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    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

jupitorjさんのレビュー一覧

投稿者:jupitorj

18 件中 1 件~ 15 件を表示

善とは何か

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

★「自由の諸問題について」(『自由とは何か』を読んで)
より抜粋
全文は電子本「哲学の星系」に掲載されています。
「哲学の星系」の内容紹介の頁はこちらです。

◇リベラリズム
 援助交際を否定できないものとするのが、リベラリズムである。リベラリズムは、「それぞれの国の社会や文化の相違を相互に尊重しあうという多元的な自由」(四八〜四九頁)を重視する。「どういう生き方をしてきたか、またどういう人生を送るかということよりも、そのつどの状況で、個人が自由に選択できるという条件を確保することのほうが優先されるべきだとみるのだ。あるいは『人の生き方』は評価し得ないがゆえにこそ、それを自由に選択し得る条件の方を重視する。」(一五〇頁)という立場である。
 リベラリズムの主張の根拠に価値の相対主義がある。「価値についての判断は、人々が完全に合意できる客観的で普遍的なものは存在しない」(一五三頁)ので、「ある価値が正しいか間違っているかの客観的基準は存在しない。」(一五三頁)。従って、価値である「『善(good)』は客観的に定義したり表明したりできない。」(一五四頁)。「『善』について善し悪しを言うことはできない。」(一五四頁)ので、多様な善を保障する正義は、善よりも優位に立つ。これらについて検討しよう。
 まず、事実命題を人間が評価・解釈・判断することで価値命題が生じる。評価・解釈・判断の基準が人間により異なれば、人間毎に違う結果が得られるであろう。しかし、評価・解釈・判断の基準が同じであるならば、客観的合理的推論を行うと同じ結果が出るだろう。では、人間の善について評価・解釈・判断の基準を同じにすることができるか。ソ連邦に見られるように可能であろう。しかし、強制することはできない。問題は、誰もが理性により合意できる客観的合理的な基準を持てるかということになる。
 私は『新しい幸福の原理』で検討してきた結果、「自他の幸福の尊重」が善の本体であるという結論を得ている。「自他の幸福の尊重」を基準としたいと考えている。私が『新しい幸福の原理』で述べてきたことは論理の整合性や事実との符合により合理的に判断できる。また、そこで述べてきたことは人々が直ちに完全に合意できるものとは思わないが、一応、納得できるものだと考えている。そして、『新しい幸福の原理』に従えば、行為の善悪を一応、客観的に判断できる。また、そこで述べてきたことが人々の共有財産となり、人々の力で《幸福の原理》を磨き上げれば、完全な合意に近いものを得ることができると考えている。普遍的な価値として「自他の幸福の尊重」を機能させることができると考えている。
 この立場からすると、『正義論』で述べたように正義とは「善に比例して利益を与え、悪に比例して不利益を与えること」だから、正義は善に従属することになる。
「自由な社会には、どうしても『慣習』や『常識』がなければならないのである。さもなくば、社会は全体主義かアナーキズムかのいずれかに陥ってしまうのだ。」(一六五頁)この慣習や常識の力が弱くなっているのが、現在である。新しい《幸福の原理》をこの慣習や常識を支える力として使用したい。

