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  3. 岑城聡美さんのレビュー一覧

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先月(2017年6月)

岑城聡美さんのレビュー一覧

投稿者:岑城聡美

11 件中 1 件~ 11 件を表示

紙の本春昼・春昼後刻

2002/12/04 20:39

鏡花幻想譚の真骨頂!あの世に連れて行く本を一冊だけ選べるとしたら、迷わず本書!

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

頁を開くとたちまち、春の里の麗らかな光景が、霞のように目前に立ちのぼる…そんな錯覚さえ覚える程、この上なく美しい春の描写から物語は始まる。
物語世界を流れるゆったりとした時間、登場人物達ののどかな会話、目にも鮮やかな色彩美溢れる里の風景…。円熟した鏡花の筆に我知らず乗せられて、春の陽の中を漂うような心持ちで読み進むうち、読者は唐突に、とある怪異譚に引きずり込まれる。ひねもすのたりの情景から怪奇幻想の世界への鮮やかな展開ぶりはまさに鏡花の真骨頂。ある富豪の美しき夫人に寄せる激情から悲劇的な末路を辿る男の顛末を語り終えたところで、「春昼」は一端幕となる。
「春昼後刻」には、件の令夫人が登場。女性美を描けば並ぶ者のない鏡花ではあるが、この女「玉脇みを」の美しさはまた格別であり、かつ、春は切ない、哀しいとうったえる彼女自身の口上も、比類無く美しい。読む者それぞれが思い描きうる最上の美女を当てはめてみずにはおられない、これほどの女性美を描ききった作品にはそうそうお目にかかれないだろう。彼女は前段に登場した男の「ファム・ファタル」であると同時に、読者にとっても、忘れ得ぬ印象を刻む、鏡花十八番の魔性の存在なのである。
難しい、読みづらいなどと敬遠するのはあまりに勿体ない。まずは味わってみればいい。鏡花独特の文体の心地よいリズムに身をゆだねてみればいい。鏡花の描く春の夢物語は、やがて優しく、読む者の目前に錦の絵巻を開いてくれるだろう。
春の日差しの温もりの中に、ほのかに悲哀の灯る、極上の物語である。

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紙の本夜啼きの森

2004/05/31 16:47

滅び行く村に、この世界の縮図がある

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

岡山北部の寒村、「お森様」として恐れられる暗黒の森、濃い血脈の果てに作られた貧しい村落。いかにも岩井志麻子的な要素が贅沢すぎるほどに盛り込まれているこの作品は、期待に違わず、やはり鉛を飲み込んだような重い読後感を抱かせてくれた。

新月、二日月、三日月。巡ってゆく四季もさることながら、この物語においては狂気の象徴とも言える月が章ごとの区切りを形作っている。呪われたような禍々しさを持って描かれる月(それは同じように呪われた森を暗く浮かび上がらせるための巧妙な舞台装置でもあるのだが)の下に棲む村人たちの姿は、まるで章から章へバトンを渡すように、巧みに描写されていく。

例えば「お森様」においては、傍目にさしたる苦労も無いように描かれる分限者の妻モト。彼女は次章の「サネモリ様」においてクローズアップされ、忌まわしい生い立ちと現在の不幸を読者の前に暴かれて、女たる生き物の本性をさらけ出す。同様に「サネモリ様」においては全ての女の羨望の的であるかのように描かれたみち子が、「さむはら様」においてはやはり辛酸をなめ続けてきた半生と、女としての悦びを欲しいままにするかに見えて、実はそこにもやるせない人生からの逃避があったのだという事実を露わになるのだ。著者の容赦ない筆には、半端な同情や哀れみなど消し飛んでしまう迫力がある。まさにこの村において(あるいはこの世界において)苦しみから逃れる場所などないのだと言わんばかりの書き様なのである。

一方で、主人公たる辰男の姿は、直接的に描かれることは少ない。周囲の人間からの村八分の扱い、そして冷ややかな視線を通した客観的な描写が、かえってこの疎ましい存在の不気味さをかき立てる辺り、非常に巧みな描きようである。「堤婆様」「荒神様」において辰男はいよいよ抜き差しならない状態へ追い込まれていくが、ここでも前述のバトンタッチ方式の構成が生きていて、単なる貧乏人として物語のすみに登場するだけだった馬場家の治夫、そして村中から軽蔑の対象となっている虔吉の存在がにわかにクローズアップされてくる。この二人を通して、辰男の狂気、追いつめられた思いが二重写しに描かれるのだが、こうした手法によって辰男の憎悪の念の迫力はいや増し、読者も危うく辰男の狂気に引きずり込まれそうになる。世を拗ね、生きるためのまっとうな努力もしない辰男に感情移入の余地などあるはずもないのに、である。

