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先月(2017年6月)

アベイズミさんのレビュー一覧

投稿者:アベイズミ

41 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本向田邦子の手料理

2003/05/29 20:15

味醂干しと書くと泣きたくなる。

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

もういったい幾度頁を捲ったことだろうか。

今夜は久し振りに「向田邦子の手料理」を手に取ってみる。この世には料理の本は数知れない。その上、近頃の垢抜けたセンス溢れる本のなんと多いことか。そう思いながらこの本を捲ってみれば、やぼったくも古めかしくも見えてしまう。お世辞にもお洒落とは言えない本である。出てくる料理には目新しさも感じられない。わざわざ本にするまでもないような、そんな料理も多い気がする。

それでもやはり、私はこの本が好きなのだ。向田さんの人となりがどの料理にも偲ばれる。感じられる。そんなこの本が好きなのだ。そして、器であれ思い出であれ心意気であれ料理であれ、自分のいとしいもの全部集めてこんな本が作れたらどんなに良いかと、何度思ったことだろうか。

目新しくもないなどと言ったくせに、私は何度この本に出てくる料理を作ったことか。「わかめのいため物」「トマトの青じそサラダ」「大根と牛肉のうま煮」「焼きねぎ」「根三つ葉のきんぴら」「なすの蒸し物」そして何といっても向田さんのピーマン料理に惚れ込んで、ひと夏は毎日毎日ピーマンづくめで「ピーマンのつくだ煮」「ピーマンの焼き浸し」「ピーマンと油揚げ」と、それも鉢一杯料理して、連れあいにあきれられたものだったっけ。

そして作ってみると分かるのだが、また作りたい食べたいと思える料理ばかりなのだ。ハレの日に作る料理でもない。レシピ片手に格闘する料理でもない。分量だって材料だって決まったことはない。作るうちに手になじみ、アレンジも効き、どんどん私の味になっていく。つくづく女の作る(好む)料理なのである。

向田さんのエッセイを夢中になって読んだのは、いったいどれぐらい前のことだろうか。何年前、いやいや何年なんて単位じゃあ効かないのかもしれないな。私が出来上がっていくその道々。だからきっと私の幾ばくかは、向田さんの言葉で出来ている。そう言い切ったっておかしくはない。「エッセイを読む」ということは、どこか時間潰しであったり、その場限りの読み捨てるものだった。もちろん今では良いエッセイがたくさんこの世にはあるってことを知っている。でもその頃の私には、こんなにいとしくなるもの、読み返したくなるもの、うーんと唸ってしまうものとは知らなかった。

「味醂干しと書くと泣きたくなる」
「ライスカレーがのどにつかえて死にそうになったことがある」
「子供の頃、目刺が嫌いだった」

と、印象的に始まるそれらを読むだけで。のり巻きの端っこ、かい巻き布団、おひつ、湯たんぽ、遠足の朝、と、それらの言葉を聞くだけで。胸にじわーっと広がってくるこの気持ちは、向田さんの記憶なのか、私が抱えているものなのか、いつだって今だって曖昧になってしまうもの。

やはり料理には食べるものには、人となりが出てしまうものかもしれない。だから私は、小説や映画にちらっと出てくる料理にも目を光らせてしまうのだし(ただの食いしん坊かもしれないけれど)、誰かの食卓やお弁当の中味が気になってしまうのだ。

そして私はきっと思い出を食べて生きている。何かわくわくすることを待ち焦がれて生きている。だからこの本が、向田さんがきっと好きなのだ。器があって、盛りつけがあって、もてなす心意気があって、選び抜いた言葉があって、彼女を愛した人々がいて、思い出がある。それがこの本だから。

そしてやっぱり、こんな本が作れたらと思うのだ。私のいとしいもの懐かしくて泣きたくなるものを全部集めて。コンナモノデワタシハデキテイルノデスと、アナタにも見せてあげたいなあと、思っているのですよ。

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ぶらぶらぶらぶら

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

東京に暮らして、わたしははじめて散歩というモノを知った。

フルサトには散歩というモノがなかった。歩くということは、いつも目的があった。畑に行く。田んぼに行く。誰かの家まで訪ねて行く。ぶらぶら歩いていれば、あの小さな村では、かなり人目を引いただろうし、だいたい大人も子供も年寄りもそんな人は見かけない。どんなに腰が曲がった年寄りだって、畑に行く。田んぼに行く。誰かの家まで訪ねて行く。そうやって目的地に向かって移動していった。それが常だった。だから景色だって、言うほど眺めちゃいなかった。

わたしが立ち止まって顔を上げて、すべてをぐるりと見渡したのは、それからずっと後の話。見渡して、そしていろんな事に気付いたのは、それからまた少し後の話。なくしてはじめて人はいろんな事に気付くというのは、いつものことで、これはまた別の話。またいつか話そう。

だから今でも、少し散歩は苦手かもしれない。ついつい買い物やら本屋やら目的地を作ってしまう。帰り道には、なにがしの戦利品を抱えたくなる。行く先も決めず、当てもなく、ただ、ぶらぶら。ぶらぶら、ぶらぶら。そんな風に、知ってる街も知らない街みたいに歩いてみたいと、思ってはいる。そして散歩の途中でお腹が減って、ふらっとなじみの店やらなじまない店やらにはいれたら。わたしは本当の散歩上手になれるのにと、いつも思う。

だから、散歩のとき何か食べたくなったら、わたしならコロッケ。肉屋のコロッケ。でも肉なんて探すかんじの、いものコロッケ。揚げたてより、むしろ少し冷めたくらいの。もしくは団子。みたらしのあまじょっぱいたれがたっぷしかかってるヤツ。甘い黒ゴマのたれがどろっと団子に絡んでるヤツ。さもなくば甘栗。天津甘栗。千円の袋。じっと見つめるとおじちゃんが一つ二つおまけしてくれるような店で。そしてやっぱり袋を受け取って、それがほんのりでも温かくなくっちゃあ。歩きながら、ぷちんぷちんと爪を入れる。隣で話す人の話もそこそこに、ぷちんぷちんと爪を入れる。おさえに総菜パン。コッペパンに挟まれているのは、コロッケ良し、卵良し、焼きそば良し、ジャムバター良し。もうね、それを幾つになっても歩きながら食べる。「歩きながら食べるのなんか犬だってやりませんよ」と言っていたのは東海林さだおさんだったように思うけど。犬以下で結構。買うなり食べる。人気のない小道で食べる。できれば二人で食べる。

全く、それはそれで楽しいのだけど、わたしはちっとも散歩上手にはなれそうにない。何てったって、格好が良くない。

「散歩のとき何か食べたくなって」

粋なタイトル。粋な本。散歩上手とはこの人をおいて他にない。何てったって格好が良い。銀座から始まって、京都や信州、フランスまでぶらぶらぶらぶら。そして、小腹が空いたらふらっと店を訪ねて、土地土地の美味い物を気取らず食べる。この本にはそんな池波さんが訪ねた店の名が惜しげもなく載っている。今も残っている店は、住所や電話番号までと、さながらグルメマップのようでもある。

