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  3. 野村正人さんのレビュー一覧

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先月(2017年3月)

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    3月のライオン(1)

    3月のライオン(1)

    羽海野 チカ(著),先崎 学 (将棋監修)

    5つ星のうち 4.5 レビュー詳細を見る

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    はらぺこあおむし 改訂

    はらぺこあおむし 改訂

    エリック=カール (さく),もり ひさし (やく)

    5つ星のうち 4.5 レビュー詳細を見る

野村正人さんのレビュー一覧

投稿者:野村正人

4 件中 1 件~ 4 件を表示

江戸の図像は世界に通じている

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いつの時代のものでも図像は面白い。図像を集めた書物を繰っているだけで、絵は時代や国を越え、直接私たちの眼に訴えかけてきて、まさに眼福というにふさわしい楽しみを与えてくれる。田中優子の『江戸百夢』がそれである。ここには、江戸時代の絵図、建築、工芸、挿絵など、様々なジャンルから選ばれた図像が2ページほどの解説とともに並べられている。まさに江戸の視覚世界は豊饒な「るつぼ」。そこから取り出されるひとつひとつのイメージのユニークな多様性には改めて驚かざるをえない。

 私の記憶にあるヨーロッパの絵を挙げて、洋の東西、図像比べと洒落てみる。まずは『江戸百夢』に現れる伊藤若冲の「野菜涅槃図」である。死んだ大根のまわりに、蕪やら椎茸やらの野菜が集まって嘆き悲しんでいるの図が、墨絵でさらりと描かれている。私の知る19世紀フランスにはアメデ・ヴァランという人の『野菜の帝国』なる挿絵本があり、年寄りメロンに浮気者のニンジン女房の図などが細かいリアルなタッチで描かれていたのを思い出す。

 人間=野菜のほかにも、人間=動物の「見立て」がある。ヴァランの同時代人グランヴィルは、ウサギやらライオンやら動物に人間の服装を纏わせ、当時の風俗を風刺してみせた。対する江戸では、歌川国芳の絵だ。粋な縞模様の着物を着て下駄を履いた雌猫を、船頭の雄猫が屋形船に乗せて夕涼み。どちらも甲乙つけがたく可愛らしい。

 そして顔のいろいろである。本書には、近世リアリズムの画家、円山応挙描くところの年齢職業も違う様々な顔が挙げられている。一方、西欧では18世紀末に観相学がさかんになり、ホガースやボワイイが都会にうごめく人々の顔を仔細に描き出す。なるほど都市には氏素性のわからぬ人間が群れ集ってきて、その異なった顔つきが好奇の対象となったわけだ。それにしても、あちらの科学標本のような正確さに比べて、こちらの漫画的なところが面白い。そう、漫画的と言えば、木村兼葭堂の肖像にとどめを刺す。著者も大好きだと述べているが、この懐の深い茫洋とした微笑みはまさに「大愚」の顔で、そのインパクトの強さに西欧の肖像画も顔色なしである。

 確かに、洋の向こうに伍すというのであれば、鎖国時代の日本は、上に見たように、独自の視覚文化を創り上げていた。しかしそう言ってしまっては、この書物が持つ意図を裏切ることになる。著者は、江戸空間を閉じるのではなく、それを「近世」の地球的な共通性の中に置こうとしているからだ。

 図像は眺めるだけで面白い。だが学識豊かで柔軟な頭脳による解説によって、思いもよらぬ視野を得る楽しみがあればさらに喜ばしい。その意味で田中優子は希有のナビゲーターである。彼女に手を引かれるまま、徳川270年間の図像の夢の奥深く水脈をたどっていくと、私たちは、突然、教会や市庁舎が建ち並ぶアムステルダムの広場へと至りつく。長崎を通って江戸へと運ばれる西洋の書物はこんな街でつくられていたのだ。

 あるいはまた、浮世絵に描かれた深川芸者の帯から、私たちはインドやインドネシアへと運ばれるだろう。江戸の女性たちは東南アジアに端を発する「粋な」縦縞を着て、ジャワ・バティックの帯を絞めていたのだ。そしてそのインド木綿は、極東日本のファッションだけでなく、さらに西では、イギリスの政治・経済的支配を誘惑するという遙かな広がりを持っていた。

