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Helenaさんのレビュー一覧

投稿者:Helena

37 件中 1 件~ 15 件を表示

ネガティブな感情とどうつき合うか。

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「怒り、落ち込み、不安といった“ネガティブな気持ち”を持つことは、いけないことではない。
 この本では、全体として、“ネガティブな気持ち”を持つことはいけないことではないんだということが書かれていて、そのような気持ちを含めた気持ち、感情全体とうまく付き合っていくことが大切なんだなあと思いました。
 では、“ネガティブな気持ち”とうまくつきあえないとはどういうことか?
 個人の中では、「ネクラ」よりは「ネアカ」の方がよく、ポジティブ・シンキングという前向き思考が流行る中で、“ネガティブな気持ち”は居場所を失っている、と著者は主張しています。
 そうなると、“ネガティブな気持ち”を気づきたくない、感じることを認めたくない、というように、抑圧して封印したくなると著者は書いています。私自身は、そこまで自己コントロールをしているとは思わないですが、抑圧して、封印していくということは、ありうるだろうなあと思います。そうやってストレスがたまっていって、ちょっとしたきっかけで爆発することってあると思います。
 「悲しみは無理やり乗り越える必要はないし、悲しさを封じ込める必要もない」[159]、「「いつも充実していて、楽しそうにしていなくてはいけない」という呪縛から解き放たれる必要がある」[191]と著者は書いています。そうですよね。「悲しみ」という感情は、努力したって簡単には変えられるものではないのだから、無理やり変えようとするよりも、その感情にうまく付き合いながら、現実の行動を考えていくことの方が、より「ポジティブ」なのかもしれませんね。
 “ネガティブな気持ち”とうまくつきあえないということが、他者とのコミュニケーション場面にも現れ、コミュニケーションがスムーズにいかないことになっていくのも最もなことだと思います。
 面白かったのは、“ネガティブな気持ち”を相談された場合の相談を受けた側の対応の分析です。
 “ネガティブな気持ち”とうまくつきあえないということは、自分自身の内面と関わってだけでなく、他者がそのような気持ちを持つことにもつきあうのが難しいことになる。“ネガティブな気持ち”を相談されると、それに自分が絶えられないから、「それだったら、やめれば」「気分転換に飲みに行こうよ!」というような、“ネガティブな気持ち”に寄り添うというのではなく、すっきりとした対応をしがちになるという。それは、相談をもちかけた側のためにではなく、自分が“ネガティブな気持ち”を受け入れられなくて、すっきりしたいから!
 こういう対応って、すごく共感します。私自身、そういうふうに対応されて、ああ、この人には相談しても無駄だな、と何度も思ったことがありますから!
 他者とコミュニケーションを取る際、著者は、感情や実感に基づくことが大事だとしています。
 本著では、子どもとのコミュニケーションの具体例がいくつか掲載されていました。知識や道徳レベルの対応ではなく、まず感情に基づいた対応をした方がいいと書かれています。著者は、「感情→道徳→知識」といった流れで捉えています。
 大枠では私は、「感情→道徳→知識」という流れを認めつつ、感情は感情固有に発達しないだろうし、豊かな知性を持つことが豊かな感性を支えているっていうようなこともあるんじゃない? とも思います。また逆に、豊かな知識を自分の実感で支えることが大事だと思うんです。ですから、「感情→道徳→知識」という一方向の流れではなく、相互に支えあうような枠組みって、どうなんでしょう? 私の中で、考え続けていこうと思います。
 それから、著者の夫が、「相手の気持ちというのは、自分の感情を手がかりにして理解するもの」[202]と言ってそうです。そうだなあと思います。私も、自分の感情を磨いておきたいと思います。共感能力を高めたいし!

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紙の本日本の刑務所

2002/12/18 13:10

刑務所内では、「人間の尊厳」は必要無いのか。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本では、日本の刑務所の中で何が起こっているか、具体的に書いてある。
 例えば、入所時の身体検査。
「耳・口、「床に手をついて四つん這いになり、ケツの穴をこっちに向けろ」といわれて尻の穴まで検査され」(6頁)る。

 刑務所内では、懲役の受刑者と、禁固刑の希望者が、「労働」をしているのだが、その仕事場の工場に入るときのこと。

「他の多くの刑務所と同様、府中刑務所でも、工場へ入る時、出るときに更衣室で全裸になり、工場の出入り口に置いてある二個の大きめの石に乗り、両手をまっすぐ上げ、片足もあげる。同時に口も開いて自分の呼称番号をいう。バランスがくずれると何回でもやり直しをさせられる、いわゆる「カンカン踊り」が行われている」(138頁)。

