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  3. 井上真希さんのレビュー一覧

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先月(2017年8月)

井上真希さんのレビュー一覧

投稿者:井上真希

73 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本マスタベーションの歴史

2001/11/08 22:16

旧約聖書の世界から現代のエイズとの関連まで、豊富な資料でパーソナルなテーマをパーソナルに読み解く

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 滅多矢鱈に相手かまわず持ち出せない(持ち出すと不適切なことになりかねない)が、マスタベーションは多くの人々と共通の話題として語り合える可能性をはらんだ、しかしあくまで非常にパーソナルな楽しみであろう。

 本書は、社会心理学者である著者が、マスタベーションについて論じられた欧米の文献約150点に当たり、古くはオナニーの語源となった旧約聖書創世記のオナンの話から、18世紀に書かれた世界最初のマスタベーション論『オナニア』及び初の本格的研究書『オナニスム』を経て、現代のエイズ問題に抗する究極のセイフ・セックスとしての位置づけに至るまで、貴重な資料の原文を忠実に紹介しながら、実証的にその理論の歴史をまとめた労作である。
 衰弱して死に至る病、あるいは精神を破壊する悪疫としてのマスタベーションの諸症状や治療法に関する記述の一例を挙げると、スイス人医師ティソは「自力で立てない、介助なしには手足を動かせない、言語障害、発声がはっきりしない、首を支える筋力の低下、鬱状態、発熱、目に力がない、数年以内に死亡」「10歳でこの悪の道に入って以来、虚弱、痩せていて顔色が悪く、いつもふさぎ込んでいる胆汁質の若者への処方は、下剤の酒石酸、スチール・ダスト、それにシナモンを少し混ぜたものを1日3回服用」「背骨が痛く血の流れの悪い外国人夫婦への処方は、水浴、キナの木の皮からとったエキスを入れたワイン、そうして赤い薔薇の花。水浴は、妻は1日2回、夫は12回。こうして6週間」(以上『オナニスム』)、また、アメリカで最初に発狂説を唱えた精神医学者ベンジャミン・ラッシュは「私の診療体験では、1804年から1807年までの間にオナニズムが原因で発狂した患者が4人いる。この傾向は若者に多く見られるもので、その頻度は、親や医師たちが考えるよりもずっと高い」(『精神の病気についての医学的探求と観察』)と書き、偽医者でも民間療法でもなく、大真面目な医師の著作であるところが18〜19世紀の医学をよく表している。

 世代や環境によって、罪悪、病気の要因、恥辱、正常な行為など、異なる観点から教育を受けたことにより、マスタベーションに対する考え方や実践の有無はさまざまだろうが、本書を読むと、自分の聞き覚えのある理論の源流はこのあたりかもしれないと誰もが思い当たるはずである。当時はさぞや人々を恐怖のどん底に陥れたであろう害悪論に基づいた珍説やリアルなイラストの数々は、今となっては不気味なレトリックの宝庫として楽しむことも可能である。
 人を狂気に導くのは月光だと考えられていた時代のアンチ・オナニズムの産物——精気増強剤「ストレングスニング・ティンクチュア(強壮チンキ)」、グレアム小麦粉、ケロッグ社のコーンフレーク、勃起するとアラームが鳴る電気警報装置などについての記述も必読であるし、当時からタンニンやカモミールやミルクが身体によいとされて食餌療法に用いられていた事実も面白い。
 豊富な歴史的資料によって、このパーソナルで今日的なテーマを自らの裁量で自由に読み解くことのできる一冊である。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.11.09)

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臨床家のみならず、誰もが自らを知るための必読書

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「ナルシシズム」という言葉がギリシア神話に由来することは誰もが知っている。水に映る自分の姿に恋をし、美しさの虜になって水面を飽かず眺めた美少年の物語「エコーとナルキッソス」の主人公の名前から、「自己陶酔」を意味する単語が生まれたのだ。
 19世紀の心理学者は、ナルキッソスのエピソードを自分の肉体を過剰に愛する性的倒錯(自己性欲)として説明した。『ナルシシズム入門』を著したフロイトも、ナルシシズムの意味を「性的対象を愛するように自分自身のからだを愛する人の行動」と理解していたとのことで、初期の精神分析の世界で、ナルシシズムは主に誇大な自己讃美として注目され、一般的なイメージもそれに従ったのである。ナルシシズムとは自己中心的でエゴイスティックな自己愛であると。

 本書の著者アスパーは、スイスで長年にわたり、自己愛の問題を抱えたアナリザンド(被分析者)の心に「聴き耳を立て」てきた分析家である。
 現在の精神分析でナルシシズムとは、自尊心の障害、自己愛の障害を指すのだという。誇大型(いわゆるナルシシズム)と、その反対に内向する抑うつ型と、まったく対照的なふたつのタイプがあり、しかも、ひとつの人格のなかにふたつともが存在し、両極が交代を繰り返す。親との死別、喪失体験、病気、社会的逆境からのダメージ、戦争の影響などの不幸な運命による物理的見捨てられ、あるいは家族が揃っていても、子供時代に養育者から共感を得られなかったことによって情緒的見捨てられを経験すると、空虚さ、悲しみ、無力感、不安、憤怒、羨望、憎悪といった情動が生まれ、それから身を守ろうとして、不安定な自尊心は両極端に揺れ動き、本当の自己の姿は見えなくなる。生き延びるために周囲に過剰適応して外見上はうまくやっていても、自己を肯定できずに苦しみ続け、心の傷から解離しようとすることは本質的な自己からの解離となる。昨今のナイフで自分の身体を傷つける人々も、そうすることによってしか自分を感じられないほど深い自己疎外に苛まれているのだろう。
 著者は、この「見捨てられと自己疎外」の側面から自己愛障害の問題を扱い、おとぎ話から読みとれる症例や臨床経験から得たさまざまな事例の紹介、治療の過程、自己を取り戻す帰結へと、段階的に詳述してゆく。つまり、問題になっている自己愛とはself-love、肯定的な意味で自分の本性を愛し、大事にできることであって、そうした健全な自己愛の障害がナルシシズムなのである。

