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  3. 森岡正博さんのレビュー一覧

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先月(2017年8月)

森岡正博さんのレビュー一覧

投稿者:森岡正博

28 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本異議あり!「奇跡の詩人」

2002/10/08 10:23

障害受け入れる意味問い直す

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 NHKスペシャルで、「奇跡の詩人」という番組が放映された。十一歳の脳障害児で、自分でしゃべることもできず、立つこともできない男の子が、すでに多数の詩集やエッセイを執筆しているという内容だった。その子は、母親の手の助けを借りながら、猛スピードで文字盤を指さし、そこから言葉があふれてくるのであった。
 ところが、この番組放映後から、内容に関して賛否両論が沸き起こることになる。とても男の子が書いたものとは思えないという意見や、ほんとうに自分の意志で文字盤を指しているのかという疑いなどが噴出した。その一方で、この「天才児」の言葉によって癒やされたという声も寄せられ、脳障害児の知性を見くびってはならないという声も現われた。
 本書は、この「奇跡の詩人」現象に対して、懐疑的な立場からまとめられた批判の書である。しかしながら、これは単なるインチキ糾弾本ではない。この本に収められた、様々な立場の人々のエッセイを読むことによって、われわれは、障害児を育てるとはどういうことか、障害の受容とは何を意味するのか、他人よりも秀でていることにどのような価値があるのか等について、あらためて熟考することになるからである。
 たとえば、重度の脳障害の娘さんを抱えたある母親がエッセイを寄せている。彼女は、娘さんに対して、この「天才児」と同じきびしい訓練法を行なっていた。あるとき、娘さんは、子どもたちとのんびり遊んでいたのだが、母親が迎えに来たのを見て、おもわず顔をそむけて隠れてしまう。母親は、これを見て目から鱗が落ちる。母親は書く。「娘のために訓練していると言いながら、じつは、私自身が、障害児の母親にはなりたくなかったのです」、と。
 親と障害児が密着宇宙を形成するとき、それがどのような帰結を導くおそれがあるのか、本書はそれをありありと描き出している。オウムを生みだしたニューエイジ思想が、その後どのような展開を成し遂げたかについても、われわれは考えることができるだろう。現象を普遍的に読むための好著である。

初出:信濃毎日新聞

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紙の本パレスチナ 新版

2002/08/01 14:24

一九世紀から現在に至るまでのイスラエルの歩みを、簡潔明快に記述する

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 昨年九月の対米テロ事件以降、世界情勢はふたたび血なまぐさくなっている。アフガニスタン空爆に続いて、イスラエルとパレスチナのあいだの報復戦争が激化した。とくに今年四月には、ジェニンでイスラエル兵によるパレスチナ人の大量虐殺が起きたとも言われているが、国連による調査をイスラエル側が拒否しており、そこで何が行なわれたのかははっきりと分かっていない。
 いわゆるパレスチナ問題には、長い歴史がある。長年の現地取材をもとにして、この複雑怪奇な歴史を見事に切り取ってみせたのが本書である。著者の広河隆一さんは、何度も現場に足をはこび、破壊された村々や、銃弾に倒れた兵士たちを目の前で目撃しながら、そのことの意味を冷静な距離を保って探求している。
 広河さんは、一九六七年にイスラエルに旅をする。そこで、ユダヤ人のコミューンである「キブツ」に滞在する。しかし、この美しいキブツが、実は、パレスチナ人の集落を破壊した跡地に建てられていたことを知る。これをきっかけに、広河さんは、この地方に流入してきたユダヤ人と、この地方から追い出されたパレスチナ人のあいだの、血にまみれた歴史を調べはじめるのである。
 広河さんは、一九世紀から現在に至るまでのこの地方の歩みを、簡潔明快に記述する。中東情勢についてまったく知識のない読者にとっても、非常に分かりやすい。イスラエル人すら知らないような資料を駆使して、歴史の裏側に埋もれてきた出来事を、繊細な手つきですくい取って見せる。
 イスラエルがパレスチナの村を破壊するパターンはいつも同じである。安全のためとか、戦争の危険があるとかの理由で、ある日突然、パレスチナ人村民の一時待避が命令される。村民が自分たちの村を離れると、その土地はイスラエルによって没収され、住居はブルドーザーで破壊されるのだ。それを合法化する法律さえ存在する。
 このような行為の延長線上に、ジェニンのような破壊行為があるのだ。シャロンが首相になってから、状況はさらに悪化している。日本がなすべきことを知るためにも、本書は必ず読まれるべきである。