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女帝斉明(皇極)の大陰謀

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

女帝斉明(皇極)の大陰謀


分かりにくかった飛鳥時代の歴史の推移の原因が明確に示されているとても良い本です。
「飛鳥を舞台にした歴史のなかで、斉明の存在感はわれわれの想像を絶するものがある」。p285で著者はこう述べ斉明(皇極)天皇の歴史への関与を大きいものとして様々な点からその姿を明らかにしていますが、一つ抜けている視点があります。
それは斉明天皇への我が子への愛です。斉明天皇は実の子である中大兄皇子と大海人皇子に天皇の地位を与えようとして自分の血を残そうとして活動したのではないかという点です。
古代史の大事件とされてきた645年の大化の改新も皇極が国家改造プランを実行するために弟の軽皇子(大化の改新により即位し孝徳天皇)の勢力を利用しただけではなく、実の子のために蘇我氏が支持する第一の皇位継承者古人大兄皇子を蘇我氏もろとも排除する企てだったのではないでしょうか。その際に中大兄皇子がクーデターの実力行使で名を挙げるという利益もありました。
そしてその前の事件も。夫である舒明天皇の死による妻の皇極の642年の即位は、別格である亡き天皇の妻が即位しなければ、皇位は推古天皇が舒明の次にと考えていた山背大兄皇子に行ってしまうので即位したのでしょう。そして643年、その山背大兄皇子を蘇我氏を使って滅ぼしますが、今度は蘇我氏の支持する古人大兄皇子が第一の皇位継承者として浮上したので、葬ったという訳です。
そして弟に難波宮で国家改造計画を実施させ、皇極は飛鳥で都づくりをしますが、
弟の改革が成果を上げたので不必要となり、弟から実権を奪おうとしたので孝徳は落胆して死亡したのでしょう。
そして、孝徳の死後、中大兄皇子の即位ではなく、655年皇極が重祚して斉明天皇となりますが、それは孝徳が天皇であったために孝徳天皇の子が皇位継承者として浮上してきたので、その皇位継承者としての可能性を奪うために復辟したのでしょう。それを恨みに思った孝徳の子であって、皇極の血を引かない有間皇子は658年に暴発して処刑されます。
そして、斉明の子の地位は安泰となり、斉明は自身の目指した帝国構造を完成されるために百済救援を行おうとする中、661年筑紫で死にます。
その後、中大兄は天皇に668年に即位するまで長い間、称制を行いますが、
それは663年白村江での敗戦のため、大きかった斉明の継承者としての資格に傷が付いたから称制が長期に及んだのでしょう。
そして、673年の壬申の乱でも斉明が建設した吉野宮と倭古京が大きな役割を果たします。
斉明は尼将軍政子に匹敵する女性でしょう。
斉明の陰謀の結果、現在の天皇がどの程度、斉明の血を引いているかは歴史学者にお尋ねください。
最後に疑問点。
「日本」が日の下を意味し、日の直下にあるという観念から世界の中心と言う意味を持ったとする点。
太陽は移動し、人間から見て太陽の下も移動します。また、人間はいつでも日の光を受けるから日の下は動かないと言うなら、それは世界のとごでも同じことです。日の下から、確固たる中心という概念は生まれにくいでしょう。

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市民精神の終焉

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

★☆「ローマ帝国衰亡の原因・カルタゴの復讐」(「ローマ人の物語」を読んで)
より抜粋
全文は電子本「哲学の星系」に掲載されています。
「哲学の星系」の内容紹介の頁はこちらです。

 軍隊の市民精神について。ローマ市民権の開放により、軍人の市民精神は「ローマ帝国の国政は軍人である自分たちが決め、ローマ帝国の安全は軍人である自分たちが守る」に変質したと考えられる。自主決定について見よう。元首政下では、次のような権利があった。皇帝になる。皇帝を推挙する。元老院議員になって国政に関与する。このうち、「元老院議員になって国政に関与する」は軍隊と元老院を分離する法律により失われた。しかし、ディオクレティアヌス帝以前までは、なお、「ローマ帝国の安全は軍人である自分たちが守る」という自主防衛の精神に加え、「皇帝になる」「皇帝を推挙する」という自主決定が残った。皮肉なことに、変質したとは言え、市民精神は軍が最も色濃く持っていたと言えよう。軍から改革者が現れたことは不思議ではない。そして、ディオクレティアヌス帝の分割統治制度により、「皇帝を推挙する」が停止された。上位の皇帝が下位の皇帝及び自身の後継者を指名するようになったからである。
 そして、自主防衛の精神が機能するには、軍人が皇帝=国家に対して忠誠心を持たねばならない。軍人に忠誠心を持たせるのは主に皇帝の権威・権力である。皇帝が権威・権力により、誇るべき軍隊という権威を軍に持たせ、軍に規律を与え、給料を支払い、補給・装備を与え、戦場で勝利できるからこそ、皇帝に忠誠を誓うのである。
 治世の仕上げとして、ディオクレティアヌス帝はキリスト教を大弾圧する。キリスト教徒は専制君主政にとり極めて重要な皇帝の権威を否定する態度を示した。ローマ帝国の屋台骨である軍への入隊を拒否する者がいた。これらが、その理由であろう。そして、ディオクレティアヌス帝は、多神教の異教を支持したようにローマの伝統を愛していた。専制君主政を導入したのも、国家に奉仕するローマの伝統的精神に従い、国家のために必要なことをしただけだと考えていたのだろう。そのローマの伝統に反するのがキリスト教だと考えたのだろう。そして、市民精神を失わせたことに密かに負い目を感じ、その代償として伝統的異教の保護者となりたかったのだろう。その証拠にディオクレティアヌス帝は、三〇五年に皇帝位を捨てて引退する。権力のために皇帝の専制君主化を行ったのではなく、国家のためだと言いたかったのだろう。元首政下なら、安穏に生涯を終えることもできただろう。しかし、専制君主政下では、その代償が大きかった。妻と娘はリキニウス帝により殺害される。
 そして、分治制度が持つ危うさゆえに、ディオクレティアヌス帝が始めた四分統治制度は崩壊する。しかし、ディオクレティアヌスはすべてを失ったわけではなかった。ディオレティアヌス帝が作った専制君主政に適合したローマ帝国はそのまま継続した。

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この国を危うくするものは何か?

