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  3. 海野弘さんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年8月)

海野弘さんのレビュー一覧

投稿者:海野弘

99 件中 1 件~ 15 件を表示

現代史の激流を渡っていった大いなる女性

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 かつて世界文学全集となると、パール・バックの『大地』をはずすことはなかった。しかし、世界文学全集がはやらなくなるとともに、パール・バックの名も忘れられていった。
 この本は、二十世紀の激流を渡っていった偉大なる女性の記憶を甦えらせてくれる。

 パール・バックは一八九二年、宣教師の娘として生れ、両親に連れられて中国へ行き、そこで育った。そして中国への愛を一生書きつづけた。『大地』(一九三一)はその代表作である。第二次大戦以後はアメリカに住むが、アメリカにはいつも異和感を持ち、中国こそふるさとであると思っていた。
 中国への共感、差別的な人々への共感をはっきりとのべ、アメリカの体制に批判的であったため、FBIによって何十年も監視されていた。パール・バックの生涯は、現代史のまっただ中を切り裂いてゆき、二十世紀のクライマックス・シーンを次々と見ていくかのようだ。ルーズヴェルトから毛沢東にいたる多彩な登場人物があらわれては消える。

 それにしても、かつてあれほど読まれていたパール・バックがなぜ忘れられてしまったのだろうか。戦後の冷戦時代、米ソの対立、思想的闘争が激しかった時、どちらにも属さなかった彼女は、右からも左からも攻撃を受け、埋もれていったのである。彼女にとって最も悲劇だったのは、彼女が愛した中国から入国を拒否されたことだ。二つの祖国を持ったパール・バックは、中国からはアメリカ的だといわれ、アメリカからは中国的だといわれたのであった。

 しかしようやく、パール・バックの再評価がはじまっている。この伝記は彼女の多面的な活動を紹介し、彼女への興味を呼びさましてくれる。二十世紀の歴史のドラマティックな流れの中で、こんなにも見事に生きた女性がいたことを、できるだけ多くの若い人に知ってほしいと思う。また彼女の生きた時代についても知ってほしい。そのような願いがこの本にこめられているのだ。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2002.01.18)

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紙の本スピリチュアルケア入門

2000/07/10 20:50

病いは身体だけのものではない。心の癒しを開く。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 二十世紀末に、〈心〉や〈癒し〉が問題になっている。私たちは、この問題をあまりに無視してきたかもしれない。たとえば私は、美術について調べてきたが、美術史において、〈癒し〉がきちんととりあげられたのを見たことがない。しかしこのところ、美術を視覚だけでは理解できないことが明らかにされつつあるようだ。〈癒し〉という面から現代美術史を書いてみたい、と思って、資料を集めだした。その時、まずひっかかったのは、そもそも〈癒し〉とはなにかが、わかっているようで、実ははっきりしないことだ。

 癒しの本はくさるほどあるが、〈癒し〉とはなにかを基本的に教えてくれる本は意外に見つからない。そんな時、この『スピリチュアルケア入門』を見つけた。「わが国最初のスピリチュアルケアの入門書」と帯にある。なるほど癒しについて、基本的な方向を示してくれる本であった。

 はじめに、世界保険機構(WHO)が、1990年に、がんの末期患者にとってスピリチュアルケアが重要であると表明した、とある。身体的医療だけでなく、心のケアが大事なことが、かなり一般的に認識されてきたようだ。

 私はつい最近、長年の親友をがんで失った。がんが発見されて亡くなるまでの一年、死に直面しつつ生きる彼に会っている時、私はしばしことばにつまった。私の慰めのことばは、抽象的であり、彼にとどかないことに、あせりを感じた。 この本を読みながら、彼のことが思い出されて、しばし立止まらなければならなかった。私たちはふだん、救いだとか死後の生などについてあまり考えない。霊や神なしですませているのだ。しかし、死が迫った時、それについて思う人を無視できるだろうか。

 スピリチュアルケアのもう一つの問題は、悩む人を、他者が理解し、癒すことができるか、ということである。一方に、私たちは他者の痛みを本当には理解できない、という極があり、もう一方に、私たちは他者を癒すことができる、という極がある。後者は宗教に接している。

