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レビューアーランキング
先月(2017年4月)

消息子さんのレビュー一覧

投稿者:消息子

18 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本邪魅の雫

2006/10/06 22:50

書評無駄

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これまで京極堂シリーズを読み継いできた人は買うだろうし、初めての人は『姑獲鳥』から読むべきだろうし、書評しがいのない本。こんなもの読んでるヒマがあったら、本編を読んでるでしょうね、みなさん。今回、京極堂の登場は全体の5分の1のあたり、関口となんとまあ、書評について論じているのだから、ますます書評しずらい。『魍魎の匣』と対になるものとの前評判だっただけに、連続殺人がどのように連続ではなく、しかしどう繋がっているのかがミステリとしての焦点となると予想される。『姑獲鳥』と対になる『陰摩羅鬼』が探偵の物語だったのに対して、『邪魅』は警察小説の体裁を取る。榎木津家の問題を追う益田と、連続殺人事件の捜査に巻き込まれた青木が出会うことで、事件の脈絡がみえてきそうなので、じりじりとそれを待つのだが。他方、プロローグで示されるように、この小説は個人の世界と客観的な世界との関係を論じた哲学小説としても読める、ということは指摘しておこう。

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ユニセフの「アフリカ干ばつ緊急募金」のホームページにアクセスを

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 作品が作者の手を離れて自立していく、といった話はよく語られるが、逆に、著作がまるで鍵穴であるかのように、その著者の計り知れない全貌を垣間見せるに留まるということもある。

 本書の著者は知人なので、この書評も提灯記事のようなものだが、何しろ大した奴なのだ。
 北関東の地方都市に生まれ、いつの頃からか、アフリカで医者をしたいと思った少年は努力を重ねて自治医科大学に入学する。在学中から,国際協力に関与するばかりか、休学してインドにで伝統医学を学ぶとともに、アフリカにも赴く。卒後、僻地診療所などの勤務のかたわらNGOで国際緊急医療援助などに従事しつつ、その後、外務省、そして現在はユネスコに勤務する。ペルー日本大使館人質事件、インドネシアの竜巻、スマトラ島沖大地震、ミャンマーのサイクロン被害など、「ええ? そこにもいたの?」と思うようなところで救援や復興活動を担い、当然、東日本大震災時にも(休暇をとって)いち早く帰国して被災地で活動した。ミャンマー反政府デモ弾圧がユネスコのはいる建物の目の前で繰り広げられ、何もできずに臍をかんだ話、イラクで殺害された外務省職員と同道した話など、彼自身かなり危ない橋を渡っていると思う。
 本書は医者になるまでの経緯と、その後の国際活動についてのエッセイで、看護学雑誌に連載されたものがベースになっているせいか、とても読みやすい。比較的気軽な調子で、しかし現場にいた人にしか書けないことがあっさりと書かれている。各章は世界各地の旅日記のようにはじまって、その土地の政治情勢あるいは保健衛生状況の劣悪さが描写される。その語りの向こうにもっと大きな活動の全体像がうっすらとではあるが見えてくる。

 最近のアメリカ大統領選挙のニュースを見ると、アメリカ人は政府に面倒みられるのを嫌い、小さい政府を臨む動きがいまだに強いのが見てとれるが、本書を読んで、政府機能が低下した、いわゆる破綻国家でいかに弱者が悲惨な目にあっているかをみると、心情的無政府主義者の評者も「統治」ということがいかに重要か考えざるをえない。
 しかし、海外からの援助は黒子に徹して、現地の人たちの国づくりを支えていくことで、いずれは統治が破綻した国も再起していくという根拠ある希望も述べられている。

 現在、彼は干ばつに襲われた、破綻国家の代表格ともいうべきソマリアで、武装勢力の妨害に苦しみながら、子どもの命を救おうと活動している。本書を読んだら、ユニセフの「アフリカ干ばつ緊急募金」のホームページにアクセスを。

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男というものはだな、料理なんか!

