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奈伊里さんのレビュー一覧

投稿者:奈伊里

37 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本チェーホフ小説選

2005/12/25 01:58

チェーホフへの扉。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

■書店に、チェーホフ全集が並ばなくなって久しい。「六号室」「かわいい女」「犬をつれた奥さん」など、後期の傑作は文庫で読める。戯曲の人気は相変わらずで、これもまた文庫で手に入る。文学全集やアンソロジーに所収されているものも探せば数ある。でも、それだけでは短編作家チェーホフの魅力、多面性を味わえないし、とにかく、彼の残したたくさんの宝物が眠ったままでいるのは、あまりに惜しい。
■池田健太郎、神西清、原卓也共訳の中央公論社の全集では短篇が507本読める。筑摩の松下裕個人訳で127 本。どちらも残念ながら古本屋でしかお目にかかれない。だからこそ、この松下訳の「チェーホフ小説選」はありがたい。今、チェーホフの短篇に出会うにはいちばんの近道だろう。編者も、宝物の山から所収の29篇に絞りこむには、ずいぶん迷われたに違いない。
■本の扉を開くと、いろんな人たちと出会うことになる。生まれて、生きて、死んでいく……そんな同じ運命の、読書する「わたし」と同じ、人間たち。
結婚はしても、一生分かりあうことのない男と女がいる(おかかえ猟師)。息子を亡くしてふさぎの虫にとりつかれても、話し相手のいない辻橇屋がいる(ふさぎの虫)。夫より愛する男を夜毎訪ねて自分を埋める女がいる。(アガーフィア)。人生に輝きを与えてくれたたった一人の友人を亡くした男がいれば(聖夜)、息子をみとったばかりの医者は往診を頼まれて小さな亡骸を残し出かけていく(敵)。奉公先の辛さといじめに堪えきれずに、幼い子が配達されない手紙を書く(ワーニカ)。良識ある父親は、息子にタバコをどう言ってやめさせようかと悩み(家庭で)、老人は埋蔵されたままの宝物を語り(幸福)、牧夫は自然の中での定点観察から、人間と世界の終わりを語る(牧笛)。ひと間違いでキスされたことだけで、人生が違って見えてくる青年将校(くちづけ)。自閉して、周囲の変化や規則の逸脱を恐れる男(箱にはいった男)。自分の領地を持つという夢にとりつかれた役人(すぐり)。ある少年は、現実からアメリカへ脱走しようとし(少年たち)、ある少年は、大人への通過儀礼のように、曠野を荷馬車で旅をする(曠野)。自他ともに認める上出来の人生でも、その終焉を孤独と諦観で迎える人もいれば(退屈な話)、失敗の人生に気づいたときにはもう生き直せない、そんな哀しみに暮れる人もいる(ロスチャイルドのヴァイオリン)。
 チェーホフの描いた人間たちは、みんな懸命に生きている。十九世紀ロシアに生きる彼らは、二十一世紀日本に生きるわたしたちとほぼ変わりなく生きている。そして、彼らを見つめるチェーホフの眼は、限りなく優しい。シニカルなペシミストと思われがちな作家だが、それは真っ直ぐに世界を映したからだ。人生というものが、時として優しくないだけのこと。無数の生きる喜びの裏には無数の生きる哀しみがひそんでいるのだ。
■松下氏の翻訳は、平明でとても読みやすい。伝統的に漢語が多くて固いロシア文学翻訳文体から一足飛びに現代語になっている。逆にそこに物足りなさを感じる向きもあるだろうが、まずは読みやすいに越したことはない。それでなくても、ロシア人の長かったり愛称がたくさんあったりする名前だけで、最初はとっつきにくいのだから。
 選り抜かれた短篇たちは、執筆順に並んでいる。20歳でデビューした彼の25歳の作品「おかかえ猟師」からではあるが、頭から読んでいけば、作家の変化も十分に感じ取れるだろう。「六号室」「中二階のある部屋」や「谷間」などの有名な作品の世界も、作家の足跡を追うことで、新しい光を放つかもしれない。そして、もしかしたら、もっとたくさんのチェーホフに出会いたくなる。……是非、出会ってください。今だからこそ輝きを持つ作品が、たくさん眠っています。

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紙の本神も仏もありませぬ

2012/08/10 03:01

老いてみるのも、いいんじゃないか。〜怖れや不安を払拭してくれる逞しいことばたち。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

洋子さんは、60歳を過ぎて、群馬の山の中に女ひとりで暮らしている。結婚していたこともあるが、今はひとりだ。80代後半の痴呆の母がいるが、老人ホームに預けて今はひとりだ。

鏡の中の崩壊しつつある自分の容姿を眺めて「ウッソー、これ、わたし?」とペテンにでもかかったように思っている洋子さん。
物忘れがひどくなり、仕事への集中力も薄れ、退化していく肉体を悲哀とともに受容する一方、、母の看護生活で焼き付いた痴呆への恐怖が内臓のおさまっている暗い場所の底に住み着いているという洋子さん。
10代の時は、人間は40を過ぎれば大人というものになり、世の中をすべて了解するものだと思っていたのに、実際は幾つになっても人は惑い続けるのだということに仰天して暮らしている洋子さん。

このエッセイは、自分が老人になるなんて思ってもみなかった洋子さんが、60代の初老の女となった自分と驚きを持って暮らす、日々の記録だ。そしてその記録の、なんと真っ当で、なんと人間的で、なんと生きる喜びに溢れていることか!


わたし自身、すでに不惑に達しながら、惑いに惑って暮らしている。それでも、未来と自分自身がすべての価値基準だった思考回路は閉ざされつつあり、その代わり、いよいよ老いること死ぬことが、現実的な不安となって自分に組み込まれている。
夜中、自分のやり直せない時間と死に向かう時間に押しつぶされそうになって、声にならない叫び声をあげたり、寒い夜にひとり寂しい道を歩いていて、「ああ、わたしは斯様にひとりなのだ」と絶望的な孤独感に陥ったり、とにかく、日常に暗い落とし穴が、ぽっかりぽっかり口を開けているんである。
それでも、陽が昇ったり沈んだりの美しさに日々心を奪われるし、それを眺める気持ちは幼い頃から変わっておらず、歳を取るってことは一体なんなんだ、わたしって誰なんだ、と首を傾げつつ生きているんである。そして、不惑を過ぎても何者でもない自分に呆れ、死ぬなんてまだまだとんでもないよ、と、怯えているんである。

洋子さんの文章は、そんなわたしの恐怖や疑問を、ひとつひとつ、「誰だってそうなんじゃないの? わたしだってそうよ」と笑い飛ばしてくれる。誰だって、10代の頃は60代の自分なんて想像できない。誰もが、その年齢に達して、はじめてその年齢の自分と出会い、折り合いをつけながら生きていく。なんだ、歳を取ることは、ちょっと面白そうじゃないかと、老いてみるのもいいじゃないかと、そう思えてくる。