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読んでいて、こころが洗われる思いがする

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 一九一八年生まれの鶴見和子さんと、一九二七年生まれの石牟礼道子さんの対談集だ。読んでいて、こころが洗われる思いがする。対話は、けっして過去へと沈潜するものとはならない。二人の眼差しは、かならずしも明るくはない未来へと、しっかりと向けられている。そして、二人が、自分の人生を自己肯定しているその息吹が、読むものにじわじわと伝わってくる。
 鶴見さんは、大病をして死の淵にまで落ちたときに、次々と短歌が脳裏にわき上がってくるという体験をした。自分の存在が果てるかもしれないそのときに、言葉が立ち上がってくる。生命あふれるこの宇宙の核心部分を言葉によってつかまえようとしても、いちばん大事なものは言葉にならずに、逃げ去ってしまう。しかし、短歌という形をとることではじめて、その逃げ去ってしまう真実の痕跡を定着させることができるのだと言う。
 「私、病気になってよかったと思ってる。やっと真人間に近づいたと思ってる」と鶴見さんは語る。彼女の歌。「半世紀死火山となりしを轟きて煙くゆらす歌の火の山」。歌うことによって、生命に参入し、自然の流れに合流する。
 石牟礼さんは、東京で開催された水俣フォーラムのときのことを語る。水俣で、生者や死者や海の魂を入れた小さな船を、東京湾まで漕いでくる。それを品川の広場に上げて、ススキの穂を切ってきて祭壇を作り、水俣から連れてきた魂たちを、降ろす儀式をするのである。南島の白い装束を着て魂降ろしをしはじめると、雨がさあっとやんでお月さまが出て、ビルの谷間で船の帆が銀色に映え、満月のお月さまの真ん中を五羽の鳥が横切っていく。
 このとき、水俣の自然と人間、そしてそこに起きた様々な出来事が、一筋の大きな流れとなって、裏側から東京の都心に侵入したのだろう。石牟礼さんの語りは、そのことを読者に確信させる。
 二人は、人生でもっとも晴れがましいことは、死だと言う。「一番最後に死があるのは何と幸せだろうって」。この言葉を発することのできる人生は、何と幸せなのだろうと私は思った。

初出:信濃毎日新聞

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紙の本男であることを拒否する

2002/07/10 18:03

男性運動はポルノをどうするのか、という大問題を臆せず問題提起した貴重な本

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 フェミニストが、男社会に対して異議を唱えはじめたとき、男たちは、彼女たちのことばを茶化したり、黙殺したりした。
 しかしながら、ごく少数ながら、彼女たちの声に耳を傾け、その訴えを正面から受け止めようとした男もいた。彼らは、自分たちの思考と行動パターンが変わって、社会が少しずつ変容していかないかぎり、事態は解決しないと考えた。
 本書は、そうした男性運動の試みが生み出した、きわめて分かりやすい書物である。出版されたのが一九八九年だから、もう一〇年以上も前の本なのだが、いまでも充分に通用するテキストだ。
 著者は、世間に流通しているポルノが、いかに女性を束縛し、支配し、虐げ、モノのようにあつかうイメージに満ちているのかを直視せよと言う。そういうイメージによって男が興奮するということは、男たちが、相手の人権を忘れて初めて味わえる快感に酔っているということを意味する。そしてそれは、単に空想の世界だけにとどまることはできず、現実の男女関係にまでフィードバックされる。
 もちろんレイプの空想を好む女性はいるが、本物のレイプを欲する女性はいない。ところが、レイプの空想で興奮することを学習した男たちは、実際に身近な女性をレイプする危険があるのだ。
 このような危険な玩具であるポルノを規制しようという運動に対しては、「保守」から「リベラル」に至るまでほとんどの法律学者が一致団結して抵抗する。その理由がなぜなのかを著者は書いていないが、答えは明らかだ。彼ら法律学者たちも、自室でポルノをこっそりと使用しているからである。
 著者のポルノに対する態度は、明確でかつ厳しい。ポルノやセックスに対して理解を示すことが共通了解となっている日本の若手知識人たちは、このような態度を一笑に付するだろうが、私はそうは思わない。男性運動はポルノをどうするのか、という大問題を臆せず問題提起した貴重な本だ。もっとも、日本にはあてはまらない記述や、一面的な見方は気になったが、それでも読むに値する。

