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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

spiritさんのレビュー一覧

投稿者:spirit

10 件中 1 件~ 10 件を表示

僕と彼の垣根

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

価値観を壊してくれる本は大好きだ。
というのも、それによって自分の世界が広がっていくことが、よくわかるからである。

今まで自分を取り巻いていた垣根の一端が崩れて、
本の思想と自分の思想が入り乱れてくる。
しばらくすれば、新しく窓のついた垣根ができて、
向こうの世界がよく見えるようになる。
時には向こうの世界がそのまま自分にとりこまれてくこともある。


「マリファナを吸ってなぜ悪いんだ。タバコや酒ほどの害もないマリファナが禁止されるなんて間違ってる」
一九七一年、大学一年生のときに始めて海外旅行をした韓国で僕はそう確信した。
まるで一目で恋に落ちたように、僕はそのときマリファナに限りない愛情を感じてしまったのだ。
〜中略〜
僕のキーワード「マリファナ」は行く先々で必ず非合法だった。
そのため、僕はコッソリと裏門から、時には少しこじ開けて入らねばならないこともあった。


彼と僕の旅のスタイルは全く違う。
どちらかのスタイルに合わせて、仲良く一緒に旅をする事は、
まず不可能だと思う。
しかし、お互いが理解して、それぞれの立場を尊重する事はできる。
その間には窓がある。

マリファナを吸う人はものすごい犯罪者のように思ってしまうような偏見は、
この本を読むまでやっぱり持っていただろう。
それが100%間違っているとは言わないし、
本に影響されて何もかも擁護するつもりはない(この辺りが誤解されやすくて困る)。


しかし、ふとまわりを見渡せば、我々の周りには意外にもドラックが少なくない。
アルコールや煙草はもちろん、カフェインやモルヒネなど、
なくなったらそれはそれで大変そうなものが、結構あるのだ。
人間には脳内に麻薬物質を分泌する機構ができてるくらいだから、
たとえ修行僧のような暮らしをしても、
厳密に麻薬から逃れる事は人間としてできないような気すらする。

著者がこの本で述べているように、本当に大切なことは、
なんでもかんでも危険だという事で禁止するのではなく、
正しい知識を得て、何が大切か自分で判断することなのではないだろうか。


「マリファナを吸ってなぜ悪いんだ」という最初の確信は、まったく変わらなかった。
旅行したほとんどすべての国で、人々がマリファナを生活を楽しく豊かにするための草として
実にうまく利用しているのをこの目で見たからである。


僕はカンボジアやラオスを旅した時に、
マリファナやアヘンを酒や煙草のようにたしなむ人を見たし、
彼らがものすごいジャンキーとはとても思えなかった。
国やマスコミが作り上げたイメージに飲みこまれていたら、
彼らたちと普通に語り合い、理解し合うことはできなかっただろう。
向こうの世界の一部は、いつのまにか自分の中に取り込まれていたらしい。

これ以外にも、自分で勝手な価値観を作り上げて、
自分の世界を狭くしている事はないだろうか?

読書はじめました

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紙の本少年H 上

2003/07/13 04:21

僕は戦争を知らずに生まれ、そして育った。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

始めに述べておきたい。
若者に戦争を伝えたいなら、悲劇ばかり持ち上げるのは間違っている。
人間は自分のことに関わってこないと、辛いことにはなかなかかかわる事ができないじゃないですか。
ただつらい話を押しつけて聞かされるのは、普通の人ならいやですよ。
あたりまえじゃないですか。
しかも50年以上昔の話ですよ。
繰り返さない様に訴えたいならば、もっと対岸の火事に見せない工夫をする事が大事だと思うのです。

空襲とか、最前線とか、原爆とかは確かにインパクトがあります。
でも、それを望んでいた人などほとんどいなかったはずで、
なぜそんな事になっちゃったかの状況や時代背景の説明を怠っているメディアが多すぎる。

てなわけでこの本です。
こういう、子供でも読めるわかりやすい本は大好きです。
ドラマにもなったから知ってる人たくさんいるでしょ。
やんちゃ坊主の取り止めのない話が続いてくのに並行して、
じわじわと戦争の影がちかづいて生きます。
普通の人達の普通の暮らしが、どこかで少しずつおかしくなって戦争に至る過程がよくわかって満足です。