3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この国を危うくするものは何か?


私が11巻の書評で明らかにした
「帝国の紐帯としてのローマ市民権の喪失」という概念を
12巻で著者は、「取得権の既得権化」として説明しています。
そして、著者は「ローマ帝国の一角が、この法によって崩れたのだ。
まるで、砦の一つが早くも陥ちた、という感じさえする」(32p)
と言っています。
私は、11巻で著者が
マルクス・アウレリウス帝に帝国衰退の責任があると批判したことに対して、
歴史が一般的な心性によって大きな影響を受けるという
「歴史心理学」(ゼベデイ・バルブー著、1971年法政大学出版局刊)を適用して、
11巻の書評でカラカラ帝によるローマ市民権の開放が
帝国の衰退に決定的な影響があったと指摘しました。
「帝国の紐帯としてのローマ市民権の喪失」が
帝国の組成に与えた影響も指摘しました。
著者も重大な影響があったと認めるなら、
マルクス・アウレリウス帝に対する故無き非難も再検討して、
11巻の記述を変更して欲しいものです。
そうすれば、高校の歴史教科書にもなりうる
「ローマ人の物語」の大きな瑕疵が消えると考えられるのですが。
もっとも、著者はこの解釈を導いたのは
カラカラ帝前の皇帝がなぜカラカラ帝と同じことを考えなかったのかという疑問と
「アントニヌス勅令以前のローマ市民」とわざわざ断った碑文によるものであったと
言っています。
著者は書評を見ないのでしょうか。
しかも決定的な書評には目を瞑って見ないのでしょう。
だから、マルクス・アウレリウス帝に対する不当な非難を
訂正する必要性も感じていないのでしょう。
同時代の声は「増税策」としか言っていないと著者は述べます。
歴史心理学の概念など存在するはずもなかった古代に
表面は善政であるアントニヌス勅令を
論理的に批判することは極めて難しかったからでしょう。
同時代人はその帝国に与える重大な影響と不当性を感じ取りながらも
増税策としか言えなかったのでしょう。
著者の言う通り、カラカラ帝は善政だと信じて切っていたとも考えられますが、
周囲に悪政であることを知って勧めた人物が居るとも考えられます。
「カルタゴの復讐」である可能性は否定できないでしょう。
そして、ローマ市民権の喪失が
ローマ人の心性と現実の帝国機構に与えた決定的な影響は徐々に帝国を蝕み、
巨大な影響となって帝国を衰退させて行くのです。


私が11巻の書評として2003年頭頃に発表した「ローマ帝国衰亡の原因」
の全文はこちらから読めます。

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終戦のローレライ 下

2003/01/10 20:02

国家的切腹

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

★作者が人生を削って書いただけあって大傑作だと思います。考えさせられるし、面白いし、泣けます。
特に考えさせられるのは、人の生き方についてと浅倉大佐の思想について。
特に面白いのは、伊507が東京への原爆投下を阻止しようとする戦い。
この戦いは、日本人が与えられるべきものを与えられれば、どれくらい日本人が戦えるかを示しています。
特に泣けるのは、戦後、天本徹二の上官などによって折笠征人とパウラ・エブナーが守られていた話。
ところで、時局多難な折り、重大問題なので、浅倉大佐の思想について考えてみます。
浅倉大佐は、日本が国家的切腹を遂げなければ、日本人は米国に精神的に蹂躙されて消滅してしまうと考え、国家的切腹の手段として東京に原爆を投下し、
それにより民族精神を確固たるものにして日本民族を生存させようとしました。
米国による精神的蹂躙について。
半分間違いであり、半分正しかった。
半分の間違いは浅倉大佐の主張する国家的切腹を遂げなくても、ある程度民族精神を維持できた戦後の歴史が証明しています。
半分正しかったのは、東西冷戦の終了後、米国による日本の民族精神破壊工作がひどくなり、惨憺たる状況を呈した歴史が証明しています。
国家的切腹の手段として東京に原爆を投下する点について。
この点については断じて賛同できない。折笠征人の主張が全く正しい。
そもそも絶対に許せない行為だし、不必要な行為だったと言えましょう。
民族精神を確固たるものにする点について。
これは全く正しい。その手段を浅倉大佐は間違えたと言えるでしょう。
そのような大義を創出せざるを得なかった境遇には多少同情の余地があります。
★では、その民族精神とはどのようなものがなるべきか。
フェミニズムがなりえないことは明らかです。
フェミニズムは日本男児の男らしさを否定し、大和撫子の婦徳を抹殺しようとしました。
フェミニズムというのは美徳を抹殺し、人間の動物化を進めるものです。
フェミニズムを信奉するということは、フェミニズムの母国、アメリカの支配を受け入れ、
日本人の根底をなす美徳を放棄し、アメリカに魂を売り渡すことに他なりません。
これは先の戦争で、日本の美を守るために日本の大義を守るために死んでいった人々に対する裏切り行為です。
日本人に日本人としての確固たる基盤を与える哲学・思想を求めなければなりません。
そして、それを現実に支える制度と力を求めなければなりません。
国家的切腹の手段を真剣に考えるべきでしょう。
★戦後、折笠征人は自分が伊507号の乗員の期待に答えられたのだろうかと悩みます。
彼は、浅倉大佐に対峙することで、伊507号の乗員を救い、
戦後を人間として見事に生きたのですから、必要以上に悩む必要はなかったと言えます。
戦後のアメリカの精神的侵略に対抗して、日本人の民族精神を再建することはまた、
別の種類の人間の役割です。
★ところで、私はこの本を読んで初めて海軍五省なるものを知りました。
極めて立派なものです。これを将来建軍される宇宙海軍は取りいれるべきものと考えます。
このような立派な精神を有していた日本海軍は
なぜ、壊滅されなければならなかったのでしょうか。