村中の人々(ことに弱者達)のあらゆる辛酸を描き尽くした後に来るカタルシスは、悲惨と言うよりも、むしろ清々しくさえ感じられる。特に死に至るまでの数日の、ようやく自我の尊厳らしきものに目覚めた虔吉の心理描写は圧巻である。
著者特有の道具立てによる雰囲気作りも十分だが、この作品の真価はむしろラストの惨劇の描写よりも、そこに至るまでの物語の中で、人々の絶望を余すところなく描き出したところにあるのではなかろうか。不謹慎な物言いかもしれないが、この呪われた村とそこに棲む人々は、滅びるべくして滅びたのだと思われてならない。

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紙の本お屋敷拝見

2003/06/12 14:25

「洋館」に潜むロマンを追って

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「洋館」──その華麗な、また重厚な佇まいを思い浮かべる時、何かしら心惹かれるものを感じる人は多いのではないだろうか。
本書においては、明治〜昭和初期にかけて建造された「洋館」の数々が、豊富な図版、そして解りやすい解説文をもって紹介されている。皇族、華族と言った雲上人の豪邸から、当時の知識人達の小造りだが趣味のよい邸宅まで、今も実際に見学することが可能と思われる十六の館が、本の中において「軒を並べて」いるのである。
邸宅の細部の意匠にまで至る図版に見入りながら読み進めていくと、巧みな解説の効果もあってか、次第に、そこに暮らした人々の息づかいがページから浮き上がってくるように思われる。緋色の絨毯を敷き詰めたホールから見上げる階段を、優雅に下りてくる貴婦人の姿。応接間に集う名士達の談笑する声、広いバルコニーに立つ令嬢の姿……。そうした幻影が、あたかも邸内に当時の人々の残像があるように、まざまざと見えてくるのだ。まるで華やかな時代を描いた映画を鑑賞するように、かつての住人達の生活の一場面を、そこに暮らす人々のドラマを想像することは、実に趣深く、楽しい。
現代の我々の住まいは、著者の言葉を借りれば、「単なるねぐら」と化している。しかしここに連なる「洋館」には、単に実用性を追求した昨今の住宅建築とは異なる、ある種のロマンが潜んでいるように思われる。細部にまで意匠を凝らした住まいが持つ、こだわり、あるいは、建造物の魂、とでも言ったもの。そうした見るものを惹き付けて止まない何かが、本書の中にはギュッと詰まっているのだ。
建築に興味のある人は勿論、そうでない人にも、解説が易しいため充分楽しめる。本文中に出てくる専門用語の解りやすい解説も巻末に付記されており、日本の「洋館」の歴史を総括した「洋館誕生事始」のコーナーも、非常に興味深い。しばし日常を忘れて、遠い日の豪奢な生活のロマンに浸るには、最適の一冊である。

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紙の本鎮魂歌

2004/06/30 00:39

聖なる都に巣くう魔物達の饗宴

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

妻の不慮の死、勤務先での不可解な事件…。主人公トムは運命のレールに乗せられたかのように、美しく混沌とした聖都、エルサレムへと向かう。この流れるような、巧みに読者を誘導する冒頭部にまずは魅せられた。エルサレムで出会う、死海文書を隠匿した謎の老人、そして次第に姿を露わにしてくる幻の老婆。随所に散りばめられた謎が、読むものを引きつけて離さない。幻想文学としてはもちろんのこと、エンターテイメントとしても非常に優れた作品だ。

はじめのうち聖都として描かれたエルサレムは、次第に魔都としての様相を露わにしていく。トムの内側に巣くう幻想が、狂気が、まるで体を裏返したようにエルサレムの町に投影され増幅してゆくのだ。その過程を追うことで息詰まるような興奮を味わうことが出来る。しかしそれは、果たしてトムの無二の友人であるシャロンが読み解くように、彼の内なる罪悪感が作り出す幻覚なのか、あるいはエルサレム全体を覆う魔物の仕業なのか、どこまで読み進めても判然としない。この曖昧さがますます読者を本書に釘付けにする。