脅かすつもりはさらさらないのですが、これは人ごとじゃないですよ。
なんかのきっかけで一度勢いがつけば、
戦争を抑止するちからなんてこの国に皆無だと思ったりするのです。

戦争を語ってるのに少しもストレスを感じないで読めるし、
救い様のない悲しい気分にはならない。
こういう本こそ教科書に載せるべきだと思うっすよ。


 「この戦争は何を守るための戦争だったのか?」と考えてみると、ハッキリしているのは、
戦争が始まった時から終わる時まで、守ろうとしたのは“国体”というものだったようだ。
 Hは、“国体”というものの正体が全然わからなかった。かつて父親に聞いたとき、
「国の体面やな。つまり天皇陛下によってつくられている国家の形、ということや。」といった。
そう聞いても、まったく意味がわからなかった。
まだ中学生では理解するのが無理なのかもしれないが、国の全土が焼け、国民全員が玉砕しても、
国体を守れといわれていた。それほど守るべきものだったのだろうか?
 もしかすると、天皇陛下が実体を知らされない状況にあったから、
戦いを終わらせる時期の判断が遅れたのかとも思ったが、それも違うと思った。
東条英機をはじめその他の戦争指導者達や側近に人を得なかったというなら、
その事を含めて責任があったはずだからだ。
もし、それは天皇陛下の責任ではないというのなら、誰が責任者だったのだろう?


個人的には、結構戦争の本とか映画とかは読んだり見たりするんです。
もちろん目を覆わんばかりの光景やお話もあるわけですが、
皆必死に生きている人達が多いです。
豊かな反面、夢のない無気力な国に住んでいるからこそ、
彼らから「生きる強さ」みたいなものをわけて欲しくて自分は読んでいるのかもしれないのです。

読書はじめました

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紙の本兎の眼

2003/06/18 05:32

人間が美しくあるために

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

内気で物言わぬ少年が、小学校の教室で突然蛙を引き裂き、
クラスメイトを引っかくところからこの物語は始まる。
それを目の当たりにして倒れる小谷先生(新任女教師)。
周りの人たちに支えられながら、この2人が信頼関係を築いていく所が、この話の中心といえば中心だろうか。
しかし、一貫したテーマがあるようでないような不思議な感じがすることも確かだ。
この本を複数の友人に貸したところ、感想が皆それぞれ違かったのがうなずけるのである。
それは、あちこちに様々なメッセージがちりばめられているからなのだろう。
まあ、この辺はあまり考えすぎず、読んだ人がそれぞれいろんな解釈をしても良いんじゃないだろうか。

僕としては「人間が美しくあるために」を、教育の場を借りて述べている本と解釈している。
面白かったのは、読んでいくうちに主人公が誰なのかわからなくなるところ。
主人公がいないままシナリオが進むと話がだらしなくなる恐れもあるのだが、
キャラクターがきちんとたっていたのでその心配は杞憂であった。
よく作家や漫画家が作品を書いてると、「登場人物が勝手に動いたりしゃべり出す」
という経験をしたりするらしいが、この本もそんな匂いを感じます。


個人的に抑えておきたいポイントは二つ。
一つは小谷先生が子供達と仲良くなり、いろんな事がわかってくるにつれて、
それがわからない夫との仲は決定的に悪くなっていくこと。
もう一つは足立先生やバクじいさんのように自分の価値観を持って
強く生きている人には暗い過去がある(用意されている)ことでしょうか。

前者はそれに対して小谷先生がなすすべもなく困っている様に、わからない人にはわかりません。
適切に説明する言葉が見当たらないので、僕もわからない人に無理に説明するのはあきらめます。
とにかく、厳しい現実を暗示しているところではあるでしょう。

後者はなにも暗い過去がないと人は強くなれないと著者は言いたいのではないと僕は思います。
むしろ重要なのは、暗い過去(悲しい過去)から目をそらさず、前向きに生きている姿勢なのでしょう。
それを証明しているのが小谷先生なのではないでしょうか。
普通の人なら目をそらして逃げかねない出来事を、悩んで悲しみながらもきちんと向き合って奮闘した
彼女がどう変わっていくかはこの本を読んだ人なら言うまでもありますまい。


灰谷健次郎はわかりやすくやさしい語り口の中に突然ドキッとするような言葉を入れるから怖いものがありますね。
さらっと登場人物に言わせたりしてるので読み飛ばしちゃう人もいるでしょうが、
これは、わかる人だけわかればいいという確信犯的演出なんでしょうか?



