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田中九さんのレビュー一覧

投稿者:田中九

紙の本ひとを〈嫌う〉ということ

2000/08/30 00:15

<嫌い>を“自然に、かつ、きちんと”受け容れることの、人生おける豊かさを高らかに謳う。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 まさに著者中島義道が、自分自身を救うために、“嫌い”を徹底的に検証した異色本である。

 著者は「はじめに」でこう記す。「私はみずから生きてゆくために“嫌い”を研究するほかはないと悟った。つまり、私は自分を納得させるために本書を書いたというわけです。」と。

 そう、“嫌い”を、徹底的に考えなくては生きてはいけなくなった状態、それは著者が、妻と子から極端に激しく、絶望的なまでに嫌われ、しかし、「思えば、母は父を嫌って死の直前まで40年間彼に罵倒に近い言葉を浴びせ続けていた。その言葉とほとんど同じ言葉が、今や妻の口からでてくる。そして、私も父を死ぬまで嫌っていた。いや、死んでからもなお嫌っている。息子が、また私をはっきり嫌っている。これはいったいなんなのだ!」という状態である。

 そうなるまでの理由は本書にゆずるとして、この一冊には、こうして出発した“日常の嫌い”を理解し、納得し、受け容れるまでの思考と、その結果獲得した、人生において“嫌い”をきちんと受容することの意味と効用が、ぎっしり詰まっている。かつて『うるさい日本の私』(新潮文庫)で「生活の中の“音”への不快感」をひとり高らかに宣言し、日本社会の偽善と事なかれ主義に敢然と異議を呈し、「やっと“論理的に”不快だと言える人が出てきた」と感じさせた中島義道ならではの、極めて独創的な成果といいたい。

 人の“嫌い”なんか興味ないわ、というあなた、はいさようなら。もったいないね、日常的なだけに普遍的で、そして豊かな“嫌い”論なのに。そして内心、人から嫌われることが恐ろしく、意図的にそうならないよう立ち回りながら、結果としてストレスをため込み、そのうえ他人を嫌うことにも罪悪感を持ちがちなあなた、是非ともこの本を。人間にとって避けられない“嫌い”を、「きちんと」受け止めることが、人生をより味わい深いものにする、という著者のメッセージは、効果的なトランキライザーとして働くはず。

 もちろん実際に“嫌い”を「きちんと」受け容れるための道具もこの本には揃っている。第3章「『嫌い』の原因を探る」がそれである。ここで著者は“嫌い”を8つの原因に分類する。それは(1)相手が自分の期待に応えてくれないこと、から始まり(8)の、相手に対する生理的・観念的な無関心、までの8項目に分かれるのだが、この8つの原因は「私なりによくよく考えたもので、『嫌い』の原因を網羅していると自負できます」という著者の自信作。一つ一つの項目は、様々な文学作品の一説や哲学者の言葉を引用しながら検証されていくのだが、我々は、それらの中に、今自分が今取り囲まれている“嫌い”の状態を投げ込むことで、どんな“嫌い”なのかを分類し、納得し、処方箋を得ることができるのである。

 人は必ず誰かに嫌われ、誰かを嫌う。例外はない。しかもこの“嫌い”は、我々の日常生活を“理不尽に”たいそう悩ませる。本書は、この逃れられない“嫌い”を正面からきちんと把握し、味わう術を身につけること、それは心痛を和らげるばかりか、大袈裟でなく、人生を豊かにするのだと提案するのである。とりわけ、こうした思考の方法論を今現在切実に必要としている方へ、是非!の一冊。 (bk1ブックナビゲーター:田中 九/編集者 2000.08.30)

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巨人J.S.バッハを、最新のCDで味わい尽くすための絶好のガイド・ブック

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 巨大、それも気が遠くなるほどに、というのが、J.S.バッハという作曲家へのクラシック音楽の研究者、演奏家、そして愛好家たちの偽らざる感想ではないだろうか。膨大な作品の数、一つ一つの恐ろしいほどのクォリティの高さ、ヴァリエーションの豊かさ、精神性の高さ、 演奏の難しさ、そしてなにより、数百年の経過をものともせず、今なお人々の心を揺さぶり続けるその圧倒的な普遍性。この“途方もなく巨大である”というイメージは、おそらく一般に考えられているよりもはるかに、クラシックの専門家たちの中では大きい。J.S.バッハとは、そんな作曲家である。

