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  3. 岡谷公二さんのレビュー一覧

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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

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    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

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岡谷公二さんのレビュー一覧

投稿者:岡谷公二

30 件中 1 件~ 15 件を表示

ヨーロッパを捨て、バリ島に住み、ケチャ・ダンスの考案をはじめバリ島芸術に大きな影響を与えた男の物語

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 バリ島に行ったことのある人なら、ヴァルター・シュピース(一八九五〜一九四二)という名前を必ずやどこかできいたはずである。バリ島を今日のように、世界中から観光客の訪れる「最後の楽園」に仕立てあげたのは、極言すれば、シュピースのせいだとさえ言うことができる。

 このロシア生れのドイツ人は、ゴーギャン、スティーヴンソン、ハーンらと同様ヨーロッパの生活に馴染むことができず、一九二三年単身ジャワ島に赴き、ついで一九二五年はじめてバリ島を訪れ、この地の幻想的なまでに美しい自然、ヒンズー教を信じる島民たちの心豊かな生活、彼らの伝える踊りや音楽──ガムラン──をはじめとするさまざまな芸術に熱狂し、ついにここを永住の地と定めて、絵師たちの村であるウブドに住んだ。
 彼は画家が本業だが、ドイツにいた時はサイレント映画の巨匠フリードリッヒ・ムルナウの美術アドバイザーとして映画にも関係し、また音楽家としてもすぐれた才能を持っていて、ジャワ島時代にはピアニストとして生計を立てていた。

 彼はバリ島芸術を愛して、そのすばらしさを欧米に向けて発信しただけでなく、自らもそこに参加して、バリの踊りや絵画に大きな影響を与えた。たとえば現在島の観光の名物になっているケチャ・ダンスは、ヨーロッパで大成功した。バリ島を舞台とするヴィクター・フォン・プレッセン監督の映画「悪魔の島」にシュピースが協力した際、伝統的なダンスをもとにして彼が考案したものであった。彼はまた、伝統的な様式で絵を描いていた島の絵師たちに、ヨーロッパの遠近法や画材を教え、島の絵画に新風を吹きこんでもいる。
 さらに『バリ島物語』を書いたアメリカの女流小説家ヴィキィ・バウム、バリ島に関する古典的名著の著者、メキシコ人のミゲル・コバルビアス、文化人類学におけるバリ研究の先駆『バリ島人の性格』その他で知られるグレゴリイ・ベイトソンとその妻マーガレット・ミード。これらの人々の仕事は、シュピースの存在なしには生れえなかっただろう。
 島民たちに慕われていた彼は、しかし第二次世界大戦中、同性愛者であることを理由にオランダ政府によって逮捕され、移送される途中船が日本軍の爆撃にあって沈没、非業の死をとげる。
 本書は、まとまったものとしては、この特異な芸術家に捧げられた日本で最初の本である。ただ伝記ではなく、バリ島芸術とシュピースの関係を論じたエッセイとして読むべきであろう。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2002.03.07)

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井伏鱒二への真情あふれる追悼文の数々

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 尊魚堂とは、釣りができなくなった晩年、井伏鱒二が自ら称していた号だという。本書は、九十五才の長寿を全うしたこの作家の七回忌に際し、編者が、これまでに出た諸家のおびただしい追悼文と追悼の座談会の中から、四十一篇の文章と二つの対談をえらんで一本とし、故人に捧げたものである。

 東郷克美氏は後記の中で、「この人のことを書くとみんないい文章になるんだなあ」という平岡篤頼氏の言葉を引用しているが、筆者も全く同じ感想を持った。それは、執筆者のすべてが、井伏鱒二の作品と人柄を心から敬愛し、文章に真情がこもっているからである。

 執筆者の大方は、庄野潤三、安岡章太郎、吉行淳之介、阪田寛夫、阿川弘之、水上勉、小沼丹、三浦哲郎、大江健三郎といった作家たちだ。一人の作家が、これほど多くの作家に慕われるというのは、異例なことではなかろうか。一人の作家について、作家たちが追悼文集を編んだという例を、筆者はあまり知らない。一般に作家にとって、他の作家とは、ライヴァルであり、敵なのだから。この辺に井伏鱒二の独自さと、不思議な魅力があるように思われる。

 掛け値のない諸家の文章にもかかわらず、この本から浮んでくる井伏鱒二の像は、文章に骨身を削る一方、酒と釣りと将棋と絵を愛し、決して偉ぶることなく、飄々として市井に生きた高雅な文人という、巷間に流布している彼の像とさして変らない。思いがけない彼の姿は、ほとんど見られない。彼は、文章の上で、感情の生な表出を嫌ったが、私生活でも同様だったらしい。弟子を自称し、そのごく身近にいた三浦哲郎、小沼丹のような人たちですら、感情をあらわにしたり、激語したりする彼の姿に出あっていない。あれほどの酒徒でありながら、彼は酔態をさらしたことがない。誰もが異口同音に彼の酒の強さを口にし、酔ったのを見たことがないという。彼はみごとに自己抑制を貫き通した。しかもすべてが自然態、少くともそう見えるのである。

 安岡章太郎氏の書いている神話は興味深い。井伏邸での昼間からの賑やかな酒宴のさなか、氏が座を外して手洗いに立つと、奥の間から線香の匂いがする。たまたま通りかかった夫人に訊ねると、「昨日、次男の大助が亡くなりまして、今日、葬式をいたしました」という思い掛けない返事が返ってきた。座に戻り、氏が「井伏先生」に向い、「大助さんが亡くなられたそうですが」と皆の前で訊いた。すると井伏鱒二は淡々と、「そう、しかし僕は葬式には出ない主義だから出ないんだ」と言ったという。しかも大助は、彼がとくに可愛がっていた息子だったのである。

