書もまた具体的で読みごたえもある事例に事欠かない。そうした具体的例の分析を読むだけでも愉しい本なのだが、ここで筆者が人間を読み解くツールとして現象学的な観点から発想し、記号論的な分析を通じて提示した「家」という概念そのものも、様々な着想をもたらす。

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もののたはむれ

2007/09/11 23:57

主体が主体たりえぬその場所で

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

通りをひとつ外れたところにあるうらぶれた一画に「どことも知れぬ仮の空間」(「並木」)が不意にあらわれる。時間はおおむね黄昏時から深夜にかけて。どこか湿り気を帯びた空間とも感じられるのは、しばしば水を連想させる語彙が用いられるせいだろうか。ほかに人影はないか、あってもまばらなその空間には、その代わり人を惑わすあやかしの類が住まうようだ。そこで主人公たちは知性や理性などといったものではおおよそ測りえない体験をする。
 たとえば日頃ほとんど関わりを持たなかった叔父の家に虫の好い依頼と引き換えに留守番として泊まることになった「一つ二つ」の有紀子は、深夜、月明かりに照らし出されていずこからか現れた浴衣姿の女に遭遇する。その女との奇妙に生々しいやりとりを通じて、有紀子は日常的な知覚によって把握しうる空間の枠組みから外へと踏み出してしまうのだが、この浴衣姿の女を妖怪変化の類ではないかと訝りながらも、読む側が拍子抜けをするほどにあっさりとそこで起こった事態を受け入れる。この有紀子がそうであるように、彼ら、つまりここに収められた十四編の掌編小説の主人公たちは、主体化への意志をあっさりと放棄してしまい、ひたすら受身の存在として日常性の外の世界に身を委ねてしまう。
 たとえば「胡蝶骨」の「わたし」は象牙の蛇の化身であるかのような和服の美女に誘われるままに乗り込んだどこへ向かうとも知れぬ列車の中で頭蓋骨の奥にある胡蝶骨を女にかき鳴らされながら、「この電車が奥へ奥へと突っ走ってゆくのは、六羽の蝶が乱れ舞っているわたしの頭の中の暗い野それ自体なのかも知れぬ」と考える。内部と外部とが反転しあいながらつながっている奇妙な空間のイメージの中で主体は崩壊する。(もっとも理性による把握の及ばぬ世界ゆえに主体は崩壊せざるを得ない、ともいえるだろう。)
 ここに書かれているのは既に書いたように、理性や知性の支配する空間ではないことはもちろんのこと、非合理な感覚によって支配された空間でもないだろう。むしろ、そうしたあらゆる認識の外にある世界といえばよいのだろうか。そして、たとえば「千日手」では、夜毎うらぶれた「**将棋倶楽部」で榎田の下手な将棋の相手をしていた隆司少年が不意に「本当は僕はいないんだよ」と呟く。

 少し間を置いてから少年が「おじさんもでしょう」と言ったときそれこそ背筋にぞおっと鳥肌が立ったのは今度は榎田の番だった。するとそれをきっかけに隆司君の顔の全体が徐々にその哀しそうな目と同じ色になってゆき、榎田がうろたえているうちに、さらに少年の躯の輪郭そのものが不意にすうっと薄く透き通ってその背後のアパートの壁が透けて見えるようだった。それに続いてその壁や柱や屋根もまた薄く薄く滲んでいって、こんもりした緑に覆われた廃墟の街の光景が四方八方から迫ってくるようなのだ。そう言えば榎田はこの廃屋のような建物の玄関や廊下で誰かとすれ違ったためしがないし、「**将棋倶楽部」以外の部屋に人が住んでいる気配を感じたこともない。こうして野ざらしになって、俺はこの子と永遠に将棋を指しつづけるのか。いや、この子はいなくて、俺一人でか。いや、本当は俺もいなくて、街も何もなくて、「永遠」だけが実在して……。何億年も続いて、それからその何億年の何億倍も続いて、それでもまだその千日手には終わりがなくて・・・・・・。(「千日手」より)

