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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

野村一夫さんのレビュー一覧

投稿者:野村一夫

13 件中 1 件~ 13 件を表示

歴史的な分水嶺としてのデジタルデバイド

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ふつう「デジタルデバイド」は、情報ネットワークへのアクセスができる人とできない人の格差が広がることを意味する。たとえばインターネットに接続されたパソコンを利用できる人がさまざまな恩恵を受けることができて、よい就職に恵まれ、仕事や生活が豊かになっていくのに対して、社会的環境・経済的環境のせいでインターネットにアクセスすることができない人は置いてきぼりを食うといったことである。最近問題になっているのは階層間や国家間でそのような格差が広がることだ。言ってみれば、パソコンを使える者はますます富み、使えない者はますます貧しくなるという悪循環の問題である。
 しかし、著者によると、それは「狭義のデジタルデバイド」だという。これまでは普及過程の初期にあたるため、貧富の差などがパソコンの所有に露骨に反映していた。だからそれを過大視するのは間違っているし、元になったアメリカでの議論は多分に政治的なものだったという。つまり経済的背景も問題提起もアメリカ型の問題なのだ。
 これに対して著者が迫るのは、日本がアメリカ型の情報社会を追随するのかどうかという選択だ。注意しなければならないのは、これはたんに情報化のパターンの選択ではなく、インターネット型情報ネットワークを社会基盤とする社会総体の再編成を自覚的におこなうかどうかの選択になるということだ。
 結論から言うと著者はアメリカ型ではなく北欧型の解決をめざすべきだと提案する。スウェーデンではすでに「情報ネットワークの日用品化」が進んでいるが、スウェーデンにならって、リアルスペース特有の制限から自由な「ネットワーク隣接性」を生かした産業構造への転換をはかるべきだとする。本書ではそれを「共創社会(コンセンサス・コミュニティ)」と呼ぶ。
 世界システム再編成の中で、なぜ日本は情報ネットワークへの対応ができないのかを問う。これほどその必要と可能性が叫ばれているにもかかわらず、である。著者は原因を二点指摘する。ひとつは再分配経済が相対的に低いこと、もうひとつは「私事化」「パブリックなもの(公)に対する判断停止」である。そのため、日本は、歴史的な分水嶺としてのデジタルデバイドの前で立ちすくんでいるというのが著者の認識である。
 リテラシーの強調やi-modeへの批判的まなざしなど共感できる論点も多い。当然のことながら「儲かれば勝ち」組のビジネス系イケイケ路線の視野の狭さとは無縁の本であり、また、不平等性を指摘して「われ加担せず」スタンスを披露するだけのアナクロ本などとも一線を引いたところにある真摯な問題提起である。

(野村一夫/ソキウス 2001.2.28)