トムが抱く罪悪感の根元は、キリスト教的倫理観に基づくものである。いわゆる「姦淫の罪」がそれだ。本書の第二の魅力は、男性の性的感覚を見事に描写し、かつ男性から見た女性の性的魅力をも実に的確に捉えている点にある。ここに言う女性の性的魅力は、作中登場するマグダラのマリアに象徴されるだろう。マグダラのマリアは様々な女に変貌する。前述の老婆をはじめ、亡き妻ケイティー、友人シャロン、精神を病んだ女クリスティーナ、そしてトムの堕落のきっかけを作った美しき女生徒ケリー。どの女性の中にも普遍的にマグダラのマリアは存在し、誰もが聖なる娼婦になりうる。そして、著者が描く女達は、いずれも性的にたまらなく魅力的だ。男が欲情したとき、女はその目にどう映るのか。これが実にエロティックに、かつ美しく描写されている点に脱帽した。

さらに、キリスト教の歴史的解釈という点から見ても、この作品は実に興味深い。新約、旧約両聖書に多少の造詣があれば、なおさら本書を楽しんで読むことが出来る。これも作品中の大仕掛けの一つであって、この場に置いて結末を書くことはこれから本書を手にされる方の興を削ぐ可能性があるため出来ないのだが、登場人物達を取り巻く幻想の世界と並行して、大々的な歴史読み物的エピソードが展開される点も本書の魅力の一つだろう。

宗教に取り憑かれる大衆、歴史の謎に取り憑かれる老人、一人の男への偏執的な恋に取り憑かれた女、そして女そのものに取り憑かれた男の性…。この物語に登場するあらゆるものが、作中において「ジン」と呼ばれる魔物に取り憑かれたかのようだ。この壮大な物語を読み終えて、エルサレムという街そのものが、あるいはジン(魔物)なのかも知れない、そんな考えがふと脳裏をよぎった。

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世界の果てにある全ての始まり

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

庭園をこよなく愛する作家リコと、日本文学を研究するアメリカ人スマイスの出会い。冒頭部分を読んだ時には至って普通の小説であるかのように思えた。が、二人の関係を描く傍ら、両者のバックグラウンドに関連する些末な事柄から幾つもの物語が派生し始めると、途端に状況は一変する。並行する物語の切れ端が短い章の形で次から次へと現れ、読む方は目の回るような感覚に襲われるのだ。だが無論、物語の断片は無思慮にまき散らされているわけではない。幾つもの章と章の間に張り巡らされた関係性の糸。それを見いだそうと読み進むうちに、いつしか夢中になっていた。

分割された一つ一つのモチーフもそれぞれに魅力的だ。リコの祖父と思われる脱走兵が繰り広げる、無限の塔(?)の中の探検談は、果てのない広大な、しかし出口もない空間に閉じこめられて生命の危機にさらされるという暗いシチュエーションの中で、時折ちらつく脱出という希望への光が鮮やかなコントラストで描かれる。また、リコの描く「寒い夏」と題される小説。若返ってゆく母、自分を棄てた母への、少女の複雑な思いが浮かび上がり、情景描写も瑞々しい。極めつけはリコがこよなく愛する様々な庭の描写とその美しさだ。

しかしそれ以上に魅力的なのは、やはり各章の関係性の糸を探る謎解きのような作業かもしれない。32章、庭についてのリコの「個人の意識というものを切り取る枠」と言う見解と、43章に現れる御杖の「いれひも」は相似の考えに見えるし、同じく御杖の「影の詞」と44章におけるリコの「光という影と、影という光で造った庭」にもどこか相通じるものを感じる。影と言えば、このモチーフは至る所に現れていて、小説「人斬り」の中では辻斬りに取り憑いたり、脱走兵の物語では人間を食する化け物として描かれたり、と、まさにこの作品中においては変幻自在である。こうした関係性は、探せば枚挙に暇がないだろう。

