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  3. 藤井正史さんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年8月)

藤井正史さんのレビュー一覧

投稿者:藤井正史

33 件中 1 件~ 15 件を表示

"自由"な精神による"真理"探究のすすめ

5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「私は自分自身をありのままに見るようにし、またありのままであるように務めねばなりません。そして私は、他のいかなるものになるような努力もしてはならないのです。」(存在の第四次元より)

 著者ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895-1986)はインド出身の思想家・宗教家である。十代の若さで神秘主義団体である神智学協会を母体とした「星の教団」の指導者に選ばれる。しかし、1929年、真理は自分の力で発見せねばならず、特定の方法で人々を指導することはできないとして教団を解散し、それ以降は個人の立場で著作、講演、対談によって精神覚醒活動を行った。本書は彼のいくつかの著書から抜粋し、年代順に編まれた対談集である。

今回収められた会談相手は、インド初代首相J・ネルー、古代インド哲学・宗教に詳しい学者S・ヴェンカテサーナンダ、アメリカ映画の名作「オーケストラの少女」に出演した個性派指揮者L・ストコフスキーなど7人である。真理を求める人のあるべき姿勢、既成の各宗教、インド伝統各派の教えと修行法などをテーマに対談は進み、クリシュナムルティは彼らの質問に対して一つ一つ丁寧に解答を導き出している。

第二次世界大戦前後から、ベトナム戦争、ニューエイジムーブメント、その後のカルト教団・新宗教乱立へと50年以上の長い時間を経ても彼の精神は変わらない。それは真理を追究するためには「はじめから終りまで完全に自分で進まねばならない」という諦観である。生まれ付いた環境・価値観・宗教による「精神的な条件づけ」を捨て、自由なありのままの自分を観察せよと勧めている。

真理を見い出すには、すべての道から自由でなければならず、特定の枠の中に逃げ込んでもそこに求めるものはないと彼は言う。安易に個人を崇拝し、早急に真理の確証を求める風潮を諫めている。真理を求める厳しさ、そして、それを求めずにいられない人間の心について考えさせられる1冊だ。
(藤井正史/ライター)

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紙の本禅僧が医師をめざす理由

2001/08/31 15:54

“苦しむ人々を前に僧侶は何ができるのか”と真剣に考えた禅僧の挑戦

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「医学が対象とする「生命」(身体的個体として)と、宗教が対象としている「いのち」(心や魂の世界を含む)は表裏一体であるはずだ。だから「いのち」を見ようとすればするほど、「生命」についてよく知らなければならないという必要に迫られてくる」(本書より)

 平成12年4月、臨済宗佛通寺派の管長(宗派で最高位の僧)が、帝京大学医学部に入学した。壇信徒及び、宗派の僧侶すべてを束ねるべき、一宗一派のトップが医師を目指す。これは、仏教界では前代未聞の出来事である。著者は、38歳にして管長に就任した“超”エリート僧でもある。これもすごい。40,50代など、一人前にも見られない仏教界のこと。管長とは、80歳前後も珍しくないほど歳を重ねた老僧こそ相応しいとされているからだ。

仏教とは、方法論にいくつもの枝分かれ(宗派)があるものの、釈尊の説いた教えによって真理(悟り)を得ることを目指す宗教である。臨済宗は一休さんでもお馴染みの「禅問答」を行う禅宗の一派。長く厳しい修行を積み重ねて悟りを求める。著者は若くして既に老師と呼ばれ、雲水(修行僧)たちを指導する立場となった。そんな禅僧がなぜ医師を志すに至ったのだろう。

 寺の子として生まれ育った幼き日の思い出から、天龍寺僧堂の修行僧時代を経て、谷中全生庵での生活へ。父の闘病と最期を受け止め、「死」とは何かを悟っていく過程を、自己の成長する心を振り返りつつ述べている。父の弟子の末期の言葉を受け止められず、未熟さを悔やむのだが、その失敗が著者を臨終での取り組みへと向かわせる。

高僧の立場にあっても、常に一僧侶(宗教者)として、人々の魂に立ち向かう姿勢を崩さない著者にとって、葬式仏教などという言葉には無縁である。それ故の一徹な行動には賛否が分かれるだろうが、医師となった後の宗教活動でこそ、評価されるべきだろう。(藤井正史/bk1宗教書担当エディター 2001.08.31)

