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挾本佳代さんのレビュー一覧

投稿者:挾本佳代

127 件中 1 件~ 15 件を表示

大平光代流の超独学法。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ことベストセラーになっている本に対する興味の示し方には二通りあると思う。ひとつは「ベストセラーになって、みんなが読んでいるんだから、自分も読まなきゃ」と思って、即座に手に入れて読む場合。もうひとつは「みんなが読んでいるから、やめよう」とあえて読まない場合。私の場合、大ベストセラーになった、大平光代さんの『だから、あなたも生き抜いて』(講談社)はどうも読む気になれなかった。つまり、後者のパターン、単なるへそ曲がりである。しかし、彼女の活躍ぶりはテレビの特集で知っていた。いじめから割腹自殺を図ったことも、極道の妻であったことも、司法試験を一発で合格したことも知っていた。「人生がドラマチックすぎる」とも思っていた。知りすぎていたから、なおさら読む気にはなれなかったのだ。
 しかし、彼女のテレビで映る表情にはとても好感を持っていた。透明感のある顔。おとなしい話しぶり。想像するだけでしかないが、とても極道の世界に生きていた人とは思えない。一度、お話ししてみたい雰囲気さえもっている…。「もう、そろそろいいだろう」と、ずっと気にしつつ読まなかった著者の本を、今回手にとってみた。彼女の独学法がどんなものであるのかも知りたかったからだ。
 いま彼女は、日曜日を除いて、午前4時から6時まで語学の勉強にあてている。日本にいる外国人の弁護人になる時に日本語以外の語学が必要になるからだ。大平流の計画を達成するための7つの方法がすごい。1、あれもこれも一度にしようと思わない。2、したいと思うことを全部紙に書き出す。3、書き出したものに優先順位をつける。4、一番したいことがきまったら、どうすれば達成できるか方法を書き出す。5、それをするのに必要なものだけを揃える。6、必要なもの以外は、目に入るところに置かない。7、無理な計画は立てない。…たいていの人はこの達成法の逆パターンをやってしまって、途中で投げ出すことになる。あれもこれもやろうとするし、全部一緒にやろうとするし、とても無理な計画を立ててしまう。当たり前のことが、当たり前のように書いてある。きっとこの方法で司法試験も合格したのだろう。自分の甘さを見せつけられた、いい本だった。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.04.18)

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紙の本ヴェブレン

2001/01/05 15:15

20世紀きっての鋭い文明批評を展開した、ソースタイン・ヴェブレンの思想と人生。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ソースタイン・ヴェブレン。その名を聞いて、まず何を思い出されるであろうか。経済学や社会学を多少なりとも学んだことのある方なら、『有閑階級の理論』の中で「見せびらかしの消費(誇示的消費)」を提起した人であると想起するかもしれない。

 自給自足経済が崩壊し、工場制工業が進展した近代社会で、農村共同体に拠り所を求めることができなくなった人々は工場で稼ぎ出した貨幣で「消費」を繰り返すようになった。そんな社会で、成り上がり者は自らの金銭的な裕福さを、ある時は妻の高価なドレスや豪華な馬車に、ある時は家中の召使いにお揃いの上等な制服を着せることで他人に「見せびらかし」た。しかしヴェブレンの目は、そのような成り上がり者たちの他人の目を意識した「見せびらかしの消費」だけを、皮肉混じりに凝視していたのではない。彼の目は遙か先を見ていた。人々の間で、このような消費形態が発生しても何の問題ともされなくなってしまった、経済活動だけが躍進する近代社会そのもののおかしさ、矛盾、瑕疵をこそ、ヴェブレンは見据えていたのである。

 ヴェブレンの功績は「見せびらかしの消費」の理論化だけにとどまらない。本書で宇沢弘文氏が主張するように、ヴェブレンの最大の功績は経済体制批判を通して、鋭い近代文明批評を行い続けたということにある。初期の著名な論文「経済学はなぜ進化論的科学ではないのか」では、人間が共同体の中で行ってきたそもそもの経済行為を考慮すれば、決して因果関係の追求だけに終始する古典派経済学にみられるような経済理論は成立しないと徹底して論じられている。また『有閑階級の理論』と同じ観点から、近代人の人間性の変質にまで踏み込んだものに『製作者気質の本能』があることも忘れてはならない。人間が共同体の中で生きていく、その本来的な性向が「製作者気質」と呼ばれていた。この気質が近代産業によって圧迫を受け、人間から喪失してしまった状況は、ヴェブレンにとってどれほど奇異な社会に映っていたのであろうか。

