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  3. 鬼島 空さんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年8月)

鬼島 空さんのレビュー一覧

投稿者:鬼島 空

14 件中 1 件~ 14 件を表示

紙の本大奥 第5巻

2010/08/04 21:30

稀代の娯楽性と思想性を兼ね備えたマンガ作品 映画だけじゃなく原作も読んでほしい

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「疫病によって男子人口が減少し、公的な役割をすべて女性が担うようになった日本」という設定の本作。「男女逆転大奥、女将軍のもとに美男が3千人」というその宣伝文句から、女性向けキワモノマンガだと思う人も多いように思うのだが(そして、それはそれで事実であるが)、しかし本作は、エンターテイメントであると同時に、非常に質の高いジェンダーSFでもある。というか、おそらくは思いつきに過ぎなかっただろうこのキワモノ設定から、作者は力業で、「人間にとって、生物としての自然と、文化や歴史とはどのような関係にあるのか」という人類学的な問いを展開していくのだ。本作は今年、第1巻のみが映画化され公開される予定だが、しかしその真価が現れるのは2巻以降であり、第2巻以降を読み進める読者は、男女逆転大奥という笑い事のような設定を楽しみながらも、「男女逆転大奥は本当に可能なのか」という笑い事ではない問いに向き合わざるを得なくなるだろう。そしてその問いは、「人間の構築する権力の制度(=文化)というものは、人間の生殖機能という自然から逃れられないものなのではないか」という問いにつながっているのだ。

第5巻の主人公は第五代将軍「家綱」。三代目将軍の父の身代わりとなった「家光」に引き続き、男女役割逆転の第二世代を担う。既に公的なものの女性への移行があらかた終了した「元禄期」にあって、有能で可愛らしく傲慢な家綱は一見、権力者であることと女性であることを問題なく共存させているように見える。「公=男/私=女」という二項対立が逆転した後なのであるから、女であることと権力者であることに矛盾はあるはずもなく、家綱には一見、第一世代の家光のような女性性の否定や苦悩は存在していないように見えるのだ。にもかかわらず、「将軍といえども閨で大奥の男たちをその気にさせなければ始まらないのであるから、可愛くなくてはいけない」という父の教えが、生涯にわたって家綱に影を落とす。この世界では、最高権力者自身が「生む性」であり、血統の持続のために生むことを要求される。閨というもっとも私的な空間で「欲望される客体」であることが、最高権力者・家綱を傷つけ続けるのだ。母となったときに権力者へとテイクオフしていった家光に対し、母になることに失敗した家綱は生涯、「欲望される客体」であることから逃れられず、権力者へのテイクオフに失敗する。「もっとも私的なことがもっとも政治的なこと」とは、フーコー以降、ジェンダー系研究のドグマみたいなものだが、「家綱」という問題系は驚くべきやり方でこのドグマを血肉化されたドラマとして展開していて、閨という私的空間と政治との連関をつきつける。権力とは、つまるところ多くの女を自由にできるということとイコールなのか。権力の根幹には、逃れがたい自然が潜んでいるのか。

ジェンダー研究がしばしばテクスト上の思弁的空中戦に感じられてしまうのに対し、マンガである本作では、具体的登場人物によって思考は肉化され、登場人物たちは逃れがたい問題系をその身体で生きる。大奥という極端な舞台に、男女逆転という馬鹿馬鹿しいまでの捻れをかけることで本作は、身体と政治とのつながりを、社会科学に可能な深度を超えて問いつめることに成功しているように見えるのだ。また本作では、鎖国といった史実が、男女逆転した世界の論理に見事に組み込まれた形で生じていく。その史実の料理の仕方が実に高度である。この第5巻で著者がどのように料理するのかが楽しみになってくるのは、生類憐れみの令及び赤穂事件であるが、ネタバレを避けて一言言及しておくと、その出来映えは、「生類憐れみの令とは本当にそういう理由で起こったものなのではないか」などと一瞬思ってしまうほどであった。

まずエンターテイメントとして素晴らしく、そして読者を深く考えさせもする。『大奥』は、私にとって、マンガのある国に生まれてよかったと心の底から思わせてくれる現在進行形のマンガ作品のなかでも、その筆頭なのである。

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紙の本博士の愛した数式

2004/05/22 22:28

時間さえとどかない

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我が心深き底あり喜も憂の波もとどかじと思ふ

西田幾多郎の歌だ。大学の授業で、宗教学の教官が教えてくれた。授業中、唐突に宙を見つめて沈黙することのある先生で、その視線の先に一体何を掴もうとしているのだろうと、再び言葉が紡ぎ出されるのを学生は息を詰めて待つ。その先生が、ふと思いついたかにこの歌を引いたのだ。「人間の喜びも苦しみも関係のない真理の底がある、ということです」。以来、私はこの歌を繰り返す。繰り返せばいつも、何かが確認されるのを感じている。

数ヶ月前のこと、新聞を広げると小川洋子の文章が載っていた。著作を読んだことはなかったけれど、『博士の愛した数式』という本が話題になっているのは知っていた。見ると冒頭に、あの西田幾多郎の短歌が書かれている。小川は、小さい頃西田の歌を知って忘れられなかったという。私はこの本を読もうと決めた。

物語の語り手は、脳に損傷を受け80分の記憶しか留められなくなった老数学者の元に派遣された家政婦。博士は、彼女の息子をルートと呼んで愛しむ。親子に博士との交流の記憶は蓄積していくけれど、博士が二人との時間を留めることは絶対にない。彼らを繋ぐのは数字だ。それは、永遠の世界だから。数学とは、神様の手帳をそっと覗き込むこと。家政婦の語り手と10歳の息子は、博士の世界を彼らなりに分有する。博士が江夏豊のファンであるのは、彼が完全数28を背番号に持つからだ。スポーツ選手とは、加齢の残酷さを最もまざまざと感じさせてくれる存在であり、この物語ではタイガースの様変りは、時間が流れたことの象徴だ。けれど、博士の記憶の止まった1975年、タイガースのエースだった江夏は、博士の中で、永遠に完全数を背負い、白球を投げ続けている。