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

お、男というものはだな、料理なんか!
……お、教えてもらえねえんだ、あんまり。
私の世代は男子は家庭科は小学校までだったし、母親に教えてもらったことは少ないし、だいたいが見よう見まねか、料理本を見てである。しかし、料理本は当たり前のように書いてあることが少なからずあって、ええと、くし切りってなんだっけと思っても、説明は普通はない。まあ、わからないことを誰かに訊けないというのでもないのだが、そういうときに本棚から取り出すのが本書である。私の持っているのは古い版のほうだが、わが家では十数年来の現役本だ。
例えば、昨日は錦糸卵を作った。いつも適当に薄焼き卵をつくって、ぼこぼこに分厚くなって、それを千切りにしてボロボロになっていたので、正しい作り方を調べる。片栗粉を入れるとか、ふるいに掛けるとか、有益な知識を仕入れて作ると、おお。
料理の基礎の本です。役に立ちます。

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ハイドン交響曲

2009/10/31 17:21

ハイドンの交響曲はこんな風に発展したのだ

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 近年のハイドン研究を踏まえ、その交響曲の作曲年代の特定、様式変遷、楽譜校訂の問題などを論じた本だが、NHK交響楽団の機関誌への連載をまとめたものなので、一般的音楽愛好家を想定して書かれており、読み物として楽しめる。交響曲関連の話ではすべては埋まらず、余白には宗教音楽に関する論考が収められている。
 特に交響曲の様式の変遷と、エステルハージ家でのハイドンの状況とを対照して論じられた部分は、ハイドンの創造性がいかに発揮されたかという問題にも関わってとてもスリリングである。いわゆる「疾風怒濤」期の交響曲がなぜああも短調が多く激しい曲想だったのか、それがなぜ穏健な作風に移っていくのか、なるほどと思わされる。
 巻末の諸研究によるハイドンの交響曲の成立年代の推定の一覧表も資料的価値が高い。
 よい音楽書は読んだあと反芻するように曲を聴きたくなるものである。

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きっと作者もそう思っているに違いないと思っていたら、やはり思っていたんだと思う

13人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『のだめカンタービレ』が話題になり出した頃、私は噂話からてっきり市民オーケストラのマンガかと思っていた。実際は音大生が集まってオーケストラを作る話だから、セミプロの楽団。しかし、ちょっと駄目でも個性的なメンバーが集まってチームを作るというストーリーには心躍るものがあった。
 古くは『水滸伝』や『南総里見八犬伝』を引き合いに出すべきなのだろうが、面子を集めてチームを作る物語はひとつの定番なのだ。『スラムダンク』でも『ワンピース』でもメンバーが集まっていくところが、わくわく楽しかった。それはわれわれが群れを作るお猿さんだったからかも知れないが。
 ところが『のだめ』もだんだん若手演奏家の成功物語に変質していって、つまらなくなった。きっと作者もそう思っているに違いないと思っていたら、やはり思っていたんだと思う。なぜそう思うかというと、いったん話が終了してから「アンコール オペラ編」、件のオーケストラでオペラをやる話を始めたからである。それが本巻。
 こういうのを二匹目のドジョウという。二番煎じを越えられるかちょっとわからないが、まだまだ話を引っ張るようだ。オペラではのだめの出番がないが、どうするのだろうか。通奏低音でも弾くのか。