 やはり井伏邸での酒宴の折のこと、水差しに水がなくなったので、台所へ水汲みにゆことすると、「水は家内に持ってこさせます。君は僕の客です。茶の間や台所にのこのこ入るような者はいい作家にはなれません。○○君を見たまえ、○○はいつも茶の間に入ってくる。だから何もいいものを書いていません」と叱られたと、吉岡達夫氏が書いている。いずれも井伏鱒二のきびしさをうかがわせる話である。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/フランス文学者 2000.08.31)

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日本の巨樹、巨木の現状を知ることのできるコンパクトな一冊

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 巨樹ブームだそうである。巨樹のなにがそれほど私たちを惹きつけるのであろうか? 幹まわりが幾抱えもある、あちこちに瘤のつき出た、どこかけものじみている楠や杉の巨木を眼の前にする時、私たちは、その逞しい生命力に圧倒されると同時に、それらの木々が立ちあってきた時間にも心をうばわれる。樹齢千年、時には二千年、三千年に達する彼らは、弥生時代や古代の人々の生活を見守ったのと同じ眼で、私たちを見ているのだ。長い時間の凝縮しているかのようなその姿には言い知れない魅力、いや、魔力さえある。

 本書の著者は、十四年にわたって巨樹を追い続けてきた写真家である。環境庁の調査を鵜のみにせず、自ら現地に赴いて幹周、樹高を計測し、そのデータにもとづいて日本全国の巨木ランキング、ベスト30の写真集を作った。基準は樹高や樹齢よりも幹周で、環境庁は、「地上1.3mの高さで幹周が3m以上のもの」を巨樹としているようだが、著者は幹周を5m以上のものとする。

 巨樹というと、誰しも屋久島の縄文杉を思いうかべるであろう。発見当時樹齢七千二百年とされ、それゆえ縄文杉という名前がつけられたのだが、今ではこの樹齢推定を否定する向きが多く、二千五百年が定説になっているらしい。この縄文杉は、ランキングの一位どころか、なんと十三位なのだ。一位は、鹿児島県姶良郡蒲生町にある蒲生の大クスで、幹周二十三米、樹高二十七米、樹齢千五百年で、ちなみに縄文杉の幹周は十六米である。二位は青森県北金ヶ沢のイチョウ、三位は熊本城のクスノキ群である。
 蒲生の大クスは、実際には痛みがかなり激しいようだが、写真からはそんな衰えは少しも感じられない。一樹を以て森を成す、という趣きで、その偉容は、まさに自然の奇蹟である。

 この写真集を見ると、ベスト30の大半が楠で占められているのがわかる。また著者は、巨樹が深山より人里近いところに多いという指摘もしている。それも寺社、とりわけ神社の境内が圧倒的に多く、三分の二近くがそうだ。巨樹は、日本人の信仰が守り育ててきた宝だと言ってもいい。
 「巨樹・巨木ランキング(ベスト30)」のほかに、データにかかわらず、著者のすすめる全国の巨樹「おすすめの樹」二十四本の写真も付け加えられている。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.12.29)

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紙の本物語「京都学派」

2001/11/26 22:16

西田幾多郎、田辺元を中心に集った「京都学派」の哲学者たちの群像を、第一級の資料を使っていきいきと描く

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 京都学派とは、広い意味では京大を中心にしたすぐれた学者たちのことであろうが、本書が対象とするのは、西田幾多郎、田辺元のまわりに集った哲学者たちである。下村寅太郎、戸坂潤、三木清、天野貞祐、高坂正顕、木村素衛、西谷啓治、高山岩男、和辻哲郎、九鬼周造、林達夫、唐木順三、波多野精一、山内得立……。つまり一時期日本の知性を代表していた人たちだ。

 西田幾多郎と田辺元の特色は、柳田国男の言う「翻訳学問」になりがちな哲学という分野において、西欧の哲学と対峙しつつ、自分の哲学を生み出した点であろう。それが伝統となって、二人の周囲にこれだけの人材が輩出したのである。
 人材輩出のもう一つの理由は、とりわけ西田の、京大の哲学科に、門下生だけでなく、外部からすぐれた学者をすすんで迎え入れたその度量の広さであろう。京都学派の二本柱の一人で、のちに学問上西田と鋭く対立するに至る田辺元自身、東大哲学科の出身であり、波多野精一も九鬼周造も、和辻哲郎もそうだ。彼らの多くは、西田に乞われて、京大へ移ったのである。
 京大にくらべ、東大の哲学科が振わなかったのは、哲学者としては二流の井上哲次郎が長く主任教授の地位を占め、学者としての実績よりも彼に対する貢献度を基準にして人事を行ってきたからだ、と著者は断言する。三木清も、戸坂潤も、西谷啓治も、みな一高出身なのに、東大哲学科、とりわけ「井の哲」こと井上哲次郎を嫌って、西田の教えを乞うため京大に入ったという。

 本書は別に京都学派の人たちの学問を紹介する本ではない。著者自身言うように、「肝心の〈学〉についてはほとんど語られていない」のであり、もっぱら語られているのは人間関係だ。京都学派が成立してゆく経緯が、さまざまな挿話を引きながら、面白く描き出されており、三木清の女癖だの、網野菊の小説にほれこんで、一面識もないのに手紙で結婚を申し込んで夫婦になった相原信作の話だの、あの謹厳で知られた田辺元あての某女性のラブレターだのが紹介されたりする。

