サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. pipi姫さんのレビュー一覧

pipi姫さんのレビュー一覧

投稿者:pipi姫

71 件中 1 件~ 15 件を表示

ニートやフリーターは誰のせい?労働現場の実態を変えることなく若者だけに責任を押しつけるのはおかしい

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 近年、若年労働者問題について書かれた本が目白押しだが、どうやったら若者を定職に就かせることができるのかという視点でしか語られてこなかった。これに対して熊沢氏は、以下のように異議を申し立てる。

《就職後の就労継続をむつかしくしている職場の状況——労働内容、労働条件、人間関係をふくむ労働環境などが、もっときびしい検証にさらされるべきであろう。政策論についていえば、こうして職場の状況をさておいてともかく正規雇用に就職させればよいというものではない》(p9)
 本書は、たとえば本田由紀ほか『「ニート」って言うな!』が持つ、「労働市場の問題を等閑視して若者の就労問題を若者の「自己責任」に転嫁するな」という問題意識を共有している。若者バッシングの言説分析である『「ニート」…』とは違って、熊沢氏は若者の労働現場の過酷な実態について、労働統計の分析と当事者たちの聞き取りを通じて明らかにする。
 働きたくてもそもそもパイが限られている、さらにせっかく就職しても過酷な労働に擦り切れてしまい、早々に離職し、やがてニートになってしまうその実態を、ファミリーレストランを一例に検証する。
 ファミレスは非正規社員の比率の高い職場だ。非正規社員は勤務時間を選べるが、少数の正社員は勤務体制がきっちり組み込まれ、統括責任を負わされ、店長になると厳しい査定にさらされる。定時に退勤できないことなどはザラであり、過酷な労働に疲れ果てて離職する若者が後を絶たない。その様子を見ているフリーターたちもまた、「ここの正社員になどなりたくない」と思ってしまう。
 このように正規従業員が早々と辞めてしまう理由としては、以下の3つが挙げられるという。
1)企業が長期的スパンで人材を育成する力を無くしてしまい、即戦力、即座の業績を求めている。
2)その結果、労働時間が長くなる。過酷なノルマの存在。
3)職場の人間関係の緊張が高い。「上司が怖い」。
 ところが、不本意な職場、過酷な労働条件であっても若者たちは総じて自分の職場や上司に対して肯定的であるという。彼らは自分たちの職場を自らの力で変えていこうという気概に欠ける。そんな面倒なことをするぐらいならさっさと辞めてしまうのだ。
 現代の若者は忍耐力において旧世代より劣るかもしれないが、若者の離職率の高さの責任は、「勝ち組、負け組」の分化を公認する政策思想や、今や「なんでもあり」の観を呈する労務管理のほうにある(p54)。
 若者の労働問題についての処方箋としては、経営側に向かっては労務管理のあり方への反省を促し、学校に対しては職業教育の重視を提言している。そして熊沢氏らしい主張は、労働組合への期待と叱咤だ。さらに若者自身には、過酷な労働条件に対して団結して闘えと訴える。
 最終章の若者たちのパネルディスカッションが興味深い。彼らは、労働条件に対する不満はそれほど持っていない。むしろ、ときには正社員以上に「仕事が楽しい」「やりがいがある」と、自分の労働に肯定的な評価を下している。彼らは雇用形態にこだわりがない。そういう価値観に熊沢氏は複雑な思いを抱くという。
 本書の大部分を割いて若者が置かれた困難な状況を描いてきた著者だが、一方で若者に対して、その認識の甘さや 「社会に出会う」ことを忌避する態度に苦言を呈してもいる。そして、「木を伐り水を汲む」地味な仕事にも人々に喜んでもらえる労働の喜びがあることを訴え、社会に出会うことなく「自分探し」を続ける倦んだ若者に、そのことの空しさに気づくよう呼びかけている。実際、旧世代はいつも若者たちにうるさがられるものだ。けれど、このことは言い続けねばならない。私もそう思う。
 著者が若者に向けた言葉には限りない愛情と激励が込められている。使い捨てられるな、燃え尽きるな、と。彼らにその言葉が届くことを切に祈る。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本図書館に訊け!

2006/02/26 10:51

図書館を使いこなすための入門書。大学生必読

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書では、図書館とはどういうところか、本屋とどう違うのか、なぜ図書館は必要なのか、といったことから始まって、資料の多様性の解説・評価、目録の見方、文献検索の方法等々、およそ図書館を使いこなすHow toはすべて指南されている。
 インターネット時代だからこそ、図書館の資料と合わせて調査しなければならない理由についても詳しく書かれていて、これは必読。ピンポイントで検索結果を出してくるインターネットの検索エンジンからはこぼれおちる情報がいくらでもあるのだ。
 それに、ロボット型検索エンジンを使っても、実はネット上の情報のわずか20パーセントも網羅できないという。どうすれば目的の情報にたどりつけるのか、各種データベースの特長を知り尽くした図書館員ならではのネット・スキルが頼りである。調べ物と言えばすぐに”Google”や”Yahoo!”に飛びついているようではダメなのだ。
 本書は図書館初心者向けに書かれているが、現役図書館員であるわたしが読んでもおもしろい。知っていることばかり書いてあると思いきや、軽妙な語り口や豊富な知識に基づく図書館の世界の解説には、改めて目を見開かされることが多々あり、この世界の広さと深さに感じ入った。また、ときどき話題が脱線するのも楽しい。
 さらに、図書館(特に大学図書館)にはどういう種類の本や雑誌があって、論文を書くにはどのようにそれらを区別識別して有効活用すればいいのか、どの資料が信頼に堪えうるものなのか、その評価方法、見分け方のヒントが丁寧に書かれているのは、図書館員にとっても改たな気づきがあり、大変お役立ちだ。
 そして、もっとも役に立つのは「レファレンス・ブック」(参考図書)の使い方だろう。レファレンス・ブックとは、調べ物をするのに役立つ資料のことで、百科事典類や文献目録がその典型だ。例えば百科事典の使い方一つとっても、いきなり当該項目を読みにいくのではなく、まず索引巻から当たるようにという。索引を調べることによって、相互関連のある項目が一覧できるのだ。索引を利用することによって、一つの項目だけを読んでいては気づかない裾野の広がりを知ることができる。レファレンスブックの使い方ひとつとってみても、図書館員の指導なしにはなかなか上達しない。とにかく、「モノを利用するのではなく、ヒトを利用」せよと井上さんは言う。司書であるよりも前に図書館のヘビーユーザーである著者でこそ書けた本だと言えよう。

