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永江朗さんのレビュー一覧

投稿者:永江朗

5 件中 1 件~ 5 件を表示

紙の本アンテナ

2000/11/03 05:22

興奮しつつ一気に読んでしまった。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『アンテナ』は『コンセント』に続く田口ランディの長編第2作だ。といっても、『コンセント』の続編というわけではない。途中、作中人物によって『コンセント』に言及されることはあるが、登場人物も設定もまったく違う別の話となっている。

 前作の『コンセント』は英語でいうソケット、電源プラグを入れるあのコンセントからとられたタイトルだった。挿入する、つながる、パワーを供給するなど、さまざまな意味が込められていた。それに対して『アンテナ』はもっと直接的だ。電波をキャッチするあのアンテナである。電波といえば、電波系、あるいは精神分裂症患者がよく訴える妄想を連想せずにはいられない。

『コンセント』が「引きこもり」を題材としていたのと同様、『アンテナ』も社会的な事件や病いを扱っている。主人公の青年には自傷癖がある。その描写は目を背けたくなるほど陰惨だ。しかも、彼は幼いとき、妹が忽然と姿を消すという事件に遭っている。事件後15年も経つというのに、妹の行方はいまだに知れない。弟は精神を病み、入院している。なんという病気なのか、医者ははっきりとした診断を下さない。父親は死に、母親は新興宗教に凝っている。

 コラムニストとしての田口が、長年関心をもってきたことが、ここに凝縮されている。たしかに悲惨な家庭ではあるが、決して誇張された現実ではない。よく考えると、私たちの身近にあることなのだ。自傷癖のある友人がいたり、新興宗教に夢中になる親戚がいたり。まるで神隠しのような失踪事件はテレビでもたびたび報道されている。その意味で『アンテナ』は『コンセント』と同じく、私たち自身の小説でもある。

 だからこそ、この現代人の病いが集中したような環境のなかで、主人公の青年をどう動かそうというのか、田口ランディの読者としてはそこにもっとも興味をひかれる。田口が用いるのは身体だ。もっとあけすけにいってしまえばセックス、それもアブノーマルなSMにその突破口を見いだす。具体的には『アンテナ』をぜひ読んでいただきたいが、なるほどなあ、と感心し、感動する。

 こう言っちゃなんだが、私はこれまで少なからぬSMの現場を取材してきたし、SM関係者の話も聞いてきた。田口がこの小説で見せたことは、その体験と照らし合わせても非常に納得のいくものだし、私が取材の過程で気がつかなかったこともこの小説にはたくさんある。
『アンテナ』は怖い小説でもある。特に失踪した妹と精神を病む弟の関係が怖い。ふたりの影が重なり合い、やがて失踪の真相に迫っていく後半では、田口はついに触れてはいけないタブーの領域に踏み込んだ感がある。

 興奮しつつ『アンテナ』を一気に読んでしまったいま、3部作完結編となる『モザイク』の登場が待ち遠しい。
(永江 朗/bk1ブックナビゲーター)

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フェミニズムが生物化学の自然観を読み替える。女はみんなサイボーグだった。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 科学における自然観を問い直しつつ、男性優位社会を串刺しにする。いささか品の悪い言い方かもしれないが、本書を一言で言いかえるとこういうことだろうか。

 著者のダナ・ハラウェイは主に霊長類を研究する生物学者で、カリフォルニア大学サンタクルーズ校では科学技術論とフェミニズム理論を教えている。

 本書には10本の論文が収められている。動物社会学、霊長類学、社会生物学、免疫学などが、戦闘的フェミニズムの観点から政治的かつ批判的に読み替えられる。その読み替えの手腕は、「おおっ、こういう読み方があったのか」という、まさに目からウロコが落ちる。たしかに最新の免疫学なんて、自己/非自己の認識理論、非自己は皆殺しにしちゃえ、ってんで、まるでB級SF映画だもんな、などとつぶやいたりして。

 なかでも核となっているのは、第8章の「サイボーグ宣言」だ。85年に書かれたこの論文で著者は、SFに登場するサイボーグを、機械と生体の混合体ととらえる。機械でもなければ、生物でもない、どちらでもない存在。サイボーグの登場によって、それまで自明の理であった生物と非生物の境界線は、限りなくあいまいになってしまった。

 サイボーグの性別を問うことは意味があるだろうか。それがヒトのメスの形態をしているからといって、そのサイボーグが女であるといえるだろうか。サイボーグについて考えるということは、それまで自明の理であった男性/女性の境界線もあいまいにしてしまう。

 論文が書かれて15年たった現在から見ると、「サイボーグ宣言」はもはや思考実験でも空想の産物でもない。人工臓器、クローン技術、遺伝子工学などと臓器移植の発展はサイボーグを現実のものとしたし、性同一性障害の「発見」は性を男性/女性に二分することの限界性を明らかにした。

 なーんて、やたらと難解な言い回しの多い本なので、ついこんな口調になってしまったけど、本書を読みながら私の頭に常にあったのは、レムの『ソラリスの陽のもとに』とディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』という2冊のSFだ。