それでも、決してそうではない。そういう本にはなり得ない。池波正太郎が食べ物について語るとき、懐かしさや愛おしさや寂しさや憧れやすべてが詰まっているから。その上でさらっと、あの店のあの味がいいよと、こともなげに飾りもせずに言うから。だからわたしは眺めるしかない。その完成された風景を、池波さんごと。だから、この本を何度読み返そうと、あの店にどんなに憧れようと、わたしは店を訪れることはないと思う。おそらくきっと。

それは池波さんがいまなお住む、すべて懐かしい情景だから。

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紙の本ノラや 改版

2003/05/27 20:45

悲しくて悲しくて悲しくて、やりきれない

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私がこの本を読み切ったのは、随分前のことになる。いたく感動もした。是非是非レビューを書こうとしたのだけれど。挫折をした。どうにも上手くいかなかったのだ。冷静に文章が出てこない。書こうと思って、必要なトコロだけでもと、読み返そうとすれば、泣けて泣けて泣けて。とてもレビューどころではなかったのだ。

「ノラやノラやノラやノラや」

この本「ノラや」が、泣ける本であるということは、噂には聞いていた。聞いてはいたけれど、通り一遍の「泣ける本」ということだろうと、私は高を括っていた。良い話なのだろう。目頭が熱くなるのだろう。猫好きにはたまらないのだろう。私だって泣いちゃうかもしれないぞ。そんな暗黙の承知をしていたことに、読み始めてすぐに気がついた。それどころではなかったのだ。この本にはそんな常識は全く通用しなかった。私は慌ててしまったのだ。とにかく一言で言ってしまえば、この本は度を超えている。度を超えて嘆いている。度を超えて嘆き悲しんでいるだけの本と言ってしまっても、間違いはないとさえ思うのだから。

「ノラやノラやノラやノラや」

とにかく何よりもまず、この本を書いている百?先生の悲しみがり方は尋常ではない。常軌を逸している。馬鹿げている。きっと手に余る。手の付けようがない。子供のようと言ってよいやら、ボケ老人のようと言ってよいやら、分からなくなる。もちろん同情してしまうし。可愛らしいなあとも思う。時には困った人だなあと苦笑いも浮かぶのだけれど。それでも当の本人は、ひたすら泣きに泣き、泣き暮れているのだから。やはり二の句が付けなくなる。何にも言えない。私は言葉を失ってしまうのだ。

「ノラやノラやノラやノラや」

本当に本当に本当に悲しいとき。人はきっと壊れたように泣くしかないんだ。気が済むまで。例え気が済むなんてことがなくても。涙が止まらないんだ。どうしようもないじゃないか。だから大の大人が手放しで、オンオンと声を上げて泣いている。

「ノラやノラやノラやノラや」

そのあられもない姿をみていると、どんどん垣根が無くなっていくのを感じるんだ。いろんなモノが関係なくなっていくのが、私には分かるんだ。泣いているのが大の大人だとか。一人の年寄りだとか。猫を飼っていたからとか。猫をなくしたからとか。そんなモノがすべてストンと抜け落ちていって、深い深い悲しみだけが見えてくる。だから私まで丸裸みたいな気分になって、ただただもう悲しいのだ。悲しくて仕方がないのだ。

そして私を心底悲しがらせたのは、ノラの代わりに住みついたクルツに話しかけながら酒をのみ、肴をつまむ場面でした。

先生はノラを忘れない。クルツにもわが家の猫はノラが一番だからと言い含めてる。ノラの由無しごとをクルツに話す老先生。聞くともなしにただいるクルツ。その日は珍しく、泣くでも嘆くでもなく、淡々と訥々とクルツに話しかけている。その場面の、先生も、クルツも、ノラも、すべてが悲しかった。帰ってこないノラも、そこにいるクルツも、待っている先生も、クルツを撫でる先生も、それを読む私も、私の横に寝そべる猫も、すべてが悲しかった。生きとし生けるものすべてが悲しかった。

「クルや。クルや。猫や。お前か。猫か。猫だね。猫だらう。間違ひないね。猫ではないか。違ふか。狸か。むじなか。まみか。あなぐまか。そんな顔して、何を考へてる。」

ああ、また私は泣いてしまいそうだよ。

「クルや、雨が降ると淋しいね。」

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紙の本ジョゼと虎と魚たち

2004/06/21 22:24

アタイたちはお魚や。「死んだモン」になったー

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

昨日は一日かけて「ジョゼと虎と魚たち」を読み切った。実は田辺聖子の本を読むのは、これが初めて。映画を観て以来、いつか読んでみようと思っていたのだ。

読み始めてすぐ、関西弁の持つ魔力のようなものに引き込まれた。いいなぁ、大阪弁。とっても良いぞ。生き生きしてるし、どこかおかしくって、飄々としてる。どの話にしたって、ここであらすじを聴かされるよりも、大阪弁で語られる物語を読んで行く方が、断然おもろいと思う。そもそも「お茶が熱くてのめません」なんて、タイトルからしてチャーミングで人を食ってて、ステキだと思いませんか?

田辺さんの書き口(目線)は男に対しても女に対しても、同じく優しい。その中でも、ちょっとダメな女の書き方に味がある。もしくはダメな男をダメだと知りつつ慈しんでる女の書き方に味がある。情けない男は「そんなもん」とうけとめて、それでも「可愛い」と思える、女の余裕が嫌みなく書かれている。どの女も男に溺れず、達観してる。達観しつつも、何処か生臭い所に自分の身を置いて、あたふたしている所が大いに気に入った。ちっともスカしてないの。

噂には聞いていたけれど、食べ物の描写もとっても良い。碾茶のお茶漬け、ミートボールのふくめ煮、酢蓮に卵焼き、ご飯には黒胡麻。とっても美味しそうだ。男達は皆、女の料理をとても楽しみにしてる。特別料理上手ではないけれど、相手の味付けに合わせるのが上手いのだと、書いているけれど、その感じスゴク良く分かる。私だってそうだもの、長く暮らした男の好みの味は、何よりも良く知っている。

「うすうす知ってた」の中では。妹の婚約者を意識し過ぎて恥ずかしがったり、はしゃいでしまったりする、夢見る(いけてない)姉が出来たり。「いけどられて」では、再婚相手のもとに旅立つ元夫に、言われるままついつい弁当までこしらえてしまう、女が出てくるのだが。元夫の、子供のままのようなエゴ丸出しに、私まで呆気にとられてしまう(相手に子供が出来たと告白した口で、今夜のごはんは?と聞く辺りや、自分の写真や二人で集めた食器なんかをきっちり持っていってしまう辺り)、それでも何処か憎めないという所もうなずいてしまう。そんな男は懲り懲りだと思いながらも、私だってついつい弁当ぐらい作ってしまうかもしれない。

そして、映画にもなった「ジョゼと虎と魚たち」なのだけれど。映画を先に観てしまった私としては、この短編集を読みながらも、池脇千鶴のジョゼと妻夫木聡の恒夫が動いてしまっているから、もうどうしようもない。映画が良いとか原作が良いとか、すでに考えられなくなっている。それでも、映画版には「これから」「生きてく」といった匂いが濃厚だったのに対して、田辺聖子の原作の方は「死んだモン」の匂いがする。そこがいい。海底で一生光に当たらず生きていく深海魚の心意気を感じる。確実にやって来るだろう不幸と、それに揺るぐことのない幸せを感じる。映画版のジョゼは一度だけでも、光を求めて、その光を永遠に自分のものにしたけれど、田辺版のジョゼは一筋の光さえも求めない。その息苦しいようなうっとりするような怖いような世界に、私は酔った。