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拷問者の影 新装版

2008/09/05 17:33

私は再読にかかります

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 書物を読むことの他には代え難い楽しみを教えてくれる小説がある。たとえば『薔薇の名前』、あるいは『不滅』、そして『新しい太陽の書』。
 『拷問者の影』『調停者の鉤爪』『警士の剣』『独裁者の城塞』は4部作ではなく、ひとつの長編を便宜上4分冊にしてあるものである。『拷問者の影』ならば、ある門から始まり、別の門にいたって終わるというような技巧は凝らされているにせよ。それゆえ、『拷問者の影』を読み終わっても、書評めいたものは何も書けずにいた。しかも、解説でも述べられているように、様々な伏線、語り/騙りの網が張り巡らされ、一読ではその綾なす糸の一部しか見えてこないだろうという代物である。
 ただそれは裏の裏のことであって、表面的にはそんなに難しい話ではない。文明が衰え、太陽もエネルギーを枯渇させつつある、遠未来の地球と思しき惑星ウールスと中世を思わせる社会。独裁者の支配する共和国、独裁者の城塞にある拷問者組合の徒弟セヴェリアン、すなわち「わたし」は刑の執行とときには取り調べを担う専門家の修行をしている。拷問者の手に引き渡された、執行を猶予された囚われの貴人セクラの相手をさせられたセヴェリアンは彼女に恋してしまい、彼女の自殺を幇助、組合を追われ、辺境のスラックスの警士の任に就くため出立する、そして……という話。本巻では城塞のある都市、ネッソスを出るまでが語られる。
 共和国は北方──北へ行くと暖かくなるのだ──で戦争をしているらしい。他方、国内には独裁者に反旗を翻すヴォダルスの勢力がある。冒頭ですぐにセヴェリアンはヴォダルスを助け、彼に忠誠を誓うというようにセヴェリアンの行動原理は明確ではない。われわれ自身のように。不本意ながらスラックスに向かうセヴェリアンの行動は様々な個性的な登場人物に巻き込まれ、状況に流されていくだけのようにも見える。その様々な出来事がどう関連してくるのかなかなか見えてこないのだから。われわれ自身の人生のように。ひょんなことから入手した「調停者の鉤爪」なる不思議な宝石を本来の持ち主であるペルリーヌ尼僧団に返そうというのが、唯一彼の自発的な、しかし副次的な目的である。
 人間に身体的特徴の異なるいくつかの階級があり、過去に遺伝子操作が行われたらしいし、どうやら異星人もいるらしい。技術的には中世レベルだが、しばしば古代科学の産物が登場する。世界の全貌はなかなか見えてこない。冒頭のヴォダラスとの出会いの場面において、ヴォダラスは自身を「ヴォダラリウス」、また「何千ものヴォダラリアイの一人だ」と名乗るといった謎かけのような記述もあちこちにちりばめられている。しかしとりあえず目の前のことは片付けていかねばならない。われわれの日々の生活のように。もちろんセヴェリアンにはわれわれの生活よりは新奇なことがいろいろ生起するので、本書を読み進めるのは苦痛ではないのだけれども。
 手に汗握り、次は次はと読み進めさせられてしまう小説もあるが、これは佳境にはいればはいるほど先に進みたくない、今を噛み締めておきたいといった類の本である。そして私が今この書評を書いているのは、『独裁者の城塞』を読み終わって、すぐさま『拷問者の影』の再読に取りかかろうしているからである。読み始める前には再読など面倒と思っていたにもかかわらず。何しろセヴェリアンは完全記憶の持ち主で何ごとも忘れることができないのだ。われわれの貧弱な記憶力を持ってしては二読三読して挑戦するしかないではないか。最終巻のタイトルが『独裁者の城塞』であることにたとえ気付かなくとも、最初の章にすでに「私は長い旅を始め、それによって私は玉座に戻ったのである」と記されている。徒弟のセヴェリアンが玉座に戻るとはどういう意味か、初読の際には訳がわからず、記憶にも残りがたい。再読はそのような発見の楽しみになりそうなのだ。

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紙の本神は沈黙せず 上

2008/04/07 12:14

「神の存在は証明できるんです」

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 大学生の頃の話である。いまやマスコミにも登場しなくなってしまったある新興宗教団体の信者が町でアンケートを擬装して勧誘を行っていた。それが、信者であることを知っていた私は、ある時、アンケートに答えてやることにした。まあ、からかったわけだが、虚無的な答えばかりする私に対して、相手はいよいよ熱くなり、どういう議論の道筋だったかは忘れたが、遂に「神の存在は証明できるんです」とのたまった。
 手の内に落ちたというものである。「では証明してみてください」。その信者はグッと詰まり、「私はまだできないけど、私の上の人ならできるんです!」
 いや、神の存在は証明するものではなく、信仰するものなのでは?