 こうして主体が主体たりえぬその場所で言葉だけが生々しい実在感をもって、生と死、存在と時間の形而上学を紡いでいく。

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紙の本供述によるとペレイラは……

2007/03/03 00:07

ひとつの信仰告白として

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 この作品の魅力についてはk.m(夏バテぎみ)さん、中村びわさん、お二人の書評に語りつくされている。そこでお二人とは、少し異なる角度から(そして少々個人的な関心から)書いてみようと思う。
 須賀敦子という人は、その文章の中で自らの信仰について語ることは、ほとんどなかった。信仰の言葉は神に向けられるもので、読者に向けるものではないと自制していたのだと思う。ところがこの作品の訳者解説の中では主人公ペレイラの行動の背後にある信仰のあり方に対して深い共感を示す文章を書いている。
 そのことに触れる前に簡単に(私なりの理解にもとに)物語の内容をまとめておこう。
 人生も折り返し点を過ぎて、ふと死というものについて考えるようになった中年男の安穏とした日常が確たる理由もなく若い男女と関わりつづけることで次第に変化に富むものに変わりはじめる。その代償として時代の圧力が徐々にその強さを増しながら彼にのしかかっていく。
 にもかかわらず、「これまで生きてきた人生への郷愁」と「これからの人生への深い思い」に捉われながら、主人公は「過去」とつきあうことをやめ、「未来」とつきあうことを選択する。彼がそのことでどうなるのかは、この作品が主人公ペレイラの供述調書という体裁をとっていることから理解される。
 ペレイラは冴えない中年男で、ことさらにヒロイックに振舞うこともない。むしろ若い男女に引きずられるようにずるずると彼らの活動にコミットしていく。解説の中で訳者は、ペレイラたちの会話の中でも言及されるベルナノスの『カルメル会修道女の告白』における意志の強さとは無関係な信仰のあり方という視点を提示している。カルドーソ医師に倣うことも可能だったのに、そうはしなかったペレイラの場合と比較しているのが興味深い。
 小説の中でベルナノスをはじめとするフランスのカソリック作家たちの動向が言及されるくだり(とくに神父との会話)を読めば、それがヴァティカンですら誤謬からまぬかれえなかった現代における、ごく普通の人間にとっての信仰の問題として扱われていることは明白だし、訳者もそうした文脈で取り上げていると思われる。
(ここに見られる訳者・須賀敦子の信仰の問題については、たとえば『地図のない道』でも感じたが、かつてここに投稿した書評ではあえてそれに触れなかった。) 
 ただし、こうした問いは単に宗教的な問題系にのみ属するものでもなくて、準拠すべき規準が見出しえないとき、人は何を規準として判断すべきなのかという問いに置き換えることも可能だろう。その問いに対するヒントは「私の同志は私だけです」というペレイラの言葉の中にある。この言葉は、言うまでもなく他者との関わりを喪失し、世界から見捨てられることを意味する“loneliness”ではなく、自覚的に選び取られた“solitude”であることを意味している。