「恒夫はいつジョゼから去るか分からないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同意語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。
(アタイたちはお魚や。「死んだモン」になったー)」

私は、私の幸福を思い出したような気がした。

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おねがいです。どなたか、わたしをわかってください。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 例えば「鈴木いづみ」のように「自殺」という手段で世の中と折り合いをつけた人たちを「彼らはどこで間違えたのか」などと解釈する他人を、私はほとんど憎んでいるといっていい。

「速度が問題なのだ。人生の絶対量は、はじめから決まっている」

この本は「鈴木いづみ」によって書かれた、映画にまつわるエッセイ集である。この中で彼女は、宿命のライバルでもあり、一時期は確かに自分の宗教でもあった、元夫「阿部薫」が死んだ日のことも書いている。

私はこの本で彼女の文章と出会ったのだ。

それまでは外堀を埋めるみたいに、誰それの語る彼女を読むこと見ることから、私のいづみ体験は始まっていた。彼女の文章に直に触れて、彼女の印象が鮮やかに変わっていくのを感じた。「いづみ」とはひどく乾いていて、ウイットに飛んでいて、実に真面目だった。私はその語り口の面白さにまずは飛びついた。

私は嬉しかったのだ。彼女は生きていようと死んでいようと変わらない。彼女の文章が今ここにあり、付加価値何ぞなくともヒトリの書き手として充分すぎるほどに面白いということに。彼女は時にエキセントリックに語られる。言葉は挑発的かもしれない。物語として語られやすい人なのだ。

だけどきっと、そんなことは彼女の中ではどうでも良かったのだ。このエッセイだって、読み飛ばされ忘れ去られていくことを彼女は至極当たり前と受け取っていた。彼女はすべてを受け入れている。

「私は誰の助けも借りずに、私自身の「孤独」を充実させる以外に、手はないのだ。私は犬みたいにがんばらなければならない」

彼女は言う、薫の残したビデオをみて「自分が死んでも、そんなものはのこりっこないとおもい、そのうえだれも悲しみやしないのだと直感した」と。そう、彼女は絶望している。実にあっけらかんと。だから彼女の絶望は私にはひりひりと痛いのだ。その皮膚の下の痛みが伝わるのだ。まるでその体、剥き出しみたいじゃないかと。

「おねがいです。どなたか、わたしをわかってください。わかってくだされば、それだけで幸福になれます」

彼女は死んでしまった薫のことを、あくまでも美しく書こうとしない。死んで思い出すのは、イヤなことばっかりとも答えている。彼女は執拗なまでに「過去を美化すまい」と心に誓っている。私は彼女のこの行為を切実に理解する。彼女のこの過剰を思う時、私は彼女を抱きしめてあげたくなる。

彼女は言う、プライドなど、取るに足らないものだと断りながらも、「わたしはなにも持たず、あるいは持っていたとしてもすでにうしなわれてしまっていて(いつでも!)ボロボロになった自我が最後にしがみつくのはプライドだけなのだ」と。彼女は死んでしまった薫とも戦ってる。何も持たず、すべてを失って戦ってる。勝ち目のない戦いだけれども。彼女の武器はヒトツ「過去を美化すまい」なのだから。私は彼女の戦いを支持したい。人はどんなに他人から奇異に見えようが、死んでしまうその日まで、何とか自分で自分を抱きしめ続けていかなくてはならないのだから。

「忘却してはいけない。決して。それがどれほどつらくても。でないと、もう歩けない。……遠すぎて。」

彼女は愛するディーンについてこんなことも書いている「他人たちは「彼は狂っている」とか「おかしい」とかいった。そうせずにはいられなかった内部までおりていった人物はいなかったようだ。男でも女でも、彼に徹底的につきあえば、ディーンは最後にはすくわれたかもしれないのに」

私はこの文章を読む度に「ディーン」を「いづみ」に置き換えてしまう。そして言葉が見つからなくなる。

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紙の本平松洋子の台所

2003/07/29 06:22

阿部泉の台所

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

我が家の米櫃は、ずっしりと重いガラスで出来ている。

それは有に一抱えはある広口瓶で、これまたずっしりと重いガラスの蓋が付いている。十キロの米が並々と入る大きさで。それを朝に夕に眺めて暮らしているのである。

連れ合いと暮らしはじめて間もない頃。小さなお菓子屋さんを発見した。ずっしりとお腹にたまる、素朴なお菓子を作って売っている。スコーンやクッキーやショートブレットが大小様々の広口瓶に詰められて、かしこまって並べられていた。もちろん、きちんと作られたそのお菓子たちは、たちまち私を魅了した。しかし、なんと言っても私の目を釘付けにしたのは、そのガラスの瓶たちだった。これを米櫃にしたら!! そう思った途端、いてもたってもいられなかった。

この本を読みながら、ひとつひとつ大切に、モノを集め始めた日のことを思い出していた。

ページを捲るごとに、ずんずん元気になっていく。縮こまって、しょぼくれていた自分が、どんどん更新されていく。街を歩く足取りだって心持ち歩幅が広い、手だっていつもより余計に振っているんじゃなかろうか。とにかく、ぐずぐずなんてしてられない。うつむいてなんていられない。背中がばんばん押されてしまうのである。

あの頃。持つことが下手だった。持つことは明日まで生きる約束のようで嫌だった。そんな私に、連れ合いは「持つこと」をとても自然に教えてくれた。持ちなさい。集めなさい。我慢せずに買いなさい。彼は(そうしていたし)それしか言わなかったけれど、その言葉から、大切にしなさい。使いなさい。楽しみなさい。と、私は勝手に解釈をした。

そして、醤油差しを持ち、猫を持ち、壺を集めた。鍋を揃え、クロスを持ち、鉄の包丁と軽い木で出来たまな板を持った。モノを持って、好きが分かった。片口が好きで、朱の効いた古い皿が好きで、黒い皿に惹かれるのだ。好きが分かって、探して決める楽しさも分かった。醤油は「はっかり」に、塩は「粟国の塩」に。酢なら京都の「千鳥酢」が癖があって面白い。料理酒に「剣菱」、「三河みりん」をそれぞれ一升瓶で常備している。ペットボトルが嫌いで、一升瓶が好きなのだ。

好きは、持つことで。持つは、暮らすことで。持ちたいと思うことは、探しに外に出ようで。ひいては、訪ねていこう、関わろうになるのである。ともすれば、毎日に萎えてしまう私を繋ぎ止め、根を下ろし、深めてくれるのが、私が愛したモノたちなのである。そしてそれを思い出させてくれたのが、この本「平松洋子の台所」なのである。もちろん、贅沢をしなさい、買いなさい買いなさい、溢れさせなさい、と平松さんは言うのではない。落ち葉一枚、チーズの空き箱、海辺で拾った珊瑚や巻き貝の中にも、好きや大切は潜んでいるでしょうと。そうなれば本当に、忙しい。ぼやぼや歩いてなんかいられない。ぼやぼや生きてなんていられない。となるのだから。