 ではここで本書からレファレンス(調べ物についての質問と回答)の実例について挙げてみよう。「永井荷風が太平洋戦争の敗戦の前日、谷崎潤一郎と岡山で会って、翌8月15日昼前に別れている。そのときに荷風が乗った列車と時刻を調べたい」。これ、いったいどうすれば図書館で調べがつくのか、そんな古い時刻表を持っている図書館があるのだろうか。
 あるいはこういうのはいかが?「『金色夜叉』のお宮と寛一の歌が入ったCDがあるらしいが、どうやったら手に入るか」「行政文書をA4判に統一するに当たって作成されたマニュアルのようなものはあるのか」「昭和13年の5万円は今の貨幣価値に直すといくら」
 こういった質問に図書館員は答えてしまうのだ。もっとも、答を即座に示すのではなく、あくまでも調べ方について助言・教示するだけなのだが。それにしても図書館の膨大な資料の前で立ち尽くす利用者にとって、図書館員はなんと頼りになる水先案内人だろう。
 本書は既に4刷になっている。これからbk1で注文する人は誤植の少ない版を読めるわけで、ラッキーですね。ぜひ武田徹さんの『調べる、伝える、魅せる!』との併読をお勧めします。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本朝鮮半島をどう見るか

2004/11/05 20:20

<朝鮮半島>の入門書だけれど、専門家・プチ専門家にこそ読んでほしい。なんで今までこういう本がなかったのだろう。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 どうして日本人は朝鮮半島について語るときに、ほかの国についてのように「普通」に語ることができないのだろうか、と著者は問う。巷間、朝鮮半島に関する肯定・否定両方のステレオ・タイプ言説がまかり通っている。それらの思いこみをひとまず飲み込んで、素直に統計に取り組んでみよう、と。

 まずは、朝鮮半島の大きさ、人口から。地理的にも経済的にも韓国と北朝鮮はほんとうに小さな国か? GDPは、軍事費は? そして、朝鮮半島は小国だから植民地にされたという思い込みも本当だろうか?

 そして、日本と朝鮮半島は運命共同体か。グローバル時代になぜ朝鮮半島が運命共同体といえるのか。単に地理的に近いという以外に韓国や北朝鮮が日本と特別な関係を結ぶという意味は本当にあるのか? 朝鮮半島についてだけ、なぜ特別視するのか?

「サッカーの試合を観に行ったはずなのに日韓友好についてしか語らない人や、自分の最愛の人を語るときに「私の妻は朝鮮人だ」としか表現できない人は、どこか不自然だ。それは、彼らがサッカーの試合そのものや愛するその人を見ていないからだ。彼らが見ている尾は、試合や最愛の人の背後にイメージされている朝鮮半島、しかもステレオタイプと化した朝鮮半島の姿だ」(55p)

 ステレオ・タイプといえば、朝鮮人は強い民族意識を持っていると思われているが、それは本当だろうか。歴史的に見て、他の植民地に比べると激しい民族闘争が行われてきたのだろうか?
 じっさいには、朝鮮での反日運動は一時的に激しくなってもすぐに消滅してしまうというのが著者の結論だ。それについては、血なまぐさい弾圧だけが闘争敗北の理由とは思えないという。彼らは、強い民族意識を持っていても、しょせんは大国にかなわないという諦めをもってしまうのだ。

 植民地支配についての賛否両論の評価についてはどうだろう。確かに日本の植民地下において朝鮮は経済発展したけど、政治的権力がなく外国人に支配されているという状況が果たしてよいことだろうか。自分が当時の朝鮮半島に暮らしていたらどう感じるかを考えてみることだ。それが判断の基準になるはず、と著者はいう。
 そして、植民地支配が終わって半世紀がすぎてもいまだに朝鮮半島との関係がこじれているのは、「和解の儀式」ができなかったことに原因がある。朝鮮は自力で解放されなかったし、日本は朝鮮人に負けたとは思っていない。そこに不幸なボタンの掛け違いがある、と。

 最後に、現在の北朝鮮についての考察が述べられる。「北朝鮮が目指しているのは体制の保障を得ることであり、経済援助は二の次だ」から、北朝鮮がこわいのはアメリカによって体制を潰されることである。ただし、今すぐにでも北朝鮮の体制が崩壊するのかどうかなんてわからない。わからないことの理由は情報が少ないから。少ない情報で安易に結論を出すな、と。
 
 そして、まとめの部分で、著者は「どこにもいない「平均的で典型的な韓国人や朝鮮人」など探すな。一人ひとりの現実を受け止め、多様な現実をそのまま受け止めること」が大切だと述べている。わたしがもっとも共感したのはこの部分だった。

 本書は、朝鮮半島について考える格好の入門書・啓蒙書だ。ただ、これを読んだからといってそれほど革命的に見方や考え方が変わるわけではないだろう。なるほど、数字を挙げて具体的に論証された部分についての偏見や謬論については正せるかもしれない。しかし、数字や事実のつきつけで揺らがない人々の感情や意識というものもまた確かに存在する。

「「交流による解決」という魔術を信じて半ば人任せにして放置すること」(146p)は決して日本と朝鮮半島の人々にとってよいことではない。本書はその問題について考える端緒となる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本河岸忘日抄

