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先月(2017年4月)

おぎさんのレビュー一覧

投稿者:おぎ

5 件中 1 件~ 5 件を表示

北回帰線

2003/06/11 08:54

ヘンリー・ミラーの<ニク>、「芸術」することのかっこ悪さ

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 『北回帰線』で、ミラーは露骨で、卑猥な、どうしようもなく〈ニク〉に引き寄せられる人物たちを描いています。〈ニク〉の意味は色々あるのですが、大雑把に言えば、肉体の〈ニク〉や食べ物の〈ニク〉といったところでしょうか。芸術の高尚を語ろうが、人道を説こうが、彼らが〈ニク〉に憑かれていることに変わりはありません。そしてもちろん、ミラーにとって、彼ら自身ですら〈ニク〉にすぎませんでした。
 『北回帰線』は1934年に発表された、ミラーの代表長編です。34年といえば、フィッツジェラルドが『夜はやさし』を書いた年でもあります。ちょうどパリにいたアメリカ人作家たちが母国へ帰り、次の段階へ踏み出したころです。続々と芸術家連中が帰国するのを尻目に、ミラーはパリに居残り、この「センセーショナル」な小説を書き上げました。
 小説の舞台は主にパリです。あらすじといったものはありません。ただ、汚い路地裏をブラブラうろつき、妄想に頭を膨らます、ろくでもない主人公「ぼく」を、過剰なまでに饒舌な文章で描いています。
 僕の言うセンセーショナルは、当時話題になった過激な性描写のことではありません。確かに『北回帰線』にはPTAが大騒ぎしそうなことが沢山書かれています。けれど、現代から見れば、あまり過激でも、刺激的でもありません。むしろ性の形としては、陳腐で型通りにさえ映ります。『北回帰線』のすごいところは冒頭にいきなり出てきます。
 「ぼくは金がない。資力もない。希望もない。僕はこの世でいちばん幸福な人間だ。一年前、半年前には、自分を芸術家だと思っていた。いまでは、そんなことには頭を使わない—ぼくは存在するだけだ。〜これは小説ではない。これは罵倒であり、讒謗であり、人格の毀損だ。〜そうだ、これは引きのばされた侮辱、『芸術』の面にはきかけた唾のかたまり、神、人間、運命、時間、愛、美……何でもいい、とにかくそういったものを蹴とばし拒絶することだ」
 ミラーは人間を〈ニク〉の次元にまでひきずりおろします。人間につきまとう、抽象的な概念、思い込み、幻想といったものをことごとくむしりとり、肉片を剥き出しにします。小説で他にそんなことをしたのは、『枯木灘』の中上健次くらいしか僕には思いつきません。漫画ではジョージ秋山がそういったことを描いていたような気がします。
 人間と同様に、芸術や文学をも、ミラーは裸にします。僕は『北回帰線』を読んで、小説の読み方が180度変わりました。文学に対する若気の思い込みや、高尚だと考えていた観念を捨てるしかありませんでした。『北回帰線』から学んだことは、「芸術」することのかっこ悪さでした。

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紙の本あめりか物語 改版

2003/06/10 18:47

荷風流「逸脱」の美学

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 明治三十六年(一九〇三)年から明治四十年にかけての、アメリカ滞在に材をとった短編集。創作とはいえ、西はシアトル、東はニューヨークまで、アメリカから荷風が受けた、生々しい印象を窺い知ることができる。また、若き作家が人間的にも、文学的にも成長していく過程がはっきりと示されている。

 初め、荷風にとっての西洋とは日本的な規範からの逸脱であった。特に本書の前半からは、何の留保もない西洋賛美と日本嫌悪がとうとうと述べられている。西洋そのものというよりは、西洋という観念に恋しているような感じである。それはそれで微笑ましくもあり、魅力がないこともないのだが、滞在も終盤になると荷風の西洋に対する見方がぐっと変ってくる。本書解説の川本皓嗣さんの言葉を借りれば、「背後に横たわる現実」を直視し始めた、ということになるだろう。それは、文体の変化と相まって、ニューヨークの貧民街の暗黒の魅力を描いた「支那街の記」や、都会の人工的な夜の「悪」の魔力を描いた「夜あるき」において、ヴォードレール風の散文となって結晶する。
 とはいっても、決して全体に統一性がないわけでも、開眼前の短編に魅力がないわけでもない。ロマンチックな、手放しの西洋賛美も、「支那街の記」に描かれる堕落への欲望も、一重に何かしらの枠組みからの逸脱であることにかわりはない。つまり荷風流の美や恍惚とは、強い規範や固定された価値観からの逸脱であるといえる。そしてそれは、文体が変化しようが、西洋の見方が変わろうが、一貫して本書の主調となっている。あらゆる縛りが失われ、全ての価値観が相対化された、真の意味での「逸脱」が存在し得ない現代から見ても、荷風流の美は言いしれぬ心地よさを持っている。
 『あめりか物語』は若い一流作家による、一流の虚構として瑞々しい光彩を放っている。解説の川本さんの指摘する「江戸の劇作を思わせるような、型通りの陋巷描写」でさえ、逆に、題材のバタ臭さとのミスマッチから、妙な雰囲気を醸しだしていて、魅力的にうつった。初めて荷風を読む者としては、他の作品も是非読みたいと思った。