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ローマ帝国衰亡の原因

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ローマ人の物語11巻を大変面白く読みました。しかし広告のように、マルクス帝に「ローマによる平和」の終わりの始まりを見る論調には疑問を感じました。その論拠はマルクス帝が即位前にイタリア本国を出ていないこと、マルクス帝の時代に蛮族のドミノ倒しと言う現象が初めて本格的にローマを襲ったことにあるようです。確かに、現場に触れた方が良い情報が得られます。しかし現場から距離を置いた方が冷静な判断ができるという効用があり、情報を総合・分析するには現場から距離を置いた方が良いでしょう。マルクス帝も即位後はドナウ防衛線という現場に張り付きました。マルクス帝以後のローマ人が即位前のマルクス帝を見習って皆、現場を軽視したという訳でもないでしょう。それに蛮族のドミノ倒しと言う外部からの現象にマルクス帝には責任がありません。哲学者で外国に行ったことのない人物を排除するためにこのような物言いをしてるのではと疑いたくなります。そして私は「ローマによる平和」の終わりの原因は蛮族のドミノ倒しと言う外的現象に加えて、内的な要因として「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」(以下「誇り高き人々」とする)が少なくなっていったことが原因と考えています。10巻では「誇り高き人々」がローマのインフラを支える姿が描かれました。なぜ「誇り高き人々」が減少していったかと言えば、212年にカラカラ帝がローマ市民権を帝国の全住民に与えたこととキリスト教の普及が大きかったでしょう。ローマ市民権が軍団兵になる資格などと結びついていたことから分かるように、「誇り高き人々」にとって、属州民ではないローマ市民であることは誇りでした。属州民である「誇り高き人々」にとっては、ローマ市民権を得ることは目標でした。その誇りであり、目標であるものをカラカラ帝は奪ったのです。そして、市民権を得るのに帝国の住民でありさえすればよいとのなら、蛮族は帝国内に移住するとローマ市民になり文明の恩恵と良い土地に住む恩恵を受けられると考え、蛮族移動の誘因になります。キリスト教は、初期は特に、公共善の維持よりも隣人愛に重きを置きました。国全体や遠くの人々のことも考えて「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」よりも隣人愛を実践する人が尊ばれます。公共善について考えるよりも神学論争に熱中する人々が多くなります。

