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  3. 挾本佳代さんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年5月)

挾本佳代さんのレビュー一覧

投稿者:挾本佳代

127 件中 1 件~ 15 件を表示

大平光代流の超独学法。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ことベストセラーになっている本に対する興味の示し方には二通りあると思う。ひとつは「ベストセラーになって、みんなが読んでいるんだから、自分も読まなきゃ」と思って、即座に手に入れて読む場合。もうひとつは「みんなが読んでいるから、やめよう」とあえて読まない場合。私の場合、大ベストセラーになった、大平光代さんの『だから、あなたも生き抜いて』(講談社)はどうも読む気になれなかった。つまり、後者のパターン、単なるへそ曲がりである。しかし、彼女の活躍ぶりはテレビの特集で知っていた。いじめから割腹自殺を図ったことも、極道の妻であったことも、司法試験を一発で合格したことも知っていた。「人生がドラマチックすぎる」とも思っていた。知りすぎていたから、なおさら読む気にはなれなかったのだ。
 しかし、彼女のテレビで映る表情にはとても好感を持っていた。透明感のある顔。おとなしい話しぶり。想像するだけでしかないが、とても極道の世界に生きていた人とは思えない。一度、お話ししてみたい雰囲気さえもっている…。「もう、そろそろいいだろう」と、ずっと気にしつつ読まなかった著者の本を、今回手にとってみた。彼女の独学法がどんなものであるのかも知りたかったからだ。
 いま彼女は、日曜日を除いて、午前4時から6時まで語学の勉強にあてている。日本にいる外国人の弁護人になる時に日本語以外の語学が必要になるからだ。大平流の計画を達成するための7つの方法がすごい。1、あれもこれも一度にしようと思わない。2、したいと思うことを全部紙に書き出す。3、書き出したものに優先順位をつける。4、一番したいことがきまったら、どうすれば達成できるか方法を書き出す。5、それをするのに必要なものだけを揃える。6、必要なもの以外は、目に入るところに置かない。7、無理な計画は立てない。…たいていの人はこの達成法の逆パターンをやってしまって、途中で投げ出すことになる。あれもこれもやろうとするし、全部一緒にやろうとするし、とても無理な計画を立ててしまう。当たり前のことが、当たり前のように書いてある。きっとこの方法で司法試験も合格したのだろう。自分の甘さを見せつけられた、いい本だった。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.04.18)

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紙の本思想史のなかの科学 改訂新版

2002/06/07 18:15

科学とは何か、を深く考える

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今日ほど、科学とは何かが問われなければならない時代はないのではないだろうか。人類史を紐解けば、もちろん過去に科学が急速に発展した時代は数多くある。しかし、分子生物学が進展し、人間の身体がDNAレベルで分析され、その結果として人間の生命をもクローンという形で人工的に作り出すことの可能性がまことしやかにささやかれるようになったのは今日が初めてである。しかしその一方で、日本の将来を担う子供たちに科学は分が悪い。未知の領域を切り開く科学の宿命が、「こわい」イメージ一色で塗り固められているからだ。
 本書はもとは1975年に、NHKの講座のテキストとして編まれたものが公刊されたものである。だから、思想史と科学の歩みが非常にコンパクトに述べられている。科学にはまったく興味がなくても、人間の思想史には興味がある人ならば、きっとおもしろく読み進めることができる良書である。
 プロローグに収録されている著者ら3人の対談も興味深い。人間と自然を分離させることに拍車をかけることになった科学的思考が、人間の中に潜在的にあったとするならば、それを顕在化した契機が一体何であったのかがここで問題視されている。著者らはそれを解くカギは思想史の中だけでなく、社会・経済史も合わせて考えられるべきとした上で、「近代市民社会の形成」が大きな契機のひとつであったと主張している。社会学者の端くれである1人としては、著者らの指摘にはとても耳が痛い。自然科学と社会科学に跨る分野の開拓がいまだほとんどなされていないのが現状だからだ。
 唯一残念だったのは、分子生物学が急速に進歩する以前の1975年に編まれた本であるために、進化論の影響部分をもう少し大きなスコープで、大胆に加筆したものを読みたかった、ということである。きっと1996年の改訂版でもすでに加えられていたのかもしれないが、今日あらゆる分野でその重要性が痛感されているのが進化論であるということを考えると、この進化論の部分だけでも思想史の中だけにとどまらずに展開してほしかったというのは読者のわがままであろうか。進化論は私たちのいまの生活に密着しすぎるほどしているのだということを、科学者や科学史研究者が説得的に訴えることができれば、科学を志す中高校生も増えてくると思うのだが。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.06.08)