「人間は抵抗、つまりレジスタンスが大切ですよ、みなさん。人間が美しくあるために抵抗の精神をわすれてはなりません」

「一人で英雄ぶっとるわけやない。〜中略〜おれだっていつおまえさんたちを裏切るかもわからん。
そういうただの人間や、おれにはおれの歴史がある。歴史が歴史をつくり、歴史が歴史をたしかめる」

読書始めました

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僕と現代史

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

僕が通っていた中学校はゴーストタウンだった。
そこは時代の最先端を先取りするがごとく荒れまくっていたのだ。
一夜のうちに窓ガラスがすべて割られてなくなった木工室、生徒にいじめられ泣いて職員室に帰る担任。
舐められてる先生の授業は立ち歩きや私語が当たり前の様に行なわれ、
笑い声や話し声で先生の声はまったく聞こえない。
少年はいつもの様に一人で教科書を開いて自習を始める。
そして思うのであった。
なぜ、学校で勉強するんだろう?

これは極端な例だが、同じ疑問を抱いた人は少なくないんじゃないだろうか。
することが既に当たり前だから普段は疑問を抱いていなかったが、
このような状況下に置かれると、する価値のあることなのかと自分のなかに疑問が沸き起こった。
いや、それ以前からそんな疑問はとっくに有ったのである。
そんな事を考え出したらやる気がなくなるから、無理やり抑えつけていたに過ぎない。
だって、そういう事を大人に問えば、なぜか怒られるか、説教されるかが常だったのだから。
「そういう事をいうようじゃまだまだだ」とか、「おまえはまだ本当の勉強をわかってない」だとか…。

考える力を養うためだの、将来役に立つからだの、
勉強を通して苦労するためだのといったごまかしを言うのはもうやめようじゃないか。
確かに勉強にはそういう面もある。
しかし、勉強はそもそも楽しいもののはずだ。
学問がつまらないものだったら、偉大な科学者や文芸家は激減しているだろう。
なぜ学校の勉強と学問にこんな矛盾が生じるのか。
それは、学校で教えている勉強は、勉強であって勉強でないからだろう。
つまり、学校で教えてる事が向かう先はあくまで受験勉強であって、本来の学問とは明確に区別すべきものだからだ。
前者は競うためにやらせる勉強であって、本来の学ぶための勉強とはまったく違う。
だから、なぜ学校で勉強するのかという質問には、学歴で他人に勝つためというべきだ。
(勘違いされてはいけないが、受験勉強を批判したいわけではない。競争するための勉強も必要だと思う。)
では、受験勉強と比較して僕が述べている「学ぶための勉強」とはどういうことか?

違いが最もわかりやすいのは歴史だろう。
歴史を学ぶ最も大事な意味は「先人たちが築き上げた経験を自分達のものにする」に尽きると思う。
それによって過去に起こした過ちを回避する事が出来るかもしれないからだ。
歴史は繰り返すという言葉を聞く事があるが(悪い歴史を指す事が多い)、
それは学んでないから繰り返すにすぎない。
実際、どのような時代背景の中、先人たちがどのような目に合い、そこで何を思い、
どのような選択をしたのか、という事を考える作業は非常に楽しい。

僕は学校で教える歴史なんて、人類が生まれてから現在まで馬鹿丁寧にやる必要はないと思う。
そんな事してるから内容が薄くなる。
もっとも大事な時代は、現在に歴史が直結する近代史。
(他の時代は大学とかで好きな奴が研究するだけで充分だと思う。)
それを中心に教えればいいと思うのだが学校では軽視されている。
学問を競争の道具にするのも結構だが、
もう少し役に立つ事を教えるということを学校や教師は考えてもよいのではないか。
今の若者は政治に興味がないとか、勉強しないだとか言う人がいるけど、
これは若者だけの責任じゃないよ。
教えてくれる人がいないんだもの。