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不倫幸福論

2004/03/09 10:40

不倫不幸論

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道徳の根拠と幸福の前提


 価値相対主義の立場に立って、道徳を基礎づけることはできないという考えがある。しかし、道徳の基礎付けは可能である。人間が社会を構成する目的は人間の幸福のためである。だから、道徳が人間の幸福に奉仕するものであるならば、社会は道徳を承認しなければならない。私は「新しい幸福の原理」で、道徳を合理的な幸福の体系として組織することを唱えている。そうすれば、社会は道徳を承認するであろうし、カントの指摘する幸福主義の難点を回避できることも示した。
 この立場に立てば道徳は一般的に言って幸福をもたらすものでなければならない。私は同性婚を否定するために、「人類種族の繁栄と幸福」を持ち出したが、この「人類種族の繁栄と幸福」は道徳が守るべきものである。なぜなら、人類種族の繁栄と幸福は人間の幸福の前提だからである。人類種族の繁栄と幸福が無い世界においては、人間社会に未来がない。未来がなければ、明るい希望もない。未来があることは、幸福な人間が将来に渡って存在しうる大前提であるし、希望があることは現在の人間の幸福の前提である。従って、人間の幸福を守るために、道徳は「人間種族の繁栄と幸福」を守る。
 ところで、著者は「不倫の恋=不幸ではなく、ある条件をクリアすれば幸福になれる」と説く。私の立場でも、不倫をした者がある条件をクリアすれば幸福になれることを否定するものではない。だから、不倫の恋は不幸と等しいと主張するものではない。私の主張は一般的に言って、不倫は「不幸を作る」恋であるということである。一般的に言って不幸になる可能性が大きいし、条件をクリアして幸福になるにしてもクリアするまでに本人は苦しむし、周囲に不幸を作るということである。だから、道徳は不倫を否定するし、不倫を大々的に宣伝することは間違っている。

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紙の本楊家将 上

2004/01/11 07:34

宋と遼の激突

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「建国の苦悩の中にある宋国を懸命に支える楊一族の熱き闘い」と知っていささか気が重かった。なぜなら、高校の世界史では、宋は遼に圧迫され貢ぎ物を贈っていた国と教えられたからだ。しかし、中国で「三国志」と人気を二分すると知り、読んでみる気になった。読んでみると、その面白さが分かった。ストーリーも面白いし、現れる人物も興味深い。宋は悲願である燕雲十六州奪回のために、軍事大国遼に戦いを挑む。その戦いを支えるのが楊一族だ。楊一族は元は滅亡する北漢に属していたが故あって義ある国・宋に帰参し、厳しい訓練で兵力を磨く。正面の遼は「白き狼」を擁する大敵であるととともに、宋内部にも敵がいる。楊家軍は対遼戦で大活躍し、その本分を全うするが、悲運が待ち受ける。楊一族の長も、その子である兄弟も興味深い人物だ。陰のある四郎の恋の行方も気になる。フェミニズムに毒され、必要に女性に媚びを売る小説が多い中で、著者の潔く乾いた筆致はとても心地よい。「三国志」「水滸伝」を読んだ後は楊家将を読むべきだ。続編が望まれる。

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紙の本国家の品格

2006/01/17 13:31

★情緒と論理は車の両輪☆

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

★情緒と論理は車の両輪☆
 本書の後半の情緒に関する主張は共感できるものが大部分だ。しかし、前半の論理に関する主張に対しては、言いたいことがある。著者は「長い論理」と「短い論理」と「論理の徹底」の問題を主張する。「長い論理」が「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理を言い、「短い論理」が短絡的論理を言い、「論理の徹底」が市場原理主義の論理の徹底を言うならば、問題は無い。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理はその正しさの確率が極めて低くなるのは、著者の言うとおりだからである。短絡的論理が、人々の情緒と思い込みに訴える危険なものだからである。市場原理主義が、金銭的計算的合理性に過ぎず、資本家が利益を得るための論理であり、全体としての人間の幸福を勘定に入れたものではないからである。
 しかし、その論理に対する批判は、立派な理論家・思想家の長い論理一般に対しては必ずしも妥当するものではない。彼らは、長い論理を組み立てる。しかし、その長い論理は、確実な前提に立った上で、短い確実な論理を論理的に積み重ねて結論に至る。前提を選ぶに際しては慎重であり、確実な前提を得るために努力を積み重ねる。短い論理は、時や場所、他との関係、意味するものなど、その妥当範囲を限定した確実なものとする。短い論理を積み重ねて長い論理にする際には、その論理関係の正しさを確保するように注意する。一応の結論がでれば、それまでの論理を点検すると共に、情緒的に受け入れられるものかの観点からも点検する。事実による批判を受ければ、前提や論理が誤っていないか点検し、修正できるものなら、前提や論理を修正する。立派な理論家・思想家ならば、必ず、こうしたステップを踏むだろう。その長い論理は、深みに達することができると共に、一歩一歩前進するが故に誤りが紛れ込んでいないか検証することが容易である。頭の良い男なら、こういったことを実践するだろう。筆者が53ページで述べている東大出の男は大変頭の悪い男ということになる。
 そして、情緒の徹底にも問題がある。ヒトラーとドイツ人によるホロコーストは「ユダヤ人憎し」の情緒に起因する。ベルサイユ体制は、「ドイツ人憎し」の情緒に起因する。日本の美しい情緒と形を徹底したのが、太平洋戦争である。情緒が突出したため、このような不幸が生じた。そして、戦後、日本の美しい情緒と形は、論理的裏づけを欠いたために、敗戦の事実とヨーロッパ思想を前に衰退した。さらに、最近では、ジェンダー理論が論理により否定されるまで、男女間の美しい情緒と形を否定するフェミニズムが跋扈した。誤った情緒の行き過ぎを抑えるためにも、美しい情緒を守るためにも、正しい論理は必要なのである。自分は、ある情緒と形が「美しい情緒と形である」と考えても、美しいと考えない人もいる。人殺しを肯定する人もいれば、卑怯がカッコいいと主張する者もいる。そうした人に対して、説得を行うには論理が必要である。正しい論理が人殺しを否定する原則を打ち立て、卑怯はよくないことだという確実な根拠を提供する必要がある。私の「新しい幸福の原理」は、そのような要請にこたえるものである。
 そして、19ページで述べられている「荒廃の真因」である。宗教・道徳主義の力を奪った唯物論・共産主義、脱構築の哲学・思想、左翼・フェミニズムの理論などが力を失った。しかし、唯物論等の力を奪い、道徳に力を与える新しい哲学・思想が既に存在するにもかかわらず、その存在が否定され、無視されている。新しい筋の通った理想が存在するにもかかわらず、学問の理想と真理の原則に反して無視されている精神の空虚が真の原因である。その結果、理想が力を失い、現実主義・実力主義・経済主義・拝金主義が横行しているのである。