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大航海時代に、失われた東南アジアの多様性を追う

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本にとって東南アジアは地理的にも結構近い外国である。東南アジアには、日本のコンピュータや精密機械などの下請け工場などが多く建てられている。日本人の好むエビを多く輸出していたり、ラタンや籐といった家具の原材料を切り出してくれる熱帯雨林を有しているのも東南アジアである。日本は経済的にみても、東南アジアに多くを負っている。その一方で、エビの養殖地を確保したり、ラタンを切り出すために、熱帯雨林は少しずつ破壊されている。そうした開発は、日本人の欲望が引き金となっているのである。いまだに年配の人たちに東南アジアに対する偏見が根強く見られるが、日本と東南アジアはいまや持ちつ持たれつの関係ではなくなっているのが現状である。日本からの技術移転もあるにはあるが、東南アジアなくして、日本は成り立たないといっても過言ではないのである。
 本書は第一巻につづき、大航海時代における東南アジアの歴史が実に詳細に記述されている。香辛料を中心とした貿易で世界中から注目されざるを得なくなった東南アジアが、ヨーロッパの大国の支配を受け、どのように都市化を進め、軍事革命を起こし、やがてそうした専制主義や世界経済から飛び降りることになったのかが、つぶさに検証されている。いまも日本の三〇年前の姿といわれる東南アジアの社会的な貧困状態を引き起こしたのが、実は土足のまま東南アジアに入り込んだ、日本を含む大国の欲望のためであったことがよく理解できる。しかし著者は、そうした東南アジアを先進国側からの哀れみの対象とはしていない。彼は、専制主義や絶対主義に翻弄された東南アジアを振り返り、その後一八世紀や一九世紀に「世界的に優勢な交易」や「知のシステム」に関わらなかったために、かろうじて東南アジアは部族を中心とした地域ごとに、その「多様性」を保存することができたと結論づけているからである。数多くの島嶼を抱え、さまざまな部族が住むことで東南アジアの人々の生活様式も実に多様性に富んでいた。このことは第一巻を読むとよくわかる。
「多様性」を破壊する全世界に共通の世界システムなどというものは、そもそも共同体の中で生きている人間には無用のものなのである。国家もそうである。大航海時代で大いに揺らいでしまった東南アジアの「多様性」をいま一度深く考え直してみたい。日本の将来像や日本を含めたアジアの将来像を考え合わせて本書を読み進めると、一層深い思索をすることができる一冊である。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.05.16)

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紙の本失われた手仕事の思想

2001/10/22 22:15

日本から消えてしまった「手仕事」の思想と人間観を探る。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いまの時代、「手仕事」と聞いてイメージされるものには2通りある。ひとつは、高度な工芸技術に支えられた高価なもの。厳しい師弟関係。伝統。もうひとつは、コツコツと時間をかけて作られる割に、安価なものになってしまった現実。非大量生産性。厳しい仕事——。手に職をつけた「職人」に憧れる人がいる一方で、そこに至るまでの厳しい道のりを考えるだけでも嫌になる人がいる。安価な大量生産品が大量消費されるいまの日本で、「職人」が生き残ることはかなり困難だ。
 本書には「消えた職人たち」が数多く収録されている。著者が綿密な聞き取り調査を行ったためであろう、かなり興味深い話が盛り込まれている。大分県佐賀関町の、地元で1、2を争う漁師が自分の息子を漁師にさせなかった話は特に強烈だ。「息子に漁師をやらせなかったのは頭が悪かったから。…だから、息子は会社員にしました。いわれたことぐらいはできるでしょ」。1日として同じ海や風の状態はなく、それを的確に判断して漁をしなければならない漁師は、私たちが考えているほど容易い仕事ではない。言われたことだけをやっているようでは、船底1枚下が地獄ともなりうる自然を、とても相手にすることはできないのだ。
 著者いわく、その時代その時代の倫理は、一所懸命生きることから生まれてくる。たとえ安価であっても、自分が作った「もの」に絶対の自信を持っていた職人たちは、間違いなく一所懸命生きてきた人たちだった。質の良い「もの」を作り上げることに傾けられた師匠の精魂は、確実に弟子たちに受け継がれた。だから、弟子は「人間としてのマナー」を犯すような人間にはならなかった。著者がもっとも恐れているのは、「手仕事の時代」が終焉し職人たちが社会から消え、同時に日本人の倫理観と日本人そのものが変質しつつあるということだ。すなわち、日本という社会は、「よいものを、精一杯の力で作り、世に送り出す」送り手と、「よいものと悪いものを区別し選択する」使い手を維持することができなくなってしまった。日本のこれまでとこれからを考えながら、読んでみたい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.10.23)

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過去の社会状況を描いた文学からも、人間が生きてきた歴史をたどることができる。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いま私たちが生きているこの時点から、200年ほど経ったとする。途中、必ずしも幸福な時代ばかりではなく、戦争や自然災害などに人間は見舞われ、コンピューターのデータベースも破壊されてしまって、数十年間のさまざまな記録がほとんどなくなってしまったとする。さまざまな事件や出来事の生き証人もほとんどいない。いたとしても彼らの口にすることが、それぞれバラバラだとする。さて、200年先の未来の人間は、過去200年の人間の歴史の空白を、何をもとに、どのように埋めていったらいいのだろうか。このとき、もしここに過去200年間に出版された文学作品があったとしたら、彼らはどうするだろうか。その文学作品をまったくのフィクションとして捉え、「フィクションから歴史はたどれない」とするだろうか。それとも、その文学作品にも当時の社会や文化や世相を映し出す決定的な要素も含まれているとし、「文学も歴史の一部である」と認め、それを考慮に入れて歴史を構成していくだろうか。
 いささか「究極の選択」みたいになってしまったけれど、もしキース・トマスがこの「選択」をしなければならないとしたならば、迷わず「文学も歴史の一部である」とし、文学から歴史をたどりうるとする立場を採るだろう。

