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紫牟田伸子さんのレビュー一覧

投稿者:紫牟田伸子

5 件中 1 件~ 5 件を表示

20世紀デザインを振り返ると、21世紀社会のヒントがあるような気がする。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

デザインは社会と密接にかかわり合うものだ。どんなデザインも、デザインを享受する人がいなくてはデザインとならない。デザインとアートとの違いはそこにある。デザイン評論家の柏木博氏の最新刊である本書は、そのようなデザインのあり方を、社会との関わりから見る。消費と広告との関係、アメリカのデザインが戦後日本の生活様式をつくりあげてきたこと、エッフェル塔やクライスラー・ビルや、1939-40年のニューヨーク世界博覧会のパビリオン「フューチュラマ」が描く未来のイメージやソ連のタトリンによる「第三インターナショナルの塔」が生み出された社会的背景。さまざまなモノが生み出されたきた20世紀の社会とはなんだったのか、20世紀に生きた人々はなにを欲していたのかを、商品や製品や、その作り手であるデザイナーの側の視点と受け手である生活者の視点の双方からひも解いていく。本書は柏木氏がさまざまな雑誌に寄稿した文章を編集したものだが、冒頭の一章で、柏木氏は近代デザインが共に歩いてきた、経済や社会のルールが、21世紀になって壊れてきたのではないかと問題提起し、そこから20世紀はどうデザインされたかという解題に続く構成になっている。
柏木氏は、20世紀に生まれたモダニズムには理想と矛盾があるという。モダニズムには万人が平等に豊かさを享受できる社会が人の手によって構築できるという理想があった。その思想のもとに、バックミンスター・フラーをはじめとする建築家やデザイナーの提案や、バウハウスなどのデザイン運動が生まれている。彼らは近代化による生活の改革を目指していた。同時に自由主義経済によってそれを推進していこうという思想もある。ユニットバスやプレハブ住宅などにみられるように、新しい社会は誰もが等しく幸せになれるシステムとともにやってくるのだという理想が20世紀を支えてきたのだ。とくに日本ではアメリカニズムによって生活様式がつくられ、経済や経営の基盤がつくられてきた。私たちはモノを所有することが豊かな生活であると思い、ある程度それは実現されてきた。20世紀、大量生産・大量消費による新しい社会を構築したのは事実である。しかし次はどうする? 本書に書かれている20世紀デザインの諸相の中にいくつかのヒントが隠されているように思われる。
(紫牟田伸子/編集者・ライター)

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紙の本1000チェア

2002/02/19 22:15

1000脚あれば1000の個性。椅子のデザインは奥が深い。

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かつてあるインテリアデザイナーに、「椅子は素人にはデザインできない」といわれたことがある。その時は「そうか?」と思った。足と座面と背もたれがあれば椅子の基本的な要素はみたされるはずだ。だがそれ以上にさまざまな要素が複雑にからみ合うのが椅子のデザインである。それがわかるとなるほどと納得する。椅子はデザイナーを魅了する。デザイナーの腕の見せどころといってもよいのである。
椅子とは基本的な機能(座る)をみたしながら、素材・技術、時代特有のニーズとも密接に関わっている。そしてそれ以上に、使用する人の体型や精神的状況とも関係する。ゆっくりしたい気分のときには、固い座面には座りたくないし、逆に仕事のときには、身体が沈み込むような椅子では効率が悪くなる。椅子で寝てしまうこともあれば、ちょっとだけ腰掛けられればいい場合もある。座り心地は精神衛生上のストレスとなる場合もある。椅子はつねに支えとなりながら、さまざまな姿勢を可能にするフレキシブルなものでもなければならない。また椅子には象徴的な意味もある。社会的地位をあらわす場合もあるし、趣味を見せる場であったりもする。だから多種多様な椅子が生まれてくるのだ。
本書では1808年のサミュエル・グラッグの曲木椅子から現代のロス・ラブグローブの椅子まで1000の椅子を紹介している。マルセル・ブロイヤーのアルミ、チャールズ&レイ・イームズのガラス繊維の一体成形、マルコ・ザヌーソ&リチャード・ザッパーの射出成形ポリエチレンなど、思い通りの素材に出会ったデザイナーの椅子は喜びに溢れている。ポスト・モダン時代のデザインは造形言語が豊かで華やかだ。近年多くみられる”ソフトな合理主義”といえるような作品は現代感覚に溢れた考え抜かれた造形である。いや、椅子はほんとうに奥が深い。写真に添えられたコメントは簡潔にデザイナーの意図を説明しているが、なんと英語と日本語とフランス語の併記。デザインやアート関係書籍は洋書が多い。邦訳が欲しいと思うこともしばしばある。このような併記スタイルには今後の可能性が感じられる。
(紫牟田伸子/編集者・ライター)