2005/08/25 16:32

いつまでも向き合っていたい小説

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「いつまでもこの本と向き合っていたい」と思わせる馥郁たる香りの漂う小説だ。それは、贅を尽くした重厚で落ち着いた調度が安らぎを与えてくれるホテルのラウンジで、軽い酔いにうっとりしながら「いつまでも語り合っていたい」と思わせる心許せる人と飲む、そのような贅沢な時間と同じ。
 ストーリーなどはない、エッセイのような小説。登場する人物たちはたった数人だけれど、とてつもなく魅力的だ。
 フランスはセーヌ河上流に繋留された船に住む日本人青年が高等遊民の生活を続けていく様子が三人称で語られる。彼の思考のたゆたう先を読者もともに味わう作品だ。声高でない「イラク戦争」への批判が底を流れる。
 主人公の「彼」はほんの目の前にある対岸に渡ることを潔しとしない。すぐ近くなのに彼にとって対岸は遠い岸辺だ。それは「彼」と他者との距離でもある。
 もう一人の重要人物は、「彼」にその船を貸している年老いた大家。偶然の道行きから主人公が異国で知り合った実業家だ。大家は病院に入院したまま、死の日を待っている。まもなく死ぬというのに異様にエネルギッシュで口の減らないこの病人は、まるで映画「みなさん、さようなら」の主人公みたいだ。大家の口にのぼる処世訓は、一代で財を成した事業家の豪快さやウィットがけれん味なく発揮されて小気味よい。
 もう一人の客人は、西アフリカ出身の郵便配達人。いつのまにかすっかり知己となった郵便配達人は「彼」の数少ない友人の一人だ。いつもゆっくりとコーヒーを飲んで行く。郵便とはすなわち外界とのコンタクト。「外」を「彼」に運んでくる人が西アフリカ出身の長い足の持ち主というのも素敵だ。
 そして最後に主人公「彼」の友人、枕木という男。枕木が日本からフランスの動かない船宛にファクスをたびたび送ってくる。メールでやりとりすればいいものを、彼らはファクス通信で繋がっているのだ。その枕木さんからのファクスがまた会社勤め人間のやるせなさを感じさせてどこか切ない。
 本書にはさまざまな古い本——ミステリーであったり寓話であったり——がふんだんに引用されていて、それがまた興味をそそる。引用される物語じたいがおもしろいと同時に、何度も「彼」のなかで反芻されてこの小説の大きなモチーフの一織をなす。
 異国に暮らす孤独な「ためらいの人」の主人公は作家が生んだ、現代社会へのアンチテーゼだ。このような知性のありかたを好ましく思ういっぽう、その「踏み出せない」彼岸への一歩を「彼」はどのように運ぶのだろう、と不安を感じもする。何の起伏もなく淡々と綴られるかのような小説だけれど、きちんと起承転結、いや、起と結はある。
その「結」に一風の爽やかさを感じるのはわたしだけではあるまい。
 とぎれのない上品で知的な文体は全編アフォリズムにあふれていて、どこからでも引用可能なほど、深い人間洞察に満ちている。
 作家とともにゆったりとした思考の時間を分かち合いたいなら、この小説はお奨め。ぜひ熱い珈琲を飲みながらどうぞ。クレープも添えて。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本監獄の誕生 監視と処罰

2003/03/21 17:16

今や古典となった「権力の歴史書」

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、残虐で華々しい処刑風景から始まる。
 1757年、パリの広場で衆人環視のもとに処刑された男の断末魔の描写は、読者の目をそむけさせると同時に釘付けにもする。

 「(処刑人は)灼熱したやっとこで、まず(受刑者の)右脚の脹らはぎを、ついで腿を、右腕の上膊の二箇所を、つぎに胸をはさんだ……やっとこのこの懲らしめが終わると、……釜からひしゃくで煮えたぎるどろどろの駅をすくって、それぞれの傷口にたっぷり注いだ。こんどは、細綱でもって、繋駕用の綱を馬と、つぎに、繋駕した馬を腿と脚と腕に沿って四肢と、それぞれ結びつけた。……それぞれの馬は受刑者の四肢のそれぞれをまっすぐに全力をあげて曳いた」

 これ以上は恐ろしくて引用できない。知の考古学者フーコーは豊富な資料に基づき、こうした残虐な身体刑の実態を描写していく。
 これは猟奇書ではない。フーコーが描こうとしたのは、処罰の歴史であり、人々が権力を内面していく近代史なのだ。
 
 長い長い本にもかかわらず、豊富なエピソードで読者を飽きさせず、身体刑から拘禁刑への変遷を近代ヨーロッパ(主要にフランス)を舞台に書きつづった本書によって、わたしたちは、近代的主体は権力の支配に拝跪することによって確立された事を知る。自ら権力に服従する身体を形成することによって近代的個人は形成されたことをまざまざと見せつけられ、支配の網の目の巧緻さを思い知らされた。

 フーコーによれば、中世ヨーロッパでの身体刑の残虐さは、かえって観衆に同情心をあおり、処刑者や権力者への憎しみを生む結果すら招来したという。やがて国家は、身体刑よりも拘禁を、処罰よりも訓育をめざす。それは近代産業社会の要請でもあった。過酷な処罰よりも強固な監視・管理体制によって、支配されることを人々に内面化させたのである。権力は強圧的に禁止・抑圧することから、より狡知に人々を従順な子羊へと飼い慣らすことに戦略を変えたのだ。

 その象徴としてフーコーが大きく取り上げたのが、一望監視施設(パノプティコン)である。ベンサムが考案したこのパノプティコンが、拘禁者に対して、規律を内面化する従順な身体を育てたとフーコーは言う。さらに、その監獄的規律・訓練は、産業社会の要請によって、学校・工場・病院・軍隊でも同じように貫かれている。

 従来の権力論とは大きく異なり、支配する者とされる者との単純な二元論ではない権力論がここには描かれている。フーコーによれば、権力とは所有されるものではなく、行使されるものだ。

 発表当時の1975年には新しい権力論として絶賛された本書も、今や古典とさえいえる。だが、その深い洞察はいつ読んでも新鮮味を失っていない。

 ただ一つの不満は、文字の小ささ。1977年の初版以来、版組が変わっていないため、今時の本としては珍しく文字が小さく読みづらい。新潮社さん、なんとかしてほしい! これからも読み継がれるに違いない名著なのだから。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本奇跡を起こした村のはなし