静謐な幸福感に包まれているから忘れてしまいそうになるが、よく考えてみると、この物語には何人もあっけない不幸に見舞われた人が出てくる。語り手の母親は夫に逃げられたようだし、語り手自身も似た経緯で、高校を辞めてシングルマザーになった。そして彼女は、和解しかけた直後に母をあっけなく亡くしている。博士の研究を支えてきた兄も、博士がようやく研究者の職を得た直後にあっけなく亡くなる。小説としてこの不幸発生率は生半なものではない。けれど、博士の存在が永遠や真理といった世界の気配を湛えているから、この物語の不幸は、不幸としての劇的な意味を失い、静かな手触りとなって登場人物達を脅かすことなく存在している。

西田が「我が心」の歌を詠んだのは、子供に不幸があって後だったと聞いたことがある。けれど、そこにあるのは、逆説的に表現された哀感などではけしてなく、それほどの悲嘆にも邪魔のできない世界の存在を感じることへの、単純な驚きだと思う。その世界の前では、人の不幸は意味を失う。けれど、その世界が、いろいろな混乱に充ちているこの世界の底にあるという実感は、確かに人を支えもする。語り手が、博士の家を解雇され、一人床を磨いているときに切実に思い浮かべるのは、博士の語った直線についての言葉だ。本当の直線は、紙に描くことはできない。真実の直線はここにしかないと言って、博士は胸に手を当てる。「物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目には見えないのだ」。日常を生きてゆくために彼女は、博士の言葉に支えられて「本当の直線」の実感を求める。

思い出す。宗教学の先生の宙を見つめる視線と一緒にあの歌を思い出す。物語のなかで、博士の癖として描かれているこの仕草が、私が出会った先生と全く同じであることは、驚くとともに至極当然のことという気もする。今自分はちゃんと進めているだろうか。不安がせりあげ立ちすくむとき、自分にだけ聴こえる声で、西田の歌を確かめてみる。何ものも邪魔できない真実がある。それを実感する人間がいることに助けられて、私はその存在を信じようとする。

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紙の本ハチミツとクローバー 5

2003/10/05 14:09

イマドキ大学生の優痛リアル

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美大生5人を主軸にした物語が、とても丁寧に描かれている作品である。美大生だけあって、登場人物たちのファッションがかわいいのが、この作品の魅力のひとつで、絵柄としては「おしゃれで古臭くないこと」を売りにしている系統の少女マンガに属しそうに思われるのだが、描かれる将来へのとまどいや、あきらめられない恋愛は、意外なほどに格好悪く、古典的とも言えるほどである。

この巻でも、個性の強い面々は相変わらずである。でも、時間は進んでいる。大学生活は短い。5人揃って過ごした季節は終ってゆく。5巻に至って、やや影の薄い感のある主人公(一応)・竹本くんの進路問題が浮上してきている。1巻では大学2年生だった竹本くんも、早くも4年生となったのだ。そのことが時間は流れ落ちてゆくのだという痛みをつきつける。

就職活動は厳しく、面接で「何をやりたいのか」聞かれ、不器用にも答えにつまり、もちろん落とされる。そんな中で作る作品は、蛇行し、迷い、立ちすくむ竹本くんの今をそのままに写し、奇妙なバランスを保った塔ができあがる。そう簡単に「青春の迷路(by老教授)」は抜けられないけれど、それでも少しずつ見えてくるものはあって、自分の塔を前に竹本くんは思う。

地図がないからじゃない
オレにないのは目的地なんだ

イタイ。痛すぎる。そうなんだよ、迷ってしまうのは、目的地を定められない弱さゆえなんだ。本当に、それは私が大学4年生をむかえて感じたことで、自分が今気がついたと思ったことを、この作品に目前に鮮やかに示されて、驚いた。なんで作者はこんなリアルな台詞を拾えるのだろう、と。

そして、始まるようで始まらない恋愛。難しいのだ。竹本くんの、花本はぐちゃんへの恋愛感情は、類まれなる才能を持っているはぐちゃんへの尊敬や、それと比べての自分に対する焦燥感と入り混じっているし、どうやら恋敵・森田先輩は、破天荒すぎるために、通常の愛情表現をできないでいるものの、はぐちゃんと才能ある者どうし故の相互理解を抱いている。いかにはぐちゃんが一見小動物系(ハムスター)であっても、素直に突っ走ることのできないものなのである。

もうひとつ、終りそうで終らない恋愛。建築学科を卒業し、設計事務所に勤めるようになった真山は、年上女性建築家を想いつづけている。そしてその真山を、これまたふられてもあきらめられず、想いつづける陶芸学科生・山田あゆみ(美人でスタイルがよく、誰からも好かれる怪力さんなのに、勿体無いことだ)。1巻からのこの三角関係も、いまだに進んでいるのかいないのか、わからないままだ。

しかし、周囲の少女マンガを見渡してみて、よく考えてみると驚くのは、描かれる恋愛のプラトニックなことである。恋愛マンガであるはずのところのこの作品には、本当にそのテのシーンがない。5巻通してたぶん二度しかないキスシーンでは、キスをした当人が動揺して叫んで逃げ去るほどである。才能と進路と、そして恋愛とにあまりにも真面目に、誠実に、悩む若者たちがここにいる。少女マンガが、古き良き時代への回帰現象を起こしているのか、懐古趣味なのか、などと勘繰る大人達もいそうだが、この感じ、割と今の大学生のリアルだ、と私は思う。むしろ他のマンガが間違っていた。そんな恋愛ばっかりにかまけていてたまるもんですか! 世の中不況で自分の道を探して行くのも大変なのに!というわけで、不況下の就職とか、そのなかの迷いとか、友達にはなれるけど進展のない恋愛とか、この作品はすごくすごく、ちゃんと今の大学生のリアルをすくいあげている。

でも、この作品の何が一番リアルかって、劇的な変化なんてそうそう世の中なくて、普通、変化というものは、ゆっくりしか起きない、と作者が信じているところかもしれない。終ってゆくことも。始まってゆくことも。それでも確実に時間は流れて行く。その感じは優しく痛い。