 スピリチュアルケアは、他者を理解する想像力を私たちは持っているという信念に支えられている。ではそれは、宗教的な救済とどうちがうのかという問いにぶつかる。 この本は入門書であるから、それらの問いに本格的に答えているわけではないが、全体としてはきわめてバランスよく、スピリチュアルケアの地図を示してくれて、私はとても好感を持った。相手を一つの考えに引込むのではなく、それぞれの生き方のちがいを尊重しつつ、他者を理解しようとする姿勢が伝わってくる。

 私は他者の痛みをどれだけ理解できるのか、それには限界があるのだろうか。この本はスピリチュアルケアの分野を要領よくまとめ、とても参考になる。音楽を一緒に聞くといった方法があげられているが、絵を見る、という方法が出てこないのは、私としてはちょっと残念だが、いつか自分で考えてみることにしよう。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2000.7.11)

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紙の本書物史のために

2002/05/30 22:15

読書の危機の時代に、あらためて本について考えよ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本が好きで、本屋や図書館が好きだ。『書斎の文化史』(TBSブリタニカ)という本を書いた時、本の読み方が時代によってどう変わってきたかを調べたことがある。
 書物や読書についての本がこのところ増えているように思える。本が売れず、学生が本を読まなくなっているといわれることとどう関係があるのだろう。私たちが当り前と思っていた<読書>が危機にさしかかっていることを示しているのかもしれない。
 この本の著者も、本に無限に興味を持ち、読書という人間の営みの面白さに魅せられている。『本の都市リヨン』(晶文社)などにつづく本書は、中世の写本の世界からコンピュータ時代の本までのさまざまなエピソードで、あらためて<読書>について考えさせる。
 たとえばかつて本は声を出して読む物であったが、近代には目で読むものになってしまった。聴覚や触覚が失われ、視覚中心になってしまった近代の読書は、決して普遍的なものではないのだ。
 この本に収められた「読書の手触り」では、コンピュータの辞書の便利さを認めながらも、やはり手で辞書をめくる感覚を大事にしようとする。ふと大学で教える友人に聞いた話を思い出した。このごろ、コンピュータのデータ・ベースを使って卒論を書いてしまう学生がいるというのである。もちろんそれはいいのだが、結局、一冊も実際の本に触れることなく、コンピュータの中だけでできてしまう。
 これでは学術書なんて売れるわけがないねえ、という話になった。私たちはこのように、紙に印刷した本が時代おくれになろうとする時代にさしかかっている。その時になお、古びた本についてこれほどいとおしげに、楽しそうに語ってくれるこの本に私はうれしくなる。
 まだこのように本が好きな人がいる。いまだ手書きの私もなんとかやっていけるかもしれない。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2002.05.31)

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現代においてユルスナールは最後の作家なのかもしれない

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『ハドリアヌス帝の回想』を読んだ青春時代が甦ってくるようだ。これが<文学>だ、と私は思った。しかしそれから時は過ぎ、<文学>は死滅しかけ、書店でもめったに見かけない。マルグリット・ユルスナールが文学と生活について語った『目を見開いて』を読むと、聞き手のガレーがいっているように、現代にまだ、<作家>が生きていたことの奇蹟におどろかされる。
 時代を指し示す北極星のように<文学>が輝やいていたことがあった。私たちはこの世界の旅の羅針盤を見るように<文学>を読んだのであった。時代からはるかに隔絶した天にありながら、しかも時代をくっきりと照らしていたのだ。
 そのような<文学>はまだ可能であろうか。ユルスナールの存在は、まるで奇蹟のようにその可能性を信じさせてくれる。彼女は、第二次大戦前の豊かなヨーロッパ文化の中で育っている。しかしそのぜいたくな時は大戦によって失われ、彼女はアメリカに亡命しなければならなかった。戦争が終っても、彼女はヨーロッパにもどらず、アメリカの淋しい島にこもり、絶滅しかけた<文学>をひそかに守りつづけたのであった。
 この本は、最もヨーロッパ的なユルスナールがアメリカに亡命し、さらにその辺境に二重に亡命しつつ、しかも<目を見開いて>世界を、現代を見つづけている状況を語ってくれる。アメリカの辺境にいるからこそ、かえって現代では失われてしまった<ヨーロッパ>をそのまま保存することができたという逆説が伝わってくる。
 それにしても、さまざまな雑事、日々の生活から超然として<文学>を結晶化しようとしている、この最後の<作家>の悠々とした語りに、うらやましさでため息が出るほどだ。しかしまだこのような<作家>がいることは、俗事にまみれて書いている私にもある元気を与えてくれる。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2002.05.25)