 アナリザンドが分析家に接すると、過去に存在していた人物が分析家に投影され、それを通して過去の経験を再体験する「転移」が起こり、分析への道が開かれて治癒へ向かうというが、まさに本書を読み進めていて、似たような現象を体験した。描かれたアナリザンドの苦悩に自分の体験が投影されて、無意識のうちに抱えていた問題が顕在化し、一時的に不安定な精神状態に陥ったのである。もちろん、最後まで本書と向き合ったことにより、苦痛は軽減されたのだが。誰もが皆、自己愛障害的側面を持っていることに気づき、そうした人間の不完全さに寛容であれとの著者の思いは、十分遂げられている。

 ナルキッソスが水に映った自分を見つめていたのは、自分を探し求めていたのだ。訳者も述べているとおり、人格障害に関する事件や社会現象をしばしば耳にする今日、臨床家のみならず、自らを知るための有意義な一冊である。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.03.23)

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「Avant,ellem’aimait…前は僕を愛してくれていたのに…」。じっと写真を見つめる半過去

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「文法を意識しないでフランス語を使えるようになることが、文法学習の最終目標ではないでしょうか」(「この本の使い方」より)。画期的な考えで書かれた文法書ができたものだ。かつて私が学校で文法を学んだ頃は、文法のための文法学習といった感があった。文法クラスは文法を、会話クラスは会話を。少なくとも生徒の側には両者に明確な区分があった。言葉の豊かさを極めてゆくにしろ、初めはコミュニケーション・ツールとなり得なくて何のための言語学習だろう。

 この「コレクション・フランス語」シリーズは、<(1)入門>、<(2)初級>、<(3)文法>、<(4)話す>、<(5)読む>、<(6)聞く>、<(7)書く>、<(8)語彙>の8冊から構成され、いずれもコミュニケーションを重視したシステムが取り入れられている。

 本書<(3)文法>は、まったく初めてフランス語に触れる人のための<(1)入門>と、ひととおり基礎的なことを学んだ人、記憶の彼方にある以前学んだ知識をもう一度よみがえらせつつ、新鮮な気持ちでフランス語をとらえ直したい人のための<(2)初級>に続いて、中級レヴェルへと進むにあたっての、それまでに得た知識を体系的に整理できる中継ポイントとなっている。

 学習の姿勢として、「実際のコミュニケーションの場では、『文法的に完全な分でなければ』などとかたくなっていては、うまくいきません。『だいたいこんな風に言えばいいんだな』という柔軟な姿勢でのぞむほうが、言いたいことがよく伝わるものです。文法の学習も『出てくる事項はすべて完全に覚えてしまわなければ』と気負うよりも、『とりあえず重要な点だけおさえておこう』と気楽にやるほうがよいでしょう」(同上)というのだから、肩の力が抜けることこのうえない。実際、しばしば「話し言葉では、○○○とも言います」と解説に出てくる。主眼は「使えるフランス語」なのだ。

 文のしくみや時制が図解されているのもわかりやすいが、フランス語に接している雰囲気を盛り上げるのが、BD(漫画)風のイラストである。形容詞の女性形の項で「une grosse chatte 太った雌猫」には、鏡台に向かってルージュを引くつけまつげのころころした猫、主語+動詞+属詞の項で「Les ?uvres d’art sont cheres! 芸術品は値が張るなあ!」には、ラスコー洞窟に描かれたような動物壁画の前で巨大な石の通貨を遣り取りする原始人たち、目的語人称代名詞の項で「Je ne le connais pas. 私はその子を知らないわ。」には、美術館の陶器を割った男の子が係員に叱られている脇で母親が壁面の絵を見ながら知らん振り、半過去形の用法で「Avant, elle m’aimait… 前は僕を愛してくれていたのに…」には、仲良く肩を並べたふたりの昔の写真を前にして涙ぐむ青年、といった具合。

 なにしろ、途中で投げ出さないためには、楽しくなければいけない。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2000.7.11)

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性の倫理学

2000/07/10 20:49

個人的な経験の範囲を越えて性を考える時

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 本書は、1991年に著書『プライベート・ゲイ・ライフ』によってゲイであることをカミングアウトし、以後も文筆・講演活動などを通してゲイ・ムーヴメントの先駆的役割を果たしてきた伏見憲明氏が、さまざまな立場から「性」の問題に関して専門的に研究、実践してきた12人との対話を通じて、旧来の価値観や思考の枠組みを超えた地平で「性」を新たにとらえ直そうとするものである。

 若年層の性行動、売買春をめぐって社会学者の加藤秀一、宮台真司、上野千鶴子(以上登場順)の各氏、セックス、セクシュアリティ、ジェンダーなど「性」という言葉の概念に関して科学史家の斎藤光氏、同性愛についてレズビアンであることをカミングアウトした高校教諭の池田久美子氏、性愛の変容を文学者の佐伯順子、小谷野敦の両氏、性同一性障害をバイオエシックス(医療の倫理)の観点から医学者の星野一正氏、結婚制度について弁護士の角田由紀子氏、障害者の性を自らも障害者である障害者運動家の小山内美智子氏、生殖の未来がもたらす可能性を社会学者の橋爪大三郎氏、エイズの最近の現状を医療の現場から医師の今村顕史氏と、他者の生存を脅かすような性犯罪を除くほとんどの「性」が、解放されるべき主体として当事者によって主張されている現代を反映して、多岐にわたる角度から多様な議論がなされている。

 本書でも語られているとおり、「性」ほど、個人の感覚に張りついているために自身の実存と切り離して議論することが難しい領域はない。上野千鶴子氏の「セックスについてはどんな人間も、自分の個人的な経験の範囲からしかしゃべれないと言いますが、私は性革命世代ですから、アメリカやその他の国のフリーセックスやオープンマリッジの実践者たちのルポルタージュや、ドキュメントを相当読みました。だいたい生涯の最後に、彼らが一様に回顧的に言うのは、『いろいろやってみたけれど、何と言ってもいちばんよかったのは……』なんですよ(笑い)」の発言にはうなづく方も多いだろう。したがって、本書で展開されているような論理的なものであっても、受ける側は語り手の言説の背後にある性的実存に共感できるかできないかによって反応を示しがちである。そこが、これまで少数者のひとりとして当事者の立場から発言してきた伏見氏が、当事者が当事者であることだけを根拠に主張しているだけでは事態が進展しないことを痛感した所以でもある。