 「カンカン踊り」と同時に「玉検査」(陰茎に異物を挿入していないかどうか検査すること)も実施されているとか(138-139頁)。

 工場で作業中にも、いろいろな懲罰の対象となる行為がある。
「工場で作業中に職員が扉を開けて入ってきたのを見ただけで「職務怠慢」の懲罰となることがあるが、その時、「謝っているじゃないですか」などと言おうものなら、これが「担当抗弁」として新たな懲罰の対象となる……聞こえなくて返事をしなかったときも「担当抗弁」とみなされると懲罰となる」(143頁)

「工場で作業中、他の受刑者が部品を落としたのを見た隣の者がそれを拾ってやったのが「不正動作」であり、相手が声に出さず「ありがとう」とうなずいたのが「不正発声」であるという理由で軽へい禁の懲罰」(143頁)

 こういう動作が懲罰の対象になるなんて! だからもちろん、作業中に汗を拭いたり、ちらっと時計を見たりするのも、「不正動作」なのだ。

 で、その懲罰だが、例えばその「軽へい禁」だと、「起床から夜九時までの一日中正座(施設によっては安座)、手は膝の上にのせ、顔は入り口に向け目を開けて真っ直ぐ座っていなくてはならない。ちょっとでもやめると新たな懲罰の対象になる(京都刑務所)。両手を延ばしただけで処分の対象となる(軽へい禁の延長、どの刑務所でも同じ)。座布団の使用はない。洗面所とコップ一個以外は房内にない。用便は午前・午後の二回のみで、それも看守の許可がいる」(155-156頁)もちろん、ラジオを聞いたり、入浴、面会等々、すべてが禁止。
 軽へい禁は、作業中に時計を見ても脇見とみなされて20日、隣の者に話しかけられて返事をして20日、房外の鳩に飯粒をやって15日、作業中に看守の顔を見てしまって10日、独居房でひとりごとを言い、注意されたので「なぜ悪いのだ」と言って15日等々。
 こういう行為は、人間として、ごく当たり前の行為ではなかろうか。

 それで思ったこと。
 刑務所内では、「人間の尊厳」というものがまったくない、ということ。懲罰によっては、手錠につながれたまま、食事・排泄をするから、四つん這いになって犬食い・垂れ流しも行われているという。
 犯罪者に対する刑罰と、更正施設としての役割が刑務所にはあるのだろうが、こういう軍隊式の刑罰中心の刑務所で、本当に、犯罪者が更正していくのかが疑問。半数以上が、2回目以上の入所だと言うし。
 人間っておそろしいもので、こういう「人間への尊厳」がまったくない環境にも順応していってしまうのではないだろうか。いやむしろ順応していかなければ生きていけないわけで、そうやって、どんどん無感覚になってしまうのではなかろうか。無感覚にならなければ生きていけないような状況だから。
 だから、懲罰主義で、罰を厳しくしても、「あんな思いは二度としたくない」という再抑止力として、強力には働けない。
 「人間への尊厳」そして、刑務所内の「教育」ということを、もうちょっと大事にしてもいいのではないか。そのことが、懲罰よりも、再発防止につながるのではないだろうか。

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紙の本君たちはどう生きるか

2002/12/12 15:18

社会科学的認識に支えられた倫理・モラルを

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 満州事変と同じ年に刊行されたこの本は、もはや「古典」。70年以上前に書かれたにもかかわらず、古くささを全く感じさせない。読むのは何度目かだが、やはり、名著だと思う。
 
 『日本少国民』の最後の配本であった本書は、シリーズの中の位置づけとしては、「倫理」がテーマだったらしい。
 もちろん内容は、倫理やモラルというものを正面から扱っている。が、その質が、社会科学的認識に支えられた倫理・モラルであるという点に、私は魅力を感じる。
 
 巻末の丸山真男の「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」でも、この点に触れられている。そして、「戦後「修身」が「社会科」に統合されたことの、本当の意味が見事にこの『少国民文庫』の一冊のなかに先取りされているからです」[325頁]と述べられている。
 
 すでに、高校においては「社会科」が解体され、ちょっと古いけれど、『国民の道徳』が非常に売れたというここ数年の動き。もう一度、戦後、「修身」が「社会科」に統合されたことの意味を問い直してほしい。そして、改めて、社会科学的な認識に基づいた倫理・モラル・道徳観を確立していくことを考えていかなくてはならないと思う。

 『君たちはどう生きるか』は、まさに今、もう一度読み返されなければならない「古典」だ。

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身近な他者との親密な関係を

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私は、それほど臨床心理学の勉強をしていないのですが、直感的に、臨床心理学には違和感を感じておりました。
臨床心理学の中のカウンセリングにもいろいろ流派があるわけですが、小沢の説明によれば、日本では、自己理論を中心としたグループ(傾聴、共感、支持、自己実現らがキーワード)が最も知られているそうです。
これは、ロジャースが始めた療法だそうです。