 京都学派の裏話にはちがいない。しかし決して興味本位の本ではない。哲学がいかに抽象を旨としていても、その根本にあるのは人間だ、という認識が著者にあるからだ。
 著者は下村寅太郎の弟子であり、下村の死後発見されたその日記、西田、田辺らの下村宛ての多数の手紙といった、未発表の第一級の資料をもとにして書いていて、そのことが本書に精彩を与えている。

 もっとも印象的なのは、戦争中北軽井沢の学者村に疎開し、妻の死後も、弟子たちの切なる願いにもかかわらず、戦時中「思想者として果すべき責務を果さなかった罪に対する自責の念」から寒冷の地に一人ふみとどまって、死の哲学の構築に没頭する田辺元の姿であり、そのような田辺に惹かれてゆく、近くに住む作家野上彌生子との、七十才を越えての「恋愛」である。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.11.27)

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紙の本書物と旅 東西往還

2001/03/15 18:15

わが国のイスラム研究の先駆者であり、第一人者だった故前嶋信次博士の味わい深い回想録

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 本書は、昨年から東洋文庫で刊行されはじめた「前嶋信次著作選」の第四巻、すなわち最終巻である。ちなみに第一巻は『千夜一夜物語と中東文化』、第二巻は『イスラムとヨーロッパ』、第三巻は『<華麗島>台湾からの眺望』の、それぞれ表題を持つ。まずこの著作選の完成を喜びたい。

 前嶋信次(一九〇三〜一九八三)は、井筒信彦(一九一四〜一九九三)とともに、日本におけるイスラム研究の先駆者である。アラビア語を教える学校どころか、辞書も文法書もろくになく、アラビア語の先生を探して東京中を歩きまわり、やっとアラビア語の看板らしきものをかかげている家を見つけて訪ねてみたものの、教えるのを断わられてしまったという時代——昭和初期——に苦心してアラビア語を習得し、本邦ではじめて『アラビアン・ナイト』の原典からの翻訳(やはり東洋文庫で全十八巻。十三巻以降は池田修訳)という偉業を企てた人として知られる。

 山梨県に生れ、東京外国語学校(現・東京外大)でフランス語を学び、ついで東京帝国大学文学部東洋史学科に進み、卒業後は指導教授の藤田豊八とともに台湾へわたって台北帝大の助手をつとめ、台南の中学校に移って教諭として八年勤務、昭和十五年には満鉄に入社、東亜経済調査局の調査員としてイスラム研究に没頭、戦後は五年余の空白期をへて、慶大に迎えられたというのがその経歴である。

 前嶋信次の研究の対象はイスラムだけでなく、著作集の第三巻にまとめられた、台南在住中の台湾の歴史と文化をはじめ幅広く、伝道のため北海道から中国大陸へ渡り、かの地で客死した日蓮上人の弟子の日持上人(一二五〇〜?)の事蹟を、万里の長城の近くの町宣化で偶然発見されたその遺品をもとにして、くわしく調べた『日持上人の大陸渡航』のような特異な著作もある。

 本書は、研究上の恩師や友人たちの思い出、研究の余談、旅の回想などについてのエッセイをまとめたもので、前嶋その人の自叙伝を読む思いがする。
 彼の学問の特色は、あとがきで板倉雄三が記すように、「かけがえのない個としての<私>」を離れることがなかったところにある。研究論文の中に私的な思い出や感想を持ち込むことを極端に嫌うのが、人文学界においても大勢を占めているが、たとえば前嶋は、シカゴ大学でめぐりあった九世紀の『アラビアン・ナイト』の稿本について記す場合、年月をへた褐色の紙片の印象や、たまたまきこえてきた教会の鐘の音や、ミシガン湖の冬景色について語らずにはいられないのである。研究論文でさえそうなのだから、本書に集録された文章には、彼の「私」が一層前面に出ている。

 「国姓爺の使者」という一篇は、「晩秋の雨がくらく降りこめる日」、一人の中年の中国人の紳士が突然訪ねてくるところから話がはじまる。それは二十余年前、台南の中学で歴史を教えた黄という旧家の息子であった。今は当主となり、会社を経営しながら郷土史の研究をしている黄は、かつての恩師を喜ばそうと、金門島で発見された、明朝の王族魯王の墓誌銘についての新聞記事をたずさえてやってきたのであった。それから話は、魯王の悲劇的生涯をめぐって展開し、台南時代への思い出へと及ぶ。まさに短篇小説を読む思いがする。
 終戦後、出版のあてもないまま書き上げた原稿を作家の丸岡明に託したところ、一人の青年がそれを丹念に読んでくれ、「実に辛辣な批判」をしたが、その青年は「その批評の鋭さとは離れて」、素朴な、「何か物さびしい印象」を彼に与えた。それが原民喜だったという話(「人生のチャンス」)なども面白い。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.03.16)

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紙の本記紀の考古学

2000/12/28 15:15

『古事記』と『日本書記』を考古学から見直した刺激的な著作

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 考古学はとても魅力的な学問だと思うのだが、ふしぎなことに、考古学の面白い本を読んだという経験は実に少い。考古学者の多くは、何の説明もなしに専門用語を平気で使い、読者にはよく分らない土器の型式や遺跡の名前を並べ立て、しかも出土品から一歩も離れようとせず、推測や想像を罪ででもあるからのように自らに禁じている。その上文章が生硬ときているからたまったものではない。主題に興味をひかれて買い求めながら、考古学の本を途中で何度投げ出したことか。