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紙の本言説の諸ジャンル

2002/03/08 18:15

不透明になってきた現代のことばはなにかを語ることができるだろうか。

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 今月はなぜか、言語に関する本に興味があった。ことばとそれが語る物がぴったり一致していれば、ことばは透明で、物がくっきり見える。しかしずれると、ことばは不透明になり、物がよく見えなくなってしまう。今はことばと物の関係があやふやになり、ことばが妙に突出し、気になる存在になっているのだろう。ふだんは無意識に使っていることばがあらためて意識されるようになったのである。

 ツヴェタン・トドロフは、フランスで構造主義が大流行した時に登場した文芸批評家、記号論者である。言語、記号、象徴などについての研究がある。フランスの記号論は難解なものが多いが、その中ではバランスよく全体を見直していて、理解しやすい。
 この本は、文字を中心とする言語のさまざまな活動を論じている。論文集なので、興味のあるテーマの章をいくつか読んでみた。トドロフは自分の姿勢を中間的なものとしている。純粋な思弁でもなく、事実の記述でもない、その両極の間の往復だ、というのだ。つまり、あまりに抽象論ではなく、具体的な場を離れないということで、彼の文章がわかりやすいのもそのせいだろう。
 すでにのべたように、私たちはことばを使いながら、ふだんはことばそのものについて考えない。しかし、ことばが世界を語れるのかどうか、時に考えてみるべきではないだろうか。そのためには、この本がいいヒントになるような気がする。
 たとえば「文字の概念」では、〈文学〉とはなにか、について、機能的と構造的という二つのとらえ方があると指摘されている。機能的というのは、ことばと物との関係であり、構造的というのは、ことばとことばの関係である。この二つのとらえ方はうまく結びつかず、分裂している。そのようなことばの裂け目を、この本は気づかせてくれるのである。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2002.03.09)

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紙の本メロドラマ的想像力

2002/03/06 22:15

人生は浪花節であり、メロドラマだ!

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 私はたまたま二本の映画『ムーラン・ルージュ』『耳に残るは君の歌声』と劇団四季の舞台『異国の丘』のプログラムをつづけて書いたのだが、三つの作品がいずれもミュージカルの形式をとっているのが気になった。
 ミュージカルは一九五〇年代にはやったのだが、その後すっかり時代おくれになったと見られていた。なぜ今、ミュージカルなのか。

 ところで〈メロドラマ〉ということばがある。メロドラマだ、というと安っぽいお涙ちょうだいの話だということになる。〈昼メロ〉ということばもある。昼すぎに流される主婦むけのテレビ・ドラマであり、これも軽蔑的ないい方だ。
 しかしメロドラマはもともとメロディ・ドラマ(音楽劇)の意味で、ミュージカルのことなのだ。十九世紀初頭のヨーロッパでメロドラマがはやった。派手な舞台装置のスペクタクルで、嵐にもまれ、苦難の人生を行くヒロインといった、ドキドキハラハラ、そして泣かせる芝居だった。

 『メロドラマ的想像力』は、馬鹿にされているメロドラマの中に現代の想像力があるのではないかという。ところで私はこの本を、シェイクスピアを現代化してみせた演出家ピーター・ブルックのものと思って手にしたのだが、よく見るとブルックスで、別人で、文芸批評家であった。
 ブルックスによると、メロドラマは、神の正義、聖なる秩序がなくなってしまった近代において、善悪のわかりやすい対立によって、なんとかモラルを表現し、理解させようという試みなのだという。それなら昼メロにも、田中真紀子・鈴木宗男を善玉悪玉として演出するワイドショーにも意味があるわけだ。
 そしてニューヨーク・テロに対する正義の戦争を掲げ、オリンピックの開会式でも、強きアメリカを演出するアメリカも、巨大で、わかりやすいメロドラマを私たちに見せようとしているのだ、といってるかもしれない。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2002.03.07)