『いつ死ぬかわからぬが、今は生きている。生きているうちは、生きていくより外はない。……いつ死んでもい。でも、今日でなくてもいいと思って生きるのかなあ。』と言う洋子さんの日常は、驚きや感動や歓びや感謝に溢れていて美しい。

読んでいるわたしの中にも、世界への愛情やら生きていく元気だのが、ふつふつと湧いてくる。人生の先輩の声を聴く歓び、ここにあり。

洋子さんを知ったのは、著書「100万回生きたねこ」。そして、谷川俊太郎氏との共著「女に」で、その結婚を知った。そして今、洋子さんはひとり、山の中、そこで知り合った素敵な友人たちと時間を分け合いながら暮らしている。


ともに生きるのが喜びだから/ともに老いるのも喜びだ/ともに老いるのが喜びなら/ともに死ぬのも喜びだろう/その幸運に恵まれぬかもしれないという不安に/夜ごと責めさいなまれながらも

男であり、詩人である谷川氏の詩情を笑い飛ばしてしまうほどのたくましさ、現実的な力が、このエッセイにはある。いやはやかっこいい。出会えてよかった、洋子さんのことばたちに。

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溢れることば。「詩」。そして、それを枯らしたもの。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 竹内浩三は、23歳のときに、フィリピン、ルソン島で戦死。誰も見届ける者のない死であった。この全作品集には、小学校時代からの様々な彼の書き遺したことばが収録されている。走り書きやいたずら書きのようなもの、詩あるいは小説といった作品の形になったもの。漫画や、日記、手紙の数々。
 こんなにもことばに溢れた青春を、わたしは知らない。
 ノートに手帖に、原稿用紙に、本の余白に、饅頭の包み紙に、ほとばしるように書き付けられた、ことば、ことば、ことば。
 綴られた文字に書き直しはほとんどない。推敲の跡が見えない。彼の心に何かが興ると、同時にそれはことばとなり、同時に文字になっている。文字は彼の心の写しだ。そしてその写しが、今を生きるわたしを、ドキドキさせワクワクさせ、驚かせ、感動させる。わたしは「詩」に出会う。
 教室で、青空の下で、汚れた下宿で、兵舎の寝床で、書き続けられたことばは、美しかったり、おっかしかったり、痛ましかったり、青春のすべての写しになっている。それら膨大なことばを一つ一つ追いかけているうち、次第に胸がつまってくる。
 こんな素晴らしいことばの泉を枯らしてしまったものを改めて恨む。

 小学校中学年から漫画回覧雑誌を作り始めるものの、ちょっとした風刺記事がもとで、1年の発行停止。それでも次から次へと発行する。中学時代には謹慎処分をくらうことにもなるが、それは面白おかしい日記になる。日大専門部映画科に進学しての東京暮らし。酒と煙草と珈琲と。文学と映画と音楽と。そこではいつも金欠に泣き、父母を失ってから献身的に自分を支えてくれる姉に、無心する。年相応にだめな自分と対峙して、またことばが溢れる。恋をしたら人並みに自らの不可解な心の作用に戸惑い、「おれ自身よりも、お前が好きだ」なんて口説き文句を口にする。出征の日は、チャイコフスキーの「悲愴」を背中を丸めて聴き、外で待つ見送りの人に「最終楽章まで聴かせてくれ」と頼みこむ。陸軍の筑波飛行場では、軍事演習に明け暮れる中、「筑波日記」を書き続けた。回れ右はワルツでも踊っているようで楽しい気さえしたと書いていたり、演習中にラジオから流れるメンデルスゾーンに聞き惚れ、風呂からあがってカルピスを飲んだように、甘い音が体に心地よくしみこんだと書いていたり……。これは、「ソノトキ、ソノヨウニ考エ、ソノヨウニ感ジタ」ことを書き留めた日常の記録なのだ。検閲を逃れるために、この日記は、宮沢賢治の詩集をくり抜いた中に埋め込まれて、姉の元に届けられた。そのことばの泉が枯れる時にも、誰も読むことは出来ないが、きっと、懐に、鉛筆と文字に溢れた紙があったに違いない。

 「骨のうたう」の中で、戻ってきた白い箱の中の白い骨がうたう。「帰ってはきましたけれど 故国の人のよそよそしさや……骨は骨 骨を愛する人もなし……なれど 骨はききたかった がらがらどんどんと絶大なる愛情のひびきをききたかった……故国は発展にいそがしかった 女は化粧にいそがしかった ああ戦死やあわれ……国のため 大君のため 死んでしまうや その心や」
 萩原朔太郎の詩集の目次には、こんな草稿が走り書きされていた。「戦争は悪の豪華版である 戦争しなくとも、建設はできる」これは「戦争」「悪」「戦争」「建設」のところを伏せ字にして、自ら発行する文芸誌に載せたものだった。
 彼は、見通していた。
 この人が生き続けていたら、いったいどんな作品をわたしたちに届けてくれたのだろうと、どうしてもそう考える。彼はこう書いている。「生まれてきたから、死ぬまで生きてやるのだ。ただそれだけだ」。彼の時間は、奪われた。

 高価な本だが、多くの人に読んでほしい。また、この本を知らない人、買えない人のために、全国の図書館に置かれるようにと願う。

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はせがわくんきらいや

2003/07/27 01:09

この絵本が復刊したことを、心から喜ぶ。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「ぼくは、はせがわくんが、きらいです。はせがわくんといたら、おもしろくないです。なにしてもへたやし、かっこわるいです。はなたらすし、はあ、がたがたやし、てえとあしひょろひょろやし、めえどこむいとんかわからん。」

長谷川くんは、みんなとちょっと違う。
山登りしても10分でへばってしまうし、野球をしたら三振ばっかりだし、手も足もひょろひょろだし、「ぼく」は「なんであんなにめちゃくちゃなんや」と思う。

だから長谷川くんのお母さんに聞いてみる。

すると長谷川くんのお母さんは答える。

「あの子は、赤ちゃんの時、ヒ素という毒のはいったミルクのんだの。それから、体こわしてしもたのよ。」
そして。
「あの子と仲ようしてやってね。」と、お母さんに頼まれる。

だから、
「ぼく」は仲良くするのだけれど、
やっぱりなんだか足手まとい。やっぱりちょっとかっこ悪い。情けない。めんどうくさい。一緒にいて楽しくない。
でも、ぼくは一緒に遊ぶ。ともだちだから。

ぼくは長谷川くんと遊びながら思う。
「長谷川くん、もっと早うに走ってみいな。長谷川くん、泣かんときいな。長谷川くん、わろうてみいな。長谷川くん、もっと太りいな。長谷川くん、ごはんぎょうさん食べようか。長谷川くん、だいじょうぶか。長谷川くん。」