 そこへゆくと、森浩一氏の著作は当りはずれがない。氏の導きに従ってゆくと、私たちは考古学を通じて古代の闇の中に入りこみ、強い知的な刺激を受けつつ、楽しい数時間をすごすことができる。本書もまた例外ではない。

 本書は、以前に同じ朝日新聞社から出た『日本神話の考古学』の続編で、雑誌『論座』に十八回にわたって連載された論考をまとめたものである。『古事記』と『日本書記』の記述を、考古学の成果と照し合わせながら検分してゆくというのがテーマで、崇神天皇から欽明天皇までの時代、つまり古墳時代のほぼすべてをカバーしている。

 『日本書記』では、大物主神の妻ヤマトトトヒモモソ姫の墓とされている箸墓は、本当は誰の墓なのか、大阪府にある古代最大の池狭山池は、イクメイリ彦(垂任天皇)の時代に作られたと記録にはあるが、それは正しいのか、神宮皇后に乗り移った神の託宣を信じなかったばかりに、熊襲征伐の途中で急死した仲哀天皇の死にはどのような意味があるのか、伝説上の人物である神宮皇后にどれほど歴史の影を読みとることができるのか──こうした古代史の謎や問題に対し、著者は、長年にわたる考古学上の経験と知識を動員して答えようとする。もっともそれぞれの問題が、つきつめてゆけばどれも一冊の本となるほど奥が深いだけに、ここに示されているのは、解答へのヒント、と言っていい。しかし貴重なヒントにみちみちている。

 いくつか例をあげてみよう。著者は、和歌山市の井辺八幡山古墳で力士の埴輪を発掘した経験をもとに、当麻蹶速と野見宿禰の角力の話を考えようとする。そして『紀』において、その直前に、イクメイリ彦に深く愛されながら、兄のサホ彦が謀反をおこすや、兄の側に立ち、火をかけられた稲城の中で兄とともに焼死する悲劇の皇后サホ姫の記述があるのに着目する。そして角力は、死んだサホ姫らのための鎮魂として行われたのであろう、という仮説を立てる。実際記紀の中には、人の死の記述のあとに、いきなり角力のことが出てくる個所がいくつもあるのだ。そこで著者はさらに日航機が愛鷹山で墜落して、大相撲の伊勢ヶ浜親方の家族も犠牲になった際、数日後に部屋の力士たちが山にのぼり、仮土俵を作って、鎮魂のために四肢をふんだ話を思い出すのである。

 仁徳天皇がまだ太子だったころ、父の応神天皇が妃にしようとして日向から迎えた髪長媛にほれて妃にしてしまった。著者は、宮崎県西都原古墳群の中のヨサホ塚とメサホ塚が、応神陵の可能性の高い大阪府の誉田山古墳、仁徳陵の可能性のある百舌鳥陵山古墳のそれぞれ正確に二分の一の寸法で造営されている事実を指摘し、そこに何らかの関係があることを暗示する。
 ヤマトタケルは、死んで伊勢の能褒野陵に葬られたあと、白鳥になり、陵から出てヤマトの国をさして飛んでいったと記紀にはある。そしてヤマトにもまた彼の墓が作られた。その有力候補地、奈良県御所市の掖上鑵子塚古墳の濠内から、一九三八年水鳥形埴輪がみつかったという話なども興味深い。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2000.12.30)

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琉球王国の有様をうかがうことのできる貴重を版画、水彩画の数々

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 幕末から明治初めにかけて、つまり琉球王国の末期に、イギリス、アメリカ、フランス、ロシアをどの国々の艦船がしばしば沖縄、とりわけ那覇に寄港した。琉球王国は形の上では独立王国だが、すでに薩摩藩の支配下に入っており、こうした寄港は公然のものではなく、交易も禁じられてはいた。それでもそこにはしばしば彼我の交流が生れた。とりわけ文化13年(1816)の、バジル・ホール艦長らに率いられ、約40日間滞在したイギリス海軍の、嘉永3年と4年の二度にわたる、ペリー提督指揮のアメリカ海軍の寄港は、航海記が刊行され、日本でも翻訳されていて、有名である。

 そうした艦船には、専門の画家が乗りこんでいることがあり、彼らは滞在中多くの絵を描き、それらをもとに欧米で多数の版画が製作された。編者らは、こうした原画や版画をアメリカで精力的に発掘、蒐集し、その中の貴重をものを集め、琉大の照屋善彦教授の監修をへて刊行した。

 欧米の艦船の寄港については、琉球王国側にももちろん文字の資料は残っているが、視覚的な資料となると、皆無に近い。その点で本書によって公にされた——中には本邦初公間のものもある——版画、水彩画の数々は、きわめて貴重である。私たちはこれらの絵を通し、今次の大戦の戦禍によってほとんど面影を失ってしまった那覇、首里の、琉球王国時代の美しいたたずまいをかいまみることができる。

 たとえば「ペリー提督一行首里城より帰還の図」と題する、25才の青年画家ウィリアム・ハイネの描いたみごとな水彩画がある。彼方の山上に首里城を望見できる、琉球松の大木が沿道に生い茂った風景の中を、200人の部下を従え、駕篭に乗ったペリー提督が那覇港へと帰ってゆく行列を描いたもので、当時を髣髴とさせて興味深い。

 首里城の光景、城内での歓迎の宴の図、艦船を訪れた琉球王国側の使節たち、その隨員たちの肖像画など、公的な面の絵が多いけれども、画家たちは町に入りこんでゆき、庶民の生活をも如実に伝えている。人々の往来する那覇の町角、市場、豆腐売りの女、大樹の下に坐って、煙管を吸いながら雑談している男たち、豚を頭の上にのせて運ぶ女たち・・・。