 鎖国に守られながら、ぬくぬくと眠りを貪っていた江戸が眼を覚ますと、わずかな隙間だと思われた長崎の窓は実のところ、大きく外に開けられていたのだった。そこから同時代の微風がそよいで来て、知らずのうちに、日本は、世界と同じ空気を吸っていた。江戸は、江戸であって江戸ではない。軽やかにさらりと書かれた『江戸百夢』を読んで、そう納得する。 (bk1ブックナビゲーター:野村正人/東京農工大学教授 2000.07.29)

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ロスト・イン・アメリカ

2000/07/22 12:15

現代のハリウッド映画をどう読むか?気鋭の若手による徹底討論集。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 CGなくして映画なし。そんな観のあるハリウッド作品を前にして、態度はふたつ。SFXを多用した映画を「すごい」と無邪気に喜ぶか、あるいは「アート系」の映画ファンのように、あれだけが映画じゃないよと無関心を装うか。

 このギャップを埋めるべく、80年代以降のハリウッド映画をまともに論じる書物がとうとう出た。『ロスト・イン・アメリカ』は、黒沢清、青山真治、塩田明彦、阿部和重といった、気鋭の映画監督や作家であり、いずれも筋金入りのシネフィル(映画狂)でもある人たちの、現代ハリウッド映画徹底討論集である。

 ハリウッドは今も昔も世界の映画の中心であったが、その質は大きく変わった。30-50年代には、大衆の欲望に答える「夢工場」としてスタジオ・システムを完成し、豊かな映像言語を蓄積しながら、世界の映画界をリードしてきた。その後テレビの発達による停滞期を通過したが、80年代からハリウッドは再び世界市場を制覇する。シネフィルの教祖蓮實重彦によれば、60年代以降、物語を効率よく語るハリウッドの遺産は忘れ去られ、映画はスペクタクル的見世物と化してしまったという。ヨーロッパ系の映画を愛する人たちがハリウッド映画をまともに論じないのは、おそらくそこに原因がある。

 この討論の参加者たちは、多少の差はあっても、いわば「蓮實チルドレン」であるようだ。しかし彼らは、教祖とは逆に、この「イメージのスペクタクル化」を積極的に語ることを出発点として、生産的な議論を進めようとする。

 80年代以降のハリウッド映画の変容は、単なる質の低下なのか、それとも積極的に評価すべき何ものかなのか?『激突!』から『未知との遭遇』を経て、『ジュラシック・パーク』『シンドラーのリスト』へといたるスピルバーグの歩みにはどんな映画史的変化が見られるのか? キャメロンの『タイタニック』は、冗長なメロドラマの失敗作なのか、それとも、3時間という長さを見せ切ってしまう魅力を持った作品なのか? そして遺作『アイズ・ワイド・シャット』を残して世を去ったキューブリックが切り開いてきた映画の可能性と凡庸さの限界はどこにあるのか?などなど。

 ハリウッドはこれまで、一部の映画ファンのためではなく、大衆向けの娯楽を貪欲に追求してきた。どんなテーマをも無害化・通俗化しながら、ありとあらゆる手段を使って、ひとときの夢を提供し続けてきたのだ。今日、CGなどの最新デジタル技術によって、恐竜であれ、宇宙であれ、今までまともに撮ることのできなかった非現実的なイメージをまるでドキュメンタリーのようにリアルに描くことができるようになってしまった。すると膨大なコストのかかるCGのスペクタクルを武器に、ハリウッドは、めくるめく視覚体験を大衆に提供することで、映画市場を制覇したのだ。