さて、小沢さんの臨床心理学紹介ですが。早くも72頁で、すべてが終わったという気分になりました(^^;)
 
「つまり「心の専門家」の仕事とは、本人の「生活の問題」を「心の問題」、つまり個人の内面の問題へとずらす仕事として期待されている面を持つ。しかしその装置は当然「心の専門家」の側に用意された規準によって作られているので、クライエントの置かれている現実に即したものとは言えない。」[72]
 
また、カウンセリングが脱政治化を導くことは、U.ヌーバーの『〈傷つきやすい子ども〉という神話』でも書かれていて、その通りだと思います。
カウンセリングが、現状維持の保守性と容易に結びつくことも納得がいきました。

ところで小沢は、スクールカウンセラーの実践例として、黒沢幸子の事例を検討しています。
「(彼女は、)スクールカウンセラーとして活躍し、この領域への影響力を持っている存在と考えられる」からだそうです。
その事例は、不登校の小学生のものなのですが、その子の先生が怖い、学校が怖い、という問題を「外在化」して、「何か悪いものが入ってきて、イライラさんが暴れているんだね」という感じです。
ここでは、問題の直視も、その子を取り巻く関係も問われずに、「外在」する悪い菌の問題とされているのです……。
当然小沢は、批判。この小沢の批判にも共感です。

最後に小沢は、専門家としてのカウンセラーではなくて、身近な他者との親密な関係づくりの大切さを強調しています。
そこでのキーワードは、また、「身体」だったりするわけです(^^)

臨床心理学やカウンセリングにはまる前に一読する価値はあると思います。

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憲法九条、いまこそ旬

2004/12/18 19:14

「死者」に向き合う、ということ。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私は、大江健三郎、鶴見俊輔の発言に思わずノートを取った。

■大江健三郎:「希求する」という言葉
憲法、教育基本法においては、「希求する」という通常使われないことばが書かれている。これに対して大江は、「この法律を書いた人は、どうしても「希求する」という言葉を使いたかったのだ、と読み取る必要があります。」[11]と述べています。
「希求する」という言葉でしか表現できなかった何かが、筆者にはある。
これが文体ですよね。
そして、大江の文体への言及。

「文学のテクストのみならず、あらゆる文章には文体があります。それはどこから出てくるかというと、そのテクストを書いている人が、どういうときに書いているか、どういう気持ちで書いているか、そして、どういう読み手に向けて書いているか、その三点からくるものなのです。そして、時には書かれている内容よりももっとはっきり、どういう人間が書いているかということを表現してしまうのが文体なのです。」[12]

「書かれている内容よりももっとはっきり、どういう人間が書いているかということを表現してしまうのが文体」
これこそまさに、「言葉の力」なのではないか。

大江についてはもう一つ。ハイデッガーの『存在と時間』に触れているところだ。

「私は、人間が身近に死者を受け止め、自分の死についても考えざるをえないときに、倫理的なものと正面から向かいあうと考えています。私の得意なことではありませんが、哲学者の文章を引けば、マルチン・ハイデッガーの『存在と時間』に、人間は自分たちが死ぬべきものだということを認識するとき倫理的になる、という意味合いのことが書かれています。私はそのとおりだと考えています。」[13]

最近私の周りでは、「死」「死者」に関する話題が多く……。
レヴィナスもそうだけれど、死と向かいあったときに倫理的なものと向かいあう、というのに、本当に共感。

■鶴見俊輔:私は殺した、だが、殺すことはよくない
鶴見の部分にも感動。
まとめの部分。

「これは私の哲学の中核に属するもので、日本が必ず負けると思っていながら、負ける側に負けるときにいたいと思ったぼんやりした思想と、この架空の状態、私は人を殺さなかったけれども、その問題を受けとめるということ、このことが「九条の会」に積極的に参加したいという私の考え方を支えるものです。」[57]

鶴見の哲学の中核ってこういう主張だったんですね。
めちゃ、感動しました。
そして、私自身と、そう遠くないと思いました。
死者に正面から向かった鶴見とレヴィナスの思想は、近いところにあるのではないだろうか。

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紙の本疲れすぎて眠れぬ夜のために

2004/10/16 02:45

そうなんですが……。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最近、内田樹さんの本を読んでいなかったのだけれど、なんとなく読みたくなって、『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(2003年、角川書店)を読む。
一気に読んでしまった。
内田さんも本書で書かれていますが、「同じものの反復服用が快感」[159頁]なのです。だから、私も、内田さんのものはほとんど読み、毎朝、HPチェックも欠かさない(^^;) この「反復服用が快感」というのは、ドラッグやアルコールの習慣性とほとんど同じかも(^^;)