2005/08/12 11:35

成功譚は読んでいて痛快。あなたば必ず黒川村に行きたくなる

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 過疎に悩むどこの村落にとっても夢のような奇跡を起こし、村づくりに成功した新潟県黒川村の半世紀の歴史。
 2度の大水害、毎年の雪害に苦しめられた寒村がどのようにして村営畜産場や村営ホテルを4軒も持つ村へと発展したのか。どのようにして農業と観光で「立国」していったのか、ルポライター吉岡忍は村長を始めとした村の人々へ丹念にインタビューしていく。
 かつて農閑期には出稼ぎで男がいなくなった黒川村は、今では誰も出稼ぎに出たりしない。村営ビール園や村営畜産団地、村営ホテル、村営そば屋、村営スキー場、それらで働く村職員たちが大勢いるからだ。
 なにもかも村営でやってしまった「社会主義村」のリーダーは31歳で村長になって以来48年間この村をひっぱり続けた伊藤孝二郎。人跡未踏の荒野を沃野へと切り開く進取の気性に富んだバイタリティあふれる伊藤は、長生きして永遠に黒川村のリーダーであり続けると思われていたが、2003年癌に倒れ、今は銅像となって村営ホテルの前に立っている。
 村長になるやただちに若者たちに村営住宅を与え、集団農場を経営させた伊藤はまるで社会主義者ではないか(伊藤は左翼嫌いだが)。そのカリスマ的な存在感が他を圧倒したのは、単なる意気込みのせいだけではない。徹底的に情報を集め、政府の助成金・補助金をあらゆる方途で引っ張り出し、コネは大事にし、調査研究を怠らず、若者は次々に海外へ研修に送り出すという、大胆にして緻密な計画立案実行能力があったゆえんだ。
 黒川村の物語は成功譚だが、疑問もいつくか残る。山を削ってスキー場を作ったり次々と開発の手を休めることなく進めていったのは環境破壊につながるのではないのか? 植樹祭などは、天皇制に反対する人たちからいつも批判されているが、今生えている樹を伐採して土地を切り拓き道路を作りさんざん自然を破壊しておいて、そこに天皇が植樹するというまったくナンセンスな行事だ。
 じっさい、ダム建設計画には県内のNGOから批判が出たということが本書にも少し触れてある。だが、本書のトーンは全体として伊藤村政がバラ色だったように読みとれるのだ。一方でその紙背には、常に新規事業を開拓し続けてきた伊藤村政の自転車操業のような危なっかしさが隠されている。
 伊藤村長は「高度経済成長」という魔物を相手に村を疲弊から救うべく戦ってきたというけれど、実際にはその高度経済成長に助けられた面もずいぶんある。一村社会主義はまわりを帝国主義陣営に取り囲まれ孤軍奮闘したが同時に高度経済成長というもののおかげで黒川村は観光客を呼び込み繁栄したのだから。
一代目はしゃにむに努力して苦労する。その成果があがればそれでよし。問題は2代目3代目だ。伊藤村長亡き後、黒川村はどうなるのだろう。
あと、本書にはまったく書かれていないが、この村役場には労働組合はないのだろうか。ここの職員たちはみな異様によく働く。あきらかに労働基準法違反だ。いくら仕事が楽しいからといっても、これではちょっと問題があるのではなかろうか。伊藤村長以下、粉骨砕身して努力している姿には頭が下がるが、それを真似できない人だっているだろうに、と思ってしまう。
 この本を読むと猛然と黒川村(あ、もう市町村合併で胎内市になってしまった)に行きたくなる。いつかきっと行こう。と思う。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本死霊 1

2003/06/24 11:07

まずは講談社の蛮勇に拍手。この出版不況の世の中に、よりによって埴谷雄高なんて。『死霊』なんて。あまりのめりこんで読まないように。「わからんなぁ」とぼやきながら読むぐらいでちょうどいいです

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 おそらく今の若い読者はこのような小説を読んだことはないだろう。とても「物語」が語られているとは言い難く、リアリティなどどこにもないような観念的で非日常的な「日常会話」が繰り返される作品である。人間存在の根源を求め、生きる意味と死ぬ意味を堂々巡りのように追い求めつづける4人の男達。
 このあまりにも沈鬱で苦しい小説を自分に引きつけすぎると、生きていられなくなる。この小説を読んで自殺した若者が何人もいたというのもわかる。
 
 後半へいくほど舞台設定が荒唐無稽になり、現実からの遊離が甚だしくなるのも、本作が50年もかかって書き続けられてきたからだろう。第3巻の終わりのほうになると、同語が反復されて文体がねちこくなり、老人特有のしつこさが鼻についてくる。50年間の執筆期間には波があり、著者の油が乗っていると思われるのは第2巻だ。小説としてはこの第2巻が数少ない盛り上がりの一つを見せる。圧巻はなんと言ってもスパイ私刑場面。凄惨であると同時に息をのむ美しさでもある。

 悩める知識人埴谷雄高にとって女は絶対的な他者であったのか、この小説の主人公三輪与志(よし)の若き婚約者津田安寿子の一途な想いがまったく与志に届かないように思えるのは、著者の孤絶した魂の反映だろうか。孤独の淵にたたずむ三輪与志、そして彼を理解しようと絶望的な努力を払う津田安寿子、この恋人たちの間に漂う緊迫した切なさは、物語の中でも精彩を放っている。孤高の人を一途に愛しながら決して近づくことができないもどかしさを安寿子自身が絶望ととらえず静かに受け入れているかのような態度には、健気さといじらしさを感じる。

 第3巻では原罪論が展開される。イエス・キリストをも原罪を背負った人間として批判するくだりは、興味深かった。それは、人間は生まれる前にすでに何億もの兄弟殺しを行っているという話だ。何億個もの精子の中からたった一つが生き残り、卵子と合体する。残りの精子はすべて死に絶えるのだ。つまり、人は誕生の時点ですでに何億もの兄弟の死を見ている。さらには、この世にうまれてからは数限りない動植物を殺してそれを食している。人間は他者の死なくしては生きていけない存在なのだ。埴谷は繰り返しこのことを述べている。
 そんなことはわかりきっていることなのに、夥しい死の上に成り立つおのれの存在に思い至れば、なおのこと、その犠牲に応える生を生きねばならないという結論に達するのではないか。では、『死霊』を読んで死に向かう若者たちに向かって、埴谷は「死ぬな」というメッセージを発しているのではないのか? そして、他者を殺さねば生きていけない人間について、埴谷のメッセージのいわんとすることの深奥はまだ不明だ。この小説は政治的であると同時に高度に観念的で、結論らしきものは見えない。