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天然記念物指定・文人ダメ男

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 前に読んだ新聞書評で、この歌集について、「猫と暮らすバツイチ四十男のおかしくも哀しい光景」というようなことが書かれていた記憶がある。随分哀愁に満ちた書かれようだったから、医者と云えど男やもめ、古アパートの一室に薄暗い電球のもとで猫を膝にちゃぶ台で短歌を書いているような人なのだと、勝手に、本当に勝手に!思っていた。誰だって、この短歌集をパラパラと読んだ後でも、そう思うに違いない。別れた妻への未練たらたら、下着は滅多に変えず万年床、描かれるのは部屋に猫とふたり(一人と一匹)の情景ばかりなのだから。

 だが。新聞評を読んで結構惹かれたものの、そのまま読まずにいたこの本を、私が息せき切って買うに至ったのは、先頃、雑誌「AERA」に載った著者・寒川猫持氏についての記事を読んだからである。そこには衝撃の事実が書いてあった。記事によれば、寒川氏、両親とも医者の家の一人っ子で、高校時代にドイツに遊学後医学部に入り、医者になったものの、文筆の道への憧れ捨てられず、現在は、週3日午後だけだったかの診療をするのみの身分でありながら、愛車はポルシェ!(しかも改造車らしい)今なお親の脛をかじっているそうなのである。眼科医院は数週間で潰れた。小さな医院なのに看護婦の雇いすぎ(誰の首も切れなかった)からである。周囲の人は、ご両親が健康なうちはいいがと、身の丈にあった生活をするように忠告するのだという。名望ある開業医のお父上は、一人息子のことが心配でならないらしい。

 私は思った。親の脛をかじる若輩の身でありながら思った。
「なんという見事なダメ男っぷり!」

 歌集を買って読んでみれば、両親とも働いていたからだろう、大変なおばあちゃんっ子でもあったようだ。教科書に載っていた明治や大正や昭和初期の作家や詩人は、なんだか皆ダメ男だった。もしかしたらそうでもなかったのかもしれないが、文人というものはダメ男だと、相場が決まっていると、そのような印象は強かった。生活能力がないのに金には甘く、おばあちゃんや女中に玩具のようにかわいがられて育てられた挙句、特に女には滅法優しいが、どこかで、絶対の安心感を持ったことのない子供のような、虚無を抱え、だからこそ、とてつもない寂しがりやというような男。そんな作家は昨今絶滅してしまったと思っていたのだが、いたのだ、ここに。寒川猫持。

 日本産の朱鷺のような寒川氏の短歌にあるのは、だから、伝統的なダメ男だけが捉えることのできた日常の景色にあらわれる一瞬だ。寒川氏の短歌は、確かにおかしい。おかしいのだが、「バツイチ不惑男の哀愁」というレベルを超えた、心がしんと静まり返るような軽みのある虚無の一瞬があるのだ。それが、氏の短歌を、単なるクスッという笑いのネタを超えるものにしている。「人間と猫(猫持と猫)」が「ごきぶり」を共に息を詰め見ている情景。そこにあるのは、人間も猫も虫も、皆、ちっぽけな生命として並列されてしまうような視線だ。人と猫が同じような存在なら、人とごきぶりもまた同じような存在という三段論法。「地球の上にいる自分」と「地球儀の上にとまる羽虫」が並列されることで、くるりと、その関係がまわり、「地球の上にいる自分」が、羽虫のような命になる。「棺のなかに寝る死者」「棺の外でのびている私」が並列され、くるりと、私の側に、死が、やってくる。

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虫師 3

2002/12/29 12:32

常闇の場所

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この物語の世界に、江戸はない気がする。都市というものは、村社会の外界として存在する。ここではない場所、逃げ出せる場所として。でも、この閉じた世界には、たぶん逃げ出せるどこかはない。作者は、この物語の舞台を「鎖国のつづくもうひとつの日本」という感じ、だと言っている。だからきっと、この物語は、近代のはじまらない、永遠の閉じ込められた日本を描いている。それは民俗学が対象にしてきた社会で、このマンガを読んでいるときの感触は、民俗学の書物を読むのに似ている。このさびしい、閉じた感じは。ギンコだけが洋服であるのを深読みしてみるなら、ギンコだけが、村落共同体からはぐれた者・漂白民であり、サンカだからだ。でも、どちらかというと柳田國男ではないかもしれない、南方熊楠の世界かもしれない、きっと。この物語が扱っているのが、植物とも人間ともつかない、生命の根源に近いなにものか、蟲だからだ。その存在は、すこし、南方熊楠が追ったという粘菌に似ているんだろう、よくしらないけど。わたしはそう思った。

3巻も、主人公、蟲師ギンコの漂白はつづく。これまでの巻とちがうところといえば、ギンコの生い立ちらしきものが、すこし明かされたことだろうか。この巻の最後に収録され、ギンコの少年時代を描く「眇の魚」は、最初に発表された「瞼の光」にも流れていたテーマ、光と「本当の闇」の問題を再び扱っている。2巻以降、蟲自体の生態よりも、人が蟲とくらべて小さな存在でありながら生きる在り方のほうに物語の焦点が移ってきていたが、「蟲師」という物語の根底にあるテーマは、いのちと「本当の闇」の関係なのだと思う。このマンガは、なにかとても凄いテーマへと、ゆっくりと迫ろうとしている、とわたしは思う。つづいていくなら、宮崎駿くらいにまで、もっともっと評価があがっていく、とも思う。

もうひとつ、このマンガの軽めのお薦めポイントを述べておけば、このようなテーマを扱いながら、絵柄は古臭くなく、今の人気マンガに慣れた目に楽しい絵柄だということだ。特に、ギンコのキャラクターデザインに関していえば、初期にはあきらかに少年ジャンプに連載されているマンガのデザインを引きずりながら、これだけオリジナルな物語を展開しているところがすごい、と思う。変な感心のしかただけど。だから、まあサンジやカカシが好きで、まだ「蟲師」を読んでいないなら、そういう方には是非お薦めだ。