その中でもこの『疲れすぎて〜』は、私的には、涙無しには読めないのです(最初の部分だけね)。
「「一ランク上の自分」に取り憑かれた人は、身体や精神が悲鳴をあげるまで痛んでも、なかなか休みません。疲れて立ち止まると、そういう弱い自分を責めます」[12頁]
そうなんですよね。とにかくがんばってしまうのです。
だって、「向上心」を持ってがんばることを善とされてきたし、がんばって成果をあげていないと、見捨てたり、関係を切ってくれる方がたくさんいたから。
と、人の所為にするのもよくありませんけど。

なので、この内田さんの忠告を何度も読んでいても、自分を責め、がんばろうと思うのです。
とりあえず、短期決戦で、やりきるのみなのです。



私の周りにも、「年寄りの冷や水」タイプの人がいます。
やっぱり、品が無いなあと思います。
ああはなりたくない(^^;)

期限切れの思想は、祝福して見送ろう。
彼らが話し出すと、嫌な顔をしちゃうから、彼らはがんばっちゃうんですよね。
祝福して見送りましょう。

「形」があるから自由にできる。
これって、仮説実験授業と同じですよね。
納得。

「素」の自分を出しちゃいけない。
そういう礼儀と品の良さを身につけたいものです。

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紙の本趣味は読書。

2003/04/24 16:10

どうしてこんなに面白いっ、斎藤美奈子!

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

と叫びたくなるくらい、面白い。
やっと斎藤美奈子の『趣味は読書。』が手に入ったので、一気読みしました。このところ、体調は悪いし、忙しいしで、自分の「仕事」に関わる本がなかなか読めないでいるのですが、斎藤美奈子だけは、一気に読んでしまった(汗)。もちろんこの本も、期待を裏切りません。

「お忙しいみなさまにかわって、私がお読みいたしましょう。そして、内容をご報告いたしましょう。いわば「読書代行業」である」[9]なんて言っちゃうんだから、大笑い。電車の中で半分以上を読んできた私は、一人でくっくっと笑っていたから、相当「あやしい人」だったに違いない(笑)。

斎藤は、読書界の住人について、「偏食型の読者」「読書原理主義者」「読書依存症(過食型の読者)」「善良な読者」って分類してます。うー、私ってば前者3つには、結構当たる(汗)。
「読書依存症」のところには、こういうふうにも書いてあるわけ。

「この一族は年中本に関するゴタクばっかりこねている。書評や書籍広告にもよく目を通し、読んだ本についてあれやこれやと論評し、頼まれもしないのに、ネットで読書日記を公開したりする」

ははは(汗)って気分でしょ。
ちなみに、「偏食型の読者」だと、

「ことに専門が人文社会科学系(文学・哲学・社会学など)だったりすると、読んでる本が教養書ともカブるので、一人前の「知識人」「教養人」に見えるわけだが、こういう人はそこらを飛んでる蝶ちょの名前を平気で知らなかったりする。さらに彼らは自分が井の中のカワズとも知らず、自分が読んでる程度の本は余人も読んでいてしかるべきだと考えていたりする」

まさにその通りっ!ですね。
「善良は読者」は、「新中間層」だっていうのも、なるほど。面白いでしょ。


でもって、個々の本への紹介は、いくつかだけ。
『朗読者』を包茎文学って言っちゃうって、すごいでしょ。インテリ男性が好むインテリ男に都合のいい小説、ね。
『冷静と情熱のあいだ』は妊娠小説、『iモード事件』は紅一点論。この辺りは、斎藤の他の本の枠組みでOK、ね。
『海辺のカフカ」は、「「何がいいたいのか、ぜんっぜんわかんねえ」と放っぽり投げるのが真っ当な反応のはず」[252]、ああよかった。私もそう思ったもん。
「ものすごく売れる本はゆるい、明るい、衛生無害」な本というのも納得。
『世界がもし100人の村だったら』「単純化されたメッセージから受け取れるのは、単純な感想だけだ。これがテロ後の米国から発信され、ネット上を巡り巡って、日本で本になって感動を呼ぶ。いまの地球の姿が暗示されているようである。やれやれ。」[297]私もおっちょこちょいだからな〜。

斎藤の本も残すはあと1冊。さびしいなあ。
とりあえず今は、AERAの連載を楽しみに一週間を送ってます。
だいたい、雑誌の連載をチェックするようになったら、やばいよな……。この忙しいときに!

