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  3. ぼこにゃんさんのレビュー一覧

ぼこにゃんさんのレビュー一覧

投稿者:ぼこにゃん

55 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本最後のウィネベーゴ

2007/02/05 15:06

犬も勘定に入ります。

16人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 テレビ番組が健康情報を捏造した、という記事が新聞の一面に載っていた。その数日前には納豆の売り上げが急激に伸びて生産が追いつかなくなった、と社会面が語っていた。番組がデタラメだったことを知り納豆を買い占めた人々は大変ご立腹らしいのだが、ずいぶんさもしい話である。楽してヤセたいと思うのも図々しいが、欲望丸出しのはしたなさに対する恥じらいもなく、ムコの被害者気取りで一方的に相手が悪いと糾弾する人の姿は実に見苦しい。いい大人が何をやっておるのか。
 表題作の主人公は、かつて地上最後の犬(舞台は近未来)と共に暮らしていた男性。その大切な友を、車の事故で失ってしまう。犬をはねた運転手は当時十六歳、免許取りたての少女。
 こんな時、自分だったらどうするだろう。表情豊かな耳と愛情深い瞳の毛むくじゃらの宝物を奪われてしまったら。あるいは奪ってしまったら。
 失意と罪悪感、生きていればどうしようもなく、そのどちらも味わうことになる。こんな不幸な事故の当事者なら尚のこと、被害者と加害者のいずれもその両方の気持ちに苛まれるはずなのだ。それでいてその両者が分かり合うのはとても難しい。
 普通は自分の心を軽くするため、互いに相手の過失を責め合うものだ。
 けれども加害者である少女は、言い訳もせず逃げもせず、途方に暮れつつ凛々しくも主人公の怒りをまともに受け止め、ただ静かに堪える。スゴイなあ。この物語の最も素晴らしい点は、人間に必要な強さは他人に牙をむくことではなく、どんな時でも内なる真実の声に従って振舞うことなのだと、被害者と加害者の双方が知っているというところだ。
 クライマックスはこの主人公が、長い年月を経たのちに、彼女の窮地を知り救いに走る場面。彼のがむしゃらに突っ走る様子が、傷の痛みを忘れることはできなくても、誰かを許すことはできるのだと教えてくれる。同時に、許す側にも許される側にも、誠実さと品性がなくてはならないのだということも。
 哀しいことにこの物語で犬は絶滅してしまったわけだが、人を許し人生を続けて行く心の深さは、あの毛むくじゃらで無邪気でヌクヌクした生き物の大きな遺産となるに違いない。
 実はこれがこの本の中で一番リアリティのある小説なのだけれど、こんな人間同士の厳しくも麗しい関わり合いというのがファンタジーに見えてしまうのは皮肉なことだ。
 現代人に必要なのは納豆よりも、心の栄養なのではあるまいか。

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猫よ!

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ネコは年を取らない。
 というのは無論うそであり、ヒトの数倍の速さで時を進んで行くのだが、いつまでもカワイイのでそんな気がしてしまうのだ。けれどもやがては私を追い越し、二度と会えない処へ行ってしまう。残された人間の方は、十分な世話をできなかったのではないかとか真心や愛情を注ぎ切れなかったのではないかとか、尽きせぬ思いに囚われるものだ。
 悲しい。
 ああ、悲しい。
 だからこの本は、どのページを開いても顔がほころぶけれど、笑った後にしみじみと切ない気持ちになる。シンプルなイラストはどれも微妙に変わるネコの表情を生き生きと映していて、タッチはまるで違うもののいわさきちひろさんを彷彿させるような描写力。あのヒタヒタというかそけき足音や小さな丸っこい手でセーターの裾を引っ張られる時の感覚すら鮮やかに蘇って来るのだが、内容は基本的に「愛猫家の被害報告」に他ならず、家にネコがいない人が読めば「うちにネコが居なくて本当に良かった」と胸をなで下ろすこと請け合いである。
 事実ネコとの生活は結構カコクなのであって、どんなに忙しい時も疲れている時もネコの福祉を優先せねばならず、というのもネコは空腹などの生理的欲求が満たされていても頭を撫でろの顎を掻けのお尻をペチペチ叩けのと常に要求して来るからであり、そうしたサービスの供給後ヘトヘトになって床につけばフトンに載られて金縛りにあう。
 ではネコはヒトがいないと暮らして行けないのかというと別にそんなことはなく、放っておけば何時間でも幸せそうに丸まっている。不可解である。
 けれどもそんな様子だからこそヒトは安心してネコを愛することができるのだろう。怒涛の如き愛情の重圧もしなやかに受け流し、いつでも柔らかさを失わず、いともたやすく調和と自立をホシイママにしている姿は煩雑な人間関係に満身創痍の不器用者にとっては永遠の憧れである。
 とか言ってる傍からトイレットペーパーを全部使われたり(引っぱり出すのか楽しいらしい)一番スキなベッドカバーに毛玉を吐かれたりするのだが、とにもかくにもネコとの生活は「悪い女に騙され続けるアホな男」のそれと何ら選ぶところはなく、しかしそんな日々こそ振り向けばキラキラした思い出の数々なので、つまりヒトは時々アホとして暮らすのがシアワセな人生のコツなのかも知れない。
 まあ、私がネコから教わったのは大体そんなようなことだ。
 そうしてまたもう会えない天衣無縫の丸まりを思い出せば、なぜかこの愚かで至らないばかりの人間を許しているように見えたりなどして、私はますます泣きたくなるのだ。

