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先月(2017年6月)

まぎぃさんのレビュー一覧

投稿者:まぎぃ

7 件中 1 件~ 7 件を表示

紙の本二十歳の原点 改版

2010/05/24 22:30

最初は惹き込まれながら(?)読んでいた、のだが・・・

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

‘大学に入りたての頃よくきかれたものだ。「あなたは何故大学にきたの」と。私は答えた。「なんとなく」と。勉強もできない方ではなかったし、家庭の状況もよかったから、日本史専攻に籍をおいているけれど、英語でも体育でも何でもよかった。就職するのはいやだし、大学にでも行こうかって気になり、なんとなくきた。なんとなく大学に入ったのである。[・・・]私もたまたま大学にきただけなのである。私にとって大学にくる必然性はなかった。そして私は危うくなんとなく四年間を過して、なんとなく卒業し、なんとなく就職するところだった。大教室での教授にしろ、やはりなんとなく学問をし学生の前でなんとなくしゃべっているのである。まさしく教師はなんとなく労働力商品の再生産を行なっているのである。
  現在の資本が労働力を欲しているが故に、私は、そして私たちは学力という名の選別機にのせられ、なんとなく大学に入り、商品となってゆく。すべては資本の論理によって動かされ、資本を強大にしているだけである。
  なんとなく学生となった自己を直視するとき資本主義社会、帝国主義社会における主体としての自己を直視せざるをえない。それを否定する中にしか主体としての自己は存在しない。外界を否定するのではない。自己をバラバラに打ちこわすことだ。なんとなく学生になった自己を粉砕し、現存の大学を解体する闘いが生れる。’
(pp. 183-184)

ここ(↑)を読んだとき、違うと思った。違う。
私の母は団塊の世代だ。学生運動も経験している。高野悦子さんとは異なる、東京の私大に通っていたけど、やはり10ヶ月間講義のない時期があったそうだ。ちょっと燃えて、というかかぶれて、学生運動に肯定的な発言をした姉(私の伯母)に向かって、父親である私の祖父は、‘学費を払いながら講義をストするなど、映画館に入って後ろ向いてるようなもんだ!’と言ったらしい(爆)。

私の母は、‘なんとなく’大学に入ったのではなかった。4年制大学に行くのは彼女の(つまり私の)家では当然のことで、その点では彼女も確かに当然のように進学したわけだが、それでも当時女の子が、しかも母のように高校で1年間オーストラリアに留学して曲がりなりにも英語が得意と言えた女の子が進む道は、英文科と決まっていた(または、仏文科とかネ)。でも母は、英語はできる方でも、文学には特に興味を持っていなかった。彼女はキリスト教を勉強したかった。彼女が志望した大学にももちろん英文科はあって、偏差値的にもそちらの方が世間体は良かったが、彼女はキリスト教学科を選んだ。‘なんとなく’ではなく、まさにキリスト教を勉強したくて、大学に入ったのだ。

そうしたら、お前もなんとなく進学しただろう、自己批判しろ、と強要されたのだそうだ。母は自己批判すべきことなど何もなかった。‘なんとなく’入った人は、勝手に自己批判すればいい。でも彼女はそういう学生ではなかった。だから家に帰ると言うと、委任状にサインするまで部屋から出さないと言われた。学生運動の問題は、思想に燃えた自己の考えを他者に強要したところにある。確かに高野さんのように‘自己をバラバラに打ちこわす’必要のあった、またその必要を痛感した学生は、多かったのだろう。でもすべての学生がそうだったわけではない。すべての学生が‘なんとなく’大学に来ていたわけではない。
上で引用した'69年5月28日の日記は、続く次の段落で結ばれる:

‘大学の存在、大学における学問の存在は、資本の論理に貫かれている。その大学を、学問を、教育を、また「なんとなく学生になったこと」を否定し、私は真の学生を、それこそ血みどろの闘いの中で永続的にさがし求めていく。大学の存在は反体制の存在でなければならない。’
(p. 184)

私の母を‘真の学生’と呼べるかはわからないが(!)、少なくとも彼女のように真剣に学問したくて入ってきた学生もいたこと、自分たちとは違う人もいたことに対する想像力が、欠けていたと言わざるをえない。