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ポストモダニズムは、近代を本当に乗越えたのだろうか。

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 一九八〇年代、〈ポストモダン〉が流行語になった。この本は一九八九年に出され、ポストモダニズムに対してマルクス主義から批判したものである。それを今、訳して出版するのはなぜか。この本の解説に記されているように、今こそポストモダニズムの再検討が必要になっているからだろう。

 ポストモダニズムは、モダニズムの危機からあらわれた。しかし現在にいたっても、それはモダニズムの危機の解決にはなっていないようだ。今こそポストモダニズムは抜本的に問直しをしなければならないのだ。そのためにこの本は役に立つ。

 この本が書かれた後、ソ連が解体し、マルクス主義も有効性を失ってしまった、といわれた。旧ソ連の国々も資本主義経済へと融合してしまった。だが、現代は、マルクス主義をすっかり卒業してしまったのだろうか。
 ロシア革命の夢はもう古びてしまったのだろうか。ポストモダニズムは世界を救えるのだろうか。ニューヨークのテロ、アフガン戦争は、ポストモダニズムを急に色あせさせた。それらの危機の前で、ポストモダニズムは沈黙している。

 私たちは、あいまいであやふやな時代にいる。二〇〇一年九月の事件以後、〈知識人〉の声があまりに聞えないことにおどろかされた。そのような時に、本書のような、マルクス主義の基本にもどっての、骨太な批判は意味があるだろう。

 ポストモダニズムは一種の相対主義をもたらした。あれでもなくこれでもない、という相対主義の悪循環の中で、私たちは小さな世界に閉じこもろうとする。
 それに対して、より全体的な場を本書は与えようとする。その結論についてはいくつかの疑問があるが、現代の状況に正面から対決し、その見取図を示そうとする試みを、私たちは無視することはできない。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2002.02.15)

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世界には別な神がいるのかもしれない。

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 〈異端〉とは、〈正統〉に対することばだ。その場合、私の信じているのが〈正統〉であり、そうではないのが〈異端〉だ。深夜テレビで全米プロバスケットボールを見ていたら、去年優勝したロサンゼルス・レイカースのシャキール・オニールが試合後にインタビューを受けていた。ミルウォーキー・バックスが相手で、大いに苦戦しましたね、といわれて、オニールは、あそこは〈異端〉だからね、といった。どういう意味かと聞かれ、オーソドックスではない、ずるい手を使うからだ、といった。しかし、〈正統〉であるわれわれに勝てない、とオニールは胸を張った。

 西欧世界ではキリスト教が〈正統〉である。それ以外は〈異端〉だ。キリスト教では、神は唯一である。だがそれに対抗する別な神がいたらどうなるのか。すべて唯一の神のもとにあるキリスト教に対し、別な神もいるという考えがある。それは、光と闇の二つの神が争う二元論の世界である。

 この本では、キリスト教という一神教から〈異端〉とされてきた二元的な宗教が掘り起こされる。ヨーロッパの東の方ではボゴミール派、西の方ではカタリ派という〈異端〉が大きな広がりを見せた。そしてカタリ派に対しては十字軍が召集され、厳しい弾圧が行なわれた。〈異端〉はほとんど地下に埋もれ、忘れられていった。

 著者のユーリー・ストヤノフはブルガリア生れで、ロンドンのウォーバーグ研究所などで活動している。さまざまな〈異端〉の一つの中心であったブルガリア出身であることが、このテーマ研究への情熱の源泉なのだろう。埋もれた資料を発掘しつつ、〈異端〉の深淵に下りていこうとするストヤノフの姿勢がすばらしい。
 なぜ〈異端〉を掘りおこそうとするのか。〈異端〉、別な神を信じる人たちにも、この世で共に生きる権利があるのではないか、と思うからである。キリスト教とイスラム教の激しい対立の中に生きる私たちは、〈異端〉への十字軍ではなく、〈異端〉との和解を夢見るのだ。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2002.01.09)