 本書の魅力はほかにもある。それは、宇沢氏が理論的にも思想的にも傾倒するヴェブレンの生涯を、彼の著作を交えつつ見事に展開しているということだ。ノルウェー移民の子であるという出自をもつヴェブレンが米国の大学に就職するのが困難であったこと。彼は女性問題を常に抱えていたために、大学の中でも出世することができなかったこと。それでもヴェブレンは自らが信じる思想を貫き、一生研究者でいたこと。その反面、晩年は寂しい生活を送っていたこと。様々な人たちとのめぐり会わせや幾多の出来事との遭遇があったとはいえ、最終的に堅固な思想を貫いたヴェブレンが孤独であったことがわかる。孤独であったからこそ、数多くの文明批評を何者にも邪魔されずに徹底させることができたのだとも考えられる。

 後世ヴェブレンを起点とする制度学派経済学の理論を受け継いだ人たち——ジョン・メイナード・ケインズ、ジョーン・ロビンソン、ジェーン・ジェイコブス、サミュエル・ボウルズ、宇沢弘文——の業績も簡潔にまとめられている。著者自ら、ヴェブレンの後継者であると明言してはばからないその潔さがいい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.01.08)

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紙の本思想史のなかの科学 改訂新版

2002/06/07 18:15

科学とは何か、を深く考える

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今日ほど、科学とは何かが問われなければならない時代はないのではないだろうか。人類史を紐解けば、もちろん過去に科学が急速に発展した時代は数多くある。しかし、分子生物学が進展し、人間の身体がDNAレベルで分析され、その結果として人間の生命をもクローンという形で人工的に作り出すことの可能性がまことしやかにささやかれるようになったのは今日が初めてである。しかしその一方で、日本の将来を担う子供たちに科学は分が悪い。未知の領域を切り開く科学の宿命が、「こわい」イメージ一色で塗り固められているからだ。
 本書はもとは1975年に、NHKの講座のテキストとして編まれたものが公刊されたものである。だから、思想史と科学の歩みが非常にコンパクトに述べられている。科学にはまったく興味がなくても、人間の思想史には興味がある人ならば、きっとおもしろく読み進めることができる良書である。
 プロローグに収録されている著者ら3人の対談も興味深い。人間と自然を分離させることに拍車をかけることになった科学的思考が、人間の中に潜在的にあったとするならば、それを顕在化した契機が一体何であったのかがここで問題視されている。著者らはそれを解くカギは思想史の中だけでなく、社会・経済史も合わせて考えられるべきとした上で、「近代市民社会の形成」が大きな契機のひとつであったと主張している。社会学者の端くれである1人としては、著者らの指摘にはとても耳が痛い。自然科学と社会科学に跨る分野の開拓がいまだほとんどなされていないのが現状だからだ。
 唯一残念だったのは、分子生物学が急速に進歩する以前の1975年に編まれた本であるために、進化論の影響部分をもう少し大きなスコープで、大胆に加筆したものを読みたかった、ということである。きっと1996年の改訂版でもすでに加えられていたのかもしれないが、今日あらゆる分野でその重要性が痛感されているのが進化論であるということを考えると、この進化論の部分だけでも思想史の中だけにとどまらずに展開してほしかったというのは読者のわがままであろうか。進化論は私たちのいまの生活に密着しすぎるほどしているのだということを、科学者や科学史研究者が説得的に訴えることができれば、科学を志す中高校生も増えてくると思うのだが。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.06.08)

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大航海時代に、失われた東南アジアの多様性を追う

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本にとって東南アジアは地理的にも結構近い外国である。東南アジアには、日本のコンピュータや精密機械などの下請け工場などが多く建てられている。日本人の好むエビを多く輸出していたり、ラタンや籐といった家具の原材料を切り出してくれる熱帯雨林を有しているのも東南アジアである。日本は経済的にみても、東南アジアに多くを負っている。その一方で、エビの養殖地を確保したり、ラタンを切り出すために、熱帯雨林は少しずつ破壊されている。そうした開発は、日本人の欲望が引き金となっているのである。いまだに年配の人たちに東南アジアに対する偏見が根強く見られるが、日本と東南アジアはいまや持ちつ持たれつの関係ではなくなっているのが現状である。日本からの技術移転もあるにはあるが、東南アジアなくして、日本は成り立たないといっても過言ではないのである。
 本書は第一巻につづき、大航海時代における東南アジアの歴史が実に詳細に記述されている。香辛料を中心とした貿易で世界中から注目されざるを得なくなった東南アジアが、ヨーロッパの大国の支配を受け、どのように都市化を進め、軍事革命を起こし、やがてそうした専制主義や世界経済から飛び降りることになったのかが、つぶさに検証されている。いまも日本の三〇年前の姿といわれる東南アジアの社会的な貧困状態を引き起こしたのが、実は土足のまま東南アジアに入り込んだ、日本を含む大国の欲望のためであったことがよく理解できる。しかし著者は、そうした東南アジアを先進国側からの哀れみの対象とはしていない。彼は、専制主義や絶対主義に翻弄された東南アジアを振り返り、その後一八世紀や一九世紀に「世界的に優勢な交易」や「知のシステム」に関わらなかったために、かろうじて東南アジアは部族を中心とした地域ごとに、その「多様性」を保存することができたと結論づけているからである。数多くの島嶼を抱え、さまざまな部族が住むことで東南アジアの人々の生活様式も実に多様性に富んでいた。このことは第一巻を読むとよくわかる。
「多様性」を破壊する全世界に共通の世界システムなどというものは、そもそも共同体の中で生きている人間には無用のものなのである。国家もそうである。大航海時代で大いに揺らいでしまった東南アジアの「多様性」をいま一度深く考え直してみたい。日本の将来像や日本を含めたアジアの将来像を考え合わせて本書を読み進めると、一層深い思索をすることができる一冊である。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.05.16)