「宗教と医療の会」対本宗訓公式サイトはこちら

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疑うことが、仏教の第一歩だ

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 仏教には、信仰や修行など以外にも様々な面があるが、一般にはあまり知られることのない哲学の伝統がある。法事などで目にする儀礼よりも、自分の心を見つめ、瞑想を続けることこそが仏教の本道といえる。日本仏教は「葬式仏教」などと揶揄されることも多いが、「唯識」思想は古い伝統の中で現在まで命脈を保ちつづけてきた。
「唯識」はインド大乗仏教の2大学派の一つとして発展し、唐を経て日本にも伝わった。玄奘がインドのナーランダ寺で研鑚を重ね、唐に持ち帰った教えの主要部分の一つである。玄奘は、孫悟空が活躍する『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった実在の高僧である。そして、彼の思想は、直弟子となって教えを受けた道昭が日本に伝えている。さて、三蔵法師の仏教とはどんなものだったのだろう。
 「唯識」で問われるのはまず疑うことだ。「自分」はほんとうに存在するのか。「夢」と「覚醒」とどちらが真に存在する世界なのか。「仏」の存在から始めるのではなく、まず自分とは何か、そう考えている自分の心とは何かを考えることから始める。そのため、「唯識」は仏教の心理学ともいわれている。本書では、そのような心の見つめ方を、図を多く取り入れて解説しているのでわかりやすい。
 難解な思想についても、一般向けに仏教書が数多く出版されるようになり、仏教哲学の入り口は広くなってきたのは嬉しいことだ。訳の分からない宇宙観や超常現象まがいのことを書き散らした怪しげな本も多いが、宗教とはそんなことを信じることから始めなくてはならないと思っている人にも、ぜひ薦めたい。読めば、仏教観が一新するだろう。
 そして、この書は「唯識」思想の入門編にとどまらず、禅で用いる「十牛図」の解説や、身近な例での問題提起によって、現代社会に生きている私たちに、「唯識」の考え方が、自らの心の捉え方をどのように変えていくか、心が変われば、世界がどのように変わるかを説いている。(藤井正史/bk1宗教書担当エディター 2001.07.23)

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みんなが知りたい『聖書』に書かれているホントのこと

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 キリスト教徒は日本の総人口の1%以下しかいないにも関わらず、聖書関連本の出版数は多く、中には売れ行きの良いものもある。とりわけ、このガイドブックは明快・露骨に書かれている逸品。さて、実際何が書かれているのか覗いてみたい。

 「聖書には悪いところだけでなく、いいとこもたくさんあるってことは十分に認める」著者ケン・スミスであるが、表現は刺激的だ。まずは「流血人物像にお祈りする人を見てぞっとしませんか?」と軽いジャブ。登場人物の説明では、“神さまの得意技は人殺し”。これなら宗教に興味がなくとも、どんどん読み進められるだろう。『聖書』には復活祭もクリスマスも、中絶非難も出てこないという「聖書に出てこないもの」一覧は、西洋人の思い込みが具体的にわかって興味深い。一方では信仰上、シリアスな指摘もしている。『聖書』は多くの書の集まりであり、各書の間に矛盾は多いが、神とサタンと同じ表現で書かれていることさえあるのだ。『新約』の登場人物(預言者)たちの『旧約』の引用と解釈のいい加減さにも苦言を呈している。『旧約』で預言されたメシアはイエスとは一致しないという。これをむりやり合わせようとする、滑稽な使徒たちには性格分析を施している。

 聖人たちの行動にも辛辣だ。例えば“信仰の父”とされるアブラハムの処世術。妻をファラオに差し出して出世し、金持ちになる生き方は、はたしてユダヤ・キリスト教徒の模範となるのか?等々、変なことがたくさん書かれている。ただし、キリスト教文化圏で育った著者の限界か?訳者の山形氏の指摘にもあるように、イスラム教についての理解には欠けているようで、ユダヤ・キリスト教との契約の書というならば、イスラム教も同じ神を信仰し、契約が異なるだけのはず。そこには鋭い攻撃はなし。

 最終章には、キリスト教知識のない日本人向けに、訳者山形氏により『聖書』のあらすじが付けられた。因みに評者は以前、私立高校の教諭であった頃、宗教の授業にて『旧約聖書』のアニメ・ビデオを見せた事がある。「アダムとイブ」に女子生徒は冷笑交じりのブーイング。「ノアの箱舟」に至っては、冒頭の神の「人間を滅ぼして、始めからやり直す」という一言に対して、「神さまってひでえ奴だな」と生徒の大半は呆れ果てていた。そもそも「神さま」と翻訳したときから、日本人の“神さま観”の混乱が続いている。日本の豊穣の「神」とは別の存在だと意識しない限り、一神教の「神」は理解できないだろう。

 このガイドブックは逆説的だが、日本の読者にとっても、『聖書』は「自分で読むものであるという」プロテスタント的メッセージとも受け取れる。著者が指摘するように、いいことも書いてあるのだから、教義で覆い隠し、わざわざ、わかりにくくする必要はないはずだ。(藤井正史/bk1宗教書担当エディター 2001.02.15)