自分で本を読もうにも、近代史は範囲が限定されて細かい時代しか差してない本が多い。
世界全体の大きな流れを知りたいと常々思っていたが、なかなか知り得ないジレンマを僕は持っていた。
しかし、非常に素晴らしい本をある日見つけた。
わかりやすく、面白い。
楽しく読書でき、読み終わった後、周りの人達に知ったかぶりをすることができる(重要!)。
お得です。

読書はじめました

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紙の本十五少年漂流記 改版

2003/03/22 18:41

著者が大人である事を忘れてはいけない

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これを読んでまず思ったのは、彼らは少年のくせに実に大人だということである。
未知のものに対する行動は適切かつ慎重。
しかし、必要なときは大胆かつ勇敢に働き、その前提となって支えている思考力も見事である。
大変な生活をしていても遊びの心(ユーモア)を忘れず、少年たちをまとめ上げるリーダーの統率力もすばらしい。
学校に行けないため自分たちで先生や生徒になり自主的に勉強するのには恐れ入った。
もう、一人でも少年が欠けたらすごく大変なのではと思ってしまうくらいなのである。

とてもじゃないが、少年の頃の自分にこういうことができる自信はない。
ないですよ。
しかし、これは僕だけではないのではないだろうか?


もう一度原点に返ってみると、あくまでこれは物語である。
ならば、ここの少年達は著者の理想の少年達なのではないだろうか、という考え方もできる。
では、ここで作者を確認してみよう。

やはり、そうなのである。
著者はジュール・ヴェルヌ。
フランスの誇る冒険小説化である。

欧米は自立、自主性、個性などを非常に重んじ、自分のスタイルを大事にします。
特に、フランス、イギリス、アメリカなどはその色が濃いように思う。
加えていえば、未知のものに対する挑戦に非常に理解が深い。
(日本において、冒険はマイナスのイメージが強い気がする)


ここでもう一つ持ち出したい本がある。
「蝿の王」である。(作者はイギリス人)
あらすじは、無人島に飛行機が不時着して少年達だけが島で生活をするが、
互いにいがみ合って争いあうようになるという内容。

欧米において十五少年の少年達が理想の少年像ならば、
蝿の王はそれと正反対な、しかし現実にありうる一面を持った少年像なのではないだろうか。
反感を受けて、多くの出版者から断られるのもうなずけるのである。
欧米人としては目を背けたくなる人間の深層心理であろう。
僕としては理想も現実も両方知ってたほうがいいと思うけど。

十五少年も蝿の王も、物語の本質は全く違うのに、
少年同士で意見の対立があり、分裂してしまうという共通点があるのは、
自我を重んじて自分の意見はきちんと主張する国に避けられない問題であり、ジレンマなのだろうか。


輝かしい理想と、逃れきれない現実の暗闇。
両者も背景はかなり似ているシチュエーションなのに、そのアプローチの差はなんと遠いことか。

読書はじめました

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戦場の村

2003/03/03 05:26

今のアメリカを見て思う

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

僕らの世代は戦争を全く知らずに生まれ、そして育った。
平和がずっと続く世の中ならそれでかまわないと思う。
しかし自分の身にふりかかる可能性が少しでもある限り、知る努力はすべきだと思う。

戦争をじかに経験した世代が日本でどんどん少なくなってきている以上、
僕らはもっぱらテレビや本などの媒体に頼らざるをえない。
だが、ここで一つ問題が生じてくる。
そういった媒体はとかく宣伝としてのデコレーションがされやすいことだ。
見る側の興味を引くための工夫が多すぎると思う。



報道の場合はセンセーショナルな映像を強調したり、
いたずらに不安をあおってみたり、
理屈で説明させるためにもっともらしい評論家を表に出したりする。
ドラマの場合はとにかく人の感情に訴えるための演出に余念がない。

これらの表現も必要だとは思う。
ある物事を捉え、理解するにはさまざまなものの見方を要すると思うからだ。

しかし、戦争というのはどこか人の領域を越えているもののような気がしてならないのだ。
その問題の根底を見つめるには、他人というフィルターを介した情報ではなく、
なるべく事実を忠実に映したものが必要だと思う。
感情論だけではきっと解決することはないのではないだろうか。



戦争関係の本や映画は結構目を通したが、
そういった意味ですぐれている本で、これは外す事ができないと思う。
都市の一般住民に始まり、農民、山岳民族、漁民、戦場の村、解放群(俗にいうベトコン)と、
あらゆる人の立場を静かに客観的に記しているからだ。
大げさな表現がなく、まっすぐ物事を伝える文章が書いてあるからこそ、
ジャーナリストの使命感が伝わってくるような気がする。
本文の一節を引用。