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紙の本ナチズムと歴史家たち

2001/10/19 22:15

歴史学は、時代の流れに従うだけなのだろうか

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 私たちは今、二十世紀とはなんだったかを、もう一度考えなければならない時点に達している。日本では歴史教科書の書直しの問題が出された。この本では、ドイツにおける歴史家たちが再検討されている。それにしても、日本とドイツでは歴史への批判の姿勢がなんとちがっていることだろう。
 日本では敗戦の時に、あっさりと反省し、あやまってしまった。そのため今になって、あの時、あやまるべきではなかった、という論議が出てきて、君が代も復活してきた。一方ドイツでは、すべてナチのせいにして、それに同調した人はそれをかくしていた。そのため今になって、協力者たちも、きちんと反省せよ、という批判が出てきたのである。

 日本では、一億総ざんげをしたので、だれが本当に戦争責任があるのかわからなくなり、責任論は風化してしまった。しかし、ドイツでは、二十一世紀になっても、まだ執拗に戦争責任を追究している。この本はその状況をくわしく論じている。第二次大戦が終わって五十年以上たって、ナチに協力した学者たちの旧悪が暴露されている。その長い追究にため息が出る。
 日本では戦争責任などとだれもいわなくなった。その忘れっぽさ、いいかげんさにうんざりもするが、それが日本らしさなのかもしれない。

 この本では、知識人、特に歴史学者がナチズムの時代にいかに生きたか、が語られる。多くの学者がナチズムに迎合してしまう。もしかしたら、それは〈歴史学〉の宿命なのかもしれない。時代の流れ、体制について、それを必然と見て、擁護してしまうのだ。これが歴史の必然であり、運命なのだ、としか歴史学はいえないのだろうか。
 知識人というのは、結局、時代の流れを見ているだけであり、自分も流されていくだけなのだろうか。知識人学者のはかなさについて思う。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2001.10.20)

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紙の本ジャック・ラカン伝

2001/09/11 15:15

精神の征服者のパラノイアックな生涯

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 ラカンの本を読んでもちっともわからないので、解説書を読むが、さらにわからなくなる。ラカンがわかる人がいるのかな、とか、さらにはラカン自身、レトリックを楽しんでいるのではないか、と思えるほどだ。

 フロイト、ユングと並んで、ラカンは二十世紀の精神分析学の巨人といわれる。だが、精神分析学というのも、人間の心を操る大きなトリックなのかもしれないのだ。それはカルトとか新宗教とすれすれに接していて、三人の教祖はカリスマ的な崇拝を受けているのだ。
 ラカンの考えはなかなか理解しにくい。しかし人々をひきつける彼の生涯は興味をかきたてる。その興味にエリザベト・ルディネスコはたっぷりこたえてくれる。ここではラカンだけでなく、彼の生きた二十世紀がそっくりくりひろげられているのだ。

 まず面白いのが、ラカンがパラノイア(誇大妄想)の研究から出発しているからだ。彼は妄想をまちがいではなく、創造的な幻想としてとらえる。そしてサルバドール・ダリやジョルジュ・バタイユなどのシュルレリスムの運動に接し、アートとの関係で彼の精神分析論を開拓していくのだ。

 第二次世界大戦があり、フロイトの精神分析はウィーンを追われる。戦争やファシズムの中をこの学問は生きのびなければならない。ラカンもその危機の中で、フロイトとソシュールの言語学を結びつけた自分の学問を準備していく。
 戦後は、サルトルやボーヴォワールなどの存在主義の後に、構造主義のブームがあり、ラカンはそこでカリスマになっていく。

 この伝記を読んでもラカンの思想がわかるわけではないが、彼の多彩な女性たちとのつきあい、その心理的葛藤を知ることができる。そのスキャンダルは、彼自身、自らを実験台として精神分析を探究しているかのようだ。精神分析は、精神を癒すことができるのだろうか。パラノイアの学問はそれ自体、妄想ではないだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2001.09.12)

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この複雑で「陰謀」に満ちた世界を読む

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 このところ陰謀史観というのに興味を持っている。この世界はユダヤやフリーメーソンに操られている、といった考えである。たとえば、私たちは国連は世界平和のための機関だと習ったのであるが、国連こそ陰謀の元凶なのだという。
 国連に対する攻撃が激しくなったのは、一九七五年ごろからだったらしい。この年に、国連は、シオニズムは人種主義だ、という決議を採決した。これはイスラエルとそれを支持するアメリカへの批判であったから、アメリカで国連に対する不満が高まったのである。

