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レビューアーランキング
先月(2017年8月)

ジュークさんのレビュー一覧

投稿者:ジューク

4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本夜回り先生

2004/11/02 22:21

もう一人の生徒

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本を手にとるひとの多くは、現代社会の若者の姿を憂い、教育のあり方を嘆き、あるいは我が子の“心の闇”を疑う「大人」の読者であると思う。
それがドラッグでも、リストカットでも、自殺でも、暴走族でも、なんでもいい。
そんな夜の街に生きる若者を忌み嫌い、恐れ、無視する「一般の」の大人の読者であると思う。
(私自身もまだ学生であるが、そんな「大人」の一人になろうとしている)
この本は、著者・水谷氏が「夜回り」で語りかける若者たちではなく、そうした「普通の」大人へと向けて書かれた本である。

水谷氏は、どんな狂気に染まった若者であろうと、彼らを無前提に受け入れる。
25年余の教員生活を通じて、一度も生徒を怒ったことがない。
どんなに自分の生徒が薬物をやめたと宣言したその翌日にまたシンナーを吸って、泣きついてきても、「いいんだよ」と抱きとめる。
それはまさしく「無償の愛」であり、母性的でありつつも、また少年少女たちの「更正」を手助けする父性の威厳も兼ね備えている。
だが一方で、彼らを食い物にしようとする大人は、たとえそれが肉親であろうと、「許すことはできない」と容赦なく断罪する。
子どもたちが非行に走る、あるいは走らざるをえないのは、彼ら自身に原因などなく、必ず周囲の大人がそうさせることを水谷氏は知っているからだ。
だから、彼は「元凶」である大人たちに言い訳を許さない。

この毅然とした態度がまた、読者である私たちへの「救い」となる。
まったく逆説的なことに、責められているのは当の「大人」である私たち自身なのに。

私自身、読んでいて、なぜか不思議だけれども、「救われた」気持ちになった。
水谷氏に自分の両親の代償を求めたのだろうか、本の中に出てくる少年少女たちに比べれば、はるかに裕福で幸福な家庭に育ったのに。
それはわからない。
けれども、読む者はみな水谷氏の聖人のような姿に心うたれ、涙するのである。
これは否定できない事実であるように思われる。
誰だって、彼ら若者ほどではないかもしれないけれど、傷つき、愛に飢えているからである。
そう、「大人」だって、昔は「若者」だったのだ。

こうしてみて、私はなぜ、多くの大人が水谷氏の姿に心を打たれ、涙するか、理由がわかった気がした。
本著の自伝的部分をみても分かるとおり、水谷氏自身がもっとも傷つき、もっとも愛に飢えた若者の一人であった。
しかし、水谷氏はその不幸に飲み込まれることなく、良き先生との出会いもあり、自分の力ではいあがって、いまは周囲に「愛」を配れるようになった。
一番傷ついたからこそ、一番他人の傷がわかるのかもしれない。
だとしたら、私たちが流す涙は、おそらく中途半端にしか傷つけなく、また中途半端にしか水谷氏の生き様を模倣できない私たち自身の「罪深さ」を嘆くものである。

この罪深さの業は、相当深い。
私たちは、水谷氏の「声」が届いたからこそ、涙を流すのか、
あるいは、届かない“からこそ”、涙を流すのか、その区別がつかないからである。
だからこそ読み終わって、水谷氏の「本当の」生徒になりたい、と切に願わずにいられない。
しかし、水谷氏にしてみれば、そんなのチッポケな悩みだ。
彼の声を聞いたときから、私たちは「若者」とは別の、もう一人の生徒なのだから。

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デリダへの郵便的応答

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本著は著者のデリダへの「郵便的」応答である。

著者が対象とするデリダ中期のテクストは難解と奇天烈をもって知られ、この哲学者の毀誉褒貶に大きく貢献していた。デリダ支持/不支持の者を問わず、他テクストとの「論理的」非一貫性ゆえになおざりにされがちなこれらテクスト群を、著者はデリダ自身が避けては通れなかった「必然」、あえて言えば「論理的」要請として捉えなおす。いわく「なぜあのような奇妙なテクストはデリダによって書かれなければならなかったのか?」

