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レビューアーランキング
先月(2017年6月)

Kayさんのレビュー一覧

投稿者:Kay

11 件中 1 件~ 11 件を表示

紙の本死体は知っている

2003/08/08 10:50

雄弁な死体

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本では3つのことに心惹かれる。一つ目は実際的な死体についての知識。溺死体では左右の心室で血液の濃度が違うなんて、言われなければなかなか気付かないことだ。大体普通の人間が死体に詳しいだなんていかにも怪しい。しかしそこにそういう知識があるなら知りたいと思うのが人間なのだ。「へーっ」と驚いたり「ふんふん」と納得しながら読み進める。
 二つ目は、死人を取り巻く人間のドラマだ。この本はただ専門的な知識の羅列で終わるのではなく、著者が実際に扱った事件や、それに基づいた短編も収められている。死体の検死に始まって徐々に情報をたどり、行き着く先にあるのは思いもかけなかった事実。上質のミステリーのようで、これが実際にあったと思うと薄皮一枚剥がれたリアルさがある。
 三つ目は、法医学者として長年仕事をしてきた筆者の社会観、人生観だ。死体の聞こえざる声を聞き、本当の死因を突き止める為に死体を解剖するなどという仕事、強い使命感がなければ出来るものではない。もし他殺死体を自殺死体と言ってしまえば、その人を殺した犯人は永遠に捜査され罪に問われることはない。あの世があるなら、その死んだ人はあの世でどんなにか悔しいだろう。死者の人権を守ることは、その死者の生きた生を尊ぶことなのだ。筆者の言葉には長く真実を追究してきた者の強さと真っ直ぐさがある。
 余談だが、この本で得た知識を利用して巧いこと殺人を働こうとしても上手くいく可能性はかなり低い。まず、この本に書かれていることが法医学の全てではない。本文の中で死体にどれだけのおもりを付ければ沈んだままでいるのか「私は知っているが教えない」そうだ。また、この本は94年に書かれたものであり、それから法医学は長足の進歩を遂げている。死体の口を塞いでおくのは、もはやとても難しいことなのだ。

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紙の本難病日記

2003/08/08 10:53

日々感謝して生きる。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私達が日常の経験の中から想像するクリスチャンとはどんなものだろう。「敬虔」という言葉に「腰の低い」という印象が含まれていないだろうか。または「怒らない」「欲が少ない」などの印象は。けれどその本質は一体何かと問われれば、全くお手上げだ。この本では三浦綾子さん晩年間際の毎日の生活を通しその本質「だけ」が語られている。
 三浦綾子の名を書店で目にすることは多い。代表作は「氷点」。押しも押されもせぬ一昔前の大ベストセラーだ。しかし彼女がクリスチャンであることや長い闘病歴の持ち主だということは彼女の名前ほどには知られていないのではないか。この本を読むと、信仰がいかに人を強くするのかが分かる。そう、病魔に冒された三浦さんを、私は「強い人だ」と思った。彼女は神にすがって寄りかかっているのではなく、ただ信じ、祈り、日々生きていることに感謝しているだけなのだ。例え夜中一人でトイレに立てなくても、三浦さんの足はしっかりと地についている。
 もう一つ特筆すべき事は、三浦ファンにはもう当たり前のことだろう、光世さんの存在だ。私にはベストセラー作家という華々しい肩書きを持つ綾子さんの方が光世さんの光を受けて輝く月の方に思える。それほどの人物者なのだ、光世さんは。失礼だが、本当にこのような人が今時いるのか、と疑いもする。解説の最後に、ほほえましい嫉妬の話題がちらと出てくる。この本を通して読めばきっと分かると思うが、綾子さんに嫉妬させることが出来るのは間違いなく光世さんだけだろう。
 今まで人生の路を真っ直ぐに来た人にも、迷いながら来た人にも、お薦めの一冊。

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紙の本もの食う人びと

2004/07/15 15:53

食べることは生きることという当たり前のこと

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「もの食う」という言い回しに惹かれてこの本を手にした。
 バングラディシュの残飯市場から始まり、旧東ドイツの刑務所の食事、無人の村に残る老婆の作るスープ、観覧車の中でのディナー……。
 食うということは、なんて様々なことを映し出すんだろうとと感心させられたが、すぐにそれは生きることすべてのことだと気付いた。そういえば、そうなのだ。
 そういえば、人は食べずには生きていけないのだった。小腹が空いたからとか、お昼になったからとか、果ては健康にいいからなんて言うその前に、食べなくては死んでしまうのだった。
 そんな当たり前のことを、この本はまず半ば荒療治的に思い出させてくれた。そしてそれに気付いたあと、再び読み進めながら思うのは、食べるというその行為を取り巻くものについてのことだ。「この人は、どんな思いでこの食べ物を口にしたのだろう」「こんな食べ物が存在する世界に生きている人もいる」と。
 この本の放つメッセージは強烈で、揺るぎない。自分はそれにたじろいだ。人は毎日ものを食う。それ故、食べ物は嘘がつけなくなってしまう。それらの食べ物の語る言葉は、どんな直接的な表現よりもストレートに心に届く。そういえば、自分も毎日ものを食い、生きているからだ。
 食べていけるって、幸せなことだ。