 「仲島の大岩」という木版画の中には、那覇のバス・ターミナルの構内に現存する、頂きに樹木の生い茂った巨岩が描かれている。今は全くの町中だが、巨岩のすぐ下まで海が入りこんでいて、眼の前に帆船が浮んでいるのを見て、私は驚かずにはいられなかった。欧米人に強い印象を与えたらしい巨大な亀甲墓、女たちの手の甲の入れ墨の文様、珍らしい鳥や魚の精細な図など、見ていて飽きない。

 バジル・ホール、ペリーを含め、琉球王国を訪れた外国人の多くは、その風景の美しさとともに、住民の親切さ、正直さ、礼儀正しさ、清潔さに感嘆し、そこに東洋の楽園をかいまみる一方、将来日本の影響がこの国を損うのではないかと怖れている。1987年に一度出版されたものの改装版である。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/フランス文学者 2000.07.17)

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明治中期の沖縄を半年かけて旅し、名著『南島探験』を著して、柳田国男に大きな影響を与えた人物の評伝

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 笹森儀助は、『南島探験』(明治二七年)の著者として、一部の人々には知られている。この本は一旦忘れ去られたあと、柳田国男によって発見され、沖縄研究の古典となった。柳田自身、この本の感銘から沖縄に関心を抱くようになったと語っており、「島の三大旅行家」という一文では、白野夏雲、田代安定とともに笹森儀助をとりあげ、「三人の中では笹森氏の旅が最も豪快であった。独り旅程の遠く艱苦の多かったというのみで無い。何等官府の使命を帯びず、……単に一国の志士として、同胞生活の特に省みられざりしものを省みようとしたことは、其当時に在っても既に異常なる風格を以て目すべきであった」と激賞した。
 現在『南島探験』は、東洋文庫に入っていて、誰でも手軽に読むことができる。本書は、その校註者東喜望氏による儀助の本格的な伝記である。
 儀助は、学者でも、文学者でも、単なる旅行家でもなかった。彼を評するには、柳田の一文の中にある「志士」という言葉が一番ふさわしい。儀助が単身で半年にわたる沖縄旅行を敢行したのは、伊達や酔狂ではなく、南辺の国防の事情をさぐって、人々に実状を知らしめようとする愛国心からのことであった。その前年に軍艦に便乗して千島に趣き、『千島探験』(明治二六年)を刊行したのも、同じ目的からである。 儀助は、津軽藩の武士の子として現在の弘前市で生まれ、廃藩置県は県庁の役人となったが、事情あって役人生活を捨て、士族授産を目的として農牧社を設立、岩木山山麓に洋式の牧場をひらき、十年間その仕事に没頭した。しかしやがて農牧社の社長の地位を他人にゆずり、以後半年を旅で暮すことになる。
『南島探験』の旅は、真に死を賭しての大旅行だった。当時沖縄、とくに先島ではマラリヤが猛威をふるっており、その上ハブと舟旅の危険があった。マラリヤのため廃村寸前にまで追いこまれた石垣島の村々を訪ねてまわるあたりの『南島探験』の記述には、鬼気迫るものがある。
 彼は、『南島探験』の功により、明治二七年奄美大島々司に任命され、五年間その職にあった。その間、今でさえゆきにくい薩南三島やトカラ列島の島々を歩き、これまた現在においてもこれらの島々の研究の基本的文献となっている『拾島状況録』を書いた。そのあと彼は、東亜同文会の嘱託として朝鮮半島を歩き、晩年には第二代の青森市長となった。
 東氏は、青森図書館や笹森家に残る厖大な未刊の資料を精査して、この特異な人物の正確な伝記を書いている。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2002.07.06)

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ゴッホがサン・レミの精神病院時代に残した多数の模写作品の意味を問う、野心的なゴッホ論

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 ゴッホが生涯に、過去の巨匠たちの模写作品を多く残したことはよく知られている。とくにサン・レミの精神病院に入院していた間は、以前のように自然を描くために勝手に外出することもならず、肖像画のモデルもなかなか得られなかったので、模写をよく行った。これらの模写は、副次的なものとみなされ、美術史の上では無視されてきた。
 本書は、ゴッホにとって模写がどのような意味をもっていたのかを問い、彼の模写作品を、模写の歴史の中に位置付けようとした試みである。
 全体が三部にわかれ、著者は第一部において、模写の歴史的考察を行う。従来模写は、アカデミーにおける重要な教育手段であった。美術学校の学生たちは、美術館へ行って過去の名画を模写することをすすめられた。その際求められるのは、出来るかぎり原画に近づくことだった。このような模写を通じて学生たちは、巨匠たちの技術を学びとった。しかしこの場合、模写はあくまで真似であって、オリジナルではなかった。
 こうしたアカデミズムの規範に反抗し、模写を以て、過去の作品に対する画家たちの解釈であるとする考えが、ドラクロワ、クールベらを通して生まれ、後期印象派、とくにゴーギャン、ゴッホに至って定着した。
 第二部では、メインテーマであるサン・レミ時代のゴッホの模写作品が扱われている。彼にとって模写は、まず第一に、模写する作品、或いはその画家へのオマージュだった。彼はとくにレンブラント、ドラクロワ、ミレーを敬愛し、その強い影響を受けたが、模写の主たる対象も彼ら、中でもミレーだった。
 ゴッホの模写はほとんどが油彩だが、直接油彩の原画から模写したのではなく、白黒の版画・複製画を使った点が注目される。それは、精神病院に隔離されていて、美術館にゆけなかったからではなく、「制約されることなく、独自の模写の様式を創造しようという企て」に取り組むためだった。ゴッホは色彩こそ自己独自の表現手段とみなしていたので、過去の作品は、この色彩によって新たによみがえり、彼のオリジナル作品となったのである。
 第三部は「より広い文脈からの分析」と題され、ゴッホ以外の当時の前衛画家たち、セザンヌ、ルドン、ゴーギャンらの模写が論じられている。こうした模写の極点として、ピカソの「ラス・メニナス」その他の作品がとり上げられる。ここに至って模写は、模写というより、原画を利用した全く別の作品、すなわち換骨奪胎の域に達している。
 著者は、アメリカのセントルイス美術館の主任学芸員をつとめる女性。よくゆきとどいた、読みやすい本である。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2002.04.10)