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紙の本千年の祈り

2008/02/27 21:34

日暮れて道は遠くても

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「ブログ炎上」なる言葉がいつの間にか定着しているとは不気味な世の中になったものだ。怒りにしろ正義感にしろサディズムにしろ、それがこんな形でしか結実しないというのは土壌の貧困さの表れだろうか。
 珠玉の短編集、中でもかつての恋人と親友に裏切られた独身女性教師の姿を描く『市場の約束』という話に最も惹かれた。平凡な素材がここまで鮮烈に料理されるとは。
 原題の『Love』にあえて『約束』という語を当てた翻訳のセンスも素晴らしい。これは人によっては「道」とか「矩」という言葉で呼ぶもの、かの喜劇王は「勇気」と呼び、トーベ・ヤンソンならば「イデー」と呼んだかもしれないものの、もう一つの名前なのだろう。法律の本には載っていないけれど、生きる上ではとても大事な方位磁石だ。信ずるに足るものを信じ、なすべきことをなし、自分で自分を育てて行くための重要なベクトルなのだけれど、現実の暮らしの中で持ち続けるのはとても難しい。
 大それた理想など掲げなくても、時には意思を通すだけで周囲から孤立したり不利な状況に追い込まれたりするのが浮世というもので、石の忍耐の奥でキリリと歯を噛み締めているような主人公の深い孤独と不安が胸に染み入る。的外れな贅沢を望んでいるわけでもないのにこれほど息苦しいのは何故なのか、と雲の上の方にいる誰かに尋ねたくなるような。たとえばカニグズバーグの主人公達に、あるいはセントラル・パークをさまよう多感な若白髪の青年に、私達は彼女の分身を見て来たのではあるまいか。
 主人公を捨てた男が親友だった女性と破局し故郷に戻って来たのを知って、主人公の母は復縁を勧める。ベクトルを持たない相手と苦楽を共にする気はない、という娘を理解できない母親。世代間の対話は常に平行線を辿る。
 けれどその母親が市場で商うタマゴのレシピはいつも、コストのかかる調味料を十分に使った誠意溢れる手作りの味。それがこのちょっと風変わりな恋物語の、絶妙なスパイスでもある。
 利潤追求は二の次で良品を細々と売りつつ、娘にはもっと効率よく幸福になって欲しい母。その背中を見て育ち、そのおかげで高い教養を身につけ、それゆえに母の勧めに従えない娘。これは何よりも強い絆で結ばれた親子の情話であり、避け難い巣立ちの物語でもある。どちらも頑固な二人ゆえ折り合うことはたやすくないが、大人同士の新しいつながりを築くためには不可欠な回り道なのだろう。
 読後爽やかな小説は多くても、登場人物の幸せを祈りたくなる小説は少ない。経済や上辺の華やかさに流されがちな日々だからこそ、こんな小説の登場が嬉しいのだ。

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恋するスターダスト

2005/05/24 14:15

お帰りなさい。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ウッドハウスが翻訳されたり宮沢章夫さんの絶版書が復刊されるらしかったりと、今年は本の当たり年っぽくてホクホクしていたら、今度はなんと新井千裕さんの新刊本である。長らくの不沙汰に言い訳もなく、当たり前のように物語は滑り出す。数週間だか数箇月おき、ふらりとうちにゴハンを食べに来るネコみたいだ。
久し振りに読むこの人の文章は、携帯電話とか電子メールとかいった今日的モティーフを組込みながらも、古き良き八十年代(スノッブなバブル野郎に席巻されていたようなあの頃にだって、スバラシイものは結構多かったのだよ)を煮詰めて結晶させた半透明のコンペイトウ風な、ストイックな甘さに満ちている。じんわりと噛み締めながら大切に読んだ。
思えばこの作家は一貫して、ある世界の崩壊とか喪失といった主題を真摯に描いていた。そんなカタストロフィのあとに続くのは新たな世界への旅立ちの予感であったり、あるいはただただ茫洋と広がる空虚であったり(私としてはこっちの方が好みだったが)したのだが、それはあたかも苦心の果てに制作した繊細なガラス細工を自ら破壊して行く工程のようで、本を閉じるといつもひんやりと哀しい気持ちになるのだ。
それは一方でガラス細工のように脆弱な心たちの拠り所となりながら、もう一方の手でそんな心たちを現実のチマタに送り出す、一時避難所的な営みであった。なんぴともオアシスに住み続けるわけには行かないのだよと、弱い私をやんわりと諭してくれるような。
だから数年前、この人がぱったりと本を出さなくなったことに気付いて連想したのは、風に乗ってやって来て、風に乗って行ってしまうミス・ポピンズの物語だった。この美しい装丁の本を手にして旧友と再会したような心持ちになった時、私は自分が大人になっていたことを実感したのである。
相変わらずアラベスク模様のように細やかな笑いを盛り込んだ語り口もさることながら、小説の最後、主人公が鉄棒をする(何のことかとお思いでしょうが)美しい場面は圧巻。これほど切ない物語を、これほどユーモラスな、そして抑制の効いた文章で綴れる人は他にいるだろうか。構築される世界のただならぬ魅力と、しかしそれを冷めた目線で描き切るニヒルな客観性。今度の小説も決して甘く楽しいばかりの話ではないけれど、だからこそ与えられた日々の愛しさを考えずにはいられない。
後書きか何かあるのかと思ったが、何年ものブランクに関する説明は一切なし。けれどもそんな素っ気なさすら実にこの人らしく思われてしみじみと嬉しい。だから気まぐれネコのような小説家に、私からの返信はただ一言。
ありがとう。