初出:信濃毎日新聞

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哲学と地理学の越境を大胆に試みた注目すべき論考だ

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 空間とは、いったい何なのだろう。手を伸ばしていって、どこまでも広がりのある感じ、それが空間なのだろうか。どちら向きに手を伸ばしていっても、果てしなく、「広がっている」ということ。
 しかし、そのようなのっぺりとした三次元座標だけで、空間をとらえようとすると、大きな落とし穴に落ちる。なぜなら、空間の広がりというものは、その広がりを具体的に感じる「この私の存在」というものを抜きにしては語れないはずだからだ。
 オギュスタン・ベルグは、本書で、この問題に新たな角度から鋭く切り込んでいる。ベルグによれば、古代ギリシアには「場所」をあらわす二つの言葉があった。それは、「トポス」と「コーラ」である。
 トポスとは、物体をある場所に存在させるための容器のようなものだ。その容器は、中に入る物体と混ざり合ったりはしない。中に入っている物が去っていけば、次には、別の物が容器の中に入ってくる。トポスにおいては、場所と物は分離されている。
 これに対して、コーラとは、物体と、それを包み込む環境が、相互侵入して一体となったようなものだ。物が、ある場所に存在するとき、その物は、宇宙のただ中の、その場所でしか開花できない姿形を取っているはずであり、意味のネットワークを担っているはずである。このかけがえのなさこそが、コーラの特徴である。
 この二つが重なり合って成立するものこそが、「風土」であるとベルグは言う。言うまでもなく「風土」とは、日本の哲学者、和辻哲郎が提唱した概念だ。フランス出身のベルグは、和辻からヒントを得て、それをさらに充実させ、『風土学序説』を書いた。
 いま目の前にある鉛筆は、それを使って何かを書こうとする私の想像のヴァリエーションや、私の言語世界、私の生きている生活世界、制度、そして私と鉛筆が棲み込んでいる場所の気候や湿り気、そのようなすべての「関係の網の目」として、存在している。そこには、生成があり、風物身体があり、他者がある。哲学と地理学の越境を大胆に試みた注目すべき論考だ。

初出:信濃毎日新聞

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ぬで島さんの怒りがひしひしと伝わってくる必読書

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 クローン人間を作ろうとする科学者たちがいる。彼らは、クローン人間を規制する法律のない国で、実験を行ないたいと言っている。ボーダーレスの時代では、このような抜け道を、どうやって国際的にカバーしていけばいいのかという、なかなかやっかいな問題が現われてきているのだ。
 著者のぬで島さんは、人間の生命に深く介入しようとする先端医療に対して、しっかりと理屈の通った、包括的な規制が必要だと訴える。きちんと考え抜かれたポリシーでもって、人間の生命の尊厳と社会の秩序を守っていかないと、とてつもない混乱がおきるかもしれないくらい、先端医療技術のもつ潜在力は大きくなっているのだ。
 ぬで島さんは、「自分の体の一部をどう使おうとそれは本人の自由である」とする米国の考え方と、「すべて個人の自己決定に委ねるのではなく、社会が何をしていいか悪いかを明らかにして、個人の自由と権利にタガをはめるべきだ」とするヨーロッパの考え方をていねいに吟味する。
 ぬで島さんは、とくにフランスの考え方に注目する。フランスは、「人体」というものを、単なる「物」でもなく、かと言って「人」でもない、独自の尊厳を持つものとして生命倫理法のなかに書き込んだ。だから、フランスでは、自分の体の一部といえども、自分勝手には処分できないことになったのだ。
 このように、人体の保護を通じて、人権を保護し、個人の身勝手な自由に制限を加えるという考え方から、大きなヒントを得ることができる。
 ぬで島さんは、五つのルールを提案する。それは、まず本人の同意があること、次に人体の利用が無償でなされること、第三に匿名の原則。そして、これら三つが守られたとしても、それでもなおやってはならないことを決める公序原則。最後に、チェック体制。これらをきっちりと守りながら、許される例外について慎重に吟味していくことが必要だと言う。
  しかし、日本の現状を見てみれば、一貫性のない立法と施策のオンパレードだ。ぬで島さんの怒りが、ひしひしと伝わってくる必読書である。