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日本に残された唯一の秘境トカラ列島をめぐった旅の記録

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 鹿児島と奄美群島の間に点々と浮かぶトカラ列島は、現在の日本の中で、たぶんもっともゆきにくい場所であろう。空路は全く開けておらず、交通は村営の「としま」丸──トカラ列島は、行政上は鹿児島県十島村に属している──に頼るほかはなく、その定期船も週三便しかない。私が二十年近く前に訪れた時には、島々に船の接岸できる港がないため、鹿児島港から最南端の島宝島まで実に丸一昼夜かかった。今は大分スピード・アップされているが、それでも十五時間はかかる。しかも海は名にしおう七島灘であり、冬場や台風シーズンには欠航することも珍らしくなく、一旦欠航となれば、三日四日と島に足止めされてしまう。実際私はそうした憂き目にあった。

 本書は、日本に残されたこの唯一の秘境を二週間かけて旅した紀行である。
 トカラ列島は十四の島々から成るが、有人島は七つだけだ。旧盆にアフリカかメラネシアのものを思わせる奇抜な仮面が現われる悪石島、かってヒッピーたちが共同体を作り、また或る大企業がリゾート地にしようとして撤退した、今なお噴煙を吐く活火山のある諏訪之瀬島、周囲わずか四キロ、人口四十八人、海岸に温泉が湧き、小楽園を思わせる小宝島、平家伝説の色濃く残る宝島………どの島もそれぞれに個性的だ。

 不便なだけに、大都会ではとうの昔に失われたものがまだ豊かに残っているこれらの島での人々とのふれあいを、著者はのびやかな筆で描いている。最近のトカラ列島を知るための好適なガイドブックと言っていいだろう。巻末には、冒険家野元尚巳氏と著者との「途上にて──旅、冒険、そして自由」と題する対談がのっている。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2002.03.13)

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紙の本遠野物語の周辺

2002/02/04 18:15

柳田国男に佐々木喜善を紹介し、『遠野物語』の産婆役を果した明治の作家水野葉舟のこの物語をめぐる文集

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 柳田国男の『遠野物語』が、遠野出身の佐々木喜善からの聞書をもとに生れたことはよく知られているが、その佐々木を柳田に紹介し、佐々木の語るさまざまな遠野の怪異譚を同席して柳田とともにきき、自身でもそれを記録してあちこちに発表し、柳田より一足さきに遠野を訪れて「遠野へ」をはじめとする数篇の紀行文を残した水野葉舟という作家のことは、まだあまり知られていない。
 佐々木より三才年上、柳田より八才年下の水野葉舟は、最初は与謝野鉄幹の「新詩社」に属する歌人、詩人であり、明治四十年代には、男女の機微を描く洗練された都会的な作風の小説によって、流行作家と言っていい存在になった。早くから柳田の知遇を得、柳田が主宰者の一人である文学者の会合「竜土会」のメンバーでもあった。一方彼は、十代の終わりに一時キリスト教に帰依し、その経験から、「吾人の眼が見、耳が聞きする——五感の触接する世界以外に実に広く、且つ計りがたき大なる世界があると言う事」を思うようになり、超自然的な事象に強い関心をもって、怪談や幽霊話を蒐集するようにもなっていた。
 同じ下宿にいた佐々木と意気投合したのは、こうした怪談や幽霊話に対する共通の好みからのことで、水野はもう一人の同好の士である柳田の家へ佐々木を連れていったのである。

 本書は、水野の、『遠野物語』および佐々木喜善をめぐる文章、水野がその「心霊研究」のために集めた怪談を一冊にまとめたものである。『遠野物語』の成立を知る上での貴重な資料集であると同時に、佐々木との初対面の有様をいきいきと描く小説「北国の人」など、さすがに作家だけあって、文章自体もなかなか面白い。

 もう一つの読みものは、「怪談の位相」と題する編者横山茂雄氏の長文のあとがきである。その中で氏は、柳田、水野、佐々木の怪談や幽霊話への関心は、単なる個人的な好みではなく、当時の時代風潮であって、あちこちで怪談会が催されただけでなく、泉鏡花、長谷川時雨、小山内薫らに水野葉舟も加わって明治四十二年に『怪談会』なる一書が刊行されたり、心霊研究の書物が次々と世に出ている事実を指摘し、さらにこの風潮が、十九世紀末から二十世紀初頭にかけての「欧米での神秘世界探求の衝迫」と軌を一にし、その強い影響を受けていることを明らかにしている。とりわけ西欧におけるこうした風潮を代表するイギリスの歴史家、民俗学者アンドリュー・ラングの著作から柳田と水野が大きな示唆を受けていることへの言及は、これまでほとんどなされていないだけに興味深い。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2002.02.02)