 埴谷雄高の文体は美しい。今の若い作家には書けそうもない文体だ。全体に西洋的な香りが色濃く漂う風景描写はヨーロッパ映画を彷彿させる。とりわけ霧の描写は美しく幽玄で、映画「ユリシーズの瞳」を思い出した。戦争と革命の世紀を生きた陰鬱な体験が霧の中で深い悲しみと癒せぬ絶望を刻印する、「ユリシーズの瞳」の深い霧の場面を想起させる。

 正直いって、長さの割には読むところが少ない小説だ。だが、途中でやめられない魅力がある。そして、看過できない警句を随所に含むものだから、やはり偉大な作品と呼ぶべきなのだろう。
 最後まで読んでも埴谷がいうところの「虚体」だの「虚在」だのはさっぱり理解できなかったけどね(^_^;)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

日頃から文章を書くときに心がけていることを再確認させてもらいました

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、複数の大学でメディア・リテラシー教育に取り組む著者の実践を踏まえて、主にマスコミ業界を目指す学生など若者向けに書かれたルポルタージュ指南書だ。大学でのメディア教育への怒りを契機として書かれたというだけあって、大学教育の現状への痛烈な批判が痛快であり、全編通して筆者のユーモアのセンスが窺える、大変おもしろい読み物ともなっている。

 第1講から4講は技の章(調査篇)。
 よく書けることの条件は、よく調べること。よく調べるにはどうするのか。まず書籍、次にインターネットを使うというのが最も賢明なやり方だという。この部分、とりわけ昨今の出版事情や図書館情報、図書検索の方法などは知っていることばかりなので(わたしは図書館司書)、「なんだかつまらないなぁ」と読み飛ばしていたのだが、ネット情報の真贋の見分け方についての項、著者がパロディ・サイトに騙された例が書いてある40頁あたりから俄然おもしろくなった。

 インターネット情報に騙されないためにはどうしたらいいか、また、自分のHPを検索エンジンに拾ってもらって上位に表示させるにはどうするのか、といったWeb使用上の注意や指摘がかなり役に立つのだ。ルポを書くときに必須の取材についても、取材対象者とどのようにアポを取るのかチャート図つきで解説してあり、たいそう親切だ。

 第5講以降の「術」の章(執筆篇)になるといよいよおもしろさに拍車がかかる。さまざまな文章読本からエッセンスを取り出して著者が比較解説をつけ、さらに独自の文章論を展開している。例としてあげてある文章の一つ一つがおもしろ可笑しく興味深く、武田さんの解説も軽妙洒脱で、貪るように読んでしまった。
 このあたりは、ふだんわたし自身がものを書くときに意識的無意識的に気をつけていることとかなり重なる部分があり(気をつけていても駄文を書いてしまうのが悲しい)、読みやすい文章とはどういうものか、名文とはどういうものをいうのか、文章の目的によってどのように文体を変えるべきか、といったくだりでは手短かで的を射た著者の指導ぶりに感服した。

 ここで特に印象に残ったことは二つ。難解な文章を書くことで知られる蓮實重彦はなぜあのように読みにくい文章を書くのか。この問いに対する山形浩生の答を引用しつつ、わざとわかりにくく書くことでしか伝わらないこともあると筆者は言う。「わかりやすさが文章表現における唯一の正義ではない」

 そしてもう一つは、文章を書く上でもっとも大切な、「書き出し」について述べた部分。これも豊富な事例に興味をそそられる。序論なしでいきなり本論が始まる本の書き出しの例として毛沢東の『実践論』を挙げて感想を書いている下記のくだりでは、声を出して笑ってしまった。

「潔いまでの単刀直入だが、筆者などは経済開放政策が浸透する前の中国民航のステュワーデスが、なんの愛想もなく客に菓子類を投げて寄越していたのを思い出してしまう」

 そして最後の「芸」の章(映像篇)では、かなり教えられることが多かった。オウム信者を追ったドキュメント「A」「A2」で知られる森達也監督の「1999年のよだかの星」を題材にした授業での学生たちの反応を描いて、著者はこのように結論づける。

「ドキュメンタリーとはただ映像を撮影することではなく、カメラを挟んで人間と人間が関係を築いてゆく作業にほからならない」(191頁)

 さらに、文字に比べて映像は「真実」を映していると錯覚されがちだが、「真実」などいかようにも作られるという警告を発することも忘れない。

 本書は、単なる「調べ物と書き物」の指南書ではなく、マスコミに流れる情報の真偽を見抜き、情報を通じて社会に接する際の忘れてはならない態度について考えさせる示唆に富んだ良書だ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

若松孝二「ゆけゆけ二度目の処女」と「理由なき暴行」によって自殺から救われたという繊細で偏執的宮台の面目躍如のラインナップ。巻末に映画タイトル索引がついているのもよい

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書のもととなった雑誌連載のテーマは、社会と世界の違いとその関わりを描くことである。

「<社会>とはコミュニケーション可能なものの全体、<世界>とはあらゆるものの全体だ。古い社会では<社会>と<世界>は重なり、あらゆるものがコミュニケーション可能だとされる。アニミズムやトーテミズムの原初的社会がそれに当たる。」(p354)

 そして現代では、社会と折り合いの悪い人間が増えていて(宮台自身がその一人)、彼らは「世界の調べを聞くこと」によってかろうじて社会のもとにとどまれるのだという。だから、著者にとって優れた映画とは、社会の中で深い絶望を刻印された人々が世界の調べに耳を傾けるようなもの、ということになる。そんな著者が傑作として評価するのが「ユリイカ」や「マブイの旅」、「チョコレート」「六月の蛇」「アカルイミライ」といった作品だ。
 どれもこれも一癖も二癖もある映画だが、いずれも社会からはみ出し、コミュニケーション不全に陥った者達の絶望と希望を描いている点では共通している。

 また、宮台は「表現」(イデオロギー)よりも「表出」(情念)を評価する。

 【「表出」cathexisは、表出主体の catharsis(感情浄化)を引き起こしたかどうかで、成功したかどうかが判断される。他方、「表現」は、受け手が存在して、受け手が理解したかどうか、理解によって動機づけられたかどうかで、成功したかどうかが判断される。】(31p)