***

紙の上にぐいぐいと墨をのっけた、大胆な描き方。活発な「ぼく」たちを描く線も、体の弱い長谷川くんを描く線も、太くって勢いがあって、どちらも子供の生きる力を感じさせる。描線は強者にも弱者にも平等だ。
ただ、片方はいつも子供らしい元気に溢れている。
ただ、片方はいつも、涙をぽろぽろこぼして、子供らしい元気から見放されている。

作者の長谷川さんと、わたしは同郷だ。文中に出てくる山の麓で育った。幾らか遅れて。もしかしたら、おんなじ小学校だったのかもしれない。
その頃、小学校では同和教育っていう時間があって、近くの朝鮮学校に通う子のこととか、部落の子のこととか、校舎のいちばん端っこにあった特殊学級の子のこととか、色々、自分たちとちょっと違う子たちの話を聞かされて、差別はいけませんって教えられた。
でも。もちろん、優しくしてあげなさいって言われたから、優しくできるわけじゃない。友達だと思うから、いろいろとしてあげられた。友達だと思うから一緒に遊んだ。でも、やっぱり、ちょっとした違いでいらいらした。友達でいるのがめんどうくさくなった。でもやっぱり友達だから我慢した。そしてやっぱり、友達でいてよかったと思うことがいっぱいあった。
そんな記憶が蘇る。「子供だっていろいろ大変なんだよ!」って思っていた時分の、あれやこれやを思い出す。

なつかしい響き、「ぼく」の播州弁が、耳から離れない。
「長谷川くんといっしょにおったら、しんどうてかなわんわ」
「長谷川くんなんかきらいや。大だいだいだいだあいきらい。」
何度も何度もきらいやと繰り返しながら、「ぼく」は泣いてる長谷川くんをおぶってあげている。いつも泣いてる長谷川くんなのに、「ぼく」の描いた絵の中では笑っている。

森永ヒ素ミルクのことを伝えることだけが問題なんじゃない。

どうしても涙のとまらない子供がいるってこと。
みんな自分と同じではないってこと。
友達だって、嫌になったり面倒になったりすることがあるってこと。
でも、助けてあげたくなったりするってこと。
心に思ってることと違うことをしてしまうことがあるってこと。
いろいろ、いろいろ、大変だってこと。

そういうことを、子供たちに伝えてあげてほしい。お母さんたちにお願いしたくなる。
この絵本を、子供たちに読んで聞かせてあげてほしい。

絶版だったこの絵本、復刊ドットコムでたくさんの人に要望され、こうしてまた読むことができるようになったそうだ。
世の中捨てたもんじゃない。ほんと、捨てたもんじゃない。

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紙の本大どろぼうホッツェンプロッツ 改訂

2012/08/10 21:48

子どもの頃のわくわくの素。上質なものがたりは、一生の宝物。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

小学校3年生の男の子に本を贈ることになり、何年かぶりに児童書コーナーに立ち寄って、わくわくするものに再会した。
「大どろぼうホッツェンプロッツ」がそのわくわくの素。小学校の頃、わたしの本棚のいちばん目立つところに、6年間も君臨していた本だ。

手に取ると、見覚えのある表紙。
垣根越しに獲物をうかがう大どろぼうホッツェンプロッツの顔は、見たこともない大きなかぎ鼻を境に、なぜか二色に塗り分けられ。頭には羽根飾りのついた赤い帽子。あごにも頬にも、いばらのような髭がぼうぼうと生えており……。
そうそう、これだこれだ、と、わたしはそれだけで嬉しくなる。子供の頃に出会った本って、そういうもの。
なんたって、脳の皺がひとつひとつ失せ、細胞がひとつひとつプチンプチンと弾けてなくなっていくような歳になっても、このホッツェンプロッツという名前だけは忘れたことがなかったのだ!

迷わずプレゼント用と自分用、二冊を購入。さあ、懐かしい本を開いてみると。

そうそう、ホッツェンプロッツに盗られてしまったのは、カスパールとゼッペルが自分たちでおばあさんのためにこしらえた、コーヒーミルだった。
砂をつめた木箱を宝物と思いこんでねぐらへ急ぐ大どろぼうは、自ら砂の足跡を残していく。頭のいいカスパールの作戦は大成功。
毎日必ずトレードマークの帽子をかぶっている二人は、変装のつもりで帽子を取り替えて大どろぼうの足跡をたどっていく。小さなわたしは、「そんなんじゃあ、ばれちゃうよ!」とひやひやしたものだけれど、そこが物語の魔法の力。取り替えっこした帽子が、大どろぼうホッツェンプロッツと大魔法使いペトロジリウス=ツワッケルマンをやっつけるための、大事な大事な役割を果たすのだった。

一気に読み通して、面白いなあと感じ入ったことがある。
自分の気に入ったところは、挿絵も、使ってあることばも、信じられないくらい鮮やかに覚えているのに、興味のないものは、まったくと言っていいほど覚えていなかったのだ。

ホッツェンプロッツが、捕らえたカスパールを袋詰めにして訪れる魔法使いの館。その部屋の中は本でいっぱいで、壁紙やら机やらには、いくつもの目がついていて、骸骨だの、鰐だのが飾ってあって……と、ページをめくる前に、もうその恐ろしい内装が見えている。
また。
かわいそうなカスパールは、魔法使いの地下室で、一日中、ただっただじゃがいもの皮をむかされる。ここのところの展開と挿絵がわたしはひどくお気に入りで、幼い頃から現在に至るまで、何か単純作業を延々やるはめになると、「まるでホッツェンプロッツにつかまった少年のよう……」と我が身を嘆いたものだ。
そして、逆に。
事件が解決に向かう鍵を握る世にも美しい妖精は、登場していたことさえ覚えていなかった。魔法使いの意地悪でカエルに変えられたこの妖精の力を借りて、カスパールは館を逃げ出すことができる……まさにキーパーソンなのに!

そうか、わたしはきれいなお姫様に興味のない女の子だったのかもしれないな、と、おかしくなってくる。
さて。プレゼントした小3の男の子は、この本のどこが好きになるだろう?

