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先月(2017年6月)

コモンセンスさんのレビュー一覧

投稿者:コモンセンス

6 件中 1 件~ 6 件を表示

紙の本ほとんど記憶のない女

2005/12/07 18:29

圧縮された豊穣な物語

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』(岸本佐和子訳、白水社)には51の短篇小説が収められている。本文が190頁足らずの本なので、一つ一つの話はとても短い。超短篇小説といった方がいいだろう。しかし、そこには豊穣な物語が含まれている。たとえば、冒頭の「十三人めの女」は一頁わずか八行の作品である。
 「十二人の女が住む街に、十三人めの女がいた。誰も彼女の存在を認めようとしなかった。手紙は彼女に届けられず、誰も彼女のことを語らず、誰も彼女のことを訊ねず、誰も彼女にパンを売らず、誰も彼女から物を買わず、誰も彼女と目を合わさず、誰も彼女の扉を叩かなかった。雨は彼女の上に降らず、陽は彼女の上に射さず、夕暮れは彼女に訪れず、夜は彼女を包まなかった。週は彼女の上を通りすぎず、年は彼女の上に明け暮れなかった。彼女の家に住所はなく、彼女の庭の草は刈られず、彼女の庭の小径は歩かれず、彼女の寝床は眠られず、彼女の食事は食べられず、彼女の服は着られなかった。そういったことのすべてにもかかわらず、彼女は人々の仕打ちを恨みもせず、その街に住みつづけた。」
 最後のワンセンテンスがすごい。「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」(佐々木信綱)の「ひとひらの雲」みたいに、すべての叙述が最後の一言のために、それに向かって整然と配置されているという感じ。「十三人め」というのが、イエス・キリストの十三人の使途のひとり、イスカリオテのユダを連想させることはいうまでもない。完全なる黙殺。いまふうに言えば、究極のいじめ。しかし、「そういったことのすべてにもかかわらず、彼女は人々の仕打ちを恨みもせず、その街に住みつづけた。」このワンセンテンスで、彼女の裏切り者のイメージは払拭され、いや、むしろ事態は逆転し、彼女は聖人の様相を帯びてくるのだ。

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紙の本いつも風を感じて

2004/11/14 09:37

四十八歳の蹉跌

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 島田紳助の最新エッセー集『いつも風を感じて』を読む。前からこの時期に出版が決まっていた本である。タイミングがいいのか、悪いのか。読んで思ったことは、今回、彼が起こした事件は、「四十八歳の蹉跌」であったということだ。石川達三の小説『四十八歳の抵抗』と、同じく石川の小説で神代辰巳監督で映画化された『青春の蹉跌』を重ね合わせた言葉である。
 島田紳助は15年間続けてきたテレビ朝日の「サンデープロジェクト」のサブ司会者を今年の3月末に降板した。降ろされたのではない。自分から降りたのである。ヤンキー上がりの漫才師からピンのタレントになった「何も知らない三十三歳の紳助」が時事問題について専門家に素朴な質問を投げかける、というのが彼のポジションだった。そこからスタートして、彼は猛勉強をした。

 「そうやって勉強して、今、四十八歳になっとき、わからないことはほぼなくなったような気がした。…(中略)…「わからないことがなくなる」ことは、あの番組においてぼくのポジションがなくなる、ということなのだ。見ている人も「アホなくせにここまでがんばてんな」という目で見始めていたに違いない。それは、四十代も後半にさしかかって、感じるようになってきた。」

 一歳年上の古館伊知郎が同じテレビ朝日で「ニュースステーション」のメインキャスターをやることに決まったことも、彼が「サンデープロジェクト」への情熱を失わせるものだった。こうして報道番組のメインキャスターを務めるという長年の夢を彼は断念した。そして彼は心のバランスを失った。

 「たとえば、バラエティが全部当たらなくなって、レギュラー番組が根こそぎなくなったとしても「ぼくは報道がしたいんです」という、大義名分があったのである。でもぼくはその大義名分になるものを、安全なロープを、自分で切ってしまった。だから、手をかける場所、足をかける場所がなくなった瞬間、真下へ真っさかさまに落ちていくという緊張感が、ある。今、バラエティのレギュラー番組は何もかも調子がいい。両手両足がうまくしがみつけているから、他人から見たら、絶対に落ちないと思うだろう。「エエなあ。絶好調やん」「絶対に落ちひんやん」しがみついているから落ちないけれど、上の岩が見えづらい。頭の上にある断崖絶壁のつかめる石を探る手がない。怖い。」