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消え去らない過去の証言

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 「ある人物を、その人自体でなく、たまたま属している集団を理由に裁くという考えは、私には理解できないし、耐えられない」と考えるレーヴィは、アウシュヴィッツにおいて被抑圧者(と抑圧者)に何が起こっていたか、あるいはアウシュヴィッツの後、何が起こったのか、なぜあのとき私は/彼はそうしたのかを「証言」し、考察していく。
たとえば、「特別部隊」と呼ばれた、数週間後の確実な死と引き換えに、それまでの間の確実な生と特別待遇を選択した人々がSSの指示にしたがって行った「特別な」任務が語られる。「犠牲者に仕事の一部を、それも一番汚い部分を負わせる」ことで「罪の重荷を負わせ」、自らの「良心の呵責をいくらか軽減するのに役立」てたのではないかと想像しながら、こうしたシステムを考案したことこそ、アウシュヴィッツの「最も悪魔的な犯罪」であるとレーヴィは言う。その一方で、ガス室で偶然生き残った少女をSSから匿おうとしたり、アウシュヴィッツにおける唯一の、悲劇的な叛乱を起こした「特別部隊」に属した人々のエピソードも紹介する。それによって、被抑圧者(善)−抑圧者(悪)という単純な二元論的把握に収まらないこうした「灰色の領域」の考察は、「犠牲者を堕落させ、体制に同化させる」システムへの倫理的抵抗の困難さという問題を浮かび上がらせる。権力が良心をいかに「腐敗」させ、「堕落」させるかということ告発するレーヴィの筆致は静かだが、厳しい。そして、アウシュヴィッツが、怪物たちによって行われた類を見ない蛮行ではなく、私たちの日常と延長線上の出来事であったことを嫌というほど思い知らされ、読み手は愕然とするほかない。
 レーヴィは、また収容所で経験した意思疎通の欠如による苦痛について「証言」する。それは命令や禁止を理解できずに被る暴力によるものにとどまらない。「『話しかけられない存在』であることは、迅速で破壊的な影響をもたらした」と。これは、古代ローマ人において、「生きる」ことが「人々のあいだにある」ことと同義であり、「人々のあいだにあることをやめる」が「死ぬ」ことを意味していたということを思い起こさせる。この場合、「人々のあいだにある」というのは、言葉を通じて「ある」ということなのだが。
 収容所からの生還後、自ら命を絶った人々も多い。レーヴィは、同じアウシュヴィッツの生き残りである哲学者ジャン・アメリーが自らを死に追い込んだ思考を辿りつつ、それに批判を加え、「私はアメリーが辿った道を行く気はしない」と述べる。しかし、この本を刊行した翌年自ら命を絶つ。レーヴィがなぜ自死を選んだのか(選ばなくてはならなかったのか)を考えることは、レーヴィが言うように、それは「他人の経験を認識することの困難性」にゆえにつきあたることになるけれど、私たちが生や倫理といった問題を考えていく上でひとつの課題となる。
 レーヴィの「証言」は、ここに挙げた以外にも多岐に及び、それぞれが様々な思考を喚起する。だからこれからも折に触れて手に取ることになるだろう。いや、手に取らねばならない本だと思う。
 生き残った者たちが一様に感じる恥ずかしさや罪悪感の意味を考察する部分については、同じイタリアの哲学者G・アガンベンの、『アウシュヴィッツの残りのもの』というアウシュヴィッツの「証言」の考察も併読することをお薦めします。

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新たな知の枠組を編成するために〜かすかに諦念に彩られた問い