 確かに、『歴史と文学』の中でトマス氏も述べている通り、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』でジュリエットは13歳で結婚をしているが、これが当時の平均的な初婚年数を表しているわけではない。人口史と社会構造史研究に優れている、ケンブリッジ・グループによってそのことが論証されている。同様に、このケンブリッジ・グループは、王政復古期の喜劇に見られるような性的に放縦な気風が社会中に蔓延していなかったことを、当時の私生児の統計数からはじき出した。むしろ、王政復古期は性的に抑制の強い時代だった、と。

 しかし、だからといって文学を史料とみなすことができないことにはならない、というのがトマス氏の主張だ。トマス氏は、歴史学者ももちろんのこと、人間には過去の文学のテキストから新たな解釈を発見する力の可能性を信じている。つまり、過去の文学はたったひとつの切り口だけから解釈されるべきものではないと彼は確信している。たとえその切り口が、多数派に支持される従来の切り口に比べて、大いに異なる、かなり斬新なものであったとしても、その新しい切り口は新たな歴史世界に接触する可能性をもっているのである。トマス氏はそう主張している。そもそも史料とて、人間の想像力なくして歴史を再構成する材料とはならないのだから。

 歴史を、現在の人間にまで連綿とつながる、過去の人間が生きてきた記録とするならば、人間という種が生き続けているように歴史もまた生き続けているのである。だから、硬直でどこにも隙のないガチガチの解釈は、どちらかというと歴史には似合わない。生身の人間に生傷が絶えないように、歴史もそういうものであると考えたい。訳者の中島俊郎氏が過去を通して現代を見据える「まなざし」をもっているという、トマス氏のさまざまな論考を読んで、そう考えた。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.03.10)

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紙の本ヴェブレン

2001/01/05 15:15

20世紀きっての鋭い文明批評を展開した、ソースタイン・ヴェブレンの思想と人生。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ソースタイン・ヴェブレン。その名を聞いて、まず何を思い出されるであろうか。経済学や社会学を多少なりとも学んだことのある方なら、『有閑階級の理論』の中で「見せびらかしの消費(誇示的消費)」を提起した人であると想起するかもしれない。

 自給自足経済が崩壊し、工場制工業が進展した近代社会で、農村共同体に拠り所を求めることができなくなった人々は工場で稼ぎ出した貨幣で「消費」を繰り返すようになった。そんな社会で、成り上がり者は自らの金銭的な裕福さを、ある時は妻の高価なドレスや豪華な馬車に、ある時は家中の召使いにお揃いの上等な制服を着せることで他人に「見せびらかし」た。しかしヴェブレンの目は、そのような成り上がり者たちの他人の目を意識した「見せびらかしの消費」だけを、皮肉混じりに凝視していたのではない。彼の目は遙か先を見ていた。人々の間で、このような消費形態が発生しても何の問題ともされなくなってしまった、経済活動だけが躍進する近代社会そのもののおかしさ、矛盾、瑕疵をこそ、ヴェブレンは見据えていたのである。

 ヴェブレンの功績は「見せびらかしの消費」の理論化だけにとどまらない。本書で宇沢弘文氏が主張するように、ヴェブレンの最大の功績は経済体制批判を通して、鋭い近代文明批評を行い続けたということにある。初期の著名な論文「経済学はなぜ進化論的科学ではないのか」では、人間が共同体の中で行ってきたそもそもの経済行為を考慮すれば、決して因果関係の追求だけに終始する古典派経済学にみられるような経済理論は成立しないと徹底して論じられている。また『有閑階級の理論』と同じ観点から、近代人の人間性の変質にまで踏み込んだものに『製作者気質の本能』があることも忘れてはならない。人間が共同体の中で生きていく、その本来的な性向が「製作者気質」と呼ばれていた。この気質が近代産業によって圧迫を受け、人間から喪失してしまった状況は、ヴェブレンにとってどれほど奇異な社会に映っていたのであろうか。

 本書の魅力はほかにもある。それは、宇沢氏が理論的にも思想的にも傾倒するヴェブレンの生涯を、彼の著作を交えつつ見事に展開しているということだ。ノルウェー移民の子であるという出自をもつヴェブレンが米国の大学に就職するのが困難であったこと。彼は女性問題を常に抱えていたために、大学の中でも出世することができなかったこと。それでもヴェブレンは自らが信じる思想を貫き、一生研究者でいたこと。その反面、晩年は寂しい生活を送っていたこと。様々な人たちとのめぐり会わせや幾多の出来事との遭遇があったとはいえ、最終的に堅固な思想を貫いたヴェブレンが孤独であったことがわかる。孤独であったからこそ、数多くの文明批評を何者にも邪魔されずに徹底させることができたのだとも考えられる。