 まるで今回の事件を予告するような文章である。今回の事件を「高視聴率タレントの慢心」が引き起こしたものと考えるのはことの一面しか見ていない見方である。慢心の背後には「高視聴率タレントの不安」がある。いまがピークであることを自覚する人間は、下降の不安に怯える人間である。私には今回の島田紳助の行為は一種の自殺未遂のように思える(ビートたけしが1986年に起こした「フライデー乱入事件」と似たものを感じる)。彼は、吉本興業やTV局の思惑を裏切るように、すべての決着がつくまで芸能活動を自粛すると言っているらしいが、彼はもしかしたら人気のピークであるこの時期に潔く引退したいのかもしれない(先輩の上岡竜太郎のように)。

「中学に入るくらいから、暑くなってきた。
 夏が近いな、って。
 高校一年生の夏休みとともに、人生の夏休みが始まった。
 そしてそれは、三十四歳くらいまで続いた。
 十八年くらい、夏休みがあったことになる。
 でも、終わっていたことには、気づいていなかった。
 四十八歳。
 夏休みは、とっくに終わっていたのだ。」

 私は島田紳助のファンである。田代まさしのファンでもあった。田代まさしはもう戻っては来られないだろう。薬物が一人のコメディアンを殺した。彼には罪を償い養生をして市井の人として生きていってほしい。しかし、島田紳助には戻ってきてほしいと思う。失われた心のバランスを時間をかけて取り戻して、帰ってきてほしいと願う。

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紙の本号泣する準備はできていた

2004/09/12 22:22

短篇小説の余韻

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 短篇小説というのは余韻がすべてである。「しみじみとした」余韻、「さわやかな」余韻、「切ない」余韻、…いろいろな余韻があるが、とにかく、読み終わってしばらくそれに浸っていたいような何かしらの余韻がそこに残るかどうか、そこに短篇小説の成否がかかっている。そして、そうした余韻をかもしだせるかどうかは、ひとえに作家の才能にかかっている(もちろん読者にもそれなりの感受性が必要だが、それについてはひとまず措く)。長篇小説を書くために必要な才能が「構想力」であるとすれば、短篇小説を書くために必要な才能は「観察力」である。日常生活の中で、凡人が見過ごしているもの、見てはいてもありきたりの視線で見ているもの、そうしたもの(外部のものとは限らない)に焦点を当て、くっきりと、クローズアップし、読者の目をそこに釘付けにする力、それが「観察力」である。…というようなことを、江國香織の短篇小説集『号泣する準備はできていた』(新潮社)を読みながら思った。
 たとえば、「煙草配りガール」という作品は、「私」と「夫」と「百合」(私の幼なじみ)と「明彦さん」(百合の夫)が薄暗いバーのテーブルで交わす会話で成り立っている。「私」は再婚で、「夫」は初婚だが「私」と結婚する前に12年間付き合っていた女性がいた。「百合」も初婚だが結婚を考えた男性が少なくとも過去に二人おり、「明彦さん」は再婚である。そういう4人が交わす会話だから、大学生がキャンパスの芝生の上で交わす会話とは違って、親密な険悪さとでもいおうか、撤去し忘れた地雷をいつ踏むかわからない雰囲気がある。そんな雰囲気の中で、「私」はふとこんなことを思う。

 「急に、いまここで百合の横にすわっているのがあの男でないということが奇妙に思えた。あるいはいっそ、学生時代に百合がまるまる四年間つきあい、「将来絶対結婚する」と宣言していた男ではないことが奇妙に思えた。いまトイレにいっている男がかつての夫と別人であることも、明彦さんの隣にいるのが彼の一人目の妻—百合は二人目だーではないことも、そしてここに坐っている私が、夫と十二年間つきあって別れたという京都出身のーそういう女がいたそうだなのだがー女でないことも。」

 この感覚は、多かれ少なかれ、誰もが経験したことのあるものではなかろうか。自分の周囲の世界から、現実感が薄らぐ感覚。周囲の世界を構成する個々の事物と自分との関係が必然的なものではなくて、他の関係と置き換え可能な、偶然的なものに過ぎないという感覚。精神科医ならば「離人症的感覚」というかもしれないし、哲学者ならば「実存的不安」というかもしれない。われわれは、家庭の居間で、職場で、通勤電車の中で、こういう感覚とたまに遭遇する。そしてそれを「疲れ」のせいにして、やりすごす。しかし、江國香織はやりすごさない。読者は、彼女に連れられて、日常ののっぺりとした空間に一瞬生じた裂け目の中に入っていく。彼女の短篇を読むことはとてもスリリングだ。そして読み終わった後には、「何ともいえない」余韻が残る。