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「総括」について。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

彼らを「テロリスト」や狂人とレッテルを貼るだけでは問題は解決しない。
田原は、一人ひとりは、真面目で自分の理想に真摯に向かっている若者だったと直感している。にもかかわらず、なぜ、あのような事件を起こしたのかを関係者へのインタビューを通して追求しようとしている本。

田原の問題意識は共有できるんだけれど、ちょっと当たり前かな、と思う。
もっと言うと、彼らが、純粋に理想を追求しようとしたことが、必然的にあのような事件を引き起こしたと私は考えているんだけれど。
単純に、すっきりと世の中の矛盾を整理しようとするような思考方法の危険性なんじゃないかな。

連合赤軍の「総括」の部分を読んで、あの時代に生まれていなかった私は、「総括」の意味を初めて知った。
そうか。自分の反省を述べてもだめなんだ。
「総括」する側が納得しない限り、「総括」は終わらないわけね。
なるほど。
私の周りで、つい最近も行われている「総括」の仕方に、あまりにも違和感を感じていたけれど、彼らの「語法」からすれば、当然だったのだ、と納得。
なるほどね。
そういう場面をうまくかわしていくためには、この本で、彼らの「語法」を知ったことは、収穫。

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現実から出発する「成熟」論;「団塊の世代」批判。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最近、内田樹さん的な「成熟」や、レヴィナス、レヴィ=ストロースといった「大人の読み物」(笑)ばかりを読んでいる私にとっては、自分の実態は別としても、全体として「甘い」という印象も受けてしまいました。
完全には大人になりきれなくても、大人であるようにふるまうことは必要ではないかと思うもので。
 
でも、そうはいっても、金原さんは、大人になれなくても「成熟」する必要を書いているので、もちろん、全面的に批判するつもりはありません。
むしろ、もう手の届かないところにいってしまった、かつての「大人=成熟モデル」に固執するのではなく、大人になれないままでも成熟を目指すという、地に足のついた議論になっているのだろうと思います。
そういう意味で、好感が持てます。
っていうか、金原さん、かっこいいし(^^)
 
それから、通底するテーマである、団塊の世代(全共闘世代)批判、これには、非常に共感しますね(^^)
 
「女性のほうは、八〇年代になってから、たとえば上野千鶴子に代表されるような消費フェミニズム的な展開をまがりなりにも見せてくれたけれど、男性は、概ね旧態依然とした企業戦士になるか、そうでなければ旧態依然たる左翼言語にこだわり続けるかで、柔軟性という点では、あまり見るべきものがなかったような気がします。」[84]
 
(全共闘世代は、)「壊すことに比べて、創るということに関する関心が、その後の世代に比べて、どうも薄かったのではないかという気がします。好意的に言えば、壊すべき対象が大きかったので、壊すことに忙しかったということなのかもしれないけれど。」[165]
 
こんなことを書かれています。
 
それから、金原さんの『ライ麦畑』評、「あの小説の妙に甘えた感じがあまり好きではありませんが」と書かれています。
村上訳の『ライ麦畑』は、それが前面に出ているように感じ、私は、金原さんに共感してしまいましたが。
でもまあ、金原さんがこの本を取り上げた主意は、ヤングアダルト(YA)もの分析においてですので、まあ、いいか、かも。
 
やはり、金原さんは、YAものをたくさん訳出されていて、YAものを当然評価していますから、こういう成熟論になるんだなあと思います。
ただその一方で、「大人」がYAものに依拠して語るのは、ちょっと待ってよ、と思い、隠れてこそこそYAものを読むくらいがいいんじゃないかと思ったりもします。
でもまあ、『チョコレート・アンダーグラウンド』は面白かったし、巻末のYAもの一覧からすると、YAものって、私のイメージより広いのかもしれませんが。
 
そういえば、金原さん同世代の知人が、「5年早く生まれれば、全共闘世代にのれたし、5年遅ければ、大塚英志とかたくさん仲間がいたのに。」と、おっしゃっていたことがありました。
この世代は、上の全共闘世代に吸収された方と、下のオタク文化にシンパシーを感じる方が共存する「両義性」の中にいるんでしょうね。
 
それにしても、「マドンナたちのララバイ」ってすごい歌詞ですね。
幼児退行も、はなはだしい。
いいかげん、「成熟」に価値をおかないと(^^;)
 
それから、よくわからなかったのが、教養主義の問題です。
金原さんは、YA、「サブカル」の人ですから、当然、教養主義批判にいっていると思います。
でも私は、完全には、それにのれないんです。
大塚英志の「学校ではちゃんとメインカルチャーを教えてほしい」という主張の方がしっくりくるような気もしていて。

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紙の本モダンガール論

2004/10/16 02:33

「進歩的」な女性って。

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斎藤美奈子、『モダンガール論』を読む。
なんか、突然、斎藤美奈子が読みたくなったのです。
あの文体、というか毒舌(^^;)が、時々無性に読みたくなるのです。
AERAのブックレビューの担当が終わってしまったので、本当に毎週さびしいのであります。

『モダンガール論』は、『文章読本さん江』くらい私は好きな斎藤本。
いろいろ好きな一節はあるのであすが、今回読んでいて、やっぱりこれかな、と思ったのは、172頁あたりですね。
羽仁もと子や市川房枝といった女性の権利を主張してきた戦前の「進歩的」な女性たちは、第二次世界大戦を、諸手をあげて賛成していたのであります。