 後世ヴェブレンを起点とする制度学派経済学の理論を受け継いだ人たち——ジョン・メイナード・ケインズ、ジョーン・ロビンソン、ジェーン・ジェイコブス、サミュエル・ボウルズ、宇沢弘文——の業績も簡潔にまとめられている。著者自ら、ヴェブレンの後継者であると明言してはばからないその潔さがいい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.01.08)

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人間の「精神」や「心」や「人間性」の起源を霊長類学からアプローチする。

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 「人間はサルから進化した」とはあまりにもよく使われるフレーズである。しかし、実はこの言い方は、現在明確になっている進化論に照らしてみると、正確さを欠いていると言わざるをえない。生命はおよそ36億年前に原初的な生命体から誕生して以来、ゆっくり長い時間をかけて多様化してきた。その多様化された、地球上に存在する生物種のうちのたった1つの種が人間すなわちホモ・サピエンスなのだ、という言い方が好ましいと思われる。「人間はサルから進化した」と言うと、あたかも人間はサルよりも遙かに上等な生き物であるかのような錯覚を与えてしまいかねない。しかしご存じだろうか。チンパンジーと人間との遺伝子の差は、たった1.7%でしかないのである。

 そうであるならば、人間しか「心」を持たないと考えるのは傲慢としか言いようのないものとなるのだが、ではなぜ、人間だけが二足歩行をし、言葉を自由に使い、それによって感情を伝え、文化を伝承してきたのだろうか。チンパンジーやボノボやゴリラやオランウータンと人間との本質的な差は何なのだろうか。ここで安易な答えを出すのは最も危険なことである。なぜなら、人間だけにではなく、チンパンジーにも「社会」や「文化」はあるし、独特の「意志の伝達方法」もちゃんとあるからだ。

 いま霊長類学を研究する科学者は、人間とチンパンジーとの間の、たった1.7%の遺伝子の差を埋めようとしている。その研究が成功すれば、人間の「精神」「人間性」の起源をたどることもできるからだ。本書は雑誌「科学」に掲載されていた、「心の進化」についての論文を収録したものである。多少難しい内容の論文もないではないが、これを読むといま霊長類学者が何を実験し、今後何をやろうとしているのかがわかる。生物学や霊長類学に馴染みのない人は、わかるところだけ飛ばしながら読むのがいいかもしれない。「心の進化」を考えるに有益な内外のインターネットのサイトも紹介されている。

 例えば、京大霊長類研究所にいる有名なチンパンジーのアイは、モニター上で色を見、それを表す漢字を答えることができる。野生チンパンジーは一組の石とハンマーを台として活用し、堅い木の実を叩き割り、その中味を取り出して食べることができる。つまり、「言語」と「道具」は人間に固有のものではないのだ。霊長類の知性がどのように進化していったのか、を解明するひとつのアプローチの端緒がそこにある。その他「道徳」や「利他行動」を解明する研究や、遺伝子から人類の成立をたどった研究も収録されている。

 霊長類学者は自然科学者である。その自然科学者が、いままで人文・社会科学者が研究してきた「人間性」についての研究を、自らのフィールドを起点にしてものすごい勢いで進展させている。個々の霊長類の「人間性」が解明された暁の次なる課題は、おそらく「社会」だろう。なぜ個々の霊長類は単独で生きるのではなく、群れをなして生きているのか。群れを形成するきっかけや動機は一体何なのか。従来この問題は自然との関わり合いだけから論じられることが多かったが、それが個体レベルから解明されるようになると、いままでの研究にかなりの厚みが加えられることになる。そうなると人文・社会科学者はうかうかしていられないと思うのだが、どうだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.01.05)

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私たちを取り巻く制度が機能不全に陥らないためには、どんな制度が求められているのか。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この私たちが現在生きている「社会」とは、一体どんな社会なのであろうか。社会学者でなくても、みんな一度くらいは考えたことがある問題だと思う。日頃接している学生がふと、こんな言葉をもらしていた。「生きているのがしんどいんですよ」。彼はまだ大学生になったばっかりの人間である。けれどその彼に、「社会」は「生きているのがしんどい」と言わせてしまっている。悲しいかな、これが私たちのいま生きている「社会」の抱えている現実である。
 なぜ「しんどい」のか、彼の言い分はここでは省くけれども、その言い分の核心部分をいうならば自分を取り囲むさまざまなものが多すぎるということだ。彼にはそのさまざまなものが、自分にどうも上手く機能していないのだろう。そんな大学生の切実な悩みをチラチラ考えながら本書を読んだ。

 「善い社会」——。何とも皮肉なタイトルだけれど、本書では社会にあるさまざまな「制度」の考察を通して、それらのおかれた現実が見つめ直されている。その試みを行ったのは、ロバート・ベラーを中心とする米国の社会学者5人である。原書が公刊されたのは1991年。以後息の長いセールスを記録している。それだけ本書が考察した現代社会の厳しい様相が核心を突いていたということなのだろう。