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紙の本新しい歴史 歴史人類学への道

2002/03/13 18:15

アナール派の鋭いまでの歴史観。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アナール派というと、即座に社会史と結びつけられる。非常に有名なところではフェルナン・ブローデルの『地中海』がある。地中海世界の自然環境や社会環境の変化を考察し、人間が文明を築きながらまさに「生きてきた」、その歴史を壮大なスケールで描写したものである。このブローデルのスケールに圧倒された記憶をもつ人間としては、ごくごく限られた地域の歴史的資料の考察や人口動態研究から、そこに生きる人々の生活を考察したものも「社会史」であるとブローデルに並列して語られてしまうと、少なからぬ欲求不満が残るものである。また、社会の歴史とは何なのか、アナール派そのものを支える特質とは一体何なのかと考え込んでもしまう。
 しかし、この著者の研究の場合はそうはならない。というのも、著者は、集団の歴史の変化する要因が、いわゆる階級闘争だけでなく、経済・社会的諸関係の中に、また根深いところでは生物学的諸現象の中にもあると率直に指摘しているからである。つまり、人文・社会科学の領域に属する歴史学も、自然科学の観点なくして検討することができないと、「いわゆるアナール派」とは一線を画する見解をもっているからだ。端的にいうならば、人間は決して社会的・文化的な存在だけにとどまらないのである。人間の集団の歴史を、生物学にもひきつけて検討しようとする理論的態度は、まさに歴史人類学のものである。だから、著者は、農業生産が進展していく一三〇〇年代以降から一七二〇年代までの時期を、人間も住む生態系の中に、動植物や細菌が拡大分布した時期であると主張することができるのである。もちろん、この細菌にはペストのような人類を大量に死滅させた病原菌も含まれている。こうした病原菌が人類の歴史に必然的に必要であったと主張しているのは歴史学者だけではない。例えば、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を参照してもらえば鮮明になるだろう。
 本書の中でもっとも興味深いのは、「気候 人間のいない歴史」の章である。著者にとって、気候の歴史をたどることは、人間の生きてきた状態を知ることに直結する。だから、別に「人間のいない歴史」という言葉にペーソスは別段含まれてもいないのである。人間がある地域に生きて、生産活動をしたり、開発をしたりしているから、気候が変動するのである。著者の見解を読み進めていると、オゾン層を拡大させることに、なんだかんだと言っても手を貸してしまっている人間の姿が目に浮かんでくる。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.03.14)

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紙の本失われた手仕事の思想

2001/10/22 22:15

日本から消えてしまった「手仕事」の思想と人間観を探る。

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 いまの時代、「手仕事」と聞いてイメージされるものには2通りある。ひとつは、高度な工芸技術に支えられた高価なもの。厳しい師弟関係。伝統。もうひとつは、コツコツと時間をかけて作られる割に、安価なものになってしまった現実。非大量生産性。厳しい仕事——。手に職をつけた「職人」に憧れる人がいる一方で、そこに至るまでの厳しい道のりを考えるだけでも嫌になる人がいる。安価な大量生産品が大量消費されるいまの日本で、「職人」が生き残ることはかなり困難だ。
 本書には「消えた職人たち」が数多く収録されている。著者が綿密な聞き取り調査を行ったためであろう、かなり興味深い話が盛り込まれている。大分県佐賀関町の、地元で1、2を争う漁師が自分の息子を漁師にさせなかった話は特に強烈だ。「息子に漁師をやらせなかったのは頭が悪かったから。…だから、息子は会社員にしました。いわれたことぐらいはできるでしょ」。1日として同じ海や風の状態はなく、それを的確に判断して漁をしなければならない漁師は、私たちが考えているほど容易い仕事ではない。言われたことだけをやっているようでは、船底1枚下が地獄ともなりうる自然を、とても相手にすることはできないのだ。
 著者いわく、その時代その時代の倫理は、一所懸命生きることから生まれてくる。たとえ安価であっても、自分が作った「もの」に絶対の自信を持っていた職人たちは、間違いなく一所懸命生きてきた人たちだった。質の良い「もの」を作り上げることに傾けられた師匠の精魂は、確実に弟子たちに受け継がれた。だから、弟子は「人間としてのマナー」を犯すような人間にはならなかった。著者がもっとも恐れているのは、「手仕事の時代」が終焉し職人たちが社会から消え、同時に日本人の倫理観と日本人そのものが変質しつつあるということだ。すなわち、日本という社会は、「よいものを、精一杯の力で作り、世に送り出す」送り手と、「よいものと悪いものを区別し選択する」使い手を維持することができなくなってしまった。日本のこれまでとこれからを考えながら、読んでみたい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.10.23)

