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先月(2017年6月)

山之口洋さんのレビュー一覧

投稿者:山之口洋

1 件中 1 件~ 1 件を表示

ぬかるんでから

2001/08/01 10:55

《妻》という名のブラック・ボックス

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 白状する。佐藤哲也氏がこれほど正統の幻想小説を書いていたとは知らなかった。笙野頼子が褒めちぎるのもわかる。もちろん、オビの「胸に滲みて、戦く。背に触れて、幻が通る」が賛辞とわかるのは、隣に「笙野頼子絶賛」と書いてあるからだ。
 なぜ意外か。それは幻想小説の成り立ちゆえにだ。幻想小説では、まず、われわれの周囲の現実世界との《ずれ》が設定され、それが広がって幻想が現実を侵していくさまが、主人公の認識を通して描かれる。しかし、ほとんどの場合、周囲の状況だけでなく、受け取る側の感覚さえもが、なにかしら病み、歪んでいる。それによって、いわば壊れたテレビに映るゴーストのように、言語というデジタルの中から、《機械の中の神》を召喚する。だから、非常に優れた幻想小説作品にさえ、一抹の阿呆らしさが宿命的にまとわりつく。そう言って悪ければ、脳の中の論理性をやや殺して読まなければならない。
 いっぽう、佐藤哲也氏は論理の妙で遊ぶ長編『イラハイ』で日本ファンタジーノベル大賞を受けた作者であり、その《贅沢な遊び》は一部のファンに絶大な支持をうけている。つぎの長編『沢蟹まけると 意志の力』も同じ。およそ、論理で遊ぼうとすれば、文章の隅々まで統御した上、さらに読者の当惑顔にこれでもかと投げつけ続けられるだけの過剰な論理性を必要とする。佐藤氏の脳にはそれがあり、つまりテレビは壊れていない。ここに、幻想が理に落ちる危険がでてくるのだ。ところが、本書の各短編を読んで驚いた、幻想は醇乎として幻想であるのに、語りは明晰かつ論理的で、ときには氏一流の論理の遊びさえ楽しめる。さらに、幻想小説につきものの、あの一抹の阿呆らしさともほとんど無縁だ。
 どうしてそんなことができるのだろう。幻想小説の約束として設定される《ずれ》は、もちろんここにもある。それは死神であったり、やもりよろしく天井にはりついた河馬であったり、主人公の家に倒れた男の死体であったりする。幻想小説の組立てとして根本的に新しいのは、氏が《理解も制御もできない近親者》という、制御工学で言うブラック・ボックスを、《ずれ》を認識し対処する側の回路に含めたことにある。
 それは父であり、伯父であり、ときには《ずれ》自体の発生源でもある戦う祖父と父であったりするのだが、なんと言っても秀でているのは妻である。妻の登場する『ぬかるんでから』『春の訪れ』『記念樹』などで、作者はその挙動を細やかに描き、しかも内面を決して描かないことで、独自の幻想の境地を獲得している。もっとも、この新しい工夫が、手法と呼べるほど一般化できるものか、作者自身が置かれた状況の恩恵なのかは、あの名高い夫妻を知る者すべてが頭を悩ましているところでもあるのだが……。
 ゆえに、これらの各短編は《わたしたちと世界》の物語ではなく、どこまでも《わたしと妻と世界》の物語なのである。それが、読者の胸に滲みる悲しみをもたらす。

山之口洋(やまのぐち・よう)
1960年東京都生まれ。作家。東京大学工学部卒。明治大学および東洋大学講師。98年『オルガニスト』(新潮社)で第10回ファンタジーノベル大賞受賞。最新刊は『われはフランソワ』(新潮社)。bk1でコラム「不審事物」を連載中

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山之口洋公式サイト「復路のランナー」

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