さて、米櫃。

台所の真ん中にどんと置かれたその米櫃は、一目瞭然。中身が減っていくのが見えるのだ。確かに食べる物が溢れている今日である。ご飯でなくともパンだってパスタだってと事欠かない。それでも、米が減っていき、すかすかと向こうの景色が見え始めると、やはり何だか心許ない私である。フルサトの両親に電話をする。電話をすれば、彼らの作った米がたちどころに届くのだ。その米をざざざあっーと米櫃に移す時間が、私はとても気に入っている。家事なんて呼べないほどの些細な作業ではあるけれども、並々と注がれる米を見ながら、フルサトのこと、そこで暮らす両親のこと、マイニチのこと、共に暮らす人のこと、を思いやる。それらすべてが詰まっているのが、この、私が選んだ米櫃なんだと思っている。

そしてそんな所は平松さんに良く似ているのだなと、なんだかとても嬉しくなった。

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新編性悪猫

2003/07/19 01:05

せけんなどどうでもいいのですお日様いっこあれば

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「性悪」にひかれるのも、未だ気恥ずかしく。子供など、産んだこともなく、まして、持とうとも思わず。月並みな言葉を借りれば、人が嫌いで。猫を飼っている。その形と手触りとたたずまいが好きだから。…そんな私が読んでいるのは、やまだ紫の「新編性悪猫」。すれっからしで、とうがたっていて、口の減らない。そんな年増猫たちを、抱きしめたくなるのはナゼダロウ。そして、この私の体だって、自分自身でぎゅーっと抱きしめてあげたくなるのは、ナゼダロウ。

「せけんなど どうでもいいのです お日様いっこ あれば」

あとはいらない。あとはもう誰もいらない。お日様いっこあれば。あとはもう何もいらない。わたしのお日様があれば。それでいい。

「たいていの やさしさは あとで 寒いもの わたしなれば にげてしまうよ」

例えば、たいていのやさしさを、あげられるかもしれないとか。例えば、たいていのやさしさを、もらえるかもしれないとか。そんなこと、とうの昔に逃げ出したはずじゃなかったろうか。誰にも寒いおもいなど、させたくもなく。誰からも寒いおもいなど、させられたくもなく。

「たとい ひとときなれど 日向は ぬくいもの ぬくいところがいいよ」

ぬくいところで丸まって、もう日がな一日暮らすのが、わたしの当たり前じゃなかったろうか。理屈も言わない。もったいぶらない。さみしがらない。欲しがらない。じっと待たない。こんな所で丸まって、誰もわたしのことなど気づきもしない。そんな一日は素敵だと思うよ。ココロから。

「持たないことは 怖くないよ 持ってしまうと 怖くなるよ 失くすのが 怖いよ」

怖いものなどないと言ったはずじゃなかろうか。鼻を鳴らして言ったはずじゃなかろうか。いつからそんなに、びくびくと、そわそわと、弱気になったものだろう。
 
「わたしはね 子を産むとき 『母親のわたし』も いっしょに産んだよ」

ああ、子を産むってどんなだろうね。子を持ちたいって思うのはどんなだろうね。「あんたも産んでみ。もう女はホルモンだからね、ガハハハ」と笑うトモダチに「はあ、左様で」と言うしか能もなく。「アタマで考えてるうちはダメ、ダメ、ガハハハ」とこれまた笑うトモダチに「わたしまけましたわ」と回文で返し。でも、ホントは、羨ましかった。彼女がココロから眩しかったよ。

子供を産むとか、育てるとか。きっと、もう、それは、それだけで、なまなかなものでないから。自分も産んで。自分も育てて。子供に負けぬぐらい、いろんな思いを辿りなおして行くのだろうね。もう世間なんかお構いなしで。そして、アナタがその子の母さんで。いつまでたっても、どこまで行っても母さんで。誰かに無条件に頼られて愛されて愛して、うらやましいよ。ほんとうに。

「せけんなど どうでもいいのです お日様いっこ あれば」

すかすでも、バカにするでもなく。アナタが眩しいよ。そういうただ中に、自分を置きたくて。でも、できなくて。どうしてもできなくて。いつまでも子供のふりをして、鍵なんかちゃらちゃらいわせて歩いているんだ。私はね。できることならアナタにもう一度産んでほしいなんて、思っているんだ。アナタを母さんと呼んで良いですか。なんて。アナタを母さんと呼んで良いですか。いつまでも。なんて。そんなことばかり考えているんだよ。 

それでもこの本を読んでいると、自分が母さんになったみたいな。誰かの母さんになったみたいな。誰かに昔無条件に頼られて愛されて愛したような、ありもしない記憶が蘇ってきて。やっぱり自分をぎゅーっと抱きしめてあげたくなるんだよ。

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紙の本ニシノユキヒコの恋と冒険

2004/01/04 16:37

どうして僕はきちんと女の人を愛せないんだろう。

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「川上弘美」を読むと、ついそうなってしまうのだけれどー途中で一息つくことになる。まるでギアを入れ替えるみたいに、ペースを調整するのだ。もちろん「low」に。彼女の本から放たれる間合い(空気感)は、私の日常や常識の垢を、キレイさっぱり洗い流してくれる。にわかに浮世離れした気分になっていく。そして、私にはきっと、こういう時間が必要なのだね。と、思ったりする。

「ニシノユキヒコの恋と冒険」。女には一も二もなく優しい、無類の女好き。姿よしセックスよし人当たりよしの、言うなれば申し分ない男。女に対して懲りることを知らず、果敢に恋を求める男。それでも最後は、いつも必ず女に去られてしまう男。そんな彼が「とめどない世界」に、真実の愛を求めて彷徨った。言わば、男ニシノユキヒコの一代記なのである。

などと紹介してみれば、さぞや波乱万丈、アッパー系の小説。と思う人もいるだろうけど、そこはそれ「川上弘美」の事。この本から立ち上がってくるのは、そんなはっきりとしたものではない。しようもなさや情けなさ、切なさやもどかしさ。もっとしみじみとした、とりとめのない事どもなのである。

この本は、生前のニシノ君と交情のあった十人の女性が、それぞれにニシノ君を語る連作形式で出来上がっている。少年時代、中年、壮年、そしてユウレイになったニシノ君まで。彼女たちに語られるニシノユキヒコは、それぞれに呼ばれている。西野君であったり、ニシノさんであったり、幸彦であったり。そのトーンの違いひとつを聴いただけでも、彼女たちとニシノくんのそれぞれの関わりが立ち上ってくるようだ。

十人のそれぞれ違った顔を持つ女の人たちは、(全く違うというのに)どこか似通っている。少女から、中年、壮年まで。誰か一人を取り上げて、この人が好きだということが出来ない。どこか底の所で繋がっていて、同じような悲しみややるせなさを抱えているように思える。まるで「川上弘美」という人を、十の角度から見せられたようだ。もっと言ってしまえば、問題の当の本人「ニシノユキヒコ」でさえ、川上弘美のひとつの顔に過ぎないと思うのだ。すべての人が底の所で繋がっている。その流れの元を辿れば「川上弘美」本人へと繋がっている。私が彼女の小説を読む。という事は、いとしい彼女を辿って行く行為なのかもしれない。