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紙の本幸福な食卓

2004/11/22 11:10

幸福な夕食

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 朝起きると快晴である。散歩に出たい。しかし、瀬尾まいこの新作『幸福な食卓』も読みたい。寺山修司は「書を捨てよ、町に出よう」と言ったが、私は「書を持って、町に出よう」と思った。
 昼食後、自転車に乗って池上本門寺へ行く。正面の階段からではなく、裏手の弁天池の畔に自転車を止め、本門寺公園の中を歩いて本堂のある山の上まで行く。お参りをすませてから、本堂の横の日当たりのいい階段に座って『幸福な食卓』の第2章「バイブル」を読む(第1章「幸福な朝食」は夕べ読んだ)。
 物語の主人公は中学生の女の子。父親が5年前に風呂場で自殺未遂を起こし、最近、「父さんは今日で父さんを辞めようと思う」と宣言して、中学の教師を辞めて大学の薬学部を受けるために勉強を始めた。母親は夫の自殺未遂がきっかけで心身のバランスを崩し、家を出て近所のアパートで暮らしている。成績優秀だった兄は「真剣さ」を捨てて(そうしないといつか父親と同じように死を選ぶようになるという危惧から)、大学へは進まずに農業の仕事をしている。こう書くと悲惨な家族のようだが、決してそんなことはなくて、各人が制度的に期待される役割の鎧を脱いで、ふわりとした関係を保ちながら生活しているところは、なんだか素敵だ。そう感じるのは、やはり私が(われわれが)家族というものを頑張って、多少の無理をして、日々演じているためであろう。無論、瀬尾まいこはポスト近代家族論者なんかではない。主人公一家のふわりとした関係を魅力的に描きながらも、やっぱりこういうのってどこか変なんじゃないか、という余地を残す。そして家族の修復へ向けて物語が動き出す仕掛けを用意している。それは第一に兄の新しい恋人の登場であり、第二に主人公の初めての恋人の登場である。家族を変えるものは家族の外部からやってくる。
 第2章を読み終わったところで、家に帰る。午後4時を少し回ったところだが、3階のベランダに出ると夕日が街並みに沈もうとしていた。本当に日が暮れるのが早くなった。第3章「救世主」を読む。話の本筋とは関係ないが、瀬尾まいこは食べ物をおいしそうに描くのが上手だ。本人が食いしん坊だからに違いない。妻に今日の夕食の献立を尋ねたら「ヒレカツよ」とのことだった。それは楽しみだ。第3章を読んでいる途中で、風呂にお湯を入れ始め、読み終わったところで風呂に入る。第4章が最終章なので、一気に読み終わってしまうのがもったいない気がしたのだ。面白い小説というのはたいていそういうものだ。
 風呂から上がって、第4章「プレゼントの効用」を読む。「えっ」という展開が待っていた(これからの読者のためにそれは書かずにおく)。あと残り4ページというところで夕食の膳がととのった。妻、娘、息子はすでに席に着いている。「お父さん」と娘が咎めるような口調で私を呼んだ。しかたない。本を閉じて食卓に着く。ヒレカツは美味しかった。おしむらくは付け合わせのキャベツの千切りが不足気味だった。『幸福な食卓』の一家は呆れるくらいたくさん野菜を食べるのだ。夕食を終えて、最後の4ページを読む。主人公が恋人のために編んだマフラーは恋人の弟の首元に巻かれることになった。主人公は思う。「私は大きなものをなくしてしまったけど、完全に全てを失ったわけじゃない。私の周りにはまだ大切なものがいくつかあって、ちゃんとつながっている。」切なく、そして暖かなエンディングである。瀬尾まいこの世界を堪能した。ごちそうさまでした。

