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  3. 西下古志さんのレビュー一覧

西下古志さんのレビュー一覧

投稿者:西下古志

18 件中 1 件~ 15 件を表示

くりかえし読める冒険小説——「落伍者」との出会い

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 トマス・ハーディといえば、『テス』や『日陰者ジュード』といった、人生の悲劇と対峙する人間像を描く作家、というイメージが強い。この冒険小説『水源の秘密』でも、物語のなかで重要な役割を担う男「落伍者」の言動に、そうしたハーディらしさがいい意味で見いだせる。「落伍者」は、人生の敗残者であるが、智恵と経験に富んだ男として描かれている。主人公の少年たちは、みずから招いた騒動で危険に直面するが、物語の節目節目で「落伍者」が投げかける言葉によって、危機を受け止め、おとなへと成長していく手がかりをつかみとる。少年の日に「落伍者」に出会ったことは、かれらにとって大きな意味を持ち、読者もまた、少年たちの冒険を読書を通じて経験することで、おとなになる、とはどういうことなのかを考えることになるだろう。
 中学生はもちろん、平易でゆきとどいた訳文のおかげで、小説を読み始めた小学校高学年の児童たちも容易に読める作品である。くりかえし読むことで、日本語の力をつけることが可能だろう。もちろん、おとなも楽しめる小説である。

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紙の本獄中記

2007/04/11 11:49

読書(批評)ノート、あるいは知的生産の方法を述べたノートとして

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、2002年5月20日から2003年10月9日までの日付を持つ著者の獄中ノートからの抜粋である。ノートの全体は、本書終章によれば「四〇〇字詰め原稿用紙五二〇〇枚になる」(p.456.)もので、本書はそこから約五分の一が抜粋されているとのこと。実際のノートの内容は、「学術書からの抜粋とそれに対するコメントにもっとも大きな割合が割かれていたが、本書ではその部分をほとんど割愛した」(p.461.)とのことである。
 実は、この本を手にとった理由は、その「ほとんど割愛」された部分に関心があったからだった。2005年3月に新潮社から刊行した『国家の罠−外務省のラスプーチンと呼ばれて』以降、旺盛な執筆活動を続けている著者佐藤優の知的活動の背景を、この『獄中記』で垣間見ることができるのではないか、という期待をもって本書を読みすすめたのである。かのレーニンの『哲学ノート』や『国家論ノート』のようなものを期待していた。
 残念ながら、本書はレーニンのノートのようなものではない。しかしながら、著書が「学術書からの抜粋」をどのようにおこない、「それに対するコメント」がどんな内容なのかの一部は、本書でもその一端を見ることが可能であり、決して十分とは言えないものの、著者の知的活動の背景を伺い知ることができた。また、本書の末尾には、「獄中読書リスト」が掲げられ、G.W.F.ヘーゲル著(樫山欽四郎訳)『精神現象学』上(平凡社ライブラリー、1997年6月)をはじめ、著者が獄中で読んだ本、関心をもって言及した本を知ることができる。
 また、本書には、著者の知的生産の方法についても述べられており、この部分も著者の知的活動の背景を知る大きな手がかりになった。
 たとえば、弁護団への手紙で述べている、「難しいテーマを扱うときは、思いつきをそのまま文字にはせず、まず、筆ペンでポイントだけを箇条書きにし、一晩寝かせてから翌日文章にすることにしています。一晩寝かしても崩れてしまわない内容は単なる思いつきではなく、自分の『考え』なのだと思っています」(p.154.)といった部分がそうである。このほかにも、「私が学術書を精読するときは、同じ本を三回、それも少し時間をおいて読むことにしています」と述べて、その具体的方法に言及し、「このような読み方をすると、一〇年経っても内容を忘れることはまずありません」と言っている部分(p.165.)、さらに、「私も外にいるときには速読で一日一五〇〇—二〇〇〇頁は書物を読むようにしていました」と述べ、速読の方法論を開陳している部分など、興味深く読むことができた。
 もちろん本書では、そういったこととは別に、「国策捜査」とはなにか、といったことをはじめ、現代日本の現状において重大な意味をもつことがらが論じられている。しかしここではあえて、本書が読書ノートとして、また、知的生産の方法を述べたノートとしても読み得るものである点にも注目しておきたい。

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なぜ宇宙人はなにも言ってこないのか?

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

20世紀を代表する物理学者のひとり、エンリコ・フェルミ(1901年−1954年)は、1950年の夏に昼食を同僚たちととっているとき、「みんなどこにいるんだろうね」という問いを何気なく口にした。これが、のちに「フェルミのパラドックス」と呼ばれるようになるパラドックスである。この「みんな」とは、宇宙に存在すると予想される知的生命のことである。本書の説明を引こう。「この銀河系には、地球外文明があちこちにいるはずだ。ところがその兆しは見えない。すでに向こうの存在を知っているはずなのに、実際にはまだわかっていない。みんなどこにいるのか。彼らはどこにいるのだろう。これがフェルミ・パラドックスである」(p.40.)。
本書では、この「エイリアンがいる証拠が見つかってもよさそうなものなのに、いるようには見えないという矛盾」(p.7.)に対して、50通りの答を示し、その一つひとつについて叮嚀に論じている。フェルミの生涯と業績、とくにこの「フェルミのパラドックス」について詳しく説明した第2章に続き、第3章「実は来ている」では、地球外文明(ETC)はすでに地球に来ているという考え方に立つ8つの解について論じ、第4章「存在するがまだ連絡はない」では、ETCは存在しているものの、その証拠はまだ発見されていないという考え方に立つ22の解について論じ、第5章「存在しない」では、宇宙には人類しか存在していないという考え方に立つ19の解について論じ、最後の第6章「結論」では、筆者のウェッブ自身の考え方を提示している。
ウェッブは、物理学や生物学を自然科学のさまざまな分野の知識を総動員し、さらには文明論や社会学、SF小説で描かれたETCなどについても論及しながら、解の一つひとつについて論証を試みている。読み手はそうした論証を通じて、宇宙についてだけではなく、地球と地球上の生命について、さまざまな視角から認識を拡げていくことができる。とくに、生命とはなにか、文明とはなにか、といった問題が、自然科学の認識を背景にいくつもの角度から論じられている点に、本書の特徴のひとつがある。
また本書は、自然科学の考え方や方法論についてのわかりやすい解説書にもなっており、そうした自然科学の考え方や方法論が、人間にとってどのような意味を持ち得るのかを考える恰好の素材をも提供してくれている。自然科学への入門書としても最適の一冊と言えるだろう。