 論者のなかには当然意見の対立があって、それに対する伏見氏の対応は自身がエピローグで認めているとおり、その都度納得したり感銘を受けたりといった「無節操」なものだ。しかし、殊に「性」の問題を考えるにあたっては、それぞれの立場に耳を傾けようとする伏見氏のような態度こそが肝要なのである。少数者の談話を既存の性秩序の枠組みのなかでの珍奇な現象としてとらえ、否定し、現在の社会制度からはずれる人々を差別するのではなく、さまざまなありようの存在そのものを肯定することから始まるのだ。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2000.7.11)

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パリのカフェで

2001/09/11 15:15

公の空間のなかに創り出された〈自分の場所〉が魅力を放つ写真集

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 「良き出会いの場では、人も孤独でいられるのです」とは、この本の著者である写真家、安井道雄氏が、かつて、ある老舗カフェの老ギャルソンに言われた言葉だという。
 確かに、パリのカフェには、年齢性別を問わずひとりで時を過ごす客の姿が少なくない。窓越しのテーブルで広げたレポート用紙の上にペンを置き、カフェを啜るショートヘアの女学生。ハンチングにロングコートの女性は、カウンターで立ったまま出勤前のカフェ・オレを飲む。盛り上がったカプチーノの泡に指で触れてみる夏服の女性、テーブルの上には脱いだストローハット。タバコをくゆらせながらうつむいてエスプレッソのカップに手をやる女性は、美しい背中をガラス越しに誇示しているかのようだ。コートを着込み、弱い冬の光が当たる外のテラスで、カフェ・オレと食べかけのバゲット・サンドを前に、腕組みをして物思いに耽るロングヘアは、待ち人来たらずか。
 コンパクトなサイズに80点ものパリの街角のカフェが収められたこの写真集にも、知人と語らう人びとに交じって、公の空間のなかに独立した自分の場所を創り出している様子がとらえられている。写真家もまた、ひとりでレンズを覗き、その向こうにある、目に見えないドラマを写しだしているのだ。テラスに座る席もないほど混み合う晴れた日の昼間の喧騒もいいが、枯れ葉や雨、雪に見舞われた誰もいないテラスや、深夜から早朝にかけてのネオンに彩られたテーブルが並ぶ、静まりかえった佇まいも魅力的だ。モノクロームの情景に対峙した写真家は、じっと息をひそめていたに違いない。
 パリ最古のカフェ(といっても高級ブラッスリーとして営業している)「プロコープ」は、表通りではなく、裏のパッサージュに面した入口が写っている。その向かい側の手前の店もまた、〈カフェ〉ではなく〈サロン・ド・テ〉だが、由緒正しき「ア・ラ・クール・ド・ロアン」。どちらも時間が止まったような思いに襲われる店だ。その他にも腰をおろしたことのある懐かしい場所がいくつか収められていて、今もまだあるのだろうかと過ぎた時間に思いを馳せた。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.09.12)

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おとなは知らない

2001/08/14 15:15

北イタリアののどかな風景のなかで起こった子どもの世界のショッキングな出来事が重く胸にこたえる小説

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 おとなにも子どもの時代はあった。だから、子どもたちがさまざまなことを見聞きし、時には意味を知らないまま体験もして、おとなの考える以上に多くのことを知っているものなのだと、おとなにはわかっているはずである。おとながどんなに目を配っていても、子どもたちはおとなの目の届かないところに自分たちだけの秩序が支配する世界をつくりだすものだ。無邪気に笑っている子どもにも、混沌とした記憶が漂う暗い深淵のような沈黙の瞬間があるのを見逃してはいけない。

 この小説の舞台であるボローニャ近郊の田舎町グラナローロ・デミーリアの、小麦畑とトウモロコシ畑の続く郊外では、午後になると大勢の子どもたちが空き地の広場に集まって遊んでいた。小学生から中学生くらいまでの集団を年長者が指揮して、その日の遊びの種類を決める。際限のないおしゃべりや、核戦争ごっこ(日ごとに決められる〈秘密基地〉から爆竹の〈核兵器〉を投げる遊び)、ローラースケートなどに興じ、パン屋やジェラート屋でおやつを買って食べ、夕食の時間には散ってゆく。その夏が始まる頃までは。
 だが、秋も近づいた今、10歳のマルティーナが親密にしていた3人の少年たちは誰も集まっては来ない。1週間前から、14歳になったばかりのルーカは1日の大半をベッドで眠りこんで過ごし、10歳のマッテオはまともに食事が喉を通らないまま、連日、グラウンドをひた走っていた。リーダー格だった15歳のミルコはどうしたのだろう。マルティーナはひとり立ち尽くして、マントラにも似た調子で何かに必死で耐えるかのように歌を歌いつづける。それは、人形のような瞳をしていた同級生グレータへのレクイエムでもあるのだろうか——。

 夏の2ヵ月の間、広場から数キロ離れた場所にあるうち捨てられた倉庫で、5人の子どもたちが〈身体のゲーム〉をして遊んだ末の凄惨な結末については、ここでは敢えて詳述しない。ショッキングな光景は、著者が抑制をきかせて描ききっているとはいえ、あまりに重く胸にこたえ、忌々しいことに、子どもたちの行為をエスカレートさせたのが歪んだおとなの欲望であったことによる不快感が澱のように沈殿する。
 著者が、エピグラフにマルグリット・デュラス『夏の雨』からの一節「どんな人生も似たようなものだ、と母はよく言っていた、でも子どものそれはまた別だと。おとなには子どものことはからきしわからない。まったくだ、と父も言っていた、おとなは子どものことは何ひとつ知らないと。」を掲げたのは、おとなになった自分にも親には内緒にしている子ども時代の秘密の出来事があるとの、デュラスの子どもたちへの目配せを感じ取ったからだろう。
 子どもの視線から描いたこの小説のなかで、著者は、無知ゆえに犯した過ちがあったなら、それを忘却の淵に沈めたりはしない、自分は想起した苦い過去をやり過ごしたりはしないと告げているのだ。無垢な子どもの好奇心を利用して陥れ、子どもを傷つけるおとなの側には決してならないために。
 北イタリアののどかな風景とは対象的な闇の物語に震撼させられた。しかし、序文にもあるとおり、「登場人物とストーリーは架空のものだが、じっさいにあってもおかしくない」のである。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.08.15)