ベトナム戦争で、非戦闘員の一般民衆が無差別銃爆撃やテロの犠牲になっている、という声が起こって久しい。
「戦争はやめよ」とだけ叫んで、戦争の根源にあるものに眼を向けようとしない声と同様に、
「真の犠牲者は民衆である」とだけ叫んで、米軍も解放軍も、どっちもどっちだ、という態度の声は、
強盗と被害者の格闘を横で見物している傍観者と変わりはないと、基本的に私は思っている。
しかし、戦争の根源を一応別にして、表面的な民衆の犠牲者という点だけとりあげてみても、
果たして本当に「どっちもどっち」だろうか。
どこまで事実を確認し、一次資料を持った上で発言しているのだろうか。
ここで「全調査」と試みたのは、このような疑問を抱いたからであった。
そして、事実の示した結論は、「無差別爆撃」も「無差別テロ」も、
米軍および政府軍によるものが圧倒的に多いこと、解放軍による「無差別」攻撃は、
ないとはいえないにしても、決してわざとやったものではない、過ちによるものであるのに反し、
米軍や政府軍のそれは、明白にわざとやったものが多いこと……などであった。



実際にベトナムは行ってきた事もあるので、ベトナム戦争についてはいろいろ調べたが、
考えさせられる事が多い。
戦争を肯定する気はさらさらないのだが、自分がもしこの時代のベトナムに生まれたら、
武器を手にとってアメリカと戦っていると思う。
理屈も感情も受けつけない、厳しい現実がそこにあるからだ。

そして、今のアフガンやイラクに対するアメリカの姿勢を見るかぎり、
アメリカはベトナムでちっとも学んでいないと思う。
それに追従する我が国は恥ずかしいとも思う。
この件に関する日本の渇いた報道はなんなのだろうか。
そこにジャーナリズムはあるのだろうか。

読書はじめました

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紙の本もの食う人びと

2003/02/08 12:10

食べる楽しみ

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本はエピソードごとの様々な話が集まってできています。
ただし、テーマは食。
食べ物の事を絡めて話は進んでいくのです。
この点が実に素晴らしい。
人間は食べる事を基本としていて、食べ物に関する事は忘れないものなのだと改めて感じます。
著者は様々な味を口にして旅を続けていきます。
残飯の味、刑務所の味、敗者の味、チェルノブイリの味、王様の味、食の恨みの味。

ところで、著者はなぜこのような旅をしようと思いついたのでしょうか。
ほんのちょっとだけ前書きを引用させていただきます。

ただ一つだけ、私は自分に課した。
噛み、しゃぶる音をたぐり、もの食う風景に分け入って、人びとと同じものを、
できるだけ一緒に食べ、かつ飲む事。
不安である。意義もわからない。愚かかもしれない。でもそうしてみたい。なぜだろう。
私は、私の舌と胃袋のありようが気にくわなくなったのだ。長年の飽食に慣れ、わがまま放題で、忘れっぽく、気力に欠け、万事に無感動気味の、
だらりぶら下がった、舌と胃袋。
怖がって縮みあがるだけかもしれない。しかし忘れかけている味を思い出させたいのだ。

この個所を読むたびに、僕は自分を振り返ってしまう。
自分はそうじゃないと言える人がこの国にどれだけいるのだろうか。
安易にそう言える人がいたら、まずは疑ってみたくなる。

僕が海外で得たと思う事の一つに、
素直に「いただきます」が言えるようになったという事がある。
今日も何事もなくご飯を食べる事ができる。
食べるという行為はなんと楽しい事であろうか。
思えばこれを意識する事は今までなかった。
一人暮しを始めてからはさらに顕著だった。

子供の頃に「世の中は食べれない人が(うんぬん)。だから好き嫌いをやめなさい」
と言われたが、そんなもの、わからなかった。
しかし、海を越えるとそういう人がいる。
これで1日もつのだろうか、というような食事でたくましく生きている人達がいる。
彼らを卑下するわけでもなく、自分が優越感に浸るわけでもなく、
純粋に、今まで当たり前だった食うという行為がよい事なのだと知った。
そしてそれから始めて素直に「いただきます」が心から言えるようになったのである。