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紙の本ベーシック労働法 第3版

2008/05/26 16:17

人間らしい生活のために

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 グローバル化の進展などが遠因となって、終身雇用制や年功制といったものが崩れ始め、労働組合の組織率も低迷したままの状況が続いている。終身雇用制・年功賃金制・企業別組合といった日本的雇用慣行の崩壊とともに、働き方それ自体のルールすなわち労働関係の法律も大きく変わりつつある。2007年のパート労働法の改正や労働契約法の成立など、記憶に新しい。
 本書は、そうした労働法のあらたな整備に伴って、それまで(第2版)の内容を改訂した最新版(第3版)である。労働法の基本的な考え方と、法律の内容について要点を絞って解説した入門書である。本書の特色のひとつは、「はじめに」で述べられているように、「複雑で難しくなっている労働法をわかりやすく解きほぐして説明」していることである。文章のわかりやすさだけではなく、表裏の見返しの「労働法の全体MAP」「労働法の歴史MAP」や、第1章を除く各章冒頭に掲げられた内容をまとめたMAP(図解)が、労働法の理解を立体的なものにしてくれる。大学(学部)における初学者向けの教科書として書かれてはいるものの、大学の中だけで使われるのは惜しい内容である。
 非正規雇用の拡大を原因とするいわゆる格差の拡大やワーキング・プア問題の深刻化など、労働のありかたが問い直されている現在、労働法についてわかりやすく解説している本書のもつ意味は、おそらく執筆者たちが考えているよりもはるかに大きい。今日の労働をめぐるさまざまな問題は、労働法の正確な理解と知識が、労働者にも使用者にも備わっていないことが遠因になっている、と指摘できるからである。労働法の理解と知識が多くの市民に共有されることこそ、労働をめぐる問題を解決する前提の一つである。
 たとえば、本書でも「パートタイム労働者やアルバイトなどの非典型労働者の中には、正社員とは違って諸々の労働法規の適用を受けられないと思っている人が結構多いのではないでしょうか。時には使用者でさえそう思っている場合があります」と指摘しているように(p.254.)、労働法における「労働者」の規定や捉え方に対する誤解が蔓延している。こうした誤解を払拭することが、いま急務なのではないだろうか。本書ではその間違いを指摘し、「パートタイム労働者でもフリーターでも、『労働者』(→第2章1参照)である以上は、労働基準法、労災保健法〔中略〕などの一般的な労働法規が適用されます」とあらためて注意を喚起する(pp.254-255.)。正社員でなくとも、どんなかたちであれ、お金をもらって働いていれば「労働者」なのであり、労働者としての権利と義務をもっている。この点をはじめ、労働法の内容がまず広く理解されることこそ、労働や労働者をとりまく問題を解決するための基礎になると考えられる。
 別の所でも、そうした声があがっている。『日本労働研究雑誌』第572号(2008年2・3月)の巻頭言「労働法を知らせる」で、執筆者の仁田道夫教授(東京大学社会科学研究所)は、「労働法上の権利についての知識の減退は、労働組合組織率の低下と軌を一にしている」と指摘し、労働法に関する知識が勤労者に行き渡る重要性を訴えている。
 労働法の知識は、勤労者の権利を守るための第一歩であり、さらには、労働をめぐる問題を解決するための土台ともなるのである。そのためにも、本書が大学の中はもちろん、大学の外でも、多くの人たちに読まれて欲しいと思うのである。
 本書の第1章「労働法をスケッチしてみよう」の冒頭には、「労働法は、民法などの一般法を適用しただけでは市場原理に淘汰されてしまう労働者に対して、人間らしい生活を確保すると同時にその自由を実質的に保証するために登場した比較的に若い世代の法律です」という説明が書かれている(p.1.)。これは、市場原理の猛威の前に人間らしい生活が困難になりつつある人たちへ向けた法学研究者である著者たちからのメッセージとして受けとりたい。
 本書には、充実した文献案内(各章ごと及び巻末)と、事項索引・判例索引が附されている。労働法についてさらに深く、また広く学んでいこうとする際に大きな手助けとなる。こうした点にも、有斐閣がもっている懇切叮嚀な教科書づくりの伝統と技術が生きていることを感じた。ほかの教科書にも是非この点は活かして欲しい。