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環境問題の社会史

2000/08/22 22:12

被害−加害関係を軸にした社会学的な環境問題史

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 環境社会学には二つのパラダイムがある。ひとつは、北米の社会学者たちが、これまでの社会学を「人間特例主義だ」と批判して新たに提唱したもの。もうひとつは健康被害に焦点を当てて環境をめぐる紛争研究に焦点を当てたもの。
 前者(環境主義的社会学)は注目すべき論点ではあるものの、狭小な国土に人口が密集している日本にそのまま輸入できるかどうか、議論のあるところだ。それに対して後者(環境問題の社会学)はまさに公害先進国日本という文脈から、世界に先駆けて生成した系譜だ。これについては、環境主義の原典となったレイチェル・カーソン『沈黙の春』(1967年)よりも研究史ははるかに古い。
 飯島氏は後者の立場から、30年以上にわたって環境問題を研究してきた第一人者である(環境社会学会初代会長)。本書は、歴史的アプローチを得意としてきた著者の本領発揮とも言える社会学的環境問題史の総集編。この種のもので冗長なものはいくつかあるが、これだけ包括的にその歴史をコンパクトにまとめたものはない。文献リスト・文献案内も・索引も充実していて、環境問題を語るさいのハンドブックとして重宝しそうだ。
 流行としての環境問題はたかだか十数年の話だが、江戸時代からいくつもの節目をへて、今日私たちが目の当たりにしている環境の現実と環境問題があるということを一気に俯瞰させてくれる。
 意外におもしろかったのは、江戸時代と明治時代の環境対策の変化だ。鉱毒による環境破壊・健康被害としては足尾銅山事件が有名だが、じつは鉱毒問題は江戸時代からあった。しかし江戸時代には、ひとたび農民たちが被害を訴えると、たいていの藩は鉱毒の元をつきとめ、原因となった山を閉じたのである。それが明治の殖産工業政策の中で、しだいに健康被害を無視するようになってゆく。労働組合でさえ無視するようになって、私たちのよく知っている水俣の現実にいたるのである。日本が国民国家への道をめざして何を失ったかがよくわかる。
 本書には、もうひとつの軸があって、それは環境行動あるいは環境運動である。健康被害を受けた当事者たちによる被害者運動や住民運動だけでなく、エコロジカルな思想に基づく市民運動などによって、連綿と環境は守られてきたし、環境破壊や健康被害に対して異議申し立てがおこなわれてきた。歴史は人間がつくる——環境問題もまた、そうである。
(野村一夫/ソキウス)

【目次】
序章 環境問題の社会史の視点
第1章 江戸時代の環境問題
第2章 殖産・軍事立国と公害・環境問題
第3章 戦後復興期の環境問題
第4章 高度経済成長と大量消費の時代
第5章 環境運動と環境対策
第6章 地球環境問題とアジア地域・開発途上国の環境
第7章 地球環境問題と少数民族・先住民族
第8章 高度消費文明と溢れる廃棄物
終章 環境問題への視点と歴史的把握の関係

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紙の本メディア・スタディーズ

2000/07/24 18:37

最前線を走ってきた編者による、ひとつの方向性の提示。

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 すでに80年代からそのきざしはあったものの、90年代以降におけるメディア論のフレームワークは二転三転していると言ってよい。行動科学からの離脱、歴史への遡行、そしてカルチュラル・スタディーズのインパクト。個々の論点はそれなりに受け止められても、メディアについて語るさいのフレームワークがどうにも定まらない。かつては居心地のよかったメディア論という土俵が今日とても居心地の悪い場所になっている。
 本書は、その最前線を走ってきた編者による、ひとつの方向性の提示である。同人誌的な濃さと論争的な広がりが感じられる、しきり直し的研究構想の試み。カルチュラル・スタディーズの元祖ウィリアムズや大御所モーレーの翻訳も気が利いている。まだまだ続きがありそうな気配である。 (野村一夫/ソキウス)

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21世紀の地球社会にどう立ち向かうか

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 アメリカの同時多発テロ事件以降というもの、地球社会というスケールでものごとを考えていかないと、にっちもさっちもいかないらしいことが誰の目にも明らかになった。もちろん、みんな、そんなことぐらいわかっている。問題は「では、どう考えればいいのか」だ。
 ギデンズは現在もっとも著名かつ多作な社会学者である。守備範囲はきわめて広く、古典的社会理論から国民国家論・暴力論・リスク社会論などを展開している。かれの理論的全容については最近翻訳された『ギデンズとの対話』(而立書房)で手早く知ることができるようになった。社会学者としては異例なことだが、イギリス・ブレア政権のブレーンでもある。
 新著『暴走する世界』では、グローバリゼーションがたんに国民国家のしばりをゆるめるだけでなく、地域的ナショナリズムを高揚させるものでもあること、そして現実に進行する不平等の拡大が多様な形で問題を発生させているという認識から始まる。にもかかわらず国家は旧時代の風化した制度(貝殻制度!)を捨てきれないでいる。ギデンズは貝殻制度的な思考をやめて、このさい、国家、家族、仕事、伝統、自然についての語り方自体を変えるべきだと提案するのだ。
 たとえば自然に存在するリスクより、人間の知識の深化によって新たに生じる人工リスクこそが予測不可能なのだということ。伝統なるものとして真理視されて語られているものが、じつはここ2世紀に発明された近代の産物であること。たとえばスコットランド・キルトは産業革命の産物である。このように多くの伝統が「ねつ造された伝統」であると考えれば、「伝統に還れ」と主張する原理主義もまたグローバリゼーションに寄生する近代的な産物なのである。
 暴走する世界をどう制御するのか。そもそも可能なのか。ギデンズは「できる」と言う。そのためには、どうやら私たち自身がコスモポリタンとして地球社会を学び直さなくてはならないようである。(ソキウス/野村一夫)

