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レビューアーランキング
先月(2017年1月)

小田切博さんのレビュー一覧

投稿者:小田切博

4 件中 1 件~ 4 件を表示

アメリカ政治風刺マンガの正統、もしくはアメリカ版『ゴーマニズム宣言』の系譜

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は9-11以降のアメリカにおける軍事ナショナリズムの盛り上がりに対する痛烈な批判の書だが、その内容の正誤については特に触れるつもりはない。
 「その通り」と思うひとは思えばいいだろうし、「デタラメだ」と憤るひとがいてもいい。だいたいこの本はそうやって個々に共感されたり反発されたりするのが正しい読まれ方で、ここに書かれていることが唯一絶対の「真実」だと考えるほうがどうかしている。
 じつは本書のようなタイプの政治風刺マンガはアメリカではけっこう売られている。アメリカでは50年代にコミックブックに対して出版社の自主規制コードが導入され、コミックスのつくり手たちは子供向けの表現メディアとして長らく清教徒的な抑圧の中での創作を強いられていた。そうした状況への反発からはじまったのがカウンターカルチャー全盛の60年代に誕生したロバート・クラムやアート・スピーゲルマンといった作家に代表される「アンダーグラウンドコミックス」の流れである。これはそれまでの抑圧的な状況への反発からはじまったものであり、その表現はそれまでタブーであったセックスや暴力、政治的なオピニオン表明などをむしろ積極的に取り入れようとした。特に初期のアンダーグラウンドコミックスの小売店はマリファナタバコの販売店やポルノショップであり、そこにはコミックスと並んで反体制運動の小冊子などが売られていた。そうした環境の中で政治的なオピニオンを主張することを目的としたコミックスが育っていったのだ(ちなみにこのタイプのコミックスでもっとも有名なのはピーター・クーパーが主催する政治コミックスアンソロジー『World War3』である)。
 つまり、本書はそのような「政治的なオピニオンを主張するタイプ」のアメリカンコミックスの伝統を忠実に継承したものであり、描かれているのは作者自身のオピニオンなのだ。
 要はアメリカ版『ゴーマニズム宣言』みたいなものなので、そこははっきり理解して読んだほうがいいと思う。
 正直この種のコミックスとしては現在のものとしては表現方法が古くさく、あまり出来がいいものだとは思わないが、こういう形でもなければ訳されなかったタイプのものであり、日本での反響がどんなものかは興味深い。

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ファウスト 1

2003/10/09 14:35

「新しい文芸誌」という問題提起

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本誌は講談社のノベルスラインから生まれた『メフィスト』に続く新しい小説誌だが、編集者はこの新雑誌で意識的にいくつかの試みをおこなっている。
 ひとつはDTP環境を意識的にエディトリアルデザインに反映させること。
 次にライトノベル的なイラストと小説の相乗効果を積極的に導入しようとしていること。
 最後に「ジャンルフィクション」と「文学」のあいだの壁を意図的に無視すること。
 これらの試みがそれぞれうまくいっているかどうかは意見の分かれるところだと思うし、創刊号の段階で論評してもあまり意味のないことだとも思う。しかし、3点目のトライに関してはごく普通に感心させられた。
 『メフィスト』も『ファウスト』もそれぞれ講談社ノベルスラインからデビューしたいわゆる「新本格以後」の作家たちの人気から生まれた小説誌だが、『メフィスト』がよくも悪くも推理小説専門誌のフォーマットを引きずり、また実際に推理小説専門誌たろうとしているのに対し、このペーパーバックスタイルの新雑誌はそうしたジャンルフィクション的な枠をハナから無視している部分がある。
 これはなにもだから『ファウスト』が評価に値するという話ではないが、純文学もライトノベルもミステリも「文芸」であるという点で等価であり、文学が「純文学」という名のジャンルフィクションと化している現在、それらすべてを含んだ「こういう形」しかもはや「文芸誌」はありえないのではないか? そういう問題提起としてこの雑誌の存在は受け止めらることができる。
 そもそもジャンルフィクション的なカテゴライズはユーザーが商品選択する際のガイド、ブランドやショップの棚分けと同様のマーケティング上の配慮である。本来「自由なクリエイター」であるつくり手がそのような既存の枠組みに配慮する必要はないのだが、実際にはそのような限定的なジャンル意識を持たずに小説を書くことのほうがよほど困難である。そもそも日本の近代文芸自体が明治期に欧米のそれを模倣することからはじまったものであり、そこに絶対的な自由などあった試しはない。だが、逆に必要以上に枠にとらわれる必要もないのではないか。
 私たちは資本主義社会に生きており、そうである以上、文学やミステリの伝統にそぐっていようがいまいが、またライトノベル的なマーケティングに合致していようがいまいが、作家の「書いたもの」に市場が存在する——つまり、読者がついていさえすればそれは商品として流通し得るし、批評家にも学者にもそのことを否定できはしない。文学やミステリといった概念こそあとづけの枠に過ぎない。そこに「読者」がいる時点でそれは文芸作品なのだ。
 その意味で本誌がやろうとしていることは素直に応援したい。正直私個人はここに展開される作品群の対象読者とは言えないと思うが、こうした既存の環境自体を疑い、再構築するような作業はおこなわれてしかるべきだと思うし、その意味のみでもこれは積極的に肯定されるべき出版物だと思う。
 ただ、ひとつだけ疑問に思う点を述べるなら、インタビューや編集者のコメントに見られる、その原動力、モチベーションの部分を新しさや世代観に頼った発言には、正直いって脆弱さを感じなくもない。本当にここにあるようなものを「新しい文学」だと信じるのなら、その「新しさ」よりも「普遍性」こそが誇られるべきではないだろうか。