初出:信濃毎日新聞

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暴力をふるう男の心の深層と生育歴へと迫ってゆく

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 夫が妻に暴力をふるう。それも、普通では考えられないような暴行を、平然とやってのける。他人に見つかったとしても、「いやあ、ちょっとした夫婦喧嘩なんですよ」と冷静に弁解するから、なかなか外からは実態がつかめない。家庭内での男から女への暴力は、根が深く、簡単には解決できない。
 しかし、そもそも、どうして男は、同居している女に暴力をふるうのであろうか。豊田正義さんは、妻に暴力をふるう男たちに、徹底的なインタビューを行なった。もちろん、それによって明らかになったことは、真実のほんの一部分でしかないのだろうが、それでも衝撃的である。
 豊田さんは、まず、男に会って話を聞く。男は例外なく、自分が暴力をふるっていることを反省し、なんとかしてそれをやめたいと訴える。そして、妻のことを心から愛していると切々と語るのである。暴力をふるう原因は自分だけにあるのではなく、妻の側にも少しは問題があるのだと言う場合も多い。
 そのあとで、豊田さんは、暴力男の妻とも待ち合わせをして詳しく話を聞くのだ。驚くべきことに、そこでは、さきほどとはまったく異なったストーリーが語られる。妻の側の落ち度として説明されていたことが、まったくの誤解だったり、あるいは、暴行の実態が想像を絶したものであったりすることが、徐々に分かってくる。
 夫の言い分と、妻の説明のあいだに存在するこの落差に、読者はまず度肝を抜かれることであろう。
 豊田さんは、このような作業を繰り返し、暴力をふるう男の心の深層と、生育歴へと迫ってゆく。たとえば、暴力をふるう夫のなかには、「自分の人生はこんなはずではなかった」という自己否定の感覚が濃厚に存在する場合があることが分かってくる。それと同時に、「男たるものこうあるべきだ」という男らしさの束縛によってがんじがらめになっているケースもある。
 暴力をふるう男たちに対するカウンセリングの試みもはじまっている。それによって回復する例はきわめて少ないと言うが、しかし本書では、いちるの希望を感じさせる実例も報告される。ほんとうにかすかな光だ。

初出:信濃毎日新聞

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安心とともに行なわれるセックスは、サバイバーの身体と心を溶かしてゆく可能性を秘めている

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 一九八〇年代に、家庭内での子どもへの性的虐待が再発見された。それまでは、親が子どもにセックスを強要するなんて、あるはずがないと思われていたのだった。ところが、米国だけでなく、日本においても、そのようなことが実は頻繁に行なわれていることが分かってきた。
 子どもへのセックスの強要は、暴力とともになされる。子どもとのあいだに有無を言わせぬ力の差があることを利用しながら、家庭内でそれはひそかに繰り返される。子どもは、その状況から自分を守るための防衛手段として、セックスのあいだ自分の意識をあらぬところに飛ばしたり、身体の感覚を感じないように工夫したりする。
 性的虐待を受けた子どもが、大人になって親元を離れたとき、今度はあらたな試練が始まる。すなわち、好きなパートナーができたときに、その人とうまくセックスができないのである。なぜなら、虐待を受けた女性たちは、暴力的な、意に反したセックスしか経験したことがないのだ。そして、そのことをずっと秘密にしてきている。どうやって、好きな人と、愛し合えばよいのか分かるはずがないのだ。
 あるいは、たとえ好きな人とセックスしたとしても、身体の感覚が持てなかったり、意識が以前と同じくどこかに飛んでいってしまったりする。好きな人とのセックスは、彼女にとって、重荷でしかない。
 本書の著者ヘインズも、性的虐待のサバイバー(困難を乗り越えてきた人)だ。性的虐待を受けた女性たちが、セックスを恐怖なしに楽しめるための処方箋を、みずからの体験を交えながら、具体的に紹介した。性的虐待のサバイバーのためのセックスというテーマは、いままで公に語られることが多くなかった。本書の登場は画期的である。
 ヘインズは、まず身体の感覚を少しずつ取り戻すためのワークを推奨する。身体の感覚を開いて、安心とともに行なわれるセックスは、サバイバーの身体と心を溶かしてゆく可能性を秘めているのだということを説得的に示してゆく。当事者だけではなく、援助者にとっても必読書だろう。