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紙の本謎とき本能寺の変

2003/11/16 20:21

朝廷が黒幕だ。義昭ではない。精神的怯懦の理由。

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朝廷が黒幕だ。義昭ではない。精神的怯懦の理由。

 著者が「光秀の謀反は、義昭からの働きかけによって起こったとしか考えられない」(p109)と述べるように、この本は本能寺の変について足利義昭黒幕説を採る。そして、光秀は苦境にありながらも、生命の危険にさらされていた訳ではなく、「謀反という最も危険な道」(p109)を選んだ理由として、p109で二つ上げる。
1.光秀の軍事力が不足していて、信長を急襲して政権を奪うことまでしかできないということ。
2.義昭の権威がなければ、信長殺しを正当化し自分の政権を正当化することはできないということ。
1.について。
 各方面軍が遠い前線に出払った状態にあり、光秀の軍団だけが中央にいる状態で畿内近国を制圧することは十分可能であった。また、朝廷の権威を利用できるとことになり、機敏に対応し勝利を重ねれば、軍勢を雪だるま式に膨らませることも可能であった。ただ、秀吉が非常に機敏に対応して誤算が生じたのである。そして、畿内が秀吉になびいている状態にあり、光秀は全兵力を投入できなかったにもかかわらず、山崎の合戦でかなりの兵力を使用できたのである。
2.について。
 義昭の権威は究極の権威ではない。当時、究極の権威は天皇にあった。足利幕府の権威の根拠は朝廷から与えられた征夷大将軍という官位にある。そして、当時は、織田信長がその武力で天下人として中央に君臨していた。足利義昭の権威は信長殺しを正当化し光秀の政権を正当化できるほど強いものではありえない。応仁の乱後、足利将軍は戦国大名が自分の天下取りに利用する対象になりさがっていた。将軍、足利義輝が将軍邸で公然と殺される事件まで起こった。織田信長の躍進後は、信長の天下取りを阻止するための反信長同盟の旗印として権威を持つ存在だった。しかし、1573年に足利幕府の滅亡とされる事件が起こり、京都を追放されてからは、その権威はさらに一層大幅に低下させざるをえなかった。究極の権威である天皇と朝廷が所在し、足利幕府が創立当初から存在し、文化・経済の中心でもあった京都に幕府を構えてこその将軍だからである。権威の低下していた足利将軍が京都を追放され信長が武力で中央を制圧したことで、足利幕府は滅亡したと、当時の人も自然と考えたことでろあう。京都追放により、格段に足利義昭の権威は失墜したのである。
中略
 そして、義昭黒幕説には重大な疑問点がある。毛利氏は秀吉との講和を急ぎ、本能寺の変を知ったのは、秀吉との講和後だったという事実である。毛利氏を頼っていた義昭が黒幕なら、当然、義昭は本能寺の変のことを知っていて、毛利氏に本能寺の変のことを知らせていたはずである。にもかかわらず、毛利氏が本能寺の変を知ったのは講和後だという。毛利氏が知らなかったのは本能寺の変が起こったという事実であったとしても、本能寺の変が起こるであろうということは知っていなければならない。そして、本能寺の変が起こるであろうということを知っていたなら、少なくとも講和を急ぐ必要はないのである。
中略
 このように第一に黒幕として検討すべき朝廷を検討せずに、足利義昭を黒幕であると論証することに熱中することは「精神的怯懦」の系譜に属するのではないだろうか。
後略

