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さいとうゆうさんのレビュー一覧

投稿者:さいとうゆう

25 件中 1 件~ 15 件を表示

今こそ「希望」についてみんなで考えよう

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 2004年に山田昌弘さんの『希望格差社会』を読んで、もはや「希望」さえ持てない時代になったかと落胆したことを覚えている。そして、2010年に玄田有史さんの『希望のつくり方』を読んで、そうか「希望」というものは、どこか知らない「向こう」にあるのではなく、実は私たちのすぐそばに、ひっそりとあるものなのではないかと、思えるようになった。本書には、そんな希望のあり方の一つを、具体的な電気自動車開発という形で提示して見せた著者の、熱い想いと願いがあふれている。

 本書の帯には、次のような言葉が踊っている。

《不況対策も地球温暖化もエネルギー問題も全て解決!!エリーカ開発者が語る、「太陽電池と電気自動車」」が作る新文明!未来はこんなに明るいのだ!》

 「エリーカ」とは、著者が開発した電気自動車のことで、時速370kmを出したと随所で報道された通り、近い未来の電気自動車に対するイメージを先取りしたものとして注目されている。最近、著者が代表取締役社長を務める(株)シムドライブが、「SIM―LEI」という車で航続距離333kmに成功したと報じられたことからも窺えるように、まったく新しい形の「クルマ」が、私たちにも手の届くところまで近づいてきていることがわかる。

 注目したいのはその、旧来の自動車から未来の自動車への、「革命」とも言うべき転換に対する著者の考え方である。著者は言う。

《よく、困難な時代を乗りこえるためには、「血を出さなければならない」といわれますよね。/「革命」という言葉も、よく使用されますし、そうやって、ガラガラと前の時代のコンセプトなり方法論なり経済基盤なりを壊してゆく話は、書いたり話したりするぶんには、気分がいいわけです。/でも、これからの世界や日本を、自分の研究してきた「エネルギー」「クルマ」の見地でながめてみたら、どうも、そういうドンパチやった革命で成果を、ということにはならないと思います。》(pp..183-184)

 次の時代への移行というものは、ガラリと変わるわけではない。大晦日と元旦の間に、何か物理的な変化がないように、時代の変化というものにも、連続性があるのだ。著者は「破壊的イノベーションである、太陽電池や電気自動車の普及、それをバリューチェーンにうまく変更を加えて、軟着陸というやり方で成功させていく」(p.185)べきだと言うのである。

「革命で血を流さないということは、社会を混乱に巻きこむこともなく、前の時代のよかったところはそのまま残せるし、前の時代の有能な人々が、時代が変わってもよい仕事が続けられます。(中略)つまり、技術の主役は変わるけれど、それを作ったり使用したりする人たちは変わらないでいい。/そういうソフトランディングこそ、これからのグローバルスタンダードと呼ばれるものになるのではないだろうか」(pp..186-188)

 携帯電話がPCのライバルとなるような生活が「いつの間にか」訪れたように、車輪が8つある自動車が「当たり前」になる時代も「いつの間にか」やってくるかもしれない。

 自動車というものが、ガソリンで走るということを本質として持っているものではなく、できるだけ速く地上の人間を移動させるものとしてあるのだとすれば、環境やエネルギーを巡る、全く今とは異なった地平が開けてくるのだという主張には説得力がある。エンジンで駆動力を生み出せなくても、ホイールが回れば「クルマ」は走るのである。

 「豊か」になることに制限を設けることをせず、それでも世界中の人々が20世紀のアメリカ並の「豊かさ」を手に入れることができるならば、そしてそれこそがみんなで生き延びるための方法を考えることにつながっているならば、「希望」はもはや失われたものでも、夢物語でもないものとして、すぐそこにあるのだと確信することができる。

《ともだちや、親しい人と話しているうちに、社会はだんだん変化していき、新文明が訪れる。/楽観的といわれるかもしれませんけれど、これから続いていく未来社会をいいものにするため、この夢のような話を「本当のもの」にしていきませんか。/未来の行方は、ぼくたち一人ひとりの手に委ねられているのです。》(p.191)

 平明な文体で書かれていはいますが、非常にスケールの大きな本だと思いました。

 

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紙の本沈む日本を愛せますか?