中でももっとも興味を引かれるのは、「通過者(パッセンジャー)」というキーワードである。18章「庭の意味」においてリコは、庭は公的な場でもなく私的な場でもなく、いわば人を決定不可能な存在にするものであり、そのとき人は通過者となるのだ、と述べる。鑑みるに、この物語の主たる登場人物には、誰にも「通過者」としての役割が与えられているのではないか。塔の階から階を巡って旅する脱走兵しかり、娘の前に突然現れ見る見る若返ってゆく母しかり。実在の人物であるところの御杖もまた、後には流浪の人生を送ったようである。

物語の終盤、スマイスは長年とりくんできた謎を解き明かし、脱走兵は未知の世界へと脱出し、「寒い夏」の娘は憎みまた愛した母を失って、誰もが新たな旅への予感を強くする。
「謎がある限り人は生きていけるだろう」「わたしは老いるだろう(中略)でも、わたしは強い」リコのその台詞が、美しい終章を導き出す。非常に爽やかな読後感を感じながら、本を閉じた。

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この痛みは決して「遠い昔」の痛みではない

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新訳の発行を間近に控えて、改めてこの名作を読み返してみようと思い立った。主人公ホールデンの無力なあがき、秘められた繊細さ故の暴挙、悲嘆。そうしたものが、初読時より十年あまりの歳月を軽々と越えて、と言うよりは、むしろ「大人の世界」に格好だけは両足を踏み入れてしまった今だからこそ、一層鮮烈に響いてくる。
ホールデンは、人が社会に順応して行くにつれ、目をふさぎ、感覚を鈍磨させてやり過ごしてきたあらゆる感覚的矛盾に鋭敏に反応し、反発する。社交辞令やその場しのぎの会話の虚しさ、不全でありながら形だけは成立したように見せかけるコミュニケーションの愚かしさ、形骸化した芸術等々。あまたの人間がまともに生活していくために、ほとんど無意識のうちに丸呑みにし、見えない振りをしてきたまやかしや矛盾の数々を、彼の言動は逐一掘り起こし、読む者の眼前に突きつける。頁をめくるたびに新たな痛みが読む者の胸を刺す。生きるために一体自分は何をごまかし続けてきたのかと、思わず自問せずにはいられなくなる。
彼、ホールデンの、内面に無垢を抱えながら外の世界との軋轢に苦しむ様は、決して少年期の通過儀礼として過去に葬り得るものではない。むしろその時期を過ぎた、いわゆる「大人」が読んでこそ、この作品がはらむ真の痛みを実感出来るのではないかと思う。
ホールデンが唯一、無垢なままの自分で接することが出来る妹、フィービーとの美しいラストシーンに、ようやく救われたと言う安堵感を得て、本を閉じた。それでも、彼があの「無垢な世界」に安住することは叶わないのだと言う暗澹たる思いが後に残る。美しい世界に安住出来ないのは彼ばかりではない。「大人」であるはずの自分も、彼と同様の痛みに耐えていかなければならないのだ。「成長のための痛み」は、決して16歳の彼ばかりのものではない。

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紙の本幻談・観画談 他三篇

2002/12/01 18:41

肩肘張らずに楽しめる、本当に美しい日本語

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代表作「五重塔」とは異なり、本書に収められた五編はいずれも非常に親しみやすい口語体で書かれている。その語り口の流れるような、比類無き美しさ。「幻談」はあたかも熟練した落語家の語りを目で追うような、心地よいリズムに貫かれた文体が秀逸である。内容は露伴お得意の「釣り」の話にちょっとした幻想味を絡めたものだが、一見なんと言うことのない筋書きも露伴の腕にかかれば、江戸の「粋」の感覚を見事に伝えて、読む者を軽々と物語の世界に乗せてしまう。読後感の良さは五作中一番では無かろうか。
「観画談」は苦学に苦学を重ねた「大器晩成先生」とあだ名される若者が、人生の真の価値について目覚めるまでを追った話。とは言っても物語の大半を占めるのは、若者の生い立ちと子細在って今で言うところの貧乏旅行に出た際のエピソードである。淡々と、しかも心地よく続く物語の最後に思いがけず若者の人生観を翻す仕掛けが組まれているのだが、その手際の見事なこと。文豪露伴の晩年の、熟練した技をあますところなく味わえる。
五編いずれも、決して難しくはなく、日本語の旨味を手軽に味わえるという点で本書は実にお買い得。美味い酒に酔ったような読後感はなかなか忘れがたい。