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過去の社会状況を描いた文学からも、人間が生きてきた歴史をたどることができる。

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 いま私たちが生きているこの時点から、200年ほど経ったとする。途中、必ずしも幸福な時代ばかりではなく、戦争や自然災害などに人間は見舞われ、コンピューターのデータベースも破壊されてしまって、数十年間のさまざまな記録がほとんどなくなってしまったとする。さまざまな事件や出来事の生き証人もほとんどいない。いたとしても彼らの口にすることが、それぞれバラバラだとする。さて、200年先の未来の人間は、過去200年の人間の歴史の空白を、何をもとに、どのように埋めていったらいいのだろうか。このとき、もしここに過去200年間に出版された文学作品があったとしたら、彼らはどうするだろうか。その文学作品をまったくのフィクションとして捉え、「フィクションから歴史はたどれない」とするだろうか。それとも、その文学作品にも当時の社会や文化や世相を映し出す決定的な要素も含まれているとし、「文学も歴史の一部である」と認め、それを考慮に入れて歴史を構成していくだろうか。
 いささか「究極の選択」みたいになってしまったけれど、もしキース・トマスがこの「選択」をしなければならないとしたならば、迷わず「文学も歴史の一部である」とし、文学から歴史をたどりうるとする立場を採るだろう。

 確かに、『歴史と文学』の中でトマス氏も述べている通り、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』でジュリエットは13歳で結婚をしているが、これが当時の平均的な初婚年数を表しているわけではない。人口史と社会構造史研究に優れている、ケンブリッジ・グループによってそのことが論証されている。同様に、このケンブリッジ・グループは、王政復古期の喜劇に見られるような性的に放縦な気風が社会中に蔓延していなかったことを、当時の私生児の統計数からはじき出した。むしろ、王政復古期は性的に抑制の強い時代だった、と。

 しかし、だからといって文学を史料とみなすことができないことにはならない、というのがトマス氏の主張だ。トマス氏は、歴史学者ももちろんのこと、人間には過去の文学のテキストから新たな解釈を発見する力の可能性を信じている。つまり、過去の文学はたったひとつの切り口だけから解釈されるべきものではないと彼は確信している。たとえその切り口が、多数派に支持される従来の切り口に比べて、大いに異なる、かなり斬新なものであったとしても、その新しい切り口は新たな歴史世界に接触する可能性をもっているのである。トマス氏はそう主張している。そもそも史料とて、人間の想像力なくして歴史を再構成する材料とはならないのだから。

 歴史を、現在の人間にまで連綿とつながる、過去の人間が生きてきた記録とするならば、人間という種が生き続けているように歴史もまた生き続けているのである。だから、硬直でどこにも隙のないガチガチの解釈は、どちらかというと歴史には似合わない。生身の人間に生傷が絶えないように、歴史もそういうものであると考えたい。訳者の中島俊郎氏が過去を通して現代を見据える「まなざし」をもっているという、トマス氏のさまざまな論考を読んで、そう考えた。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.03.10)

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人間の「精神」や「心」や「人間性」の起源を霊長類学からアプローチする。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「人間はサルから進化した」とはあまりにもよく使われるフレーズである。しかし、実はこの言い方は、現在明確になっている進化論に照らしてみると、正確さを欠いていると言わざるをえない。生命はおよそ36億年前に原初的な生命体から誕生して以来、ゆっくり長い時間をかけて多様化してきた。その多様化された、地球上に存在する生物種のうちのたった1つの種が人間すなわちホモ・サピエンスなのだ、という言い方が好ましいと思われる。「人間はサルから進化した」と言うと、あたかも人間はサルよりも遙かに上等な生き物であるかのような錯覚を与えてしまいかねない。しかしご存じだろうか。チンパンジーと人間との遺伝子の差は、たった1.7%でしかないのである。

 そうであるならば、人間しか「心」を持たないと考えるのは傲慢としか言いようのないものとなるのだが、ではなぜ、人間だけが二足歩行をし、言葉を自由に使い、それによって感情を伝え、文化を伝承してきたのだろうか。チンパンジーやボノボやゴリラやオランウータンと人間との本質的な差は何なのだろうか。ここで安易な答えを出すのは最も危険なことである。なぜなら、人間だけにではなく、チンパンジーにも「社会」や「文化」はあるし、独特の「意志の伝達方法」もちゃんとあるからだ。