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美味い、上手い、ほんとに巧い

33人中、33人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ボーイズラブ漫画出身の巧者よしながふみが青年誌に進出ということで一体何をするのかと思っていたら料理だった。これがレシピ本としてほんとに使えるのである。うちでは付箋を貼って台所に置いているほど、さすが『愛がなくても喰っていけます』で無類の食道楽ぶりを発揮しているよしながふみである。調味料の正確な分量は書いていないが、レシピを機械的に実行するのではなく自分の舌で判断せよという筆者の教育的配慮なのであろう。その配慮を有り難く受けとめて結構適当に作ってしまっているが、料理スキルの低い私であっても簡単に作れ、美味しく、間違いがない。

そしてストーリーのほうも本当に巧く、間違いがない。主人公は弁護士と美容師のゲイカップル。とはいえボーイズラブ作品の範疇ではないので、男性にもお薦めできる。同じ筆者の『大奥』のように劇的な物語が展開するわけではないが、繊細な日常の機微が描かれる。

さて、本書のカップルのうちの弁護士のほうのエピソードを読んでふと気づいたのは、よしながふみ漫画界の人物は、誰かから突然に、「あの時あなたはこう言ってくれた」ではなく、「あなたはこういうことを絶対に言わなかった」といって感謝されることがある、ということである。例えば、筆者のフランス革命前夜を舞台にした他作品では以下のようなシーンがある。いよいよ首の回らなくなった没落貴族が、長らく仕えた執事に、もう仕えなくていい、給金も支払えないからと告げる。それに対し、その黄色人種の血を引く執事は、「誰もが私を見るとシナ人かとまず言ったのに、あなたは私にそれを一度も聞かなかった」、だから辞めないと言うのだ。このようにして、長らくの彼の忠誠はただその一事、貴族本人も自覚的にしたわけではない行動(の不在)に依っていたことが判明するのである。

本書でも主人公の弁護士は、ある発言の不在ゆえに、依頼者から、本当に長い時間が経ってから突然に感謝される。「あなたは私が落ち込んでいたときにこう言ってくれた。その言葉に救われたのです」などという話ではないのだ。主人公が偶然にもあることを言わなかったのは、自分の主義主張ゆえに口を抑えたとかいうことではなくて、本当にたまたまのこと、しかしある背景があるゆえのたまたまである。依頼者の感謝を聞いて初めて、主人公自身が、当の依頼者自身も知らない自分の背景ゆえに、自分がそもそも「そのあることを言うはずもない人間だったから言わなかった」ことに気づかされる。その気づきには、かすかな痛みがある。

言ったことではなく、言わなかったことがその人物をより反映しており、無自覚なことのほうが「頑張って言ってみたこと」なんかよりもはるかに重要な他者の反応を規定することがあるのかもしれない。その洞察ゆえに、よしながふみは凡庸な作家から抜け出た高みに行くのだろう。

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語りえぬものには

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ごく普通の、現代の共学の高校を舞台にした物語である。
メインキャラクターは高校一年生の男子三人。主人公は明るいパツキン高校生・花園春太郎。優しき色白ぽっちゃり体型の友人・三国翔太。三国とともにマン研に所属する無駄に長身美形のオタク・真島海。友人の設定にやや疑問を持ちながらも、作者の経歴から考えてボーイズラブ作品だと予想して(断じて期待してではない)読み始めると、まったくそんな展開にはならず、いたって普通の学校生活が描かれる。二巻で起きるのは、授業中の暇つぶしに自作マンガを描いていた女子生徒がそれをクラスメートに閲覧されたりだとか、みんなで試験勉強をしたりだとか、文化祭で演劇をやったりだとか、そういったことである。まあそんな日常は、少女マンガの学園ものではごまんと描かれるものだと思われるだろう(自作マンガ閲覧はともかく)。学校生活のなかで育まれる恋愛を美しく描くのは少女マンガの王道、この作品もそういったもののひとつだと思われるかもしれない。だがしかしこの作品、恋愛ものでさえないのである。真っ当な少年少女の恋愛などひとつも生まれないのである。本当に単にマン研でマンガを描いたりする生活が描いてあるだけなのである。だがすごく面白い、そしてその面白さはじわじわくる。
一巻冒頭で本人の口よりあっさり明かされていることだが、主人公は白血病を骨髄移植により完治させたという過去を持つ。そんな彼と家族、あるいは彼と友人との関係がこの作品に深みを与えている。既に病は完治しているのだ。彼は健康体だ。描かれる日常の出来事は何処までも日常の範囲であり、家族は愛に満ちてあたたかい。だがそこに、ふいに不幸の影がかすめる。「死ぬかもしれない病」が、過去、主人公の家族の日常を破ったことが、それは家庭に傷を残しそれはいまだに癒えていないたことが、穏やかな現在という薄霧をかけられたむこうに、見てとれる。肉体は癒えても、「一度死線を彷徨った」ことは確実に何かを残す。もとには戻れない。遠慮がちに示される愛情や穏やかな日常だけが描かれていくことによって、けして描かれない語られない鮮烈な苦痛が、逆説的に語られる。そういう苦痛が、日常をふいに襲うということがあるということが。だからこそ日常とはどれだけ貴重であるかということが。
だからこの作品の核は実は現在時にはなく、ほとんど描かれることのない、主人公が病に襲われた過去にある。そしてさらに、再び描かれることはないのだろうある事実が、この作品のはるか遠くにある。この事実は、単に事実として、第一巻の最後で明かされている。六十年前の惨禍。マン研だオタクだ萌えだとやっている見かけに惑わされてはいけない。実はこの作品は、非常に慎ましやかなやり方で、あの絶賛されたこうの史代『夕凪の街 桜の国』と、ある種同形の物語を紡ぎだしていると言えるのかもしれないのだ。