冒険と、知恵と、友情と。おっかないどろぼうと、魔法使いと、世にも美しい妖精と。
作戦は成功したり失敗したり。ひやひやして見守って、どきどきして追いかけて、偉大なる運命の力と、笑っちゃうような偶然の力で、めでたしめでたしにたどり着く。
たぶん、ハリー・ポッターに出会う前の、それくらいの子どもたちにぴったりなお話。
きっと、子どもたちが大人になるまで、ずっと心に住み続けるお話。

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紙の本巡礼者たち

2003/06/10 04:53

甘く苦い過去。甘く苦い未来。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「デニー・ブラウン(十五歳)の知らなかったこと」という短編がある。

 タイトルが示すように、デニー・ブラウン(十五歳)が知らなかったことを知っていくお話だ。といっても、知っていくのは、深遠なことでもなんでもない。
 昨日は知らなかった数学の公式を、今日は知っている、今日習ったから。その程度のこと。昨日は知らなかった彼女のことを、今日は知っている、今日はじめて彼女が話しかけてきたから。その程度のこと。
 でも、「その程度のこと」の積み重ねが、たくさんのたくさんの、喜怒哀楽をつれてくる。「その程度のこと」の積み重ねが青春だったって、極言しちゃってもいいくらいだ。
 そして、「その程度のこと」が毎日毎日訪れたあの頃のことを、懐かしく思い出す時期が、誰にもやってくる。
 デニー・ブラウン(十五歳)が、知らなかったことを知っていく小さな物語につきあうことは、見知らぬ自分や見知らぬ世界と懸命に対峙しようともがいていた自分を、思い出すことでもある。ああ、こうして書いているだけで、デニー・ブラウン(十五歳)の知っていくことを思い出して、わたしは甘酸っぱい郷愁に満たされてしまう。

++++++

「最高の妻」という短編がある。

 こちらの主人公は、七十歳に手が届かんとするローズおばあさん。心臓発作で夫を失い、一人で暮らしている。
 ローズは幼稚園の運転手という職を得る。
 ガソリンスタンドの前であの子を乗せて、次の角であの子を乗せて、と、もうすっかり手順は決まっている。でも、その朝は、いつものところにいつもの子たちが待ってはいなかった。代わりに待っていて、乗り込んできたのは、たくさんの老人男性たち。実はこの人たち、みんなかつてローズと関係を結んだ男たちだった。
 ローズは今でこそおばあさんだが、昔は十六歳で妊娠五ヶ月のとき、南テキサス美人コンテストで優勝するような(!)、ピンナップガール顔負けのナイスガールだった。
 乗り込んできた老紳士たちは、小さな座席に座って、それぞれ「ああ、あのときローズを孕ませたのはあんただったのか!」ってな具合に自己紹介なんかを始める。ローズは運転しながら、「その時その時いちばん好きだった男たち」が賑やかに話すのを幸せな心持ちで聞いている。
 そして、最後に乗ってきたのは…… そして、彼らを乗せたローズが見たものは……
 
 もうこれは、わたしにとって夢の物語だ。
 誰かを愛して、誰かに愛されて、その繰り返し。そこにはもちろん痛みや悔いがつきまとう。でも、最後には「いいじゃないの、愛したし、愛されたし、素敵なことじゃないの!」と、すべてが祝福される。祝福できる。
 こんなお話、めったに出会えない。

++++++

 この短編集には、こういう甘くて苦い過去、甘くて苦い未来が詰まっている。作者が世界に人間に向ける視線は、いずれにしろ、愛情に満ちている。

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甘えなき、家族の肖像。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「地雷を踏んだらサヨウナラ」ということばを残し、26歳でこの世を去ったカメラマン一ノ瀬泰造。彼の残した写真や手紙は同名の本で広く知られているが、本書は彼だけの作品ではない。これは、息子と、その両親の合作だ。彼を産み、育て、見守り、見届け、送り、そしてさらには息子の生に再び命を吹き込もうとする一夫婦の、ひたむきな記録。彼らをつないだたくさんのフィルムの記憶。

1973年末カンボジアで消息を絶ったまま生死は未確認であった息子の、遺体を確認する日が、両親にやってくる。1982年、それが撮れたら死んでもいいと泰造が語っていたアンコールワットの近く、プラダック村で、両親は骨となった彼に再会。二人は、息子の、泥にまみれた頭蓋骨を近くの川で、まるで初湯をつかわせるように洗ってやる。

その哀しみを糧に、短い人生を生き抜いた息子の確かな生を糧に、自宅にしつらえた暗室で夫婦の共同作業が続いていく。遺されたフィルムを焼き付けていく。息子の足跡を辿っていく。「絵本のような写真集を作りたいネ」と言い合い言い合い続ける作業の「緒」にもつかぬうち、夫は先に逝ってしまうが、妻は様々な励ましをバネに、一人で暗室作業を続けていく。
巻末の「暗室日記」は、力強く、静謐なエネルギーに溢れた記録だ。

そして、この写真集はできあがった。見届けるのは母一人だが、写真という媒体を通して、甘えのない、寄り合わない、家族3人の時間が息づいている。
 
泰造は一人戦場に出かけていき、飽くまでフリーランスとして、従軍しながら、一人で、現場で、写真を覚えた。写真を撮らない日が4日も続くと不安を覚えるし、自らも負傷した手痛い攻撃が終われば、あんな取材二度とできないのではと悔しがる。ファインダーをのぞいてりゃおそろしいことはないと、どんどん被写体に近づいて撮る。それが泰造流。望遠でひいて撮るなんてことに満足できない。とにかく、寄る、寄る、寄って広角で撮る。TTLを使うのはすぐにやめ、露出は瞬時に経験値で決めていく。被写体が目の前にあれば、平気で敵に背を向ける。

「好きな仕事に命を賭けるシアワセな息子が死んでも悲しむこよないョ、母さん」と書いてよこす息子に、母は恐ろしさで胸の騒ぐ自分が情けないと伝える。看病してあげることが出来なくて残念だと言いつつ、帰ってほしいと願うことはない。無類の女好きを自称する息子に、タムシチンキを送ってやる。
母は、山ほどの不安をかいま見せず、驚くほど果敢に息子を送り出している。母は息子に甘えない。「暗室日記」でしばしば彼女の作業を中断する目の痛みは、泰造が生きていた頃からのものだ。自分に、息子という他人に、甘えない姿勢が、母の人生を貫いている。

自らも二次大戦時から写真を撮っていた父は、言葉少なに息子を見守る。書かれた手紙も、なんら息子の行動を規制しない。ただ、誇りを持って見守っている。その姿勢が、結局は自分で選び取るしかないのだという教えになっている。

両親より先に死ぬことがいちばんの親不孝だとよく言われる。でも、この両親は、そのことを訴えない。息子の短い人生、息子の青春を誇りに思い、それを支えにして生きている。そういう息子の行動を許容したのは自分たちなのだから、息子の死をも、責任持って背負って生きていく。その証が、この写真集だ。

現在と何ら変わりのない、痛ましい戦場。戦時下にあっても営々と続く人々の生活。
切り取られた写真の中には、それら被写体に寄っていく泰造の姿も見える。一枚一枚焼き付けていった両親の姿も見える。

類を見ない、甘えなき家族の肖像が、そこにある。

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知らされることのなかった、チェチェンの実際。

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日本人の間でチェチェンと言えば、テロリストの温床のようなイメージを持つ人がいるほど、その状況が知られていない。歴史と強者に翻弄されてきた小さな民族の運命と、その抵抗の歴史を、本書は浮き彫りにしてくれる。

筆者は二人。
1995年から15回にわたって現地取材を続けているジャーナリスト、林克明氏。
インターネットで「チェチェン総合情報」というサイトを運営し、Eメールで「チェチェンニュース」を発行している大富亮氏。