初出:信濃毎日新聞

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テロリズムとどのようにして戦えばよいかが書かれている

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 とても重要な本だ。対米テロ事件と同時に刊行されたこの本は、まさに、テロリズムとどのようにして戦えばよいかが書かれている。そしてその答えとは、テロリズムを生み出した主流派の人々が、みずからの作り出した抑圧のシステムを自覚し、みずからの姿勢を深いところから変容させることなのである。
 ミンデルは言う。社会のなかには、力と余裕を与えられた主流派の人々と、彼らによって自由の幅を狭められ、悶々としている少数派の人々がいる。このときに、不正なやり方で自分たちの自由が奪われていると感じた少数派の人々が、主流派の人々に態度を変えてほしいと迫るときの、最後の手段が、「テロリズム」なのである。
 なぜ、彼らがテロにまで走ってしまうのか。それは、主流派の人々が、みずからが行使している権力や抑圧について、ほとんどまったく自覚していないからだとミンデルは言う。主流派の人々は、いろんな巧妙な方法で少数者をがんじがらめにしておきながら、自分たちはこのうえなく公正で、慈愛に満ちて、平和主義者で、平等主義者なのだと信じている。
 だから、彼らは、少数者がテロに走る原因が自分たちの側にあるかもしれないということを、けっして気づこうとはしない。そして、テロが起きたときに、自分たちが突然攻撃されたと感じ、被害者意識をつのらせる。そして、テロへの報復を開始するのである。
 ここに、世界中で起きている紛争の悲劇の根本があるとミンデルは考える。彼は、この事態を打開するために、世界各地で、主流派と少数派を同じ場所に集めて、互いの立場を理解するためのワークを行なってきた。本書に収められている、そのワークの様子は感動的だ。
 主流派に求められることは、みずからの特権や力を否定することではない。そうではなくて、みずからが特権や力を付与されていることにはっきりと気づき、みずからの行為の影響範囲と結果について自覚をすることだ。それだけで、少数派の怒りは溶けはじめる。主流派も対応して自己変容をはじめる。すばらしい本である。

初出:信濃毎日新聞

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紙の本クルマを捨てて歩く!