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紙の本蹴りたい背中

2004/04/04 18:06

交錯しない視線の先の身体

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 二十歳過ぎ位までの男の子というのは、身長があるくせに体重の軽そうな連中が結構いるものである。運動をしていない奴だと、骨ばっていて細い。男だけど、この腕を捻りあげるのは簡単だろうな。そう思う瞬間がある。そう思うと、本当にやりたくなる。痛がる様をちょっと想像してみて、まあ本当にやっちゃったら滅茶苦茶引かれるだろうし、反撃される可能性もあるし、ともかく友人関係が終了してしまうから、押し止まる。
 何故なのだろう。男のくせに骨ばっか、私のほうがきっと逞しい。そう思うことは、何ともいえない満足感と相手への好もしさを齎すのだ。いや断じて私が変なのではない。これは、結構多くの女子にある感情ではないか。柔道有段者の友人も同級生K君について、「いかにも冷静って顔で喋られると、あんたなんかそんなガリガリで、投げ飛ばすのなんて簡単なんだからって思う」と言っていた。彼女とK君は結構親しい。

 この本は昨夏、著者が執筆動機として「運動部の女の子と部屋にこもるタイプの男の子のわかりあえてない感じ」が面白いと思ったと語っているのを読んで即座に買った。その構図はツボだと思った。「サドっぽい」という記者の感想を肯定していたのもポイントだった。芥川賞受賞で話題になる以前のことで、文学性を求めて読んだ訳じゃなかった。ので、私にとってこの小説は「萌え」たからOKだ。「あるある蹴りたい背中って」という感覚をここまでリアルに切り取ってくれたというだけで、私の中でこの小説は評価が高いのである。蹴る行為に込められた意味とかはどうでもいい。蹴りたいから蹴るのだ。
 主人公ハツから見た同級生「にな川」の身体についての描写は、フェチックなほど執拗で丁寧だ。のびた前髪から覗く、歯並びの悪い口。ひび割れた唇。けして力強くはないが、ハツより作りの雑な身体。そんな身体が、無防備な背中を晒していたら。これは蹴っ飛ばしたい。痛めつけたい。ハツの衝動を、私は自分のものとして感じる。で、ハツは期待通り、にな川を蹴っ飛ばしてくれるのだ。これで私のカタルシスは十分である。

 一方、ハツの身体は、ごぼうが二本の「速く走れそう」な脚を特徴とする、運動をしている女の子特有ののびやかな身体だ。陸上をやる女の子の身体と、自室でモデルの写真を蒐集する男の子の身体との間でのみ起こる唯一無二の交流の形がある。「やわらかな女の子の身体が、逞しい男の子の身体と触れ合う」などという凡庸な光景では絶対に描けない、「速く走れそうな脚」の身体と、「もの哀しく丸まった、無防備な背中」の身体との間にだけ起こりうる交流があるのだ。それは、蹴るという仕方でしかありえない。そのことをこれ以上なく説得的に描いている点で、私は、この小説は「青年心理」の小説じゃなく、「青年身体」の小説として素晴らしいのだと思う。
 ハツが身体へ鋭敏な感覚を見せるのに対し、にな川は、愛するモデルを見つめ過ぎて、自らの身体を置き去りにしたようなところがある。初めて生身のモデル「オリチャン」の身体に出合うとき、にな川の身体は、ハツが長らくそうして来たように走る。その結果は、無残に終る訳だけれど。オリチャンが着た服をいくら集めても、彼女の生身の身体に行き着けないにな川。オリチャンを見つめる自分の身体が、ハツから見つめられていることに気づかないにな川。空白の身体。にな川は、生身の身体に出会わない。オリチャンの身体は手に入れられず、自分の身体を意識しない故の無頓着さで教室の時間を過ごし、視線はハツの身体を素通りする。そんなにな川が唯一持っている、けれど自分では意識したことのないのだろう彼自身の生身の身体を見つめ、蹴り飛ばすハツ。所有者に意識されない身体は、ハツに見つめられ、蹴られる時、何より生身の身体としての現実感を読者の前に差し出す。それは本当に、確かに「蹴りたい背中」なのだ。

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アイシールド21 3 その名は泥門デビルバッツ

2003/06/10 22:31

一芸一能は最強を超える

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 連載第一回を読んだとき、これはくると思った。クレバーな構成。十分な画力。質の高い少年マンガだ。

 だが、わたしが何よりこのマンガが素晴らしいと思うのは、「欠如からはじまる」という構造を持っているという点だ。登場人物たちは、皆、オールマイティーなヒーローではない。主人公のセナは、ひ弱ないじめられっ子だ。だが、驚異的に脚が速い。それも、小さな頃からパシリで鍛えられてしまったから、という理由で。主人公を圧する存在感を持つキャラクター、セナをアメフトへと引きずり込むヒルマは、戦略を考える頭脳も練習によって支えられた正確なパス能力もある。だが、彼の作り上げようとするアメフト部は、連載開始時、二人しか部員がいない。温厚なラインマン・栗田。彼はパワーはぴか一だが、如何せん脚が遅すぎるし、さほどのテクニックがあるわけではない。ライバル校、王城高校の桜庭。ルックスも背の高さも、そこそこの脚の速さもある彼は、だが、アメフトに専心する心の強さがない。

 最近のジャンプの連載作品を読んでいて、割と最初から何でも持っている少年が主人公の話ばかりだと思っていた。天才的な身体能力。偶然授かる奇抜な能力。霊力。英才教育。特別な生まれ。素晴らしい教育者が特別扱いしてくれる。確かに読者としては、そんな主人公の超人的な活躍を見れればスカッとする。マンガの世界でくらい、辛気臭い思いはしたくないものだ。だけれど、現実の人間の誰だって、それ程までに恵まれていた試しがあろうか。そんな恵まれた少年たちの物語は心に響こうか。何もかも持つ主人公ではない現実の私だから、挫折から、欠如から、立ち上がり、自分にできることを始めようとする登場人物たちの物語が胸に響くのだ。

 この巻では、捕球能力だけはあるが送球やバッティングはからっきしのモン太が、一度野球部で挫折することで、アメフトの世界に入る。「ひとつのことしかできないようなやつはいらない」総合力勝負の野球に対して、アメフトは、「なんかひとつできる奴が欲しい」「専門職のゲーム」だ。このマンガでは、その専門性が、キャラクターの個性化につながり、アメフトというスポーツ自体の面白さを描くことに成功している。「欠如からはじまる」という構造は、アメフトというスポーツ自体の持つ特性が存分に活かされた結果なのだろう。