デリダによる中期テクストは、自身が前期テクストで確立した形式的脱構築への「抵抗」であると著者は言う。本著の理論的要諦はまさにそれに尽きる。デリダは二つの脱構築——ゲーデル的形式的脱構築とデリダ的郵便的脱構築——を提出している。前者の脱構築は、テクストの読みをコンスタティブ/パフォーマティブの形式的決定不可能性の中に宙吊りさせ、衝突させる戦略(「代補の論理」)であり、結論的に言って後者の脱構築可能性によって支えられている。なぜならば、「固有名」に端的に宿る非−世界的な「余剰」(単独性)は、前者の脱構築をもっては、つねに否定神学的にその指示形式(シニフィアン)“のみ”が超越論化されてしまうのに対し、後者の脱構築をもっては、その指示形式=論理形式であるエクリチュールは個々の単独性を亡霊的に「配達」するだけであり、「超越論性そのもの」は行き先も送り主もわからないデットストック空間に宙吊りにされるからである。この意味で超越論性は「散種」という限りでつねに多義的であり、シニフィアンとエクリチュールの差異化の運動(「リズム」)の中で、テクストからテクストへ「転移」し、読み手へ「配達」あるいは「誤配」される。

だが問題なのは、東のデリダへの応答(本著)自体が彼自身の欲望と関心によって支えられ、デリダとデリダの言葉を固有化する営みであるということだ。いわば、東は形式的脱構築をデリダに施したが、同時に自らを郵便的脱構築の可能性に晒すことになったのである。これは本人も自覚している通り非常に逆説的であった。本著は著者の処女作であり、自身の極めて強い実存的動機とによって書かれた。が、対照的に本著はあくまでデリダ(の非論理的なテクスト)の「論理的」理解を目指し、スタイル自体もきわめて理論的=形式的である。この動機と方法論の決定的差異こそが、著者の生み出した「郵便」概念のベースにあるのは明白だが、同時にそれが本人に自覚されることによって差異が解消される(本書が閉じられる)のは非常に示唆的であり、まったく新しい意味での大文字の「哲学」の可能性を差し出しているとも言える。

東は、自らのテクストを、自らとりだした概念である「郵便空間」へと再び送り出すことによって、本著を閉じている。いや、ひょっとしたら、それを送り出したのは“東浩紀ではなかった”のかもしれない。だとしたら、それはいったい誰なのか? 私たちは本著の最後に、デリダが語る「幽霊」が、東の語る「郵便空間」より東自身へと到るのを見るのである。デリダに言わせれば「哲学者とは、ちょっとは大きな郵便局なのだ」(本著引用より)から。

東のテクストは、この種の専門書にありがちな(まるで本著の対象となったデリダ中期のテクストを踏襲したかのような)難解句と隠喩を排した平明な文体による「理論的」構成を趣としており、読みやすい。後半部はデリダの「二人の父」であるハイデガー存在論とフロイト精神分析の専門用語が多々参照され、不慣れゆえに時に困惑するが、哲学の基礎教養があるのならば重箱の隅をつつかずとも読了できる。また前半部は現代思想の入門書としても読め、「お得」である。2000円は安いだろう。

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紙の本私・今・そして神 開闢の哲学

2004/11/12 15:57

日本語で哲学するということ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

永井均はおそらく、現代において「日本語」で哲学を行なっている数少ない哲学者の一人である。
たとえば、フッサールにとってドイツ語が、ハイデガーにとってギリシャ語が自身の哲学にとって決定的だったように、永井にとっては「日本語」こそ本当の意味で「哲学」するのに決定的であるのだと思う。

本著における文体がそれを示す。
一見して、抽象度の高い学術用語が極めて少ない。
しかし、書かれている内容は一読して理解できる類の生易しさではない。
極めて平易な文章に詰め込まれた、極めて難解な内容。
加えて、この「難解さ」は、技術的な意味での難解さとは本質を異にした、むしろ言語による理解自体を拒むような性質の事態に言及する試みの「不可能さ」を体現している。

永井がこのような文体上の手法を用いだしたのは、90年代後半になってからのことだ。
それ以前は『<私>の存在の比類なさ』など一連の三部作に代表されるように、筆者もまた従来の学術的伝統にならってテクニカルタームの習慣的使用につとめていたし、それは自分の哲学を理論的に提出する目的にそうものであった。
だが、筆者が自身の問題設定により鋭敏になるにつれ、そのような問題構成自体を永井は放棄する。
この哲学者のかねての主題である「独在性」概念は、概念が概念として成立する以前のある起源的な事態に対する、暫定的な呼び名でしかないからである。
独在性は語られた時点でその意味内容を失うし、そして、このような否定的な表記すら独在性が真に語りうることを根本的に言い漏らさずにいられない。