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官能の哲学

2001/08/14 15:15

「オルフェウス神話を失効させたメディアの時代」の真只中で読む「身体」=「メディア」=「官能」

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 フランツ・カフカは、自分が書くことをKritzeln、引っ掻くと称していたという。このペンを紙の上にガリガリ音をたてて走らせてゆく行為は、書かれるものが文章であろうと単なる落書き——無意味な文字の羅列や塗りつぶされた円であろうと、ペンを握っている手には同様の感触をもたらす。ないしは落書きのほうが激しい触覚が得られるだろう。
 本書の著者流に進めるならば、ペンを置き、媒介物なしに指で直接引っ掻く場合は、肌、壁、地面などの対象物の質感をさらになまなましく感じるはずだ。ペンが紙に引っかかる時の軽いつまづきどころではない、爪にくい込む重い衝撃は、対象物から抜け離れた途端、快感に変質するかもしれない。眼を閉じて引っ掻いた痕跡をなぞれるものなら、その快楽はいっそう昂進する……。

 身体はつねにメディアに浸透され、メディアは身体に担われている。むせ返るほどの濃密な欲望の馥りに彩られた世界を小説に描く著者が、表象文化論の研究者として、「メディア化された身体」と「身体化されたメディア」との間に生起する出会いのさなかに体験される斜交性の運動に「官能」と名前を与え、「身体」=「メディア」=「官能」という問題系を貫く論文を一冊にまとめたものが本書である。
 全体は3部に分かれ、「カフカのひそみに倣い、紙の上を実際に『引っ掻いてゆく手指』の運動の実践のうちに『官能』の場と条件を定位するべく、やや錯乱的な色合いの濃い文章行為が繰り広げられている」(「後記」)第I部「修辞的身体」、電子テクノロジーが飛躍的に変遷を遂げた20世紀における「官能」の場と条件を考察した第II部「歴史の地平」、小林康夫氏とともに編纂した『表象のディスクール』全6巻(東京大学出版会刊)の序論(プロレゴメナ)として書かれた3篇を集め、第I部、第II部を別の視点から総括する第III部「確率/イメージ/メディア」からなっている。

 「官能」が現勢化(アクチュアリゼ)されるために、諸章で文学や芸術の領域からさまざまな例が引かれているが、なかでも、20世紀に大いなる伸展を実現したメディア、電話にまつわる論考がアクチュアルな第III部第3章「媒介を拒むオルフェウス」(初出は『表象のディスクール』第5巻『メディア——表象のポリティクス』のためのプロレゴメナ)には、プルーストの『失われた時を求めて』第3篇『ゲルマントの方』の「祖母の電話」の挿話とコクトーの一人芝居の戯曲『声』、両者を対比したサミュエル・ベケットの評論『プルースト』及びテレビドラマ『幽霊トリオ』が絶妙に取り入れられている。メディア以前のプルースト、完全な「無媒介性=即時性」の実現の「華やかな可能性に満ちた楽天的なポストモダン」としてのコクトー、「可能性の芽が一つ一つ潰され、何もかもが磨り減って、もう空無しか残っていないとでもいった終着点を越えたその先、いわば終焉の彼方のトポスとしてのポストモダン」、すなわちメディア以後のベケットが示され、メディアに冒された21世紀のわれわれに、死の闇の空間が足下に広がっていることを告げているのだ。携帯電話を持っていたら妻を失うこともなかったであろうオルフェウスよりも、われわれのほうが幸福であるなどとは言えまい。
 第III部は「今後の展開が待たれる新たな課題の幾つかを素描したもの」(「後記」)というだけあって、読者は「オルフェウス神話を失効させたメディアの時代」の真只中で、「『宙吊り』の状態を耐えつづけることのエロティシズム」(第II部第3章「帝国の表象」)の波にさらわれたまま、本書を読み終えることになる。構成そのものが「倒錯」的なのだ。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.08.08)

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蕭々館日録

2001/08/13 22:15

ペダントリーの醍醐味を熟知した著者ならではの繊細な情感にみちたペダンティズムの傑作

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 ペダントリーの愉しみは、読書の愉しみの忘れてはならないひとつであると、夏目漱石の『吾輩は猫である』をペダントリーの宝庫として長年愛読してきた著者は、かつて『悪い夢——私の好きな作家たち』(角川春樹事務所刊)のなかで書いた。「ちょっと皮肉に笑いながら、作者のペダンティズムを斜めになって愉しむのもペダンティズムである。〔…〕こんなにいろんなことを知っているわけがない、どうせ半分は調べて書いたに違いないと、当の自分はそのまた半分しか知らないのに、冷笑しながら口惜しい思いをするのがペダントリーの喜びなのである」とも。

 本書の舞台は大正15(1926)年秋から昭和2(1927)年夏にかけての、本郷弥生坂にある作家・児島蕭々の家《蕭々館》である。その書斎には、毎日午後3時をまわると、坂道の隧道(トンネル)をくぐって客たちがやってくる。出版業の傍ら小説を書く蒲池、帝大で講ずる美学者・迷々、高踏詩を書く精神医学士・並川、寄席通の金貸し・中馬、「中央公論」の駆け出し編集者・雪平安康、そして、神経を病む文壇の寵児・九鬼だ。2軒おいた坂上に住む地球物理学者の息子にして6歳の〈大頭脳〉の持ち主・比呂志も加わって、酒を酌み交わしながら、名文暗誦合戦に興じ、籤に負けたメンバーの作品を酷評する〈黒豹会(くろひょうかい)〉を開く。
 滅多に顔を出さない主婦・みつ子に代わって給仕をするのは、5歳の娘・麗子である。岸田劉生が娘をモデルにして描いた《麗子像》に因んで名づけられたばかりか、3歳の頃から「朱赤の着物に朱鷺色の帯、冬なら赤に鼠色を編み込んだ毛糸の肩掛け、その上、髪も眉の上で切り揃えたオカッパ」と、〈麗子〉そっくりの恰好をさせられている。父の蔵書を読み漁り、愛する九鬼の来訪に胸を高鳴らせ、九鬼の膝の上で客人の文学論を聴くのが何より好きという早熟さに、九鬼も〈色気〉を感じ取り、ふたりは去りゆく大正をともに惜しみもする。九鬼が死を選んだのは、昭和2年7月24日、麗子の6歳の誕生日だった。麗子は、九鬼の死は「短かった〈大正〉という時代への〈殉死〉かもしれない」と考える。
 芥川龍之介(九鬼)、菊池寛(蒲池)らが集う小島政二郎(児島)のサロンで飛び交う、古今東西の古典の引用や、文学思潮、迷々の連発する衒学的な冗談に至るまで、ペダントリーの醍醐味を熟知した著者ならではの繊細な情感にみちたペダンティズムを十二分に堪能させてくれる。