 本書で言及されている「制度」は、法とモーレス(習律)の内に埋め込まれ、それらによって強制される規範の型のことを指している。だから、具体的なさまざまな組織だけが「制度」と見なされているのではない。社会に生きる人間が無意識のうちに拘束されている、目に見えない約束事も「制度」として考えられている。
 では、その数多くの人間を取り巻く「制度」は上手く機能しているのだろうか。機能していない、機能不全に陥っている——というのが著者らの診断結果だ。そんな厳しい診断結果を下さざるを得ない米国社会の現実を、インタビューを交えながら浮上させているのがとても興味深い。自らが勤める会社が買収され、経営陣が差し替えされた結果、何の予告もなしに解雇されたキャリア幹部の女性。教養教育がないがしろにされ技術的教育ばかりが横行する教育システムに疑問を投げ掛ける大学教員。人々の精神的・道徳的な拠り所として機能しなくなった教会を、立て直そうとしている牧師。みな米国社会における「制度」が上手く機能していないことを肌身で感じている。

 しかし、著者らはこのような機能不全に陥った「制度」を全面的に見放すことをしていない。彼らは、私たちがまず「制度」の現実を理解し、それらをより善いものへ変えることができると思い描くことが必要であると主張している。けれど一口に「制度」を、著者らが構想する人間一人一人の「生」を支えるような、健全なものへ変えていくのは非常に困難であることは言うまでもない。そもそも具体的な組織のような「制度」は人間によって作られたものであり、一度綻びが生じるや、雪崩式に次から次へと別の綻びが生じていくものだからだ。著者らも「より善い制度」は可能であっても、「完璧な制度」というものがないことぐらい百も承知のはずである。だからこそ、「制度」の現実を第一に理解することが重要であると主張しているのだ。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2000.12.05)

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1個の人間は、ミーム・マシーンとして生きているのか。「ミーム」という新たな言葉を広く展開した本。

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 人はよく他人の模倣をする。自らがこうありたいと願う理想の人のしぐさを、知らないうちに模倣していることもある。
 そんな時、ある人を模倣した私には、その人から「ぼんやりとした何か」が伝え渡されるという。それが著者スーザン・ブラックモア氏のいう「ミーム」である。

 このミームという多くの人にとって聞き慣れない言葉が本書のテーマだ。彼女が提唱するミーム学では、ミームが遺伝子同様ひとつの独立した利己的な自己複製子として取り扱われている。つまり、人間が遺伝子の乗り物であるように、私たちはミームも乗せて生きている。ミームは多くの人々の間でやり取りされ、そのことによって宗教や科学や文化が形成されるという。

 ミームは人間世界に多大な影響を及ぼしている。カップルが子供をもたずに生きていくことを決定したのも、ミームが、遺伝子よりもミームにエネルギーを注ぐように戦略的に2人を説得したからだ。ある集団の中で人気のある人物は、人気があるゆえに他人にその行動が模倣され、模倣されるがゆえに彼のミームは広がっていく。本、電話、ファックスなどはすべてミームによって生み出され、淘汰された結果残った発明品である。もちろん今日インターネットがこれほど発展したのも、すべてミームのおかげなのだ。
 人間自体がミームの集合体であり、人間はミームをもっているおかげで動物とは違うやり方でものを考え、作ることができる。人間を動物から切り離し、特別な存在にさせるものがミームを発現させる模倣の能力なのである。ブラックモア氏の主張はここにある。

 しかし、ミームに関しては、スティーブン・J・グールド氏(古生物学者)など、ブラックモア氏とは全く異なる見解をもつ生物学者も多い。彼らは総じてミームの存在自体に懐疑的であり、ミームとはメタファーにすぎないという意見をもっている。
 遺伝子になじみの少ない読者にお勧めしたい本に『DNAがわかる本』(中内光昭著、岩波ジュニア新書)がある。ここで平易に展開されているDNA(遺伝子)がミームと同じ作用をしているかどうか、ここのところの判断は読者にゆだねたい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2000.08.28)

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紙の本挑発する肉体

2002/06/06 15:15

乳房の挑発する力を、理性的な近代人も制御できなかった

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 デュルはどこまでも執拗にノルベルト・エリアスに喰らいつく。『文明化の過程』の中で、エリアスは近代社会と前近代社会について間違ったイメージを構築しているとデュルは主張する。本書は「文明化の過程の神話」シリーズの4巻目である。5巻で完結するとされるこのシリーズの今回のターゲットは、人間の肉体それも女性の乳房である。近代人は前近代人に比べて、人間の「動物的性質」を制御することができるとしたエリアスの考えを、デュルは乳房を武器に覆そうというのが本書の目的である。
 デュルの主張はとても明快である。すなわち、西洋社会は近代であろうが前近代であろうが、過去数千年にわたって女性の乳房に象徴されるエロチズムの放出を完全に制限することはできず、まして人間や社会の中に内面化することなどはとてもできなかった、とする。その証明のために、デュルはさまざまな時代の乳房の在り方を探る。ヴィクトリア時代のデコルテ部分への注目、人前で授乳する母親、トップレスで海辺にくつろぐ女性たち……。社交界で女性は、単に日常的かつ美的にデコルテ部分をさらけ出していたのか。母親は無邪気に授乳していたのか、男を誘惑する意図もあったのか。「はじらい」はあったのか、などなど膨大な乳房をめぐる資料を駆使してデュルは「文明化の過程」を覆すことを試みる。
 デュルの指摘を待つまでもなく、エリアスの『文明化の過程』では、人間の本来的にもつ「生物学的人間」の部分に対する考察が十分になされているとはいえない。エリアスにとって近代人は「理性的人間」を絵に描いたような人間なのであり、たとえ衝動にかられてさまざまな行動をしようとも、理性があればすべて制御することができると確信される人間なのである。前近代と近代の比較も、いまとなってはステレオタイプ的な節さえある。そこを突いたのがデュルなのである。エリアスがすでに故人になってしまっているために、デュルの自らに対する批判への回答は、エリアスを信奉する文化人類学者などに向けられるだけになっているが、それももったいない気がする。「理性的人間」を頑として譲らない研究者は他にもたくさんいるからだ。デュルが挑戦的にならざるを得ないのは、そうした彼らが、人間の生の部分を認めようとしないで、人間の社会や人間そのものを平然と語っているからだ。(bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.06.07)