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なぜ人は仮面をつけるのか

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「神が生身の人間として顕現する時、面は不可欠の手段となる。
・・・神は人間の体がなくては人々の前に出て動くことはできないのだが、人間の方も面がなくては神になれないのだ。」(本書より)

 いつからか人々は仮面をつけ、演じてきた。そこに現れる非日常的空間は、遠くわれわれの祖先から現代に伝えられた、神々と遊び、庶民からの思いを伝えられることができる貴重な手段であった。本書はアジアに色濃い、多神教の豊かな信仰と美しさを、仮面と芸能、そして芸能の源泉である祈りを探った、アジアへの好奇心大満足の書である。日本の章では、縄文時代の土面までさかのぼり、仏を供養するための芸能として伝来した伎楽の面、後の猿楽などの流行や、能楽・狂言によって大成されていく仮面をめぐる歴史をなぞり、深く掘り下げている。本来の日本人の持つ神や霊に対するスタンスは、欧米化している現代の日本人の貧弱な宗教性に比べると、非常に大胆だ。人と神・霊とが共存している社会を、かつて私たちも持っていたことを再認識させられる。

 仮面と仮面劇という文化の伝承を、日本・韓国・中国・インドネシア・ネパール・インド・スリランカの7カ国、それぞれの研究者が担当して分析しているところも、国ごとの特色を際立たせている。アジアとしての共通性と各地域の独自性に焦点が当てられ、仮面劇が演じられる祭りの準備と当日の進行まで、ライブ感たっぷりに書かれているので、宗教・演劇・美術・習俗全般など、様々な面からのアプローチでも興味が尽きないだろう。
 各地の仮面の表情や仮面劇は、神道、仏教、儒教、道教、ヒンドゥー教など、アジアに分布する宗教と、各地域の民間信仰が入り混じり、人々の心情や生活を伝えることで構成されている。表現される内容は多種多様で、それぞれの関連性も明らかではないが、社会風刺・異界の人との交流・性に表現された神事・呪術による除災など、人々の願望や成立した時代の社会背景を伝えている。そして、それは現代にも通ずる祈りであることが、人々を今も惹きつける。

 アジア各国の祭りの風景を思い浮かべつつ読了し、子供の頃、夏祭りの夜に露店で買ってもらった面を付け、幼なじみと神社の境内を走り回ったことを思い出した。舞楽が奉納されるお神楽の前で、仮面を付けた子供たちが遊ぶ風景は、神々と人が交わる仮面劇そのものといえなくもない。豊かな農村社会の名残りが、東京の下町にもあったのだ。まさにアジア的宗教空間だったと言えるだろうか。

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聖者たちのインド

2000/11/12 19:50

なぜ私たちは聖者に惹かれるのか

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 書店の宗教書コーナーには、既存の宗教各派の本に混じって、怪しげな本が数多く並んでいる。いずれも超常現象、超能力や奇蹟について書かれたものだ。本の売り上げランキングには、新宗教の教祖たちの著書が上位にあがる。現在、書籍売場は諸宗教団体が信者を獲得する最前線なのである。
 信仰に入るきっかけの多くは、以前の「貧・病・争」の悩み相談と強引な勧誘から、個人的な興味から本を手にすることで、実際の活動に引き込まれていくパターンに変化してきた。そのため、カルト教団、新々宗教各派は、オカルトや神秘思想を巧みにイメージさせて若者を吸収しようと出版に力を注いでいるのだ。しかし、このような教祖や聖者たちの思想と行動、その成立した背景について客観的に分析した本は少なく、一般社会からの視点を持ったものはほとんどない。

 この書ではインド研究者・宗教学者・人類学者によって、現代インドの聖者の背景を、<宗教体験><時代的・文化的背景と宗教的体験の言語化><聖者認知のシステムと組織のあり方>という3つのポイントを切り口に分析している。一般的にも知名度の高いサイババ、ビートルズが傾倒したTM(超越思想)のマハリシなど現代の聖者6人、ヒンドゥー教の一派をつくった過去の聖者3人について、その背景と、現状について述べている。
 その中で注目せずにいられないのは、フリーセックスとドラッグで注目を浴び、武装したコミュニティーづくりを目指したラジニーシの教団である。80年代、アメリカでの反社会的行動は、オウム真理教の事件に酷似していて、不愉快極まりない。日本の犯罪教団の具体的なモデルはここにあった。

