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先月(2017年8月)

higuさんのレビュー一覧

投稿者:higu

2 件中 1 件~ 2 件を表示

「見てしまった」人の誠実な社会復帰

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ひきこもりからの「上がり」とは何だろうか?ということを、この本を読みながら思っていた。一般的なひきこもりのイメージは「いい年をして働きもせずふらふらしている」「自分の部屋にとじこもったまま家族ともろくに口をきかない」といったあたりだろうし、だとしたら人並みに働いて自活することがそこからの望まれる回復なのだろう。しかしそうした「回復」のためのてっとりばやい処方箋を求める人には、本書はもしかすると肩すかしかもしれない。
 本書は著者自身の体験を回想風に書き綴った前半部と、ひきこもりの息子・娘を持つ親の集まる場で著者が話していることをまとめた後半部に分かれるが、後半部で著者は、経済的自立を性急に求めないでほしい、と繰返し訴えている。著者によれば、自分と外部との関係を「自分VS世界」の図式でとらえ過去の否定的な記憶にとらわれる人にとって、日々働いて生きていくという「社会参加」を強いられるのは漠然と感じて蓋をしている恐怖にもろに直面させられることでしかない。まず必要なのは深いところで話のできるような人間関係であり、そうした信頼できる人たちとの確かなつながりを持つことでやっとその先にそれほど親密にならなくてもよい人間関係(職場のそれも含めて)をもとりむすべるようになるのだ、と。そして、既成の世界への単なる順応を言うのはひきこもりが持つ価値観への問いかけを全く無視しているし、むしろひきこもりの社会復帰とは自分の見てしまった真実や「弱すぎて負けてしまった正義」をあらためて生かすことであるべきではないのか、と言っている。
 こうしたひきこもりの人のかかえる気分や回復のモデルが著者自身の実体験を下敷きにしていることは言うまでもない。学校生活での馴染めなさから「周囲のクラスメイトの目線を文句なく捻じ伏せられる成果は「テストの点数」だけ」とトップを取ることにエネルギーを費やした著者は中学2年で突然の身体の不調と「頭にナマリが詰まったような」感じに襲われる。以後延々と続く停滞と鬱屈の日々から、しかし著者は自身想像していなかったであろう仕方で、自分の進む道を切りひらいていく。インターネットで知りあった犯罪被害者の女性とのやりとり、教育についての勉強会で出会った男性との共同生活、地域通貨の試み、訪問活動等ひきこもり問題へのとりくみといった形で、著者は人々とのつながりを、また稼ぎを得ていくのである。
 そうした経緯があるからこそ本書では、ひきこもり状態のしんどさからぬけだすことについて語られているものの会社に就職するといったいわゆる社会復帰は直接的に目ざされていない。むしろ、著者の態度は「普通の人生」=「完全な滅私奉公」をイメージしていたひきこもり時代と変わっていないように読めるし、さらに言えば、心身に無理な負担を強いる社会に対し、ひきこもりの経験者こそが別のあり方を示していけないか、と言っているようにもとれる。
 しかし—社会に疑問を投げかける著者の態度を大人げないと否定するつもりはないのだけれど—ひきこもりの立場で感じとったものにとらわれることは必ずしも救いになるとは言えないのではないだろうか。自分の抱えてしまった痛みや悩みに対し、著者は正面から向きあって苦しむ強さとともに、自分の思いを言葉にし、それによって仲間を見つけ、さらには世の中に向けて主張する強さも持っているように思う。しかしそうした強さというのは誰もが持つものではないのではないだろうか。著者のように世界への違和感そのもので勝負しなくとも、自身の内的動機にそった仕事でなくても、痛みを保留しつつこの世の中でなんとかうずくまらずに生きていく方法を考えてもいいと思うのだ。著者の立場からすればそうしたあり方は既存の世界を温存させるものになるのかもしれないけれど。

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 自分の外見を冷静にとらえ見つめるということはとても恥ずかしいことだ。自分の顔や身体を正確に思い描こうとしても、劣等感や虚栄心が邪魔をしてしまって、客観的に向きあうことはなかなか難しい。
「普通の人の身体コンプレックスについて書きませんか?」という編集者からの求めが発端になって書かれたという本書は、顔を中心とした自分の身体への劣等感に人々がどんなふうにとらわれ、どんなふうにつきあっていけるのかということがテーマになっている。
 本書では人々の身体の外観について、客観的な美醜の上下よりも各人の主観的なとらえ方を問題にしている。とはいえ著者は「劣等感など気のもちようだ」と簡単に言っているわけではない。「自分の身体」と言えるものを受けいれ折りあいをつけるために、本書ではメイクやファッション、スポーツ、美容整形、カツラ等、外見を(少しでも)変えていく方法がいくつか挙げられている。そうしたさまざまな具体案は、低すぎる自己評価を改めるための手段として—著者の言葉を借りれば「自意識を変化させる技術として」—位置づけられている。そしてそうしたものの効果的な利用のためにもまず、装いの土台となるような、自分の逃れられない身体や顔のありようと向きあうこと(これが難しいと思うのだが)、テレビや雑誌が提示してくるような「美しい」身体のイメージにとらわれすぎないこと、が大切だと言っている。(なお本書では具体的に何人かの人たちの、自分の身体との向きあい方が考察されている。その中でも、身体のパーツにはっきりと欠けたところがありながら劣等感を見せない乙武洋匡をひきあいに出して、漠然とした「五体不満足感」を持った「健常な」人々の一例としての中村うさぎと比較しているくだりがとくに面白かった。)
 さて、先に触れたように本書は「美しい、整った身体」を示すことで各人の不安をあおる社会(著者も言うように、その傾向は近年ますます強まっているように思う)と、そこに生きる人々の「プチ醜形恐怖」や身体コンプレックスについて書かれている。しかし、私の顔や身体を眺めたえず評価をくだしているのは「社会」と「自分」だけなのだろうか。人に劣等感を感じさせ、漠然とした自信のなさを増幅させるのは必ずしも社会やマスコミの情報ではなくて、具体的な誰かの視線や態度や言葉でもありうるのではないだろうか。本書では「梅干ババア」「エイリアン」などと言われて整形手術を受ける女性達の話も出てくるが、「病んで」いるのは彼女たちの方だけではなくそれ以上に、そうした言葉をあびせる人たちである筈だ。さらに言えば、私は「見られる人」であるばかりでなく「見る人」にもなりうる。人からの視線におびえながら束の間の安心を求めて、自分より劣るかもしれない誰かへと一方的な視線を向けることもある(そして視線を向けられるほうは、それを感じとるはずだ)。私たちが互いにプチ醜形恐怖から、あるいはまた視線恐怖から逃れるには、人を傷つけうる私の視線にも自覚的になる必要があるように思う。
 自分の実体とかけはなれた身体イメージを唯一の尺度にしないこと。それは単に自分の身体への劣等感と折りあいをつけるということにとどまらず、誰かへとぶしつけな視線を向けたり、他人を値踏みしたりすることから抜けだすすべでもあるのかもしれない。そして誰かへと一方的な視線を向けるのを少しでも止めることは、著者がこれまでの著作でとりあげてきたような「普通ではない」人たち、病気や事故で外見に目立つしるしを負った人たちと関わっていく上でも欠かせないことのように思う。

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