全文はこちらで読めます。

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紙の本神話と日本人の心

2003/09/09 21:06

太陽神スサノオ

2人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本神話の中空均衡構造を見事に分析している。
しかし、なぜ、中空均衡構造がとられたのだろうか。
著者は終わりにおいて
ヒルコ=男性太陽神の復権を考える。
ならば、スサノオの復権が考えられなければならない。
スサノオこそ、天皇権力に歪められる前の本来の日本神話における
太陽神であり、主神であり、英雄神であった。
しかし、スサノオは既存の王権に反逆し、自らの王権を創造するとされるがゆえに、
天皇権力から忌避され、太陽神、主神としての性格を奪われた。
そして、天皇権力は
日の妻であり、月の女神であり、
スサノオの配偶神であるクシナダをアマテラスに祭り上げ、
自らの権力の基盤とした。
この本はこうした日本神話の根本的性格に対する認識が欠けている。
本来の男性太陽神がその地位を奪われ、偽りの女性太陽神が
天皇権力によって創造されて日本人に刷り込まれたことが、
日本人の心にどのような影響を及ぼしたか分析してもらいたい。

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紙の本異議あり!生命・環境倫理学

2003/05/10 10:16

異議に批判の意義あり

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★「異議あり!生命・環境倫理学」(岡本裕一朗著、ナカニシヤ出版)の検討★

この本を検討することで自分の生命倫理・環境倫理に関する考えをまとめられました。

■脳死と臓器移植

中略

■自己決定について

以上、生命倫理の問題である、臓器移植、妊娠中絶、安楽死、
インフォームド・コンセント、クローン人間、遺伝子診断と改造について、
自己決定を原則とせずに考察した。
自己決定できるのは自己の処分可能な利益について合理的判断をする場合だけだ。
妊娠中絶は胎児という他者の生命に係わり、
それは社会が新たな構成員を迎える問題でもあるので自己決定を原則とはできない。
クローン人間及び遺伝子診断と改造については人間種族と人間社会の幸福と
緊密に結びついた人類全体の問題なので、自己決定を原則とできないことは明らかだ。
安楽死はその人の生命の処分の問題だが、
生命の処分を自由に認めれば「くさび理論」の問題が生じるし、
その人の生命はその人だけのものかという疑問がある。
その人を慈しみ育ててくれた親や社会、
生き甲斐を与えてくれた家族などは何の口出しも出来ないと言うことではないだろう。
臓器移植において自己決定が強調されるのは、
自己の死体をどう処分するかという
その人自身の意志を最も尊重して良い場合だからだ。
インフォームド・コンセントは自己決定の問題だが、
非合理な選択を許す問題点があるということだ。
私の立場では、
倫理道徳が問題とする領域は次の5つに分かれる。

1.法に基づき禁止する領域
2.標準規範が妥当する領域
3.パターナリズムが妥当する領域
4.標準規範の精神が援用される領域
5.自己決定が妥当する領域

1.は人間社会や人類社会全体の幸福の問題や、悪であることが明確な領域などの領域。
例。クローン人間の問題。殺人。
2.は冒頭で示した標準規範とその適用の結果が社会的規範として維持され、
違反に対する社会的批判が可能な領域。
例。通常の社会的な幸福追求の場合。
3.はその人自身では意志決定できないので、標準規範に従い、
その人の最善の利益のためにその人に代わって意志決定する領域。
例。幼い子供に代わって親が決定する。
4.標準規範から直接的な結論は出ず、その人の自己決定を非難できないが、
標準規範の精神に基づいて善悪が議論される領域。
例。他者のための自発的な自己犠牲や緊急事態の場合。
5.その人の恣意的な自己決定に任され、
標準規範の精神に基づいて道徳倫理的善悪が論じられることもないが、
人生論などで賢明な生き方が考えられる領域。
例。何を趣味とするか、何を目指す幸福とするかなどの場合。
1.2.3.4は標準規範の精神が妥当することとなる。
純粋に自己決定が妥当するのは5の領域だけだ。
他人の論に従い、自己決定するというなら、
自己決定と言うには疑わしく4.の領域となる。
他人の論に従わず自己決定することを認めるなら、
その道徳理論の結論に従わないと言うことを認めることであり、その道徳理論は破綻する。
従って、道徳理論が干渉しない5.の領域のみが本来の自己決定の領域だ。
しかし、このように考えても自己決定の自由は意義を失わない。
この分類自体、4.5.において自己決定に配慮しているし、
パターナリズムを限定しているし、
1.以外は法律の力により自己決定する自由が奪われる訳ではないからだ。