 ユダヤ人はヒトラーのドイツでホロコースト(大量虐殺)の犠牲になった。しかし第二次大戦後、シオニズム運動の高まりの中でイスラエル建国が認められる。イスラエルはアメリカによって軍事的に守られる。イスラエルとアラブ諸国の対立においては、ユダヤ人は一方的な被害者とはいえなくなる。まことにややこしい。

 この本の著者レニ・ブレンナーはニューヨーク生れのユダヤ人である。彼が強調しているようにユダヤ人がすべてシオニストではないし、彼自身もちがう。ユダヤ人の運命をシオニズムやイスラエルと一緒にしないでほしい、と彼はくりかえしいっている。

 この本は、ユダヤ人がホロコーストにおびやかされていた時代に、シオニストがなにをしていたか、これまで知られなかった歴史をたどっている。おどろくべきことに、シオニストたちはひそかにナチと通じていたことが明らかにされる。ユダヤ人によるシオニズム批判なのである。
 この本は、ユダヤやシオニズムなどについての私たちの常識をくつがえす。このところ歴史教科書の問題がやかましいが、歴史というのは何度でも疑い、読み直していくべきだろう。別な読み方ができるのではないか、という批判精神を養うことこそ、私たちが歴史の本を読む目的なのであるから。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2001.09.07)

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エビータの真実

2001/08/23 22:15

民衆の熱狂が呼び出す女神の光と闇

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 エヴァ・ペロンについてはたくさんの伝記が書かれている。一九九七年、マドンナがエヴァを演じた『エビータ』が封切られた。女優からアルゼンチンのファースト・レディーへ。そして民衆の人気によって独裁者になっていき、三十三歳で短い生を終える。その劇的な生き方が、今も興味をそそるのだ。

 このごろ〈ポピュリスム〉ということばが注目されている。民衆の熱狂的な人気に支えられた政治指導者が登場する時代がある。なぜ民衆はヒーローやヒロインを待望するのだろうか。抑圧された不満のはけ口を求めているのだろうか。イソップにこんな話があった。蛙たちが神に王様がほしいと願った。神は、木片を王として与えた。ただぷかぷか浮いているだけなので、蛙たちは馬鹿にして、もっと立派な王がほしいといった。神は鷺を王に与えた。背が高く、りっぱなくちばしをしていたので、蛙は喜んだ。ところが鷺はそのくちばしで蛙を食べてしまった、というのである。

 民衆は、頭がよくて、強い王を望む。たとえ食べられてしまってもだ。アルゼンチンも美しく強い指導者を望んだ。彼女は、ナチスと深く結びついたペロン大統領の夫人となり、やがて自ら独裁者となった。

 私がこの本を読んでみたいと思ったのは、このところ、〈陰謀〉に興味を持っているからだ。現代は〈ユダヤ〉や〈ナチ〉や〈フリーメーソン〉やらの〈陰謀〉にとりつかれている。南米は〈陰謀〉の巣であり、ナチ・コネクションやドラッグ・コネクションが渦巻いている。
 そのような陰謀の王国で、一人の女がいかに生きたであろうか。彼女もファシストだったのであろうか。この本の著者はアルゼンチン生れの女性である。これまでの伝記とちがって、同じアルゼンチンの女性であるエヴァの内面に深く入って、彼女を理解しようとしている。彼女にやさしいが、女としてのいやらしさ、強欲さにも目をそらせていない。

 そしてエビータの死後にも謎は残っている。彼女の莫大な遺産はどこへ行ったのか。それはナチのマルチン・ボルマンが第四帝国を建設しようとして南米にかくしたという財宝と関係があるのだろうか。エビータはまだ現代史の封印された陰謀の中に埋もれているのである。
 この本はそのような現代史の謎への想像をかきたててくれる。