 また、インド社会における宗教の在り方を考察する手段として、非差別カーストから集団改宗した仏教徒たち、反プロテスタントのユーロブディズムなど、インドでの仏教各派の活動を取り上げているのは、あまり日本では知られていない貴重なレポートである。そしてキリスト教・イスラム教・仏教・ヒンドゥー教の聖者観の違いに言及し、「聖者と政治権力の関係」の解明を試みている。

近代化を目指す社会構造の急激な変化と人々のこころのずれに対し、聖者たちは求められるまま役割を果たしてきた。何かを探し続ける人々の心は、時代を経ても変わりなく、次々と新しい聖者を生み出していく。海外に進出する教団も多いが、これは彼らが普遍的な教義を持つからではなく、社会から逸脱した聖者の存在そのものに、私たち自身が癒しを感じてしまう証の一つではないだろうか。
(藤井正史/ライター)

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紙の本世界お守り大全 ビジュアル版

2002/01/08 18:15

古代より綿々と続くアニミズムとフェチへの情熱

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 いくら、教義で排除しようと思っても、人は迷信を捨てられない。人々のお守りへの熱情は消えることなく、何かに意味をもたせ身につけていたいという生の信仰は生き続けている。クリスチャンの専売特許と思われている十字架さえ、キリスト教など誕生する前からボディガードの役割を担っていたという。

 著者は七十カ国以上を訪れ、数百点のお守りのコレクションを持つ動物行動学者である。本書では全体を動物、石、宗教、身体などのテーマに分け、それぞれの謂れや効能を述べている。写真は小さなお守りもカラーで接写しているため、色や材質までよくわかる。貴重な護符も多く収め、評者も古代バビロニアに起源をもつ病気から身を守る魔法のことば「アブラカダブラ」の書かれたお守りなどは初めて見た。

 読んでみて納得したのは、お守りに対する思い入れは古代人も現代人もたいして変わらないことである。脚を象どった金属。これは、四千年前の古代エジプトのお守りだが、今やスウェーデンのスキーヤーたちに人気がある。日本の招き猫も、ブレア英首相夫人が手離せない生体電気シールドも、すべて人間が意味づけた、単なる「もの」でしかないはずだが、それぞれ超自然的な力を求められている。

 最も不愉快なレッテルを張られてしまったのは、鉤十字である。「卍」(万字)もインドのサンスクリット語「スヴァスティカ(吉祥あるの意)」に由来し、広範囲に使われていたが、逆万字がナチスの象徴になり、戦後、ドイツでは禁止された。仏画には多く描かれているので、教養ない西洋人から不評を買うことさえある。ヒトラーが今も残す傷の一つである。
 
 妖しげなグッズマニア、お守りを手放せないタイプ以外にも、各分野の本好きには常備したい本である。小説などでも登場する数々の不思議な小物について、分かっていたつもりが、こんな形・色だったのかと驚くことを保証する。(藤井正史/bk1エディター 2002.01.07)

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21世紀に甦る「非暴力」という選択

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 大英帝国が世界各地で多くの国々を植民地化していた時代。武装蜂起に傾きがちな世論を指導し、「非暴力」という精神と抵抗運動によって、インド独立を勝ち取ったマハートマー・ガーンディー。今では遠い過去の出来事のようでありながら、異なる民族、宗教、国家の間に問題が起こった時の人々の受け止め方や行動は、何一つ変わっていないようにも思える。

 本書は、ガーンディーが母語であるグジャラーティー語で『インディヤン・オピニオン』誌に執筆したコラムを1冊にまとめたものである。ガーンディー自身が若者と編集長という一人二役の対話形式を採り、若者の直情的な質問に対して、様々な例を挙げて、インドの「真の独立」について述べている。
 ガーンディーが主張し、指導した「サッティーヤグラハ」とは、魂の力、慈悲の力を意味し、「非暴力」「不服従」「非協力」の抵抗運動である。
 イギリス人すべてに敵意を抱き、その排除のためには暴力も辞さないとする人々に、自分たちの行うべき自治の姿、インド人の求めるべき日常生活を想像させ、独立を達成するまでの手段の大切さを説いている。

 読んでみると、西洋文明の不道徳さと消費社会に対する批判や、英語教育によるインドの隷属化を嘆き、宗教的価値観に重きをおく教育を主張するなど、「真の独立」とは、単なる権力の奪取ではなく、インド文化への回帰という、好戦的勢力よりも過激な思想を説いていることがわかる。
 しかし、近代化の遅れの責任を、国産品奨励運動などのガーンディーの政策に求める声も多く、その後インドはこの政策を捨て、現在はIT技術を武器に世界への進出を果たしたことは周知の事実である。
 インドとともに分離独立したパキスタンとのカシミール紛争と核開発競争。そして隣国アフガニスタンの状況を見たら、どのようにガーンディーは我々を教え諭すことだろうか。(藤井正史/bk1エディター 2001.11.08)