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老いに投影される近代

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 本書は新潟で地域医療に取り組んでこられた黒岩氏が、四人の著名な論客との対談をまとめたものです。対談相手の鎌田慧氏がうまく聞き出していますが、黒岩氏は、樺美智子さんが死んだ1960年6月15日の国会突入のさい東大医学部自治会委員長だったそうで、やはり突入して意識不明の重体になったという逸話の持ち主です。その後、医師として新潟に職をみつけて地域医療ひとすじに活動してきたということです。
 対談相手は野田正彰・山田太一・養老孟司・鎌田慧の各氏。養老氏とは同級生のなじみで、ざっくばらんな話がつづいていて、それはそれでおもしろく読めますが、考えさせられたのは野田正彰氏の話でした。

 野田氏は、近代日本文化が終始、日本人の豊かな感情の流れを阻害してきたと指摘しています。「悲しむ力の喪失」というフレーズが使われています。しかし、感情を表現せずにうまく抑圧できたとしても、かわりに身体がそれを表現するというわけで、胃潰瘍やストレスあるいは「情動」という形でそれが現象する。

 今のお年寄りには「働けなくなれば、死んだほうがいい」という価値観があり、「迷惑をかけたくない」という価値観が非常に強いとのこと。これって、一見、しっかり自立した物言いのように聞こえますが、じつはきわめて近代的かつ国民国家的な価値観です。個人としての自己ではなく、近代がつくった「国民のひとり」としての自分を肯定しているにすぎないというのです。だからこのロジックで行けば、老いた段階で自殺するしか本当の解決はないことになります。この点については野田氏は高学歴者の多い有料老人ホームで自殺者が続出した経験をもっており、黒岩氏も自殺するのは独居老人ではなく家族と同居している老人だと指摘しています。
 現在の老人はこうした価値観をもった典型世代にあたります。戦争体験もありますが、同時に無反省に近代化路線でやってこれた世代です。やはり老いというものは残酷といわざるを得ないですね。それは老いそのものが残酷というわけではなく、その人の人生を投影し集約してしまうからです。

 野田氏との対談だけでなく、他の三人の対談も、今の老人がどのような人生をどのような態度で送ってきたかについて、まったく美化することなく率直に語っています。とくに自分の戦争体験についての処理の仕方については一様に批判的です。これによって、老いや老人像は一律でもなければ普遍的でもなく、世代によってまったくちがってくることがわかってきます。老いを一般化して論じることは意味がない。
 では、団塊世代の老いはどうなるのでしょう。シラケ世代の老いはどうでしょう。そしてバブル世代は? そう考えるのが正しい論じ方なのでしょう。ここはひとつ、数十年後に議論される対象になったつもりで、本書を読み替え、逆算的に現在を生きる戦略を考えた方がよさそうです。いつまでもドッグイヤーでやっていては、老いの総決算で苦労しそうな気がしてきました。(ソキウス/野村一夫 2001.10.26)