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紙の本「アニメ評論家」宣言

2003/12/19 00:13

もっと顔を

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 これから書くことはかなりメチャクチャなことである。
 あまり本書の正当な評価とは言えそうにないし、自分でもちょっとどうかなあと思うのだが、本書を一読しての最大の感想は「作品を観てないとよくわからん」ということだった。
 観た作品に関する文章はウンウンと頷いてみたり、そうかなあと疑問を持ってみたり、思わずニヤリとしてみたり出来るのだが、こと観たことのない作品に関して言えば一律に「観てないのでよくわからん」という以上の感想が持てなかったのだ。もちろん、各テキストの発表媒体などを考えれば読者が作品を観ていることが前提になっていることはよくわかる。字数的にあまり過剰な説明を文中に盛り込めない部分もあるだろう。私自身が取り上げられている作品の対象ユーザーではないこともある。
 だから、この部分を不満に思うのはどう考えてもメチャクチャだとは思うのだが、どうしてもそこが気になってしまう。
 それはおそらく私が収録された文章を読んで「その作品を観たくならなかった」からだと思う。
 著者は書き下ろしの「アニメ評論は難しい」という文章の中で「見巧者でいたい」と書いている。こうした視点に共感しつつ、なお疑問に思ったのは著者がしばしば「観た人間」のみを対象にしていると思える視点の設定をしている点である。実際、藤津ははっきりと読者として「観客・視聴者を想定している」と書いている。しかし、評論とは作品に従属するものなのだろうか? 「見巧者」とは「観た人間」同士のみに通じる共感の身振りを密かに送ることの出来る人間のことなのだろうか?
 私は違うと思う。
 こうした私の不満はおそらく藤津のテキストが極度に禁欲的に書かれていることから生じたものである。彼は「あくまでアニメの話をする」のだと書き、実際に可能な限り作品に身を寄せて語ろうとする。しかし、そうした書き方はまた生身の「藤津亮太」という書き手の存在を作品や作家の陰に隠してしまうものだ。
 これは「あくまでもアニメの話」をするために「自分語り」のような夾雑物を可能な限り排した結果なのだろうが、受け手、見巧者としての評論とは「見ること」、その体験そのものを言葉にするものなのではないか。著者には取材と情報収集をストイックに重ねた上で「藤津亮太」という固有の人間が作品/作家とせめぎ合うような形のテキストを(困難を承知の上で)期待したい。そこにこそ評論というもののドラマ性があると思うし、未見のユーザーをも作品へと巻き込んでいく力が生じるのだと思う。
 なお、その意味で個人的に一番おもしろかったのは、著者が「きわどい部分が多い」と書く『オネアミスの翼』論であったことを付記しておく。

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著者によるメモもしくは刊行後の自省

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 私は本書の著者であり、その意味でこれは「読者レビュー」ではない。また、本書は出版されてからそろそろ半年が経とうという出版物であり、「宣伝」の意図も皆無ではないがメインではない。
 これを書いているのは、このさして話題になっている訳でもない自分の処女単行本の出版後の反響についてのメモ、というかそれに対する困惑を書き付けておこうと思ったからだ。
 本書のプロデュースに協力していただいた三好さんの過分な言葉に反するようで申し訳ないが、私はべつに「ノンフィクション分野で認められた書き手」などではない。ルポやインタビュー形式の文章はこれまで何本も書いてきたが、私の名前を知っている読者であっても私のことを「ノンフィクションの書き手」として認知しているひとはほとんどいないだろう。これは別に謙遜の類ではなく、単純に私が主に書いてきた題材「キャラクターカルチャー」が、一般的に言って「ノンフィクション/ルポ」の対象になるなどと考えられていない、という自覚があるから言うだけのことで、書いているもの自体に関してはさほど謙虚な訳でもない。
 そもそも私が本書を企画した動機のひとつとしては、90年代に流行したいわゆる「オタク論」的な言説への違和感があった。ここで言うオタク論とは、たとえば東浩紀や岡田斗司夫といったひとたちの言葉のことだが、要は「オタク」といったものを「特異な風俗もしくは社会現象」として論じる態度のことだ。「オタクとはなにか」といった問題以前に彼らが論じ、取り上げている現象や流行が私にはまったく特異なものだとは思えなかったのだ。
 消費がデータベース化している? 細部へのマニアックな知識に血道をあげる傾向? それはべつにマンガやアニメに限ったことではまったくない。むしろあらゆるメディアやマーケットで平行して同時進行して起きている現象ではないのか。本書がファッションやインテリアと並列にフィギュアやトイを取り上げているのにはそうした意図がある。市場として眺めた場合に、そのユーザーとしての質の変化は特異どころかむしろジャンルを問わず均質化している、というのが私の実感だ。
 オタクもサブカルも80年代以降の「消費がイコール表現である」と喧伝されてきた日本社会の中で発展した限りにおいて、現在の「誰もが表現できる時代」を支える市場的なインフラとして同様の意味を持つ……とまあ、そういう気分のもとで本書を書いた。
 しかし、予想外だったのは本書の受け入れられ方だ。なにしろオタク論どころかサブカルチャー的な論考としてすら話題にならない。象徴的だと思ったのは書評の出方で、雑誌や新聞にはほとんど取り上げられもしなかったのに『電通報』に書評が掲載された、という広告の仕事なんかしたこともない著者としては困惑せざるを得ない結果になっている。
 とはいえ、本書はそんな著者の理屈っぽい感慨とは無関係に、まず「誰もが表現できる時代」にクリエイターになることを選択した人々の姿をレポートした読み物であり、物語である。ぼんくらな著者としては、もっと普通のクリエイター志望の若者やそうでないひとに気楽に読んで、彼らの姿に共感したり、考え込んだりしてもらえると単純にうれしいのだが。

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