 いま霊長類学を研究する科学者は、人間とチンパンジーとの間の、たった1.7%の遺伝子の差を埋めようとしている。その研究が成功すれば、人間の「精神」「人間性」の起源をたどることもできるからだ。本書は雑誌「科学」に掲載されていた、「心の進化」についての論文を収録したものである。多少難しい内容の論文もないではないが、これを読むといま霊長類学者が何を実験し、今後何をやろうとしているのかがわかる。生物学や霊長類学に馴染みのない人は、わかるところだけ飛ばしながら読むのがいいかもしれない。「心の進化」を考えるに有益な内外のインターネットのサイトも紹介されている。

 例えば、京大霊長類研究所にいる有名なチンパンジーのアイは、モニター上で色を見、それを表す漢字を答えることができる。野生チンパンジーは一組の石とハンマーを台として活用し、堅い木の実を叩き割り、その中味を取り出して食べることができる。つまり、「言語」と「道具」は人間に固有のものではないのだ。霊長類の知性がどのように進化していったのか、を解明するひとつのアプローチの端緒がそこにある。その他「道徳」や「利他行動」を解明する研究や、遺伝子から人類の成立をたどった研究も収録されている。

 霊長類学者は自然科学者である。その自然科学者が、いままで人文・社会科学者が研究してきた「人間性」についての研究を、自らのフィールドを起点にしてものすごい勢いで進展させている。個々の霊長類の「人間性」が解明された暁の次なる課題は、おそらく「社会」だろう。なぜ個々の霊長類は単独で生きるのではなく、群れをなして生きているのか。群れを形成するきっかけや動機は一体何なのか。従来この問題は自然との関わり合いだけから論じられることが多かったが、それが個体レベルから解明されるようになると、いままでの研究にかなりの厚みが加えられることになる。そうなると人文・社会科学者はうかうかしていられないと思うのだが、どうだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.01.05)

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私たちを取り巻く制度が機能不全に陥らないためには、どんな制度が求められているのか。

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 この私たちが現在生きている「社会」とは、一体どんな社会なのであろうか。社会学者でなくても、みんな一度くらいは考えたことがある問題だと思う。日頃接している学生がふと、こんな言葉をもらしていた。「生きているのがしんどいんですよ」。彼はまだ大学生になったばっかりの人間である。けれどその彼に、「社会」は「生きているのがしんどい」と言わせてしまっている。悲しいかな、これが私たちのいま生きている「社会」の抱えている現実である。
 なぜ「しんどい」のか、彼の言い分はここでは省くけれども、その言い分の核心部分をいうならば自分を取り囲むさまざまなものが多すぎるということだ。彼にはそのさまざまなものが、自分にどうも上手く機能していないのだろう。そんな大学生の切実な悩みをチラチラ考えながら本書を読んだ。

 「善い社会」——。何とも皮肉なタイトルだけれど、本書では社会にあるさまざまな「制度」の考察を通して、それらのおかれた現実が見つめ直されている。その試みを行ったのは、ロバート・ベラーを中心とする米国の社会学者5人である。原書が公刊されたのは1991年。以後息の長いセールスを記録している。それだけ本書が考察した現代社会の厳しい様相が核心を突いていたということなのだろう。

 本書で言及されている「制度」は、法とモーレス(習律)の内に埋め込まれ、それらによって強制される規範の型のことを指している。だから、具体的なさまざまな組織だけが「制度」と見なされているのではない。社会に生きる人間が無意識のうちに拘束されている、目に見えない約束事も「制度」として考えられている。
 では、その数多くの人間を取り巻く「制度」は上手く機能しているのだろうか。機能していない、機能不全に陥っている——というのが著者らの診断結果だ。そんな厳しい診断結果を下さざるを得ない米国社会の現実を、インタビューを交えながら浮上させているのがとても興味深い。自らが勤める会社が買収され、経営陣が差し替えされた結果、何の予告もなしに解雇されたキャリア幹部の女性。教養教育がないがしろにされ技術的教育ばかりが横行する教育システムに疑問を投げ掛ける大学教員。人々の精神的・道徳的な拠り所として機能しなくなった教会を、立て直そうとしている牧師。みな米国社会における「制度」が上手く機能していないことを肌身で感じている。

 しかし、著者らはこのような機能不全に陥った「制度」を全面的に見放すことをしていない。彼らは、私たちがまず「制度」の現実を理解し、それらをより善いものへ変えることができると思い描くことが必要であると主張している。けれど一口に「制度」を、著者らが構想する人間一人一人の「生」を支えるような、健全なものへ変えていくのは非常に困難であることは言うまでもない。そもそも具体的な組織のような「制度」は人間によって作られたものであり、一度綻びが生じるや、雪崩式に次から次へと別の綻びが生じていくものだからだ。著者らも「より善い制度」は可能であっても、「完璧な制度」というものがないことぐらい百も承知のはずである。だからこそ、「制度」の現実を第一に理解することが重要であると主張しているのだ。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2000.12.05)