まずは戦争の歴史が語られる。19世紀のカフカス戦争、スターリンによる民族の強制移住、1991年のソビエト連邦解体に伴う独立運動を契機とする第一次チェチェン戦争、そして、現在に至る1999年からの第二次チェチェン戦争。
おおまかな知識を得た上で、読者は、延々と続くロシア軍による拷問、虐殺、処刑の実態を知らされる。そして、空爆や派兵の契機となってきたチェチェン人によるテロが語られる。しかし、そのテロの実際は、わたしたちがロシアを通した報道で知っているものと少しずつ食い違ったりしている。
そう、著者が伝えようとしているのは、あまりにも知らされることのなかった、チェチェンから見た、チェチェンとロシアの実際なのだ。

2002年10月23日、モスクワで劇場占拠事件が起こった。
人質の死者129名、武装ゲリラの死者41名。
ロシア特殊部隊の強行突入で事件は終結したものの、129名のうちの123名は、突入の際に解毒剤の準備なく使用した特殊ガスによる死亡なのである。

偶然、事件前日からモスクワを訪れていたわたしは、発端から終結まで、ことばがほとんど分からないままにテレビニュースを見続けた。インターネットで情報を得ては、繰り返される映像に見入った。そして、その報道から受けた印象に、長らく疑問を持ち続けることになる。
客席に散在するテロリストの死体。その多くが、ロシア軍によって夫や子どもを奪われた一般市民女性だ。腹に爆弾を巻き付けたまま無惨な姿をさらす彼女たちの映像が、「制裁を受けた悪」として、日がな一日流れ続けた。
その一方で、病院を訪ねたプーチン大統領と、生き残った人質たちの感謝を湛えた表情が「勝利」の証として流れ続けた。……報道は、事実を知らせる為のものではなかった。

わたしはこの本に出会って、ようやく事件を知ることができた。

***

本書は、チェチェンから見た実際を知らせてくれた。そしてその実際は、ロシアの実際ももっとリアルに知りたいという思いを導く。プーチン政権について、ロシア市民の対チェチェン人感情について。ロシア市民の日常的な脅威である、テロについて。

戦争もテロも、他人事ではすまなくなった今、わたしたちは正しい意見を持つために、動かないものを動かしていくために、少しでも多くのことを「知る」ことを求められているのだろう。偏らない、広い見地で。ジャーナリズムに翻弄されず、自分自身で情報を選び取るための知識を持つということ。

これからの日本とこれからの世界を考える人たちに、是非読んでほしい一冊だ。

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紙の本疾走

2003/08/31 16:10

破滅への疾走の軌跡。〜こうして少年の軌道はずれていった。

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 「疾走」は2000年7月から2002年の7月まで、2年にわたって、「KADOKAWAミステリ」に連載されたものだ。
 2000年の春から夏と言えば、佐賀県17歳少年のバスジャック事件、豊橋市17歳少年の老女殺人事件(人を殺して見たかった殺人)などの事件が続き、少年犯罪はマスコミの格好のネタになっていた。そして、酒鬼薔薇聖斗事件以来懸案となっていた少年法が、その秋には改正されている。
 多くの作家が、少年犯罪を描いてきた。様々な切り口で。その中で、この重松氏の作品が他作と一線を画すのは、犯罪を描くのではなく、「そのようにしか生きられなかった」少年の短い人生の、営為の、精密な記録として描くという視点だ。

 一人の少年が。生来の傷もなく、ごく当たり前に生を受けた少年が。
 環境や取り巻く人間など様々な因子の絡まり合いの中を疾走するようにたどり着くところは、いじめ、自棄、殺人、逃亡、セックスへの耽溺、放火、帰結としての自殺という、どうしようもない破滅。
 現実の事件が起こるたび、家庭環境が、教育のシステムが、性格が、地域の環境が、少年法がと、識者は語る。それが、なにほどのことかと、重松氏は、主人公の破滅の軌跡を丹念に描いていく。「そうでしかありえなかった」人生の悲劇の因子をひとつひとつ描いていく。
 
 舞台は、岡山県辺りと思われる、干拓地地域。もとよりの住人たちと、干拓地に移り住んできた住人たちの間には、深い溝があり、それは、重要な因子として、主人公シュウジを取り巻く人間関係に影を落としている。とともに、地表をいたずらに増やした、その足下の覚束ない土地は、全編を通じて彼の人生のメタファーにもなっているように思われる。

 そして、シュウジの道を歪めていくことに荷担した、人間という因子。
……幼い彼の前で、社会からドロップアウトしつつ世を嘲笑しつつ犬死にした鬼ケン。その情婦であり彼の短い人生のセックスシンボルとなるアカネ。優等生であった自分が落ちこぼれていくことを認められずに、壊れていく兄シュウイチ。崩壊していく家庭をいとも簡単に捨てた父。残された家族を守りきれないで安易な救いに手を伸ばす母。狡く弱い人間の基本形を幼くして晒す友人、徹夫。殺すことでしか乗り越えられない悪の権化、新田。そして、お互いの背中の見えない場所を走りながらも、破滅への伴走者であったエリ。

 それらの恵まれない因子の中を、誠実に、ありうる限りの真剣さで考え抜いて、感じ抜いて、シュウジが選び取っていくものは、わずかなずれを生じ、わずかな間違いを生じ、そのたくさんの「わずか」が、修正不可能な軌道のずれを呼び、最後には脱輪して道を失う。読者は、ただただ息を詰めて、その営為を追い続けるしかない。

 わたしは、この物語を読み終えたあと、重松氏の仕事に共感を覚えるのと同時に、説明しがたい不愉快さに襲われ続けた。わたしは何にひっかかっているのだろうと、再読した。そして、この作品を語る存在に思い至る。
 シュウジを「おまえ」と呼び、その人生を回想する存在。作品の最後に、その正体が明かされる人物。
 人生の苦しみを知り、痛みを知り、静かにシュウジの隣に存在し続け、聖書のことばを与える彼が、わたしは許せなかったのだ。何の救いにもならない「ことば」を与え、自分の逃げる人生を正当化しているように思えて。シュウジを破滅に導く「穴ぼこのように暗い目」に出会わせてしまった彼に、善人面してシュウジを導く資格はない。
 だから、ある読者にとっては、悲惨な物語の最後にほの見える希望と映るかもしれないラストが、わたしには、実に後味の悪いものになった。
 ほかの読者は、この語り手をどう思われただろうか。そこが、この作品の評価を分けるのではないかと、わたしは思っている。

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紙の本シカゴ育ち

2003/07/23 19:16

スチュアート・ダイベック再発見。

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10代の頃。地球儀と翻訳小説から、わたしはまだ見ぬ海の向こうの街を思い描いた。ロンドン、パリ、ペテルブルグ、ベルリン、ニューヨーク……長じてから実際に訪れてみるようになり、その相違を楽しむことを覚えたが、多くの場合、物語の描写を通じて、わたしはまったく架空の街を作り上げていた。