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紙の本夜と霧 新版

2002/11/30 01:19

「日常」に苦しむ人への書

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衣服をはぎ取られ、毛髪まで刈り取られて、被収容者番号と引き替えに、「名前」を奪い取られる。そうして強制収容所での生活は始まる。奪われるのは物質的なものに留まらない。被害者達は、過酷な労働と絶え間ない罵倒の言葉、理由の無い殴打によって、希望を、精神を、ついには魂を奪われてゆく。このように、本書はアウシュビッツに代表される悲劇の顛末を事細かに書きつづったドラマとして読むことも可能である。
多くの人は「強制収容所」という言葉を耳にするとき、不幸な過去、少なくとも現在の自分とは無関係な出来事として理解するだろう。しかし本書は、その内容を単なる悲惨な事実の報告に留めてはいない。人間が悲惨な運命に対峙するとき、魂を奪われるままに任せるのではなく、いかにたくましく立ち回ることが出来るか。まさに今苦悩の中にいる人々が鮮やかに魂を浄化させていく様子を、著者は見事に描ききっている。それが想像を絶する苦難の中にあって行われた魂の再生で在るが故に、本書の内容は重厚な説得力を持って読む者の胸に迫る。
著者は言う。苦悩の中にあってこそ見いだせる人生の価値がある、それを可能にするのもしないのも、人間一人一人の、困難に対峙する態度ひとつにかかっているのだと。単なる歴史的資料としてではなく、人生に潜む苦難から立ち上がるための普遍的な魂のありかたを描いた書として、「今」何かに苦しむ人に、是非この本を薦めたい。

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「物語を作る物語」の醍醐味

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「物語の作り方」と言うタイトルを見る限り、この本を手に取るのはおそらく自ら創作に携わる人々が多数を占めるだろう。しかしこの本には単なる作劇手法の指南書に留まらない魅力がふんだんに詰まっている。
ノーベル賞作家ガルシア=マルケス(愛称「ガボ」)を中心として、プロの脚本家達が持ち寄った、個々の「物語の種」を、一つのストーリーへと、ブレーンストーミングを行いながら高めていく様子がつぶさに収められているのだが、この物語作成の過程を追うのが実に面白い。例えば、余命幾ばくもないと知らされた男が日常からの逸脱を求めて突如旅に出る、と言う設定が、議論が交わされるうちにいつのまにか「田舎町に突如出現する聖者の物語」へと変貌していく。議論が行き詰まったかとみるや突如飛び出す「ガボ」の奇想、負けじと意見を戦わせる塾生達の発言から一つの物語が生成されていく過程は実に生き生きとして、まさに「物語を作る物語」と呼ぶに相応しい。誰かが発言するたび変転してゆく物語を追うことそのものが、まるで執筆中の小説家の頭の中を覗くように興味深く、物語の受け手たる読書家にとっても読み応えある内容となっている。塾生達の持ち寄る個々のエピソードの面白さも見逃せない。それぞれが完成したストーリーではないにせよ、十分に好奇心をそそられる素材が次々に繰り出されるため、読む者も議論に参加してそれぞれのストーリーを考えてみるという半ばパズル的な楽しみ方も可能である。
勿論、創作に携わる人々にとっては非常に有益な書であることは言うまでもない。随所に「ガボ」の金言がちりばめられ、注意深く読んでいけば創作に必要な様々なヒントを得ることが出来る。幾通りもの読み方を楽しむことができ、かつ「物語る」人々には貴重な学びの要素が詰まっている、非常に魅力的な本である。

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紙の本あやし

2004/06/04 18:59

怪談本、なのになぜか温かい読後感

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 うっかり手の届くところにおいておくと、ついつい何度でも読み返してしまう本というのがある。多少つむりの辺りが疲れていても、すいすいと読めてしまう。その上繰り返して味わっても面白い。本書を読み終えたとき、またそんな一冊に捕まってしまったな、と思わず苦笑した。

 タイトルの通り、怪談ばかりを集めた短編集である。著者お得意の時代物怪奇小説で名品が九話も…と言えば、さぞ恐ろしい本だろうと思いきや、そうではない。読み終えたときに感じるのは恐怖ではなく、むしろ感情のひだに染み入ってくるような温かさなのだ。