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研ぎ澄まされた論理を駆使する人間になるために。

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 論理学——。この学問の名前を聞いただけで、何やら複雑で堅苦しそうなイメージを持つ方も少なくないだろう。自分には絶対に必要ないと思われる方もいるかもしれない。つい数年前までは私もそうだった。しかし、本格的に論理学を研究することはなくても、自分の思考を明確にし、特にそれを文章化して整合性をもたせなければならない時には、やはり論理学は必要なのである。少なくともその文章の中に「論理」という言葉を使う以上は。
 三浦俊彦氏の同じく日本放送協会から出版された前回の『可能世界の哲学』よりも、今回の『論理学入門』の方がより初心者向けの作りになっている。しかし、前回のものは「わたしはどこにいるのか」という、哲学には欠かすことのできない問題に焦点を絞り、それを論理学的に解明した興味深いものであったので、『論理学入門』を面白いと感じた読者には、ぜひとも前回の本もお薦めしておきたい。

 本書を読み進めていくと、論理学とは実はゲーム感覚で取り組むことができる学問であることがわかる。命題は、必ず真か偽である性質をもっている。真でも偽でもないということは絶対にない。この証明を、論理学では記号を用いて徹底的に行うのである。本書では所々に演習問題が提示されているので、覚えた論理学の文法をそこで試してみるのもいい。私は結構この演習問題にはまってしまった。演習問題を解いていくうちに、例えば新聞紙上でも賑わっている「なぜ、人を殺してはいけないのか」という問題にも、論理学的な観点からアプローチすることができるようになる。

 しかし何といっても、本書で最も興味深いのは、後半の半分の紙幅が割かれている「人間原理」に対する論理学からのさまざまなアプローチだ。
 「人間原理」とは、例えば宇宙の存在など、人間が推論でしか(自然科学領域において完全に解明されるまでは)当面接近するしかない現象や事実に対して、「私」の立場・位置を組み込んだまま展開される論理学の発想法である。非常に簡単な一例を挙げるならば、「宇宙開闢以来の時間はどれくらいか」という未だ自然科学者によっても正確な解答を出すことができないような究極的な問いに対し、人間原理では次のように解答がされる。「この問いに答える私が誕生するのに〜億年の時間がかかったから、〜億年だ」と。

 本書によれば、同じ「人間原理」と称してはいても、「人間の場所・位置」の必要性の強弱によって、「強い人間原理」と「弱い人間原理」とに峻別することができる。「地球以外に知的生命体は存在するのか」などという人間のロマンを掻き立てる壮大な謎を解明するのに、人間という「観測者」の存在を必要とするのか、しないのか。「人間原理」を突き詰めて提示される宇宙の謎に対する一解明が、なぜ自然科学者全員が受け入れられないのか。そんなことを考えながら本書を読むのは非常に楽しい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2000.11.06)

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1個の人間は、ミーム・マシーンとして生きているのか。「ミーム」という新たな言葉を広く展開した本。

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 人はよく他人の模倣をする。自らがこうありたいと願う理想の人のしぐさを、知らないうちに模倣していることもある。
 そんな時、ある人を模倣した私には、その人から「ぼんやりとした何か」が伝え渡されるという。それが著者スーザン・ブラックモア氏のいう「ミーム」である。

 このミームという多くの人にとって聞き慣れない言葉が本書のテーマだ。彼女が提唱するミーム学では、ミームが遺伝子同様ひとつの独立した利己的な自己複製子として取り扱われている。つまり、人間が遺伝子の乗り物であるように、私たちはミームも乗せて生きている。ミームは多くの人々の間でやり取りされ、そのことによって宗教や科学や文化が形成されるという。

 ミームは人間世界に多大な影響を及ぼしている。カップルが子供をもたずに生きていくことを決定したのも、ミームが、遺伝子よりもミームにエネルギーを注ぐように戦略的に2人を説得したからだ。ある集団の中で人気のある人物は、人気があるゆえに他人にその行動が模倣され、模倣されるがゆえに彼のミームは広がっていく。本、電話、ファックスなどはすべてミームによって生み出され、淘汰された結果残った発明品である。もちろん今日インターネットがこれほど発展したのも、すべてミームのおかげなのだ。
 人間自体がミームの集合体であり、人間はミームをもっているおかげで動物とは違うやり方でものを考え、作ることができる。人間を動物から切り離し、特別な存在にさせるものがミームを発現させる模倣の能力なのである。ブラックモア氏の主張はここにある。

 しかし、ミームに関しては、スティーブン・J・グールド氏(古生物学者)など、ブラックモア氏とは全く異なる見解をもつ生物学者も多い。彼らは総じてミームの存在自体に懐疑的であり、ミームとはメタファーにすぎないという意見をもっている。
 遺伝子になじみの少ない読者にお勧めしたい本に『DNAがわかる本』(中内光昭著、岩波ジュニア新書)がある。ここで平易に展開されているDNA(遺伝子)がミームと同じ作用をしているかどうか、ここのところの判断は読者にゆだねたい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2000.08.28)