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ウェブ2.0の背後にうごめく国家権力を注視する

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本には、ひとつの高遠な理想が貫いている。その理想とは、インターネットが誕生して以来、技術者たちを中心に追求されてきたものであり、ウェブ2.0と呼ばれる世界においてようやく体現しつつある理想である。著者の佐々木俊尚は、ウェブ2.0の概念を定義して、「ひとことでいえば『すべてをオープンにしていこう』ということだ」と述べているが(p.261.)、それこそが、ウェブ世界の理想である。
 本書は、この理想——もちろん、異なる視点からもさまざまに表現されているが、このウェブの世界で追い求められている理想をめぐる近年の事象をとりあげ、それらを国家による「排除」と「囲い込み」という観点から論じている。とりあげられている事象は、「Winny」をめぐる問題や、「標準化」の問題など、リアルの世界に属する国家が、どのようにネットの世界にかかわり、はたらきかけているかという問題である。それらを著者は、「排除」と「囲い込み」というキーワードで分析している。
 「Winny」をめぐる問題では、「すべてをオープンにしていこう」というウェブ2.0につながる理想が、国家による「排除」やウィルスという悪意によって挫折する過程を描いている。「標準化」の問題では、米国や中国によるインターネットの「囲い込み」戦略・政策を追っている。そこでは、ネットの世界での理想の追求が、リアルの世界からの「排除」と「囲い込み」によって、どのように捩じ曲げられ、変質していくのかが具体的に描き出されている。
 ネットの世界とリアルの世界のそうした対抗関係を著者は、「自由と独立を求めるバーチャルな世界と、従来型の空間秩序を維持してきた国家権力との衝突」(「プロローグ」、p.14.)として捉え、現実世界での文明間・国家間の「水平的な衝突」に対して、「垂直的な衝突」であると述べている(p.14.)。この「衝突」は、国家による「排除」と「囲い込み」という方法によって引き起こされているのだ、と著者は見ている。
 著者は、明言こそしていないものの、「すべてをオープンにしていこう」という理想の側に立っている。だからこそ、国家(や企業)によるネット世界の「排除」と「囲い込み」を現場に密着して取材し、分析し、将来の見通しを考えようとしているのである。多様な価値観や生き方が共存できる社会を構築するひとつの方法論として、「すべてをオープンにしていこう」というウェブ2.0の理想は意味があるものだ。その理想が、公権力や企業の「排除」によって、また「囲い込み」によって変容し、まったく別の何かになってしまうのではないか、という危機意識が本書の背景にある。
 安易な結論は、本書にはない。ただ最終章(第11章)で、「いまや局面は、ネットの世界の基盤が社会に浸透していくのか、それとも国家の覇権が復活するのか、あるいはその両者が何らかの歩み寄りをして調和していくのかという、その選択肢を突きつけられつつあるように思える」(p.277.)という著者の発言は、ウェブの世界を考えるにあたって徹底的に検討されるべきものである。
 同じ新書判の梅田望夫著『ウェブ進化論−本当の大変化はこれから始まる』(『ちくま新書』、2006年2月)は、ネット世界の未来を論じた好著である。しかし、本書のように公権力との対抗関係のなかでネットの世界を論じるという側面が弱い。そのため、バラ色の未来としてウェブ2.0の世界を強調する傾向が強く、これでは思わぬところで足をすくわれるのではないか、という危うさを持っている。本書『ネットvs.リアルの衝突』は、思わぬ場面で足をすくわれないためにも、『ウェブ進化論』を読んだ人たちをも含めて、多くの人たちに読んでもらいたい一冊である。

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地球における最重要人物の一人であるローマ法王を知るために

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 大多数の日本人にとって、ローマ法王とは、なにか国際的な影響力を持った人物であるらしいという印象を受けるものの、本書が指摘するように「所詮一人の外国人に過ぎない」存在であるに違いない。米国大統領の言動に注意を払いつつ国際情勢等を考える人は多いけれども、ローマ法王の発言や行動の意味を捉えながら世界の動きを分析しようとする人は少ない。
 しかしながらローマ法王は、キリスト教という宗教の世界だけではなく、宗教の世界と密接なつながりを持っている政治の世界においても大きな意味を持っており、決して無視できる存在ではない。そのことは——本書でも述べられているが——米ソが対立した東西冷戦を終結させるにあたって、ローマ法王ヨハネ=パウロ二世が果たした役割を見れば納得できるだろう(政治史や国際関係論の文献ではあまり触れられることのない、冷戦終結に向けてのローマ法王の役割が、本書では時代を追って整理されている)。
 本書では、近代だけではなく、初期の時代から現代まで、ローマ法王とはどのような存在であったのかが、政治史や精神史とのかかわりにも配慮しながら述べられている。
 また筆者は、そうした歴史的背景を踏まえて、現代におけるローマ法王という存在の意味についても、さまざまな視角から指摘している。たとえば、本書の末尾でヨハネ=パウロ二世に言及しつつ筆者は次のように述べ、ローマ法王の発言が特定の宗教宗派を超えて意味を持つ理由を指摘している。「だれかが、どこかで、いつも、殺すな、傷つけるな、愛し合え、と言い続けている。安らぎは案外そんなところから来るのかもしれない」(p.188.)。
 また本書では、ローマ法王を元首するヴァティカンを「ヴァーチャル国家」として捉える視点を提起している。「もともとキリスト教は、目に見えない『聖霊』を媒介にして交信し合うというヴァーチャルな基盤を持っている。カトリックはそこに聖人信仰を中心にした言葉(名前)と画像のネットワークを築いてきた。それが、一八七〇年に国家としての領土を失った時に、自覚的、積極的にヴァーチャル国家として存続、再出発する基礎となったわけだ。世界最小の国ヴァティカンは、今もヴァーチャルなコピーとシンボルの大国であり続ける。」(p.58.)以上の指摘から展開されるヴァティカンおよびローマ法王についての視点は、情報社会に生きる現代人にとって、ローマ法王とヴァティカンについての理解を深める有益なものだと思われる。
 読み手は、本書によってローマ法王およびヴァティカンについての基礎知識を得ることができる。入門書的な性格のため、個々の部分では説明がものたりない点もある。けれどもその点は、読み手自身がさらに次の文献へとすすむための出発点と捉えるべきだろう。
 本書は、同じ著書による『ローマ法王』(『ちくま新書』147、筑摩書房、1998年3月)を文庫化にあたり校訂し、あらたに「新世紀におけるローマ法王ウオッチング−文庫のためのあとがきにかえて」(pp.191-197.)を附したものである。
 その「あとがき」で、ヨハネ=パウロ二世の葬儀に、「日本は、首相や皇族はおろか現職の大臣をだれひとり送らなかったのは驚きだった」と著書は述べているが、このことは「驚き」以上に、外交上の致命的な失策だったのではないだろうか、と考えざるを得ない。
 現代の国際社会において、また世界の思想・文化において、ローマ方法の担っている大きな意義と役割を理解することの重要性を本書は訴えている。日本語の文化においても、ローマ方法とヴァティカンについての知識が少しでも豊富なものになるために、本書の持つ意味もまた大きい。