 そしてこの3巻の圧巻のシーン。セナたちのライバル王城高校のエースであり、パワーも高校最速の脚も持つとされる最強の男・進清十郎は、このマンガで唯一欠如のなさそうな人物だが、そんな彼が一度だけ、セナに抜かれる。欠如が一芸一能を生み、困難を突破する力を与える。誰より脚が速ければ、誰より力がなくたって、きっと道は開ける。冒険は始まる。逃げるためだった脚の速さが、戦うためのものになる。

 欠如から立ち上がり、走り出すこと。「アイシールド21」は、このテーマを幾人ものキャラクターを通じて、くりかえし描く。そのシーンは、幾度見ても、良質の娯楽作品が持つ素直な力と勇気に充ちている。

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少年でありなおかつ少女である人たちへ

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題名だけは前から聞いたことがあった。「少年は荒野をめざす」というのだから、少年の話なのだと思っていた。違うのだ。これは少女の話なのである。

主人公の狩野都は、「少年」の自己像を持ち、現実の自分に違和感を持つ少女。自分が女の子なのはよくわかっている。けれど、そのことを喜ばしく受け入れることはできないのだ。時よ凍りつけと願う彼女は、受験の下見に行った高校で、理想の自己像そのものの少年・黄味島陸に出会う。「少年」は実在したのだ。狩野は陸のいる高校に入る。陸上選手として走る陸の姿を追い、目に焼き付ける。その光景は、凡百の恋愛マンガと同じようだが、狩野を動かしている思いは複雑だ。理想の自己像が実在の他者であるとき、少女はどうすればいいのだろう。女性として愛されるか、同類として傍らに立つか。どちらの選択も、何かを捨てなければならない。女性として愛されようとすれば、彼の他者にさえなれない。陸の年上の彼女・鳥子さんのように母親の代わりか、彼にとって居心地のよい「女の子」の一人となるだけ。しかし主体としての私を選べば、女性でもある自分は生かされないまま。

究極の選択は、狩野が文章を書くことで自分のうちの少年を結晶化し、陸自身にも生い立ちの悩みがあることを知ることで、ゆっくりと新しい段階への展望が示されてゆく。月経を意思の力で止めてしまった狩野の代わりに、陸は怪我をして血を流し、結果狩野の身体にも月経は訪れる。狩野の否定する人間の身体性。陸を見つめることで、徐々に狩野は自分の身体を自分のものにしてゆこうとする。そして、狩野の理想像そのものの陸も、狩野とは別の人間で、だからまた別の苦しみはあるのだ。

私はこのマンガを今回文庫版が発売されて初めて読んだけれど、もっと早くに、そう、中学生や高校生だった頃に出会っていればよかったと思った。私が中高生だった90年代は、少女マンガの花の時代はとうに過ぎ、私たちが抱える問題に、何らか形を与えてくれるメディアは存在しなかった。

問題とは何か。それが何なのか、当時はなおさら言語化できなかったけれども、それは例えば、国語の教科書から感じた、ある世界のなりたちに関することだ。

中学の教科書で「いちご白書」を読んだときも、高校の教科書で「こころ」を読んだときも、私はあんまり愉快な気持がしなかった。同じ同級生の女の子を好きになってしまった少年たちも、先生もKもそりゃあ大変だ。だけど、お嬢さんは? 二人の下宿生に想われたお嬢さんも大変じゃないのか? でもそんなお嬢さんは埒外にある。結局それは、お嬢さんをとりあう、というやり方で表現される先生とKとの愛憎を描いているだけだ。教科書を使っている男子生徒は勿論、女子生徒だって、彼らの視点に感情移入して、大変なことだと思うだろう。でも同時に、「やっぱり、自分は女の子だがお嬢さんなる人物に全然共感はできない、それはお嬢さんも人間のはずなのにちっとも一人の人格らしく描かれてはいないからだ。なので読者である私は先生に感情移入するばかりになってしまう、しかしそれなら女性であるはずの私は一体誰?」と考え込んでしまう女子生徒に、何一つ救済はなかった。

少年の成長の困難も、青年の自我の確立も異性への愛も、それはそれは大変な文学的課題だったんだろうね。でも授業で出てくる「文学小説」たちは、少年でありなおかつ少女である人たちが、どうそれらの課題をやり抜けばいいのかを教えてはくれなかった。青年は荒野をめざす。では少女は?私はどこにいる? 私がほしかったのは、現実に今、自分が生きるうえでの助けだった。少女マンガは、教科書の、この社会の、片手落ちを埋めてきたのだ。

あの頃このマンガが隣にあってくれればよかったと思う。そうしたら、少女の身体で少年を生きること、の困難さを助けてくれる物語もあるのだということを知ることができたのに。

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紙の本シャーロットのおくりもの

2003/01/17 21:44

本当の友人のために

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 帯に「河合隼雄氏推薦!」と書いてあった。河合隼雄の児童文学についての本を数冊読んだせいか、あるいは最近では世の中に河合隼雄的言説が充満してしまっているせいか、はたまたご当人があまりにもメディアに登場しすぎるせいか、最近は児童文学を読むとき、ところどころで、わたしの頭のなかで、「内なる河合隼雄」が「こういうところがすばらしい」などと発言したりするので、うるさくて仕方ない。もっと素直に読みたいものだ。まあいい。とにかくいい本だ。