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屈折こそ魅力

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 こういう言い方はちょっとあれだが、頑健な者ほど病気がちな人に憧れるもので、ちょっとノドが痛かったりするとすぐ体温を計りたがるし、突き指をすれば包帯をグルグルと巻いてもらいたがる。調子が悪いんだったら家に引っ込んでりゃいいと思うのだが、こういうヤカラは「弱った自分」を人に見てもらうのが無上の喜びなのでそんな時こそ人前に姿を現すのだ。いわゆる「健康オタク」っていうのは、どこから見ても健康に問題のなさそうなヒトばかりだし。
 ウディ・アレンという人はまさしくそういうタイプなんじゃないかと、本書を読んで私は確信したのだった。
 三本の戯曲が収録されていて、そのうち最もアレンらしいなと感じるのは最初に載ってる「リヴァーサイド・ドライブ」という作品。おなじみ気が弱くてスノッブ根性丸出しのフロイトマニアが不条理な騒動に巻き込まれるという、ファンにとっては待ってましたの展開である。このオドオドした主人公は明らかに作者をモデルとしたキャラクターで、映画なんかでも結構使われている人物像なんだけど、実はこれこそがウディ・アレンの選んだペルソナなのではないか。「気が弱く背が低く髪は薄く要領は悪く、あらゆる種類の強迫観念に蝕まれるユダヤ系のまったくさえないアンダードッグ」という分厚い仮面の下に隠れているのは、聡明でシニカルでクールで傲慢な都市生活者の素顔に他ならない。アレン演じる「さえない男」に笑いを誘われつつも、時折自分の方が笑われているような落ち着かない気分になるのはそのためかも知れない。彼と彼の作品にはいつもそういうチクチクした感触がつきまとい、そこがまたたまらない魅力なのだけれども。
 訳者あとがきによるとこの人の恋愛遍歴は極めて充実しており、くっついたり離れたりが激しいうえ、最近では某女優と事実婚的な関係を結びながら相手の養女(連れ子)ともナニしてしまい訴訟を起こされたりするという、かなりのツワモノらしい。相当の精神力がなければこういう暮らしぶりはできないはずで、精神的に破綻しているのは事実としても(言いすぎか?)、それは彼が演じている「あらゆる神経症に蝕まれている成人したモヤシっ子」とは正反対の、強すぎるほど強靭で利己的な合理主義者ならではの在りようではないかと思うのだ。
 強靭でクレバー。人も羨むそんな素顔を薄い毛とメガネと猫背で覆い隠して群衆に紛れ込むへそまがり。だけど人も本も、少々屈折しているくらいでなきゃ面白くない。 

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紙の本青空の方法

2004/04/18 15:45

草食動物の視線

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

名曲だからといって油断はできないもので、『大きな古時計』なる歌の不可解さには誰しも頭を抱えた経験があるはずだ。歌詞の随所で指摘されている通り、おじいちゃんは百歳で没している。されば孫とても、通常なら四十か五十にはなっているであろうし、ことによるとすでに還暦を迎えていたっておかしくないのだが、それにしては語り口調がひどく幼い。孫の正体は村上春樹だろうか。
 また、おじいちゃんが百歳で亡くなったという現象は、もちろん哀しく淋しいことではあるものの、そこに一抹の否定しがたいメデタさをも含有してはいないだろうか。
「おじいちゃんも大往生だったわよねえ。なんたって百歳だもの」
「一世紀分生きたんだしね。男の平均寿命って七十いくつなんでしょ? かなり上の部類だよね」
「それではこの辺で、おじいちゃんの大往生を祝してお手を拝借と参りましょう!」
という展開にならぬとも限るまい。部外者の私がとやかくいう筋合いでもないのだが、やはり通夜の席で「お手を拝借」というのは少々問題があるのではなかろうか。やはり百歳というのはまずかった気がする。
 しかし人はこういう事柄におおむね寛容というか、無頓着であるらしく、この歌にしてもきっと名曲として歌い継がれて行くのに違いない。
 宮沢章夫氏の視野は、草食動物のそれに似て平べったく広い。猫科の動物の目が自分の前方だけをひたすら追い続けるのに対し、あっちこっち、直接自分に関りはないし実際どうでもいいようなことに黙々と思いをめぐらせている、どちらかといえば生産性の低い生き物を、彼の文章は想起させる。しかし例えばチータのように、いや水前寺清子氏ではなく動物のあれだが、高速で移動しすばやく目標を達成する生き物というのは、その過程で実に様々なものを落っことして行くのではないだろうか。一心不乱とか猪突猛進とか、それはいいことなのだろうけれど、そのとき見向きもされず置き去りにされたものの中にだって、結構面白い原石が混ざっているのである。
 宮沢氏の文の魅力はもうひとつ、あまたの原石を拾い上げて研磨する技術を持ちながら、自分自身をもまた路傍に転がる一ケの石のごとく、沈着に突き放している点である。だから驕り高ぶったところがない。キリンやシマウマがその間隔の開いた目で辺りの景色を一大パノラマとして認識し、『広い世界の中の小さなワタシ』という控え目な自負を抱いているような、山っ気の乏しさというか、平熱の低そうな感じというか、あの頃(いつだ)川原泉が少女漫画界で斬新に発揮していた物静かな理性に相通ずる端正な気骨を感じるのだ。
 思うに真実一路を旗印に、ドカドカ駆けて行くような人にはこの本は無用である。そんな一派が走り抜けて行ったあと、スナボコリの中でやや呆然としつつゲホゲホ咳き込んでいるような者にとっては、おおいに風通しのよくなる一冊ではあるのだけれども。