 なお、アメリカ文学について荷風はあまり(全然)触れていない。「自分が知っているアメリカの作家といえば、ブレットハート、マークトイン、ヘンリーゼームス、高々これ位のものであろう」(「市俄古の二日」より)

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さようなら コロンバス

2003/05/29 13:40

いぶし銀の新人

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 アメリカのユダヤ系作家の1959年の処女作。ユダヤ系と聞いて、真っ先に思いつくのはサリンジャーやソール・ベローだと思うが(バーナード・マラマッドだと言うひねくれ者もいるかもしれない)、ロスも彼らに負けず劣らず素晴らしい作品を書いている。特に本書は処女作ながら、「円熟した」ともいえる抑制の効いた作品で、ぐいぐい読ませる。
 舞台はアメリカ東部のニュージャージー州はニューアーク。ニューアークは高級住宅地と、貧しい下町的住宅地に二分されている。そんな町に「僕」は図書館の司書として働き、暮らしている。真夏の陽光照りつける下、プールサイドで、貧しい下町のおじの家に寄宿する「僕」と、富める山の手に住むブレンダは出会う。貧富の差をこえて、二人はたちまち恋に落ちる……
 というように筋だけ追えば、文学史上それこそ飽きるほど繰り返されてきたパターンが『さようなら、コロンバス』にも踏襲されている。だが、何よりも見事なのは、アメリカの1950年代の空気が落ち着いた筆致で活写されている点にある。優れた文学作品が皆そうであるように、この作品も時代を映す鮮やかな鏡となりえている。
 50年代のアメリカは未曾有の好景気に見舞われていた。冷戦が続き、「赤狩り」があったものの、大衆はTVを獲得し、サバービア(郊外住宅地)を獲得し、「豊かさ」を獲得した。確かマクドナルドの第一号店がカリフォルニア州に開店したのもこのころだったと思う。団塊の世代の人々が、アメリカ文化に強い憧れを抱いたという、ホームドラマが日本に放送されたのも50年代だ。しかしその繁栄の10年間は、激動の60年代を控えた嵐の前の静けさでもあった。
 さて、『さようなら、コロンバス』は、そんな時代を背景に瑞々しい二人の恋が、瑞々しく描かれた、本当に極上の青春小説だ。むせ返るような二人の若さと時代の空気が有機的に絡み合って、豊穣な小説世界が展開する。だが、現実の50年代がそうであったように、二人の運命にも暗い混迷の行方が予感される。それはこれまでひた隠しにされてきたアメリカの暗部が、60年代に入ると一気に膿み出されたこととピッタリと呼応している。
 小説家にしろ、誰にしろ、時代の影響を受けることは免れ得ない。ロスは自分でも知らぬ間に、60年代の不穏な空気を感じとっていたのかもしれない。

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紙の本季節の記憶

2003/05/28 17:40

隙がない

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 処女作『プレーン・ソング』は、日常に漂う空気を可能な限り、正確で平易な言葉で忠実に写しとった、言語というものに極めて意識的な作品であった。本書はその傾向をさらに推し進め、言語と世界の成り立ちといった思弁的な領域にまでひろがった感がある。本書をして、彼のスタイルを決定づける、(現時点の)最高傑作と呼ぶ者も多い。
 あらすじをまとめろと言われて困るくらい、事件らしい事件は起きない。鎌倉・稲村ガ崎の季節に移りいく景色を背後に、「僕」と子、何でも屋の兄と妹のなんでもない日常が淡々と描かれる(筋だけ追うことは殆んど無意味)。
 彼のエッセンスは、逸脱な冒頭部分に凝縮されている。
  