2002/07/10 17:31

、「クルマ優先」の考え方のおかしさを徹底的にあばく

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 日本はクルマ社会だ。自動車がそこかしこに溢れ、町中に住んでいると、騒音や、排気ガスがすごい。道を歩くときも、きょろきょろとあたりに気を配りながら、慎重に歩行しないといけない。
 道を歩いて渡ろうとしたときに、いきなりクルマのけたたましいクラクションが鳴って、「なにしてんだ、ばかやろー」と怒鳴られたりする。あわてて、すごすごと引き下がってしまう。
 でも、どうして、こんなにクルマのほうが威張り散らしているのだろう。公共道路は、本来、歩行者のためのものじゃなかったのだろうか。
 杉田聡さんは、本書で、「クルマ優先」の考え方のおかしさを、徹底的にあばいてゆく。そして、なるべくクルマを使わないで、歩いて生活するほうが、結果的にはずっと気持ちがよく、経済的で、幸せだと結論する。
 クルマによって、年間五〇〇〇人以上の人々が殺されている。クルマに乗っている人の死亡数を含めると、一万人を超える。これは、阪神淡路大震災が毎年起こっているようなものだと、杉田さんは言う。もし、灯油ストーブの事故で年間五〇〇〇人以上もの死者が出るとしたら、すぐ製造中止になるはずだ。だが、クルマの場合だけは、そうならない。
 それは、あまりにもクルマが身近な存在であり、かつ、この社会があまりにもクルマに依存したシステムを作り上げているがゆえに、「クルマをなくしたらどうか」という発想すら思い浮かばないように、われわれが洗脳されているからである。
 だが、その洗脳を取り払ってみたら、どうなるか。杉田さんは言う。クルマを捨てて、歩き中心の生活に戻ってみると、まず自由時間が増え、クルマ関係の出費も減って貯金が増える。一日三〇分以上歩くから、健康になって、持病が快復する。クルマに乗って移動することによって忘れ去っていた、様々な風景や、季節の味わいや、人々の生活のにおいや、思索の楽しみを取り戻すことができる。
 クルマをやめた人は、例外なく、どうしてあんなものに乗っていたのだろうと回顧するようになる。疑う人は、いますぐ本書を読むべきだ。

初出:信濃毎日新聞

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オウムの底なしの宗教性を、みごとに切り出すことに成功した

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 オウム真理教事件の裁判が進んでいる。麻原は、訳の分からないことをつぶやいたり、英語でしゃべったりしているようで、それに愛想を尽かせた弟子たちは、次々と麻原への信仰を捨てはじめた、という報道がなされている。
 だが、島田裕巳さんの『オウム』を読んで、教祖と信者の関係というのは、そんなに単純ではないんだなあと思ってしまった。新聞やテレビは、詐欺師・麻原に騙されたおろかな信者たちという構図を、ただ当てはめているだけなのではないか。彼らのあいだに、いまもなお残存する不気味な信仰形態に目をつむったまま、彼らを戯画化するストーリーを垂れ流しているだけなのではないか。
 島田さんは、オウム真理教事件に巻き込まれてしまった宗教学者だ。事件後、大学の職を失った。そして、この事件にかかわったみずからの人生に決着をつけるために、この大著を書き上げた。
 島田さんは、オウムの「マハー・ムドラー」という考え方に注意をうながす。マハー・ムドラーとは、麻原が信者たちに与える、一種の試練のことである。信者は、この試練をくぐり抜けることによって、解脱へと近づいてゆく。ところが、このマハー・ムドラーは、信者にとって、耐え難いくらい過酷で、理不尽なものだと、麻原から教えられている。
 島田さんの観察によれば、あの地下鉄サリン事件とその後のオウムへの弾圧それ自体が、麻原が仕掛けた巨大なマハー・ムドラーの試練なのではないかと、いまだに信じている信者・元信者が多数いる。
 つまり、オウム事件というのは、麻原が信者たちを解脱へと近づけるために仕掛けた、巨大な魂の儀式なのであり、オウム裁判もまたその儀式の一環であるという解釈が、オウム信者たちには残されているのである。いくらつらくても、いまががんばりどころであり、弟子たちがこの試練を耐えきることを、麻原教祖は願っているのではないか、と。すべては麻原教祖の愛情から出た行為であり、法廷での姿も、それを悟られないための偽装であろう、と。島田さんは、オウムの底なしの宗教性を、みごとに切り出すことに成功した。(2001.12.17)