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紙の本アフターダーク

2004/09/09 16:45

今夜の出来事

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 台風一過の晴天の一日、『アフターダーク』を読んだ。18の章から構成される小説だが、15章に入る手前では、あと残り4章でどうやって物語を終わらせるのだろう、このままだともっと大きな小説の予告編みたいな作品になってしまうのではないかと心配したが、杞憂であった。以前、河合隼雄との対談『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店、1996)の中で、村上はこんなことを言っている。
 「書きはじめのときに全体の見取り図があるわけではぜんぜんなくて、とにかく書くという行為の中に入り込んで行って、それで最後に結末がよく来ますね、と言われますが、ぼくはいちおうプロのもの書きだから結末は必ず来るのです。そしてある種のカタルシスがそこにあるわけです。」
 『アフターダーク』の結末がもたらすカタルシスは、唐突なことを承知で言えば、川端康成の『伊豆の踊子』のそれに似ている。『伊豆の踊子』は、自らの歪んだ性格に悩む主人公の一高生が旅先で旅芸人の一座と知り合い、彼ら彼女らから「いい人」と思ってもらえたことで精神的に快癒する物語だ。『アフターダーク』もまた、子どもの頃からいつも2つ年上の美しい姉と比較されながら育った19歳の大学生マリが、深夜(午後11時56分)から朝(午前6時52分)までの時間帯の大都会の片隅でいろいろな人間と出会い、彼ら彼女らからプラスの言葉とまなざしを受けたことで、マイナスの自己イメージから抜け出して姉との関係の修復に向かおうと決意する物語だ。
 ただし、物語のすべての場面がマリを中心としたものであるわけではない。むしろ『アフターダーク』は夜の街に棲息するいろいろな人間たちの群像劇として構成されており、同時進行する複数の物語がリンクする結節点にマリが位置している。映画化すれば、たぶん行定勲監督の『きょうのできごと』のようなスタイルの作品になるであろう。もっとも『きょうのできごと』はどの物語もハートウォーミングなものだったが、村上春樹の世界にはあくまでもエネルギー保存の法則が存在していて、マリの物語が暖かなエンディングを迎える一方で、白川というシステムエンジニアの孤独で冷たい物語は残酷な結末に向かっていく。小説の技法として面白かったのは、すべての物語が、遠くの星から円盤に乗って地球にやってきた宇宙人の視点(あくまでも私の受けた印象)から語られていることだ。
 「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」—これは『アフターダーク』の登場人物の一人、高橋テツヤの人生のモットーで、『アフターダーク』のポスターに印字されている。最近、尿管結石の除去手術を受けたばかりの私も、同じことを医者や看護婦から言われている。

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紙の本天国はまだ遠く

2004/08/13 09:09

瑞々しい再生の物語

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 主人公の千鶴は保険会社に勤める23歳のOL。日々の生活の何もかもが嫌になり、疲れ果て、死ぬことを決意して日本海に面した木屋谷という名の小さな集落にやってくる。一軒しかない民宿「たむら」の二年ぶりの客として投宿したその日の夜に、睡眠薬を14錠飲んで自殺を図るが、翌々日の朝にスッキリと目が覚め、民宿の主人が作った朝食(みそ汁、ご飯、白菜の漬け物、卵焼き、鰺の干物)を残らず平らげた。こうして木屋谷での彼女の日々が始まった。

 「朝、早く起き、男の用意した食事を食べ、自分の物を洗濯して、外へ出る。集落の周りをゆっくり回り、おばあさんに挨拶し、有機栽培のパン屋を覗く。おばあさんの挨拶はいつも一緒で、パン屋は一向に開店しない。集落を一回りしたら、原っぱでこれからのことを考えようと試みる。だけど、思考はちっとも進まない。頭が考えようとしないのだ。今の私は答えを見つける力がない。死ぬ気もなければ、何かを始める気も起きなかった。/昼前に宿に戻ると、男の用意してくれた食事がテーブルに載っている。おにぎりとか、サンドイッチとか、簡単で冷めてもおいしく食べられるものだ。それを食べて、また外へ行く。何も考えず、ただ歩く、昼からは村がそれなりに活気づく。お年寄りばかりだが、何人かが畑で動く姿を目にする。人が働く姿を見ると、さすがに活動しなくてはいけないって気持ちになる。だから、私も少し一生懸命歩き回る。くたびれたら、そこら辺りに座り込んで、ただ、景色を眺める。時々、細い雨が降ったりするが、気にはならなかった。ただそれだけで、日々は過ぎていった。」

 彼女は生と死の間にいる。生物学的にはちゃんと生きているが、社会学的には「民宿の客」として、つまり地域共同体の外部から一時的にやってきた人間としてのみ存在する。彼女は社会から遊離している。物語は彼女が再び社会へかかわっていこうと決意するまでを描く。すなわち再生の物語である。前作『図書館の神様』も再生の物語であった。再生(再起)の物語は大衆文学の王道である。「忠臣蔵」も「プロジェクトX」も再生の物語である。われわれは再生の物語が好きなのだ。だが、そうであればこそ、再生の物語は大量生産され、マンネリになりがちである。読者はたんに再生の物語であるというだけでは感動しない。再生の過程をいかに瑞々しく、いかに繊細に、いかに説得的に描けるかが重要である。瀬尾まいこはそれをなんなくやってのける。才能というしかないが、彼女がこれから先ずっと才能だけでやっていけるとは思えない。どんな作家も自己模倣に陥る可能性はある。はたして彼女が次にどんな物語を書くのか、注目して待ちたいと思う。

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