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波郷の肖像

2001/12/17 22:16

息子の眼から見た伝説の俳人石田波郷の心あたたまる日常の姿

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 石田波郷というと、数々の絶唱を残し、若くして貧窮のうちに結核で死んだ俳人、という印象を持っている人々が多いのではなかろうか? 彼については、伝記はもちろん、小説も辻井喬氏の『命あまさず/小説石田波郷』を含め二冊まで出版されていて、まさに伝説に包まれた悲劇の俳人、という趣きがある。
 本書は、風貌が父波郷に瓜二つと言われた長男で、かつて日本経済新聞の論説委員であった著者が、いくらか距離を置いて描いてみせた、日常の波郷の「肖像」である。著者はすでに『わが父波郷』を上梓していて、これはその続編だ。

 家族の前に英雄なしと言われるけれども、ここに見られるのは、平凡とは言えないにしても、亭主関白で、わがままな、ごく当り前の父親の姿である。それぞれ波郷の俳句から題名を採った十二の章から成り、一章一章がテーマに従って書かれ、そのテーマに沿う波郷の句が多数引用されていて、おのずから彼の俳句を鑑賞できる仕組みになっている。たとえば、ザボンの異名である「うちむらさき」の章では彼の食生活が、「懐手」の章では、彼独特のポーズであった懐手が、「木葉髪」の章では、やはり彼のトレード・マークであった長髪がとりあげられ、それらをめぐるさまざまな挿話が語られる、という風に。

 「病める身は時間金持萩に読み」にちなんだ「時間金持」の章では、彼の多くの名作の舞台となった江東区砂町を去って、練馬に移ったころの彼の日常生活が語られる。ついでに書き添えると、彼が若くして死んだというのはこちらの思い違いで、何度も胸の成形手術を受けながらも、彼は五十六才まで生きたのであり、貧窮の時期はあったにしても、このころになると、練馬に土地を買って家を新築するだけの財力を持ち、晩年は物質的には比較的めぐまれていたのを知ることができる。病む身ながら体力も回復し、庭にさまざまな木を植えてたのしみ、終日書きものや選句のために書斎ですごしたあと、夕方ステッキをついて散歩に出かけ、時には駅近くの飲み屋でひっかかって帰ってくる、というような落着いた、静かな生活を何年かは送っている。家庭の食卓では無口で不気嫌なことの多い波郷も、少し酒がまわると口が滑らかになり、テレビの歌謡曲にあわせ、「箸で茶碗を叩いて調子を取りながら、お世辞にもうまいとはいえぬ歌を歌うこともあった」という。
 そんなふだん着姿を知って、急に波郷が身近に思われてくる本である。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.12.18)

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紙の本私の一宮巡詣記

2001/11/13 18:16

全国の一宮をめぐり歩いて、その原像を明かにしようとした著者の遺著

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 本書は先ごろ急逝した著名な民族学者大林太良氏の遺著で、雑誌『現代思想』に連載されていたものである。
 武蔵一宮は大宮の氷川神社、信濃一宮は諏訪大社、山城一宮は上下の賀茂神社というように、日本全国にわたって一宮と呼ばれる神社が存在する。現在でもそのほとんどが、その地方の崇敬を集める代表的な神社だ。このような制度、乃至取り決めがいつのころに定まったものか、著者の言うようによく分っていないが、平安時代初期にはその実を備えるようになっていたようである。ただし今でも一宮のはっきりしない地方、二つ、或いは三つの神社が本家争いのごときものをしている地方もある。北海道はもちろん、東北の青森、岩手、秋田の三県に一宮がないのは、当時、いわば皇威のおよばぬ蝦夷の地だったからであろう。

 一宮巡詣記としては、元禄時代の著である橘三喜の『一宮巡詣記』が有名だが、近年では文芸評論家川村二郎氏の『日本廻国記 一宮巡歴』(一九八七)がある。この二冊は実際に全国の一宮をめぐり歩いた記録だけれども、本書はやや趣きを異にする。もちろん著者は、その死のために果せなかった九州の一宮参拝をのぞいて、全国の一宮を実際に歩いてはいる。しかし本書の面目は、なんといっても文献の面にある。著者は、各神社に関する古今の文献をできるかぎり広く渉猟していて、そのため本書は一宮についての百科辞典といった体裁を帯びている。もう一つの特色は、そうした文献を通じて、それぞれの神社の原初の姿に迫ろうとしているところだ。
 一千年余の歴史を持つこれらの神社は、長い間に祭神がさまざまに変化した。元来はその土他の神や、その土地の豪族の祖霊を祀っていたものが、中古以来神道家と呼ばれる連中が介入して、どこの神社も記紀に登場する神々を祭神とするようになってしまった。著者は、積み重なった時代のヴェールを一枚一枚はぎとって、もとの信仰を復元しようとしているのである。たとえば、諏訪神社の祭神は公式には建御名方(たけみなかた)命だが、のちに上社の大祝につぐ神官となった、土着の豪族守矢家の祀っていた神が最初であろう、という風に。


 ただ、巡詣記と称しながら、著者が現地で、自分の目で見、耳できいた部分の記述が乏しいのが、読者としてはやや物足りない。もっともこれが、著者の学風なのであろう。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.11.14)

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早くから漢字を習得し、東アジア世界の国々と密接にかかわりあっていた弥生人の生活を浮き彫りにする