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超常現象好きだけど、もう騙されたくないあなたに

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「本書の内容のほとんどが、最終的に「超常現象のウソ」の指摘になっているからといって、筆者たちを、超常現象嫌いの否定論者などと思わないでほしい。嫌いだったら、元々こんなに労力をかけて、真実を調べたりはしない。超常現象を誰よりも興味深く思っているからこそ、その真実が知りたいのである。」(本書まえがきより)

 超常現象をネタとするトンデモ番組は多い。しかし、いずれも不思議さをむやみに煽って、謎解きもせずに終わってしまう。話題として面白ければ、それはそれなりに楽しめるかもしれない。しかし、番組を作っているスタッフが真実を知っているにもかかわらず、それを隠して放送しているとしたらどうだろう。ましてや、ありもしない事実や証言を捏造して番組を作っているとしたら、この手の番組を楽しめるだろうか。そう、今でも毎週放送されている人気番組は、すっかりあなたを騙しているかもしれないのだ。

 「聖書に隠された暗号」「人とチンパンジーの混血児オリバー君」「異星人と遭遇した人々」「涙を流すマリア像」等々。懐かしい噂から、最近の話題まで、本書ではその真実を追っている。一世を風靡したオリバー君がテキサスにある保護区の檻の中に暮らしているなどという、珍しい話題も数多く収録している。

 1995年のオウム・地下鉄サリン事件当時は、オカルト系の番組放送にも責任が問われ、テレビ局の自粛によって画面から消えたはずだったが、いつの間にか、性懲りも無くトンデモ番組全盛である。そんな番組によって放置され続ける噂にも真実はあるはず。それを明かした続編まで見たい人のために、本書は書かれている。はじめに「伝説」として当時の報じられ方を読み、次に「真相」で謎解きと、二度楽しめる。不思議な話に興味がある人には必読の書。 (藤井正史/bk1エディター 2001.09.28)

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ネイティブ・アメリカンの信仰する魂

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「われわれインディアンと黒人は同じ問題を抱えて白人社会の中にいるが、ひとつだけ大きな違いがある。彼らは中に入りたがっているが、われわれは外にだしてくれといっている!」(序文より)

 ネイティブ・アメリカンは長い間「インディアン」と呼ばれ、蔑まれ虐げられてきたアメリカ大陸の先住民である。上陸したコロンブス一行がその土地をインドと勘違いし、暴行略奪の限りを尽くし、征服を始めてからの事だ。アメリカ合衆国建国後も、「人間」として扱われず、土地と生活手段を奪われ、虐殺されてきた。「西部劇」映画の開拓者・ヒーローたちは、彼らからすれば無法な殺戮集団に他ならない。

 日本でも、長い間彼らをインディアンと呼んできた。自国からの立場を持たず、今でもヨーロッパからの視線で外国史を見ているからである。しかしながら、ネイティブ・アメリカンに関する著作はこの国で多く出版されている。私たち日本人が本来持っていた、自然と共生する価値観と共通する部分も多いためか、中にはロングセラーとなるものもある。 著者リチャード・アードスは長くネイティブ・アメリカンの諸部族と交友関係を結び、彼らの生活や儀式を多く記録してきた人物であり、今までに数冊の著作を残している。この分野では、信頼できる作家の一人だ。この分野の作品を初めて読んでみようという人には、10年前に出版され、今年再版されたこの書を薦めたい。

 彼らの信仰や儀式と魂の在り方、また、圧政の中を現在までどのように闘い、自分たちの文化を保ち続けているのか、そして都会で暮らす部族出身者の葛藤までが彼ら自身から語られる。先住民として一括りに語られることが多いが、狩猟民「平原インディアン」の諸部族、定住する農耕民の「プエブロ族」などの暮らしぶりの違いや、公民権運動の歴史の中で、汎ネイティブアメリカンの行動へと進む過程も語られる。実生活の一部を切り取った美しいカラー写真も多く収録され、ビジュアル的にも楽しめる。

 なぜネイティブ・アメリカンたちの言葉が日本人の心に響くのだろうか。蒙古斑・米食などが共通し、祖先は同じモンゴロイドともいわれる。動物にも魂を認め、イーグルと会話をする彼らに、私たちの忘れた感性を見出すのだろうか。
 昨年行われたシドニーオリンピックでは、アボリジニ(先住民)の活躍と復権運動に世界の注目が集まったが、私たちも西洋化・都市化され、自然と分断された生活を営み、「アイヌ民族」「琉球」に対する大和(ヤマト)同化政策や、在日朝鮮・韓国人に対する差別の歴史を抱える。私たちは自然との交わり、異文化との共生をどう考えていくのか。これからの日本人の生活と文化に対して示唆に富む1冊である。(藤井正史/bk1宗教書担当エディター 2001.06.22)