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多中心の思考

2002/01/22 22:16

クリエイターがひとつの職能にこだわる理由はないのだ、ということを美しく教えてくれる。

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矢萩喜従郎にはどんな肩書きもふさわしくないように思える。グラフィック、建築、写真、アート、出版、評論など多岐にわたる分野で活動する矢萩の頭の中はいったいどのようになっているのかと私たちには思えるのだが、外から見れば錯綜しているように見えることでも、彼の中では、編集済みのことらしい。ただただ真摯に考えていくと、そうする必然性が見えてくるだけのことなのだろう。考えてみればグラフィックや写真などといった、与えられた「職能」にこだわる必要はないのだ。本書は彼がどのように仕事に向かっているのか、どのように考え、そのような多様な活動をするにいたったのかを豊かに伝えてくれる。幼少期の体験や日本あるいは世界各地への旅から得た視線や感覚。自分自身の意識や建築家やデザイナーの評論などを修めた本書は、ひとりのクリエイターというより、思想家の記録のようでもある。
グラフィックデザイナーとしてスタートした矢萩の最初の仕事は、展覧会のカタログであった。展覧会の内容、すなわち出品する作家がどのような思考や傾向をもつのか、問題を解くように、矢萩は解決していった。現代美術展、マグリットやコルビュジエなど、矢萩の手がけたカタログは、作家の内面性にまで肉迫する構成をとっており、デザインを、「ヴィジュアルに編集すること」ととらえる点で杉浦康平らの仕事と同列にある。彼のデザインをアートのようだ、ととらえる人々もいるが、彼が眼前の問題に対して最善の解決をとるという点ではまさにデザインであり、そのデザインが、彼の立場や視点という面で彼独自の思考を背景としたクリエイティビティに支えられているという点において、アートでもある。「考えたことを伝える」ことにおいて、彼にはさまざまな手法が可能なのである。いや、手法でなく、それこそが「多中心の思考」であろう。
「書くこともつくることも同じ思考の原点を分かち合う」という建築家槇文彦の言葉を借りるまでもなく、矢萩が書くことをつくることと同じ思考の地平で行っていることは明晰な文章から一目瞭然である。クリエイターにとっては、「なにを知っているか」より、「なにを視たのか、それをどう視たのか」がより重要である。幼少期の自身に言及した箇所は、矢萩少年の心理と彼の視たものがオーヴァーラップする美しい情景として迫ってくる。私はそこがとても好きだ。
(紫牟田伸子/編集者・ライター)