2011/03/29 06:19

たそがれの日本

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「戦後」というのは「今日と明日とでは何もかも違う」「明日は新しい何かが起こる」というのが当たり前の時代だった(佐々木甚一)。常に変化と革新があり、あらゆるものが「右肩上がり」に成長してゆく。司馬遼太郎『坂の上の雲』の世界である。しかし1980(昭和55)年以降、特に何かが大きく変わるわけではない状態が続いている。

高橋:ある時期から、僕たちは円環的な歴史の中に入り込んでしまった。…自民党というのは、右肩上がり、今日と明日は違うという前提でできていた政党なので、「変わらない時代」に対応できない。…自民党って、「戦後」という「世界」に住んでたんだよね。ところが…いつの間にか戦後じゃない世界になっていた。…『1Q84』の世界なんです。(2009年8月の対談)

ずっと『坂の上の雲』だと思っていたのに気がついたら『1Q84』になっていた、というのは言いえて妙である。私たちはずっと、もう何かが変わるわけではないという「この世界」の、新たなルールも目的も見出せないまま、今日までの30年を過ごしてきたことになる。
政権交替で何かが「変わる」と思った。でも変わらなかった。変わるわけがないのだ。『1Q84』の世界に、もう外側はないのだから。そして私たちはすぐ、目の前にある一過性の熱狂に踊らされてしまう。

内田:国民が政治に求めているものが、すごく…感覚的になってきている。一時的に熱狂して、それが一気に冷めて萎む。支持率が乱高下して、パーセンテージの変化の絶対値の大きさを刺激として享受してる。ローマ時代のコロセウムで、キリスト教徒とライオンの殺し合いを見ているような。(2010年8月の対談)

この世界に「スペクタクル」を求めているのは国民だけではない。

内田:僕が問題だと思うのは、普天間問題で鳩山内閣を引きずり降ろしたときの、メディアの口調だね。…「米軍も、沖縄県民も、政権与党も、みんなが満足する答えを出せ」って、…正解のない問いをつきつけて、回答できなかったら「首相は政策能力がないんだ」って言って。(同上)

韓国やフィリピンにある東アジアの米軍基地が縮小されてゆく中で、沖縄だけが現状維持である理由は、韓国には置けないが沖縄にはおける「モノ」、戦後ずっと日本にあってはならないとされてきた「モノ」にこそあるのだと内田は言う。

ないとされてきた「モノ」が実はあるのだということを事実として指摘し、それを踏まえて「戦後」を上書きすることができれば、『1Q84』であるこの世界に、ようやくまともな、政治の季節が訪れるかもしれない。

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池上彰のつくり方

7人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

メディア・リテラシーを身につけるというのは「情報の目利き」になることである(日垣隆)。あふれる情報の中から有用なものだけをピックアップし、それを必要としている人に対して提示するが「目利き」の役割だ。

私たちは目利きの「目」を信用し、その人のアンテナを信頼している。

キュレーターは、博物館や美術館の学芸員であることにとどまらない。「世界中にあるさまざまな芸術作品の情報を収集し、それらを借りてくるなどして集め、それらに一貫した何らかの意味を与えて、企画展として成り立たせる仕事」をするには、「情報を司る」ことができなければならない(p210~211)。

かつては、世界中にある情報を収集するのも、それらに意味を与えるのも、マスを対象としたメディアの仕事だった。しかし、もはやそこで生み出される「企画展」に、私たちの心は躍らない。

「ある情報を求める人が、いったいどの場所に存在しているのか。
そこにどうやって情報を送り込むのか。
そして、その情報にどうやって感銘を受けてもらうのか。」(p41)