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「ジプシー」(ロマ)たちの知られざる口承文芸

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 ロマの人々は、インドからヒマラヤを越えて砂漠を渡り、ヨーロッパへ到達したといわれる流浪の民である。エジプト出身と間違えられ、差別的な呼称の「ジプシー」と長く呼ばれていたが、現在は彼ら自身が自称するロマ(人という意味)と呼ばれている。本書では、7世紀イスラム教徒の影響からか、インド北西部パンジャブ地方の遊牧民族がペルシアを経て、15世紀にヨーロッパに流入したという説を挙げている。

 文字を持たない彼らが語り伝えてきた神話と伝承は、長い旅で吸収した各地の地域の民族の宗教観、文化の影響を受け、様々な要素が盛り込まれていて興味は尽きない。多神教信仰のインドから発し、一神教のキリスト教地域であるヨーロッパでの長い生活の影響は、一つの話にも、多くの宗教の混在が見受けられて重層的である。特にわれわれ日本人にも共通する、アジア的な自然と一体化した生命観には親しみを覚える。

 本書は19世紀後半に、現在のルーマニア・トランシルヴァニア地方のロマたちと、著者が生活をともにして集めた貴重なものだ。ジプシーの聖書ともいえる神話、この世の始まり、人間の成り立ちのストーリーからは、『旧約聖書』の天地創造、ノアの箱舟の話と明らかに共通する話があり、その他に、グリム童話とも多くの話が共通点を持つ。また、日本の古典落語「死神」と瓜二つの話もあり、その文化的スケールの大きさと想像力の豊かさには驚くばかりだ。各話の終わりに宗教や文化について解説欄を設け、読後にも楽しみを添えている。

 厳しい状況の中で生き抜かねばならなかった民族の辛い歴史以外にも、祝いの席などでの演奏を担ってきた音楽性の素晴らしさや「占い」を駆使する不可思議さなど、彼らの魅力がストーリーの中にちりばめられている。語り口調を生かした翻訳も、老人から昔話を楽しみに聞いている子供立ちの姿が目に浮かぶようだ。キリスト教の影響を受けた話では、ジプシーの守り聖人、聖アントニオの話も登場する。子供へのプレゼントや情操教育に、社会への興味を持たせるためにも、子供から大人までぜひ薦めたい1冊だ。(藤井正史/bk1宗教書担当エディター 2001.05.29)

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カトリック司祭が「法然」をフィルターにイエスを語る

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 カトリックの司祭が想う、浄土宗の宗祖・法然とはどのようなものだろうかと、はじめは少々意外な感じを拭えなかった。なぜならキリスト教と日本仏教を比較する場合、教会および国家権力と結びついて強大化したカトリック(旧教)=貴族仏教勢力(奈良・平安の旧仏教)と、これに対するルターを始めとする宗教改革勢力(プロテスタント=新教)と鎌倉新仏教との共通性から論じられることが多かったからである。しかし、今回、井上氏が述べているのは、カトリックという宗派の立場などといった狭いものではなく、イエスの人々へ向けられた「視線」である。当時、ユダヤ教の救いにあずかっていたのは一部のエリート層であり、支配者層への救いに限定された日本の貴族仏教の状況にも重なる。そんな時代に弱者の立場に立って一宗派を開いた法然に、井上氏はイエスの後ろ姿を見たのだ。
 日本仏教の改革者である法然の生涯を実際に訪ねて辿り、聖書におけるイエスのエピソードに重ね合わせていく。自らの信仰するイエスを理解するために仏教を通さねばならない、中東ともヨーロッパとも文化という信仰の土壌がかけ離れている日本人キリスト者としての苦悩が窺える。日本人はキリスト教に対してマイナスのイメージを強くは持っていないであろうし、また信仰の自由が保障されているにも関わらず、今もキリスト教信者は人口の1%にも届かない。そこには計り知れない宗教観の溝があるのだろうと察するのだが、井上氏は自らの信仰の課題として、この問題に正面から取り組んでいる。仏教側資料の解釈に誤りと思われる箇所はあるが、本筋は外れていない。