本著で新たに提示された「開闢」の概念は、このような独在性に“固有”の性質、しかし同時に言語に“本質的な”性質を取り出すための創作概念である。
「そんなものはどこにも存在しないとは同時に、それがすべての始まりである」(p.223)ような「開闢」。
「私」の独在性の可能性の条件であり、“いま”“ここ”“ほんとう”の可能性の条件であり、言語の条件であるような「開闢」。
だからこそ、この演繹的概念は、人称を拒否し、固有性や同一性を拒否し、言語を拒否する。
そして、拒否した時点でとりだされるべき概念の内容一切はもはや全て過ぎ去ってしまっている。

こうしてみると永井の哲学は、当初の厳密で伝統的な学術性から、より自由で創造的なある種の「対話」へと転回を見せた段階から、さらに本著においてある到達点に達したのではないだろうか。
それを「独在性から開闢へ」と図式的にとらえるのは簡単だ。
だが、哲学をする上で必然的に語られなければならない「開闢」について語るとき、どうしても日本語でなされなければならない理由がようやく初めて明らかになった気がする。
日本語で暮らし、日本語で思考する筆者や私たちにとっては、開闢が“生”に生起し、“生”に立ち会えるのは、「日本語」という場しかありえないからだ。

開闢の哲学はまだ端緒についたばかりだ。
この哲学者にとってほんとうの意味での哲学は「まだ始まっていない」のである。


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紙の本ナショナリズムとジェンダー

2003/04/24 10:22

空虚な「近代」批判と現在主義の陥弊

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書の英題は「Engendering Nationalism」である。著者は戦中より現在にいたるまで一貫してナショナリズムによって特徴づけられ、限界づけられてきたフェミニズム言説の系譜学的分析を通して、最終的に「ナショナリズムのジェンダー化」を図る。
 まず第一章では、市川房江・平塚らいてうらに代表される戦中のフェミニストが扱われ、いかに彼/女らの試みた「女性の国民化」の言説が近代の体現される場所たる「国民国家」の暴力性へと回収される様を描く。「国家」の脱自然化、そして「女性(性)」の脱自然化を達成することが、国民国家のジェンダー化の過程で必然であることが明かされた後に、著者は「フェミニズムはなぜ国家を超えなければならないのか?」という極めて原理的な問いへと到達する。上野は、フェミニズムが「近代」から産まれ、いかに「近代」に拘束されてきた伝統を持とうとも、「近代=国民国家」の強固な連関に基づく超越的カテゴリーを相対化し、脱構築する「契機」として、そこに賭け金をうずたかく盛るのである。
 つづく第二章、第三章においては、いわゆる「歴史教科書問題」が焦点にあてられ、近代超克のための「カテゴリーの複合化」——国民国家という単一的・超越的なカテゴリーの相対化——の実践が図られることになる。そこで具体的に糾弾されるのは、国家主義による「私たち=市民」の代弁の論理の素朴さと鈍重さ、そして野蛮さである。たとえば元「従軍慰安婦」たちのあげた「声」は、この国民国家によって代弁され、捏造され、隠蔽される「国民」と「国民史」双方へのプロテストとしての、自分自身の身体−歴史の回復、全体性への還帰の「声」であったと言える。国家主義の超克にあたって、「国家」と「市民」は徹頭徹尾、差異化されなければならないのだ。
 このように著者の試みは非常に挑戦的であり、スタイル(文体)は挑発的だ。ただ本著は問題を多々はらんでいると言わざるをえない。一つは、「近代超克」の問題。日本にはいまだかつで「近代」なるものが存在したのか、という根源的な問いがそこではすっぽり抜け落ちてしまっている。二つめは、歴史実証主義批判の問題。著者は史料中心的で証言の価値を貶める歴史実証主義をとことん批判し、自身も素朴な客観的出来事としての歴史的「事実」を措定するような記述を避け、「歴史とは現在における過去の絶えざる再構築である」と再三、繰り返し述べる。これは歴史の現在主義と構築主義を暗示する(ことを意図された)ものであるが、同時に(逆説的に)哲学的な意味での現在主義へと陥ってしまっている。この点で、本著が加藤典洋と高橋哲哉に端を発するいわゆる「歴史主体論争」の最中に出版されたのにもかかわらず、それへの適切な応答(特に後者への)を欠いたのは惜しい。
 しかし、慰安婦たちが一連の訴訟を通して自分たちの歴史を獲り戻したように、私たち(韓国人ふくめ日本人も)も決して国家に代弁されない「市民史」を新たに構築する、いや獲り戻すことで、彼女たちへの倫理的責任を果たすべきだという論理は、従来の歴史論争に慣らされてきた私たちにとって(無論それは従来の「正史」をめぐる場にとってだが)、極めて“みずみずしい”ものだ。一読には値するだろう。

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