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 技術をめぐる問いは、古くて新しい問いであり、技術の進展は人間の業のようなものでもある。ここでの著者は楽観的な技術礼賛にも悲観的な反技術主義にも与しないという。技術の進展を、人間の内的欲求に従っているがゆえに不可避なものとして受けとめる。
 しかも技術とは知識によって構築された媒介のシステムであり、むしろ技術と知の組織化の形態とは不可分の関係にあるという。したがって人間の内なる知と外部環境としての技術を対峙させる二項関係で捉えることは意味をなさないということになる。
 なぜか。文化はもともと生命内部の情報処理のオーバーフローに由来する外部の処理装置であり、しかも記号システムによってしか世界を触知しえない人間の第二の皮膚でもある。したがって技術という「非本来的な」外部システムの支配に対して知を擁護する批判は的外れなものとしかならない。
 では、私たちはどのように技術に向き合うべきなのか。著者は、技術が自走的なシステムとして個々の生命を圧迫するものであってはならないという条件を付けるが、それを一概に否定しようとはせず、(諦念まじりではあるが、)逆に新しい技術が扉を開くかも知れぬ新たな外部空間へと期待を寄せる。
 近代以降、人は加速度的に増大する知識の一部分にしか関与できず、その全体像は誰にも捉えられない。そして今や技術の主体はあくまでもプログラムにあり、人間もまた装置の一部として機能する時代となった。現代はまた知の情報化が進行する時代でもある。当然、人間と世界との間の記号システムを介した関係も変化し、近代以降の知の枠組も通用しない。
 しかも現代の新たな技術はあらゆるものを情報として扱い、その編集可能性を提起した。これらの技術は人間の知覚や意識の形成を通じて、新しい知覚回路の創出や生命の根源に触れうる可能性をもたらした。
 本書の狙いは、こうした現代における主体とコミュニケーションの編成とのあり方を考察し、新たな知の枠組を構想することにある。その考察はコミュニケーション・テクノロジーとメディア編成の変化を踏まえてなされる。
 最初の問いは人工的なシステムが主体を呑み込み、人間を支配する自走システムと化した中で、人が新しい情報を創出しうる主体となる可能性についての問いだ。著者の考えによればそのような主体とは、プログラムを熟知し、それに隷属することなく、オリジナルなものを生み出すサイボーグ的な主体ではないかということになる。
 次にコミュニケーションの再編の問題だが、ネット型コミュニケーションを情報生産の場とする工夫は存在するのか、存在するとすれば、それはどのようなものか、そして言説と対話の構造にもう一度「意味」を取り戻すことは可能かという二つの問いの形をとる。これに対しては分散的かつ非中心的なメディアによるシステムの無効化というヴィジョンを提示する。ただし、一方で分散したコミュニケーションが相互不干渉的な閉鎖的回路に封じ込められる危険性があることも認めている。そして、いずれの問いについても、対象となるものの帰趨がいまだ定かならず、それゆえ著者自身、明確な解答を出しえていない。
 それでも本書は高度情報化社会論、メディア論として今なお興味深い視座を提供しているし、いくつかの興味深い着想が含まれている。たとえば、著者は新たな知の枠組の編成に向けて、「文化の気象学」という観点を提案する。文化と気象現象とがその複合性や複雑性、そして境界をもたないという点において共通していることに着目したアイディアなのだが、本書の中で詳述されているわけではない。しかし、こうした視点が今後どのような展開を示すのか、著者の仕事をフォローしていきたいと思わせるものはある。

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都市の政治学

2007/02/04 18:05

多木浩二はベンヤミンとともに都市を歩き、フーコーのように観察する。

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 グローバル化の進展する現代における新たな人間学の視座を見出すための試論。ここで筆者が選び取ったキーワードは表題にもある「都市」ということになる。
 では、「都市」とは何か。
 もともと都市は「十九世紀のネーション・ステートの首都として成立した大都市に由来する『都市』概念を、普遍化したもの」だが、現代の都市はこうした近代に起源する概念では把握できないと考える筆者はあらたに、現代の都市を「集合状態にある人間が作りだす、完全にはダイアグラム化不可能な複雑な接触の構図として存在するもの」であり、「人間的な関係、権力、ずっとあとになると資本といってもいい力など、超個人的な力が組み合わせを変えながら、言説を介して作用する場」である、と定義し直す。
 その上で、筆者は郊外ニュータウン、コンビニエンス・ストア、イヴェントとテーマ・パーク、デザイン、「都市」を成立させる条件としてのインフラストラクチュアといったものの観察を通じて、「都市」の、「欲望をすみかとして人間が夢と覚醒のあいだの日々を送る場所」としての現在を素描していく。そこで描かれていくものを具体的に挙げるならば、それは資本主義の成立とその文化の広がりによって変化していった人間の関係性や消費のモードであり、ユートピアを構想しえなくなった現代の群集の集団的な夢想の行方であり、安全と自由のパラドックスであり、これらを通じてフィクショナルな物語を消費しながら変貌していく「都市」とその変貌の基底に欲望や力の「ゲーム」のありようをあぶりだしていく。
 では、この「都市」に作用する力はどのようなものか。たとえばオスマンのパリ改造のように近代の都市はそれを行使する主体を想定することは可能だった。だが、人間の集合のスケールが拡大し、テクノロジーやメディアが高度に発達した現代の「都市」には非人称的で抽象的な力がネットワーク状に張りめぐらせられる。筆者はこの主体の見えない過剰な力を、たとえば資本とも呼ばれるものも含めて、ゼロの権力と呼ぶ。こうした力はローカルなものをグローバルな網の目に組み込んでいく。「都市」は今や空港というゼロの空間を媒介にして、ネーション・ステートの境界を超えて他の「都市」と結びつけられる。
 多木浩二という人は、ベンヤミン同様、ある時代の物質的な文化の中に、その時代を生きる人間の欲望や感情や思考といったものが刻印されると考える。したがって「都市」を構成する様々な「もの」を観察し、その底流に網状にはりめぐらされた諸力の関係を問うことは、同時に人間とその世界を認識することを意味する。ゆえに「都市」は変貌する現代を生きる人間を考察する有益なツールとなりうる。それが「都市」を論ずる筆者の意図するところとなる。
 「あとがき」を見ると、内田隆三、大澤真幸、吉見俊哉の三人の名前を挙げて謝辞が記されている。この三人のその後の著作を読むと、そこかしこにこの本と響きあうものを容易に読み取ることもできる。そのことからもここでの筆者の試みの成否については推察されるだろう。