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結局、今の科学じゃ駄目らしい。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「意識は科学で解き明かせるか」と言うタイトルの通り、きわめて科学的に意識というものにアプローチしている。その分、相対性理論や量子力学が苦手な人は少し苦労するかもしれない。どのように脳は情報を処理しているのか、そしてそれを説明するのにどのように量子力学などの考え方が役に立つか、そんなことを大真面目に議論する本。ただし、現在の脳科学の状況を見ても分かるように、未だ全て理論の域を超えていない。見識を広めたり、知的想像を楽しむのにはもってこい。

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紙の本症例A

2004/07/13 15:42

精神病患者は魂の荒野を行く。精神科医はその時どこにいるのか。

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 人に自分のことを分かってもらえないって、どんな気分だろう? 勿論、自分のこと「全て」を「他人」に理解してもらうなんて不可能だ。そんなことは当たり前だ。だけど、それを知っていながらも私達は人が自分のことを分かってくれないと嘆いたりする。それなら、もし「ほとんど」分かってもらえないとしたら? 改めて、精神病というのは扱うのに非常に重いテーマだと思った。

 多重人格なんて、触れるチャンスのなかった私には、本当に話の中でのものでしかなかった。それは確かにまだそうなのだが、今では「多重人格」と言われれば、この話を思い出すだろう。それほど真摯に描かれているという印象を、確かに受けた。なにより、榊医師が真摯だった。彼の精神分析や催眠に対する態度を頑固者、とか、頭が固い、とか思われる人もいるかもしれないが、私には信念のある科学者に見えて、好感が持てた。しかし、人格者だからと言って患者の精神を修理出来るということにはならない。患者にも医師にも、それはもどかしいことなんだろう。けれど皮肉なことに、だから小説はドラマチックになるのだが。

 ところで、博物館の話は「箸休め」みたいな気分で読んでいた。読み終わってしばらくして、自分なりにこの話の存在意義を考えてみた。それは「ホンモノ」と「ニセモノ」の境界線の危うさを示すためなんじゃないか、と思った。美術館の収蔵品と精神病患者の妄想、と言う対比で。まあ、いささか大仰だが。筆者は、博物館の話も榊医師の話も、微妙なところで終わりとしている。「曖昧なものは、曖昧」と私は身をもって教えられたってこと…か?

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紙の本超・殺人事件 推理作家の苦悩

2004/07/11 14:11

愛すべきナンセンス

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 東野圭吾お得意の一般の意識を逆手に取った痛快作。作中での作家や編集者たちの苦労やおバカっぷりに、思わず笑みがこぼれた。明朗快活な「ハハハ」ではなく、ニヤリ笑いの「へへへ」が。こんな中身を読んでしまえば、帯の「推理作家協会除名覚悟!」の文字すら洒落として受け流せる。

 私のお気に入りはショヒョックス。ありそうでなかったアイデアだと思う。星新一さんの本が好きな私は、こんなナンセンスな機械が大好きだ。まあ、人間ってのは天邪鬼だから、ショヒョックスが流行ったら流行ったで「この書評にはショヒョックスを使用していません。」なんて文句がウリになったりして。もちろんこれにも使ってません。へへへ。

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紙の本病院で死ぬということ

2003/08/09 00:53

猜疑心と孤独と絶望と

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 末期患者はただ病室のベッドを占拠している物体——それが現代日本の現実の一面でもある。その患者の周りに人が集まるのは、もはや臨終の時だけだ。明らかに死の直前にいる患者に蘇生術を施しても、僅か二、三十分心肺が停止するのが伸びるだけでその間患者は家族や友人と話が出来るわけでもない。そこには激しい蘇生術によって最後の最後まで傷つけられた遺体が横たわっているだけだ。
 初めはさほど重い病気ではないと言われ、ちょっとのつもりの入院がついには我が家に帰ることは出来なくなってしまった。家族や医者の態度もどこかよそよそしくなり、体力は衰えていく。猜疑心と孤独と絶望だけが頭に渦巻いている。そんな患者の心の内を思うと、胸の奥がきりきりと痛む。「まだ」生きているのではない。「いま」生きているのだ。
 筆者はこの状況を医者として「仕方がないこと」と頭の外へ追いやらなかった。全ては南極行きの船で読んだ本の一節で、今までの自分の中の不完全燃焼していたものが消滅したことから始まった。末期癌患者にその病名を告げず、必死の蘇生術の末の患者の死、その後の何か納得のいかない心の中のわだかたまり。
 その人の人生最後の日々。それが第三者の手にのみ委ねられているのは仕方ないと言えば仕方ないが、おかしいと言えばものすごくおかしい。どうせ死ぬんだから、なんて言い方はしてはいけないのだろうが、物言えず、何も考えられない時間がちょっとぐらい延びるよりも、家族や友人と過ごせる時間が一日でも増えたなら、それはどんなにか死にゆく患者に満足を与えるだろう。筆者はそんな当然のことを言っている。ごく、当然のことを言っている。

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紙の本あやしい探検隊バリ島横恋慕

2003/07/23 11:26

チャチャチャ!ポンポンポン!