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紙の本中国大国の虚実

2007/04/12 14:52

中国の現状を知る手がかりとして

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 21世紀の「大国」として、中華人民共和国がアジアのみならず地球的規模で大きな位置を占める日が間違いなくやってくる。そのことを否定する人びともいるが、もし「大国」となることに失敗した場合でも、その失敗自体がアジア地域、とくに日本に対して与える影響は、計り知れないものになるだろう。
 本書は、「大国」へと向けて突きすすむ隣国の現状についての報告と、有識者へのインタビューで構成されている。「はじめに」で、「本書は〔中略〕二〇〇五年三月から〇六年五月まで日本経済新聞の一面などで連載した『第四の極 中国』企画や、中国関連連載企画に大幅加筆したものである」と述べられているように、新聞掲載記事が元になっている。
 本書を一読して得られる「中国」の姿は、日本や米国などの周辺諸国と摩擦や対立を引き起こしながらも、「大国」への道を着実に歩み続けているエネルギーに満ち溢れた新興国家というものである。国内にはもちろん、対外的にも多くの深刻な問題を抱えている実状が、本書によって報告されているが、そうした問題それ自体すら、中国を「大国」へと動かす活力になっているかのように思えてくるのである。
 しかしながら、では中国がどのような「大国」になろうとしているのか、その具体的な国家像は、まだ輪郭すらむすび得ていないのが現実ではないだろうか。そのため、中国を不気味で不可解な隣国、という印象で語る人びとも少なくない。
 本書も、中国の具体的な国家像を提示するものではなく、そこで報告され分析されているさまざまな事象をむすびつけたところに、「大国」中国の整然としたイメージが浮き上がってくるわけではない。しかしながら、粘り強い取材を続け、それぞれの現場における中国の現状を伝えた本書の報告は、中国自身が抱える問題、そして中国と日本、米国といった関係諸国間に存在する問題が何であるのかを具体的に提示している。中国の将来像を明確に示すものではないが、本書の報告は、中国に対して根拠もなく語られる不気味さや不可解さを払拭するものである。
 本書で注目するべき点のひとつは、中国と日本・中国と米国、さらにはこの三国間関係の難しさに論及している部分である。本書によって、国際政治や国際経済におけるこの複雑な国家間関係が持つ大きな意味についてあらためて教えられた。そして日本は、ただただ激しく変貌しつつある隣国の実状を前に、確固たる国家戦略もなく右往左往し続けているのではないか、という危惧を同時に持たざるを得なかった。
 本書「おわりに」の末尾は、次のようにむすばれている(執筆は中国総局長の飯野克彦)。「歴史を振り返れば、日本は中国の改革・開放政策を最も積極的に後押ししてきた国であり、現在の中国の高度成長にも大きな貢献をしてきた。その日本が今後中国とどう向き合っていくのかは世界の関心事であり、実際世界の命運を左右しかねない。日本人はそんな自覚を迫られている。」(pp.246-247.)。
 国内外に問題を抱えながらも「大国」になろうとする強靱な意思を持った隣国とどのように対峙していくのか、日本の姿勢と戦略がますます問われる時代がやってきた。けれどもまず、姿勢をととのえ、戦略を構築するためには、国民のあいだで中国の現状についての知識が豊富なものになることも必要である。そのためにも、本書の持つ意義は決して小さくない。新聞掲載記事が元になっているとはいえ、本書の内容はこの先も長い期間、価値を持ち続けるものだと思われる。