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ある人生の音楽

2003/01/29 22:47

打ち砕かれた人生の心惑わせる単純さ

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 私たちは(それがどのような形をとるにしろ)日々自分らしくあろうと願いながら、与えられた条件の中でそうあるべきものと思っているものとは異なる生を時に(不本意に思いつつも)演じなければならないと感じて生きている。ところが『ある人生の音楽』に描かれているのは、自分らしくあることを自らに禁じ、他人として生きていくことを選んだ男の数奇な人生だ。しかし、あるいは、それゆえにこの作品は私たちに自らの人生を生きていくことがどういうことなのかという問いを静かに投げかける。
 物語はウラルの一都市の駅の待合室からはじまる。いつ到着するとも知れぬモスクワ行きの列車を待っている話者は、真夜中というのにどこからか響いてくるピアノの調べに導かれて一人の老人に出会う。翌朝、話者はこの老人とともにモスクワに向かう列車に乗り込む。やがて老人が静かに自らの過去を物語り始める。
 老人はアレクセイ・ベルクといい、かつて、ピアニストになることを夢見つつモスクワで少年時代を過ごしたという。だがデビュー・コンサートを間近に控えたある日、両親が再教育のために国家保安局によって逮捕され、彼自身も自分が「ひとつの世界」から追放されたことを知る。疑惑と恐怖の中で彼は今までまったく付き合いのなかったウクライナの親戚を頼って逃亡する。しかし、国家保安局の手はそこにも伸びてくる。折りしもドイツ軍がその小さな村にも侵攻してきた。ベルクは戦場でソ連兵の死体から軍服を剥ぎ取り、自分ではない者となることによって生き延びることを決意する。ピアニストになる夢と自らの過去を封印し、個性のない誰でもない者として生きていこうとするのだ。こうして田舎からやってきた兵士セルゲイ・マルツェフ、すなわちベルクは戦場から戦場へと転戦する。死から逃れるために「もっとずっと確実な死に晒され」ながら。
 しかし、無個性に徹しようとした「私」は、その意思とは裏腹に人々の記憶に刻み込まれ、さらに封印されていたはずの過去がわずかなほころびを見せはじめる。
 ベルクはある日、戦争前に投獄された者たちへの特赦の可能性を耳にしたことで、それについて考えることを「みずからに禁じつつ、しかしそのことばかり考え」ていた両親のことを思う。手の中の死んだばかりのリスの温もりとしなやかさと両親への思いがベルクを忘れていたはずの人生に連れ戻し、「日々の戦闘を通じて鍛えてきた無関心とがさつさの鎧の下に隠れた、驚くほど感じやすい誰か」が表にあらわれる。マルツェフに掛けられた言葉についベルクとして返事をしたことから、ある将軍の運転手となり、その命を助けたことで戦後もその運転手を務める。だが、物静かな運転手マルツェフであるはずの青年に将軍の娘はちょっとした気まぐれから、あろうことかピアノのレッスンをはじめ、やがて自分の婚礼の宴の余興に招待客の前でピアノを演奏するよう命じる。このときベルク青年がどのような生を選び、それが彼にどのような運命をもたらすのか、何より意外な結末については、これからこの作品を読む人のために語らずにおこう。
 私はこの作品の物語を辿りすぎたかも知れない。けれども、この作品の穏やかな、それでいて、その底に静かで深い悲哀を感じさせる語り口の魅力について具体的なことは何も書いていない。それにベルクの物語全編を覆う重苦しく暗い詩情をたたえた空気についても触れてはいない。この作品の真の魅力はむしろそこにあるはずだし、そのことは実際に手に取ればおのずと理解されるだろう。そしてこの語り口と作品を支配する空気ゆえに、私たちは、この打ち砕かれた人生の心惑わせる単純さから、穏やかな、しかし確かな手ごたえをともなう感動を受け取ることができる。