「誰かを きちんと 愛する」

という事は、どういう事かと。「川上弘美」を読む度に考える。「愛しているよ」「愛しています」という人もいれば「きちんと出来ない」という人もいる。「愛された」人もいれば「されなかった」人がいるかもしれない。それでも、そのどちら側の話も聞き(読み)ながら、私は気がつくのだ。どちらも大きくは違わないことに。同じということに。一緒だということに。

私たちに出来るのはいつでも「愛する事」でなく、誰かを「愛していると決める事」だけなのだから。そういう個人的問題なのだから。

最後まで読み終わり、自然と、最初の話へと意識はシフトしていった。そこからもう一度ゆっくりと、ニシノユキヒコの恋と冒険に満ちた人生に思いを巡らせる事が出来た。とても自然な感じで、物語は繋がって輪になった。ニシノ君は充分女の人を愛せていたと思った。どの人もどの人も。女の人たちだって、充分愛されていたと思った。どの人もどの人も。

そして、私にとってのニシノ君はと言えば。

ただっ子でさびしんぼうで諦めの悪い、赤子のような無防備な存在として記憶に留まった。彼にやさしくしてあげたくなった。彼にとっての、やさしい存在でありたいと思った。新年早々であります。

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紙の本グロテスク

2003/08/10 00:41

誰か声を掛けて。あたしを誘ってください。お願いだから、あたしに優しい言葉をかけてください。綺麗だって言って。可愛いって言って。お茶でも飲まないかって囁いて。

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「桐野夏生」の書く女達は、いつだって好きになれない。

嫌な女愚かな女醜い女。感情移入とは一番遠い所から、入っていくのが常のこと。この本「グロテスク」も例外ではない。いやむしろ、その度合いはいつもより激しい。誰もが誰もエゴが丸出しで浅ましい(それは女に限らないけれど)。それでも本から、気持ちが反らされることはない。そこには作者の「力」を感じる。とにかく強引なぐらいグイグイと惹き付けて読み進めさせる「力技」。そのせいだろうか、この本を読み終えた私はクタクタにくたびれていた。そしてさっばりとこの本から顔を上げ、毎日の暮らしに戻っていくのが難しかった。引きずられた。自分の立ち位置がグラグラとする。そんな本に出会ってしまうことが、私には時々あるのだ。

物語は「わたし」の語りで進められる。その湿った語り口は禍々しく、視線は意地悪く、どこか猟奇的な匂いさえする。江戸川乱歩の「人間椅子」や「芋虫」を遠くで思い出したりもした。

「わたし」には超人的な美貌を持つ妹「ユリコ」がいる。物語は「ユリコ」と「わたし」の同級生でエリートOL「和恵」が、中年の娼婦となって殺される。その謎を辿るという形で進んでいくけれど。「謎解き」が物語の主ではない。いつぞや週刊誌を賑わせた「東電OL殺人事件」がこの物語のベースになっていることはすぐに分かるが、おそらく、この物語は現実を大幅にリードしているのではなかろうか。そんな勢いと力に溢れている。

「ユリコの手記」「和恵の日記」「張(娼婦殺しの容疑者)の上申書」などを盛り込みながら、「ユリコ」「和恵」「張」そして「わたし」の姿を立体的にあぶり出していく。有り体な言葉を使うなら「心の闇」に迫っていくのだ。それぞれの心の底に巣くう、ぬぐい去れないコンプレックスを晒していくのだ。

常識やバランスを崩すほどの美貌の存在というものは、決して穏やかな日常など約束してはくれない。まるでそこだけ磁場が崩れるかのように、様々なことが起こっていく。妹に何かにつけ比較される「わたし」はいつしか戦うことを止め「悪意」で武装することを覚える。

「わたし」に限らず「ユリコ」に関わった人々が皆「不幸」になっていく。落ちぶれ見る影も無くなっていく。誰の心にも終わることのない、憎悪と混乱と不幸のスパイラルを描いていく。その「ユリコ」自身でさえも、自分の力に復讐されるように滅亡へと進んでいく。「ユリコ」とは不幸の象徴ではないか。と、私は物語の半ば過ぎまで思っていた。

しかし、物語が終わりに近づくにつれ、私の考えは変わっていった。ここに「不幸な出来事」など存在しないことに気が付いたからだ。そして、思い出しもした。「桐野夏生」の書く女達が、ある時点を境にいつも目覚めることに。それは彼女たちの奥底に眠る姿なのかもしれないし、思いも寄らない自分の姿かもしれない。とにかく、彼女たちは目覚めていく。後戻りはできないその場所から、大きく根を広げて飛び立つのだ。それは醜いアヒルの子が、白鳥になるのではない。空恐ろしい「怪物」への変身だ。とにもかくにも、目覚めてしまった彼女たちは絶対だ。嫌な女だろうと愚かだろうと醜くかろうと。私は言葉を挟めない。

物語の終盤。「和恵の日記(肉体地像)」には、とにかく引き込まれた。私は彼女のことは最後まで好きにはなれない。それでも彼女が、その痩せ過ぎてボロボロな体ひとつでつかみ取ろうとした世界を。世界を征服するということを、羨ましいとさえ思っている。彼女が世間という荒波を、全力で泳ぎきったということだけは、誰にも否定される事のない事実なのだから。

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紙の本ラジオデイズ

2003/07/29 05:56

音楽を聴くのと似ている。

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実を言えば、上手い下手というモノが私にはよく分からない。もしくは質の良し悪しという奴が。例えば、文章の上手い下手。歌の上手い下手。絵の上手い下手。料理の上手い下手。そしてセックスの上手い下手まで。私にはやはり、その基準がよく分からないのである。

私が分かること。それは、いつでも好き嫌いなのである。

そんなことを考えたのは「ラジオ・デイズ」の文庫本への後書きを読んだから。

「このぼくの処女作である『ラジオ・デイズ』は、超へたくそだ。」

確かに、書き言葉に頼るきらいがあるかもしれない。唐突に感じる部分があるかもしれない。人物の書き分けが曖昧に感じることがあるかもしれない。それでも、そんなことはどうだっていい。私はこの小説が好きになったから。この小説の持つ空気感が、好きになったのだから。

「落ち着くんだよ。文字追ってるだけで。文章にもよるんだけど、人間の考えていることが頭ん中に入ってくのが心地イイんだ。音楽聴くのと似てる」

サキヤのコトバである。彼が小説を読む理由としてカズヤに話したコトバである。そう、この感じ。「ラジオ・デイズ」が伝えてくれる空気感。それはまさにそんな感じなのである。音楽聴くのと似ている。そっか、近しい人が書いたんだな。って、すぐに伝わってくる。年だとか体温だとか感覚だとか暮らし方だとか、いろんなことがね。

そして、ここに出てくる感情は、実にオーソドックスなのだ。人間の「もっとも最初にある感情」ばかりなのである。誰もが身に憶えるのある当たり前の感情。だけど、そんなシンプルな感情でさえ、誰かと関わり、誰かと話し、誰かを感じなければ、生まれてこないモノなのだってこと。この小説は私に思い出させてくれた。

