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先月(2017年6月)

乾侑美子さんのレビュー一覧

投稿者:乾侑美子

2 件中 1 件~ 2 件を表示

アンデルセンはいつまでも、川べでうたう少年のまま

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『みにくいあひるの子』にせよ、『マッチうりの女の子』にせよ、あるいは『即興詩人』や『絵のない絵本』にせよ、アンデルセンの作品には、必ず作者その人が登場する。アンデルセンは自分のことしか書かなかったのだ、とさえいわれる。その自伝『わが生涯の物語』が、最初はドイツで出版された彼の著作集のためにドイツ語で書かれたのは、だから当を得たことだったのだ。アンデルセン自身の生涯を知ることは、アンデルセンの作品を理解する上で必ず役に立つ。
 もしそうなら、その育った森や家や、庭や川のイメージが、ふさわしい絵で伝えられるなら、その意味は大きい。『月のぼうや』で才気あふれる的確な才を見せてくれたイブ・スパング・オルセンが『わが生涯の物語』を絵本化していると聞いたとき、すばらしい絵本にちがいないと思った。が、長いあいだ、実物をみられなかった。コペンハーゲンでオルセン氏に会って尋ねてさえ、「屋根裏にある。あるのは確かだが、私の屋根裏はカオスそのものであってー」という返事しかもらえなかった。その、私にとっては幻の絵本が、あすなろ書房から出版されることになった時のよろこびは、だからことのほか大きかった。
 
 文章は、『わが生涯の物語』の第一章、誕生から14才でコペンハーゲンへ出発するまでを、ところどころ削って絵本にふさわしく構成したものである。イブ・スパング・オルセンは、いつもの才筆をおさえ、アンデルセンの故郷を、その育った頃のイメージをくっきりと伝える見事な絵をそえている。ひょろりと細長い足に木靴をはいた、黄色い髪の少年。森の中父と子の、奇妙に頼りなげなシルエット。気味の悪い祖父。表紙と裏表紙は一つながりで、夕闇のオーデンセ川が描かれている。アンデルセンが堅信礼を受けた聖クヌート教会の塔が見え、川岸の草の中に、少年アンデルセンが座っている。対岸のしげみの中に人影があるのは、少年の歌を聞いている人々である。ハンス・クリスチャンは、人がそこにいて自分の歌を聞いているのを知っている。ほめられるために歌っている。終生、人からほめられたいと願いつづけた詩人が、もうそこにいるのだ。

 「この川岸で、アンデルセンの無垢な少年時代は終わった。だから私は、これを表紙に描いたのだよ」とは、オルセン氏自身の開設である。だがアンデルセンは、ここで少年時代を卒業したのではない。むしろ、一生、この川岸の少年でありつづけた。人から認められたい、ほめられたいと願いつづけ、ほめられれば有頂天になり、けなされれば地に身を投げて泣き、もだえる。
 
 アンデルセン好きにも見てほしい本である。

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紙の本飛ぶ教室

2000/08/16 17:03

それでも、少年の目を忘れるな

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 ケストナーは古いだろうか。子どもには子どもの世界があり、全力で成長しようとする。周囲の大人たちには、さまざまな問題をかかえてぶつかってくる子どもたちをしっかりと受け止め、導く。存在感がある。そういう世界の話は、どれほど筋立てがおもしろく、会話はいきいきとはずんでユーモアに満ち、読み手をぐいぐいひっぱっていく力をもっていても、過去のものでしかない..だろうか。
 子どもと大人の境目は、あやふやになってしまった。子どもは、苦しみながら成長しようとはせず、なんとなく大人になる。大人は大人で、なんとなく大人にはなったが、成熟した一個の人間としての存在感からはほど遠い。誰もかれも、一見問題がなさそうで、それゆえにこそ、生きているという実感も希薄でしかない。こんな子どもや大人には、『飛ぶ教室』の世界は、まるで絵空事にしか見えないかもしれない。だがそれでも、私は、一読をすすめたい。こういう世界があることを知らせたい。
 ケストナーはモラリストだった。自分自身の生き方もそうだったが、人はこうあるべき、生きるということはこういうことだ、という確固とした信念があり、正面からそれを語った。とびきりおもしろい、読み手をぐいぐいひきつける物語として。

 『飛ぶ教室』には、それぞれの問題を抱えた、さまざまな子どもたちが登場する。読み手はたやすく、その中の一人に自分を重ねあわせられる。どの子も、切実な実在感を持っているからだ。こういう少年の目を忘れるな、自分が子どもだったことを、大人になってもけっして忘れないでと、ケストナーはくりかえす。
 ケストナーのこの思いは、実際、危機的な状況を背景にしている。『飛ぶ教室』は、1933年に書かれた。ナチスが台頭した年である。ケストナーは、ヒトラーに熱狂する人々の姿を目の当たりにしていた。ヒトラー個人と、この総統に熱狂する人々と、どちらがより多くケストナーを絶望させたか、それは分からない。冷厳な目を持つケストナーには、行く末がどうなるかも充分予測できただろう。彼自身も著作活動を禁じられ、出した本を公衆の面前で焼かれた。その現場に、命の危険を冒してケストナーは出かけていき、一部始終を見届けている。そうして文化人が次々に国外に脱出する中、ひとりドイツに止まった。ユダヤ人ではなかったからこそ、それが可能だったのではあるが、命の危険は常にあったし、最後にはほんとうに、命からがら脱出しなければならなかった。『飛ぶ教室』は、ケストナーが戦前に出せた最後の本である。その中で、最後の希望を子どもという存在に託したのだ。
 
 『飛ぶ教室』はおもしろい。けれど、読後にむなしくなる。これは結局、一つの理想郷にすぎないから、という意見もよく聞く。だが、求めて得られない理想郷ではあるまいと、私は思いたい。こういう友だち、こういう先生とめぐりあいたい..そう願う心は、やがて、それにふさわしい自分になろうという努力に結びつくだろう。
 
 訳文について触れたい。ケストナーを読むならどうしても高橋健二訳で、という人が少なくない。日本語としては多少ぎくしゃくした、ドイツ語が二重写しになって見えるような、この独特な文体を、今の子どもだちが読みこなせるだろうか。どうか読みこなしてほしい、と思う。そうしてさまざまな味わいの、ことばのおもしろさに気づいてほしい。

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