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先月(2017年4月)

宮崎哲弥さんのレビュー一覧

投稿者:宮崎哲弥

2 件中 1 件~ 2 件を表示

教育基本法を原点とする教育再構築

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 社会の混迷や矛盾は教育現場に凝縮される。はっきりいってこの国の教育はほとんど瀕死の状態である。
 そうした危機的状況を眼前にして、泥縄式に組織された首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」だが、その三つの分科会から提出された審議報告は絶望的な出来映えである。
(2000年7月26日発表=http://www1.kantei.go.jp/jp/kyouiku/)
 とくに「ボランティア徴兵制」ともいうべき「共同生活による奉仕活動の義務化」案を盛り込んだ「人間性」をテーマとする第一分科会の報告は、まともな教育学者からは「飲み屋談義の水準」と揶揄されて当然の、箸にも棒にも掛からぬ代物であった。
 その「国民会議」第一分科会の審議報告によって、「戦後民主教育の象徴」として目の敵にされたのが、教育基本法である。

 このような動きに抗するかのように、在野の思想史家、関曠野は本書で、まさにその教育基本法を原点とする教育再構築を熱っぽく説いている。
 関は、教育基本法第一条に書き込まれた「教育は人格の完成をめざすべき」とする手垢にまみれきった文言に新たな光を当て、賦活させようと提言する。そして「人格」の陶冶こそが教育の目的であることをいささかも臆せずに論白していく。
 ところで、この「人格」。これは、おそらく近代以降の日本人にとって、最も理解し難い概念の一つではないだろうか?
 明治期、人格理念の重要性に曲がりなりにも気づいていたのは、開明的なキリスト者たちであった。そして戦後のなってキリスト教信仰を持つ知識人たち、田中耕太郎や南原繁らによって教育基本法は起草されたのである。
 関曠野は、近代人格理念の発源であるプロテスタンティズムに遡り、また学校教育の淵源をユダヤ教に探り当てながら、その真義を次第に説き明かす。
 こうして「人格の完成」という日本人にとってかなり不可解な、不可解であるが故に呪文化され易い抽象理念が、国家権力を支配する自律的市民の養成という実効的な目的へと接合される。
 ここで関の主張する国家観、憲法観は、近代という歴史的制約を前提とする限りとてもオーソドックスであり、教育はその公共性醸成に不可欠な過程として位置付けられている。
 関が公教育の目的としている「民族」とは、国権を道具として利用して自由な主体性を勝ちとり、国家を不断に監視する市民の集合態の謂なのだ。

 本書は、一貫した思想史を踏まえた「健全なナショナリズム」に基づく教育論である。「自由主義史観」に則った歴史教科書を捏造しようとしたり、冒頭で触れた教育基本法にレヴェルの低い難癖を付けるような連中は、「民族」を「卑屈で退嬰的な『臣民』」に仕立て上げようとする因襲主義者ではあって も、断じて「ナショナリスト」ではない。
 本書には、国家論に関わる点以外でも、ハッとさせられるような識見が鏤められている。
「人格の完成」といったパーフェクショニズムを否定し、国民国家と公教育の相対化をめざす私のような論者にとっては手強い対手だ。けれど論敵は優れていたほうがよい。

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知的複眼思考法

2001/10/01 02:01

理屈の御し方

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ビジネス本の領域では最近、クリティカル・シンキングとかロジカル・シンキングとかを習得するための入門書がちょっとしたブームになっている。また哲学、教養の分野でも野矢茂樹の『論理トレーニング』 『論理トレーニング101題』が売れている。
 
 ビジネスのスキルとしてであれ、教養としてであれ、論理的な思考慣習を養うことは悪いことではない。
 だが、注意しなければならないのは、あまり論理操作ばかりに長けると、社会生活を滞りなく営んだり、会社や家庭で円滑な人間関係を維持するのに支障が生じる場合があるということ。
 何故なら、論理はあくまで推論過程の正しさ、結論導出手順の正しさを保証するものであって、現実的な正しさや妥当性を保証するものではないからだ。
 例えば「神の実在」を前提として、論理的に万全な神学体系を構想することは可能である。しかし「神の実在」を信じない人間にとって、それはいくら精密な究理であろうとも無益な徒労にしかみえない。
 落合仁司の『ギリシャ正教 無限の神』はそういう閉ざされたロジック体系の好例だ。「神の無限性と数学の集合論における無限性がもし同型であるとすれば」という、極めて強い仮定(ありえそうにない仮定)を前提として、神と人の合一と神の自己超越に関する整合的な神学体系が構築されている。ところが、人が神の無限性に触れ得る経験的事実として挙げられているのは、瞑想や観想など昔ながらの「心身技法」によるトランス(変性意識)なのである。映画の「π」(ダーレン・アロノフスキー監督、1997年)みたいに、数学が世界を統御する神の原理の実在を直証するわけではないのだ。
 この本で駆使されている論理性は、(1)「神の存在」を信じない者、(2)神は信じても「神の無限性」を否定する者、(3)神の無限性は信じてもそれと「集合論における無限との同型性」を馬鹿馬鹿しいと思う者、(4)神の存在や神の無限性は信じても「神と人との合一」は首肯できない者、にとってまったく理解不能であり、極めて特殊な神秘主義に奉仕するものに過ぎない。
 もちろん落合が、自分の信奉する「ギリシャ正教」をそのように規定することは何ら問題はない。信心は自由だからである。私がどうにも承服できないのは、落合がありえそうもない仮定の上に組み上げた特殊な神学理論を、あたかもすべての宗教を原理的に「基礎付ける」かのように牽強している点だ。
 仏教者としていわせてもらうが、落合の仏教理解にはほとんど同意できない。
 仏教の根本教理は「すべては無常である」だ。常住不滅の実体の存在を絶対に認めないのが仏教なのである。まして無限の超越者の存在を前提とするはずはない。
 落合が引いている「仏教」のイメージ、とくに「成仏」のイメージは、ヒンドゥー(バラモン)教の梵我一如(宇宙原理である梵=ブラフマンと個人存在の本体である我=アートマンの究極的合一)に近い。だが仏教とはまさにその梵我一如を否定する思想運動として発出したのだ。

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