時に、静かな暮らしを望むモノはー良いことであれ悪いことであれーもう、自分に訪れることを望んでいない。必要としないのだ。それは悲しいことではないけれど。ヒトリで居るとき、もしくは良く慣れた誰かと居るとき、私はきっと何も感じていない。喋ることもなければ、書くこともない。読むこともなければ、聴かないかもしれない。そう、何も求めていないのだ。

だけどこの小説は、思い出す。何かを見失いかけては、思い出し、見失いかけては、思い出しして、見つけていく事を。何も起こらない。確かに、何も起こらないかもしれないけれど、私にも、そして、何の変化をも望まないカズヤにも、確かに「起こる」のだ。「もっとも最初にある感情」が生まれてくるのを感じるんだ。それは苦痛を伴うことだけれど。

誰かが訪れ、去っていくかもしれないこと。
淋しくて淋しくて仕方のないこと。
誰かを強く想うこと。
誰かに比べ、劣っているのではと思うこと。
何かが無くなってしまうかもしれないと気付くこと。
誰かを知りたいと思うこと。
誰かを信じたいと強く強く思うこと。
よく慣れたあの人だって、他人だと感じること。

「ごく個人的なところを含めた誰かに伝えたかったことが、夢中になって書いていたときの時間と一緒に、かろうじて物語の中に組み込まれている。本当に、奇跡にも近いようなところで。」

そう書かれた、彼の後書きを読み終えて。果たして、私が言いたかったことは、このレビューの中に組み込むことが出来ただろうかと、考えてみる。それは上手い下手の問答のように、私には結局分からない。だけど「自分のコトバで書く」ということは、出来たと思った。「スキ」ということは言えたと思った。そして、私はそれで良いと思った。

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紙の本ニッポン居酒屋放浪記 望郷篇

2003/06/16 22:32

太田さん、いつまでもお元気で。

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「ニッポン居酒屋放浪記」立志編を読み、山田詠美の解説を読む。疾風篇を読み、川上弘美の解説を読む。望郷編を読み、椎名誠の解説を読む。

見よ、この解説の面々のスバラシキこと! 贅沢極まりないこと! さすがは私が惚れた男、太田和彦!と、感心しながらも、酒飲みとはこんなにも反省深き人々なのかと、驚いたりもする。三人が三人とも、まるで太田寺子屋に入門した一生徒かのように、この教科書を読み、感じ入り、参考にし、自分の酒飲み的日常と照らし合わせては、悔やんでいる。反省している。恥じ入っている。

「口惜しい。と、言うのとは少し違うな。情けない? いや、やはりふがいない、で決まりだろう。不甲斐ない」と、語り始めるのは、あの山田詠美で「それに比べて私たちと来たら」を連発し友人数名と結成した「居酒屋愛好会」を憂えている有様だし。「でも、うまくまねできない。あたりまえだ。私は太田さんのような年季の入ったよい酒飲みではないし。女だし(女であることは、居酒屋的酒飲み世界ではちよっと不利なことだ)。かるがるしくておっちょこちょいだし」と、ぼんやりと悔やんでいるのは、川上弘美で。さらには、椎名誠にも「そうか。酒というものはある程度人間として考えながら飲まなければいけないのだー。野蛮人が文明の片鱗に触れたような、新鮮で電撃的なオドロキだった」と、目からウロコと語らせている。

そして反省深くした生徒達はそろって、学んでいる。いたって真面目に自発的に学ばなくてはと考えている。

山田詠美は考察する「決して徒党を組むべからず」「決して長居するべからず」と「合間にユンケル飲んで次の店に行く太田さんを見習うべし。宿酔いという言葉がこの本にはない」と、自分や連れの若者の叱咤激励もする。川上弘美に至っては「酒を飲むときの、あらゆる計画と思案と反省の参考資料」と、国語辞典や野鳥図鑑と並べては「なければ、今日の仕事明日の生活に支障をきたす」と切実に言い切る始末。そして「とにかく何でも曖昧にしがちなニッポンの酒飲みの世界の中で、この揺るぎない背筋のピント伸びた頑固さを我々はただもう驚嘆するだけでなくもっときちんと正面から学ぶべきであるー」と、言い切る椎名誠には、なにやら覚悟めいたモノまで感じてしまうのである。

かくして酒飲みとは、まことに反省深き人々。ココロ細かき人々。反省し、邁進する人々。日々精進する人々。と、感じ入ったその端から、その反省をあっさりと忘れ(もしくはあっさりと流し去り)今夜の居酒屋を求めてさまよっていく人々に、やはり口元がゆるんでしまう。そうなのだ、理屈はいらない。決まり事もない。自分の道には案外頑固で、ココロの底から楽しむことにはとっても貪欲。たいがいダメで、とってもやさしい。

「有意義な人生なんて、くそくらえだ。ある時は頑固に、ある時は憮然として、そしておおかたの時はぼんやりと嬉しく楽しく、私は酒を飲みたい。人生を過ごしたい」と、俄然頑固に気っぷ良く言い切った川上弘美。このコトバがこの三冊のすべてを現している。皆がこの本を愛し、この本を語りたくてたまらない。それだけでもこの本のスバラシサが伝わってくる。この本を読んで本当に良かった。

そして今宵もきっと、太田さんは暖簾をくぐるのだろう。暖簾の方だって太田さんがくぐってくれるのを今や遅しと待っているのだろう。そんな姿を、宵の闇が降りる頃、少しだけ思い浮かべては、にんまりとする。太田さん、いつまでもお元気で。そんなひとりごとを時々は声に出して言ってもみる、私なのでありました。とさ。

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紙の本ニッポン居酒屋放浪記 立志篇

2003/05/30 23:10

よい店をよいという、そうでない店もまたよいという、そんな太田さんがとってもよい。

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俺は思うわけよ。と、酔っぱらって帰ってきた連れ合いが言う。

この年になると、やっぱり諦めなくっちゃなんないこともあんのよ。聞いてる? と確認を挟んでさらに続ける。時間がね、ないのよ。たんないのよ、圧倒的に。だそうである。この年と大見得を切るほどでもないし、酔っぱらってばかりいたらそりゃあ時間もないだろうよと、ここまで(喉の所ね)出かかったモノの、相手は酔っぱらいだわ、たいそう機嫌もよいだわで、とりあえずは、ああ、そうね。と曖昧に相づちを打つ。打っておく。でもね。と、まだ続きがあるようだ。美味い酒を飲んでいられたら、それだけでもういいのよ。それだけでもう、俺は幸せなのよ。

というわけで、今回はそんな連れ合いから「幸せになるって」と手渡された一冊である。「ニッポン居酒屋放浪記」立志篇。さらに疾風篇、望郷篇と続く放浪三部作(?)の始まりである。まさに北は北海道から南は沖縄まで、土地土地の居酒屋を求め「いい酒、いい人、いい肴」を求め、日本中の居酒屋を飲み歩く。もっと言ってしまえば、ただそれだけの話でもある。