本書で描かれるのは、ダイベックのシカゴだ。わたしはシカゴを訪れたことはない。でも、たぶん、きっとそうだ。時に色濃く、時に淡い影のように像を結ぶのは、ダイベックの中のシカゴ。

様々な人種が風に吹かれるようにやってきては、住み着く街。いつか逃げ出す街。いつか追い出される街。骨を埋める街。古い人と新しい人が入り混じった街。様々な言語があちこちから聞こえてくる街。
行き交うポンコツ車、母親の叱正、子供達の嬌声、物売りの声、草野球の声、家々からこぼれるロックンロール、ポルカ、ジャズ……煙のように漂い、混じり合う喧噪。
雑多な人種の上に等しく陽は降り注ぐが、程度の差こそあれ、裕福な者は少ない。
夢が生まれる街。夢が死んでいく街。
Windy City……風吹く街の、そこここに生まれる吹きだまりから、物語が始まる。

放浪の末、ひづめと化した足を毎晩湯につける老人。父親の分からない子を孕んだ女の弾くショパンがアパートの天井越しに聞こえる。湯気の中で、耳を傾ける少年。(「冬のショパン」)
あまり何度もボールが戻ってこないので様子を見にいったら死んでいた右翼手の少年。その死因を推察し、埋葬する少年たち。(「右翼手の死」)
公認荒廃地域と認定された街を、闊歩し、疾走する少年たちの夢と諦観。(「荒廃地域」)
遅かれ早かれ、すべての不眠症患者が行きつく、終夜営業の食堂。孤独と絶望の夜を彷徨する様々な幻影たち。(「夜鷹(ナイトホークス)」)
襲われて湖に浮かんだ娘の死体を、氷の塊に入れて冷凍する父。刑務所の前を毎夜散歩し、中にいる兄に呼びかける少年。(「熱い氷」)

ダイベックのシカゴでは。誰もが皆、在るべき日常を暮らし、誰もが皆、少しずつ何かをあきらめている。
輝かしい青春は、そのただ中にありながら翳りの時を予感する。
人生は、心ふるわす喜びに満ちている時にあっても、ちょっと空しい。
夏の眩しい陽の下では、プールあがりのような倦怠感が街を包み、冬にはかじかんだ心が暖を求めてさまよい歩く。

「シカゴ育ち」の翻訳出版は1992年。
10年前に読み流したまま忘れていた物語を再発見させてくれたのは、翻訳者柴田元幸氏が本書に寄せる愛情だった(「村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ」三浦雅士著で紹介されている)。

全体を読み通して、連作短篇としての感慨が深い本書だが、わたしは「右翼手の死」という短篇が読めただけでも嬉しかった。
「フィールド・オブ・ドリームス」と「禁じられた遊び」と「スタンド・バイ・ミー」を足して割ってギューッと縮めたものを、さらにアイロニカルにさらにシニカルにして、ホワイト・ソックスとカブスの街に放り込んだ感じ。哀しく、甘酸っぱい、草野球の原っぱを吹き抜ける風。
わたしが短篇小説作家だったら……こんな作品がひとつ書けたら、筆を折ってもいいと思ってしまうかもしれないな。

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紙の本アレクセイと泉

2003/07/14 20:29

奇跡の泉。こんなにも美しい水。

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1984年4月26日、旧ソ連(現ウクライナ共和国)チェルノブイリ原子力発電所で大爆発が起こった。この写真集の舞台ベラルーシ共和国ブジシチェ村も被災し、600人が暮らしていた村からは人々の立ち退きが続き、今や55人の老人と一人の若者アレクセイを残すだけになった。
でも、彼ら56人は、なぜ立ち退かないのだろう? 
学校跡からも、畑からも、森からも、採集されるキノコからも放射能が検出されているというのに……。

この村の中心には、ひとつの「泉」がある。
飲み水、料理用水、洗濯用水、植物や家畜を育てれば、聖水代わりにもなり、あらゆる用途で村人を支えてきたこの泉だけは、何度測定しても、なぜか放射能が検出されないのだ。
村に残った老人たちはこの泉を「100年の泉」と呼ぶ。大地に降り注いだ天水が100年の時を経て湧きだしているのだから、汚染されていないのは当たり前だと彼らは語る。
でも、なぜ? たとえ汚染以前の水だとしても、屋根のない質素な泉には、雨も雪も混じるというのに……。

たった一人残った若者アレクセイは言う。
「僕はどこへも行かなかった。村からどこへも……。もしかしたら、泉が僕を村にとどまらせたのかもしれない。泉の水が僕のなかに流れ、僕を支えている」
老人は、村に残った理由をこう話す。
「いのちとともに借りた泉の水を、この地に還したいから」

この奇跡の泉に出会った本橋氏によって、村人たちの生活と泉が、静謐な白黒写真の中におさめられた。写真たちは、言葉少なに、彼らの暮らしに寄り添う。
朝が来れば、泉から水をくむ。昼は労働する。食事をして、夫婦は寄り添い、語り合い、夜が訪れれば眠る。
暖かい季節は短く、一年分の作物を急ぎ足で育て、収穫する。
長い冬は厳しく、寒いときは寒さをこらえて過ごす。
祭りには歌い、集まればウォッカを飲みかわす。
自然にも、時間にも、老いにも、何にも逆らわない、地に足のついた人間の暮らし。
写しとられた人々の顔は心を悩ますことなど何もないように穏やかだ。

***

泉の水は、地表に下り大地に浸透してからどれだけの時間を経て湧き出ているのだろう? 老人たちが言うように、100年だろうか? それとも、老人たちの言う100年は、自分たちの人生も追いつかない長い長い時間、という意味なのだろうか?
長きに渡って大地の深みにとどまり、静止にも見えるゆるやかな旅をする内、濾過され、純化され、(敢えて言ってしまうなら)聖化された水。とめどなく「今」に溢れ続ける「いつかずっと以前」の水。
そして、汚染された大地に再び湧き出ても、自浄して生き続ける奇跡。

人間の体の60%が水分だと言う。
フラナリー・オコナー全短篇を読んで、人間の内にどうしようもなく在る悪しき水のことを思ったわたしは、久しぶりにこの写真集を開いた。
泉の水を愛して暮らす彼らの体の中を流れる水のことを思い出す。生まれてからずっと同じ泉の水を飲んで育った人たちの体の中の水のことを。

人間は、こんなにきれいでもあるのだと思い出した。わたしたちの住んでいる地球は、こんなにもきれいな水を持っているのだと思い出した。

***

本橋氏が監督した同名映画の音楽を担当した坂本龍一氏はこんな言葉を寄せている。
「地球という惑星に、こんな美しさがある。その美しさを壊すのも人間だし、そこに慎ましく生きているのも人間だ。いつ、人間は幼年期を脱し、進化するのだろうか」