 ところで、前掲の『悪い夢』には「人に教えたくない一冊」という項があった。5歳の頃、女中部屋で読んだ「主婦の友」に連載されていた恋愛小説『新妻鏡』で小島政二郎の名を知り、小島が80代の時の作品『俳句の天才——久保田万太郎』を愛蔵しているが、この2作の間には40年の隔たりがあり、小島が芥川や菊池寛を知ってから『緑の騎士』を書くに至るまでの自伝的小説にして、生きた大正文壇史とも言うべき名作『眼中の人』について年長の人びとから聞き及んだものの、手にする機会に恵まれずにいるというのだ。
 著者がこの5年の間に『眼中の人』を読むことができたのかどうか、本書にはどの程度まで虚構が織り込まれているのかはともかく、われわれ読者は、麗子の纏う銘仙の着物の赤色に彩られた〈大正〉の文人たちのペダンティックな夢の世界に、知らず識らず溺れてゆくのである。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.08.14)

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紙の本無知

2001/06/25 12:17

現代のオデュッセイアとは、「大いなる帰還」ではなく「大いなる訣別」である。

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 ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』で、オデュッセウスはトロイア戦争の終結後、遍歴を重ねてようやく故郷のイタケーへ帰り着き、見覚えのある山々や20年前にあったのと同じオリーブの老木を目にして、「大いなる帰還」が果たされたことに陶酔した。
 では、古代ギリシアのおそらく何倍もの速さで時代が移り、激的に風景が変貌を遂げてゆく今日、歴史に運命を翻弄された人々の「オデュッセイア」とはいかなるものなのか。
 著者クンデラの祖国チェコは、「プラハの春」がソ連軍の侵攻のもとに束の間の夢として潰えたが、1969年から続いていたソ連支配は、20年後、冷戦の終結によって崩れ去った。自らも1975年にフランスへと亡命したクンデラが、『存在の耐えられない軽さ』から16年ぶりにチェコを舞台に描くこの小説は、なくした祖国に帰還を果たしたことによって、郷愁の地が永久に喪われてしまったとの現実を突きつけられた人々の物語である。祖国は、風景も人心も言語さえもが様変わりした異国になっていたのだ。

 40代のイレナは、20歳年上の夫に同行してフランスへ亡命したが、ほどなく夫と死別、パリで女手ひとつの子育てが終わりに近づいた頃に、夫と同い年のスウェーデン人の恋人ができ、その男の拠点がプラハに移ったために、一緒に帰還することになる。フランス語が苦手な男は、パリではつねにイレナの雄弁の前で聞き役に回っていたが、英語が台頭するプラハに来て饒舌さを取り戻し、年齢の近いイレナの母親と英語を介して親密さを深める。会話がなくなり、欲望も消えた恋人との関係がぎくしゃくする一方で、イレナは結婚前に諦めた恋の相手と再会する。
 その初老の男ヨゼフもまた、祖国に戻るのはデンマークに亡命して以来、20年ぶりだった。亡くなった妻以外の人間とデンマーク語で話す時、母語ではない言葉を慎重に操っての会話に疲弊していたが、旧友とチェコ語で気楽に雑談を交わし、祖国にいることの幸福を見出す。実は自分にとっては未知の女性であるものの、イレナの話すチェコ語もまた、若者の話す響きが鼻にかかった未知の言語ではなく、ヨゼフの感情を揺さぶる本来の言葉だった。ふたりは祖国の喪失感を分かち合う。

 この二組の男女、イレナの恋人と母親、イレナとヨゼフの間に性的な関係が生まれたとしても、それは共産主義が滅びた後の無秩序な世界を反映しているのではない。解放後に手にした豊かな未亡人の暮らしにさらなる心身の自由を求める母親は、老境に入った男にとっては共に生きるのに相応しい、初めて出会った心から寛げる相手なのであり、イレナが始まる前に中断した昔の恋に執着するのは、自分の意志で選択してこなかった人生を自力でやり直すため、ヨゼフは見知らぬ女と寝ることをかつてのプレイボーイの最後の冒険と位置づけることによってそれまでの人生のすべてを総括し、亡き妻を心に抱いて残りの人生を歩み始めようとしたのである。彼らはそれぞれに、祖国との、過去との「大いなる訣別」を告げたのだ。

 クンデラは「人間は何も知らない存在であり、無知こそが人間の根源的な状況である」と考える。前世の経験を生かして人生を始めることができない以上、青春時代の真価には後で気づき、結婚の意味を知らずに結婚し、老人になっても自分の年齢や未来には無知なのが人間なのだと。70代に入って、短い人生のなかで何かをし損なうことへの恐怖がよりリアルになっているとも言えるだろう。
 いずれにせよ、新たに生き直すことができるのは残された人生の範囲内でのことであって、「本を再読したり、映画をもう一度見たりするように、愛を生き直してみることは不可能なのだ」。そのことは、高校時代にヨゼフを失った後もチェコに留まり続け、時の流れの外で生きようとするミラダという女性によっても示されている。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.06.24)

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最後の晩餐の作り方

2001/06/13 22:21

豊饒な食をベースに、あらゆるジャンルの知識がミステリーのスパイスを効かせて煮込まれている。

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 世に聞こえた食通にして、広く学問に通じ、詩や音楽にも才能を発揮したフランスのディレッタント、ブリア=サヴァランは、その著書『美味礼讃』によって美食を称揚、19世紀における「味覚の生理学Physiologie du gout(『美味礼讃』の原題)」の探求を極めた。
 それに倣い、自らも美食家を任ずるこの小説の主人公は、自分流の『美味礼讃』を書くことを思い立つ。そうして読者は、著者ランチェスターの豊饒な食に関する知識をベースに、古典、歴史、地理、数学、化学、生物学、哲学、心理学、社会学、文学、美術などの材料が、ミステリーのスパイスを効かせて5年間煮込まれたドーブ(蒸し煮)を供されることになるのである。