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紙の本フェミニズム・スポーツ・身体

2001/09/28 03:15

スポーツする身体・遊ぶ身体をカルスタする

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 今日は<スポーツする身体・遊ぶ身体をカルスタする>のテーマでまったくちがう二冊の本をご紹介します。ひとつはアン・ホールの『フェミニズム・スポーツ・身体』、もうひとつは松田恵示『交叉する身体と遊び』です。いずれもスポーツする身体をめぐる文化状況を読み解こうとするもので、前者はジェンダー、後者は遊びを解き口としています。
 ホールはもともとカナダの体育教師だった人ですが、心機一転イギリスで(まだ誕生期にあった)カルスタを学んで「女性とスポーツ」研究の第一人者になった人です。最初の章で彼女の知的遍歴が述べられています。素朴な疑問からしだいにフェミニズムへと至るプロセスは、スポーツ研究そのものの深化と見てよいでしょう。要するに理論的に考えるということが欠落していたのです。今でも少数派のようですが、どんなスポーツも「男と女」の仕分けが大前提になっているのですから、ジェンダー論的研究は大きな支柱となるべきでしょう。既存の研究成果もていねいに紹介され論評されていますので、「女性とスポーツ」研究入門としておすすめできます。
 他方、松田さんの本では「遊び」を軸に、身体の文化社会学を展開したもので、こちらは題材も議論も、よりメディアよりでポップです。「ピアノ演奏のパラドックスと『ヂベタ座り』」という奇妙なタイトルの章が典型的なのですが、ピアノ演奏という身体的活動をスポーツと見ない〈まなざし〉のパラドックスを問うという姿勢が本書の通奏低音になっています。大学生に体育教師を作画してもらって「体育という経験」を調査した章や、『タッチ』の物語分析は楽しめました。松田さんは、作風としては「井上俊」的ですね。後継者として(?)注目しておきましょう。 (野村一夫/ソキウス 2001.09.28)

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スポーツする身体・遊ぶ身体をカルスタする

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 今日は<スポーツする身体・遊ぶ身体をカルスタする>のテーマでまったくちがう二冊の本をご紹介します。ひとつはアン・ホールの『フェミニズム・スポーツ・身体』、もうひとつは松田恵示『交叉する身体と遊び』です。いずれもスポーツする身体をめぐる文化状況を読み解こうとするもので、前者はジェンダー、後者は遊びを解き口としています。
 ホールはもともとカナダの体育教師だった人ですが、心機一転イギリスで(まだ誕生期にあった)カルスタを学んで「女性とスポーツ」研究の第一人者になった人です。最初の章で彼女の知的遍歴が述べられています。素朴な疑問からしだいにフェミニズムへと至るプロセスは、スポーツ研究そのものの深化と見てよいでしょう。要するに理論的に考えるということが欠落していたのです。今でも少数派のようですが、どんなスポーツも「男と女」の仕分けが大前提になっているのですから、ジェンダー論的研究は大きな支柱となるべきでしょう。既存の研究成果もていねいに紹介され論評されていますので、「女性とスポーツ」研究入門としておすすめできます。
 他方、松田さんの本では「遊び」を軸に、身体の文化社会学を展開したもので、こちらは題材も議論も、よりメディアよりでポップです。「ピアノ演奏のパラドックスと『ヂベタ座り』」という奇妙なタイトルの章が典型的なのですが、ピアノ演奏という身体的活動をスポーツと見ない〈まなざし〉のパラドックスを問うという姿勢が本書の通奏低音になっています。大学生に体育教師を作画してもらって「体育という経験」を調査した章や、『タッチ』の物語分析は楽しめました。松田さんは、作風としては「井上俊」的ですね。後継者として(?)注目しておきましょう。 (野村一夫/ソキウス 2001.09.28)

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紙の本ロックミュージックの社会学

2001/09/17 22:15

ロック〈場〉の理論の説明力

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 本書は若手社会学者によるロックの文化史です。ロックと言えば、2000年12月に社会学者の渡辺潤さんによる『アイデンティティの音楽』(世界思想社)が刊行されていましたが、渡辺さんは団塊世代。ビートルズを同時代現象として体験した世代でした。本書の南田さんの方は1967年生まれ。パンク世代あたりでしょうか。本書前半ではロックミュージックの先端部の歴史的展開を論じ、後半で60年代以降の日本のロックを年代順に論じています。