まぁ彼女は二十歳だったのだ。若かった。ある意味ホンモノだった(私の母が本当に幻滅したのは、昨日まで自己批判を強要していたヤツらが、過去を不問に付し授業再開となってみると真っ先に教室の一番前に陣取って、いそいそと善き学生になり済ましているのを見たときだそうだ)。ホンモノだったからこそ、終わりに近づくにつれ発想が極端に、百かゼロの二者択一的なものになっていくのがつらい。若かったね、いっぱい考えたね・・・ほかに、言うべき言葉が見つからない。

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紙の本パルタイ 改版

2010/05/28 19:59

表題作「パルタイ」はもちろん面白かったのだが、

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

その次に私は「蛇」を興味深く読んだ。結局直接的な批判(?)じゃないと理解できないってことなのかなぁ。解説によれば、「<革命党>の在りかたに対する作者の鋭い風刺や摘発を読み取ること」は「ここで大事なこと」ではないらしい。まぁ確かに哲学(形而上学)的な作品群とは思うけれど。「非人」や「貝のなか」はだいぶアレゴリカルというか何というかで・・・解説者曰く、最初の「パルタイ」と最後の「密告」はそれぞれ<カフカ、カミュ、サルトルの三位一体>と<一見して[ジャン・]ジュネ風の小説である>と、作者自身が語っていたそうだ。ジュネって知らないけど(カフカ、カミュ、サルトルを‘知ってる’わけじゃないけど!)、「密告」には学生運動よりもむしろ軍国主義やキリスト教が登場して、つまり左だろうが右だろうが一神教だろうが教条主義という同じコインの裏表にすぎないと読めて、やはり興味深かった。

高野悦子『二十歳の原点』の9年も前に書かれていたというのが驚き。『二十歳~』で引っ掛かったばかりなので、「蛇」のこの(↓)箇所は大いに痛快だった(これが「蛇」その他『パルタイ』収録作品を代表するものではないのだが!):

‘「おい、どこへいくんだ」とKは階段のところで声をかけられた。
「ああ、Sくんですか。ぼく、これからちょっとLさんに会いにいこうとおもうんだけど」Kは鼻のうえにしわをよせ、はにかみながらこたえた。LのことではしばしばSに冷やかされていたからだった。しかしSは驚くべき声でどなった。「それどころじゃない!けさから発電所の労働者がストに突入した。きみのための抗議デモも、そのストに合流する。つまり労働者と学生は共同戦線をはってたたかうことにきまったんだ。きみも参加すべきだ。」
「でも」とKはしりごみしながらいった。「いまはそういうわけにはいかないんですよ」
「自治会の決議だ」とSはおしつけがましくいった。
「そうですか。でもぼくは自治会にははいっていないんだし……」
「ばかなことをいうな。学生は全員自治会員じゃないか。入学したときから自動的にそういうことになっているのを知らないのか?」Sは口を横にひきあけ、眼では笑いながらKをきめつけた。これはKには、ほとんど脅迫がましくおもわれた。
「そんなのは罠にかけるようなものですよ。だって、ぼくは自治会を選んだわけじゃなかったし、それならぼく、これから自治会をでようかとおもうんだけど」
  するとSはKを逃がさないように手をひろげ、鶏を追うような姿勢でKに迫った。Kはおもわず笑いそうになりながらSと衝突し、かさばった腹でSをおしたおすと、息をきらして下までかけおりた。’
(pp. 130-131)

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フェミニズム

2009/05/16 00:05

みぞおちのあたりに凝り固まっていた氷が解け出すような

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一向に筆が進まなかったころ。
師匠に薦められて読んだTrinh T. Minh-ha, Woman, Native, Other(の第I章)に涙し、食べず嫌いだったフェミニズムとついに向き合ってみることに。本棚で眠っていた本書を手に取った。

良かった。スピヴァクの読みは、私とは少し違うけれど(彼女は別にSubaltern Talkで‘訂正’したわけではない、Can the Subaltern Speak?で問題とされていたのはまさに、サバルタンの主体化だった筈だ)。
特に第II部第2章の2「ホモソーシャルな公的領域」では、日本でお勤めをしたことのある女性なら誰しも、みぞおちのあたりに凝り固まっていた氷が解け出すような感じを受けるのではないだろうか。

このシリーズの良いところは、各テーマの虎の巻であるだけでなく、各著者の虎の巻にもなっているところ。理論的ツールは得た、さてじゃぁどう表現しようか、と立ち往生している者にとって、ひとつの道しるべとなってくれそうだ。

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紙の本ジェンダー/セクシュアリティ

2010/07/27 08:16

著者自身も書いているように

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「本書はふつうの意味での(あるいはいかなる意味においても)ジェンダー/セクシュアリティの入門書の体裁を採っていない」。misleadingなタイトルと思います。どうしてこのタイトルに固執したんだろう?