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ピーナッツ村の優雅な関係

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私は北村薫とか加納朋子といった人達の小説を読むのが嫌いではないが、
「こんなにステキな人ばっかり出て来なけりゃいいんだがな」
という感は常に拭い去れない。なんというか読んでいるうちに、知人の家に用事で出かけたところ岡村孝子のアルバムを三枚続けて聴かされたこととか、うちに時々布教活動に現れるキリスト教会の人のこととかを思い出してしまい、わけも分からず気が滅入って来るのである。
 たぶん読んでいる私自身があまりにもステキな要素を欠いているため、登場人物に引け目を感じていたたまれない心境になるためだと思う(私は根がおっさんなのだ)。ただ私の立場からするとこの『ステキ』というのは決して誉め言葉ではないので、それは一向に構わないのだが。
 ピーナッツのキャラクター達は誰も個性的で、ゆえに欠点も少なからずある。名コンビのスヌーピーとウッドストックやペパミント・パティとマーシーも時にはしょうもないケンカをするし、チャーリーはいつも優柔不断、サリーはぐーたらの生意気娘、ルーシーは口うるさい暴君である。
 けれどもちろん、そればかりではない。名だたるいじわるっ子ルーシーは実はとても面倒見がよく、学校でもしっかりしていて、たぶんピーナッツ村随一の社会適応者(こんな言葉があるかどうか知らないが)だ。真面目一辺倒かと思われたマーシーが意外と情熱家だったりするし、『何をやってもダメ』のチャーリーは思い遣り深く、よき兄でありよき飼い主でもあるし、日頃食っちゃ寝食っちゃ寝のスヌーピーは親友ウッドストックの危機を救うべく隣家のネコと戦ったことだってある(惨敗したが)。
 キャラクターのひとりひとりが、私達がそうであるように、実に様々な面を持っている。いいところばかりではないけれどその逆というわけでもなくて、ピーナッツ村の住人達は時には出っ張り、時にはへっこんだりしながら、それでいて自分のペースを崩すことなく、互いに寛容に上手な人間関係を運営しているのだ。いびつでつかみどころのない個性を温存しつつ、日々の暮らしを自分なりに送って行く、というのは、小さな社会では往々にして難しいことではあるのだけれど。
 彼らは大人にならない。けれど彼らは実に大人だ。ちょっと見習うべきかも知れない。
 今度布教活動の人が来たら、こう言ってみたいところだ。
「私には宗教は要りません。ピーナッツが私のバイブルですから」。
 でも会話が発生してしまうのが怖いのでやっぱり言わない。

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紙の本港湾ニュース

2003/04/08 14:53

「その他の人々」の「その後」の物語

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 世の中には時たま「嵐を呼ぶ男または女」とでも呼ぶべき個性の人々が存在する。呼び寄せる嵐の規模はさまざまだが、こういう人物は激しい気性と旺盛な行動力とで周りの人々を惹きつけ魅了し、振り回し、あるいは踏みにじってダイナミックに捨て去って行く。彼らは非常に強靭で、決して臆病ではないが、他人の心情にはひどく無頓着だ。彼らの通り過ぎた背後には、掻き乱され傷つけられた「その他大勢」の人々が打ちひしがれて名もない魚のように折り重なっていたりする。
 こうした極めて印象深い「嵐男女」たちは、しかるべき時にしかるべき場所にいると天才的な働きを見せることもあるし、歴史に残る英雄にだってなり得るのだが、平穏な暮らしを愛するナイーブな「その他」の人々にとっては少なからず傍迷惑なヤカラである。彼らは概ね内省の習慣を持たず、己と向き合うことをしないので、精神活動のほとんどすべてを外的に発散させて解消するのだ。
 一方あっさり捨て置かれる「その他」の人々は、残された傷跡の意味を自分の胸に問い掛けてみては、眠れぬ夜を過ごしたりする。
 さてこの話は、その「嵐男女」たちが時化か悪夢のように通り過ぎたところから始まる。主人公クオイルはまさしく「その他大勢」に属する不器量なぼんくら男だ。初めは父親と兄に、長じては妻に踏みつけられ嘲笑され侵食されて、三十代にしてスクラップのごとき人生をただ呆然と見送るだけの日々。人生の歯車は他の誰ともかみ合うことなく、場違いに軋んで彼の孤独を深めるばかり。まるで大人になったチャーリーブラウン。
 とことん情けない男が祖先の土地ニューファンドランドに移り住み、新たな職を得て、苛酷な自然とタフな人々に囲まれどうにかこうにか自身を建て直して行くさまを、ここまで読ませる筆力に圧倒される。
 生きて行くのに必要なのは、ほんのわずかな自尊心なのかもしれない。
 一見不条理とも思われるこの世の摂理を描き出す構成の妙、ところどころにちりばめられたひやりとするグロテスクな素材、この小説は時にブリューゲルの絵画を彷彿させる。
 既に文庫化されてはいるが表紙のイラストがかわいいので単行本での購入を推奨。