 料理人が「技を駆使しながら均衡と調和のとれた季節と一体化した料理を披露」する絶好の季節こそ、冬。ある種刺激的なメニューで、重く沈みがちな味蕾をくすぐり、舌の目覚めを誘うことができるのだ。たとえば、ブリニのサワークリームとキャヴィア添え、アイリッシュ・シチューに、デザートはプディングの女王。
 ブリニとは、イースト菌を使って脹らませた厚みのあるロシア生まれのそば粉のパンケーキであり、サワークリームとキャヴィアはたっぷり山盛りにする。大きさ順にベルーガ、オシエトラ、セヴルーガと3種類ある生食用キャヴィアのなかでは、黄褐色のオシエトラの薄塩味が好み。今は亡き乳母の得意料理だったアイリッシュ・シチューの材料は、仔羊の頸肉または臑肉(できれば骨付きのもの)に、粘質・粉質両方のジャガイモと玉ねぎ。裏漉ししたジャムを添える巨大なプディングは、子供の頃に教わって初めて自分でつくった料理だった——。
 夏も盛りを過ぎた頃に短い休暇をとり、イングランドのポーツマスからフェリーに乗って、主人公は超小型録音機に向かって口述を行ないながら、フランスはブルターニュ地方の港町サン=マロへと渡る。
 霊界への入口とも言うべき神話と伝承の渦巻くブルターニュの、フラクタル図形のように果てしなく続く入り組んだ海岸線をたどり、半島南西部の街ロリアンへ。冬から春へと季節にふさわしい献立について語るうちに、五感と固く結びついた近親者をめぐる生々しい記憶が立ちあらわれ、主人公の過去が見え隠れする。
 そこから南へ車を飛ばして、古城の点在するロワール地方のレストラン「ルレ・ド・パンタグリュエル」で食した夏の料理に論評を加えた後、山間部をさらに南下して、1年のうちの数ヶ月を過ごすプロヴァンスの家へと向かう。その過程で、この数百マイルに及ぶ旅は、実は、偶然を装ってあるカップルを招き、初秋ならではの手料理でもてなす目的もあったことが明らかになってゆくのだ。

 この小説の原題“The Debt to Pleasure”は、訳者によれば『快楽にとらわれて』である。『美味礼讃』のなかで好きな一節として「次のような結論を私は導きだした。快楽の限界は未だ明らかにされても見極められてもいない。」を挙げる主人公は、食べることそのものにおいては美食家だが、その意識の底に沈殿した快楽への欲望に関しては、ラブレーの物語の巨人パンタグリュエル以上に貪欲のようだ。
 さて、彼の溺れている快楽とは何か。結末を語り終えた後も、「食べる」という行為のなかにひそむ人間の隠された欲望のエッセンスが、隠し味として仕込まれていたことに気づかされる。まさに陰翳に富んだ味わいである。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.06.14)

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ストレスがもたらす病を熟知して克服するために

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 今でこそ新聞やテレビなどのメディアにしばしば登場するPTSDだが、1996年の春に書店で『トラウマ——「心の後遺症」を治す』(講談社刊)を目にした時は、「震災、交通事故、レイプ、幼児虐待などで心に深い傷を負った人たちが悩まされる不安、不眠、悪夢……。いま注目を集めるPTSD(心的外傷後ストレス障害)から立ち直る法」と書かれた帯文の中央のひときわ大きな活字の4文字は、意味不明な冷たい記号にしか見えず、しかし、それを買わずにその場を立ち去ることはできなかった。じっと文字の連なりを見つめるうちに、何か心が休まる呪文が潜んでいるように思えてきたのである。

 PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)は、ベトナム戦争後の復員軍人にみられた症状群の研究を契機として、1980年にアメリカ精神医学会の『精神疾患の分類と診断の手引 第三版(DSM—III)』のなかで、初めて疾患としての概念が確立され、現在では『同 第四版(DSM−IV)』の診断基準が各国でもっとも広く使用されているのだという。日本にはアメリカの名称のまま定着した。
 本書は、精神医学、臨床心理学、心身医学、小児神経学、法医学、認知行動療法などを専門分野に、大学、病院、研究機関、児童相談センター、カウンセリングセンターといった臨床研究の現場で活動する27名の著者による、20編の簡潔な論文から成り立っている。編者は加藤・樋口と「不安・抑うつ臨床研究会」である。
 「PTSD」という言葉に反応する以上、世間で新たに注目されている病について理解を深めたい向きもあろうが、加藤が緒言で述べるように、自身あるいは親しい人間が類似の体験をもち、PTSDではないかとの不安をもっている場合も多いのではないだろうか。
 PTSDとは何なのか、それが起こる背景も含めて把握し、薬物療法、認知行動療法、さらに10年ほど前にアメリカで開発されたEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)といった治療法の存在を知り、自然災害、性暴力、テロ事件、交通事故、児童虐待、いじめからの発症など、実際に臨床で出合った症例をつぶさに検討し、自身との関連を考えることも可能なツールだ。

 最初の「PTSDとは何か」(飛鳥井望著)をわずか10数ページ読み進んだところで、自分や自分の周りの人がPTSDになったときのケアについて述べられたくだりがある:PTSDの症状自体は「異常な出来事に対する正常な反応」として受け止めること、心を打ち明けられる人に支えてもらうなどして、孤立してこじらせないようにすれば、いずれは快復に向かうこと、思い出したくないという気持ちが本人にも家族にも強くはたらくため、ひたすら症状を我慢しがちだが、本当に快復するためには専門家に相談すること。
 過去を消し去ることはできないし、トラウマを忘れることもできないけれど、自分の力で記憶をコントロールすることによって乗り越えることはできる。引きこもらず、ストレッサーにうまく対処する経験を積んで、将来のトラウマに対する抵抗力をつけることも重要だと実感させられた。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.05.11)

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中世ヨーロッパの知の森を探検するための道しるべの書

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 ザリガニが逆立ちしたかのような尖塔の噴水、赤い果実から突き出た踊る手足、男が抱きつく巨大なイチゴ、動植物の有機的なモチーフとガラス柱や鋼のドリルが組み合わせられたピンクやブルーの岩々、運ばれてゆく貝やぶどう、宙を飛び交うトビウオに乗った人魚、胴体と足が朽ち果てた怪物「木男」、男に接吻しようとする修道女の被り物をつけた豚をはじめ、三面を覆い尽くすように描きこまれたおびただしい数の裸の男女と鳥と動物は、摩訶不思議な世界を創りあげていて、とても中世に描かれたものとは思えないほど斬新なイメージの集積で知られる、ヒエロニムス・ボス(ボッス、ボッシュとも表記されてきた)の最高傑作『快楽の園』を、微細に読み解こうというのが本書である。
 制作されてから500年を経た昨年、修復が完了した『快楽の園』は、芝生のグリーンが鮮やかに蘇り、暗黒からは赤外線やX線によって新たに奇怪な生き物が浮かび上がったとのことで、本書にはその修復後の新しい写真が用いられている。細部のクローズアップを含めて37点のカラー口絵が巻頭を飾り、氾濫する色彩と溢れかえる裸体に、解釈はさておいて、目を奪われずにはいられない。