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紙の本市民科学者として生きる

2005/05/26 16:19

科学と科学研究者の意味を問いなおす

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、2000年10月8日に亡くなった高木仁三郎(1938年−2000年)が、第二次大戦敗戦前夜から、1997年にライフ・ライブリフッド賞(RLA)を受賞し、翌年、「市民科学者」を育てるための高木学校を出発させる前後までのみずからの歩みを語った、いわば自叙伝と言ってもよい著作である。ほとんどの部分は、癌との闘病生活を送るベッドの上で書かれたという。
のちに「反原発」「脱原発」の指導的論客、市民活動家として活躍する高木も、東京大学理学部で核化学を専攻する科学者として出発する学生時代、また日本原子力事業株式会社から東大の原子核研究所を経て東京都立大学理学部に助教授として着任する会社員、教員の時代には、かならずしも原子力産業に対して批判的なまなざしを持っていたわけではなく、本書の標題にあるような「市民科学者」としての自覚を持っていたわけではなかった。本書の前半で語られている都立大助教授を辞職する時代までの高木は、自立した個人の確立、また、科学者としての自己の確立を模索し続ける少壮研究者であった。
高木の人生が「市民科学者」へと大きく変わっていく契機となったのは、成田市三里塚で空港建設反対運動をおこなっている地元農民たちとの出会いと、宮澤賢治の世界との邂逅であった。高木は、ハイデルベルクにあるマックス・プランク核物理研究所(MPI)への留学後に都立大を辞め、「市民科学者」としての道を探りながら、プルトニウムをはじめとする原子力の問題にとりくみ、市民の日常生活の場に立脚点を置き、原子力発電、原子力産業への徹底的な批判者になっていく。
高木も参加して創設された原子力資料情報室は、かれの活動の根拠地となった。まだ「NGO(非政府組織)」といったことばもない時代、この原子力資料情報室は、日本のエネルギー問題、環境問題にかかわる運動のなかで大きな役割を果たした。本書の後半では、NGOの先駆的存在とも呼ぶべき原子力情報資料室を足場とした「市民科学者」高木仁三郎の軌跡が語られている。その活動の過程で、国を越えた人と人とのむすびつきの意味や、国民の生活をないがしろにする陰湿な行政や企業の実態、さらには、高木自身が直面せざるを得なかった、市民運動のなかで自然科学を専攻する研究者としてのどのように自己の意味を見出していくのか、といった問題が述べられている。
本書は、ごく普通の日常生活のなかに基盤を置き、そこから出発してそこへと戻ってくる「科学者」というあり方が、可能であるのか否かを、高木自身の経験に即して問いなおしているものと言えるだろう。学問が細分化していくなかで、自然科学が、人間と世界のあり方を根本から問い直す学問分野とのむすびつきを失って自己目的化する傾向がますます強まり、また同時に、大学が教育・研究の場ではなくなり、学生という名の「投資家」が企業で評価されるスキルを身につける場へと大きく変貌しつつある現在、本書での高木の問いかけは、「科学」や「学問」、「大学」と社会とのかかわりにとって大きな意味を持つだろう。
高木の主要な著作は、2001年から刊行が始まった『高木仁三郎著作集』全12巻(七つ森書館)に収められている。

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紙の本科学事件

2006/03/27 14:56

科学者・行政・報道、それぞれの役割と責任を問う

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 第二次大戦後の日本で起きた大きな事件のいくつかは、「科学」の理論や技術と密接なかかわりをもっている。本書では、そうした事件を7つとりあげて考察する。その事件とは、「脳死・臓器移植」、「薬害エイズ」、「体外受精」、「原子量」、「水俣病」、「大地震」、「クローン羊」である。
 著者の柴田が、「科学事件の場合、そのとき、学界がどう対応したか、行政がどう対応したか、報道がどう対応したか、三つの側面から検証してみることが必要である」と述べているように(「はじめに」)、本書ではジャーナリストの立場から、それぞれの事件に対してマスメディアがどのような報道をおこなったか、あるいはおこなわなかったかを検証している。もちろん、学界や行政への批判も展開されている。
 とくに、メディアへの検証においては、どのような報道をしたのかよりも、なぜ報道できる材料や機会があったのに、充分な報道をおこなわなかったのかが、報道の現場に身をおいた一人であった柴田の痛切な反省あるいは後悔の念とともに、論じられている。
 たとえば、「薬害エイズ」の問題である。エイズが米国で猛威をふるうなか、1983年5月に『朝日新聞』は、ヨーロッパ諸国での米国製血液製剤の輸入規制の動きを報じ、続いて7月、帝京大学病院で米国製血液製剤を使用していた血友病患者が死亡したことをとりあげ、この患者が日本でのエイズ患者第1号かどうか、厚生省の研究班での検討を伝えるスクープ記事を載せた。しかし、この死亡した患者は第1号とは認定されず、記事は誤報あつかいをされてしまった。柴田は、この「二本の記事だけでもじっくりと読めば、たとえその一部が誤報とされたとはいっても、アメリカからの血液製剤によって血友病患者に危険が迫っているという事実そのものはわかったはず」、「その一点を突破口に、ぐんぐん取材を掘り下げていけば、薬害エイズ事件の構図はもっと早い段階で社会にアピールできたことだろう。いいかえれば、マスメディアは社会に対し『警鐘は鳴らした』が、『警鐘を乱打しなかった』のである」と述べている(p.45.)。
 「大地震」では、1995年1月の兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)に触れ、地震発生以前に多くの研究者が「関西地方が危ない」と警告を発していたにもかかわらず、「関西には地震がない」という「迷信」が拡がっていた事実を指摘している。柴田は、その「迷信」によって関西地方では地震への備えがおろそかになり、震災の被害が大きくなった、と分析している。ここでも、メディアの責任が問われている。「専門家が『危ない』といっているのに、一般の人々はそう思っていない。そうだとすれば、間をつなぐべきマスメディアが十分に機能していなかった」と述べている(p.147.)。「迷信」は、関東圏にも拡がっている。それは、「大地震の前には警報が出る」という「迷信」である。柴田は、日本の地震予知体制そのものの欠陥を批判し、地震が事前に決して「予知」できないということを強調し、地震前に「警報」が出る「迷信」を払拭することが急務であることを訴えている。たしかに、東海地震の発生前には「警戒警報」が出る、という「迷信」は、いま現在でも多くの人たちが信じている。報道と行政、そして研究者らの行動と発言によって、一日も早くこ 「迷信」を打破する必要がある。
 常に社会との接点のなかで「科学」を問いなおしていく本書の視点は、大きな意味を持つであろう。なによりも、行政と学界・科学者、そしてメディアが、それぞれの「事件」においてどのような態度をとり、なにをしたのか、あるいはしなかったのかを社会的文脈に沿って検証し、批判しておくことは、これからの議論の出発点となる仕事である。