 そして再び、なぜ民衆は、危険なヒーロー(ヒロイン)を求めるのだろうか。エビータの人気はいまだ消えない。私たちはまたポピュリスムの時代にいるのだろうか。私たち愚かな蛙は、神に、危険でもいい、食べられてもいいから、強く美しい王(女王)を与えてくださいと願うのだろうか。そのために、痛みはがまんします、と私たちはいうのだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2001.08.24)

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なぜ現代において、家系、家柄なのだろうか。

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 このごろ、また家系や家柄が重要になってきた、と聞くとなぜだ、と思うのだが、このごろどうやらわけがわかってきた。そのきっかけは、私が今〈コンスピラシー〉(陰謀)に興味を持ったことであった。ロスチャイルドが世界を支配している、といった陰謀のセオリーがアメリカではやっている。テレビのワイドショーやインターネットで、さまざまな陰謀説がふりまわれている。

 なぜ私たちは、そういう説が好きなのだろうか。そんなことが面白くなって調べているうちに、インターネットは先祖探しに便利であり、家系に関するサイトが多い、ときいてなるほどと思った。インターネットそのものが家系図のようなものなのだ。
 家系図では、先祖から今までがつながっている。このつながっていることが陰謀説では大事なのだ。ロスチャイルドとかロックフェラーが世界を支配しているというセオリーでは必ずその家系図が持出される。インターネットの時代に、古めかしい家系図が突然呼び出されるというのはびっくりさせられる。

 『豪閥』は、『閨閥』『門閥』とつづく日本の有名一族の家系シリーズである。それぞれ思いがけない親戚関係によってつながっていて、実に面白い。
 縁故関係などというのはもう古いのかと思ったら、どうやらそうではなく、私たちは再び、家柄による社会にいるようだ。たとえば、アメリカではブッシュ二世が大統領になった。その伝記は以前に「ブック・ワン」でとりあげたが、『幸運なる二世』と題されていた。ブッシュ・ジュニアは、父の名声、財産、政治力に乗って、一挙に大統領になった。アメリカはどうやら、親の七光りで出世するエリート社会になりつつあるらしい。

 日本もまた小泉内閣が示しているように、田中角栄の娘や石原ジュニアなどによる二世内閣になっている。
 そんな時代にこの本はぴったりである。アメリカは大金持の話が好きで、『アメリカを支配する六十家』などという本が沢山ある。日本でもようやくこのような本が出てきたようだ。この本では地方豪族四十七家のネットワークがまとめられている。

 私は目次を見て、私がいくらか知っている家のところから読み出してみる。たとえば資生堂の福原家である。私は『資生堂ギャラリー史』を手伝ったことがあるので、福原家についていくらか調べたことがある。しかし、その人脈がこれほど広いとは知らなかった。一つの家は別な家とつながり、そのネットワークはどこまでものびていく。
 インターネット、家系、陰謀といった三題話を私はたどっているところだが、この本はその視点から読むとさらに面白い。過去の話であるだけでなく、今の、アクチャルな政治経済の状況につながってくる。もっとも、個人より家柄といったものが重要になってくることにはちょっぴり複雑な思いがある。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2001.08.16)

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絵を描くこと、絵を解釈することによる癒し

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 癒しと芸術というテーマに興味を持っている。かつて芸術は、癒しなどという問題をあつかわなかった。芸術は純粋中立なものであるから、治療の手段などに使うべきではないと考えられていたのである。
 しかし、八〇年代ぐらいから、芸術も世間とは無縁でいられなくなり、癒しに役立てようとする方向があらわれた。その柱となったのはカール・ユングの心理学である。ユングは、人間のイメージは、無意識を語る象徴〈元型〉によって構成されていると考えた。したがって、ある人が書いた絵は、その人の無意識世界を映しており、その元型を解読することで、その人の問題点(悩み、欲望)がわかってくる。

 この本の著者は、アメリカのユング派の心理学者で、絵画療法のエキスパートであるという。その多くの体験をもとに、絵画による癒しを解説している。その方法は、ある図式を押しつけることなく、具体的で、経験的であるから、まだるこしい感じもするが、私には公式的でないだけ、好感を持てる。
 癒しと芸術について考えていくと、いくつかの問題にぶつかる。まず、絵画療法に使われるのは、芸術作品ではなく、うまい下手は関係ないことである。この本では「無意識由来の絵」といっている。ある問題を抱えた患者に絵を描かせる。意識的にうまく描こうとしない方がいい。ファースは、この本で芸術作品をはずすといっている。