 『快楽の園』は、左右のパネルが中央のパネルの上に閉じる三枚続き(トリプティーク)の祭壇画で、左右を開くと195×440センチの板絵となり、現存するボス作品のなかでは最大である。パネルを閉じた状態では、ガラス球体のなかにモノトーンの地平が浮かぶ「天地創造」の第3日目の場面、開くと、左翼は「エデンの園」、右翼は地獄、そして中央には快楽に浸る人間たちが現れる。
 不可解な大量の図像はボスが駆使した象徴言語で、これまで多くの学者たちが秘められた意味を解読すべく、知識を駆使して挑んできたものだ。古代哲学、ギリシア語やラテン語の語呂合わせ、ネーデルラントのことわざや言葉のもじり、錬金術、占星術、キリスト教神学などをベースにした知のパズルをなしている。
 過去の研究をふまえつつ、著者が新たに発見した数の神秘主義が興味深い。中央パネルの裸体を数えていて500人を越えたところで、池のなかに立つ裸婦が「時」を構成する数字でグループ分けされていることに気づいたというのである。つまり、1(年)と4(季)と12(月)と7(日)だと。

 観れば観るほど幻惑されて混乱し、迷宮に引きずり込まれてゆく中毒性の魅力に、いったい何人が溺れたことだろう。この「森(ボス)」に一度足を踏み入れたら最後、簡単には出られないのだ。
 あとがきのなかで、著者は約20年ぶりに本物の『快楽の園』を観ようと1998年にプラド美術館へ出かけるが、修復中で望みが叶わず、1万ピースのジグソー・パズルを買って帰ったと書いている。30年にわたって作品を観続けてきたこの著者ならば、今頃はとうに出来上がっていることだろうが、パズルを完成させてゆく過程で、あるいは何か新たな発見があったかもしれない。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.03.14)

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かばん

2001/03/01 18:15

かばんに詰めた祖国の記憶はどれも洒脱なユーモアとアイロニーにみちて

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 旅支度をするにしても、目的地や出かける日数によって持って行くべきかばんは異なる。衣類や身の回り品のほかに、場合によっては、敷物や若干の食糧も必要かもしれない。
 では、帰るあてのない旅ならばどうだろう。しかも、他国への亡命だとしたら。

 ソ連当局からの圧力によって、小説を書いても国外でしか出版できずにいた36歳の文学的ボヘミアン、ドヴラートフは、遂に祖国を捨ててアメリカへ亡命することを決意する。「外国人ビザ登録課」の職員のおばさんに、出国の際の荷物はスーツケース3つまで、残りは売り払えと言われ、いざ荷物をまとめ終えてみると、たったひとつに収まってしまった。しかも、少年時代から使っているかなり控えめなサイズのそのかばんは、角をニッケルメッキで補強されているものの、薄板に張った布のところどころに穴があき、「クソッタレ」と落書きされ、鍵が壊れているので洗濯紐で縛らねばならないという代物だった。
 ローマからニューヨークへと渡り、4年が過ぎて、クローゼットの奥にしまって一度も紐をほどくことのなかったかばんをふとしたことから開けると、中には、フィンランド製の靴下3足、紙に包まれた特権階級の靴、ダブルボタンのフォーマルスーツ、革製の将校用ベルト、裏地が合成皮革でできているベルベットの(フェルナン・レジェの持ち物だった)ジャンパー、ポプリン地のシャツ、オットセイ風の合成皮革でできた冬用の帽子、そして運転用の手袋が入っていた。

 ドヴラートフの祖国での記憶を集めた物語は、ここから始まる。かばんに詰められた品々は、どれも彼にとって、このうえなく貴重な、36年間の祖国での人生の記憶そのものだった。遠く離れたニューヨークで、ひとつひとつの品の来歴、すなわち不条理で滑稽な過去の暮らしを思い起こし、章ごとに綴った連作短篇集である。
 語り口はどれも軽く、洒脱なユーモアとアイロニーに富んだ逸話ばかりである。物質的に豊かではなく、統制を受けた生活であっても、人々は笑い、恋をし、喧嘩もし、酒を飲む。
 カヴァーに描かれたイラストは、「運転用の手袋」の章で、身長194センチの立派な体格を見込まれて、ドヴラートフがピョートル大帝(やはり身の丈2メートル以上の大男で大酒飲みだったと言われている旧都ペテルブルクの建設者)に扮して自主製作映画に出演したときのエピソードによるものだろう。ブーツ、胴着、マント、ビロードのズボン、黒いかつら、口髭、剣などのほか、ラッパ型に広がったロシアの初期の自動車運転手がはめていたような手袋をつけ、現代のレニングラード(現サンクト・ペテルブルク)のビールスタンドに行列を作って並ぶのだ。

 ところで、訳者や解説の沼野充義氏によれば、登場人物は主人公である著者本人を含めて実在の人物をモデルにしているため、自伝的作品のように見えるが、伝記的事実とは符合しない虚構がかなり含まれており、ここに収められた人生のドラマは、いかにも実話のようでいて、どこまで本当かわかったものではないらしい。
 私たちを十二分に楽しませてくれる職人的「ほら吹き」作家ドヴラートフにだまされてはいけない。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.03.02)

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果てしなく浮かんでは消える想念のワンダーランド。それが世界を救う時もある?