内容的には結構深いと思うのだが、structureが宜しくない。言いたいことが多すぎて収拾つかなくなっちゃったような印象を持ってしまう...確かにそれぞれとても繋がっているのだけれど、でももうちょっと巧くsignpostするとか、それが無理なら最後に振り返って束ねるとか、できたと思うんだけどナ。「私はなぜかまっすぐに進むことができない.そのために読みづらいものになってしまったことをお詫びしたい」と言いつつ、「とはいえ,文章を書く人間の理想は,自分の書いたものがまるで初めて目にする言語で書かれたかのように意味不明であることであるのだから」ってのは...少なくとも「思考のフロンティア」シリーズに相応しい発想ではないんじゃなかしら。

なので星3つにしようか迷ったんだけど、アーレントのところが面白かったし、バトラーの『生のあやうさ』を先取りしている(?)っぽいところもあるし、わたし的にはアガンベンとの関連で興味深かったので4つで。

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ポスト構造主義

2006/09/19 09:33

素晴らしい虎の巻

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

虎の巻としては素晴らしいです。ハイデガー、現象学から、フェミニズム、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアリズムまで、左ページに文章、右ページにはその図解、という簡潔さで、まとめられています。西洋哲学における「人間」という問題が、私たちにとっては「日本(人)」であるという記述にも、頷きました。
これを踏み台にフーコーやデリダ(やスピヴァクや高橋哲哉や小熊英二)の著作に進むと良いのでは、と思います。

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紙の本美しい国へ

2006/10/22 11:17

この人が日本の顔に?

18人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

安倍さん著。
(実は、遠〜い親戚に当たるらしい。うちの母方は安倍貞任の末裔とか。いっぽう彼は、生き延びたその弟、宗任の子孫。)
ま、文春新書だし、右っぽいかナという予想はしてた。
右かどうかは兎も角、いろいろ文句があります(笑)。ただしその前に、「国家と国民を対立した概念でとらえる」(p. 65)ことのオカシサや、アメリカの大統領が共和党員であれ民主党員であれ「代々、同じような主張をしている」(p. 120)ことを指摘している点は、評価したい。
それでも…「個人の自由を担保しているのは国家」(p. 63)なのか!?「いまの日本は、どこからみても軍国主義とは無縁の民主国家であろう」(p. 69)って、軍国主義の反対は平和主義であり、民主国家の反対は独裁国家であって、軍国主義⇔民主国家とは、議論がスライドしているヨ。近代国家になる前の日本では「おたがい排他的にならずに[…]歴史をつくってきた」(p. 98)なんて、空想もいいかげんにしてほしいし、ジェファーソンが「すべての人は生まれながらにして平等であり[…]」(p. 112)と書いたアメリカ独立宣言の‘人’に、黒人や女性は含まれていなかったんだし、「[イラクへの]自衛隊派遣は、けっしてアメリカの要請に諾々としたがったのではなく、日本独自の選択であり、内閣総理大臣自ら発した命令であることを印象づけることに」(p. 135)なんて、なってません!イギリスの教科書が「植民地における奴隷労働の『負』の面を書いたら、イギリスが世界にさきがけて奴隷貿易を廃止したこともきちんと載せる」(p. 204)バランス感覚を持っているので、日本も真似すべきだ、と言うけど、日本ではそもそも日本による植民地政策等の‘負’の面を教えていないヨ。だって、近現代史は評価が定まってなくて、大学入試に出ないから、高校でも塾でも教えないでしょ?最後に、「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家をつくること」(p. 207)なんですか!?わたしゃ国のために教育/教養を得たつもりはありませんでしたが。
この人が日本の顔に…なってしまいましたね……。

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彼の関心から考えた場合予想できる議論なのだろうが...