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各時代の戦争が及ぼした影響を探る

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 過去のどの国家も、そのほとんどが軍事力を強化することを追求するようになった。軍事技術の進歩、軍隊の組織化や拡大は、人々が考える理想とする社会も変えてしまった。もちろん将来、無益な戦争が起こらない方がいいに決まってる。誰もがそう思っているに違いない。しかし、いまも国境や民族をめぐっていくつもの紛争が勃発していることを考えれば、大きな戦争が将来絶対に起こらないとは誰も断言することはできない。
 著者の試みは、軍事力が強化されていく過程で、軍事技術と軍隊と社会の均衡がどのようにある時には維持され、ある時には破綻してしまうのかを探求することにある。古代や中世の戦争をはじめ、文明的に中国が優位であった1000〜1500年、ヨーロッパが近代化という追い風に乗り始めた1700年代、戦争が産業化しはじめた1840年代、ふたつの世界大戦が勃発した20世紀、1945年以後の軍拡競争時代など、それぞれの時代の戦争を多くの資料から綿密に追っている。
 どの時代の戦争にも、今日教えられる部分と生かされる部分が多いが、特に興味深かったのは、戦争と人口動態の関係である。戦争は多くの人間を兵隊として動員し、多数の死者を出す。第一次世界大戦前、19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリス、フランス、東ロシアの中間に位置するヨーロッパ地域は、深刻な人口問題に見舞われていた。たとえばドイツでは、1900〜1910年の10年間における毎年の出生数は死亡数を86万6000人も上回っていたという。また商工業のめざましい進展により、ドイツの社会には働き口がたくさん発生していたが、逆にそのために国内の人間だけでなく、職を求めるスラブ系人間の大量流入を懸念する声も国内には上がっていたという。そこに第一次世界大戦が勃発した。何千万という農民の息子たちが動員され、何千万規模で死亡した。中・東欧の農村の人口問題はこの戦争でだいぶ緩和されたという。日本でも第二次世界大戦中に農村を中心に人口増加幅が拡大していた状態が緩和されている。
 18世紀末にマルサスが示唆した人口問題を無視した結果、戦争によって人口問題を緩和しなければならない事態に、人間は自らを追い込んでしまっているのだろうか。人間の欲望がむき出しになる戦争はさまざまな局面を私たちに教えてくれる。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.06.06)

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春の数えかた

2002/03/26 22:15

生物を通して、季節の移り変わりを知る。動物行動学者のエッセイ。

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 この時期、春の足音が聞こえてくるような気がする。どんなに冬に戻ったかのような寒さの日でも、その足音は確実に私たちに近づいてきている。春を感じるその瞬間は人それぞれだけれど、私は毎年、家の前にある桜並木の桜に固いつぼみがついてきた、その時に「ああ、春が来たんだ」と思う。だいたい2月半ば頃。あたかも「ぷっ、ぷっ」と音をたてながら、桜のつぼみが毎日少しずつふくらんでいくのがわかる。前の年がどんなに寒波に見舞われようと大雪になろうと、桜は春に咲く。植物が体内に刻んでいる時計は、ほんとうにすごいなあと毎年感心をしてしまう。
 著名な動物行動学者の日高敏隆氏が、さまざまな生物を通して、季節の移り変わりをエッセイにしたためている。そのまなざしはとても温かい。モンシロチョウ、ホタル、セミ、コオロギなどなどの行動をつぶさに見守っているからだ。仕事に追われて、家と会社を往復する日々が続いてしまうと、こと自然には目がいかなくなってしまうものである。まして、足下や木の上にいたりする虫たちには、とてもとても……。だから、そういう虫たち自身や種が生き延びるための行動は、著者のような目をもつ人に代わって解説してもらわなければ、日頃昆虫と接する時間も空間も機会もない私たちにはわからない。
 冒頭の「春を探しに」には、著者の動物行動学者としての姿勢が凝縮されている。戦後、年賀状やクリスマスカードに描かれる「決まり事」のような春の情景ではなく、著者は「現実の春」を探しに歩くようになった。その春は、ことのほか近くにあったという。それは、林の中で死んでいる小鳥の上をチョコチョコとチビシデムシが元気に走っているところに見つけられた。どんより曇った寒い日であっても、チビシデムシは春を感じて、活発に活動していたからである。
 夏になると、部屋の灯りに虫が飛び込んでくるのが楽しみになる。秋が深まって、モンシロチョウの姿を見かけないと冬の到来を思う。私たちがすっかりなくしてしまった季節感を著者が教えてくれる。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.03.27)