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大人ってカナシイ。

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『ぼくと(ジョージ)』、原題は単に『(ジョージ)』。なんでカッコつきかというと、ジョージは主人公ベンの体の中に住む、実体のない人物だから。温厚で真面目で不器用な秀才ベンの内に潜む、辛辣でクールで聡明なジョージ。いわゆる多重人格のように、本人が気付かないうちに別人格が表出するとかいうことはなく、ジョージは常にベンの内にあり、ベンに適切なアドバイスを与えたり、鋭く愉快な話相手になったりしている。
 両親が離婚し母親と幼い弟との三人暮らし、秀才なので年長の生徒と一緒に化学の授業を受けているものの同じ年頃の友人は少ない六年生、というやや特殊な立場に置かれた内向的なベンにとってジョージは、親友であり、父親のごときものであり、また抑圧された感情の代弁者でもある。つまるところジョージはベンが(子供なりの)社会に見出せないもの、社会から得られないものの総体あるいは補償と言うべきか。
 繊細で内向性の人というのはどうしようもなく孤独に苛まれるものだけれど、ジョージはそんなベンに、孤独を恐れるべきではない、と訴え続ける。孤独に耐え、自分と向き合う(ベンにとっては自分の内部にいるジョージと向き合うことでもある)勇気をもつことを教え続ける。周囲に迎合することはなんの利益ももたらさない、と諭し続ける。かっこいいなぁ。
 ジョージを知るのはベンとベンの弟だけ、という情況で長らく平穏に暮らしていたのだが、ひょんなことから周囲の大人達にジョージの存在が露見することとなり、ベンはカウンセリングに引っ張り出されジョージとの決別を迫られるは、また別の事件に巻き込まれ警察にとっ捕まるは、一転して波瀾に巻き込まれる。繊細で内向性の人というのは散文的な現実のできごとに対応する能力に乏しいものだが、物語のクライマックスになると、ジョージの啓蒙の甲斐あって、ベンはしっかりと自分の選ぶべき道を選ぶのだ。
 終わりの方で、警察に拘留されたベンにジョージからひとつ『頼みごと』をする場面がある。昔この物語を読んだ時にはそれが、『めでたしめでたし』風の明るい未来を暗示する道標のように思われたのだけれど、この夏久々に読み返したらまったく別の印象を受けたのでちょっと驚いた。今読むと、熱心にベンに訴えかけるジョージの言葉はまるで別れの挨拶のように聞こえるし、最終章に『彼(ベン)は一生自分の内部(ジョージ)を大切にするだろう。』とあるのも、(かつてはその部分で安心し嬉しくなって本を閉じたはずなのだが)やはり今ではとてつもなく切ない、ヒリヒリとした喪失への前奏のように感じられてしまうのだ。やがて思春期を経て大人になる過程で、生きることに習熟して行くであろうベンは、やはりゆるやかにジョージと別れ、彼の存在を忘れ去って行くのではないか、なんてことを勝手に想像し、ついサメザメと泣いてしまう。大人になるというのはつまり、『安心していられなくなること』なのかも知れない。
 哀しい。