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 一様に通勤電車に乗って会社へと向かう人々は、頭の中で何を考えているのか。どんな不謹慎なことに想いを馳せていようとも、他人は覗き見ることができない。目の前の異性あるいはスポーツ新聞のヌード写真を眺めてのエロティックな妄想や、とりついた死への想いが喚起する閉塞した情景。
 《フィリップス氏》の場合は、それに加えて、ありとあらゆる数字が脳を刺激して誘発する摩訶不思議な計算だ。たとえば、若い裸の女の写真が英国の新聞や雑誌に1年間に何人載るか(答=16744人)、あるカップルがある日にセックスをする率はどのくらいか(答=3.28767パーセント)、人が生きている間に宝くじに当たるには抽籤のどのくらい前に買えばよいか(答=購入者の年齢によって変化し、16歳以下なら1時間10分前、75歳以上なら24秒前)、等々。
 この小説は、人生が限りあるものだと悟った男の脳裡に果てしなく浮かんでは消えるある一日の想念の微細な世界を記述したものである。

 ロンドン南西部の郊外のローンで購入した家に妻と次男と3人で暮らすヴィクター・フィリップス氏の一日は、たいてい朝6時半頃に始まる。ヒースロー空港に向かう飛行機の騒音で、空想の女たちとのセクシャルな夢から覚めるのだ。7時半に目覚し時計が鳴るまで隣で眠る妻を起こさぬように、頭のなかのさまざまな女たちのイメージに浸りながらベッドに留まり、月曜だと、7時頃にやって来るゴミ収集トラックの音で起き出す。
 スーツにネクタイ、黒のブリーフケースを手に家を出て、ウォータールー駅まで電車に乗り、配膳(ケータリング)サービス会社へ向かう。計算好きが昂じて会計士となり、ふたつめのその会社には勤続26年、腹部を押し上げるベルトが気になる50歳の現在は、経理部の副部長だ。遅くとも9時半には席につき、秘書の淹れるコーヒーをマグカップで飲み、仕事上の手紙を開封して10時半までに読み終え、返事を口述し、11時からの会議に出席、社員食堂か自分のオフィスでサンドイッチの昼食の後、時計の針の進みが遅くなる3時半から5時までをやり過ごして5時半に退社、まっすぐ家路につく。

 普通の日ならばそうだった。しかし、前の週の金曜に解雇を言い渡され、家族に事実を打ち明けられずに出かけたその月曜は、いつもとは違う、特別な一日だったのだ。とんでもない事件にさえ巻き込まれてしまう。
 フィリップス氏が無事に家に帰りついたところで、一日の物語は終わり、その後の彼を何が待ち受けているのかは分からないが、戸口に立つ飄々とした後ろ姿は、彼がそれまでのありふれた日常から一歩踏み出したことをじゅうぶんに感じさせる。

 拠りどころを突然失った脱力感に、忍び寄る老いの悲哀があいまって、チェルシー橋からテムズ川へ飛び降りた場合、何秒で落下するかを計算しても、フィリップス氏が実際に身を投げることはないのは、彼の想像力がはるかに現実を凌駕しているからだ。
 新しい世界は、いつもすぐ近くに広がっている。見慣れた街の風景や、自分の中に。時に眉をひそめ、時に苦笑しながら、それを思い起こさせてくれる一冊である。(bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.02.28)

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紙の本恥辱

2001/01/30 15:15

女たらしが転落した末に手にした人生とは。それでも生きねばならないと告げる非情なまでのリアリズム小説

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 南アフリカを舞台にした、ひと言で言えば、女たらしの男の自業自得による転落の物語である。それも「健康、頭脳明晰、職業は学者、長躯、体格よし、明るい褐色の肌、なめらかな髪」の強力な武器を備え、どんな女でも惹きつけられると自負して遍歴を重ね、離婚歴が2回で52歳の現在は独身の、かなり「上等な」女たらしだ。
 誰にも平等に訪れる老いが彼の「磁力」を鈍らせるようになった時を境にして、自分から女を追いかけ、手当たり次第に漁り、娼婦を買って欲望を満たさねばならなくなっていたわが身を客観視できずに、教鞭をとるケープタウンのカレッジで自分の講義を聴く女子学生に手を出したのが、彼の大きな誤算だった。閑静な住宅街にある自宅に誘いこみ、モーツァルトをかけながら、ワインとチーズと手料理でもてなし、シェイクスピアのソネットを引用して誘っても、30歳以上年齢の離れた若い娘にはまったく通用せず、逃げられる。それでもなお、もてあました劣情にかられて執拗に追い回した結果、彼女はものにできたが、大学にセクシャル・ハラスメントで訴えられ、謝罪するどころか、自分が講義するバイロンの詩「ララ」の魔王(ルシファー)よろしく、エロスの神に従ったまでのことだと述べて解雇される。
 身の破滅を招いた顛末を恥辱と思いこそすれ、自責の念は抱いていない男は、娘の暮らす東ケープ州の農場に向かい、そこで娘ともども衝撃的な事件に見舞われる。さらに、人種隔離政策(アパルトヘイト)撤廃後も田舎でくすぶる問題に直面し、それを受け容れる娘の生きざまを目の当たりにして、男の意識には変化が生じざるを得ない。

 女性、殊に若い女性、あるいは娘をもつ父親からすれば反吐の出るような男を、同性の著者が非情なまでに冷徹なリアリズムで描写し、生々しい悪感情を呼びおこすことに成功している。物語中では、離婚後も連絡を取り合う前妻と、先妻との間にできたひとり娘とが、女性の心情を代弁する。
 ワーズワースを論じながら、田舎暮らしの良さは分かっていなかったばかりか、何についても眼識などなかったことを思い知らされた男に対して、著者は追及の手をゆるめることなく試練の日々を綴り、最後まで明確な赦しを与えない。ただ茫漠と浮遊するように、男の生は続いてゆくことが示唆されるのみである。
 そのなかで描かれる男と女、教師と学生、父と娘、白人と黒人、農園経営者と小作人、人間と動物などに象徴されるさまざまな対立は、一方の他方に対する特権や屈服の存在する現代社会に普遍的な問題として読者に迫り、結末のない物語は閉塞した現在と非常に通じている。男が構想するバイロンとイタリアの恋人を主人公にしたオペラや、多くの詩や小説からの引用が重層的に織りこまれて、作品に知的な深みを与えている。

 前人未到の2度めのブッカー賞受賞作として内外から高い評価を得ている本書の帯には、英語圏のメディアによる文体のもつ美しさ、優れた感性を賞賛する言葉が連ねられている。贅肉のない原文を損なわないよう簡潔に訳出されているにしても、英語のクールで美しい文体を堪能できないのが残念だが、「恥辱にまみれた時代に生きる者への哀悼をこめた魂の記録」(「ニューヨーカー」)という評には大いに共感する。どんな形であれ、いかなる時代であれ、人間は生きねばならないのだと告げているのだ。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.01.31)

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