 本書の特徴は、明確に理論的なフレームワークを設定していることで、事実を説明なく時系列に並べるようなことはしていませんし、場当たり的なロック批評とも異なります。著者はメタレベルの解釈図式が必要と考えているようで、本書ではブルデューの卓越化の理論が援用されています。

 つまり、ロックの実践者たち(プレーヤーやリスナー)が「これがロックだ」という判断基準には三つあるというのです。「アウトサイド」「アート」「エンターテイメント」がそれです。ロックという〈場〉においては、この三つの指標において卓越化が競われているというのが著者の枠組みです。この三指標は単純ですが、それなりに説明力があって、欧米のロックの歴史にも、日本のポピュラー音楽史にも、うまく適用できているように思いました。

 要するに、ロックって、「オレたちの音楽は〈やつら〉とはちがうんだ」という主張の繰り返しで、いつも直前の世代に対して差異化がなされ、「そうではなくて、こうなんだ」というときに、三つの指標のどれかがもちだされるということです。三国志ではありませんが、ものごとは三国鼎立したときにこそダイナミズムが生じるもの。「あれか、これか」の二分法では、こうはなりません。

 古いことも新しいことも、じつによく調べてあって、それらの素材を三指標の変転として説明してある点で、なかなか社会学的なロック論だと思います。この場合の「社会学的」とは、いささか論理整合的なこと、そして、対象との距離の取り方のことです。私は好感をもちましたが、リスナーとしては、さらにはみだすものもあるでしょう。

 たとえば、たまたま、ここのところ70年代電気時代のマイルス・デイビスのライブと、71−2年のキングクリムゾン(いわゆるファンキークリムゾン時代)のブートを聴いていたのですが、そこで感じたのが、前者は相互作用原理つまり成り行きしだいで動く音楽(つまりジャズ)であるのに対して、後者は音的にはアドリブの嵐であるにもかかわらず、ある種の責任原理で動いているということなんです。私なんかはそれをロック的と感じるのですが、こういう音楽内在的な感覚をどのように緻密に汲み上げるかというようなことです。

 ともあれ、アメリカでの衝撃的なテロ事件を目の当たりにしていると、闘争の場というものが、ロックという文化的空間において展開されることの平和を想います。戦場でロックは語れません。(bk1ブックナビゲーター:野村一夫/ソキウス http://socius.org 2001.09.18)

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大人になることの困難をみつめよう

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 今年も成人式がやってきた。たまたま20歳になった男女が集められて、税金でなにやらサービスを受ける日になっているが、むしろ今の世の中で「大人である」とはどういうことなのか、じっくり自称大人たち自身が考える日にしたいものだ。
 さて、本書はイギリスの青年社会学の研究書。じつは近年大いに読書界をにぎわせた「パラサイト・シングル」論の知的源泉のひとつとなった本でもある。ちなみに『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書)の山田昌弘氏は、訳者の宮本みち子氏らとの『未婚化社会の親子関係』(有斐閣)という共同研究でヤングアダルトの生態を追っていた。「パラサイト・シングル」はその中で「発見」されたものだ。
 『若者はなぜ大人になれないのか』によると「大人である」とは「自立したシティズンシップをもった状態」である。シティズンシップとは、言ってみれば「社会への完全な参加」のことだ。さまざまな権利と義務を果たす市民であること。雇用され、税金を払い、それなりの政治的権利と社会保障の対象となることを意味する。
 日本では「成熟」という心理学的基準で「大人であること」を測ろうとし、一昔前の「アダルト・チルドレン」の流行に見られるように、内面的な負の記憶が「大人であること」を阻害するかのような語りが一般的だけれども、本書の著者たちはそんな主観的でナイーブな言説には一顧だにしない。
 若者が大人になれるかどうかは、雇用・教育・社会保障といった公共領域、家族という私的領域との関係に大きく左右される。イギリスでは、雇用状況の悪化によって経済的自立が果たせず、教育課程の長期化によってますます宙ぶらりん状態がつづき、しかも離家してしまえば数々の保障が得られない社会保障制度になっている。若者に自己決定権があるようでいて、じつはアクセスの可能性が狭くなっているのだ。そのため大人への移行期間が長期化し、その分、家族への依存も長期化している。だから「大人になること」が困難になっているというのである。
 要するに、ある程度恵まれていなければ大人になれない。これが著者たちの言い分である。その点で、女性や高齢者や障害者やマイノリティも、この点では若者と同様ではないかと示唆する。
 この見方を日本に応用できるだろうか。日本では心理学的な「成熟」の基準で見るから「豊かであるがゆえに自立できない」とされてきたが、シティズンシップを基準とする本書の主張は完全にその逆になる。おそらく五年前であれば「それはイギリスだから言えるのさ」で済んだかもしれない。しかし、少子化が進んでほぼだれでも進学できる大学全入時代、ところがその出口では丸抱え的正規雇用がもはや高嶺の花になってしまっている現在、本書の分析は妙にリアルに思えてくるのである。大人になるのが困難な日本社会を若者たちは生かされているのかもしれない。ナイーブな若者たちの心象風景はその結果にすぎないと考えた方がよさそうだ。
 では、この困難をどうすれば切り開くことができるのか。そんなことを考えるヒントとして、橋爪大三郎『幸福のつくりかた』(ポット出版)を最後に付け加えておきたい。あれこれ読書してこの社会について思いめぐらせるのも、ひとつの大人のつとめである。