初出:信濃毎日新聞

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人間は遺伝子たちの築いた砂上の城

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 人間は遺伝子の乗り物である、と言い出して大いに話題をさらったリチャード・ドーキンスの最新刊である。遺伝子の目的は自分をどこまでも生き延びさせることだ。だから、「利己的な遺伝子」だとドーキンスは言う。
 この理論を、本書『虹の解体』では、さらに先まで押し進めている。ドーキンスによれば、遺伝子は、他の遺伝子と、つねに争っている。すきあれば他の遺伝子を出し抜いて、自分の勢力圏を広げようとする。だが、そのような利己的な遺伝子の取る戦略は、他の遺伝子を攻撃することばかりではない。
 むしろ、他の遺伝子と相互的な協力関係にはいることによって、自分自身を安定して生き延びさせようとすることが、たくさんあるのだと言う。ドーキンスは、これを「相互協力的な同盟」と表現する。そして、これらの同盟関係を結んだ多数の遺伝子たちが、協力して人間という個体の身体を作り上げるのである。
 だから、人間という生物個体は、お互いに同盟関係にはいった利己的な遺伝子たちが、いまここで仮に作り上げた砂の城のようなものなのだ。遺伝子たちは、人間という個体を作り上げたほうが、自分たちの生存に有利だからそうしているにすぎない。ドーキンスは、生物個体に対しては冷ややかだ。そのかわり、遺伝子に対しては偏愛すら感じさせる書き方をしている。
 ドーキンスにかかれば、生物たちの共生の象徴である熱帯林ですら、「森林は利己的な遺伝子たちのアナーキーな連盟である」ということになる。遺伝子は、自分自身が生き延びるために、打算的に敵と講和条約を結んでいるのだが、その打算的同盟の巨大なネットワークこそが、熱帯林だというのだ。
 われわれの細胞(真核細胞)は、二種類の細菌が共生したものだという学説が有力であるが、ドーキンスによれば、それは愛ある共生ではなくて、利己的に生き延びようとする二つの細菌が、打算的に手を組んだものである。ドーキンスは言う。「遺伝子レベルではすべてが利己的である」「協力や友好は副次的な結果にすぎない」。彼をここまで突っ走らせる動因は、いったい何なのだろうか。 (2001.05.29)

初出:信濃毎日新聞

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思想レベルから迫る対米テロ

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 対米テロ事件から、1年が経過した。ブッシュ政権は、イラクに対する先制攻撃を計画しているようだ。テロ事件を逆手にとって、世界の警察官の役割を、極限まで押し進めようとしているように見える。「テロ事件の犠牲者のことを考えよ」という大義名分のもと、世界を米国好みの姿へと着々と改造しようとしている感がある。
 本書は、対米テロ事件について、思想のレベルから迫った斬新な試みである。いままで海外の知識人からの発言が目立ったが、大澤さんによるユニークな分析は、日本発の言論として、きわめて注目に値するものだ。
 ブッシュ政権は、テロリストは海外に潜んでいると強調する。しかしながら、多くの米国人の心理のなかには、「テロリストたちは米国の外側にいるのではなく、米国の内側、すなわち自分たちの身のまわりにこっそりと隠れて溢れているのではないか」という不安が存在する。あらん限り遠くにいるはずの敵が、実は、われわれ自身のすぐ身近に深く浸透しているという感覚。このことの意味を、大澤さんは、繰り返し確かめようとする。
 米国は警察権力として肥大しているが、その捜査先は、アフガニスタンやイラクだけではなく、ほかならぬ米国本土の、日常生活の隅々にまで伸ばされる。つまり、米国のセキュリティ水準を上昇させることによって、米国の自由や民主主義そのものが浸食されるのだ。このような罠に、いま米国は落ちようとしている。
 大澤さんは、米国とイスラム過激派との戦いを、宗教の次元にまでさかのぼって分析する。米国が象徴しているのは、現代の資本主義であり、資本主義の運動の根本には、たえず繰り返される「キリストの殺害」という出来事が刻み込まれている。
 ところが、イスラム教は、そのような宗教観とはまったく異質である。イスラム教においては、神は人間の次元からキリスト教以上に徹底的に切り離されており、それは資本主義の運動を支える源泉とはならない。テロは、「資本主義の運動」と「宗教」が交差する場所から自発的に発生するのだという大澤さんの仮説は、十分検討に値する。