 そのとき『ジュラシック・パーク』のように、全体として何が言いたいのかわからないし、物語のつながりも薄いが、各所にばらまかれた見せ場を唖然として追ううちに終わってしまう、そんな映画が主流になる。そして、よきにつけ悪しきにつけ、映画は古典的な「シネマ」の呪縛から解放され、昔のような「うまさ」とか「面白さ」では判断できなくなってきているのだ。この映画討論集は、そうしたハリウッド映画そのものの根底的な変容を強く感じさせるし、その変わりようの奥底にあるものを見事に捉えている。

  最後に一言。本書は、以上のような力強い主張を持っているが、その一方で、刺激的な映画本に不可欠な枝葉末節の楽しさにも満ちている。巻末には80年代以降の男優・女優についてのおしゃべりまでついていて、なかなか読みごたえある一冊に仕上がっている。 (bk1ブックナビゲーター:野村正人/東京農工大学教授 2000.07.22)

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菊水丸がディープな河内の魅力を絶妙の口調で語る。

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 吉本新喜劇に見られるように関西パワーが爆発している。その大阪の中でもとりわけディープな雰囲気が濃厚に漂っているのが河内だ。河内といえば「河内のおっさんの唄」であり、マンガ『嗚呼!!花の応援団』の南河内大学であり、中村美津子の「河内おとこ節」である。ガラは悪いが人情に厚い。あいさつも普通の大阪が「もうかりまっか」なら、河内では「われ、元気かえ」なんだそうである。ますますディープな匂いがするではないか。

 この河内の面白さを紹介してくれるのが、河内家菊水丸『河内謎とき散歩』だ。彼の絶妙な語り口も手伝って、読んで実に楽しいガイドブックになっている。菊水丸は、時事ネタや一代記ものを音曲に乗せて歌う新聞(しんもん)読み河内音頭の元祖であり、また河内音頭を中心とした芸能関係のコレクターとしても知られている。さらには湾岸戦争直前、イラクに渡ってアントニオ猪木と共にサダム・フセインと会見し、大統領から時価3800円也の「感謝の壺」を頂戴した御仁である。

 この『河内謎とき散歩』には、本の帯にもあるように「歴史と風土から、うまいとこ、ええ宿、名産品まで魅力のすべて」が書かれているが、情報がただ漫然と並べてあるガイドブックとは一線を画している。河内音頭がそうであるように、本書は、「その土地で生まれた人間が、その土地の歌を歌う」広い意味でのルーツ・ミュージックとなっている。だから面白い。そこには河内を舞台として活躍した偉人・畸人の生き生きとした姿が描かれている。しかもそれは菊水丸自身の思い出と共にたぐり寄せられる。つまり本書は河内の歌であると同時に私=菊水丸の歌でもあるのだ。

 河内出身の偉人には、まず知謀無双の悪党的武将として名高い楠正成がいる。そして大怪盗の石川五右衛門。この二人が横綱だ。それに続くのが「座ると膝が三つ出来」と詠われた巨根伝説の道鏡。そして道頓堀を作った安井道頓。大坂の陣で、関東の徳川の大軍を敵にまわして果敢に戦った天下の豪傑後藤又兵衛。さすが、浪曲と講談に大きな影響を受けた河内音頭が骨の髄まで染み込んだ菊水丸である。楠正成、後藤又兵衛の活躍を見てきたような講談口調で描き出してしまう。

 もうひとり忘れてならないのが、「毒舌和尚」「エロ坊主」として有名になった天台院住職・小説家、今東光だ。彼は、映画化もされた『悪名』『河内カルメン』などの作品を書いて河内を全国に知らしめた反面、この地方に「夜這いの里」のイメージを植え付けてしまったという。小学校低学年の菊水丸は映画の朝吉親分に惚れ込んで、小説『悪名』で読書感想文を書いて珍事件を巻き起こし、そのあと和尚と一度だけお寺で出会うのだが、それは短いながら、関西時代の今東光と少年菊水丸の姿を彷彿とさせてきらりと光るエピソードだ。