 洒脱な筆で描かれた、江戸の庶民達の人情味あふれる生活の様がそう思わせるのだろうか。否、勿論それだけではない。鬼や幽霊と対峙する形でそれに立ち向かっていく人々の姿も描かれてはいるけれど、むしろ興味を引かれるのは、人間の背負う闇から生まれる魔性のものや、その魔性の影に映しだされる、誰もが胸の奥に潜ませる人間の中の鬼が、そっと人間に寄り添う姿なのではないだろうかと思う。罪を犯した人間の悔恨や懺悔の念が、病や、鬼や、幽霊といった形をとって語りかけてくるとき、何とも言えない、寂しく、また温かい情緒が立ち上るのだ。

 幽鬼となったもの達の脆さを影とすれば、物語の中を懸命に生きる庶民の姿は光であるとも言えよう。人間の命に照らし出されて、遠いようで近いところにある鬼の姿が浮かび上がる。そこに一抹の感傷と、人間というものの生の不思議を、しみじみと感じ取ることが出来る。

 その他にも本書には、幽霊屋敷もの、不老不死もの等々、怪談の典型とも呼ぶべき作品がバリエーション豊かに収録されている。パターンとしては目新しくはないものの、それでも読者をするすると引っ張っていく筆の巧妙さは、さすがはこの著者ならではと言うべきだろう。読みやすく、面白く、読後感が良い、と三拍子そろった本書、怪談ものを探している友人には安心して勧められる一冊である。

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廃屋の幽霊

2004/05/29 23:56

日常からわずか「半歩」の怪異

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 タイトルに惹かれ、いかにもホラー的、大仰なおどろおどろしさを期待してこの本を開いたならば、軽い肩すかしをくらうかもしれない。ここに描かれているのは、随分と卑近なところにある、しかも誰もが当事者になる可能性のある恐怖の数々なのだ。
 七品の短編の主人公のうち(あるいは実際に忌まわしい異変の当事者となるもののうち)、大半を占めるのが、いわゆる人生の「負け組」に属する人々である。場末のスナックで野心もなく日々を繰り返すだけのバーテンダーや、リストラに遭い家族からも疎まれて気力を失いつつある男など、現代社会の暗部をほとんど典型的に象徴するとさえ思えるキャラクターたち。彼らは程度の差こそあれ、その精神の奥に諦念をはらんでいたり、あるいは暗い記憶からの逃亡を図っていたりと、少なくとも人生へ真っ向から勝負をかけるタイプの人間ではない。
 著者は淡々と、かつ確実な筆力をもって彼らの日常を描く。まるで彼らの落魄した人生に寄り添うように。こうした「落魄者の日常」の部分に、すでにドラマは生まれていて、読むものは知らず知らずつりこまれ、この先に待ち受けるはずの怪異の存在を半ば忘れかけてしまう。
 しかし著者はそうと知られぬよう巧みに、あくまで常態の世界を描くような振りをして、主人公をこの世と怪異の境目へ追いつめ、外堀を埋めていくのだ。物語の随所に散りばめられた、後半への伏線となる「怪異らしきもの」にも、さしたる恐怖を感じないまま、読者はプロットの巧さにいわば目くらましを食らった状態でストーリーに巻き込まれていく。そうして緻密に積み上げられた物語に引き込まれるうち、読むものはふっと足下をすくわれたかのように、突如現れたかに見える(しかし実際には巧みに用意がなされた)怪異の中に落ち込んでゆくのだ。一連の物語の主人公たちが堕ちてゆく−あるいは、誘い出されるように自ら彼岸を求めて去っていく−茫洋とした恐怖に包まれたラストシーンとともに。
 これらの物語の中に、彼岸と此岸の明確な境目は見えない。怪異は登場人物たちの日常からほんの半歩だけ踏み出した、彼らのまさに足下にある。そうして物語を読み終えたものはふと我に返って、鮮烈ではないが、もやの中を忍び寄ってくるような恐怖を感じるに違いない。誰がいつ「負け組」に転落するともしれないこの世界で、我々からそう遠いところにいるとも思えない彼らの身近にある恐怖が、同じように自分たちの身辺にも忍び寄りつつある、あるいは、まさに今、自分こそが怪異への半歩を踏み外そうとしているのではないかという、言いようのない不安感にさいなまれて。

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