 しかし、まさか「と学会」会長・山本弘がかの信者のできなかった神の存在証明をしてくれるとは。「トンデモ本」関係は楽しく読ませていただいていたが、SF作家・山本弘がこのような大作を物し、しかもすでに文庫化されているとは不明の至りであった。
 神とは信仰の対象であるから、その存在を論理的に証明しようという営為は信仰とは外れたものであるのは当然なのだが、この世界はコンピュータ上のシミュレーションで、神とはこの世をシミュレートしている者であるというのが、基本アイディアである。上巻の真ん中ですでに明かされてしまうので、ネタバレにはあたるまい。このアイディア自体はそう目新しいものではなく、作中にも触れられている、ハミルトンの「フェッセンデンの宇宙」以来のテーマだし、ドラえもんにだって出てくる。その電脳版としても、イーガンの『順列都市』に挿話的に登場する。
 『神は沈黙せず』のすごいところは「トンデモ本」シリーズで披瀝された豊富な雑学知識を動員して、理詰めで「この世は神のシミュレート」だと読者をねじ伏せてしまうことだ。上巻はこの力業を堪能すべきである。
 神テーマのSFとしては山田正紀の『神狩り』が思い起こされ、『神狩り』に似た不気味な雰囲気が漂っているが、本書では神と戦おうという様子はない。主人公の女性ルポライターの手記の体裁を取った本書は、人物を描くことはほとんど放棄されており、小説の体をとっていなければ、「この世は神のシミュレート」だと証明しようとする「トンデモ本」に他ならない。いや、そのくせ、本当っぽい嘘が神の存在証明に導入されているのも心憎い。

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紙の本女信長

2006/08/25 16:41

「女>信長」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

毎日新聞を取っているのだが、不覚にも連載小説などほとんど見ることもなく、佐藤賢一が「女信長」?で関心から外れてしまった気がする。「ガスコン」以来しばらく佐藤にはまっていたのだが、最近はご無沙汰していたのと、日本の時代小説には関心が低かったので。それが友人に勧められて読んでみたが、ぐいぐいと最後まで惹きつけられて、最後は睡眠時間を削って読み終わったのはいつもの通り。テレビの時代劇の記憶からはどうしても「女信長」というのはイメージが湧かなかったのだが、そう設定すると、意外と説得力があるのが興味深かった。もっとも、その説得力とは「女はみんなこうしたもの Cosi fan tutte」という先入見とギリギリのところにあるようにも思われる。作家は信長=御長をある意味で「かわいい女」ととらえているのじゃないかと推察するが、女性読者の共感は得られるのだろうか。「所詮、女には天下は取れない」と結論しているようにもとれるし(もっともここは多義的だが)。当然、光秀、秀吉との関係をどのように描くかが作家の腕の見せ所で、いかにも佐藤らしい男女の情がキーになっていくとだけ紹介しておこう。つまり「女信長」が「女<信長」だったり「女>信長」だったりで揺れるわけだ。本能寺で何が起こるのか、およそのところ予想が付くものの、出来事の裏の意図と意図のぶつかり合いには、う〜んと唸らされた。そして、終章、家康が信長を回想するシーンの余韻こそ佐藤賢一らしいと思った次第。歴史の中の個人、しかし歴史を超える個の生の重み、ということか。

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性格が正反対なのにやはり同じ人物というのは、いわば多重人格のようなものだ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 学生時代につきあっていた彼女が貸してくれたマンガ。いかにも少女マンガ風のちょっとラフなタッチの図柄で、決して好みではなかったのだが、ストーリーは面白かった。しばし手に入らなかったが、復刊ドットコムの投票により2005〜2006年に復刊されていたのだが、知らなかった。