 物語は、ある農家の動物小屋のなかでの、ブタと蜘蛛の友情(!)を軸に進む。題名にあるシャーロットとは誰のことかと思ったら、蜘蛛なのである。蜘蛛と思って馬鹿にしたら大間違いだ。シャーロットは理知的で優しく、また残忍さも兼ね備えた、魅力的な人物…じゃなくて蜘蛛だ。その年の冬には殺されてハムにされてしまう運命にある主人公のブタ(の少年)を彼女が機知で救うのがクライマックスである。他には、ネズミ、ガチョウ、羊、そして人間なんかが出てくる。どの動物(含人間)も個性的で、「キャラが立っている」のがすごい。物語の軸はブタと蜘蛛の友情だが、伏線にも多様な動物模様が絡んでいる。動物小屋の臭いのなかで、動物も人間の少女もみんな一緒で、混沌としている。シャーロットは、たしかに本当の友人に値するひと(蜘蛛)で、主人公のブタには命を削るほどの優しさを見せるが、ハエを罠にかけて食べる残忍さも持っている。仕方がない。生きるためなんだから。きれいなだけのものなど魅力的でもなんでもない。本当に魅力的な友人は、やっぱり混沌としているものだ。そして、本当の友情とは、あるひとと、あるひととの間にだけ存在する一回性のもの、代替不可能なもので、誰も、シャーロットの変わりにはならない。そして、シャーロットは誰にもある程度魅力的な人物(蜘蛛)だろうが、シャーロットを本当の友人として見つけ出せたのは、やはり主人公のブタだけなのだ。

 物語の副軸として、虚弱ブタとして生まれ、生後間もなく殺されそうになった主人公を自分が育てるといって助ける少女の成長がある。ブタをかわいがり、動物小屋に入り浸りで、動物の発言を楽しげに報告するため母親に心配された少女も、物語の最後では、あれほど愛したブタには見向きもせず、同級生の少年に夢中になっていて、物語から退く。物語の定型として、あるいは少女の定型として、仕方がないような気もするけれど、なんだか切ない。ひとは、一度動物小屋を巣立ってしまったら、再び帰ってこないものではなく、いつまでも、心に動物小屋を持っていて、大人になってもそこにしげく通うものであるような気がするからだ。だから、少女の物語の副軸をずっとのばしていくと、獣医になった少女が大人になってもやっぱり時々動物小屋に入り浸っているといった情景があるなら、わたしにはそれが一番心楽しい。

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活字から聴こえてくる音楽

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 少女小説。コバルト文庫。
 もう本屋でそういう棚に行くのが恥ずかしい年齢になったが、それでもこのシリーズは買う。この本も雑誌の広告で発売されているのに気づいて、中高生だったころと同じように、待ちきれない思いで平積みの前に立った。
「あ。今回は真崎桐哉の話なんだ」。
実在するミュージシャンのCDに手をのばすように、手にとった。

 グラスハートシリーズは、音楽小説である。なのだけれど、わたしはどちらかというとSF小説として読んでいる。この小説は、活字から音楽が聴こえてくるようなところがある。人間としてはちょっと不完全な、生楽器じゃなくシンセサイザーで音楽を作らなければ生きていけないようなひとたちの一人称は、わざと金釘を打ち付けたみたいな文体とリズムで、SFを読んでいるような感触があるからだ。アンドロイドのような機械と生命の混じった存在にこそ、一番生命を感じるという感性は、結構たくさんのSF小説を動かしているひとつの力だと思う。この小説は音楽小説なのに、そういうSF小説の根っこの感覚を表現しているのだ。若木未生は、ヒューマノイドが出てくるような本当のSF小説も書いているけれど、このグラスハートシリーズが一番SFっぽいなあなどとわたしは感じる。

 そして、登場人物のなかでも特にSFっぽい人が主人公となっている番外編がこの『LOVE WAY』である。通常のシリーズでは、主人公は高校生ドラマー・西条朱音で、彼女が属するバンドten blankが物語の中心なのだが、今回は、機械仕掛けの音しか使わないというポリシーを持つ二人組のユニット・オーヴァークロームのお話だ。天才との呼び声高いten blankのリーダー・藤谷直季に対して、オーヴァークロームのボーカルである異母弟・真崎桐哉や有栖川シンは、とても才能があるけれど、でも天才という存在ではない。でも、サリエリのおはなしではないのだ。「天才というにはちょっとだけ欠けている人達」は、その欠落があるから魅力的で、真崎桐哉は、たぶんだからこそカリスマにさえなる。有栖川シンの「機械と人間の複合体みたいなできそこないが一番特別で、天才に近いと思った」という独白が、この本のなかで、一番きれいだと思った。シンセサイザーと生音の間で、天才と凡人の間で、機械と人間の複合体のできそこないのように生きる登場人物たちに、わたしは惹かれる。

 もうひとりの機械音楽人間、坂本一至くんは、今回はあんまり登場しないのだが、前作『熱の城』に収められた、彼の一人称による「ストロボライツ」もとてもきれいで、その存在しない音楽がとても聴きたくなる。

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オタク系批評の基盤になりうるか

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 東浩紀や大塚英志の対談など、オタク批評を読んでいて、ずっと気になっていたことがある。この二人を筆頭に、オタク系文化人は、圧倒的に男性ばかりだ。オタク系バックグラウンドを持つ女性は実作者には多いが、評論家はほとんどいない。東といった男性オタク系文化人から産出される言説の量が圧倒的なために、実数的にはオタク男性を下らないはずのオタク女性の存在がかき消されているかのように思われて、わたしは嫌だった。「ギャルゲー」や「でじこ」を語って、それがオタク文化の代表のような素振りであるのは、東に見えるオタク世界がそういった「萌え」ソフトで閉じているからで、まさしく見通しの悪いオタクコミュニティの実態の反映であるように思える。東はこの本のなかで、正直に、「自分はやおいはよく知らない」と言っているが、知名度と自分の言葉を発表できる力を持ち、オタク系文化を社会一般の問題に開こうとしている東が、やおいを「自分は知らない」で済ませているのは、些か害悪であるとさえ思う。