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おいしいところだらけの社会学

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 それでいいのだ。社会学はおいしい学問である。しかし、世の中の社会学者も知識人もマスコミも読書人も、それをうまく伝えていない。世間の多くの人たちも勘違いして、おもしろがっていたり、訳知り顔でバカにしていたりする。
 本書はそんなすべての人たちにおすすめしたい画期的な入門書である。この本のいいところは、
(1)ひとりの社会学者が勉強して書いていること。
(2)相当に広いテーマを網羅していること。
(3)社会学への愛情があること。
(4)秘密を知ってしまった人特有の伝達願望があること。
(5)「それを言っちゃあオシマイよ」というようなことを言ってしまうこと。
 要するに、知りすぎた者は語れないのだ。細かいことにこだわってしまうからだ。ある程度、その研究自体から距離が置ける先生の方が思い切った説明ができるものだ。つまり、わかりやすい。そしてオーソドックス。「それを言っちゃあオシマイよ」が大事なのは、それこそ社会学の本質だからだ。それを可能にするのは愛情とユーモアである。そのあたりは、共著『パラドックスの社会学』で発揮された著者の面目躍如たるところである。

(野村一夫/ソキウス)

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紙の本幸福のつくりかた

2000/12/24 13:30

言葉と行動が作品化する〈幸福な社会とわたし〉

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 世紀末2000年にあって相次いで著作を公刊中の橋爪氏の、今回はいささか突き抜けたタイトルをもつ講演集である。7つの講演とエッセイが「幸福な学校」「幸福な社会」「幸福なわたし」の3章立てに整理されている。この10月に出たベラーらの『善い社会』(みすず書房)を彷彿とさせる、一種の現実主義的な社会構想論である。

 3つの章をまたぐ橋爪氏の主張点は明確だ。
 まず、教育や組織の現実を変えるのは「心」ではないということ。「心の教育」は偽善的な愛情共同体を生み、自分の心のありようを表現できる能力を摘むことになる。組織内での対面的人間関係を心情的な共同体としてしまう従来の日本の組織文化は、結果的にセクショナリズムを生み、公共性を損なうことをさんざんしてきた。こうした心情的なるものへの言及と傾斜に対して著者は異を唱える。

 では何がたりないのか。日本人は「自分の思想や行動について説明し、理解を求める」ことをしてこなかった。言葉と人間の関係が甘い。「表現」がたりないのだと著者は言う。正しく言葉を使って自分の思想と行動を説明し、それを相手にも期待する。この原則が社会のあらゆる領域で息づいているアメリカ社会との、それが大きな違いである。