 もともとは6回連載の予定で始めたとあって、導入はかなり唐突。1983年の高校生、しかも生徒会長の赤井はくそまじめな人格から不良の人格が派生してきて、遂に爆発してしまう。爆発して、22世紀に吹っ飛んで、人格分裂どころか、同じ顔かたちで性格のまるで違う2人に分裂してしまう。記憶はなくなったのに、それぞれ白々丸、赤々丸と名乗る。
 22世紀の未来では、ネコンなる星から猫族(顔は猫であとは人間)が移住しており、二級市民の扱いを受けているが、なんで移住しているのかの説明はあまりない。赤々丸は殺し屋稼業を始め、成り行きで猫族解放の象徴になってしまう。白々丸は持ち前の正義感ゆえに猫族解放に荷担するが、何しろ赤々丸と白々丸は気が合わない。
 虐げられた民族の解放運動が全体を貫くストーリーではあるが、個性豊かな小市民的猫族たちのドタバタをむしろ作者は描きたかったかのように愛情がこもっており、まじめなストーリーをギャグが駆動していく形になっている。赤井の同級生の祥子さんも未来にやってきてしまうのもご都合主義的な展開なのだが、あまり気にはならない。
 性格が正反対なのにやはり同じ人物というのは、いわば多重人格のようなものだ。違っているようで実は同じ。赤々丸と白々丸が互いに戦うというわけではなくて、おのおの勝手に動きつつ、実は共闘してしまう。

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登場人物はギャグに転落することでストーリーを駆動していく

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最後までシリアスを通すのは赤々丸と、猫族解放同盟のリーダー・テテほか数人で、あとの登場人物はギャグに転落することでストーリーを駆動していく。
 狂言回しという言葉があるが、狂言回しのオンパレードである。十人ばかりの猫たちが強烈な個性を放っている。極端なやせの大食いめね田、科学者の息子で天才、かも知れないがすぐに眠ってしまうぼーいちくん、ぼやいているだけで何の役にも立たない猫丸くん、など、たぶん、作者の周囲にモデルになる人物がいたのではないかと思ってしまう。結局、作者はこうした猫たちの騒動を描きたかったのだろうことは、番外編で本編を離れたエピソードを楽しそうに、しかもいかにも内輪受けの話のように書いているところからもわかる。
 実在のモデルがありそうな猫たちの騒動は、内輪でしか受けないギャグの乱れ飛ぶ同人誌を読んでいるような感覚。それでいて各話の最後には教訓めいたナレーションがはいり、そんな内輪の話を突き放してしまう。この辺が作者のバランス感覚なのかも知れないが、妙に居心地悪い感覚を呼び覚まさせられる。
 第2巻では、人間の政府、対、猫解放同盟とそれを背後で支えるネコン母星という対立に犬の星パラドックスが噛んできて、対パラドックスのために人間と猫族は不承不承同盟を組むことになる。

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強烈なキャラが複数登場してメインのお話を食ってしまうマンガ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 かつて完結まで読んだのか、読んでないのか記憶が曖昧だったが、やはり結末まで読んでいたようだ。印象が薄かったのは大団円でもなく、大破局でもなく、何だかほんわかと終わってしまうせいだ。ここにきて赤々丸のシリアスな物語は猫たちの平凡な日常に吸収されてしまうといえなくもない。
 キャラが物語を動かすというのは、極めて今日的なあり方を先取りしていたとも思えるが、そもそもマンガはそういうものだったとも言えそうだし、それを考えるとマンガ史になってしまう。とまれ、ドラえもんとかオバQとかに匹敵する強烈なキャラが複数登場してメインのお話を食ってしまうマンガ。