形式的に「いただきます」をいう事が大事ではないのだ。
たとえ言葉はなくとも食に対する感謝の念が食事の度にあればいいのだ(少なくとも、僕はそう思う)。
しかしそれだけの事が、なんと難しい事であろうか。

読書はじめました

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紙の本海馬 脳は疲れない

2003/02/20 00:40

この本が教えてくれたこと

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

先月の半ば、僕の父が死んだ。
肺ガンからの多発転移性肝臓ガンだった。
享年59歳。
父が死んだその日、僕は煙草をやめた。



葬式では、始めて父の会社の人達と会う機会を得た。
会社の中で父は、みんなに慕われていた人だったらしい。
そうかもしれない。
僕がそう思うのは、父が感情に任せて人を叱るようなことはしない「優しい人」だったからだ。

僕は18歳まで実家に住んでいたが、その間に父に叱られた記憶はほとんどない。
きつい事は決して言わず、何か言わなければないときは、
穏やかでさとすように語るのが常だった。

そうだ。
そういう人だった。
そして僕は父のそういうところが、ずっと嫌だったのだ。



それはどこか彼の優しさが弱さに結びつくよう、僕の目に映ったからだと思う。

無償の優しさを常に受け入れてくれるほど、世の中は甘くできてはいない。
こういう優しさを持つ人ほど、どこかで自分を抑え、我慢している風潮はないだろうか。
どことなく世の中に利用されている人のような気がし、弱く思えてしまうのである。

また、優しさだけで解決しない事も沢山ある。
僕には相手の事を思えば思うほど、厳しいことを言ったり行ったりしなければいけない事が多々あった。
時には人間関係を壊すほどの覚悟が必要な事もある。
自分が傷ついたり、相手を傷つけたりする事は十分に考えられるからだ。

僕にとって「優しさ」とは、厳しさやそれに耐えうる強さを伴ったものだった。



しかし実家を何年も離れ、さらに父が亡くなった事で、
始めて父がものすごく沢山の事を一人で背負っていた事に気がついたのだった。
僕は何も知らなかった。
父は死ぬまでほとんど愚痴をこぼす事もなかった。
一人で背負い、すべてに耐える。
そんな人ははたして「弱い人」だったのだろうか?

「優しい」ということはいったいどういうことなのだろう?
その答えはわからないけども、意外なところにヒントがあった。



この本は脳のしくみについて対談方式で書かれた本だ。
以下はその、「海馬」のあとがきの一節である。

脳をプロセスとして捉え直すと、随分と見通しがよくなる。
経験、学習、成長、老化。人の本質とは「変化」である。
この本でも重視してきた「可塑性」だ。
脳がコンピューターと決定的に異なる点は、外界に反応しながら変容する自発性にある。
だからこそ、プロセス重視の生き方がより人間らしい存在に直結すると、私は自信をもって言える。
問われるものは、結果そのものではなく、そこに至る過程であると。
それは目に見える外的変化だけに限らない。
たとえば、「優しさ」という人の内部情動を考える際にも有用だ。
優しさとは支援、救助、保護といった具体的な結果を指すのではない。
むしろ、他者を思い、労わり、煩うというプロセスこそが「優しさ」の枢要な基幹をなしている。
この点は、愛情や憎悪を含め、人間の云為すべてにおいて同様である。
だからだろうか、私はときおり「人生は映画のようだ」と感じる。
映画の真価は、いかに長いかでも、以下に配役が素晴らしいかでも、
いかに商業的価値があるからでもなく、いかに内容が充実しているかで問われるべきだと思うからである。



そう、優しさに一定の型を無意識に求めていたのがそもそもの間違いだったのだろう。
父の生き方も、僕の哲学もそれぞれ優しいことにかわりはなかったのではないか。
人がいればその数だけプロセスは違うわけで、人の数だけ優しさがあるのだろう。

僕にとって本当の優しさとはなんだろうか。
今後もずっと課題として自分にまとわりつく問いなのだろう。
だから結果よりもプロセスが重要というのも、すごく納得がいくのだった。