  僕が仕事をはじめるとさっき昼寝についたはずの息子がニンジャの格好で部屋
  に入ってきて、
 「ねえ、パパ、時間って、どういうの?」
  と言ったのだが、僕は書きかけの文の残りの数語を書ききるまで答えなかった。
  僕が返事をしないでいると息子は、
 「ねえ、パパ。ねえ、ぱぱ。—ねえ、ねえ。パパ、パパ。
  パパ、パパ、パパ、パパ。
  パパ、パパ、ねえ、ねえ」
  と猫の「ニャア、ニャア」、アヒルの「ガア、ガア」、羊の「メエ、メエ」と
  同じように「ねえ、パパ」「ねえ、パパ」を連発しはじめ、僕はサインペンを
  息子にわかるようにはっきりした動作で音を立てて机に置いて、
 「終わったよ」
  と息子を見た。
  〜略〜
 「時間っていうのもね、はじめは小さな種だったんだ。
 小さな小さな種だったのが、だんだんだんだん大きくなって、もっともっと大
 きくなって、気がつくとものすごく大きくなってて、その中にクイちゃんもパパ
 も美紗ちゃんもおばあちゃんも、みーんな入っちゃてて—」
 「ポルトガルは?」
 「ポルトガル? うん、入っちゃう。」
 「ニューカレドニアも入っちゃう?」
 「入っちゃう」

 とこんな感じで対話が繰り返され、話は進行していく。抽象的なものを一字一句極めて正確に、手際よく表現している。状況や物事を描写するのに最適な単語の選択、文章の組みたてといったことを腕のいい大工のように隙がなくやってのける(これは簡単なようで、なかなかできることじゃない)。そしてその簡潔さは大江健三郎の文体と比較するとより鮮明かもしれない。大江健三郎は、密度の濃い文章を用いて、現実のありようを徐々にずらしていき、小説世界(この現実とは別のもう一つの現実)の確かな生々しさを描く。対照的に、保坂一志は現実のありのままを、平明で薄い文章でもって、精緻に再構成する。
 そんなことはさておき、稲村ガ崎の風景の美しさと哲学的な意匠が有機的に絡み合ったこの作品は、読者を心地よい考えることの快楽へと誘うことは間違いない。

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小説らしい小説

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 トルーマン・カポーティ、カーソン・マッカラーズとともに「サザン・ルネッサンス」を代表する女性作家の全短編集。質の高い作品群は、アメリカの短編小説の豊穣さを如実に示している。
 オコナーの短編は、小説に必要とされる、人物、人物間の関係(摩擦)といった、当たり前の要素がオコナー流にしっかりと描写され、小説として極めてまっとうな魅力を持っている。それは決して能天気な現実逃避としてではなく、読者にある種の痛みをも共有させる、小説本来の生々しい手触りがある。たとえば、「火の中の輪」。
 一見平和で牧歌的な農場に、ある日、元雇われ人の子供が数人の友達を連れて遊びにくる。彼らは無垢ゆえの横暴さで農場をひっかきまわす。女農場主は何とか平素の秩序を取り繕うとするが、最早彼女(人間)の力は及ばない。そこにはただ、日常の底部にひた隠しにされた無秩序なるものがむくむくと立ち昇るのみ。次第に農場はその巨大さに侵食されていく。結局、子供たちによる森への放火という形で話は終わる(「それはあたかも預言者たちが燃えさかる炉の中で踊っているようだった」)。
 ここで注目すべきは、子供たちの「無垢」をお気楽な憧憬の対象としてではなく、暴力性と手際よく結びつけた点にある。女農場主と子供たちのやり取りのなかに漂う暴力の兆しを、無駄のない文体で塗りこめていく。子供たちを、象徴としてはアメリカ南部の暗部、生身の人間としては血と肉をもつ存在として生々しく描いている。その他、たまたま病院の待合室で同席した娘からの「老いぼれのいぼいのしし」という罵声を神の声と錯覚してしまう婦人(「啓示」)や、孫の凶暴性に気づき、恐ろしさのあまり殺してしまう老人(「森の景色」)など、オコナーの短編には、そういったメタファーであると同時に、生身の人間でもある人物たちで満ちている。ときに過剰にデフォルメされ、漫画のような雰囲気を持つこともあるが、その背後に流れるのは一貫して人間のグロテスクな本質的諸相である。その生々しさに読者はたじろぎつつも、自分や他者の影を見出すことになる。
 オコナーは言う、「希望のない人間は、小説を書かないだけでなく、読みもしない。そういう人たちはどんなものでも長いあいだ見つめることをしない。勇気が欠如しているからだ。絶望にいたる道とは、いかなる種類の体験を持つことも拒絶することである。そして、もちろん、小説は体験を持つことに至る一つの道である」。

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