 本書は、この巨大な作曲家の全貌を、200枚にもおよぶ様々なスタイルのCDレヴューと、体系的なコラムの組合せによって明らかにしようとした意欲的な書。しかも初心者には入りやすいよう、ベテランには十分な情報量と内容を提供できるよう、編集の工夫が十分に行き届いている好著だ。

 内容はまず「超有名曲でたどるバッハの生涯」から始まり、「ジャンル別にたどるバッハの名曲」「バッハの名演奏家たち」「聴き比べ オリジナル楽器vs.モダン楽器」と続く。それぞれが推薦CDを上段に掲載し、下に本文、脇には準推薦・参考CD、関連情報が1ページにまとめられる。各章の間には、テーマ別にバッハゆかりの地をめぐる「バッハのドイツ紀行」「BWV(作品目録)ってなに?」といった初心者向けのコラムから「もっと知りたい人のためのフーガ講座」や「トーマス・カントールの系譜」などの少々専門的なもの、そして楽器別のバッハ演奏家たちについてのコラムなどが挿入される。 基本から応用へ、作曲家バッハの全体像を大まかに把握してから、徐々にその細部へ、そして演奏論へ展開していくという心憎い構成である。

 そして特筆したいのがそれらに続く「バッハが学んだ、バッハに学んだ作曲家と作品」の章。バッハが影響を、受けたり与えたりした他の作曲家たちの作品の紹介が“バッハ”をキーワードにされている。「編曲・ジャズ・ポップス」の章とともに、バッハの時代や手法を超えた“広がりと普遍性”を改めて実感できる。また全編にわたり、過去のいわゆる歴史的名盤に加え、現時点での最新のデ
ィスクが数多く盛り込まれていており、「現代におけるバッハ」への意識が高いのも特徴といえるだろう。

 バッハ没後250年の“バッハ・イヤー”である2000年、クラシック・レコードの世界では、実に多くのバッハのディスクが発売された。著名演奏家による有名曲の録音はもちろん、様々な楽器編成によるトランスクリプション(編曲もの)や、他ジャンルのアーティストによるバッハ演奏、そしてかつての名盤の再発など、その数は膨大である。

 その膨大なバッハのCDの中から、何を選び、いかに聴くか。この本は、全体の構成の秀逸さ、細部へのこだわりの細かさ、そしてその情報の新しさと各執筆者の感覚のモダンさで、“今聴くバッハのディスク探し”にはうってつけ。個人的には“バッハ・イヤー”ならではの収穫の一つと思う。あとは心して聴くのみ。人類の持ち得た、最高の質を誇る音楽の海があなたを待つ。それもおそらく、人生のすべてを投じても汲み尽くせないほどの、広がりと深さを併せ持つ大海が。 (bk1ブックナビゲーター:田中九/編集者 2000.08.30)

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紙の本かくて日本人は飢死する

2000/07/30 06:15

食料自給率40%以下。“農”を棄てた日本人の行く末を絶望する野坂昭如。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『飢えは、まず日本から始まる・・・餓死を待つばかりの子供の姿は、明日の日本に出現する・・(中略)・・穀物の自給率27%、世界178国中の130番目、30年後、世界で5億トンの穀物不足が恒常的になる。・・(中略)・・本書において警告も、対策も模索もしない。今更どうにもなりはしない、』という衝撃的な前書きで始まる本書は、まるごと全部、野坂昭如が対談形式で“農”を語った一冊である。現在の日本社会での、人間としてのアイデンティティの喪失が、いかに“農”の無視、軽視によるところ大であるか、そしてそんな日本の将来がいかに惨めであるかを彷彿させるに充分な内容がここにある。

 何を大袈裟な、と感じる向きもあろう。しかし、1930年生まれの著者の体験を通じて語られる戦後日本での“農”と“人間”の関係の変化──日本人の食生活の変化──を改めて知るにつけ、『農を棄てたからこそ、失われた、品位、節度、他人を思いやる気持ち、想像力。世界でもっとも醜い民族に堕したわれわれを、助ける国などない』とまで言わせる、その過激さの理由を実感するようになる。