 だから彼は、「表現」としてはあまりにも稚拙であるにもかかわらず「表出」を描くことに成功した「クジラ島の少女」というニュージーランド映画を、「今日あり得ない神話的な構成に感動させられる」と絶賛する。 
 
 映画批評を超えて社会システム論や政治問題への言及が飛び交う本書はまた、宮台真司という個性が自己主張する場でもある。露悪的とまでいえる自己言及には腰の引ける読者もいそうだ。さらに、「この映画の解釈はそうではない」と他の映画評を言下に否定する独断的物言いも反発を買うかもしれない。わたしは本書を読みながら違和感を抱きつつも、結局最後は著者の個性に引き込まれていった。

 本書の大きな魅力は、目から鱗が落ちる納得批評がいくつもあったことだ。例えば、「マイノリティ・リポート」はなかなかよくできた娯楽作だったのだが、舞台が近未来にもかかわらず作品のテイストがどこか古臭さを感じさせた。それに結論がいかにもスピルバーグ的な甘さと妥協に満ちているのが不満だったが、それが何に起因するのか、作品全体の骨格のどこが問題なのか、わたしには言語化できなかった。
 それを、宮台は「「未来社会のシステム>>主体」(システムが人間に優越する)の恐怖を描くと見えて、「主体>>システム」が不釣り合いに強調される。…「疎外論」時代の映画の意味論と、「物象化論」時代のそれとの違いに対する無知」だと一言で言い当てた。

 もう一つ、「マトリックス リローデッド」を使ってネオコンの解説をするあたりもなかなかわかりやすくてよい。この映画の解説じたいはわたしも感じていたことと同じ内容だったので特に教えられることはなかったが、同じことを言うにしても著者の論は整理されていて概念化と抽象化の度合いが高いため、やはり読者を惹きつける。

 宮台真司にせよ斎藤環『フレーム憑き』にせよ、とどのつまりは映画にリアリティを求めているという点では一致しており、リアリティのある映画こそが素晴らしいと評価する。それは「リアリズムに徹した本物らしい映画」という意味ではなく、どんなに荒唐無稽な物語でも、その中に「確かに世界はそうなっている」という感覚が満ちている、という意味だ。
 それはおそらく同時代のわたしたちの多くが映画に求めるものと一致するだろう。だから、今日もわたしは彼らが薦める映画をせっせとチェックするのに余念がない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ナショナリズム論の名著50

2003/04/16 15:14

この厚さでこの値段はお買い得。厚さを見てめげてはいけない。必携書です。

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 各地で民族紛争が起きたり、アメリカ軍がアフガンやイラクまで出かけて爆弾を落とすような世の中、いったい、他国や他民族の命を平気で奪うような心性はどこから生まれるのだろうか? 戦争の原因はナショナリズムにあるのか?

 ナショナリズムは古くて新しい「謎」だ。「国家」がいつからあるのかは定かでないが、国家についての議論は実はせいぜいこの100年ほどの間に行われているに過ぎない。ナショナリズムについて、その言説の歴史を学ぶなら、この一冊でじゅうぶんだろう。

 とりあげられているのは、名著50冊だけではない。各論ごとに豊富な参考文献が挙げられているので、本書に掲載された本をすべて読破しようとすれば、一生かかるかもしれない。
 もちろん、素人はそんなことをする必要はない。名著50冊だけでも全部読むのは時間的に困難だ。なら、精髄だけいただこうという向きは、この本をとにかく片っ端から読む。最初から順に読まなくてもいいけど、とにかく全部読む。すると、随分いろんなことが見えてくる。50冊の解説を書いた著者たちが、本書になみなみならぬ力を入れていることがわかるだろう。単なる図書紹介を超えて、論説と批判に踏み込んでいる。

 事典がわりに座右において、いつでも手にとって少しずつ読むというのもいい。いたく興味をひかれた本は、実際に原典を手にとって読んでみたくなる。これは、本の泉へ読者をいざなう、格好の水先案内書だ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

舞台劇を見るようにおもしろい学術一般書

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 昭和初期の東京帝国大学経済学部の粛学事件を題材に、大学の崩壊と教員の堕落を描いた群像劇。
 過去の歴史を読みながら、現在進行形の大学改革論議を見るような錯覚にとらわれる。著者の時代感覚の確かさが、大過去・中過去・現在と、時間軸を超えて「大学という病」を見事に照射している。

 東大経済学部教員たちの派閥争いに、軍部・民間右翼の思惑が絡んだ一大紛擾劇は、当時の傍観者には帝大の先生たちのスキャンダルとしておもしろおかしく見え、大学の現状を憂える人々からは顰蹙を買い、後世の私たちには、現在とあまりにも変りばえのしない研究者たちのお寒い姿に、冷笑を誘う。

 本書には、大正から昭和初期にかけての東大での講義、学問のあり方、教員達の資質、といったものが精密な筆致で描き出されている。それらは驚くほど現在の姿に似通っている。大学は十年一日のごとくに変化のない世界だったのかと、驚くと同時にあきれ果てもする。10年間同じ講義ノートを使い続ける教員、論文を助手に書かせて平気な顔の教員、外国の文献を翻訳するだけで学問した気になっている教員、などなど。

ここに登場する主要な教授連は、河合栄治郎(自由主義派)、土方成美(反マルクス主義派)、大内兵衛(マルクス主義派)の3派。各派の門下生達を巻き込んで、結局最後は派閥争いをした教授達は大学を追われてしまう。

 前半の主要登場人物の一人、大森義太郎(1898-1840)が最も魅力的な人物の一人として描かれている。マルクス経済学者であった大森は、「赤化教員」として28年に東大を追われるが、当時台頭しつつあった「講壇ジャーナリスト」としてその毒舌を遺憾なく発揮し、健筆を振って経済的にも潤った生活を送ることができた。このあたり、著者は知的文化を「学界」と「ジャーナリズム」の二つに類別し、歴史的には、大正時代がその二つの世界の分化と相互浸透が同時に起こった時期だと分析する。
ちなみに、ここに引用された大森の毒舌も本書を読む楽しみの一つだ。