上記の問いに答えるためには、(1)情報の需要のありかを極小の単位でつきとめ、(2)ピンポイントで情報を送り込むための方法を考え、(3)情報の意味と価値を確実に伝えることのできるよう、表現に工夫をこらすことが必要だ。

「情報」は「物語」になることで人を動かす。その「物語」のリアリティは、メディアとしての目利きの誠実さと熱意に支えられている。

「社会との関係は接続と承認が中心になり、その接続・承認を補強するための手段として、いまやモノは買われている。それは、消費の向こうがわに人の存在を見るということ。他者の存在を確認するということ。」(p126)

キーワードはむしろ情報ではなく「人」である。

「事実の真贋をみきわめること」は難しいけれども、「人の信頼度をみきわめること」の方ははるかに容易である。(p207)

時代は、多くの、そして小さな「池上彰」を必要としている。

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福祉と刑事裁判の現状

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 2001年の4月に起きた浅草女子短大生殺人事件は、容疑者がレッサーパンダの帽子をかぶっていたという奇異さから、こぞって報道各機関も取り上げたのだが、その後の展開や判決を巡って大きな反響が起こることもなかった。常軌を逸した人間の通り魔的な犯行として片付けられてしまった感さえある。

 報道当初、容疑者が高等養護学校の出身者である事実はなぜか伏せられていた。殺人という重大事件において、容疑者が障害者であるという要素が、報道機関の自主規制を招くことを警視庁、報道関係者ともに危惧したのではないかと著者は勘ぐる。

 犯罪を起こした者は、罰せられねばならない。この基本的な法社会のルールはとても大切だ。しかし、その罪に対する罰の妥当性、量刑設定のプロセスに関して、留意すべき問題点が本事件には多々ある。

 容疑者の「殺意」をめぐる応答には矛盾があり、タクシー運転手の証言は黙殺され、取調べ警察官の先入観は取り除かれることがない。詳細な裁判の傍聴記録を通じて浮かび上がってくるのは、現行裁判制度が持つ不備、すなわち司法の非自立性であり、知的障害を抱えた人間の生き難さである。目に見えぬ傷害ゆえ福祉の支援からこぼれ、配慮なき社会に適応してゆくこともできぬ者たちが、半ば必然的に罪の領域へ足を踏み入れていく悪循環——。起きてしまった痛ましい事件から、結局何も学ぶことなく繰り返されていく愚行。これでは加害者も被害者も救われることがない。

 元・養護教諭の経歴を持つ著者は、自閉症の疑いが持たれるレッサーパンダ男に寄り添いつつも、愛娘を失った被害者の家族の声にも耳を傾けていく。その一つ一つの声が採録されてゆくごとに、どこに「罪」があるのか判然としなくなる。誰が「罰」を受けるべきなのかわからなくなる。子供の罪は親の責任か? 病んだ者は隔離すればよいのか? 生涯に苦しみだけ刻み込んで死んでいった容疑者の妹に、どんな希望を与えることが可能だったか?

 発せられた瞬間かき消えてしまう生の「声」を、文字でつかまえることは難しい。その声は、「沈黙」の場合さえある。固定された活字は、「声」の世界を殺してしまう。しかし、文字化しないことには、そのやり場なき怒りも悲しみも、同時代への警鐘として伝達されることがない。

《「誰の裁判なの?っていつも思う。それが腹立たしいんです」》(被害者の母の言葉)

《検察官が描いているY・Mは、どこからどう見ても動かしようのない凶悪な殺人者であり、反省などするはずのない悪質で異常な人間になっていて、私が知っているYとはとても同じ一人の人間とは思えないのです。》(元・担任教諭へのインタビュー)

 加害者も被害者も、法廷においては個別性を奪われ、与えられた役割を仮構的に演じる記号的な存在者として扱われる。彼と彼女に関わったすべての人々が異和感を感じる不快なドラマ、それが今回の刑事裁判である。「バリアフリー」や「ノーマライゼーション」を正義の護符のように叫ぶ者たちのすぐそばで、超えるべきハードルがどんどん高くなっている、そんな気がする。