 では、芸術作品と癒しの関係はどうなるのかを私は気になっているが、ここでは触れない。

 なぜ絵を描くことで癒されるのか。ユングによると、人間の心は意識と無意識からなり、無意識は意識の欠けているところを補っている。したがって、絵を描くこと(無意識の表現)によって、意識の欠けた部分が補償され、心のバランスがとれるというのだ。
 絵画療法は、絵を描かせること、その絵を解読すること、という二段からなっている。絵として表現するだけでなく、それをことばに翻訳することが大事なのだ。

 しかし厄介なのは、ユングは絵の解読のための体系的なアプローチを示さなかった。彼の直感的な解釈が語られているだけなのである。そこで彼の弟子たちが体系的アプローチをつくろうとしている。ファースの本もその試みの一つなのである。
 注意すべきなのは、なんでも解読できる法則というのは今のところ見つかっていないことだ。テレビなどでやっている心理テストなども、大ざっぱにいえば、そうもいえるというくらいのもので、あまりあてにならない。

 この本は、絵の読み方の図式を押しつけることなく、人間のそれぞれの個性をできるだけ柔軟に読んでいこうとする。その姿勢は共感が持てる。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2001.07.07)

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江戸はこんなふうに見えた

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 江戸という時代はなぜこんなに面白いのだろう。おそらく視覚的史料がたくさん残っていて、細かい部分までわかるからではないだろうか。私は『江戸の盛り場』(青土社)を書き、江戸を舞台にした小説を書いているのだが、その時感じたのは、江戸の町がいきいきと見えるということであった。江戸の話は見える。しかし、平安鎌倉室町といった時代になると、あまり見えない。

 古い時代でも、史料がないわけではないが、上流の人たちについてのものが多く、一般の人々のさりげない日常生活の史料が少ない。これに対して、江戸時代になると、町の、庶民の生活の細部について、豊かな史料があらわれる。その代表が浮世絵であり、『江戸名所図会』である。

 『江戸名所図会』、天保五(一八三四)年に出版され、版を重ねたという。代金は金一両と銀五匆で、今にすれば十万円ぐらいという。かなり高価であったが、増刷が間に合わないほど売れたという。地方から出てきた人が国元の土産に求めたらしい。

 一八三四年刊というのは興味がある。西洋ではちょうどこの頃から、都市が視覚化され、大通りに面してファサードを持ち、見えるようになってきた。日本でも同じころに、江戸という大都市が見えるものとなってきているのだ。

 本書は、『江戸名所図会』によって視覚化された江戸の研究である。全七巻二十冊というこの大作は、神田の町名主であった斎藤家の三代、幸雄・幸孝・幸成によって書かれた。挿絵は長谷川雪旦が描いた。

 この本は、『江戸名所図会』が江戸をどのように描いているかを精密に考証している。雪旦の絵は、江戸を写実的にとらえているように見える。だがよく調べてみると、写真とはちがっていて、画家は多くのものを省略し、変形して表現していることが明らかにされる。たとえば、飛行機も高い建物もなかった時代に、どうやって空から江戸を見たような都市像を描くことができたのだろうか。

 〈見る〉ことが決して客観的、中立的なものではなく、見る人の主観や欲望によって変化するものであることが、このところわかってきた。最近の美術史や視覚研究はそのテーマに強い関心を持っている〈ヴィジュアル・カルチャー〉研究が欧米では盛んである。

 この本は、江戸を研究しつつ、そのような世界的な視覚論のパースペクティヴに開かれているのだ。私は江戸を、〈場末〉という視点から逆に見ようとしているところが面白かった。国木田独歩は〈場末〉〈町はずれ〉を意識し、新しい都市論を切開いたが、すでにそれは幕末の『江戸名所図会』の中で予告されていたのだ。絵の中の江戸を読み解いてゆくスリリングなタイム・トラベルを感じさせる。 (bk1ブックナビゲーター:海野弘/評論家 2001.05.22)

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