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紙の本ザ・スタンド 上

2003/06/14 07:00

遠大な物語。読書の喜び。

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 まずはたくさんのプロットが提示される。これから展開する物語に関わるたくさんの人間とたくさんの人生の紹介だ。そして、世界を揺るがす大事故を介して、その「たくさん」が、ひとつのプロットに、ひとつの状況に、収束していく。
 キングは、この「たくさん」を操るのが比肩なくうまい。 決してお腹いっぱいになることがない。登場する人物たちが例外なく面白いものだから、読み始めたとたん、いつか物語の終わってしまうことを恐れて、「収束しなくていいから、完結しなくていいから、ずっと無限に、捏造された他者の人生を提示し続けてほしい!」と、読書の時間の喜びを享受する。
 でも、ひとたび魔法の筆でこれらが絡まり合いだすと、またまたその面白さに取り込まれる。極端な状況下で、出会うことのない人々が出会っていく。しかも、それぞれがそれぞれに、非日常下の新たなる行動パターンに取り込まれつつある時であり、他者が自らの命を左右することになると分かっているだけに、、出会いは極端に、「愛」と「憎」に2分割されていく。稀代の物語作家の仕組むことであるから、その出会いと愛憎のなせる業は、面白くないわけがない。
 そして、言うまでもなく、「愛」だけではなく「憎」も人を育てる。キングらしいのは、憎悪によって成長過程をたどっている登場人物に「愛」を与えて、逡巡させたりするところだ。
 幼い頃から「憎む」ことに囚われた男が愛を知り、「俺はもしかしたら憎むことではなく愛することでもやっていけるのかもしれない」と、悩み行き詰まったりする。でも、結局彼が選択するのは「悪」であり、「憎」だ。そうさせるのは自己顕示欲。彼は素早く成長を遂げたいのだ。素早く名をあげ、素早く輝ける地位にたどり着きたい。憎悪の道はマイノリティーだ。だから逆に門は広い。よって彼は今更方向転換できないと思い直す。憎悪の感情を守り、育てていくことこそ、我が道なのだと。簡単な愛情で屈してはいけないと。
 「愛」と「憎」は、たかだかそんな選択肢に過ぎなかったりする。この辺りは、米国の犯罪史を思い返させる、リアリティーのある展開だ。
 そうこうして、生き残った者たちが「善」と「悪」というわかりやすい二つのコミュニティーに集結し、生き残りをかけての闘いが始まる。この、コミュニティーの代表となっていく人間たちの描き分けも面白い。
A 生を受けた時から、神によって祝福を受けた人間。
B 生を受けた時から、神によって使命を帯びた人間。
C 肉体的な欠落(欠損)から、健常者では知り得ぬことを学び取っている、また感知しうる人間。
D 他者に甘えることなく、生活に甘えることなく、後天的に強い自己を獲得している人間。
E 他者に甘え、生活に甘え、自己を確立し得ていなかったのに、常ならぬ現実に対応していく中で、急速に何かを学び取っていく人間。
 最も面白いのは、言うまでもないが、Eのタイプだ。戸惑いや苦悩、後悔やら反駁を繰り返して、意志力行動力適応能力などを勝ち取っていく姿は、人間の潜在能力やら人間の持ち時間の可能性を感じさせて、感動的。キングはこれにたっぷりとリアリティーを持たせて、甘からず辛からず丹念に書き込んでいる。そこに描かれるのはRPGの主人公が敵を倒すことでレベルアップしていくのとは余りに違う、人間の基本的な営為だ。
 複雑な現代社会の中にあって、物事を単純化して感動を紡ぐのではなく、何もかもを取り込むことで描こうとするエネルギー。この遠大さ、まさに、キングの魅力の最たるところだ。
 この作品に関しては、その魅力ゆえに出版が遅れてしまったわけだが、ともあれ、今は読むことができる。傑作です。

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足下を流れる深い水が、わたしたちの内なる悪しき水を呼ぶ。

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上巻を読んだ後、わたしは短篇集を貫く人間の裡なる暴力のことを思った。世界を見据える、作家の揺るぎなくストイックな視点に驚いた。オコナーの手になる目の前の書物を、距離を持って眺めることができた。でも、時をおかず下巻を開き、表題作「すべて上昇するものは一点に集まる」を読んだところで、息がつまってしまった。一度にはとても読み切れなかった。結局、二週間かけて、少しずつ、息を継ぎながら読んでいった。
 全作を読み終わった今は、もう他人事としては語れない。安穏と、読了のサインを押して本棚に返すことができない。そこに書かれていたすべての殺意、すべてのグロテスクな感情、すべての愚かさ……。作家は今でも、それらが、「ほら、ほら、あなたの中にもあるでしょう?」とわたしに同意を求めてくる。

 オコナーは、まず状況を呈示する。その、平衡を保っているかのように見える人間関係の中には、必ず憎悪や殺意が眠っている。グロテスクな感情は、ぎりぎりの表面張力で日常を保持しているだけ、そういう状況。そしてそこに、オコナーは、最も残酷なやり方で、最も鮮やかなやり方で、ほんの一滴の触媒を落とす。押しとどめられていた感情はあふれ出し、感情に後押しされた行為は、多くの場合、殺人という最悪の結果へと導かれていく。

 足下を流れる深い深い水が、わたしたちの内にある悪しき水を呼んでいる。
 幾つも幾つも仕掛けられたトラップが、わたしたちの間違った一歩を待っている。
 かけがえのない自分を正当化すれば、すぐ隣のかけがえのない人生を阻害し辱める。
 自分の善意は、隣の人にとっては悪意となる。
 慧眼と信じている人の目は、誰よりも盲目である。
 幸福の実現は、他人の不幸を礎としている。
 人生の真意と思いこんできたすべての足場は、刹那に崩れるほど危うい。

 登場人物は、例外なく、自らの人生をつかみ取ろうとしているのに、例外なく、絶望にひた走る。その姿は、みじめで、哀れで、いかんともしがたく醜い。ほわほわの白いウサギが一瞬にして皮を剥かれたように、赤剥けの姿を晒して、彼らは自らのあるべき人生という幻想を追い、倒れる。

*****

 この残酷を、この暴力を、この悪意を、わたしは作家に、これ以外はないという書き方で、つきつけられた。両のまぶたを固定されて、世界のありようを、見せつけられた。
 作家の生きた二次大戦後の米国も、南部の農園暮らしの生活感覚も、この世界を限定しはしない。登場人物をさらっていった足下の水は、わたしたちの足下にも確かに流れているのだ。わたしたちが、人間としてこの世に生まれ出る限り。
 あらゆる犯罪に、報道はその時々の反応をして過ぎていく。作家は笑って自らの物語世界を指し示す。「他人事じゃないでしょう?」「あなたの内にもあるでしょう?」

 オコナーは、自らの難病を知り、自分の手によってしか為されない作品を生み出すことに、限られた時間を費やした。確かに、彼女でなければ書けなかった物語がここに在る。そしてそれらは、紛れもなく、彼女のかけがえのない時間の産物だ。
 この悪意に満ちた世界を描くことで、この世界を生き抜くことが謳われた。こんなものでしかない世界を、こんなものでしかない人生が生き抜こうとする姿が謳われた。