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紙の本ふたりジャネット

2004/05/04 14:02

ある日クマさんに

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 貰い損ねた形見の品がある。祖母のブローチ。今時「ブローチ」という言葉自体もかなり懐かしい感じになっているのだが、好みのうるさい祖母が珍しく気に入って愛用していた品で、安くはないが高くもない、まあそこそこのものだったらしく、なぜか「その時が来たら」私にくれる約束となったものの、しかし貰う側としては「その時が来たら」の話はしづらいもので、「それでは気長にお待ちしております」などと軽口を叩いたあのブローチである。それから数年経って実際に「その時」が来てみるとそんなことは思い出す余裕もなく、ようやく心が落ち着いた頃になって「そう言えばあんなことがあったっけな」などと思い返すのだが、母さん、僕のあのブローチ、どうしたでせうね。
 ビッスンという作家は名前すら知らなかったのだが、奇想天外な着想と、それでいてホンワリした暖かさとにえらく魅了されてしまった。この話は一体どこへ進んで行くのだろう、と考えながら読み進み、この話は一体どこへ到着したのだろう、という感じで読み終えた作品がいくつかあって、『熊が火を発見する』もそのひとつ。しかしこのほのぼのと染み渡る読後感はただごとではない。
 中心になる人物は語り手であるややウダツのあがらない中年男、その老母および甥、そして焚き火好きのクマたちであり、その全員がどこかしら孤独の陰を内に秘めながら、しかしそれを表に晒すことはせず黙々と日々の暮らしを営んでおり、それらのいくつかの孤独が重なり合ってなんとも美しいクライマックスを迎えるのだ。『上品なランズデール』とでも言おうか、軽妙にして上質な文体で物語はサラサラと運ばれて行き、登場人物たちはそれぞれの哀しみを抱きやがてほぼ何事もなかったようにまたもとの日々へ戻るのだが、胸の奥底にほのかなヌクモリの記憶が刻まれている。うるわしいではないか。
 子供の頃などはよく、その意味するところも知らないままあらゆる対象(友情、将来、恋愛、嗜好など)に永続性を求めたりしがちであるが、年をとると反対に、終わりゆくこと、消えゆくものの価値が少し分かるようになった気がするもので、それは一見淋しいことのようにも思われるけれど、やはり人生の途上で習得したかけがえのない指針なのかも知れない。生き物は出会って惹かれ合い、接近し、かりそめのゲマインシャフトを構成して、それから時空の移動その他条件の変動に伴って、美しいリボンがするりとほどけるようにゆるゆると離れて行く。実にさりげなく、また消極的なかかわりではあるのだが、そこに熱烈な関係にはない柔らかさと優雅さを感じるのだ。これもまた、そんな淡い寂寥をユーモラスな語り口に包み(最後のほうの「一緒に火を囲んでいるうちにクマがそわそわし始めた」という下りがたまらなくおかしい)、微妙なさじ加減で味付けしたお菓子を味わうような物語なのだと思う。
 たぶん大切なものは消え行くリボンの、あのひらひらと定まらない姿の記憶なのであって、だから本当のところは形見の品などいらないのだ。
 

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紙の本走る男

2004/04/08 14:26

イカどっくりの哀しみに似て

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 イカは哀しい。
 イカの哀しみの分かりやすい例証としては、たとえばあのゲソの部分だけを簡便なオツマミとして味付けしたものが袋詰の状態で販売されており、その商標は次のごとくだ。
『みだれ足』
 愉快である。なんと愉快なネーミングなのか。名前が愉快なら愉快なほど、イカの哀愁も深まろうというものだ。一方その頃オツマミにされなかった上半身の部分はどうなったかといえば、ぷっくりと膨らまされ乾燥されてイカどっくりとして販売されているのだ。イカの尊厳というものに、この国の人間はあまりにも無頓着すぎるのではなかろうか。イカに生まれなくてよかった。つくづくイカは哀しい。
 冒頭から主人公はナニモノかに追われ走り続けているのだが、一瞬期待したようなムカシの筒井的不条理満載のスラップスティックかと思いきや、どちらかといえば松本零士っぽい、すがすがしいまでに正しいSFものであり、同時に美しい冒険小説でもあるのだった。松本作品を引き合いにしたのは他でもない、特に『大純情くん』あたりに濃厚に漂っていた四畳半(大量の洗濯物および自然発生したキノコ搭載)色を直接的に継承しているように思われたからで、しかしながら例の「男には負けると分かっていても戦わなくてはならない時がある」といったような、背中にムズムズ感をもよおさせる毛深く湿った人生観とは無縁の、まあ言ってみれば椎名式青春物語だろうか。私は冒険も青春も好きではないが、にもかかわらず引き込まれるように一気読みしてしまった。
 話が進行するにつれ主人公の事情とそれをもたらす時代的背景が判明して行き、この人の作品によく登場する『第三次世界大戦かなにかによって一旦壊滅したのち昭和三十年代程度まで復興した日本』が舞台であり、腐敗した行政のもとで一般の人達が事と次第によっては現代におけるイカのように扱われるといった暗い側面もあるものの、それもまたスルメのようにしみじみと味わい深い、乾いた悲哀に加工されているので(相棒のコンちゃんの存在とか)読んでいて嫌な気持ちになることもなく、こういう部分に書く人の人柄が現れるのかも知れない。作中における世界観というのは(一見悲惨な時代や状況を描いたものであっても)作者の理想を投影するものだと思われるのだが、現実の椎名氏は自由気ままに旅に出たり好きなだけ本を読んだり著作の売れ行きもはかばかしく家庭も円満そうなのに、こういう逃亡者モノをものするところを見ると、傍目には伺い知れない閉塞感のようなものを抱いているのだろうか、とその辺もちょっと興味深い。