後略

★「異議あり!生命・環境倫理学」の検討★
全文はこちらから読めます。

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信長の夢と本能寺

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「織豊政権と江戸幕府」を読んで優れた叙述に感心しました。しかし、130p「信長が天正九年天皇の譲位を求めたのは、新天皇を自分の居所より下段にある本丸御殿に迎えるためであろう。」121p「天皇を迎える御幸の間のある本丸御殿をそれよりも下段に作ったのも重要である。戦国大名も天皇・将軍も越える異質の権力であることを印象づける空間創造をねらったのである。」という点には疑問を持ちました。
 私は安土城について次の様に考えています。天主閣脇の本丸御殿は、天皇の住まいだった清涼殿によく似ていたので天皇専用の御殿であり、大手門から続く大手通りは他の城の曲がりくねった狭い道と違いとても広く真っすぐ続くので天皇を迎えるための専用道だと言い、大手門の近くには天皇の馬をつなぐための大きな馬屋まであったと言う意見について。
 ある他人しか使えない大きな御殿と道とを抱えて、何年も信長が我慢していたでしょうか。清涼殿に似た住まいに住むのは信長にこそ相応しいのです。天主閣と本丸御殿とも信長が使用したからこそ、回廊でつながっていたのです。また、天皇の御殿なら、わざわざ東西裏返しの構造にする必要などありません。とても広く真っすぐ続く大手通りこそ、信長の権威と権力を示すのに相応しいのです。
 私は信長は天皇の権威を忌々しいと思って否定しようとしていたとする立場です。著者も類似した立場に立つようですが、果たして、信長が天皇を自分の城に迎えようとするでしょうか。天守閣の居住性は低く、信長は天守閣の使用だけで満足したでしょうか。本丸御殿も使用したでしょう。天皇を本丸御殿に迎えたとしても天皇が本丸にいて、信長が城下にいれば、天皇の方が上にいるでしょう。また、京都の御所の方が、山城の安土よりも低く、わざわざ天皇を本丸御殿に持ち上げる必要はないでしょう。そして、天皇に譲位を求めたことに対しては他の研究者が立派な理由を挙げています。また、天皇を本丸御殿に迎えて一体化する必要が信長にあったでしょうか。朝廷の官職体系を拒否し、自ら神たらんとした信長が天皇の権威と一体化して利用しようとするでしょうか。
 武田氏の滅亡後は残された大戦国大名、北条氏も信長の軍事的威力に怯え、毛利氏に対しては秀吉による攻略が進み、本能寺の変前には自ら乗り込んで壊滅させようとしたところでした。天皇の権威を利用する段階は過ぎていました。著者が神たらんとする信長という立場をとるのなら、本丸御殿に天皇を迎えるというのはいささか中途半端な立場ではないでしょうか。
 革命的な信長と安土城だったからこそ、朝廷に滅ぼされたのです。

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紙の本ロミオとロミオは永遠に

2003/01/22 10:16

ジュリエットは何処?

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とても面白い読み物です。
愛とサブカルチャーの趣向が面白いし、
「大脱走」の面白さも味わえます。
ところで、
あとがきで「著者にタイトルの意味は質問しないように」ということなので、
私が一応解釈してみました。
「ロミオとロミオは永遠に」というタイトルの完成形は
「ロミオとジュリエットは永遠に」だと思うのです。
この本は20世紀がその理想を完成できなかった結果生じた
21世紀を描いているのではないでしようか。
しかも、その歪んだ21世紀は女性にとっても厳しい世界らしい。
だから、タイトルに理想の21世紀を象徴するジュリエットがいないのでは。
ロミオが反復されるのは20世紀が自家中毒を起こして21世紀になった世界を意味するのでは。
そして、ロミオとロミオのままでいいという
著者の20世紀に対する哀惜の情が込められているのでは。
現在、現実の世界で本来あるべき21世紀を目指す運動があります。
その運動により、無血革命が起こっても
愛とサブカルチャーが弾圧されるなんてことはありえません。
フェミニズムは否定されても、
女性にとってこの本のような時代になることはありえません。
皆さん、ご安心を。

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歴史学の冒涜。

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歴史学の冒涜。
無根拠な神霊のお告げにより解決できるのは心の問題。
歴史問題は学理により解決されなければならない。
この本は、スピリチュアル、精神世界の本。
歴史学の問題を解決できるような宣伝は詐欺の類。

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