現代の感覚でいうと、なんでそんなにリベラルな人たちが、戦争に賛成したんだろう? って思うじゃないですか。
でも、それじゃこの謎は解けないって斎藤は言うんですよ。

「彼女たちのような考え方こそ、当時は「革新的」だったのだ。
 戦争は変化を求めていた人々の気持ちをパッと明るくした。保守的で頑迷な昔風の女性ではなく、前向きで活発な近代的なセンスをもった女性ほど、戦争にはハマりやすいのですよ、みなさん。」[172-173頁]

なるほど。
どうしてかなあと、同じ女性としては悲しい部分もあるのですが、ハイテンションになって、クールな吟味をしないまま、突入してしまうことってありますよね。
私の周りにも、そういう女性がたくさん(^^;)

更に。
戦争が終わると、また同じテンションで、戦後復興の意義を説くわけです。
斎藤は、こんな感じで書いてます。

「懲りてませんね。戦争中とまったく同じテンションで、こんどは復興の精神を説く変わり身の早さ。もっとも彼女の名誉のためにいっておけば、これは彼女(羽仁もと子)にかぎったことではなく、市川房江も、奥むめおも、平塚らいてうも、戦前の婦人運動の指導者たちは、特に過去を清算するわけでもなく、みんなこんな感じで戦後も婦人解放運動・平和運動のリーダーに復帰した。だからいったでしょ。「進歩的」な女の人は、いつも「新体制」の前で張りきっちゃうんだって。」[195頁]

(^_^;)
斎藤美奈子さん、あなたも女性でしょ、と思いつつ、あまりにもあたっているから、何も言えない……。
こういうふうに言ってくれちゃうから、斎藤美奈子は期待を裏切らないって思います。

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戦前の「軍国の母」と、戦後の平和運動の担い手が同一人物な理由。

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一番面白いと思ったのは、いわゆる「進歩的」な知識人たちの身の振り方について。
羽仁もと子や市川房枝といった人たちは、第二次世界大戦を「戦争万歳!」って迎えたわけ。全然知らなかった。戦後の平和運動の担い手たちが、「戦争万歳!」だったなんて。私の頭の中は、?でいっぱい。

でも斎藤は、あれだけ民主的な人がどうして「戦争万歳!」なわけ? と問うても答えは出ない、と。そうじゃなくて、「彼女たちのような考え方こそ、当時は「革新的」だったのだ」[172]と言うわけ。
えーー!! どういうこと?
つまり、
「戦争は変化を求めていた人々の気持ちをパッと明るくした。保守的で頑迷な昔風の女性ではなく、前向きで活発で近代的なセンスをもった女性ほど、戦争にはハマリやすいのですよ、みなさん」[172]
なんだって。
進歩的な女性が、性差別で不満を持つのは当然。「あらゆる女性の不満を、戦争はみごとに忘れさせてくれたのだ」[174]と。納得。
だから、当時の婦人運動家の中からは、女子の徴用を求める声も。市川房枝の右腕だった山高しげりは、それでがんがんやってたとか。むしろ、東条英機らは、女性に早婚多産を期待してたから、女子徴用が実現されず。婦人運動家は徴用を望んでいたのに、東条らの反対で実現しなかったとはね。すごい構図。

ちょっと話がそれたけど、斎藤美奈子は、戦前の女性たちのことを、こうまとめてるの。
「当時の女性は、「みんな新しがり屋で上昇志向の強いモダンガールだった。だからこそ「新体制」に順応し、あっさり軍国婦人や軍国乙女に移行できたのではなかっただろうか。
進歩的な女性知識人が、率先して戦争協力に走った理由も、そう考えれば納得がゆく。インテリな女性は、そのときどきの「新体制」にいち早く反応し、いつも張りきっちゃうのだ。
もう一度いおう。モダンガールは後ろ向きな姿勢や保守的な態度を嫌う。だからこそ、戦争に向かって進んでいく時代には、軍国婦人になりやすいのである」[191]
すごい分析。ね、面白いでしょ。
大事なのはね、「戦争万歳!」と言った女性の知識人たちも、「軍国の母」代表の「国防婦人会」のおばちゃんたちも、極悪非道な人たちだったんじゃないし、圧政のために強いられたわけでもないってことなの。斎藤の言わせれば、国防の婦人会のおばさんのノリは、現代のボランティア主婦と同じってわけ。

こういうふうに考えると、平和教育もがらっと変わるでしょ(こんな大胆に言っちゃっていいかな)。斎藤はこうも書いてるの。
「重要なのは、戦争がどんなに悲惨な結末を迎えたかじゃなく、人々がどんな気分で戦争をスタートさせたか、だ。戦争責任ってそういうことでしょ」[190-191]
「戦争はいけない」「人を殺しちゃいけない」っていうメッセージだけじゃ、戦争はなくならないんじゃないかなあって思うんだけど。もちろん、そういうメッセージも大事なのは当然よ。