 そしてもう一人、魅力ある登場人物として描かれている河合栄治郎(1891-1944)、彼は非常に教育熱心な学者であり、自宅を学生達に開放してサロンとして提供した。そこには東京女子大の学生達も集まり、事実上女子禁制だった東大での学問の香りを、わずかなりとも彼女たちは嗅ぐことができた。河合は、丸暗記の学問のあり方を厳しく批判し、常に学生達に自分の頭で考えることを求める教員であったという。

 しかし、大森・河合ともに、学究の道半ばで失意のうちに世を去る。そして、大森を、後には河合らを追放した右翼・国家主義者たちが、今度は戦後の民主化の過程で公職を追われる。さらには、68年〜69年の東大闘争の折り、総長であった大河内一男(河合門下生)は、全共闘の学生達から厳しく追及され、総長を辞任した。

 著者は、大学知識人達が遭遇した「受難」に同じ構造を見てとっている。戦前の急進右翼による自由主義者への非難・攻撃も、戦後の全共闘学生による「進歩的知識人」糾弾の論理も、「機能的には等価だった」と述べている。

 「大学問題を考えるケース・ストーリーとして読んで欲しい」という著者の意図は、功を奏している。東大版忠臣蔵ともいわれる昭和の粛学事件は、今を生きる我々も教えられるところ大である。
 本書の巻頭に主要登場人物の写真入りプロフィールが各派閥ごとに表示されているため、たいへんわかりやすい。本書はとにかくわかりやすさと読みやすさを最大限追求した、「学術一般書」と言えよう。

 大学に何かを期待したい人、絶望している人、どちら様にもご一読をお奨めしたい。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本寝ながら学べる構造主義

2002/12/04 15:38

ほんまに寝たらあかんけど、笑いながらでも読めます

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ほんとうに寝ながら学べるのかどうか試してみたけど、それはさすがに無理なようだ。しかし、充分、通勤電車の中で立ち読みに堪える本だ。

 ここまでコンパクトにまとめてもらえると、すっかりわかった気になるから不思議。「おもしろい!」と思いながらすいすい読んでいくと、知らないうちに読了しているから、かえって要注意。わかった気になって実は何にも頭に残っていなかったりする。

 確かに入門書としての「とっかかり」は与えてくれる。問題はその先。原典にきちんとあたって四苦八苦せねば自分の血となり肉とはならないようだ。

 この本を読んで事足れりとする読者は成長しない。そういうことを言外に滲ませているのではないか、内田樹氏は。だとしたら、おちおち寝てはいられまい。

 初学者には手ごろな本。お奨め。しっかり起きて読もう。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

住宅喪失

2005/04/01 13:53

これからマンションを買おうと思っている人、必読です

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、6年前に著者が書いたルポ『倒壊』の続編である。『倒壊』を先に読んでいればたいへんつながりもよく、わかりやすい。

 『倒壊』では阪神淡路大震災で倒壊したマンションの立て替えやローンをめぐる問題が浮き彫りにされた。震災で家はなくなったのにローンだけが残った。新しく建て直すためには二重の負債を抱えることになる。そして、全半壊の分譲マンションを建て替えるとき、経済弱者や老人世帯は建て替えに反対するが、多数決の論理によってマンションを追い出される事態に追い込まれる。その生々しい実態を描いてから6年、事態はどう推移しただろう。

 6年で国の住宅政策がすっかり変わってしまったと著者は言う。これまでは持ち家政策によって景気を活性化させていたが、いまや買える人はどんどん買ってください、買えない人は賃貸で我慢しなさいという「弱肉強食」政策へと転換していると。
 
 そして本書は、戦後日本の住宅政策が「長期安定雇用」という労働政策の上に成り立ち、家は修理するのではなくそっくり立て替えてしまうという使い捨て思想に基づいていることの問題点を鋭く指摘する。

 今求められているのは、住宅政策の根本的見直しであり、日本の住宅思想の転換だろう。持ち家思想はほんとうに正しいのか? 正しいとしたら、どのような住宅が求められるのだろう? 非正規雇用者に冷たい住宅ローンの現状をどのように変えていくべきか?
 人はなぜ住宅を求めるのか。その根本に立ち戻って考えてみるときが来ている。ことは住宅ローン一つの問題ではなく、わたしたちの生き方すべてに通じるような問題だろう。

 『住宅喪失』の発行と同じくして『倒壊』が文庫化されたので、ぜひ併せてご一読を。
 とりわけこれからマンションを買おうと思っている人にはこの2冊を必読書としてお勧めしたい。30年のローンを払い終わったら手元に残るはずの家が自分のものにならず、マンション建て替えのために老人世帯が追い出されるという悲劇。立て替えの費用負担を負いきれない経済的弱者世帯はけっきょくマンションを追い出されてしまい、しかも民間の賃貸住宅もなかなか入居することができず、そのままホームレスということもありうる。この心胆を寒からしめる実態を知った上でマンション購入を検討されたい。

(『倒壊』にも言及した全文は「吟遊旅人のつれづれ」に掲載)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本バグダッドからのEメール

2004/05/26 10:30

マスコミ報道では決して見えない、バグダッドからの「愛」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 巷にあふれる「イラクもの」の中でも、この本はいっぷう変わっている。表紙が若く美しい女性の笑顔なのだ。彼女の名はソラ。
 本書は、前半が著者朝妻健氏のイラク滞在記、後半が著者とソラとの往復書簡(Eメール)からなるドキュメンタリーだ。

 独身中年で好奇心旺盛、フットワークの軽い朝妻氏は、サダム・フセインからの招待という千載一遇のチャンスにホイホイと乗って遥かイラクへ旅立った。時は2003年2月。この旅は一行30人ほどのイラク訪問団であり、メンバーには元赤軍派議長塩見孝也あり、ストリッパーあり、バース党員ありと、バラエティに富んでいる。