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紙の本となり町戦争

2005/07/28 00:47

「彼女」と「戦争」の核心について

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アパートの郵便受けに入っている「広報」で戦争の開始が告げられる。町民税の納期や下水道フェアのお知らせに挟まれる形で、「となり町との戦争のお知らせ」が告知されている。あたかも道路工事か町民センターの建設がはじまるかのような手つきで、戦争の火蓋は切って落とされる。
 戦争がはじまるはずの9月1日になっても「僕」の周囲に変化はない。いつもどおり会社に行き、いつもどおり「となり町」を通過してアパートへ帰る。戦争の有無をいぶかしむ「僕」のもとへ再び広報は届き、小さな文字で戦死者の数を告げる。
 自分のまわりでは誰も死んでいない。戦争に参加しているような雰囲気さえ微塵も感じられない。しかし戦争は始まっており、今日もどこかで町民が「戦死」している。「僕」にとってそれは、まったくリアルでない「戦争」だった。
《あなたはこの戦争の姿が見えないと言っていましたね。もちろん見えないものを見ることはできません。しかし、感じとることはできます。どうぞ、戦争の音を、光を、気配を、感じ取ってください》(p.101)
 町役場の総務課「となり町戦争係」で働く「香西さん」が、「僕」と戦争を結びつける。彼女の電話で「指令」を受け、「僕」は「となり町」へと居を移し、敵をあざむくためか香西さんと結婚までする。すべてが「業務」であるかのように振る舞う彼女に惹かれていくのと同時に、「僕」もまた戦争の核心部へといざなわれてゆくのだ。
 週に一度の香西さんとの性交も、始まっているはずの戦争も、「僕」にとってつかまえどころのない、あやふやな「現実」だった。目には見えない奥底で操られているような、甘美でスリリングなゲームに参加させられているような感覚のまま、「僕」は生死の境目を紙一重で切り抜け、戦争の終結を見届ける。
 これが本当の戦争であると、指差すことのできる事象などない。それはあくまで象徴として、断片が部分的に切り取られているにすぎないからだ。同じように(ここを比喩でつなげてしまうあたりがこの小説の「核」なのだろうが)、これこそ真の彼女であると確信できるような香西さんの「私性」が顕わになるような場面などない。
 「僕」は「戦争」が欲しいくらい、「香西さん」が欲しいと思っている。だが彼女にとって、与えられた役割以上にこだわるべき〈私〉などないのだ。議会の決定によって戦争の遂行が義務づけられ、その滞りのない進行を補助する彼女の仕事は、公共事業に携わる熱心な役場職員以上でも以下でもない。「僕」との生活や性的な交わりでさえ、彼女にとっては「業務」の域を出ないからだ。
 与えられた人形に「僕」は懸命に魂を吹き込もうとするのだけれども、人形は決してこちらに向かって微笑んではくれない。時折、ひょっとしてという期待だけをはらみながら「戦時」は続き、週に一度天使は裸で「僕」を訪れ、痕跡を残さないで去ってゆく。
 「僕」には「戦争」がわからないし、「僕」には「彼女」がわからない。知ろうとしたところでどちらも、中心に空虚が抱え込まれていて、その内側を探そうとすること自体が空回りを繰り返す。そういえば「僕」はまだ、「香西さん」の下の名前を、彼女に向かって呼んだことがない。