 もちろん、この地方を語るには河内音頭を欠かすわけにはいかない。菊水丸はこの本の中で、河内音頭のスタイルとルーツを語り、そして伝道師としての精力的な活動にも触れるばかりか、同志・天童よしみと対談もしている。そこは本書でもっとも熱い部分である。ぜひとも、菊水丸の「男魂横山やすし」「藤山寛美母子鷹」「ジミ・ヘンドリクス一代記」などのCDを聞きながら、読んでいただきたい。 (bk1ブックナビゲーター:野村正人/東京農工大学教授 2000.09.06)

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パリを愛し、パリに愛されたアメリカ人が語る由緒ある街マレの歴史

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 対象が異性であれ、趣味であれ、街や国であれ、それに対する愛を語ることはなかなか難しい。本を手にした人が、臆面もないとかはしたないと感じるか、それとも著者の愛情の深さに共感をするかは、きわめて微妙な差異であると同時に、読み始めてすぐ2つのどちらかかがわかってしまうような決定的な違いがあるように思う。

 「マレの街かど」は、著者アレックス・カーメルが自らのパリとの出会い、そして彼の住むマレ地区の歴史散歩をつづりながら、彼がこよなく愛するパリの魅力を語った本である。またしてもパリかと思ってしまうだろうが、なかなかどうして、凡百のエッセーとは一味違った面白さを備えている。「パリかぶれ」などと言われるかもしれない。しかしここまでつきぬけてしまうと、いっそ清々しくもある。

 「パリかぶれ」たるもの、何か目的を持っていてはいけない。美術館めぐりが好きだとか、映画を死ぬほど見たいとか、ショッピングがしたいとか、それを病の初期症状とすれば、もうパリにいるだけで幸福というのがその究極の姿である。カーメルは、段階的に病状が進み、病膏肓に入るのではなく、第2次世界大戦直後、17歳でパリに到着するや否や「パリかぶれ」最終段階に突入する。毎日何をするでもなく、へとへとになるまで闇雲に街を歩き回り、質素なホテルに帰っては毎晩ざらざらしたクレソンのスープをすすり、パリはワシントンと大して変わらないと主張する女性を頭がおかしいと決めつける。3週間のあいだ、なぜと問うこともなく、ただただパリにいるのが幸せなのだった。

 さらりと書かれているが見逃せないのは、一時パリを留守にし再び戻ってきたとき、彼がパリに「帰る」喜びを発見することだ。奇しくも、当代切っての旅の達人、巌谷國士は、パリは初めて訪れた人にも帰ってきた気にさせる街だ、と名言を述べている。初手からカーメルはパリを愛するだけでなく、パリに愛される資格を得たといってもいいだろう。

 その後、彼はフランス人女性と結婚し、マレに家を求めることになるわけだが、作家らしい手馴れた筆致で語られる、新居に身を落ち着けるまでのあれやこれやの話は、以前日本でもベストセラーとなった「南仏プロヴァンスの12ヵ月」を思わせないでもない。

 しかし話は、パリ住まいの身辺雑記から、歴史のほうへと向かっていく。マレは17世紀以来、貴族の館が立ち並ぶ由緒ある地区であり、著者が購入したアパルトマンはなんと14世紀の建物だったのだ。カーメルは、俄然、わが家とわが街マレの来歴に興味をそそられたらしい。中世の建築術の本、土地台帳や建物公売の記録、さまざま研究書を繙きながら、パリの歴史とともにマレが形作られていくさまを調べていく。しかしそれは、学者の客観的な手つきとは異なっている。自分の買った民家にこれまで誰がどんな生活をし、そしてまわりにはどのような世界が開けていたのか、それを調べて想像に耽るのが、彼には楽しいのだ。まるで自分と知り合う以前の恋人の暮らしぶりや考え方をなんとしても知りたいと思う、あの気持ちに似ていると言えようか。

 著者はマレに暮らし、界隈を歩き回り、そして街のことを調べる。かつてパリにいるだけで感じた、理由もない幸福感は、現在の時空を超えて遥かな過去へと大きく広がっていくのだ。彼が語っているのは、「わたしはパリがこよなく好きだ」というただひとつのことなのだが、それが素直に伝わってくることがまた心地よい。 (bk1ブックナビゲーター:野村正人/東京農工大学教授 2000.7.11)

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