 本書の前半では、まず、著者が骨身に染みて飢えを実感した、昭和21年以後の「食べられない」ということが、いかに人間の根源的な部分を揺さぶるかが著者の体験を通して語られる。 そして終戦、「食いもの植民地・日本」と題された第2章のキー・ワードは“アメリカ”である。そう、終戦後、アメリカが指し示した“農”の方向性と食文化の輸入、そこに内在していた目的。それに従い、日本はいかに“農”を喪失していったのか、その過程で見えてくる日本人の情けないまでの盲信と幻想。

 さらに続く第3章で語られるのは、遺伝子組み換え食品の問題である。世界規模の食料不足のために、病虫害に強い作物を作る遺伝子組み換えは、人類史上、ありえなかった食物連鎖の輪から外れる行為であること、そして、花粉症やアトピーの例を出すまでもなく、それらを食べることが人類の体に起こす影響の未知の恐ろしさ、遺伝子組み換えの主導権を握るアメリカが“食”で世界を牛耳ることの恐ろしさなど、まさしく不気味な指摘が続くのである。

 四方を海に囲まれ、温暖な気候を持ち、ほんの数十年前まで、老若男女、朝昼晩と米、玄米、麦、粟、稗、少しの肉や魚、野菜、味噌汁など、住んでいる土地で収穫したいわゆる“民族食”を食べて生活してきた日本人という単一民族の食生活は、この半世紀で、劇的に変化した。それは三十数年しか生きていない自分にも、実感としてわかる。日本人は、いったいなぜかつての食生活を、こうまであっさりと手放してしかも満足しきっているのか。また、ほとんどの先進国の食料自給率が100%を超える現在、なぜ日本だけが40%以下という惨状にはまり込み、しかもそれが市民レベルでは全く問題にならず、いまだ能天気に贅沢の限りを尽くしていられるのか? それら異常さに疑問と興味をもたれる方へ。 (bk1ブックナビゲーター:田中九/編集者 2000.07.29)

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古風堂々数学者

2000/08/15 21:15

数学者&エッセイの名手、藤原正彦の待望の新刊。「日本の誇り」爆発。

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 待ちに待った藤原正彦の新刊である。

 処女エッセイ『若き数学者のアメリカ』(新潮文庫)を読んで以来、彼の新刊を鶴首して待ち、発売されれば、残りが少なくなるのを惜しみつつ読み、読了するや、終わってしまったと悲しみ、また冒頭に戻って読む、ということを繰り返してきた身としては、新刊が発売される、というだけで「ありがたい」という気持ちなのである。

 藤原正彦のエッセイのどこがそれほど魅力的か。とにかくもう文句なく面白いのである。知的冷静かつ多情、大胆しかも情けなく、緻密な構成力ながら剛球ど真ん中の一刀両断でぐいぐい引き込まれ、そして細部に絶妙に施されるユーモアに思わずにやり。言うことなしなのである。本書中の一遍『書き始めた事情』でも、藤原氏の父親(新田次郎!そして母は藤原てい!)が、処女作『若き数学者のアメリカ』の第1章を読んだ時の話が出てくる。新田次郎はその文章を「面白い、実に面白い。稚拙な表現も見受けられるが、何よりも読み手をぐいぐいひっぱる力がある」と誉める。そう、まさにそうなのだ。「面白い、じつに面白い」と呟きながら読む至福。それが藤原正彦のエッセイである。

 とりわけ個人的に大名著、と信じて疑わないのが前述『若き数学者のアメリカ』と『遥かなるケンブリッジ』(新潮文庫)の二冊。それぞれ数学者としてのアメリカの大学での研究教育時代と、イギリスはケンブリッジ大での研究生活の体験記だが、数学上の難しい話はほとんどなし。熱い人間ドラマを内包した、知的爆笑エッセイを読む悦楽があなたを待つ。

 さて本書の話である。今回の新刊は前記2冊とは異なり、90年代後半に、新聞、雑誌などに書かれたコラムを集めたもの。最後の書き下ろしを除き、ほとんどが3〜5ページの短いものばかり。掲載媒体が異なるため、内容の重複もあるが、全体に多いのが、言語、教育関係のコラム。自らの「外国語マニア」だった過去を呆然と見つめる『もっと大切なもの』に始まり、「みんな仲良く」「暴力は絶対いけない」では効果なし(同感!)と断ずる『いじめについての私的考察』、アメリカ式の実力主義、自由競争社会を日本に持ち込む危険性を説く『強者の論理』、初等教育は母国語を中心にと訴える『子供の時間割』など、いつになく日本の文化、教育への危惧と提言が目立つ。