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翻訳ミステリー・SFの戦後草創時代における翻訳者と編集者のドラマを描き出す

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 翻訳出版にたずさわる編集者で、本書の著者である宮田昇の『翻訳出版の実務』を参照しなかった人は、ほとんどいないだろう(最新版は、第3版、日本エディタースクール出版部、2000年6月)。本書は、早川書房の編集者を経て、海外著作権エージェントとして活躍してきた著者が、みずから深くかかわった翻訳者や編集者たちを回想した、まさしく「風雲録」である。ここでとりあげられているのは、中桐雅夫、鮎川信夫、田村隆一、高橋豊、宇野利泰、田中融二、亀山龍樹、福島正実、清水俊二、斎藤正直、早川清といったひとたちであり、また、その回想のなかでは、野中重雄や常盤新平らについても述べられている。とくに早川書房の創業者・早川清と、同社の編集者でもあった福島正実の二人については、多くの字数が費やされており、著者の眼からみたかれらの実像に迫っている。ミステリーの分野からみた場合、本書では、権田萬治・新保博久監修『日本ミステリー事典』(新潮社、2000年)に立項されていない人物についても詳しく言及されているので、同事典を補う資料としても価値がある(人名索引が付いていないのが惜しまれる)。
 本書は、戦後の翻訳ミステリーやSFが、どのような裏面史を抱えて展開していったかの貴重な記録である。たとえば、ハヤカワ・ポケット・ミステリ(=ポケミス)にまつわる話や、福島正実とSF作家たちとの軋轢といった話などが、ここでは語られている。そして同時に本書は、翻訳者たちが、人生のさまざまな挫折や屈折を経て「翻訳」という仕事にたどりつく、あるいはめぐりあっていく人間のドラマを描いた作品としても、読み応えのあるものになっている。歴史の渦中にいた著者でなければ書けないものだけに、登場する翻訳者たちの息づかいまでもが、感じられる。
 また、この本は、著者自身を含めたさまざまな編集者たちの姿を語ることで、「編集者」のあるべき姿について論じているとも言えるだろう。副題にあるように、「翻訳者が神々だった」のであれば、「編集者」もまた「神々だった」のである。
 宮田の『翻訳権の戦後史』(みすず書房、1999年2月)も、併せて読みたい好著であることを、附記しておきたい。

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ファンタジー誕生への苦難の軌跡——J・K・ローリングと『ハリー・ポッター』

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 以前、何人かで話していたとき、世界的なベスト・セラー『"ハリー・ポッター』に話がおよんだ。離婚して乳飲み子をかかえた著者のJ・K・ローリングは、社会給付を受けながら『ハリポタ』を執筆していた、とだれかが言うと、その場にいたYが、「イギリスは社会福祉が充実しているから、けっこう贅沢ないい暮らしをしてたんだよ」と言った。中高一貫の難関進学校から東大へ進んだYらしい、教科書的な反応であった。
 しかし、本書を読めば、英国の社会保障の現場というものの実情が、「贅沢ないい暮らし」どころではなく、「福祉の罠」という本書のことば通り、「罠」にとりこまれた、みじめで窮屈な生活を強いるものであることが判るだろう。官僚的な福祉政策によって人間の尊厳と自由が踏みにじられる一例が、本書には示されている。ここには、「罠」にはまってしまうと、抜け出して自立することがどれほど困難であるかが、具体的に書かれている。
 本書は、のちの著名作家ジョアン・ローリングが、その「福祉の罠」にはまらざるを得なくなってしまうまでの軌跡と、その「罠」から抜け出して、幻想的な売上げを誇る物語の著者として成功するまでの軌跡をたどっている。その歩みは、シングル・マザーが福祉の恩恵で生活しながらカフェでファンタジーを書いたら一夜にして成功した、といったシンデレラ・ストーリーとは、まったく異なるものである。
 この本の問題点の一つとして、主人公のローリングに直接取材して書かれていないことが指摘できるだろう。しかし、周辺部分の調査は、かなり綿密におこなわれており、臨場感の備わった読み応えのある伝記に仕上がっている。『ハリー・ポッター』のなかに出てくるさまざまなエピソードや登場人物などを、ローリングの人生のなかに探ろうとする試み——「ハリー」や「ハーマイオニー」に彼女の姿を見ようとすること——は、『ハリポタ』の愛読者にとって、興味をそそられることであろう。
 本書では、ローリングが〈シングル・ペアレント・ファミリーのための全国協会〉のために多額の寄付をおこない、同協会の慈善大使になったことに始まる社会活動についても、ページを割いている。
 著者ショーン・スミスは、ローリングもまた、勇気をもって世界に挑戦しつづける一人の冒険者であることを描き出した。母校エクセター大学でおこなったローリングのスピーチを聴いて欲しい。「失敗を恐れて萎縮しないこと、ほかの誰でもなく自分自身の期待に恥じないようにすること、そして、自分の能力を最大限に生かせる仕事を見つけること。そうすれば、充実した、悔いのない人生を送ることができるはずです」(本書277ページ)。