それなのに。ああ、それなのに。

太田さん。私はアナタの魅力にすっかり参ってしまいました。だって、アナタはとってもチャーミングなのですもの。

たいして飲めもしない私なのに、外で飲むことなんて数えるぐらいの私なのに、旅といえるほどの旅などしたこともない私なのに、酒と肴はともかく「いい」と断りが付いていようと、人になど会いたくもない私なのに。だのに、だのに。私は太田和彦というヒトリの酒飲みに、完全に魅入られてしまったようだ。

よい店はよいという。それでも決して長居はしない。本日のお奨めをさくっといただいてさくっと腰を上げる。次の(もっとよい)店を求めて次から次へと暖簾をくぐる。それは意地汚いのではなく、あくまでも男らしいのである。美学なのである。んでもってやっぱりちよっと意地汚くもあるのである。ホントにまあ、呆れるぐらいよく食べよく飲みよく喋る。そこがまたよいのである。

もちろんよい店ばかりとは限らない。そうでない店もまたよいという。そこにはそこの楽しみ方があり、それをちゃんと心得ている。どうしても腹に据えかねるような店ならば、次の暖簾をまた探せばいい。そう、常に次の暖簾は待っているし、暖簾の向こうではいい酒と肴と人がきっと待っている。そしてアナタをあたたかく迎えてくれるはずなのだ。

何だかこの本に漂うゆるさが嬉しい。
酒飲みのゆるさやさしさあたたかさが私を人恋しくさせるのだ。

そして、よい酒を飲むためのコンディションの整え方といったら。もう。温泉につかり、仮眠をし、ユンケルまで飲んで、万全の体制で臨むのである。それだけに、これだけに、こんなにも情熱を傾けられるこの人に、私は感心も呆れも通り越し、かわいいなあとさえ思ってしまう。本当に連れ合いの言うとおり。これぞ人間のまっとうな姿。と、私までゆるっみっぱなしの今日この頃なのである。

とにかく、この本を読んでからというもの、今までは通り過ぎていた居酒屋が、どれもこれもが気に掛かる。一つ一つ名前を読んでは歩いてみる。よい店もそうでない店もたくさんあって、その店々の灯りの下には、酔っぱらいが杯を傾けているのだろう。文句を言ったり言わなかったり、つまみを食べたり食べなかったりして。それってこんなによいことだったのだ。

ああ、居酒屋に行きたいなあ。よい店もそうでない店も。遠くも近くも。一人でも二人でも。そこでぼんやりと酒を飲んでみたいなあ。ああ、ホントに。つくづく私の幸せなんて、なんとも単純なのかもしれないねえ。なんて。

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紙の本雨はコーラがのめない

2004/05/08 02:49

音楽を聴くためには自分の人生がいる

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しつこいようだけど、江國さんの小説が苦手で、ほとんど読んでいない。タイトルに惹かれて手に取り、パラパラと頁を捲ってみるけれど、苦手感は否めない。そこに登場する女の人たちが、嫌なのだ。怖くて。キレイで。強くて。迂闊に口を挟めない。覚悟めいた潔さを感じるから。

でもね、彼女の好きな本がある。絵本と絵画のことを書いたエッセイ(どうも私の好きなエッセイは、エッセイという言葉で括りきれないようだ)。いとしいもの良きものたちを、彼女のシャープな言葉で切り取った2冊。「絵本を抱えて部屋のすみへ」と「日のあたる白い壁」。

「かつて私は、しばしば音楽にたすけられました。いまは雨にたすけられています」

そしてこの本「雨はコーラがのめない」は、オスのアメリカン・コッカスパニエルの「雨」と「音楽」のことを綴ったエッセイ。先の2冊の妹分みたいだと、躊躇わずにレジへと運んでいった。もちろん、このタイトルにも惹かれて。

「音楽について不思議に思うことの一つに、ときとして音楽は灯りになる、いとうことがある。レコードなりCDなりから最初の音がこぼれ落ちた瞬間に、そこに灯りがぽっとともる、あの感じ」

相変わらず彼女の言葉はスパッとしていて、書き留めたくなる。読み飛ばしてしまうのが、もったいなくて、どの言葉も読み漏らすまいと神経をピンと張ってしまう。

「もうじき四時になる。おもてがあかるくなると、夜に聴いていた音楽というものはいきなり光を失うから、その前に消さなくっちゃいけない」

雨がだんだん視力を失っていく、くだりがある。そこで私は、うっかりと泣きそうになるのだけれど、泣かなかった。誰かを泣かそう、しんみりさせようとして、嫌らしく書いたものでないときは(むしろ、泣くまい、メソメソすまいと書いているときは)迂闊に泣いてしまうのは、失礼だと思うから。だから、むしろじっくりと、江國さんと雨の勇敢な(もしくはユニークなー江國さんも雨もユニークを良しとするのだ)冒険物語を読むような気分で、頁を捲っていった。

「音楽を聴くためには自分の人生がいる…勿論たいていの愉しみには人生がいるのだけれど、音楽の要求するそれが、いちばん根源的だなと思う。それはつまり、人生経験ではなく人生がいるということ。たとえば赤ん坊は人生経験は持っていないけれど、人生は持っている。たった三歳の雨も、たぶん私よりずっと揺るぎなく人生を持っている」

私と彼女は音楽の好みも全く違うし(私がうなずけたのは、シンニード・オコナーとスティングぐらいだったもの)室内で飼う小さな犬だって好きではない。それでも、彼女の言葉で包み直された音楽をいいなぁと思えるし(読んでいるだけで)雨を誇りに思えてくる。犬を飼いたいなぁと、つくづく思った。一緒に、冒険に満ちた散歩に行ってみたいし、部屋の空気ごと音楽を聴いてみたい。

「私は言葉に依存しがちなので、言葉に露ほども依存していない雨との生活は驚きにみちている。驚きと。畏怖の念に」

 
そうか、私は彼女の何か(絵本とか絵とか音楽とか雨とか)に対する姿が、好きなのだ。何が(何処が)自分を惹きつけるのか、ちゃんと知っている。分かって、きちんと対峙している。向き合うときの彼女の姿は、勇敢で、裸足でスクッと立ってる少女の姿だ。何にも属していない、何からも縛られていない。ひどく孤独だけれど、すごく満ち足りてる。それはあまりにも(私から見れば)完璧で破綻がなくて、やっぱりちょっとだけ(やっかみ半分に)苦手なんだけれどもね。

「音楽も言葉には依存しない。歌詞がいい、というのは付加価値であって、音楽としての力には、それは関係のないことだ。だからこそ、雨の世界にも、私の世界にも、音楽は流れる」

http://d.hatena.ne.jp/makisuke/

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紙の本図書館の神様

2004/04/04 08:48

名前のないよな神様に、何度も何度も手を合わせ、祈った事のある人へ

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良いな。何だかとっても好きだな。そんな事をしみじみと噛みしめながら、読み終えた。「何処が心地良いのだろう?」と、自分の中でその「気に入り具合」を確認しながら読み進めるという。不思議な余裕を与えつつ、ずんずん夢中になれた。そんな「間合い(距離感)」が気持ち良くって。ここに流れる「空気感」が気持ち良くって。誰かに「良いよ」と、言いたくなる。そんな本だった。