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紙の本レダ 新装版 3

2010/01/29 14:02

レダはまったく重要ではない

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 III巻まで読んできて、以前、雑誌連載時に最後まで読んだのをおぼろに思い出してきたが、ほとんどストーリーを覚えていなかったのは不思議なくらいだ。もっとも、1988年の文庫化の際の後書きで、作者自身も自分が「こんなものを書いたのだとはすっかり忘れておりました」のだそうなのだが。
 私の記憶はレダという登場人物の強い印象ばかりだったのだが、再読してみると、登場人物たちがレダという存在の重要性を喧伝するのが不思議なほど、存在感のない、人格を感じさせないキャラなのである。それなのに印象に刻み込まれていたのはその登場の仕方の鮮烈さに尽きるのだろう。
 いわば植物的に管理されているシティの人々は本当の個性を持っていない、本当の生を生きていない、本当の存在なのはレダだけだ、というのが本書で主張されることなのだが、シティの住人の主要な登場人物たちだって、案外、個性的で、確固とした人格を感じさせるのだ。むしろレダが記号的・象徴的な位置に留まる。こうして脇役を生き生きと描いてしまうあたりが語り部・栗本薫の技量なのだろうけれど、その点では失敗だ。本来ならば、シティとその住人たちがいかに虚像的で異様な存在なのかを特徴付けねばならなかったはずだからである。逆に、シティ住民と対照的なスペースマンたち(地球外で暮らしている人類)が十分に対照的に描かれているかというといささか疑問である。
 安定した社会はついには何も新たなものを生まず。ゆっくりと衰退していくというのはSFでお馴染みのテーマ、哲学であり、本書でも当然そういう流れとなる。だが、本書が鮮やかな印象を残すのは、レダではなく「ぼく」の成長なのである。ビルドゥングスロマン=教養小説だと作者も述べるとおり。
 確かに植物的に主体を持たないシティの住人たちの中で、「ぼく」だけが動物的主体性を獲得していくともいえ、「ぼく」の主体形成の小説なのだが、他に主体がない中での主体形成は不気味な独我小説になりかかっている。

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紙の本神は沈黙せず 下

2008/04/19 19:24

「神」に作られた世界の像に宿る哲学的な洞察

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 文庫版上巻で、この世界が「神」によってシミュレートされた仮想現実だと「論証」してみせてしまったからには、その先どのように物語が続くのだろうかと心配になってしまう。それを上回るアイディアが隠されているのか、それとも話は別の方向に進展していくのか。
 下巻では、神がその存在を人類に示すという出来事が生じる。そして、主人公の兄が「サールの悪魔」という言葉を残して行方をくらます。これは上巻冒頭の一文に予告されていることである。そして、物語はネット社会がどのように変貌するのか、ひとつの思考実験を示していく。もしかすると、現在のこの社会がこのような道筋を辿ってもおかしくないのではないかと納得させられる近未来予測ではある。しかしそれと「神」とどう関係があるのか。「この世は神のシミュレート」論を凌駕するアイディアへの伏線なのか、次なるアイディアの導入なのか、それは読んでいただくとして……
 主人公は、表面的には語り手である和久優歌であるが、実はこの小説は、この地球、あるいは世界が主人公なのである。シミュレーションである「この世界」という主人公の行状を描く「大きな物語」。「サールの悪魔」の謎が解かれていくと、「おお」という仕掛けが明らかになっていく。作者はオートポイエーシスに言及もせずに、このアイディアに到達したのかと驚く。
 グレッグ・イーガンに比肩される大ボラ話であるが、イーガンとは大分異なる肌合いが本作の魅力である。本作での「神」は「世界」をシミュレートする存在であるからして、およそ既成宗教の描く神とは異なっているのだが、山本弘の提示する「神」に作られた世界の像には哲学的な洞察さえ仄見えてくるのである。その後味の違い。

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われわれ日本人の代表として、こんな好青年が選ばれたことには、巡り合わせ以上のものがあったのではないか

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 評者は東日本大震災の被災地の縁くらいのところに住んでいるが、当日は自宅から数十分離れたところにいて、ちょうど家族もそれぞれ出かけるという予定であった。近くにいた人がケータイのニュースで震源は三陸沖という情報を得たのを聞き、かなり離れているのにこの揺れ、阪神大震災級の被害が生じていることを確信した(津波には思い至らなかったが)。メールに返信はなく、自宅に帰り着くまでの間、家族の安否に言いようのない不安を感じたし、こちらが無事だと伝えられたかわからないのももどかしかった。我が家の高校生はプチ帰宅難民化したが、幸い夜には一家が揃った。翌朝まで停電したので、情報は手回しラジオ。大地を海水が覆っていく画像をテレビで見たのは翌朝5時である。あれは南三陸町の映像ではなかったか。