初出:信濃毎日新聞

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紙の本知られざる戦争報道の舞台裏

2002/08/20 11:49

テレビには映し出されることのない、もうひとつの戦場の姿

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 アフガニスタンやパレスチナでの戦争の模様が、CNNなどのテレビによって報道される。印象的なシーンは、何度も繰り返して放映され、われわれは戦場の真実を知ったような気になる。
 しかし、テレビで流される映像は、様々な検閲を受けたあとのものでしかない。アフガニスタンの映像について、米CBSのあるディレクターは、アメリカ国民が見たくない映像は流さないと言っていた。
 本書は、世界の紛争地帯に飛び出した独立ジャーナリストたちが、戦場のいわば裏側を描き出そうとするものである。テレビには映し出されることのない、もうひとつの戦場の姿が、生き生きと捉えられている。
 たとえば、パレスチナで、イスラエルの戦車に石を投げて抵抗する運動(インティファーダ)が、集結している先進国のメディアを強く意識して行なわれていることがよく分かる。
 戦場ではジャーナリストもまた襲われる。一カ月の収入が数ドルという国で、先進国のジャーナリストたちは一泊一〇〇ドルのホテルに泊まり、車と通訳を雇って一気に危険地帯を通過しようとするが、そういう彼らにかぎって襲われ、金品を奪われたりする。検問所でもカメラを奪われ、ときには従軍した兵士からも強奪にあう。
 本書の著者たちは、一匹狼として、もっと質素な取材をしているようだが、こんな危険を背負ってまでも戦場に向かってしまうのは、やはりそこに彼らの血を沸き立たせる何かが存在するからであろう。
 孤独に取材をつづけていると、一般メディアが潜入することのできなかった現場で、貴重な情報を得ることもある。著者の一人は、タリバンによる初期の仏像破壊の様子を写真に収めることに成功した。と同時に、タリバン支配下のアフガニスタンの人々が、いかに悲惨な状況だったのかをも取材した。
 しかし、著者の取材を知った日本の大手メディアは、仏像破壊には関心を示しても、そこに住む疲弊した人々には目もくれなかったのである。このことは、著者も言うように、われわれ全員が深刻に受け止めるべき問題だ。

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「見たくない思想的現実」と向き合うことができるのかという実験を彼らは行なった

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 金子勝さんは、経済学者。大澤真幸さんは、社会学者。この新進気鋭の二人が、日本社会の盲点とも言うべき地帯を、共同取材して、一冊の本にした。そのタイトルは「見たくない思想的現実を見る」というもの。きわめてストレートな問題意識で貫かれた本なのだ。
 二人の旅は、まず沖縄から始まり、高齢者の医療、過疎地の現実、韓国とナショナリズム、失業問題というふうに移っていく。光の当たる地帯からは見えにくいそれらの場所に出向き、人々の話を聞き、それをどう捉えればいいのかを苦悶する。沖縄では、聞く者と聞かれる者のあいだのきびしい断絶に直面し、老人医療の現場では、自分たちが出会えなかった人々こそが「見たくない思想的現実」だったのではないかと煩悶する。
 金子さんは言う。良心的な研究者は、強者が弱者の犠牲のうえに、あぐらをかいているという図式を描きがちだ。もちろんそういう面はあるだろうが、いまの社会でむしろ顕著なのは、弱い者が、さらに弱い者に向かって牙をむくという現象である。弱い者は、同じように弱い者を蹴落とさなければ、生き残れないような仕組みになっている。たとえばこれが、「見たくない思想的現実」のひとつの姿である。
 大澤さんは、現代の若者たちが、過剰な自由を手に入れているのに、心は空虚なままであることに注目する。そして、彼らが自分自身を自己肯定して、生に意味を与えることができるためには、「誰のものでもない視線」によって自分が眺められているというきっかけが必要であると言う。親や、恋人などの具体的な視線によって慈しまれることではなく、むしろ誰のものでもない、無の視線こそが人間を救済し、再生させるのだ、と。
 大学の研究者が現場に行くとき、彼らは往々にして、弱者や被害者の側に立ちたがる。しかしながら、金子さんと大澤さんは、そのようなスタンスの暴力性をはっきりと自覚している。自分が置かれた特権というものから目をそらさないで、それでもなお「見たくない思想的現実」と向き合うことができるのかという実験を、彼らは行なった。たくさんのヒントが詰まった本だと思った。

初出:信濃毎日新聞

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