 万が一のときにはサダムの「人間の盾」にされることも承知で出かけた命知らずの人々のイラク滞在記には、実のところそんな緊張感がさして感じられない。
 イラク側の案内人(監視人)がついてまわり、訪問団は旅の第一の公式目的である「イラクへの侵略に反対する青年学生会議」に参加する合間にいろんな場所を観光して回り、また、デモに駆り出されたりする。
 朝妻氏は日本政府の外交政策や戦争には反対だが、サダム・フセインの独裁体制にも批判を持っていて、訪問団一行を出迎えるイラク少年たちの迷彩服姿や、「サダムに我々の血と魂を捧げる!」という人々のシュプレヒコールには嫌悪感を隠さない。
 朝妻氏はいろんな場所で気さくに人々に声をかけ(とりわけ美しい女性には必ず)、自由時間には市場を回り、カメラを下げてバグダッドを見て歩く。著者の生来の明るく物怖じしない性格や、クールな批判眼といったものがよく窺える紀行文だ。

 そして、訪問団の通訳としてバグダッド滞在中の著者たちを世話したのが24歳の美しいソラだった。著者はたちまちソラに恋をする。

 本書の前半、戦火が迫りつつあるバグダッド紀行文は、戦争前の緊張感よりも、異文化世界の不思議大発見旅行のおもしろさが濃い。だが一転して後半は、米英軍のイラク攻撃が始まり、著者はバグダッドのソラの身を案じて何度もメールを送り、ソラとタケシの国境を超える「愛と緊迫の往復書簡」へと様相を変える。

 平和な日本と、戦火のバグダッド。ソラが生きているのかどうかは、メールが届くことによってなんとか確認できる。
 手に汗握ってソラの無事を祈りつつも、ソラが書いてよこすサダム・フセインへの熱烈な愛や支持といったものを読むと、著者朝妻氏だけではなく、多くの日本の読者も彼我の決定的な断層を感じてしまうだろう。わたしは著者と同じように、ソラが語る独裁者サダムへの「愛」には強い違和感と落胆を抱いてしまうのだ。

 これが、マスコミ報道には載らない、バグダッドの真実のひとつだ。アメリカ軍や日本の自衛隊が歓迎されているのかどうか。今も続くイラク人の抵抗運動は何を示すのか。誰に正義があるのか、誰にも決めることはできないだろう。わたしはイラクの自由と秩序の回復はイラク人に任せるべきだと思いつつ、その「イラク人の総意」はいったいどこにあるのか、と深い疑問を抱かざるをえない。
 戦争は多面的な位相をもち、考えなくてはならない要因はたくさんある。現地の混乱も米軍の虐待もイラク人の報復も自衛隊の活躍も戦争を生む世界システムも。

 さまざまな言説が飛び交う中で、イラク女性からの生々しい訴えは、マスコミ報道からは与えられない強い感情をわたしに投げかける。結局のところ、異文化や異なる価値観の深い溝に架橋するものは「愛」だというありきたりの感慨。
 戦争がなければソラとタケシは出会うことがなかった。出会ってしまった今、ソラ一人を救うためだけにでも戦争状態が終わってほしいと思う。
 
 戦争に反対するということは、国家の論理を云々することを超えて、一人の人間との血の通うつながりを大切にすることを、「今ここにいる」彼女を救うことを意味するのだ。このことを強く思う。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

わたし、書きあぐねています

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は実作者が教える小説の書き方という売り込みの本なのだが、なるほど大変参考になる実践的示唆に富んでいる。なによりまず、「テクニックで書くな」ということ。さらに一歩進んで、テクニックを使わずに書けという指示は大変興味深い。

 確かに、技術で小説は書けない。文章テクニックを教えるような小手先の技は、小説を書く以前の問題だ。本当に書きあぐねている人々はテクニックで躓いているわけではないだろう。というのも、出版社主催の新人賞受賞作を読んでいると、文章テクニックは驚くほど高いことに気づくからだ。文体だけで最後まで読ませてしまうような作品もある。だが、それだけのことだ。作文技術は学校で習えばよろしい。この本はそれ以上のことを、まさに原稿用紙に向かってさあ今から書くぞという意気込みだけ空回りしてうんうん唸っているような人に向けて書かれている。
 その示唆・指示は具体的だ。例えば、小説以外のことを考えよ。例えば、自己実現や自己救済のための小説を書くな。例えば、哲学書を読め。例えば、テーマを予め措定するな、風景を書き込め、ネガティブな人間を書くな、ストーリーに頼るな、云々。

 また、本書を読み進めるうちに、小説の書き方を知るという当初の目的を超えて、この本が文芸評論としても読めることに気づく。古今東西の様々な小説を引き合いに出してその解説を開陳してあるくだりは、既読の小説について新たな読みを提示してくれたし、未読の作品については大いに興味をそそられる、優れた読書指南書となっている。

 さらに、保坂自身の作品がどういう意図で書かれたのか、その執筆過程もよくわかり、楽屋裏を覗いたような楽しさがある。わたしは本書を読んだ後、初めて保坂の小説『カンバセイション・ピース』を読み、それから本書を再読してみた。なるほど、わかりやすい。これは両書、セットで読むのがベストとみた。

 本書の中でもっとも大きなヒントになったのは、「風景を書く」その書き込みの細かさについて触れた部分と、パソコンではなく手書き原稿で書けという指摘だ。パソコンで書く場合も、手書きのような試行錯誤のあとを残す書き方をすればいいのかもしれない。風景が大切だと長々と書いている割には、保坂の『カンバセイション・ピース』の風景描写はおもしろくない。その原因は、例えば樹木の固有名を連発したところにある。樹木の名前を知らない読者にはさっぱりイメージが湧かないのだ。やはり風景描写は難しい。風景描写なら埴谷雄高ですな。

 ところでこれを読んで小説が書ける気になったかというと、それがどうも心許ない。やっぱり書けないものは書けない。どうやら、小説に求めているものが保坂とわたしでは異なるようだ。などと思って『カンバセイション・ピース』を読むと、今度は書けるような気になる。
「これやったら、わたしにでも書けるやんか」と一転、楽観的な気分になった。でもきっと、誰にでも書けそうと思わせておいてやっぱり書けないっていうのが小説なんだろうな。読み手を不安にさせたり安心させたりやっぱり落胆させたり、けっこう罪な本ではある。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

71 件中 1 件~ 15 件を表示