 前者は、人間の意思を具体化してしまう惑星の話。主人公の目の前には自殺した妻があらわれる。彼はそれが「本物」の妻でないと知りつつ、彼女と暮らそうとする。

 後者はアンドロイドと恋に落ちる人間の話。生物/機械の二分法的世界ならば、機械を愛するなんてフェチな変態野郎ということになるが、このアンドロイドは自分がアンドロイドだと気づいていないくらい精巧なアンドロイドで、もちろん見かけも人間そっくり。で、恋に落ちた人間はアンドロイド狩りが職務である男なのだから、これは悲恋である。

 前者は『惑星ソラリス』として、後者は『ブレードランナー』として映画化された。どうせ読むなら、この2冊、あるいは2本のビデオも一緒に見ると、おもしろさの相乗効果がありますぞ。 (bk1ブックナビゲーター:永江朗/フリーライター 2000.08.26)

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紙の本人権の彼方に 政治哲学ノート

2000/07/10 20:49

いまもっとも注目されるイタリアの哲学者が問う政治哲学。これは現代日本のわれわれこそ読むべきだ。

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 アガンベンの新著がついに出た! こう聞くとそわそわせずにはいられない。フーコーやドゥルーズ亡きあと、いまもっとも刺激的な仕事をしているヨーロッパの哲学者といえば、アガンベンとトニ・ネグリ、スラヴォイ・ジジェクぐらいのものだろう。ニューアカ時代に現代思想の洗礼を受けた中年男としては、じつに心おどりますなぁ。

 ジョルジョ・アガンベンはローマ生まれの58歳。現在はヴェローナ大学の教授だ。これまで日本語訳は『スタンツェ』がありな書房から出ているだけ。ベンヤミンを思考の補助線にしつつ、哲学や美学を語っていくという、いかにもヨーロピアンなスタイルだ。

 政治哲学を論じた主著『ホモ・サケル』がもうすぐ以文社から出ることになっているが、本書はそのスケッチのような内容で、新聞や雑誌に発表された、つまり一般を対象にした小文集だ。翻訳も『ホモ・サケル』と同じ高桑和巳だ。これを読んで、『ホモ・サケル』に備えよ、ということだね。

 アガンベンが主題としているのは、私たちが生きること、生きていることそのものを管理・抑圧しようとする政治を、哲学はどう捉えればいいのかということだ。

 たとえば表題にもなった「人権の彼方に」という文章は、ハンナ・アレントの『帝国主義』を思考の補助線にして、国家と人権について考えたものだ。「国家と人権だって? けっ、関係ないね」と思ったら大間違い。いま私たちのまわりでは、石原慎太郎都知事の三国人発言、森喜朗首相の神の国発言・国体発言など、3流政治家たちによる国民国家を前提とした暴言が連発されている。しかし、国民国家が国民と国民ならざるものを分別し、国民ならざるものをガイジンや不法入国者や難民や無国籍者として排除し、あたかも彼らには人権などないようにふるまうことこそ、アレントが『帝国主義』で指摘し、アガンベンが本書で追求することそのものではないか。

 「われわれは、無国籍者と難民を区別するのに慣れている。しかしこうした区別は当時(註ナチの時代)は一見そう思われるほど単純なものではなかったし、今でもやはりそうである」とアガンベンはいう。まるで石原慎太郎の三国人発言について語っているかのようだ。石原は、三国人は不法入国した外国人のことで、自分の言葉の一部だけを報じるジャーナリズムが悪いと主張した。しかし、アガンベンがいうように、ことの本質は不法入国か合法的入国家などにあるのではない。国民国家の名のもとに、私たちを分断しようとする石原とその付和雷同者が何を狙っているのかにある。ユダヤ人問題はイスラエル建国で終わったのでもないし、国民国家問題はナチ・ドイツが壊滅したときに終わったのでもない。

 うーん、『人権の彼方に』を読んでいたら、ますます『ホモ・サケル』を読みたくなってきたぞ。 (bk1ブックナビゲーター:永江朗/フリーライター 2000.7.11)

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宮脇檀の住宅建築が、美しい写真と図面でよみがえる。スタイリッシュだった宮脇美学がすみずみまで。

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 晩年の宮脇檀さんに何度かお目にかかったことがある。白熱灯を使った間接照明の薄暗い部屋で、宮脇さんは脚を組んで寝そべるように座って話した。とてもかっこよかった。できることなら、こんなふうに年齢を重ねたいものだと思った。

 話の内容はなかなか過激だった。たとえば、「中古マンションを買うときは、夜、下見をしなさい。蛍光灯の部屋の多いマンションはよしたほうがいい。明るさをありがたがるのは貧乏人だけ。蛍光灯の多いマンションは、将来スラム化する。」なんて。「闇を演出するほうが、快適な空間を作れます」なんていったほうがカドが立たないのに、あえて挑発的で傲慢ないいかたを選ぶ。しかし、宮脇さんがいうと、嫌味がないのが不思議だ。ハンサムでかっこいいからだろうか。98年、宮脇さんは62歳で亡くなった。