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紙の本探偵家族/冬の事件簿

2004/02/16 15:09

楽しいムーミン一家・四半世紀後篇

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 祝・ルンギ一家再来。イタリア系でファミリーと来ればすわマフィアかと思いきや、えもいわれずほのぼのしたシリーズである。三世代の家族八人がみんな同じくらいの頻度で登場するので誰が主人公か分かりかねるが(おやじさんかアンジェロのどっちかだとは思うのだが)、まあルンギ一家そのものが主人公ということだろうか。
 一応恐喝とかゆすりとか殺人とか、それなりの事件が持ち込まれては来るのだが、どちからというとルンギ家内の問題のほうが主軸になっている感じで、雪だるま式に誤解が誤解を招き登場人物が右往左往する様子はシェイクスピアのコメディみたいでたまらなくオカシイ。中心的な登場人物が多いうえ、場面転換が細かくて話があっちこっちに飛ぶのだが、煩雑な印象はあまりなく、リューインの余力というか才能の奥深さを感じる。三谷幸喜氏の舞台が好きな人にも持って来いなのでは?
 分類はもちろん推理小説だけれど難しい謎解きとか綿密な調査というよりは、登場人物の人柄とかユーモラスなかけ合いなどが見所であって、ムーミン谷の物語を彷彿とさせるのだ。配役はこういう感じ。おやじさん‥‥ムーミンパパ、ママ‥‥ムーミンママ、サルヴァトーレ‥‥スナフキン、アンジェロ‥‥ムーミントロール、ジーナ‥‥スノークのおじょうさん、ロゼッタ‥‥ミムラ姉さん、マリー‥‥ちびのミイ、デイヴィッド‥‥スニフ。ここへ更にヘムレンさんとかじゃこうねずみのおじさんとかニョロニョロのように個性豊かなキャラクターが、依頼者とか参考人として参加するわけ。
 アルバート・サムスンにリーロイ・パウダーと、家族に縁の薄い名探偵を生み出して来たリューインがこういう作品を書くというのは興味深い。いや、大体小説に出て来る探偵というのは割と孤独に調査を続けるものだから(せいぜい相談役か相棒がひとりいるくらいとか)、家族で捜査にあたる探偵事務所というのが強烈に異色なのだろう。ミステリに対してこういう言い方はよくないのかもしれないが、ともあれこれは家族とか、その家族の属する社会を描いたファンタジーなのだと思う。このシリーズに描かれるような、互いに仲良く思い遣りがあって、他人と徒同じくらい自分のことも尊重していて、思ったことはなんでも言い合えるけれどもあとにワダカマリを残さない、なんていう家族はイギリスにもイタリアにも実在しないと思う。日本のホームドラマにも、ムコウダ系であれハシダ系であれ出て来ない。夢の家族である。
 考えてみたらサムスンやパウダーがおおむね独力でやっていること(事件の捜査および個人的な生活)を、ルンギ一家はほぼ全員がかりでやっているわけだ。そんなに稼動人数が多いのにこの程度の事件だけで食って行けるんだろうか、と心配になったりして。一匹オオカミとほのぼの家族。そんな両極端の価値基準で創作されたような探偵をひとりの作家が描いていて、しかも読者にどちらも同じくらいに素晴らしいものだと思わせられるというのはスゴイことだ。
 別に笑わせようとして仕込んだわけじゃないのかもしれないけど、巻頭の登場人物紹介欄におもしろいネタを発見。F・フォックスウェルの項を見るべし。

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紙の本廃墟の歌声

2004/01/08 14:14

ディズニー好きの人はこの書評を読まないこと。

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 ミッキーマウスはネズミの身でありながら黄色っぽい犬を飼育している。自身は半ズボンと靴をはいて文化的な生活を営んでいるというのに、犬には犬らしく裸で四つ足で首輪という暮らしをさせているのだ。数々の映画に主演するかたわら遊園地なども経営する大富豪なんだから犬くらい飼ってもいいだろうという向きもあろうが、ミッキーの身辺にはもう一頭の犬(黒っぽい犬)がいて、こっちの犬は服を着て二本足で歩きミッキーとは友達付き合いをしているのである。この二頭の犬同士は互いに相手のことをどう思っているのだろうか。ディズニー式には「どっちの犬もミッキーのステキな仲間なのさ、イェイ」ってことになるんだろうけど。
 カーシュ再登場。前作『壜の中の手記』を貫く幻惑的な雰囲気に比べ、今回は普通の街を舞台にする作品が多いせいか、より『俗世の物語』という印象が強く、登場人物も個性豊かで実にいい(幻想モノは好きでない、という人でも気に入るのでは?)。中でも虚々実々の怪盗シリーズ『カームジンもの(四篇収録)』はP・ワイルド『探偵術教えます』に通じるようなおとぼけミステリでなんとも嬉しい。
 どの作品も、筋を変えずにもっと長くもできるだろうし、もっと短く、ショートショートとして書くこともできただろう。それくらい構成というか筋立てがしっかりしていて心憎いばかりである。基本的には語り口の上手さでグイグイ引きこまれ、最後に驚きのどんでん返し、という感じ。このどんでん返しというのはつまるところ、『主観と客観の急激な転倒』とでも呼ぶべきもので、エッシャーのだまし絵をじっと見ていると突如地と図が反転する、というあの瞬間を小説でしみじみ味わえるようなものだ。作中人物の目線で話が展開し、ということはその人物と読み手が世界観を共有しつつ進んで行くと、突如としてその『甘い認識』が瓦解し風吹きすさぶ荒野に私はひとりなす術もなし、という『ボーゼンジシツ』のただなかに放り出されているのだ。いや、たまらんぜよ。
 というわけで私のささやかな希望としては、ある日突然例の黄色い犬が鎖を引きちぎって飼い主のネズミに襲い掛かるやバリバリバリと噛み砕き、食べ残したシッポと靴なんかをボーゼンとしている黒犬の足元にクワペッと吐き出してニヤリと不敵に微笑んだのち悠然と街を去る、といったクライシス(ネズミにとっての)を期待するのだけれど、まず無理だろうねぇ。