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紙の本戦争と万博

2005/07/28 00:50

万博という名の戦争

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 万博というと「博覧会」の「博」のほうに注目が集まるけれども、「万」が「万国」の略であるようにすこぶるイデオロギッシュな企画である。にもかかわらず、1970年に開催された大阪万博には、当時「前衛」と謳われた芸術家たちがこぞって参加している。磯崎新、黒川紀章、岡本太郎、山口勝弘などである。
 「新しい芸術」を模索する彼らが、国家規模で行われるプロジェクトに対して理念的には異和感を感じながらも、その実現への魅力へととり憑かれてゆく様はわかる気もする。しかし、万博へ参加することはすなわち、あらゆる個別の流派を超えたアーティストたちが一同に会してしまうという意味において「大政翼賛」的状況と変わりがなかった。
《1960年代の「万博芸術」と1940年代の「戦争芸術」とのあいだには、おそらく密接な関係が存在する。第一に、その出自の多様性にもかかわらず、ひとたび国家によって「聖戦」や「未来」といった「新秩序」が設定されると、たがいのジャンルの異質さを乗り越えて、容易に大同団結してしまう。その「インターメディア=マルチメディア性」において》(p.69)
 たとえば「お祭広場」の諸装置の設計者であった磯崎新は、万博後に次のような心情を吐露している。
《日本万国博に関していえば、ほんとにしんどかったという他ない。(中略)いま、戦争遂行者に加担したような、膨大な疲労感と、割り切れない、かみきることのできないにがさを味わっている》(p.133)
 国家規模の、現代科学技術の粋を尽くして催される「万博」は、いちアーティストにとって千載一遇のチャンスに見えたことだろう。しかし磯崎は、5年の歳月を費やして完成したすばらしい「廃墟」のなかで呆然と立ち尽くすことになる。
《「お祭広場」に未来都市の廃墟を現出させ、「万博という戦争」の焼け跡に立って一種の虚脱状態にあった磯崎の目には、かつて自身が経験した日米戦争の記憶が重ね合わされていなかったか》(p.140)
 建築がもし、具体個別の「建物」をめぐる物語であるならば、爆撃でもってそららは一日で消尽されてしまう可能性を孕む。そのあとに何かを建てようとする者は、その建物を取り囲む「環境」ごと設計しなければならない。いきおい建築家は「都市設計者」であらねばならず、広義の「空間デザイナー」とならねばならない。しかし、その創造性の背後には、つねに廃墟の闇がつきまとう。
《現実に目の前にある構築物も、これから建設されるであろうさまざまな未来の都市建築物も、結局25年前(1945年)の完璧なまでに消滅しはてた日本の諸都市の、その土壌のうえに建てられているにすぎないのではないか》(P.142 磯崎新)
 一瞬で「ヒロシマ」は消えた。「トウキョウ」は焦土と化した。ならばその上に積み上げられる鉄筋コンクリートの一切合財は、文字通りの意味で「砂上の楼閣」となる宿命を背負っている。「万博」は、土地に潜む歴史性を無化しながら更地を作り出し、大規模なテーマパークを期間限定で展開し、期間の終了と同時に廃墟となる。壮大な実験場は、抽象化された歴史のなかにその名を刻み込みながら、今も無残な姿を曝している。もはや意味など剥奪されたただの「物質」として。
《わたしたちは依然として、大阪万博をもひとつの演習とするような、「未来」という名の、より巨大な万博会場に住んでいる。万博は終わったわけではない。わたしたちが生きている「いま、ここ」こそが万博という「戦場」なのだ》(p.276)

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紙の本子どもが減って何が悪いか!

2005/01/18 01:37

子どもは減っても構わない。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 世間では「少子化だ! 大変だ!」と騒いでいる。「1.29ショック」はまだ記憶に新しい。だがしかし、どこの報道機関もその危機感を煽るだけで、少子化を是認、あるいは必然と断定する声が聞こえてこないのが不思議でしょうがなかった。なぜ、「少子化=問題」なのか。「出産&育児」という非常にミクロな出来事に対して、「労働力」だの「経済力」だのの衰退という、とてつもなくマクロな危機意識を植えつけようとするのはなぜなのか、そんな疑問に対して本書は答えてくれる。

《子ども数を規定しているのは、どういう都市に住んでいるのかという生態学的な要因であり、学歴、本人収入、従業形態といった社会経済的要因である。そしてこれらは、すでに人生のキャリアを重ねてきた人たちにとっては、政策介入によって大きく変えることはできない要因ばかりである》(p.72)