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 『またバカたちが集まって、「どこかへ行こうか」という話になった。』あやしい探検隊の、正しい始まり方だ。しかし今回は焚き火もテントも影を潜め(ただしビールはどこにでもある)、全編を通して根底を流れるのは神様という概念の存在と郷愁の面影だ。
 バリは神様の住む島。どこかの旅行会社の広告にもそう書いてある。それがどうやら全くの嘘ではないらしいことが、パックツアーなんて断固拒否するけんね的あやしい探検隊によって明らかになった。どのように明らかになったかについては特にここではその詳細を秘すが、探検隊メンバーの日頃の悪行が神の山にて少しくらいは浄化された、と思う。
 デジャ・ヴュというのは、心の中に以前からあった映像がその時に見た風景と重なって見えた時に感じるものなのではないか、と常々思っている。でも、ほんとに前世のだ!と言い張る人もいるだろうから「デジャ・ヴュ感」と言っておこう。あやしい探検隊のメンバーはバリのそこここで「古き良き日本」を思わせる場面に出くわす。私はこの本を読んでバリの風景をおぼろげながらも想像することは出来ても、昔の日本はなかなか思い浮かんでこない。しかし私がバリの同じところに行ったら、古い日本「のようだ」というデジャ・ヴュ感はありそうだ。この本を読むことによって想像したバリの風景が私の心の中に残っているからだ。
 さて、ここまで言っておきながらなんだが、この本の一番の見所は高級ホテルである。「高級ホテル?」と疑った人は正しい。そう、なんと今回探検隊メンバーが高級ホテルに一泊しているのだ。たった2ページのホテルレポート、それを読むと愛すべきあやしい探検隊の様子が(さっきのバリの風景よりも)目に浮かぶ。
 バリに行ったことがある方もない方もご一読あれ。

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紙の本歴史をかえた誤訳

2003/07/16 23:39

文化間コミュニケーション

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 どんな文化も、他の文化とぴったりと重なり合うことはない。言語も同様である。鳥飼玖美子著の「歴史をかえた誤訳」は通訳というもののどうしても取り除くことの出来ない特性について語られている。
 国家間の誤解の裏には、誤訳があることが多々ある。この本は、歴史の中で誤訳がどのように国際関係に影響したか、その例で占められている。ある時はその影響は原子爆弾の投下であり、またある時は単に失笑を買うだけでもある。
 著者は、これらの誤訳の多くの原因を指摘している。一番の原因は、その二つの言語の属する文化背景の違いによって引き起こされる理解の格差だ。他には、単に通訳者の技量、政治的に重要な場面での責任に対するプレッシャー、そして発言者と通訳者の意志の疎通が欠けていること、がある。
 文化的な差異を克服するには、通訳者は一つの言語で表された文の実際の意味をもう一つの言語で伝えなくてはならない。それは即ち、明らかに意訳が必要だということだ。ここに大きな落とし穴がある。著者は忘れずに通訳の義務は何であるかということについて語っている。正確さは通訳の最優先事項である、と。しかし一語の意味にとらわれることは真に「正確な」通訳をするにあたって良くない。通訳者は常にぴったりと合うことのないパズルと戦い続けている。

 どうだろう。翻訳調の文章だっただろうか。じつはこれ、英語で書いてから日本語に起こしたものなのだ。元の英文はこちら。

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紙の本バカの壁

2003/07/05 17:27

唯脳論者の認知学

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 この本は、短くない時間の流れの中でじっくりと日本という国を見つめ続けてきた解剖学者養老孟司の思想のエッセンスだ。
 前半は意識と身体について割合系統だった議論が成されているけれど、後半は思考の流れるままに綴られている印象を受ける。しかしこの本は、敢えてその思考の飛躍を楽しむ種類の本である。
 解剖学はソフトウェアとハードウェア、どちらについての学問かと言えば圧倒的に後者についてだ。そのフィルターを通して見た社会現象は、ありふれているようで新鮮だ。例えば『子供に「自分は自分だ」と説いて個性化教育を施すことは共同体社会においてどういう事なのか?』など。養老節は知識の哲学としては成立せずに未だ個人的意見の域を超えないが、それでもそれに耳を傾けることは現代日本にとって益となるだろう。

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紙の本神の子どもたちはみな踊る

2003/07/01 22:15

ハルキワールド

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村上春樹の小説を読むと、ハルキワールドなるものの存在をいつも信じさせられる。この本はそんな世界へのプチ周遊旅行にぴったりだ。日常の中に潜む「非日常」。しかしそれは日常に完全に相反するものではなく、むしろその陰となり寄り添うもの。そんな世界を村上春樹の文章を通じて垣間見ると、そこには二度と帰らない「そこなわれてしまったもの」の抜け殻がある。本を閉じてハルキワールドから出ると、魔法は解けてしまって抜け殻は目の前で崩れていってしまうけれど、魔法にかかった記憶はいつまでも自分に残る。

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