 菅野医師が身重の妻の待つ仙台の実家に戻ったのは3日後、ということは、私がもしかして原発から避難しなければならないのではないかと思いながら、とにもかくにも普段通り仕事をしようと思った月曜日だ。菅野医師の3日間、私のささやかな2時間を思い返してみても、果てしなく長かったことと思う。もちろん、たどり着けなかった人、待ち人が来なかった人も多く、3日後でも僥倖といういい方もあろう。
 しかし、菅野医師の場合、志津川病院の4階にまで達する津波を目の当たりにして、いったんは自分の死を覚悟し、それから助けられる人を5階に引き上げ、しかしながら、救援が来るまでに何人もの患者に死なれ、病院の司令塔として弱音も吐けないという状況である。仙台にもどってから、再び南三陸に戻ろうなどという気が起きなかった、海の近くに行くのが怖かった、と正直な思いが綴られている。
 だが、もう一度、南三陸に戻ろうと決心したのは震災5日後の長男の誕生だった。
 他方、長男の産まれた産院には、被災地に関わりのある赤ちゃんがいないかとNHKの記者からの打診があった。記者としては見事な目の付け所なんだろうが、やらせに近い胡散臭さを感ずる。しかしみんなを元気づけるいいニュースになるという記者の言葉に菅野医師は取材を受けることにした。それがひいてはアメリカに伝わり、TIME誌の「世界でもっとも影響のある100人」に選ばれるということにつながったわけである。

 第2章は震災後の南三陸の医療活動の報告、第3章は志津川病院に勤務するまでの人生行路が書かれている。祖母の死に遭って医師を志し、苦労して自治医大に合格してという話はナイーヴで美談めいているが、彼の仕事をみたら、嘘はない。「寄り添い支える」とはそんな菅野医師の信条なのである。
 TIME誌の招待はレセプションのほんの1週間前、最初はアメリカまで行く気はなかったのが、周囲に鼓舞され、大慌てで準備して渡米したが、手弁当で、何か賞金のようなものがあるわけでもなかったというのはちょっとほほえましい。彼が脚光を浴びたのは多分に巡り合わせということができるが、われわれ日本人の代表として、こんな好青年が選ばれたことには、巡り合わせ以上のものがあったのではないかと思わせる、そんな一書である。

 死者は何も語れない。生き残ったものが記録を残さねばならない。

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悪魔のハンマー 上

2011/03/19 22:28

原発で沸かした熱いシャワー

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 読んでから30年もたっていておぼろな記憶で書くのをお許し頂きたい。自然災害もののパニックSFの、もう古典ともいっていい作品であろう。彗星が地球に衝突することが判明し、そして実際そうなり、破滅的状況を生き抜く努力が描かれる。後のパニックものの映画にも影響を与えたのではないかしらん。
 今回、言及したいのはそのなかでもとりわけ印象的な場面。絶望的な状況の中、生存に苦闘する主人公の前に現れたのが、災害を生き延びた原子力発電所と、そこで文明の火を絶やさないようにがんばり続ける技術者たちなのである。この本を読んだ当時、すでに反原発の考えに触れていた私は、この理性と技術への手放しの礼賛に違和感を思えたことも事実である。
 しかし、いま、福島第1原発の災害の現場で事態の収束のために働いている技術者、消防士、自衛隊員を思うと、この『悪魔のハンマー』で出てくる原発技術者たちの崇高ともいっていい姿を思い出す。そして、疲れ切った主人公が、原発で熱いシャワーを浴びるという極めて感官的な描写は、まさにわれわれが、非正規労働者の犠牲と、核汚染の危険と抱き合わせに享受してきた快適さを象徴しているのである。この熱いシャワー、ニーヴン/パーネルは全幅の肯定を与えるのだが、理念とは別のところにある快適さであり、抗しがたい。
 福島原発の事態が収束したら、われわれはエネルギー問題を議論しなければならないだろう。そのとき盲目的な核への恐怖からでもなく、目の前の感官的な快適さからでもなく、賢明な判断ができるのだろうか。

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