 私が本書でハッとさせられた表現がふたつある。
 ひとつは「労働の作品化」(107ページ)ということ。組織にはもともと予測可能性を高めるところがあるが、それは同時に組織内部の個人の自発性(元気)と矛盾する。個人に即して言えば、労働が無名性を帯びていて、作品行為としての固有名性を失っている。だから著者は、組織の予測可能性を高めすぎないような制度にして「一人ひとりが労働の作品化を目指す。作品化ができなくても、その意味把握を目指す」ような仕組みをつくるべきだとする。それが「社会を元気にする表現戦略」だという。

 もうひとつハッとさせられたのは「幸福とは自分の生き方のスタイルの完成度のこと」(230ページ)というあたり。やはり自覚的な表現戦略ということになるだろう。

 思いの外さりげなくやってくる新世紀の幕開けにあたり確認しておこう。2001年のキーワードは「幸福」で決まり。21世紀の〈幸福な社会とわたし〉をどう作品化するか——世紀の転換点となったこの年末年始、自分なりに表現戦略をじっくり練りたいと思った。

(野村一夫/ソキウス)

【目次】
第1章 幸福な学校
 学校教育の敗北
 教育が変われば、日本が変わる
第2章 幸福な社会
 社会を元気にする表現戦略
 民主主義はよみがえるか
 公共事業とは何か
第3章 幸福なわたし
 幸福原論
 日本人はいま何を考えればよいのか

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戦後日本の大衆文化

2000/08/01 12:39

ユニークな大衆文化論

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 新世代社会学者によるユニークな大衆文化論である。タイトルは鶴見俊輔の『戦後日本の大衆文化史』(岩波書店)を連想させるが、内容はかなり異なるので要注意。学校給食・子ども部屋・ゴールデンウィーク・ペット・健康法といった13の具体的テーマに即して戦後文化史が整理されている。大量の図版とともに簡潔な年表も用意されていて、丁寧な作りである。
 歴史化することが最近の社会学の傾向だが、まずは身近なものごとを歴史的に見直すことからという路線のお手本のような論集である。こういう素材を使った講義は楽しいだろうし、同種の手法で、ここにないテーマについて卒論でも書いてみると、それなりにおもしろいものになりそうな気がする。中高年のノスタルジーをそそるところもあり、私には子ども部屋の定番「ミゼットハウス」の話が懐かしかった。(野村一夫/ソキウス)

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これはたんなる続きでもなければ書き換えでもない。

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 著者の『社会的ジレンマのしくみ』から10年。しかし、これはたんなる続きでもなければ書き換えでもない。前回が一回ひねりだとすると、今回のは二回ひねりである。
 社会的ジレンマとは、マイカー通勤による渋滞がそうであるように、こうすれば良いとわかっている協力行動(電車やバスでの通勤)を取ると本人にとって好ましくない結果が生まれてしまうために(遅刻や不快な思い)「わかっちゃいるけど、やめられない」状態になり、その結果、誰にとっても好ましくない状態(どうしようもない渋滞)になってしまうことをいう。社会問題論では代表的な基礎概念である。
 しかし著者は今回これをさらに展開して、一気に社会理論の域にまで高めた。こういうところから社会構想のヴィジョンが開けてくるのにはいささか驚く。ポイントは、行動を引き起こすものは心(動機)ではなく環境に内在する要因(インセンティブ)であること、だから社会的ジレンマを解決するためには、人びとが協力行動を取らざるを得ない環境を作って、みんなが協力するなら自分も協力するという「本当のかしこさ」を生かすことにある。
 終始サービス精神あふれた説明が続くが、最新の進化心理学に啓発されての緻密な議論に学ぶことが多い。「心の教育」「しつけ」「道徳」「倫理」「管理」といった概念にしか問題解決の糸口を見いだせない人に熟読していただきたい好著である。 (野村一夫/ソキウス)

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