読書はじめました

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紙の本鼻・杜子春

2003/02/06 02:24

芥川の哲学

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

芥川作品は他の物語を材料にして作られているのをご存知でしょうか。
杜子春も例外ではなく元々は中国の話だったりします。
しかし、クライマックスの部分は元の話とちょっと違う。
元々は最後の難題にも屈せずに立派な仙人になりました、という話らしいのです。

僕が杜子春を好きなのはこの話に人間の縮図があると思うから。
金持ちになって物欲に埋もれたものの、空っぽの華やかさに嫌気が差して、
杜子春は仙人になる道を選びますね。
現実を見ても欲におぼれたまま一生を終える人がいる一方で、
ストイックに努力して己の能力を高めようとする人達がいますよね。
芸術家なんかその典型です。
芥川作品の「地獄変」はそっち側の葛藤を書いたものでしょうか。

杜氏春には仙人になる余地は始めからありませんでした。
誰もが一流になれるわけではないのです。
結局杜氏春は別の道を選ぶことになるのですが、僕はここに芥川の哲学があるような気がしてなりません。
仙人になるのを諦めた杜氏春はどういう生きかたを選んだのか。
それに対する師の仙人の言葉も印象的ですが、これ以上は実際に読んで確認してください。

確かにストイックになりきって仙人を目指すのも良いでしょう。
しかし、芥川のアレンジが好きなのは、僕がやはり日本人だからこその国民性だからでしょうか。
凡な自分にとって、生き方の指標の一つになっているような気もします。

他にも元の話と芥川の話をいろいろと比較すれば彼の哲学や人間像がなにかと浮かび上がってきそうです。
僕は理系だったのであまり関係なかったですが、
卒論なんかでいろいろ調べてみれば非常に面白そうですね。

「羅生門」といい、「蜘蛛の糸」といい、「トロッコ」といい、
芥川龍之介は人間の心理的な部分をうまくピックアップして一つの話の中に収めるのが非常に上手ですね。

読書はじめました

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紙の本12万円で世界を歩く

2003/07/06 01:44

この本はガイドブックではない。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本は12万円で世界を歩いた著者の旅行記である。
滞在費が12万円なのではない。
往復の飛行機代も含め、2週間くらいで国境を越え大陸を渡っている。
そのすべての経費が12万円なのだ。
まだ格安航空券戦争が白熱する前の話らしいから、そーとーキツイのは容易に想像できた。

さて、僕もかつてふらふら〜と海外を歩いたことがあったが、
そのころ貧乏自慢をする不愉快な旅行者が時々いた。
こういうのは最悪ですよ。
口を開けば、どれだけ安く旅行しているかの話ばかり。
僕がビールを頼んだり寝台の切符を買ったりすると、
「そんな贅沢していいの?」とぬかしくさる。
(いいに決まってんだろが! なぜ、人の行動にそんなつまらぬ茶々をいれるのか。)
一緒に町を歩いてて、なにかと必死に値切りすぎて現地の人を困らせるのは悲しいものがあった。
決して著者はこういうのを推奨してはいないでしょう。

僕からいわせれば、旅に金銭的な余裕はあるに越したことがない。
金がなければ、旅路の選択肢は極端に少なくなるからだ。
食事、交通、宿泊、はすべて安いものに片寄ってしまう。
それ以上に、心理的なプレッシャーがかなり辛いかな。
明日病気で倒れるかもしれない。
パスポートや金銭を落としたり、盗まれたりするかもしれない。
そういう心配の上に金銭の余裕がなかったら、かなり気持ちの面でも余裕のない旅になると思う。
(分散して金銭を持つのは安心感があります)
せっかく自由な旅行をしているのに、実はちっとも自由じゃないのは考え物じゃないだろうか。
安易に憧れてはいかんのですよ。
当たり前の事を言ってると思うのだが、世の中には影響されやすい人が少なくないらしい。

この本は古くなりすぎて(1988〜89の頃の旅)ガイドブックとしては対して役に立たないだろう。
正直な所、文章のほうも淡白であまり旅行記としては面白くなかった。
それより僕がこの本に対して思ったのは、12万でここまでできるのかという事。
まさか、12万でアメリカを一周できるとは。
とてもじゃないが無理だと思うことをやってのける人がここにもいる。
この本はガイドブックや旅行記としての読み物ではなく、
ひょっとしたら、世のあらゆる挑戦者達への応援歌なのではないだろうか。

読書始めました

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