さて戦後。
例えば羽仁もと子は、「民主主義万歳!」を高らかに主張するわけ。これについての斎藤のコメント。
「懲りてませんね。戦争中とまったく同じテンションで、こんどは復興の精神を説く変わり身の早さ。もっとも彼女の名誉のためにいっておけば、これは彼女にかぎったことではなく、市川房枝も、奧むめおも、平塚らいてうも、戦前の婦人運動の指導者たちは、特に過去を清算するでもなく、みんなこんな感じで戦後も婦人解放運動・平和運動のリーダーに復帰した。だからいったでしょ。「進歩的」な女の人は、いつも「新体制」の前で張りきっちゃうんだって」[195]
軍国少女が平和運動のリーダーに。こういう論理って、なぜ?って思うけど、現実にはそういうことって、たくさんあるじゃない。でも、そうなるには、そうなるだけの論理ってあるんだね。斎藤の説明って、一つの説明になってると思う。だから、私は、納得だな。

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地域通貨を知ろう

2003/04/14 12:08

私も「地域通貨」を使いたいっ!

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

知人が、コミュニティ限定の地域通貨を発行するというので、この本を読んでみた。私は、全く、地域通貨というものを知らないので。

読んでびっくり。地域通貨がこんなに面白いものとは!!
私は、経済的なことはほとんどわからないので、それはおいといて(汗)、地域通貨の「文化的・社会的」な側面に注目。

要するに、地域通貨って、言葉みたいな、コミュニケーションのためのメディアなわけ。どうして通貨が言葉みたいなの?ってふつーは結びつかないだろうけど、ほんと、そう思えるから面白い。

例えば。
人が書いたレビューが面白かったら、「おもしろいレビューを読ませてくれてありがとう。はい、1000sak(sakは私が勝手に考えた「地域通貨」)。」みたいな感じで渡すわけ。
家の芝刈りを手伝ってもらって1000sak、ちょっと買物を頼んで500sakとかって感じ。
お礼しゃなきゃなあと思っても、直接その人にお礼をする必要はなくって、他の人に別の行為をすればいいわけなのが、いいよね。

面白いのは、これが市民運動にも使えるっていうところ。
ボランティアをしてると、どうしても、する方が優位な感情を持ってしまうじゃない? 無意識であっても。で、された方も負い目を感じて、それが限度を超えると、反発とか憎しみになっちゃうわけね。
それが、地域通貨を使えば、解消できるんだもん、ほんと魅力的。

地域通貨って、「お互い様」を一対一の関係でするんじゃなくて、そこに複数の関わりを持ち込んで、人と人が関わり合うことを増やすのが目的になるの。
人が大好きな私には、もってこいのメディアじゃないっ!!

そして更に。地域通貨は、物理的な意味での地域に限定されるわけじゃないし、バーチャルな世界でももちろん使えるし。

ビジネスとボランティアの対立を乗り越えるメディアであって、要するに、活動を「非営利的な有償活動」にしていくわけ。ここがポイントね。
今、ある種のボランティア活動に多くの時間を割いている私にとっては、ほんと、朗報ね。だって、自分はその活動が大事だと思ってるし、面白いから、がんがんやっちゃうわけ。でも、やりすぎると、周りの人が「負い目」を感じることになっちゃうの。まだ私の場合、「憎しみ」までは持たれていないと思うけど(汗)、常に、自分の側に、いわゆる「善意」に含まれる押しつけがましさを持たないようにするか、常に常に考えて、それだけでも結構なストレスなわけ。
自分のしたいことが十分にできて、余計なストレスがかからなければ、最高!だよね。

あ〜あ、私も地域通貨、やりたいな。
できるかな。

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経済成長を否定する発展のスタイルに向けて。

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 とても面白くて読みやすい本。お薦め。憲法、経済、政治が主な話の柱。

 まず、憲法の話が面白い。国際法上認められているのは自衛権のみ。交戦権は認められていない。とすると、戦争を放棄した日本は、自衛のための戦争を放棄したとしか言えない。そうだよなあ、納得。
 その前の、正当な暴力という発送も面白かった。同じ暴力でも、警察とか、そういう権力機関が行使すると、それは正当な暴力になる。理論的には、区分されることはよくわかったが、それでもなあ、と素朴な疑問が。

 日本の文脈で言えば、日本では半世紀に渡って、戦争する——すなわち、人を殺すための訓練を受けたことがない人間が育っているということの貴重さを実感した。そうだよなあ、「良心的懲役拒否」とか言ったって、その国の若者の大部分は、人を殺すための訓練を受けているんだもんなあ…。