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

うがった読み方、酷い誤読と思ってしまった。

私が『海辺のカフカ』を読んだのは数年前だから、細かい話をよく覚えているとはいえない。でも小森氏がしつこく繰り返す、暴力が<いたしかたのないこと>として許容されているというのは一体どこから来た発想?

私は『海辺のカフカ』から別に<癒し>は得なかったから、小森氏が想定している読者ではないけど...むしろこの小説の終わり方は、(父親の殺人事件など)身に覚えのないことについても責任をとるということだと思ったんだけど?
いま文庫版下巻の終わりの方を見てみたら:

‘「君はこれからどうするつもりなんだい?」と大島さんは質問する。
「東京に戻ろうと思います」と僕は言う。
「東京に戻ってどうする?」
「まず警察に行って、これまでの事情を説明します。[...]」
「逃げまわっていても、どこにも行けない」
「たぶん」と僕は言う。
「君は成長したみたいだ」と彼は言う。
僕は首を振る。僕にはなにも言えない。[...]
「いつ東京に帰る?」
「今からもう帰ろうと思います」
「夕方まで待たないか?図書館を閉めてから、僕の車で駅まで送ってあげるよ」
僕は少し考えてから首を振る。「ありがとう。でもたぶん、今すぐ出ていったほうがいいと思うんです」
大島さんはうなずく。’
(pp. 518-519, 521)

これって身に覚えのないことについても責任をとらなきゃいけないってことじゃないの?とりあえず、起きてしまったことをただ<いたしかたのないこと>として放っては(許容しては)いないと思うんだけど...

それから一番わからないのは、小森氏はちらほらとポスト構造主義的キーワードを登場させ、フーコーやデリダの名まで出しているのに、というかそもそもフロイトやラカンの主体理解に拠っているらしいのに、そこからの議論がまったく正反対の方向に向かっているように感じられるところ。

私は精神分析は不勉強だけど、そういう、言語によってsplitされた主体というものを問題視するのが彼らの議論じゃないの?フーコーやデリダでも、他者から分割された自己(≒主体)を問題視するのがまず出発点だよね?確かに私自身はデリダとともに‘主体’に留まる考え方なのだけど、でもその‘主体’は、デカルト的、近代的な、小森氏のいう‘自分を連続的かつ統一的に把握する’(p. 50)主体や、‘自らの行動を合理的な思考と判断において内省する統一的な自我’(p. 175)ではないよ?だいたい‘自我’と‘自己’は違うし!
しかもラカンや晩年のフーコーの議論からはふつう、言語による分割を超えた、言説やrelational powerに取り込まれない主体が、思考されると思うけど??

小森氏の議論は言語至上主義に感じられる。別に意見は異なって構わないけど、それならなんでラカンやフーコーやデリダを持ち出すのかな...私にはこっちの方が、小森氏が村上氏を非難する上で多用する表現である‘流用’に思えて仕方ない。

村上氏や、河合隼雄氏(が関わっていた箱庭療法)の考え方はそれとは違って、言語による二項対立、二者択一的表現を超えたところに可能性を見出そうとしてるのだと、私は理解している。『海辺のカフカ』の、やはり最終章には:

‘「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから。」’
(p. 509)

小森氏は村上氏を批判しようとして、この小説は‘二者択一不可避な状況設定をし’ている(p. 172)と書くが...私には小森氏の方がよほど、善悪とか、言葉と視覚的イメージとか、「民主主義的パーソナリティ」と「権威主義的パーソナリティ」とかの二項対立を駆使した議論を展開していると、思えてしまった。

因みに。私も村上作品の登場人物には共感できないことが多い。私が女性だからか、セクシュアルなことにお固いタイプだからかはわからないが。だから別に彼のファンとして小森氏を批判しているのではない(と、自分では思う)。戦争や学園紛争は彼の作品にずっと通奏低音のように横たわってるし、そこを論じるのは大切なことだと思う。
でも、団塊の世代の女性を母として育った私としては(笑)、彼らの‘限界’は‘父親の世代の「戦後」の欺瞞を批判しつつも、戦前戦中の戦争責任までは問わな’かった(p. 242)ことにあるというより、戦前戦中の‘右向け右’が学園紛争では‘左向け左’になっただけで、結局構造的に同じだったところにあるという理解なのダ。

そして私は、村上氏自身はこの小説で自分の属する団塊の世代を‘自己批判’してると、思ったんだよね...

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