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 金印国家群の時代とは、奴(なの)国王が後漢の光武帝から、「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印を下賜された時代、つまり弥生時代のことである。この一事からも分る通り、弥生の人々は、中国や朝鮮半島と密接に交流しながら生きていた。本書は、このような交流を視野に収めつつ、彼らがどのような生活をしていたか、どのような家に住み、どのような仕事をし、どのような着物や装身具を身につけ、どのようなものを食べ、どのような祭を行っていたかを詳細に跡づけたものである。主たる手がかりは、最近続々と発掘されつつある当時の遺物だ。日本のものだけでなく、中国や朝鮮半島の発掘品にまで目配りが利いており、その上『魏志(ぎし)』「倭人伝(わじんでん)」をはじめとする乏しい文献も、各地に今も残る民俗事象も、十二分に活用されている。

 以前『縄文時代の商人たち』という本が出て、ちょっと話題になったが、縄文人がすでに海をわたっての交易を行っていたことが最近明かになりつつある。弥生人は、縄文人が開拓したネットワークを受けつぎ、それをさらに拡大した。たとえば富山県の糸魚川に産するヒスイ製の玉類が日本全国、沖縄にまでゆきわたっており、一方日本では沖縄の海にしか生息しないゴウホラ、イモガイといった貝を素材とする腕輪が、北海道の弥生遺跡から発見される、といった具合だ。このようなネットワークがあればこそ、稲作とそれに伴う信仰や慣習が、あっという間に日本中にゆきわたったのである。

 著者は「あとがき」の中で、「書き終えて弥生時代における日本列島の同時性と斉一性についていっそう感を深めている」と書いているが、弥生人は、私たちの想像以上に、あまり地域差のない、共通な暮しをしていたらしい。
 弥生人の衣食住は、本書を見るかぎり、これまで考えられてきたより豊かだ。しかし彼らはただむつみ合って暮していただけでなく、時には激しく戦い合った。首を斬られたり、大腿骨を鉄刀でえぐられたり、頭に銅剣を突き立てられたりした、凄惨な戦いを思わせる遺体も見出されている。そしてこうした戦いも、東アジア全体とかかわりがあったのである。

 ともかく、日本側に文献が全く残っていないにもかかわらず、弥生人の少くとも一部が早くから漢字を習得し、漢字世界の国々と交渉を持っていたことを、私たちは本書を通じて知ることができる。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.10.11)

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紙の本奄美 神々とともに暮らす島

2001/08/14 15:15

奄美在住の写真家による、奄美の人々の暮しを内側がみごとにとらえた写真集。

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 奄美大島に生れ、しばらく東京で暮したあとUターンし、故郷の島々の暮しや風景を撮り続けている写真家による写真集。

 奄美諸島は、もともとは琉球文化圏に属しながら、早くから沖縄とは切り離されて、薩摩藩の直接支配下に置かれてきた土地である。しかし人々の生活の基層を濃く染めているのは、今なお沖縄の色彩だ。山が深く、平野がほとんどなく、それぞれの村が隔絶されていたために、観光地化されることも少く、それだけ昔がよく残っていて、沖縄よりも沖縄らしい、というところさえある。ずいぶん人数は減ってしまったとはいえ、かつては琉球王朝から任命された神女ノロが、まだあちこちにいて、島民の信仰の中心となっている。人々は神々を敬い、村をあげてさまざまな祭をとり行う。本書のかなめをなすのは、こうした信仰や、祭に関する写真だ。浜辺にひざまずき、白波のあがる珊瑚礁の彼方の濃青の海に向い、手を合わせて祈る白衣のノロたち、豊年祭で踊り狂う人々、加計呂麻島に古くから伝わる諸鈍芝居という村芝居──国の無形重要文化財──で、ユーモラスな仮面をつけて演技する人たち、洗骨のため、死者の髑髏を両手でかかえる男、トゥール墓と呼ばれる風葬の墓、巨木の、爬虫類のような気根が石の蓋にからみついている。苔むした古いノロの墓………どれも島に住む人でなければ撮れない、島の人々の内面と深く結びついた写真ばかりだ。しかもアングルは鋭く、一枚一枚が素材から離れて独立している。

 風景の写真もふんだんにある。奄美の手つかずの海のなんという美しさ、ここには小瀬戸内海と言える場所があり、太古そのままの海に島々が影を映し、深く入りくんだ湾の奥には、村がひっそりと緑にうもれている。そしてそうした湾の入口には、きまって、と言いたくなるほど、立神と言われる岩が屹立している。海の彼方から村を訪れる神が、足がかりにする岩なのだ。奄美では、自然そのものが神のためにできているのである。

 村の生活のスナップも楽しい、一人の白髪の老人が、土間で別の白髪の老人の頭を刈っている。店屋のない村では、人々は床屋をはじめすべてを自分の手でやらなければならないのだ。酷暑の昼さがり、日かげの縁台で談笑する人たち、巨木の下へ椅子に坐わった、堂々たる百才の男、老人、とりわけ老婆の顔がいい。東京や大阪のような大都会では決して見ることのできない、自然と一体となって生きてきた人々の、皺までが神からの授かり物であるかのような顔。

 少いけれども、名瀬の町の写真もある。豚足の並ぶ市場、深夜のバー、本土へ帰ってゆく先生たちを送る埠頭の風景。本書に一文を寄せているノンフィクション作家の小林照幸氏の言うように、奄美はもちろん一方で現代の島なのであり、携帯電話もパソコンも当然普及し、一家に自動車が二台は当たり前、といった面も持ち合わせているのだ。

 居ながらにして、南の潮風の匂いを胸一杯に吸うことができるような写真集である。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.08.15)

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