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紙の本ゼロポイント 原点の風景

2001/12/27 22:16

国の「へそ」はどこにある?世界各国の道路元標探しに奔走するデザイナーとフォトグラファーの旅の記録

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日本橋の橋の中央には、日本の道路の距離を計る起点となるブロンズ製の道路元標が埋め込まれている。フランスにはパリのシテ島にあるノートルダム寺院の正面にプレートがあるのだそうだ。「ゼロポイント」とは、この道路元標のことである。距離を計る起点はいわば国の原点。著者のグラフィックデザイナー/アートディレクターの上條喬久は、ゼロポイントはいわば国の「臍である」という。
上條とカメラマンの藤森武は、「国の臍」を探しにいこうと企てる。ところが忙しいふたりのこと、九日間で5か国、ふたたび九日間で4か国、計9か国ロンドン、マドリッド、ローマ、ウィーン、パリ、ベルリン、ワルシャワ、ブダペスト、ブカレスト、フランクフルトのゼロポイントを探しにいくというハードスケジュール。そもそも、各国の大使館にゼロポイントの場所を聞いても「分からない」「ない」などとの返答が多かったという。一応目星はつけてはいるものの、旅に思い掛けない出来事はつきもの。それにもめげずに彼らは原点を探しあて、見つけて、撮影を敢行していく。ようやく探し当ててみると、その場所にない、撮影許可がとれない、ないと思って探したらプレートが倉庫に入ったまま何年も経っているとか、道のまん中にあるとか、落書きだらけだったとか……「どこも原点を大切にしていないなあ」と彼らはいう。しかしゼロポイントにいたるまでの街の風景、人との出会い、食事、ホテル。旅をめぐるいろいろな出来事がその国の生活や雰囲気を伝える。食べながら、風景をみながら、ふたりはさまざまなことを語り合う。デザイナーならではの視点、フォトグラファーならではの視線──プロフェッショナルならではの対峙の仕方が、このエッセイの核である。ものごとの原点というのは、ひとそれぞれのものの見方や出来事に対する分析の仕方なのだろう。
旅とは、ひとそれぞれの体験である。100人いれば100通りの旅がある。
ゼロポイントはそんな当たり前のことを改めて教えてくれる。
(紫牟田伸子/編集者・ライター)

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なぜいま東京は「ピンク」なんだろうか。

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今年は英国において「日本年」であり、年間を通じてさまざまな日本関係の催しが英国各地で開催された。今年5月、バービカン・アート・センターで開催された日本と英国のグラフィック、ファッション、アートのごった煮展「JAM」展に招待されたので、ついでにオックスフォード・ストリートのデパート「セルフリッジ」で開催されたアート展「TOKYO/LIFE」展に行ってきた。ふたつの展覧会に共通するのはなんだったか。「日本のクリエイション」の紹介であることはもちろんのこと。なんと、展覧会のイメージカラーが「ピンク」だったのである! 東京のイメージは「ピンク」なんだろうか?との当然のギモン。本書『New Blood』の表紙もそうである。帯にも「ピンクの血」と書いてある。なぜなのだろう。
ショッキングピンクにはセンセーショナリズムのイメージがつきまとう。しかし、本書に登場する1960年以降生まれのアーティスト・建築家・デザイナーたちの作品を見ても、決して「ショッキングピンク」な作品ではない。奇を衒い、目潰しをくらわせようするのではなく、むしろ人間生活の本質的なものとはなにかを内省し、ものづくりをクリエイター本位の傲慢さから解放し、自分と受け手との関係性をオープンに設定しようとする姿勢が感じられる。「人が入ってきて商品があって、だんだん店らしくなってくる風景を想像する」(黒川勉)「プロダクトデザイナーはクライアント、ユーザーの意識をくみ取り、プロジェクトを取りまとめていくのが仕事です」(岩崎一郎)「限定されたイメージで空間を満たすのではなく、限定しないことでその場を暗示する」(中沢研)といったように、自己と対象の関係を開放しておくことで、その場に発生する別の磁場をつくりだそうとする。
本書の企画・インタヴューを手がけた安東孝一は、「彼らは以前とは異なる新しい秩序を創造しようとし、そのための新しい物差しを志向」しているとあと書きで語っているが、その物差しの有りようが中間領域的な「ピンク」なのだろうか。だが、日本のクリエイターが新しい時代をつくりはじめているのは確かである。(紫牟田伸子/編集者・ライター)

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