 最後に一言。本書では、凡例の部分で、「本書中、引用部分は〔  〕で示し……」とあり、実際に本文中では、引用部分が亀甲括弧〔  〕でくくられている。しかし、文献からの引用部分をこの〔  〕でくくるのは、読みにくいだけではなく、形式の上でも誤っている。文献からの引用部分は、かぎ括弧「  」でくくって引用するのが、約束である。亀甲括弧〔  〕は、かっこ「  」でくくって引用した引用文中に、引用者の補足説明や注記などを記す場合等に使用する括弧である。「  」内は、その本や論文の執筆者の文章ではない引用の文章、〔  〕内の文は、その本や論文の執筆者の文章であることを示す、といった約束事を厳守しなければ、どれが引用部分であり、どれが引用者の説明・注記なのか、混乱してしまうおそれがある。わかればいい、という姿勢で臨んで欲しくはない。

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ミステリー成立の秘密を英国社会に探る——ただしネタバレに注意

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 「ミステリー」か「ミステリ」か、といった表記の問題も、本書の終章で論じられている。ここでは、本書標題に敬意を払って「ミステリー」でいこう。
 本書では、ミステリー小説がなぜ英国において発生し、イギリスとアメリカで発展していったのか、非英語圏との差はなぜ生まれたのか、といった問題意識を出発点にして、日本での事例をも交えながら、興味深い論点を提示しつつ議論がすすめられている。階級や宗教、デモクラシーやそれに基礎を置く裁判などのシステムの成熟、就業(通勤)形態、貸本屋・公立図書館の役割、といった観点から、ミステリーの成立と展開を分析し、ミステリーもまた、同時代の社会状況と密接不可分に産み出されてきた文学表現であることが、本書によって理解されるだろう。
 ところで、これから本書を読もうとする人たちには、重大な警告を発せざるを得ない。著名なミステリー、たとえばヴァン・ダイン『カブト虫殺人事件』や、エラリー・クイーン『Yの悲劇』などの作品をまだ読んでいない読者は、本書第二部「イデオロギー」の第一章「カタルシスの諸相」(pp.92-111.)を決して見てはならない。そこには、だれが犯人であるのか、いわゆるネタバレが記されているからだ。これらの作品以外にも、多数のミステリーの結末と犯人についての情報が、この章には書かれている。まだまだ読むべきミステリーが控えている幸福な読者は、この第二部第一章をとばして先へすすんで欲しい。本書のようなミステリーについての評論・研究は、この「ネタバレ」の問題をどう扱うかが、苦心するところであろう。
 本書の著者は、『イギリス鉄鋼独占の研究』(ミネルヴァ書房、1985年)等の著書がある西洋経済史の研究者である。専門書以外にも、『二つの大聖堂のある町』(筑摩書房、1992年)や『イギリス歴史の旅』(朝日新聞社、1996年)といった本を執筆している。

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紙の本夏の災厄

2004/06/11 10:22

「法治」国家日本の災厄を描く

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 日本が「法治国家」であることは、あたりまえのこととして受けとめられている。しかし、その一方の実態が、法律によって人間の一挙手一投足までをも管理してしまうことまでは、なかなか実感を伴って理解されていない。もちろん、法の支配は、デモクラシーの根幹であり、これを否定することは、すなわち民主政治そのものを否定することである。だからこそ、法治国家の「法治」の実態を不断に検証していく必要がある。
 この『夏の災厄』は、この「法治」の実態を圧倒的な現実味をもって描き出した作品としても意味のあるものだ。架空の自治体である埼玉県昭川市に、撲滅されたはずの日本脳炎によく似た症状の病気が蔓延していく。しかしながら、だれ一人としてこの病気の正体を解明し、対策を打ち出せないままに、謎の伝染病は市民に襲いかかる。対策を打てない原因は、硬直化した自治体や国の行政のシステムだが、硬直化させているのは、伝染病予防をはじめとする法律、さらにたどっていけば、人権を保障する憲法にほかならないのである。法律にがんじがらめにされたなかで、病気は拡がりつづけていく。
 「現代日本の防疫体制は、そんなに遅れたものではない。厚生省を頂点とした完璧なシステムも、大学病院や企業の研究所の研究者の能力も、薬剤や医療技術の質も、世界のトップレベルにあるはずだ。しかしなぜか、今、このとき機能しない。なぜなのか、だれにもわからない」(文庫版、562頁)という嘆きの声へ返答するとすれば、それは、法律で権力者らの手足を縛ったつもりが、自分たちをも縛ってしまったこの国の法文化やデモクラシーそのものに内在している、と言わざるを得ない。
 解説は、『パラサイト・イヴ』(角川書店)で知られる瀬名秀明。原著は、1995年3月に毎日新聞社から刊行された。