この距離感は、きっと作者である「瀬尾まいこ」という人が持っているそれで、本能的に「この人は良い、信用出来る」と、私に教えてくれた。主人公である高校の講師の「清」は、だから作者にダブる。気も目的意識も強くて、実に体育系いかにもバレーボール部員(私の偏見か?)。そのくせ、どこかトボケていて、身の丈ですぽんとモノを言って…実にチャーミング。

魅力的な登場人物たちも出てくる。出てきては色々な形で主人公に力をくれる。気付かせてくれる。ー絶妙のタイミングで助けてくれる、弟くんだとか。不器用で、らしくない不倫相手の浅見さんだとか。クールで全てを見透かしているような文学部員の垣内君だとかー出てくるけれども、彼女「清」が、少しずつ変わり選んでいく事は、この人の底(内)から生まれてきた事だと、分かるのだ。

感傷的。という訳では全くなく。いろんな事を思い出させてくれる本でもあった。忘れていた。という訳じゃないのに、いろんな記憶の引き出しが次々に開けられて、ちょっと不思議な感じ。何だか気持ちが忙しくなった。

「ああ、神様。二度と悪い事はしませんから」と、体調が悪くなる度、必死に布団の中で祈っていた事とか。病気の時の心細さとか。本当に本当に好きだった事を、続けられなくなってしまった事とか。それを他人には上手く説明出来なかった事だとか。死んでしまって、もう答えの返ってこない人に、何度も何度も話しかけた事とか。よくよく「ロールキャベツ」ばかり作っていた事とか。その帯びがベーコンで、爪楊枝は使わなかった事とか。あの頃あれが、何と手の込んだ料理かと信じていた事とか。それをせっせと恋人に出していた事とか(私って案外ベタね)。何かに本気になると、楽しめなくなって、余裕がなくなって、周りから浮き上がってしまう。そんな自分の頑なさや、つまらなさとか。だから本気になるのが「怖い」事だとか。むやみやたらにむちゃくちゃに走るのは気持ちが良いって事だとか。山本周五郎や夏目漱石のスバラシサだとか。体も頭もおんなじぐらい疲れてて、おんなじ方向を向いているって時の気持ち良さだとか。

そんな、そんな事。つまんなくて淡くて忘れてしまいそうな微かな事を、いっぱいいっぱい思い出したよ。

そしてそして、この人の「食べ物」の場面が好き。とっても好き。食べる事作る事その効果を知っている人だと思うから。人をしょんぼりさせたり元気にさせたりするのに、上手に「食べ物」を持ってくる。クリームも飾りもない、ただの焼き立てのフカフカのスポンジケーキだとか。喉につるっと滑り込むモズク酢だとか。家族で食べる雑駁で美味しいモノと、恋人同士が食べる気取っていて見栄えが良いモノとの比較だとか。

最後まで一貫して、風通しが良くて、見晴らしの良い小説だったな。

そしていつの間にやら、この人を「良いな」と思えた事は、自分を「大丈夫」と、確認するよな作業になっていたっけ。誰が何と言おうと、大丈夫。私は私の中に、良い風や景色を感じる事が出来るから。今日や昨日や明日がどうであろうと、大丈夫。そんな訳もない自信で、私は今、走り出したいような、叫び出したいような、エネルギーに包まれているもの。

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紙の本“徘徊老人”ドン・キホーテ

2004/02/25 23:53

すべてのドン・キホーテたちへ

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少し小粒な作品だな。すんなり品良くまとまっているな。善悪がはっきりしていて、ちょっとこそばゆいな。そんな感じをまずは受けた。しかし、考えてみれば、これをして小粒。これをして品良し。これをして善悪はっきり。と、言ってしまう私というのも、相当「しりあがり寿」に毒されていると言おうか、入り込んでいるということになるかもしれない。が、まあ、時同じくして読んだ「弥次喜多in DEEP」の広がり具合と混沌具合にあてられてしまっていた。あの時は。というのが本当のトコロかもしれない。

とにかく、読み終わった直後は、それほど私を揺さぶっては来なかった。それが一日経ち二日経ち三日経ちして、気が付くとこの本のことばかり考えている私がいた。ーすべてのドン・キホーテたちにーその一言が私の耳から離れないから、もう仕方がない。そしてつくづく、私はこの人(しりあがり寿)のてらいのない直球勝負が、とんでもなく大好きなんだな。と、そんなシンプルな感想に落ち着いてしまった。結局のトコロ、この人とこの人が生みだしてくる作品達が、好きで好きで好きでたまらないんだ。それ以外にどんなコトバが必要だろうか? どんなコトバで言い表せようか? と言うことなのだ。

どうしてこんなに「てらい」がないのだろう。

それは「しりあがり寿」を読む度に、思うこと。私はつくづく参ってしまう。あてられてしまう。やりこめられてしまう。どうしてこんなにも真っ向から、怒りや愛や死や孤独に、立ち向かっていけるのだろう。やっかいな「自分」に立ち向かっていけるのだろう。この人を読んだ後、私はいつでもとても素直な気持ちでアタマを垂れる。ごめんなさい。もう「自分はぁ〜」とか偉そうに言いません。「私的にはぁ〜」なんてコトも、もう絶対に言いません。私が好きですとか、私が思うままにとか、私が良ければとか、もう絶対絶対絶対言いません。私が私が私が…、その醜さ、そのありきたり、その痛ましさ、その救いのなさを、私はいつもこの人に突きつけられる。突きつけられて、深く深くアタマを垂れるしかない。そして、アタマを垂れてヒトリ想う。それでも、それでも、飛びたいと。飛ばなくてはと。飛ばずにはおれようかと。だからそのために、もっともっと寡黙になって、もっともっとヒトリになって、しっかりと目を開いていなければと。

そうしたら、きっと、照れたりすかしたりはぐらかしている、暇なんて余裕なんて、きっとないんだわって。そう思うから。

そして私のマイニチと言えば、仕事柄「徘徊老人」と「ドン・キホーテ」には、事欠かない。というよりも、その人達を訪ねていくのが、現在の私の仕事(ホーム・ヘルパー)である。様々なドン・キホーテ達は様々にこだわり、私を毎日面白いように振り回してくれている。彼らは場所を選ばない、時も周囲の目も相手も選ばない。ただ、気に入らぬ事許し難い事に、妥協がない。手加減がない。だからそんなドン・キホーテ達は手が掛かり、手に余り、手に負えない。「問題行動」とみなされ時には「要注意人物」となることもある。それでも、私は思う。それは私たちの一方的な「枠」で見ていること。考えていること。と。

体に触れることを嫌がり殴りかかってくるドン・キホーテに、病院の待ち時間が気に入らず「やぶ医者!!」と怒鳴りわめき続けるドン・キホーテに、私はこっそりエールを送る。不謹慎なエールを送る。蹴られても殴られても罵倒されても、私には彼らの理屈が分かるのだ。彼らはもちろん共感も求めない。理解も求めない。それでも、彼らの姿を眺め、勝手に好いたらし感じてしまうのだ。

そんな時「自分は」の呪縛から、一時解き放たれている事に気付くのだ。

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