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紙の本挑発する肉体

2002/06/06 15:15

乳房の挑発する力を、理性的な近代人も制御できなかった

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 デュルはどこまでも執拗にノルベルト・エリアスに喰らいつく。『文明化の過程』の中で、エリアスは近代社会と前近代社会について間違ったイメージを構築しているとデュルは主張する。本書は「文明化の過程の神話」シリーズの4巻目である。5巻で完結するとされるこのシリーズの今回のターゲットは、人間の肉体それも女性の乳房である。近代人は前近代人に比べて、人間の「動物的性質」を制御することができるとしたエリアスの考えを、デュルは乳房を武器に覆そうというのが本書の目的である。
 デュルの主張はとても明快である。すなわち、西洋社会は近代であろうが前近代であろうが、過去数千年にわたって女性の乳房に象徴されるエロチズムの放出を完全に制限することはできず、まして人間や社会の中に内面化することなどはとてもできなかった、とする。その証明のために、デュルはさまざまな時代の乳房の在り方を探る。ヴィクトリア時代のデコルテ部分への注目、人前で授乳する母親、トップレスで海辺にくつろぐ女性たち……。社交界で女性は、単に日常的かつ美的にデコルテ部分をさらけ出していたのか。母親は無邪気に授乳していたのか、男を誘惑する意図もあったのか。「はじらい」はあったのか、などなど膨大な乳房をめぐる資料を駆使してデュルは「文明化の過程」を覆すことを試みる。
 デュルの指摘を待つまでもなく、エリアスの『文明化の過程』では、人間の本来的にもつ「生物学的人間」の部分に対する考察が十分になされているとはいえない。エリアスにとって近代人は「理性的人間」を絵に描いたような人間なのであり、たとえ衝動にかられてさまざまな行動をしようとも、理性があればすべて制御することができると確信される人間なのである。前近代と近代の比較も、いまとなってはステレオタイプ的な節さえある。そこを突いたのがデュルなのである。エリアスがすでに故人になってしまっているために、デュルの自らに対する批判への回答は、エリアスを信奉する文化人類学者などに向けられるだけになっているが、それももったいない気がする。「理性的人間」を頑として譲らない研究者は他にもたくさんいるからだ。デュルが挑戦的にならざるを得ないのは、そうした彼らが、人間の生の部分を認めようとしないで、人間の社会や人間そのものを平然と語っているからだ。(bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.06.07)

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各時代の戦争が及ぼした影響を探る

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 過去のどの国家も、そのほとんどが軍事力を強化することを追求するようになった。軍事技術の進歩、軍隊の組織化や拡大は、人々が考える理想とする社会も変えてしまった。もちろん将来、無益な戦争が起こらない方がいいに決まってる。誰もがそう思っているに違いない。しかし、いまも国境や民族をめぐっていくつもの紛争が勃発していることを考えれば、大きな戦争が将来絶対に起こらないとは誰も断言することはできない。
 著者の試みは、軍事力が強化されていく過程で、軍事技術と軍隊と社会の均衡がどのようにある時には維持され、ある時には破綻してしまうのかを探求することにある。古代や中世の戦争をはじめ、文明的に中国が優位であった1000〜1500年、ヨーロッパが近代化という追い風に乗り始めた1700年代、戦争が産業化しはじめた1840年代、ふたつの世界大戦が勃発した20世紀、1945年以後の軍拡競争時代など、それぞれの時代の戦争を多くの資料から綿密に追っている。
 どの時代の戦争にも、今日教えられる部分と生かされる部分が多いが、特に興味深かったのは、戦争と人口動態の関係である。戦争は多くの人間を兵隊として動員し、多数の死者を出す。第一次世界大戦前、19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリス、フランス、東ロシアの中間に位置するヨーロッパ地域は、深刻な人口問題に見舞われていた。たとえばドイツでは、1900〜1910年の10年間における毎年の出生数は死亡数を86万6000人も上回っていたという。また商工業のめざましい進展により、ドイツの社会には働き口がたくさん発生していたが、逆にそのために国内の人間だけでなく、職を求めるスラブ系人間の大量流入を懸念する声も国内には上がっていたという。そこに第一次世界大戦が勃発した。何千万という農民の息子たちが動員され、何千万規模で死亡した。中・東欧の農村の人口問題はこの戦争でだいぶ緩和されたという。日本でも第二次世界大戦中に農村を中心に人口増加幅が拡大していた状態が緩和されている。
 18世紀末にマルサスが示唆した人口問題を無視した結果、戦争によって人口問題を緩和しなければならない事態に、人間は自らを追い込んでしまっているのだろうか。人間の欲望がむき出しになる戦争はさまざまな局面を私たちに教えてくれる。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.06.06)