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紙の本武士 平田弘史時代劇画選画集

2003/06/12 12:43

武士(もののふ)を凝視しつづける平田弘史の画業を集大成した待望の画集

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 「劇画」というものが、止まっている絵だと思うひとは、平田弘史の作品を見るといい。平田の劇画は、止まっていない。動き、躍動し、画面からは雄叫びさえも聞こえてくる。
 2003年5月に、『薩摩義士伝』などの時代劇画で知られる平田弘史の画集が刊行された。カラー・ページを多く含む迫力満点の作品集である。たとえば、『武士道無残伝』から採られた斬り合いをする武士の絵は、静謐な雰囲気のなかにも、飛び散る血潮と血塗られた刃が、殺し殺される現場の生々しさをあらわしている。
 緻密で叮嚀な筆遣いによって描かれた武士たちの姿は、セリフがなくとも、ことばで語る以上のものをあらわしている。「劇画」もまた、日本が世界に誇る表現芸術だということを、あらためて認識した。
 今日、「武士」といえば、テレビの時代劇や、小山ゆうの漫画『あずみ』にみられるように、現代人とほぼ変わらない容貌で、立ち居振る舞いもわれわれと大差ない人間として描かれている。けれども、死、しかも、だれかに殺される死を常に覚悟し続け、その一方で、人を殺すことをを第一の任務とした人間たちが、われわれと同じ風貌であるわけがない。
 平田の描き出す「武士」は、現代ではもはや見ることの難しい、エネルギーに充ち満ちた荒々しい人間だ。死と隣り合わせに生きる人びととは、かくも厳しい面持ちと、威風堂々たる態度の人間なのかと、感嘆の声をあげてしまう。
 巻末には詳細な「作品リスト」も付されている。平田ファンのみならず、時代劇ファンにすすめたい一冊である。

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紙の本イギリス歴史の旅

2003/05/18 13:55

安楽椅子の旅行者のためのイングランド案内書

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 本書は、冒頭の「旅のはじめに」で述べられているように、「『アームチェア・トラベラー(安楽椅子の旅行者)』向きの本であってくれたら」という著者の願いが込められた本である。一読したあと、著者のこの、「読むこと自体がひとつの旅、それも仰ぎ願わくば中味の濃い、充実した旅を経験したことになってくれれば、という欲張った」願いが成功している、と思うのは、評者一人だけではないであろう。安楽椅子の旅行者(armchair traveller)にとっては、格好の案内書である。
 全体の構成は、第一章「自然という名の楽園−湖水地方に憑かれた人たち」、第二章「貴族たちの楽園巡り−カントリーハウスの夏」、第三章「ユートピアの村巡り−地主の風致村、工業村から田園都市へ」といった3章構成、各章の中扉裏に掲げられた地図と、本文中にある多数の図版が、旅の手助けをしてくれる。本書の標題は『イギリス歴史の旅』であるが、旅は主としてイングランドをめぐっていく。巻末には、こうした本には欠かせない索引も完備している。
 著者の旅は——もちろん、読者の旅も——それぞれの章で設定された主題に沿って、イギリスの歴史と対話をかさねながらすすんでいく。湖水地方(Lake District)の旅も、カントリーハウスをめぐる旅も、「イギリスの特産品」である「ユートピア」思想の実験を探る旅も、英国さらにはヨーロッパの歴史との対話の旅になっている。
 たとえば、第一章の湖水地方の旅では、トマス・グレイやウィリアム・ワーズワス、ジョン・ラスキン、「湖水地方の番犬」と呼ばれたハードウィック・ローンズリといった人びとの軌跡をたどりながら、湖水地方の風土、美術史をはじめとする芸術史におけるその意味、さらに、この地方の自然や景観が開発からまもられ、今日あるようになっていった歴史が、現在の湖水地方をめぐる旅のなかで語られている。ここでは、英国の環境保護に大きな役割を話しているナショナル・トラストの誕生についても述べられている。
 さまざまなエピソードも、興味深いものである。——湖水地方の農場主である一人の女性が、16歳の内気な少女だったとき、ローンズリは彼女を励まし、空想の世界を文章で表現するようにすすめた。少女の名前は、ビアトリクス・ポッター、彼女の作品『ピーター・ラビット』シリーズは、多くの国で読み継がれている。
 第二章では、国王と貴族たちとの力関係の変遷、第三章では、産業革命以降の社会状況や社会思想の展開が、歴史との対話の軸になっている。
 本書は、西洋経済史の研究者である著者とイギリスとの長年のかかわりのなかから産み出された豊かな果実と言えるだろう。最後に著者のことばを紹介しておこう。「イギリスの旅の楽しみはやはり過去との対話、風景の中に歴史を発見し解読するおもしろさに尽きるのではないだろうか。これほどいたるところに歴史が充満し、想像力を刺激する空間に事欠かない国も珍しいからである。〔中略〕ドイツの歴史家ランケは、歴史上の各時代を尊重する立場から、『すべての時代は神に直結する』と述べたが、近世イギリスほどこの言葉がぴったり当てはまる国はあるまい。どの世紀をとっても、それぞれの『歴史の旅』が成り立つだけの、豊かな過去を持つ国なのである」(「旅の終わりに」、pp.262-263.)。
 著者の高橋哲雄は、『イギリス鉄鋼独占の研究』(ミネルヴァ書房、1985年)等の専門書のほかに、『ミステリーの社会学−近代的「気晴らし」の条件』(中公新書、1989年)や『アイルランド歴史紀行』(ちくま学芸文庫、1995年)など、専攻分野を背景にした読み応えのある本を執筆している。併せておすすめしておきたい。

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