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紙の本ホブズボーム歴史論

2001/11/14 22:16

歴史は私たちに何を教えてくれるのか。

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 歴史とは何か。歴史は私たちに何を教えてくれるのか。この問いを突きつけられたならば、私は迷わず、いま自分が立っている位置を示唆してくれるものだと答える。生命の誕生から考えるとおよそ38億年、人類が文字を使って記録してきたものを考えると(諸説あるが)数千年、人類を含む生物は実にさまざまな過程を経てきた。いまこうして世界的に経済大国となった日本に生活しているのも、米国で同時多発テロ事件が発生したこの時期にめぐり合わせたのも、どのような思想的背景をもって研究者生活をしているのかも、現在から遡って歴史を紐解くことによって見えてくる。歴史をたどっていけば、一見人間個人の問題であるかのように思えたものも、実は長い年月を経て蓄積されてきた人間の営みをふまえたものであったことがわかることもある。ジャレド・ダイヤモンド氏の書いた『銃・病原菌・鉄』などがいい例だ。現在家畜とともに生活をしている1人の人間が、どうしてそういう生活をしているのかにしても、もとをたどれば文明の起源にまで行き着く。家畜が東へ東へと大陸をわたって伝播していった歴史があったから、いまの家畜とともに生きる生活があるのである。

 本書は歴史学の大御所ホブズボームの、未刊行の講義録、基調講演、やさまざまなな雑誌に収録されていた論考をひとまとめにしたものである。特になかなか文字に起こされることのない大学での講義録があるのが興味深い。しかし、カリフォルニア大学での1984年の記念講演で話された「歴史は現代社会について何を教えるか?」にしても、ロンドンのLSEで講演された「先を見通すこと−−歴史学と未来」にしても、とても読みこなすのは難しい。これがスーッと聞こえて消えていってしまう講義や講演なのだから、聞き手である学生や聴衆はさぞやついていくのが大変だったろう、と思ってしまうのは余計なおせっかいだろうか。

 上記前者の講義の中で、ホブズボームは、歴史には「人間はどのようにして洞窟の住人から宇宙飛行士になったのか」といった、これまでに人間が進化してきた方向とその仕組みについての問題が含まれていると主張している。しかし、歴史学はこれから人間がどうなっていくか、という予測や希望的観測をするものではない。これまで人間が営んできた社会の変化の形と仕組みを発見することが、歴史学にできることだという。歴史学の提示する過去の経験や教訓によって、時に暴走しかねない社会の趨勢に歯止めをかけられると彼は確信している。調査や統計データによる実証研究ばかりが、現代社会を支えているのではない。カビくさいと言われることの多い歴史研究の方が、むしろその本質を支えている。ホブズボームはそのことを教えてくれる。要は、私たちの歴史に対する認識の持ち方次第なのである。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.11.15)

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紙の本絶滅寸前季語辞典

2001/09/28 03:15

季節を表す「季語」が絶滅しかかっている!見たことも聞いたこともない「季語」が満載

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 「季語」。俳句や短歌でも作らない限り、真剣に覚えようとはしないかもしれない。著者も中学校の教員生活を経て、プロの俳人になった人だ。けれど、季語のすべてを覚えなくても、季節の折に贈るプレゼントと一緒に、季語を散らした手紙を入れてみるのも、とても粋ではないか。そんな気持ちから、本書を手にとってみた。
 著者は「絶滅寸前季語保存委員会」を設立して、活動を続けている。が、それは、特別どこかで公演をして…といった堅苦しいものではない。見たことも聞いたこともない季語を探し出してきて、いまの時代に生きる私たちが詠むとどうなるか、という観点をもって俳句を詠んでいる。つまり、著者がそういう「絶滅寸前」の季語を一句でも詠みさえすれば、少なくとも著者が生きている間は生き残る。だから、わざわざ珍しい季語ばかりに著者は注目しているのだ。
 本書の面白いところは、著者がおもしろいと思った季語、聞いたことないと感じた季語が、春夏秋冬別に並べられているということ。だから、いわゆる「季語辞典」ではない。季語の解説が加えられた後に、その季語を使って著者や現代人が詠んでいる俳句が挙げられている。だから、季語によっては、新旧世代交代の解釈も登場するような俳句さえある。