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紙の本音楽のつつましい願い

2003/03/09 21:59

周縁からの楽の響き〜美しい音楽のような書物

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 さまざまな趣向を凝らした中沢新一の11の物語やエセー、その軽やかで緩やかな語りのリズムを線に置き換えたような山本容子によるエッチング、これらを瀟洒な装丁に封じ込めた美しい書物、それがこの本を端的に言い表す言葉だ。この美しい書物がクラシック音楽ファンだけに向けて書かれたものと思いこむのは何とももったいない話だ。

 「音楽はそもそも、つつましさへと向かおうとする美徳を、内在させた芸術」であると考える語り手によって選ばれた<近代>以降(音楽史的な区分でいえば、ロマン主義以降)の十一人の作曲家たち、あとがきの中の表現を借りるならば、「近代に突入した西欧の音楽が、ふくらんでいくエゴと、『創造』へのパラノイア的熱狂につきうごかされていたときに、これらの作曲家たちは、自分にあたえられた才能を、もっとつつましい音楽を作り出すことに向けようとしていた」作曲家たちなのだ。したがって、この中にはベートーヴェンもシューマンもヴァーグナーもいない。
ここで取り上げられているのは、たとえば、「謎をはらんだヴェール」としての音楽を書き、謎の死を遂げたショーソン、音楽とは「人生のすべてではなく、人生の一部であるからこそ」美しいと考えた日曜作曲家ボロディン、「光を音につくり変える技を、自分の肉体を通して、伝える」「五千歳の老人」ハチャトゥリアン、「なによりもまず人間の声に耳をそばだて、そこに音楽の発生のみなもとをみいだし」ていたヤナーチェク、光を「歓喜と官能の源泉」と捉えていたディーリアス、「純粋なる夜の音楽」「純粋なる室内の音楽」を書いたフォーレ、自己の内部で「弁証法と装飾という、二つの原理」を戦わせて「音楽の第三の道を探った」チャベス、「人を裸のまま、宇宙の流動の前にさらそうとする」「おとぎ話としての音楽」を書いたチュルリョーニスといった、西洋近代音楽史の中でもどちらかといえば傍系に位置する作曲家たちばかりであり、その多くはロシア、東欧、中米、英国といった具合にクラシック音楽においては周縁的な地域の作曲家たちだ。
 しかし、彼らはまた、チャベスのエピソードや、何よりロシア滞在中の山田耕作とスクリャービンの音楽との一瞬の邂逅のエピソードが如実に示しているように、いずれも西洋近代音楽の文脈に位置しながら、西洋近代音楽を構成する「ロジックの彼方」に「別種の音楽が生まれる可能性を秘めた場所」を見出そうとしていた作曲家たちとも言い換えられる。つまり著者は、音楽を通じて、西欧近代に対するもう一つの方向性を提示しようとしているともいえる。その意味で、本書は確実に中沢新一のこれまでの仕事の流れの中に然るべき位置を与えられるものだ。

だが、もっともらしい理屈はこれぐらいにして、まずは冒頭のコダーイのエピソードを読んでみよう。この作曲家のためにハンガリー民謡を吹き込んだ女性のスピーチの形をとった、中沢新一が類稀な物語の語り手としての手腕を存分に発揮した物語を読み終えたとき、誰もがすでにこの本を手放せなくなっている自分を発見するに違いない。
中沢新一は作曲家たちの人生や音楽を共感にみちたまなざしのもとに語ってみせる。しかも、そのひとつひとつのエピソードが彼らの生と音楽の本質を的確に映し出すものであるがゆえに、それが既知の作曲家であれば、一篇読むごとに手がついCD棚の方に伸びてしまい、未知の作曲家であれば、また一人親しみを覚える作曲家が増えることになる。そう、この本に欠点があるとすれば、まさにその点で、一冊の本を手にしたおかげで何枚ものCDを買う羽目に陥ってしまうのだ!