 経済の話は、以前から私の関心にあるところ。
 「経済発展」というイデオロギーを批判していくには共感。「経済発展」なんていうイデオロギーをかぶせるから、「搾取」という構造が見えなくなるんだよね…。
 だから、南北問題を始めとした今日の貧困の多くは、「近代的貧困」であって、作りだされたもの。本当にそうだなあって思う。社会が、本当の意味で発展するということは、どういうことなのだろうか。「経済発展」を進めることではなくて、貧困を無くすことではないのか。
 ここでラミスは、「対抗発展」(経済成長を否定する発展のスタイル)を主張する。そうだよなあ、こういう世の中ってくるのだろうか。

 最後に、民主主義について。
 最も公正な民主主義は、くじ引き。奇想天外な発想だが、これも読んでみると納得。
 現実的なところで納得したのは、政治に無力感を感じるならば、それは民主主義とは言えないということ。そうだよね。主権があれば、政治に無力感を感じるわけはないのだから。

 それから、軍隊がある限り、民主主義国家でなはないという指摘にも共感。
 そうだよね。軍隊組織っていうのは、内部においても民主的ではないし、外部に対しても、非民主的に働く。そういう組織が、何の疑問も抱かれずに存在できる社会というのは、それだけで、十分民主主義国家でないと言えるのだろう。

 ラミスの主張は、竹を割ったようで、気持ちがいい。
 現実はそうもいかないのだろうけど、すっきりした社会になっていったらいいのになあと思う。
 さて、私にできることは、何なのだろう。

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なぜ仕事するの?

2003/03/17 19:25

男性に読んでほしいなあ。

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 iモード仕掛け人の松永さんの仕事エッセイ。仕事と結婚(を主とした生活)の間で揺れる20〜30代女性は共感を持って読めると思う。でも実は、この世代の女性の生き方を理解してもらうために、男性に読んでほしい本かも。

 はじめに松永さんは、専業主婦イメージの「人生ぬくぬくプラン」と、働く女性の「人生わくわくプラン」を紹介。私自身は、間違いなく後者だなあ〜。

 それから、面白かったのが、結婚版マズローの法則。
 心理学者は、人間の欲求を5つの階層に分け、人間は最も切実かつ優先権をもつ欲求を持たすと次の階層の欲求へと向かうという。それは、1)身体の組織・機能に関する本能的・肉体的な欲求、2)身体を安定させたい欲求、3)愛する欲求、4)自分自身の品位を保つ欲求、5)自己実現させたいという欲求、だという。

 これが結婚版になると、各々が相手に求めるものが、掛け算になるというもの。一人が結婚に自己実現を求めていても、もう一方がちゃんと夕食を作っておいてくれること(=1)の肉体的な欲求)を求めているのでは、5×1の結婚でしかないということ。
 かつては、「個」が前面に出ないから、足し算の結婚だとすると、現代は「個」が主体となるから、掛け算の結婚になるのではないか、と松永さんは言う。足し算だと、1+1=2と5+5=10でそれほどの差にはならないが、掛け算だと、1〜25まで、差が大きくなる。
 5×5になるような結婚をしたいものですね〜。

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紙の本犠牲 わが息子・脳死の11日

2003/03/17 12:59

「納得できる物語」の創出

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 この本の柳田の主たるテーマである、自死、脳死をめぐって書かれていることは、もちろん、壮絶な記録であり、心が揺り動かされるものであった。もちろん、それだけで十分に読むに値する。
 ただもう一つ。柳田が、これらの記録を綴ることを通して、自己を再生していった過程が、自覚的に述べられていて、興味深い。

 柳田は、河合隼雄を引用しながら、「人が生きるうえでの物語の意義」について述べている。身近な者の死に直面したときに、いかに人は、「納得のできる物語」を作っていくのか。その過程そのものを、グリーフワーク(悲嘆の癒しの仕事)だとしている。
 『犠牲』を読んだ読者たちが、その感想を綴りながら、自らの身近な者の死を綴った手紙を、柳田に寄せる(それを集めたものが『『犠牲』への手紙』)。そのこと自体が、グリーフワークになっているという。「なぜなら、他者に向かって語るとか書くという行為は、自分の内面にある混沌として喪失対象の人間像や人生の足跡や自分との関係性を整理して、“物語”として組み立てる作業にほかならないからだ。」[手紙:19]

 『犠牲』を読んでいて、柳田が、これを書くことで、なんとか自分を保とうとしていることが、痛いほど伝わってくる。私にとっては、その痛いまでの柳田の思いが、『犠牲』の、最大にテーマになっているように感じられていた(その意味で、巻末に掲載されていた、高校生の感想文には、ちょっと違和感が)。
 
 辛い現実に向かって書くということが、いかに勇気を必要とすることか。けれどもう一方で、そのことによって自らを保つ。書くことの深さを、改めて考えさせられた。

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