 一部エリートにしか救済の道を開いてない宗教的閉塞現状に対する平等思想の改革者として、確かに二者は共通する部分を持っている。女人・病人に対して、また、罪の自覚から現世も来世も地獄の苦しみしか想像できない庶民・下層階級の人々にも、極楽浄土(天国)への道を開いた。無寺院(無教会)主義で「信仰心」とその「実践」のみが重要だと、命がけで教えを説く二人の姿を著者は重ねて思い浮かべる。法然を語っているようでいて、いつの間にかイエスの言葉へ、そして神の在り方へと話しは及ぶ。
 父性のイメージが強く意識される一神教の神だが、井上氏はキリスト教の神は無条件に愛を注ぐ母性の神だと確信する。それならば浄土宗徒の私は、著者とは逆の立場から、ここに無辺に照らされる阿弥陀仏の救いを見ることができる。キリスト教の独善的排他性を乗り越え、その教えを捉え直そうとする切実さが、著者の信仰の真実を読者に伝えるだろう。(藤井正史/bk1宗教書担当エディター 2001.03.11)

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紙の本光の教会 安藤忠雄の現場

2001/02/22 19:24

建築現場から見えてくる教会のあるべき姿

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 天才建築家・安藤忠雄が教会をつくり上げるまでを描いたノンフィクションだが、その魅力を支えているのは、安藤の心に閃いたイメージを実現するために集まった「つくることに魅入られた男たち」の姿である。注文を受けた時点で予算は、建築費の概算の40%にも満たない。バブル経済に浮かれる建築業界で、敢えて経済効率を無視した計画を、それぞれのプロフェッショナルが、モノをつくるプライドとやりがいを賭けて突き進む。安藤の弟子、水谷。赤字覚悟で工事を請け負った竜巳建設の一柳社長と現場監督の那須。みんな安藤の仕事に、金銭だけでは得られない充実感を求めて参加している。それぞれの性格と建築への情熱が、いくつものエピソードで語られ、懐かしい時代の映画のようでもある。彼らの真剣勝負の場である建築現場には、各下請け業者と専門の職人たちの置かれた当時の社会状況などに直接影響を受け、さまざまな障壁が立ちはだかる。

 しかし、予算が少ないために、建築計画が最小限のものに絞られた結果、かえって教会の輪郭がはっきりとしてくる。安藤は初めから言っている。「ほんとに、お金がないの?」「それはええもんが建つかもしれん」と。一方、軽込牧師、キーマンとなる建築委員の宮本など、信者の人々は、新しい教会堂の完成を心待ちにしている。教会からは「われわれが望んでいる『清々とした一つの空間』というものを、あなたの美意識の上で表現してほしい」という注文である。

 これに対する安藤の答えは、「水の教会」、「ガラスの教会」、「木の教会」へと思いを巡らせるが、決定案とはならない。約1年を過ぎた頃、安藤の求める教会のイメージが完成する。テーマは「光」と「質素」。そして、コンクリート打放しの「光の教会」となった。それは、厳しくも美しい精神の在り方の表現である。非日常の礼拝を行う場。冷暖房もなく、緊張していくべき場所であり、喫茶店に行くのではないといって、安藤は「光の十字架」と「非日常への道」を提示した。建築の形が明らかになっていくにつれ、安藤の意図することが建築に携わる者たちにも、次第に理解されていく。クライマックスは「光の教会」の出現する場面。雪が続く悪天候の日々に、那須が慎重にタイミングを計り、型枠を外す。壁に切ったコンクリートの十字架から射してくる光。それを見つめる彼らの姿は、眩しく、そして感動的だっただろうと想像させられる。

 建設模型、建築途中の現場写真やスケッチ・図面等が盛り込まれているのも、実際の建築過程をなぞっていく想像力の助けになる。街中の工事現場を少し覗いてみたくなってしまうほど、建築という芸術の魅力も教えられた。和田誠の装丁も、この教会を巡る人々の思いを伝えている。著者の平松氏が建築家であるからこそ可能となった傑作である。
(藤井正史/bk1宗教書担当エディター 2001.02.21)

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おめでたき人々のサイババ騒動顛末記

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 知名度も高く、世界的に莫大な集金力を持つ謎の宗教家で、日本では、その発音のしやすさからか面白半分に話題にされることもあるサティヤ・サイババ。インドの聖人シールディ・サイババの生まれ変わり、シヴァ神の化身と宣言する男の実像はいかなるものだろうか。この怪しげな人物が行ったとされる奇蹟は、病気を治す、死人を生き返らす、貴金属や、ビブーティ(神聖灰)の物質化などが伝えられている。これらの奇蹟(奇術)をはじめとして、サイババの詐欺行為、犯罪行為について証言する(元)信者を直接取材した内幕暴露本が出た。
 