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廃墟の美学

2003/04/23 00:16

人はなぜ廃墟に美を見出し、それを描くのか

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 西欧近代絵画史を繙くと、廃墟を描いた絵画の系譜を辿ることができる。それらは今まさに崩壊していく建造物を描いたものであったり、静謐な風景の中に描かれた古代遺跡であったり、ネクロポリスと呼ぶべき無人の都市景観であったりする。私たちはそうした絵画の存在と魅力をかつてユルスナールや澁澤龍彦の秀逸なエセー、そしてここに取り上げる谷川渥の一連の著作を通じて知ったのだった。そのせいか二年前のヴェネツィア絵画展では、現実の風景の中にそこにあるはずのない古代遺跡を移し変えたカプリッチォ(綺想画)の小品の前でもっとも長い時間足をとめて見入ってしまったものだ。

 モンス・デジデリオに代表される動態としての廃墟から、ピクチャレスク美学とも結びついたユベール・ロベールらの静態としての廃墟への変遷、さらに現実の古代をその規模においてはるかに凌駕するようなバロック的廃墟を生み出したピラネージから廃墟の断片の蒐集家ジョン・ソーンへ。本書の内容を一言で言えば、これら四人を中心にコンパクトにまとめられた17世紀から20世紀に至る西欧近代美術史における「廃墟の表象史」、もしくは廃墟画とその背後にある精神史を読み解く「廃墟のイコノロジー」の試みといったところか。

 確かに廃墟画というテーマ自体は谷川渥のこれまでの著作に親しんできた読者にとっては既に馴染み深いものだが、「あとがき」によれば、本書は「廃墟論の集大成」として企図されているとのことだ。巻末には廃墟に関するかなり本格的な文献案内も備えており、また過去の文章をベースとした箇所についても加筆・修正が施されている。だから、『廃墟大全』(本書とほぼ時を同じくして復刊した)、『形象と時間』、『表象の迷宮』などが手元にあったとしても、本書を手にとって見る価値は充分にある。

 個人的にとくに興味を惹いた箇所は、廃墟という主題が美術史において登場するのがなぜ近代以降なのか、という問いに対する著者の答えだ。

≪廃墟の表象は、…遠い過去の文明の記憶を保持しつつ、その過去と現在とを隔てる時間的距離を意識すると同時に、また現在をひとつの遠い過去とするであろう遠い未来との間に横たわる時間的距離をも意識し、さらに過去と未来とのあわいに存在するこの自己なるものを相対化しうるような時間意識の成熟によってはじめて可能になるのだ。≫

それは、たとえば、クロード・ロランのように過去の黄金時代への憧憬を喚起する装置となる場合もあれば、ユベール・ロベール—ディドロのように「二つの永遠」のあわいに立つ人間のはかなさへの観相に向かう場合もあるだろうし、シュペーア—ヒトラーのように自らの権力意志の未来永劫に続くモニュメントの夢想となる場合があるにしても、廃墟に美を見出すのは、ヘレニズム的な円環的な時間意識やヘブライズム的なさほど遠くないものと感受された起源と終末を結ぶ線分的な時間意識ではなく、過去にも未来にもはるかに延長される直線的なものとして時間を把握する近代的な時間意識であることは共通しており、「あるものとあったもの、あるものとありえたであろうものとの対照」のうちに廃墟は表象されていったのだということになる。なるほど廃墟とはまさに近代的な画題だったのだ。