 だから、この本でわたしが評価できると思ったのは、東浩紀を中心として、斎藤環、竹熊健太郎といった従来のオタク批評のサークルに、小谷真理が加えられ、オタク女性側からの発言の回路も開こうとしている点である。しかし、その取り扱い方は十分とはいえない。「オタク」をオタクの男女ともを含めた一般的な名詞として使っていたり、また、「オタク/やおい」と分け、「オタク」を男性のみを指す名詞、「やおい」を女性のみを指す名詞と分類したりと、「オタク」という言葉の用法が混在しているのである。「man」「人類」がときどき女性を含んだり含まなかったりする、それと同じブレをこの本では「オタク」という言葉が、持っているのがおぞましい。きっと、そういう世界から逃走したくて、オタクの女性はオタクになるのに。わたしの理解では、実際の「オタク」「やおい」という言葉の使われ方としても、これは間違っている。女性のオタクは、自分を「オタクである」と言明し、「オタク」という言葉を当然男女とも含む言葉として使うし、「やおい」は作品分類のための言葉であって、人を指す言葉ではない。「わたしはやおいである」と発言するオタク女性は多分存在しないから、「オタク/やおい」という二項対立は変だ。

 この本のなかで、小谷は、「ギャルゲーはセクシュアリティの話ではない」とする東に対し、「セクシュアリティを重要じゃないといって除外して、それを別の言葉で語っているのは、ホモソーシャル的だ」と批判し、東はそれを半ば認めている。だが、それは、「オタク論の系譜をつくりあげるためには、仕方がない」と開き直る。でも、本当にそうだろうか。「やおい」は、男性オタク文化を考察した後に、付随的につけくわえられるようなものではなく、それ自体が、オタク文化の中心問題のひとつであるとわたしは思う。だから、ひとまず女性オタクの存在は焦点化しないでオタク論を書いた後に、やおいはつけくわえればいいという東のスタンスは、オタク論の基盤を作ろうとするなら戦略的に誤りだと思う。ポスト・エヴァンゲリオンの今、もはや「萌え」にはセクシュアリティは関係なく、「データベース消費なのだ」という東の主張どおりだとしても、オタクにセクシュアリティの問題がかかってくるのは、少なくともやおい文化側では、1995年以降も変化しているわけではない。性別にかかわらず「オタク」という共通性質があるのか、それは斎藤のいうようにセクシュアリティに関することなのか、そして男女のオタクでどのように違いが生まれるのか、あるいは男性オタクと女性オタクとは全く関係がなく、別に語られるべき存在なのか、といった問いに先に答えてほしいとわたしは思う。そしてその後、男性オタク文化の現在を焦点化してほしい。

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紙の本ジャングルの国のアリス

2003/02/06 16:27

「暗黒大陸」をゆく金髪碧眼の幼女

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 「暗黒大陸」に踏み入る白人の視線を思うとき、私はいつも、その甘美な暴力性に震える思いがする。「未開」が次々に発見され、人類学が生まれ、そこに描かれる人々には絶対に読まれることのない、民族誌が生み出されて行く時代。

 これは、20世紀初頭、両親のアフリカ探検に伴われた5歳の女の子・アリスの視点で、その母親が綴った旅行記である。200人のポーターを連れ、食べるのは全て持ち込みの西洋食。宣教師に対するお礼に、黒人コックに作らせて、「スープ・ローストチキン・ポテト料理・チョコレート」というごちそうをふるまい、サバンナで、ファッジを作る。アフリカ探検の目的は、シカゴの博物館に陳列するための虎やゴリラを狩ること。母親は幼い娘に、あっけらかんと、「黒人奴隷をアメリカに連れてきたのは、アラブ人」と人間の非道を説明する。ポーターの黒人たちは、火山に悪魔がいると怯え、写真というものを理解せず、ゾウの肉に歌って踊って大騒ぎ。父親たちは、ピグミー族が現れると、必死に写真におさめる。その光景の描かれ方は、本当に、痛いほど、ゴリラが現れたときに必死に写真を撮る光景と同じだ。
 筋肉逞しいキユク族の男たちを後ろに、帽子から長いふわふわの髪をのぞかせたワンピースの幼女が立っている写真を見るとき、私は、何かうたれる思いがした。なんという甘美さだろう、その幼女の存在は。大量の「積荷」を抱えてやってくる西欧という存在の暴力。その西欧に「未開」と眼差される筋肉逞しい男たち。彼らを後ろに従える、少しでも力を加えられれば、壊れてしまいそうなショートケーキのような幼女。強い陽射しの下に出れば、西洋食が途絶えれば、実際彼女はアフリカの地で生きてゆけないだろう。彼女は非力なのか、それとも誰よりも、西欧という存在の暴力を可視化してみせる点で、一番暴力的な存在なのか。うまく捉えきれない、倒錯的な痛みと甘さを、この本に載せられた一葉の写真は発していた。

 アフリカというおとぎの国に連れて行かれたアリス、母親の筆によって自らの物語を紡がれたこのアリスは、後年、自らの言葉で物語るアリスになる。
 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア。本名アリス・シェルドン。
 アメリカSF界にフェミニズムの影響が色濃い70年代、覆面SF作家として名を馳せ、「彼が女であるという噂もあるが、そんな訳はない。ティプトリーの描くものには、逃れようもなく男性的なものがある」と言わしめたジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの幼年時代こそが、このジャングルの国のアリスなのである。その数奇な経歴が、母親の死亡記事に載ったアリス・シェルドンの経歴と一致してしまったために、ようやく正体がばれることになるまで、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアは、男性だと信じられつづけていたという。
 「男性/女性」という二項対立を、その存在自体で、混乱させて生きていった「ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア/アリス・シェルドン」。そして、寝たきりの夫を射殺し、自らの頭骸にも引き金を引いて死を遂げたという彼女が、幼少期、こんな完璧なまでにかわいらしい金髪碧眼の、西洋人形のような女の子だったなんて知らなかった。「たったひとつの冴えたやり方」で、異種生命体を寄生させることになった少女が異なる命と交流してゆく物語を描いた彼女の、一番最初の、実際の、異なる生命たちとの遭遇が、アフリカだったのだろうか。決して「みな人類、わかりあえる」というような楽観的な他者との交流を描かない、他者と近づくことは痛みを伴うものであることをきっと厳しく思っていただろう彼女にとって、アフリカの景色と人々と生命は、その人生の中にどのように息づいていたのだろうか。

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