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ののちゃんのとなり

2003/08/31 16:03

静かなる教祖たち

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 私の知人に今時いしいひさいち氏とやくみつるの区別がつかない愚者がいる。私がいくら「面白い方がいしいひさいちで、そうでない方がそうでない方ですよ」と諭しても分からないというのだから気の毒なタワケ者だ。
 いしい漫画の優れたところ(のひとつ)はそのその鋭く卓越した人物造形にあると思う。野球選手や政治家といった実在の人物(と、その変形したキャラクター)が登場するのは周知の通りであるが、それもナマの状態でドンと出されるのではなくて、一旦いしいひさいちの中で咀嚼され吸収され消化され、コナレにコナレた存在として描かれているのだ(いや、文の途中まで『手の込んだ料理』にたとえる予定だったが、なんとなく『排泄物』のような言い回しになってしまった)。それがいい。
 それは例えばイッセー尾形とかシティボーイズなどのライブを見る時にも似て、でき上がった作品そのものがめっぽう面白いのはもちろんなのだが、それに加え、送り手の心象をのぞき見する楽しみが実に大きい。イッセー尾形の舞台は、『舞台を観る』という幸せだけでなく、『イッセー尾形の視点と見解』というものを垣間見せてもらい、あわよくばそれをちゃっかり共有しようという副次的な魂胆をも刺激してやまないのであるが、いしい漫画にもそんなところがあるのだ。押し付けがましいところはいささかもないのに、もう命を捧げても惜しくないような気がしないでもないと言っても過言ではないというほどである。
 最近ではあのナベツネ氏から目が離せない。ある時には町内会長さん、またある時にはワンマンマンとなるあの御仁だ。あの横暴で尊大で少々野卑な感じの大富豪が、いしいひさいちの中で少しずつ傍迷惑な高血圧オヤジ(でもカワイイ)に変じてゆく様子は見ていてたまらなくおかしい。
 それに『山田家のスクルージ』の異名を取るひねくれ犬ポチ(すでに他界したいしい家の犬がモデルだそうだ)に対するはかり知れない愛情の丈を思うとまたおかしい。私はほとんどツッカケばきで行けるような近所に山田くん一家や町内会長さんが住んでいて、その気になればいとしいポチの仏頂面を見に行くこともできるような錯覚を起こし、ふと我に返った時にはひどく切ない気持ちになったりするのだ(泣)。
 うちは朝日新聞なんで(考えてみるとそこにナベツネ氏が出ているのも味わい深いではないか)味読の『ののちゃん』が読めるのは嬉しい限り。初出一覧を見ると『非売品小冊子「ホットケヨとりなしの山田くん」』というナゾめいた記述が。
 難を言えば巻頭の登場人物紹介、描き下ろしの部分以外は余分な印象。『ミヤベくんは名(?)探偵です。難事件をいつも解決してくれます。』といった調子の文を読んでるとなんか情けない気分になって来るもんでねぇ。それなのにスミズミまで熟読してしまった貧乏性の自分が憎いぜ。
 私が一番好きなのは106ページ。ぜひ読んで。
 

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「脳は持ったかい?」

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 誰もが知る通りアインシュタインは、かの有名な相対性理論により物理学会に未曾有の快挙を成し、後世のコントに登場する博士の髪型に多大な影響を及ぼした。この爆発的なヘアスタイルは広く人口に膾炙し、彼の学術的貢献や彼自身をしのぐシンボリズムの収穫として今やある種の郷愁と共に我々の心にのぼるものである。
 まあ、そんなことはどうでもいい。その偉大な人物の脳、彼の遺体を解剖した学者によって摘出された二十世紀最高の頭脳こそがこの本の主人公だ。
 一人の天才の周囲には彼または彼女の重力によって運命の磁気を乱される人々が多く存在する。家族や友人、同業者、政府、その波紋の形状を歴史という名で読む我ら凡人。巨人アインシュタインの伝記の最後のページにひょっこり登場し、脳を所有する成り行きとなったハーヴェイ博士。たまたま解剖の執刀にあたったため、彼は生涯一「アインシュタインの脳を持っている(または「盗んだ」)男」となってしまう。ちょっと気の毒。人は概ね重大な局面においては信念よりは直感に左右されるものだし、アインシュタインの脳を埋葬するなんてもったいない、という共感もあるし。だって、捨てるのもどうかと思うではないか。しかし一方で、他の誰よりも天賦の才に翻弄される人物、天才と呼ばれる当人の悲劇がある。なにしろ脳を取られてしまうのである。死という個人的な、多くの人にとって神聖な事象すら、否応なく他者の干渉にさいなまれることには何のエクスキューズもない筈なのに。とはいえ(再び)一方で、「しょうがないじゃないか、アインシュタインなんだから」という理不尽かつ無体な心情もあったりして。
 思うにハーヴェイ博士自身も、その両極を行き来して残り半生を過ごしたのだろう。脳泥棒として糾弾された彼もまた、天才の影に引きずり込まれて右往左往する哀しくもいとおしい凡夫なのだ。
 チャーミングで口当たりの良い、けれど手堅く練り込まれた文章でホイホイ引き込まれてしまうのだが、紛れもないノンフィクション。例の長い舌を出したポートレートでお馴染みの、明るくお茶目でちょっぴりもの哀しいアインシュタインのイメージと、同じ絵具で描かれた爽やかな物語だ。
 

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