 しかし、私は本書をより上質な紙の、大判のカラー図版入りの書物として読みたかった。新書版という制約によって、せっかくの百枚を超える豊富な図版が、あまりにも小さく、しかもすべてモノクロで、ディテールがつぶれてしまっているものも少なくはなかったからだ。けれども、本書の内容からすれば、これが過分に贅沢な注文とは私には思えない。

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紙の本建築のポエティクス

2003/04/07 00:24

起源としての建築の方へ

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設計図や建築家自身の思想よりも、「実際の建築のなかにみずからの身体を置き、そこから出発して」考え、「そこで営まれる生活、住みつきの現象、社会的なものの侵入、身体的な感覚性、詩的なダイナミズムといったさまざまな要素、とりわけ時間のなかでの変容のファクター」に眼差しを向ける。こうして「絶えず生成する空間組織」として現れた個々の建築に触発された身体が織りなす思考のプロセスがそのまま言葉となる。ここに書き記された言葉は、身体によって掴みとられたものゆえに、それを読む私の身体に直接働きかけ、まだ見ぬ建築への憧憬をかきたて、それを訪うよう誘い、既知の建築についてはそこでの経験に新たな知見を付け加える。一言で言うと、本書はそういう本だ。

もう少し詳しく紹介するために、著者が建築をどのようなものとして捉えているのか、序論「建築のポイエーシス」から引いてみよう。

≪建築とは — 言語と並んで — 人間的な世界のすべて、文化というあり方をする世界のすべてであると言うことすらできるかもしれない。つまり建築は人間の文化の根底にかかわっている。それどころか、みずからの根底や基盤を問い、そこから出発してそれまで存在しなかったひとつの世界を打ち立てるという意味において、建築は本質的に根底的であると言うべきかもしれない≫

建築とはある根源的な空間を人間にもたらすものだと言い換えてもいいだろうか。アリストテレスも『形而上学』で言っているように、建築(architecture)とは、ひとつの起源(アルケー)を作り出す技術であり、それゆえ、たとえばリベスキンドの建築のように人に過去と未来にかかわる歴史的存在としての輪郭を与えもするだろう。

だからこそ著者の問いは、建築の起源にではなく、むしろそれ自体に「投影されたみずからの起源の光景そのもの」としての建築へと向かう。「起源の光景」とは、「未来という来たるべき時間の分有を搬」ぶ方舟(arche)であり、「大地に向かう重力とそれから離反する反−重力の緊張の軸」のなかにみずからの場を持つだけでなく、「『いま、ここ』と『いまではなく、ここではない』とのあいだの関係への問いを空間化」する塔であり、「生と死、内部と外部を分かつ分割・分有の線に触れさせ」る墓であり、「船—塔—墓として、どれほど閉ざされた空間」に造形されていようと、一方で「他者とともにある」ことを感受させ、「公共的な開けのひとつの可能性を開示」する広場としての光景なのだ。

このような自らの起源の光景を表象する建築として、たとえば安藤忠雄「光の教会」、アイゼンマン「布谷東京ビル」、槇文彦「TEPIA」、ベリーニ「東京デザインセンター」、荒川修作「養老天命反転地」、内藤廣「海の博物館」、ル・コルビュジエ「ロンシャンの教会堂」「ラ・トゥーレット修道院」、リベスキンド「ユダヤ博物館」、田窪恭治「サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂プロジェクト」といった十三の建築(とその建設現場)がある。

これらの建築に著者が何を見、何を聞き、何に反応したかは、具体的な紹介は差し控えるつもりでいた。が、ひとつだけ書いておこう。ロンシャンの教会堂に三日続けて通い続けた著者は、この建築を「レフェランス」と呼び、「約束の場所」と呼ぶ。それは建築内部に横溢する光がもたらした圧倒的な経験によるものであることは間違いない。安藤忠雄の「光の教会」を最初に訪ねていることとあわせて、著者の身体はわけても光に強く感応するようだ。「光のオペラ」(「オペラ」とは「作品」の謂いであり、小林康夫には同名の著書がある)としての建築。付け加えるならば、「光の教会」の安藤忠雄その人もまた、著者が訪問した30年ほど前にロンシャンの教会堂の光に圧倒された人だったと記憶している。

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