 宮脇檀さんは最後まで住宅を愛した建築家だった。そして、亡くなるまでたくさんの住宅を設計した。これは有名建築家としては異例のことだ。というのも、設計費は総工費のパーセンテージとして算出されるから、小規模な個人住宅はやればやるほど赤字になる。事実、宮脇さんは「住宅の仕事が増えると、事務所のスタッフが青くなるんだよ」と苦笑していた。それでも住宅を作り続けたのは、住宅が好きだったからだ。

 この『宮脇檀の住宅』には、64年の「おにぎりの家」から2000年(つまり宮脇さんの没後)に竣工した「長部・石川邸」までの全住宅が収録されている(ただし、建築専門誌などジャーナリズムに発表されたもの以外はデータのみ)。基本的な構成は、代表作の写真と図面を年代順に並べ、そのあいだに「宮脇檀の言説」として建築専門誌に発表した文章の抜粋が載っている。植田実や中村好文による座談会も収録されている。

 魅力的なのはなんといっても各作品の写真だ。宮脇さんはたしかに名エッセイストだったけれども、それでも彼が設計した住宅の美しさやチャーミングさには及ばない。使いやすさとかかっこよさとは別次元の、造形としての美しさ、モノの塊としての迫力が伝わってくる。「松川ボックス」の屋根の勾配や柱と床が作る空間の緊張感、「グリーンボックス#2」の、立方体に円形の窓を穿った人を喰ったような佇まい、「Choi Box」のかわいらしさ。ページを繰るごとに気分が高揚してくる。

 宮脇さんがこんなことをいっていた。「大金持ちでも貴族でもない個人が、住宅の設計を建築家に依頼するなんて、ヨーロッパなどではまったく考えられないことなんだよ。でも、それが可能なんだから享受しなくっちゃ」しかし、この本には施主との打ち合わせ回数も載っていて、たとえば「ブルーボックス」などは81回にも及ぶ。家を建てるということは、八百屋で大根を買うようにはいかないのだ。 (bk1ブックナビゲーター:永江朗/フリーライター 2000.7.11)

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バンビーノ

2000/07/10 20:49

大人顔負けの口をきく、小生意気な子どもたちの小説。これをY・A、児童文学にしておくのはもったいない。

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 主人公はハルニワ、コウタロウ、トシオの3人の男の子。3人とも小学5年生だ。それが10歳とは思えないような小生意気な口をきくのである。たとえばハルニワとコウタロウが朝、学校で顔を合わせたときの会話。「おまえチャリは?」「今日は歩き」何気ない会話だけど、まるで高校生か大学生と同じ口ぶりだ。いや、それがいけないといってるんじゃない。小生意気だからこそいいのである。こういうところがリアルだなあ、岡崎祥久ってセンスがあるなあと思ってしまったのである。

 だいたい、いままで子どもを主人公にした小説といえば、妙に幼稚で子ども子どもしたガキばっかりが出てきすぎてやしなかったか? 悪ガキだって、粗暴だけど心の中は天真爛漫、みたいな。しかし、それってウソ臭いぞと私は感じていた。

 たとえば自分たちが子どものころを振り返ってみるといい。まあ、30年も昔のことで、だいぶん記憶も曖昧ではあるけれども。あのころって、自分ではいっぱしの大人、身体は小さいけど、知識量もまだまだ少ないけど、でもハートはいっぱしの大人だぜと思っていたはずだ。ときには大人顔負けの発言もした。私はといえば、小学校5年生のときは憲法に夢中だった。第9条と自衛隊との関係が納得できなかったし、個人の自由が認められているのに中学校では強制的に丸坊主にされる現実が受け入れがたかった。その意味で、この『バンビーノ』は珍しくリアルなガキの登場する小説だ。

 もっとも、それだけでは物語にならない。岡崎祥久はヘンテコな仕掛けをほどこした。トシオはどうやら本物の小学生ではないらしいのだ。ある日、目覚まし時計を買いにいったばかりに、呪いをかけられてしまった。そして子どもに変身してしまったというのだ。トシオはTJ(ティー・ジェイ)という、ちょっといい女と暮らしている。TJは母でも叔母でもなく、TJのオンナだというのだが……。

 児童文学に不可欠な要素、「対決」もちゃんと用意してある。二つはリアルワールドでの対決だ。飼育委員になったトシオが、乱暴な雄鶏のワカと対決するエピソード。もうひとつはトシオがクラスのなかで孤立していじめに遭うというエピソード。しかし、岡崎はこの二つだけでは満足せず、非現実世界での対決も用意する。それはトシオが子どもにされてしまった「呪い」との対決だ。この非現実世界のエピソードを持ってきたことによって、『バンビーノ』はがぜんファンタジーの色彩も帯びてくる。

 この小説をY・A(ヤングアダルト)とか児童文学というジャンルでくくるのはもったいない。そうしてしまうことで、食わず嫌い、読まず嫌いの人が出るのを私は怖れる。主人公は10歳の子どもだけど、これはとてもおもしろくて不思議な「小説」だ。 (bk1ブックナビゲーター:永江朗/フリーライター 2000.7.11)

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