 その内容は、"物質化"という手品の種明かし、信者の子供やサイババ大学の学生など青少年の性器へのオイルマッサージ、フェラチオや肛門性交の強要などの性的虐待。政府要人やインド警察との癒着と殺人事件への関係疑惑、多額の寄付金の使途不明問題等々。いかにもカルト教団の問題になりそうなことばかりで、元々サイババの力など信じられない者にとっては退屈ささえ感じる。
 しかし、最後まで読み通すことが出来たのは、この書を通じて感じる強い違和感である。それは、本書の著者自身がサイババ礼賛本を書いた過去があり、世界各地で行われたインタビューによって、証言する人々も、サイババの布教に努めていた張本人であるという事実からきているものだ。サイババを神と崇め、こんなに信じて生活していたのに、サイババのメッセージ自体は素晴らしいのに、なんてひどい事をされてしまったんだろう、という証言が延々と続く。
そう言われたところで、サイババに入信するきっかけとなる"物質化"についても、手の中に時計や指輪を手に出されることの、どこが神や宇宙と関係があるのか理解できないだろう。もはや自分の内面以外に神を求めないと言いながら、誰かのメッセージに頼ってしまう体質が変わらないのも気になる。この脳天気さには驚くばかり。これではコロッと騙されても不思議はない。サイババを信じていた人だけでなく、カルト教団に騙されてしまう人々の心理に興味のある人にはおすすめである。
 可哀想なのは、サイババ信者の親に育てられ、詐欺師を神と崇める環境の中で、性の玩具として弄ばれた子供たちだ。事実を知って受けるだろう親のショックまで考え、悩む姿は実に痛ましい。本書にも掲載されている、ユネスコのサイババ教団の児童に対する性的虐待に関する声明が、広く行き渡ることに期待したい。

 この書の内容とは少し離れるが、ある雑誌の取材がてら、デリーのサイババ寺院に行ったことがある。シールディ・サイババを祀った寺院には参拝客があふれ、露店まで出ていたが、そこから徒歩数分のところにあるサティヤ(現サイババ)の寺院は閑散としていた。サイババとは、インド人にとって現在も、シールディ・サイババのことであり、サティヤ・サイババのことにはピンとこないようだ。駅の書店、宗教グッズ売り場などにも、必ずといっていいほどヒンドゥーの神々に混じって、シールディの写真などがあるが、サティヤ・サイババのものは全くと言っていいほどない。インド人に聞いてみると、"シールディは間違いなく聖者であるが、サティヤが本物であるかは極めて疑わしい。なぜなら、神さまは、私は神様だと言うわけはないはずだ"と言っていた。最近の日本にもこのような宗教詐欺師と信者たちを見かけないだろうか?サティヤ・サイババ寺院の妙にこぎれいなビルの中で、そう思った。

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紙の本日本仏教曼荼羅

2002/10/15 22:15

お札などの図像表現から信仰と教学を解き明かす醍醐味

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 仏教をめぐる図像には、仏像・曼荼羅・変相図・来迎図など多くの種類がある。そこには、経典に説かれた世界観、各尊格の在り方、信仰の特色など多くの情報が描かれている。例えば、インドの神々は仏教パンテオンを形成する諸尊の一つとなり、日本では神道の神々と融合するなど、名称や姿を変えて信仰されるようになった。そこには、仏教が2500年前のインドで説かれた後、各地で多くの信仰と文化を吸収しつつ日本に伝えられ、この国の宗教的感性を受容して独自の信仰を保っているという特質が認められる。著者は図像を通して伝えられる信仰と本来の仏教教学の継続性との融合に着目し、ユニークな日本仏教の解析に成功した。

 内容は三つの部分から構成される。一つは仏教の基礎知識を述べたところ。第ニに、帝釈天・仏母麻耶・愛染明王など、具体的な尊格を取り上げ、日本での受容に関する考察。そして、著者の研究テーマの核心にあたる章では、フランスに渡っていた中国製の観音像を、法隆寺で失われた勢至菩薩像であると突き止め、16世紀、ヨーロッパに伝えられた誤訳から図像化された珍妙なる三十三間堂十一面観音像を検証する。

 しかし、最も注目すべきは、著者が日本国内を歩いて収集した「お札」(本尊、霊験などを模写して木版刷りにしたもの)についてのイコノグラフィである。いずれも日本の仏教庶民信仰の実際から、インド仏教との関連を探っている。著者はサンスクリット語、漢訳仏典、日本語に精通しており、特に日本仏教への理解の深さは驚くばかりだ。

 詳細な索引・図版一覧・注を付し、学術書の体裁を取っているが、平易な言葉で語られているため、むしろ、広く一般の読書家に薦めたい。美術的な興味からだけでも一向に構わない。収められた図像は貴重な資料となろう。想像力を駆使した研究に、面白い!という読後感を満喫できる仏教書である。 (藤井正史/文筆家・僧侶 2002.09.17)

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