 個人的には、これらに共感しつつも、受験に合格した三男を見ながら、いつか出会う根源的悲しみに思いを馳せる『得失の不公平』や、祖母の涙を語る『8月末の涙』、ワイルズによるフェルマー予想の解決での『3世紀半を要した数学ドラマ』、そして最後の書き下ろし『心に太陽を、唇に歌を』など、やはり藤原流人間ドラマが心に染みる。

 「ありがたい」本であることに変わりはない。だが今回は、単純に「面白い!」と言えない難しさがある。時代なのだろうか。いずれにせよ、もっと長い書き下ろしを! と切に切にお願いしたい。 (bk1ブックナビゲーター:田中九/編集者 2000.08.05)

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夫婦とは、人間とは、生とは、死とはを問いかける、哲学・文学者の、妻へのレクイエム

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 ふと、本書のようないわゆるガン闘病記の類の本を手にする人たちというのは、どのような人たちなのだろうかと考えた。ガンを病む本人かもしれないし、ガンに病む人を家族に持つ人かもしれない。そうであれば、どのような治療法がよいかを探すために読む人もいるだろうし、現在の状況に耐えるために心の支えを求めての人もいるだろう。またそのどちらでもなく、ただ感動の人生ドキュメントを読みたいという人もいるかもしれない。

 実際、ガン闘病記には、いろいろな形がある。闘病する本人が書き記したもの、家族が書き記したもの、家族にガン患者がいる医者が書いたもの、医者本人がガンを患い書き記したもの。治療法を模索するもの、心の葛藤を記したもの、それは様々である。

 その中で言えば、本書は、ガン患者の家族が書き記した闘病記であり、哲学・文学関係の著作の多い著者の妻が、乳ガンに犯され、その闘病の様子が書かれている書物である。

 だからというべきではないかもしれないが、この本は「よい治療方法」を探す人が読むのであれば、その目的を充分に果たすものではないだろう。しかし、闘病における心の支えを求める方、大切な人がガンで患うのを看る心の痛みに耐える術を探す方には、是非ともおすすめしたい著作である。

 しかもそれは、例えば共感や同情で、闘病の心の痛みが慰められるといったものではなく、より「生」というものの素晴らしさを、改めて、心の底から感じることで、という方向のものであることは、ここでお伝えしておかねばならないだろう。それほど、この本には「人生の魅力」がいっぱいに詰まっている。

 そんなことが可能なのだろうか? と思うようなこと、ある人の闘病を語ることが、人間の人生そのものの魅力を語ることになること、それを実現させているのが、著者の思索と文章の力である。

 文中、「病気は健康よりはるかに多くのことを教えてくれる」という ニーチェの言葉が引用されるのだが、まさに病の中で際立って心に染みてくる、ありふれた日常の素晴らしさ、食事、語らい、読書、音楽、睡眠、学習、子育て、教育、性、新しい感性の芽生え・・、そして起こる奇跡。そうしたものへの冷静な観察と感謝の気持ち。それらが、著者によって、丁寧に、そして大切にすくい取られてゆく。それを読むことで、我々は、極めて厳しい病状の中でこそ感得することのできる生のありがたさを、本当に克明に──いつか100%来る自分の死とも関係づけて──想像することができるのである。本のタイトルが、死亡率100%を“生きる”であることは、そうした著者の姿勢を示しているようにも思える。

 そう、妻の人生への感謝と愛情。それをもって、悲しみの中で病を真正面から受け止め、人間そのものを真摯に考え続けた軌跡が、ここに記されている。

 この本を読んでいて、突然、何十年か前にどこかで読んだ「人間には定命がある。それを知るのが『知』である」という言葉を思い出した。小説だったか、エッセイだったか思い出せないが、長い間患った母が、目前に迫った自らの死期を悟り、長く自分を献身的に看てくれた医者──その医者は彼女に好意以上の感情を抱いていた──に向かって「私の死水は先生が取ってください」と告げた後の文章だった、と記憶している。 ではその『知』とは何か。 この本はそれを教えてくれる。 (bk1ブックナビゲーター:田中 九/編集者 2000.08.03)

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