 足下の深い水に誘われながら、だからわたしは、生きることの意味をこそ受け取る。

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帰らない時間。帰らない人。永遠を手にいれるための伝記。

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これは、エドウィン・マルハウスという11歳で亡くなった作家の「伝記」という形をとった作品だ。

本を手に取る。
ミルハウザーの名が冠された扉を開くと、入れ子式にまた扉が現れる。
「エドウィン・マルハウス」あるアメリカ作家の生と死(1943-1954)ジェフリー・カートライト著、という記述。
さて本文は、とページをめくると、今度は、
「復刻版に寄せて」という文章が現れる。これは、幻の伝記作家ジェフリー・カートライトを研究する文学者の言葉として添えられている。
また次をめくると、今度は、ジェフリー自身の「初版へのまえがき」という文章。
さらにおまけで、エドウィン・マルハウス年譜。
幼年期が5歳まで。壮年期が8歳まで。晩年期が11歳まで。

ふう。

もうこれだけで、すっかり読者はエドウィン・マルハウスの世界に取り込まれている。
これが、あの「バーナム博物館」や「イン・ザ・ペニー・アーケード」、ピューリッツァ賞を獲った「マーティン・ドレスラーの夢」を書いた作家の、処女作なのだ。

前置きはこれくらいにして。

内容は、とにかくもう、めくるめく子どもの世界だ。

ジェリービーンズの色みたいな。
太陽の熱に火照った芝生と東屋みたいな。
灰色べた塗りの空を神経系図に変える稲妻みたいな。
蒸した草を指先ですりつぶした匂いみたいな。
ミルククラウンの生まれる一瞬みたいな。
ぺらぺら漫画で見る夏の思い出みたいな。
ミッキーマウスと語る世界誕生の秘密みたいな。
子供部屋の壁に描いた曼荼羅みたいな。
ミツバチと一緒に覗き見る花心みたいな。

この本に取り込まれていると、世界を眺める目が、すこうしいつもとは違ってくる。焦点距離が、違ってくる。
知らぬ間に、エドウィンの虫眼鏡とエドウィンの望遠鏡、エドウィンの絵の具パレットが、わたしの目の中に紛れ込んでいる。

そして。
エドウィンが、芸術と出会い、恋と出会い、悪と出会い、世の矛盾と出会い、作家として唯一無二の作品を書き上げ、死に至るまでの過程を、ジェフリーは克明に書き記していく。
それはまるで、エドウィンを標本に封じこめるような作業だ。
生きた姿そのままに、幼い二人が共有した何もかもとともに、この上ない繊細さで。

自分にとっていちばん大事なものを、ずっと自分の手元に、永遠に変わらぬ姿でとどめて起きたいという欲望。
その欲望が、ジェフリーに、伝記「エドウィン・マルハウス」を書かせた。
生涯でただ一人出会える運命のともだち。そのともだちと過ごした、二度と再び過ごすことのない時間……。
そしておそらく、その後のジェフリーはもう2度と書くべき人生に出会わなかっただろう。

子どもの頃の世界の輝きが、残りの人生すべての時間を凌駕してしまうことがある。
エドウィンも、ジェフリーも、この伝記に封じこめた世界でのみ、永遠に輝き続けるのだ。

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紙の本冥途

2012/08/10 18:52

ふりむけば、そこにある彼岸。

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『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ』という有名な台詞に続いて、ハムレットはその命題に惑う。『死ぬことは……眠ること、それだけだ。眠りによって、心の痛みも、肉体が抱える数限りない苦しみも終わりを告げる。それこそ願ってもない最上の結末だ。死ぬ、眠る。眠る、恐らくは夢を見る……そう、そこでひっかかる。一体、死という眠りの中でどんな夢を見るのか? ようやく人生のしがらみを振り切ったというのに?』(河合祥一郎訳)

人は、死して到る彼岸を、恐れたり、此岸からの逃亡場所と目したり、その想像のつかぬ場所を様々に思い描く。魂の離れた自分の存在を想像しては、生きてある自らの危うさに思い及ぶ。

この本におさめられた「花火」「尽頭子」「烏」「件」「柳藻」「冥土」、これら六つの掌編は、すべて、死にほど近い、夢と眠りの物語。此岸と彼岸の物語。そこに、金井田英津子さんが、深い茶と黒の縒りあった版画を添えている。彼女の描く百間世界を眺めていると、彼岸から手招きされる登場人物と同じ目線になって、足場の覚束ない迷妄の世界に、自分も紛れ込んでしまう。

「件(くだん)」という作品。
『私は見果てもない広い原の真ん中に立っている。躯がびっしょりぬれて、尻尾の先からぽたぽたと雫が垂れている。件の話は子供の折りに聞いた事はあるけれども、自分がその件になろうとは思いもよらなかった。からだが牛で顔丈(だけ)人間の浅間しい化け物に生まれて、こんな所にぼんやり立っている。』
人間でいたときのことを思い出そうとしても、記憶は掴みどころがない。その代わり、件にまつわる恐ろしい話を思い出す。曰く。件は生まれて三日目にして死し、その間に人間の言葉で、未来の凶福を予言する。件になった私は、いたく困惑する。「何を予言するんだか見当がつかない」と。そこに、件の予言を聞こうと、人々が集まってくる。衆目にさらされた件の私に、懐かしい声が聞こえ……。

件になった私は、人間の器を去ったというのに、人間の心を持ち、よしなしごとに悩んでいる。予言すべき事柄も言葉も知らないのに、過大なる期待を持って取り囲まれる現実に、辟易としている。人間たちに阿り、苛立ち、戦き、牛のからだの自分を、守ることに精一杯だ。あげく、物語はこう結ばれる。

『何だか死にそうもない様な気がして来た。』

この凡庸なる哀切さを、金井田英津子さんの版画が見事に描き出している。最初に登場する件は後ろ向きだが、その視線の先の空しさを、背景の細線が饒舌に醸す。存在としては余りに儚い生き物ながら、その影は深く、濃い。それがまた哀しい。

生きている限り、誰もが死と隣り合わせだ。それなのに、世にどれほどの作家がいようと、主観的な「死」の正式な語り部にはなることはない。それを知るとき、同時に語る自分を失ってしまうという当然の事象を前に、古今の作家は死をひたすらに描いてきた。
そして、百間が死を語るとき、彼岸を語るとき、それはあたかも、ひょいと手の届きそうなところにある異界となって現出する。此岸のしがらみをべったりくっつけたまま迷い込む、ここではない何処か。肩をぽんと叩かれて振り向けばもう迷い込んでいる、現実のだまし絵のような世界。

読者は百間のことばと金井田さんの挿画に誘われて、ふらふらと、悪夢の中へ、甘やかな憧憬の中へ歩き出すだろう。生きて在る自分を抱えたまま、死してみる夢の中へ。

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