 まずは、春。「従兄煮」。『大歳時記』を調べた著者にも、これがしょうゆ味であることしかわからない。「事始」の副題として使われているが、これがどんな場面で、どう食べられていたものなのかが一切わからないのだという。その挙げ句「近親結婚を理由に自分をフッた難い従兄を呪ってやりたいと思う女が煎じる毒薬」か、と著者は考えてしまう。そこで一句。「従兄煮のなかに入れたる黒きもの」。この著者の句にも、なんだかよく分からない、正体不明の「従兄煮」がぼんやり表されている。
 夏。「髪洗う」。毎日毎日髪を洗うのが当たり前になってしまった現在、髪は、夏には川などで洗うもの、といわれてもいまいちピンとこない。確かに、この季語も絶滅寸前なのかもしれない。
 秋。「蚯蚓鳴く」。「蚯蚓」は「ミミズ」のこと。ミミズは鳴かないけれど、秋の夜中に耳を澄ますと「ジーッ」という螻蛄(ケラ)の泣き声のことをいうのだそうだ。初秋のいま覚えておけば、しばらく使うことができるかもしれない。昔の人たちは、実におもしろいことを考えるものだとつくづく思う。
 冬。「インバネス」。男性の和服のための防寒着をいうのだそうだ。知らなかった。もともとはスコットランドのインバネス地方のケープ付き外套を指したのだそうだ。著者はどこかあやしげな、インバネスを着た男が異次元へ抜けていく様子を想像している。
 春夏秋冬にプラスして「新年」の季語もある。「人日」。「じんじつ」という正しい読み方を入れても、ワープロソフトが変換してくれなかった。これも、この季語が絶滅寸前にあるひとつの証拠なのだろう。お正月七日のことをいうのだとか。
 もうひとつ新年の季語「嫁が君」。正月三が日、ネズミを指していう祝い詞なのだとか。ネズミを嫁が君か…。お正月であれ、いつであれ、下水道が完備されたために、ネズミそのものをあまり見なくなった私たちには、本当に使われなくなってしまう季語だろう。それに、著者がいうように、「嫁」という言葉自体も、そのうちなくなってしまうかもしれないし。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.09.28)

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紙の本草原と馬とモンゴル人

2001/07/23 18:15

馬とともに草原を駆け抜けてきたモンゴル人の文化を、遊牧とチンギス・ハーンからみる。

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 チンギス・ハーンを民族的にも深く愛してきた、オルドス・モンゴル出身の著者によれば、日本ほどモンゴルという国を理解してくれている国もないそうだ。というのも、他の外国諸国ではほとんど皆無なのに比べ、日本の本屋には多数のモンゴルについての本が多数並んでいるからだという。そう言われてみれば、私たちは近い系統の民族としてモンゴルに親しみを持っている。相撲界にもモンゴル出身の力士が多く誕生しているし、その影響か、モンゴル相撲の存在を知っている日本人もかなり多い。蒙古斑という子供のおしりにできてやがて消えてしまうアザの名の由来も、モンゴルからきている。

 けれど、そうしたモンゴルの人たちの文化を私たちは正確に知らない。いや、ほとんど知らないと言っても過言ではないだろう。本書はモンゴル人とウマが共に生きてきた、その紛れもない文化・歴史を、ウマを通して描写したものである。

 モンゴル人はウマを大切にする。「ものを乱暴にあつかえば財産が壊れる。妻を乱暴にあつかえば家庭が壊れる。ウマを乱暴にあつかえば国家が壊れる」という古い言葉もあるそうだ。彼らは砂漠にいるウマに水をやると、死後天国にいけると信じている。ウマの寿命は14〜15年ほどだが、彼らは、使役に耐えられないほど老衰したウマを家の近くに放たれて天寿を全うさせる。モンゴル人は自らの家畜の群の中から駿馬が誕生するのを夢見ている。頭がひきしまり、耳がピンと立ち、首筋が太く、胸がたくましいといった外見が秀でていることはもちろんのこと、心臓が大きく、大腸が太いといった外見から判断される内面の力強さも、駿馬の必要条件であるという。将来性のあるウマを猛特訓を重ねて競争に出す。そこで見事、トップに輝いたウマが駿馬としての地位を獲得するのである。

 モンゴルは人間とウマが草原の中で共生している。ウマは家畜であると同時に家族であり、友であり、歴史を語るものである。本書の中には人間とウマとの深い関わりをうたった歌が多数紹介されている。どれもこれも素朴で力強く、感情がストレートに出されている。いくつか紹介してみたい。「ヨモギのある草原に/馬群がとどまる/父母のいるところに/子孫が繁栄する」。「草むらのあいだにのこる/あなたと私の足跡/ウマに乗って別れるときに/鞭をふってウマを飛ばしても匂いがのこる」。「ヨモギのある草原をうしない、/愛する馬群の草がなくなった/清らかな湖をうしない、/愛する女たちの顔を洗う場所がなくなった」。父母への感謝も、恋人への想いも、すべてウマを通して語られる。ここまで愛おしい対象として、人間が生活を共にする動物のことをうたった歌があるだろうか。

 本書を読む途中から、私はすっかりモンゴルの人間とウマを語った歌が気に入ってしまった。もちろんモンゴルには行ったことがないけれど、著者の描写と歌から、目の前には見果てぬモンゴルの地が広がる。美しい緑色の草原をウマが駆け抜ける。ウマには人間が乗っている。人間はウマがいなければ生きていけない。人間の目もウマの目も澄んでいる。時計に追われ、コンクリートばかり見ている目とは違うのだろう。なんだかモンゴルに行きたくなってしまった。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.07.24)

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