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紙の本春の数えかた

2002/03/26 22:15

生物を通して、季節の移り変わりを知る。動物行動学者のエッセイ。

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 この時期、春の足音が聞こえてくるような気がする。どんなに冬に戻ったかのような寒さの日でも、その足音は確実に私たちに近づいてきている。春を感じるその瞬間は人それぞれだけれど、私は毎年、家の前にある桜並木の桜に固いつぼみがついてきた、その時に「ああ、春が来たんだ」と思う。だいたい2月半ば頃。あたかも「ぷっ、ぷっ」と音をたてながら、桜のつぼみが毎日少しずつふくらんでいくのがわかる。前の年がどんなに寒波に見舞われようと大雪になろうと、桜は春に咲く。植物が体内に刻んでいる時計は、ほんとうにすごいなあと毎年感心をしてしまう。
 著名な動物行動学者の日高敏隆氏が、さまざまな生物を通して、季節の移り変わりをエッセイにしたためている。そのまなざしはとても温かい。モンシロチョウ、ホタル、セミ、コオロギなどなどの行動をつぶさに見守っているからだ。仕事に追われて、家と会社を往復する日々が続いてしまうと、こと自然には目がいかなくなってしまうものである。まして、足下や木の上にいたりする虫たちには、とてもとても……。だから、そういう虫たち自身や種が生き延びるための行動は、著者のような目をもつ人に代わって解説してもらわなければ、日頃昆虫と接する時間も空間も機会もない私たちにはわからない。
 冒頭の「春を探しに」には、著者の動物行動学者としての姿勢が凝縮されている。戦後、年賀状やクリスマスカードに描かれる「決まり事」のような春の情景ではなく、著者は「現実の春」を探しに歩くようになった。その春は、ことのほか近くにあったという。それは、林の中で死んでいる小鳥の上をチョコチョコとチビシデムシが元気に走っているところに見つけられた。どんより曇った寒い日であっても、チビシデムシは春を感じて、活発に活動していたからである。
 夏になると、部屋の灯りに虫が飛び込んでくるのが楽しみになる。秋が深まって、モンシロチョウの姿を見かけないと冬の到来を思う。私たちがすっかりなくしてしまった季節感を著者が教えてくれる。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.03.27)

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紙の本文楽に連れてって!

2002/01/17 22:16

文楽は楽しい!文楽の成り立ち、楽しみ方、演目などを興味深く探求した一冊。

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 歌舞伎はどうも好きになれないのだけれど、文楽は結構好きである。人形遣いがあやつる人形のしぐさや表情が、人間以上に「人間らしい」ことが一番の理由だ。恋する表情、怒りに震えて般若となる表情、裏切りに悩む表情……。挙げていけばキリがないけれど、ともかく人形に見入ってしまえば、私は人形遣いの方が3人いることはまったく気にならない。しかし、人形は同じ演目でも人形遣いによって、その表情を変えてしまうのも事実だ。個人的には、女形遣い・吉田簑助のあやつる人形に一番魅せられてしまう。

 とはいえ、文楽についてまだまだ知らないことはたくさんある。特に、人形から入ってしまった私としては、文楽そのものの文化的な成り立ちから人形遣いの過酷な修行(?)まで、「やわらかく」書かれた本はないかと以前から探していた。人形浄瑠璃について「難しく」書かれた本はいくらでもある。でも、そうした本は、それこそ肩がこってしまうのである。文楽を知らないずぶのシロウトを「こんなことは知っていて当たり前」と小バカにしている雰囲気がありありで、読んでいていやになってしまうからだ。

 けれど本書には、そんないやな雰囲気はまったくない。まず著者が楽しんで、自分も知らなかったことをさらけ出してくれているのがいい。著者にいわせれば、「三味線を弾く人」は「ベンベンベン」とやる。太夫は「ウニィーという絞り出す調子で」うなる。本書冒頭から文楽開始の枕部分をこんな具合で紹介してくれているので、全然肩がこらないで読み進めることができる。まさに、文楽にちょっと興味はあるけれど……と二の足を踏んでいる人にはうってつけの入門書なのだ。
 本書で教えられたことがたくさんある。まず、語りを担当する義太夫が大阪弁であったこと。知らなかった。江戸時代の芝居小屋の料金が、庶民レベルではなんだかんだで千二百円から二千五百円かかっていたこと。へえ、結構、庶民もお金をかけて楽しんでいたんだ。人形の首には、「老け源太」「動きも源太」などそれぞれ名前があること。ほぉ、こんなことを知っていれば、文楽ももっと楽しくなってくる。……など。

 著者によれば「文楽は日本のサグラダ・ファミリア」。現在の人形遣い3人であやつる文楽スタイルになるまでの歴史的経過をひもといてみると、日本人がコツコツと文楽という文化を積み上げてきたことがわかるからだ。ひとつの文化は、昨日今日の時間でできあがるものではない。私たちは、ヨーロッパでいまだ盛んな舞台上から糸で操ったり、下から棒や針金で操ったりする人形劇ではない、固有の人形芝居の伝統をもっている。それは誇るべきものなのだ。日本文化に憧れる諸外国の人たちに「文楽って何?」と尋ねられて答えられず、「知らないの? 日本人なのに」と言われないためにも(結構、よく言われる!)、本書をひもといて文楽にはまってみるのもいい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.01.18)

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