 私自身、毎月6万円強の保育料を私立の保育園に支払っているが、これが例えば1/3に減ったからといって、あと2人くらい子どもをつくるかと言われると疑問である。おそらく、少なくない数の人は、国が手厚い保障をしてくれるからといって、3人以上の子どもを育てようとは考えていないのではないか。なぜならば、それぞれ個別の生活を営む市井の人々にとって、「国(行政)が面倒をみてくれる」から「子どもをつくろう!」と発想するではなく、「子どもができた」結果、「国(行政)は意外と子どもと親にやさしくない」ことに気づくのではないかと思うからである。

 またフェミニズムは、少子化の理由を「男女共同参画の不備」によって説明しようとするけれども、産休や育休を充実させても、男性の育児参加が積極的に行われるようになっても、すぐさま子どもが増えるとは思えない。制度的保障は事後的にありがたいと思うだけだし、男性の育児参加は核家族においては必然的なので、それぞれが「出産&育児」への動機づけにはなるとは思えないからだ。筆者は言う。

《「男女共同参画は出生率回復につながる」という言説は、単に実証的に疑わしいだけでなく、理念的にも欺瞞である》(p.102)

 嗚呼! こういう言説を吐く学者を待っていたのだ。無条件で正しいとされている「出生率回復」をこそ疑うこと。少ない人口でも成り立ちうる社会システムを構築すること。そういうことを考えた方が、むしろこれからの私たちにとっては有益なのではないのか。

《GDPで測られるような経済成長や豊かさが仮に減少したとしても、画一的なライフスタイルをほとんど強要され、不公平な制度を続けるよりは、少子化がもたらす負担を共有しながら、誰もが自ら望む生と性を謳歌できる社会のほうが、はるかにましだ》(p.211)

 そういう社会に、私は住みたい。

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「私」の多元化と「私」への拘泥

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 例えば1983年という年が、もう20年以上も前の事柄に属すという事実に、改めてある種の感慨を覚えてしまう30代以上の方は多いだろう。東京ディズニーランドが開園、任天堂はファミリー・コンピューターを発売、浅田彰が『構造と力』を上梓し、西武百貨店で「おいしい生活」が手に入った年だ。

《80年代の全てを「おたく」の語に集約しうるなどとは考えないが、しかし80年代の「おたく」文化を検証することで見えてくる「現在」があり、それはアニメやコミックの「現在」ではなく、新世紀の日本社会の「現在」である、とぼくは感じる》(p.5 漢数字はアラビア数字に置き換えた——引用者注)

 「リアル」なものの形が変質しつつあったその時代、虚構は現実の代替物であるものから、虚構であるという立場を保持したまま戯れるための記号空間へと変貌を遂げる。文字通り「仮想現実の時代」の幕開けであった。

 「おたく」という平仮名書きにこだわる筆者は、その頃エロまんが誌の編集者をしていたと言う。「劇画」がもはや衰退しつつあった状況の中でもがく一編集者としての軌跡が、サブ・カルチャー領域の変遷に重ねあわされながら綴られてゆく。1980年代の「おたく」は、当時出現した「新人類」のごとく、消費者としての「主体性」すなわち物を作る側にではなく買う側にこそ優位性があるという神話を信じることもできず、コミック・マーケットなど、経済システムの外側にある、自前の市場を模索していた。

 新書とは思えないページ数に、まさに屈託した「私」の精神史が綴られてゆく。虚構世界では一人称の多元化、すなわちコマ単位で変化するキャラクターの内面描写が趨勢となる一方で、それを語る筆者の語りには、当時抱え込まれていた葛藤と逡巡が色濃く反映されていて、矛盾を引き受けようとする意志と自身の自嘲気味な半生が記されている。

 大塚英志にとって、「おたく」とは一つの生き方である。それはディズニー・ランドからオウム真理教へと拡がる、茫洋とした現代世界を捕捉する為の戦略としての視座でありながら、止むに止まれぬ切迫感を伴った表現欲求のはけ口でもあり、同時代を駆け抜けてきた戦士たちを系譜として紹介しながら、彼あるいは彼女らとの関わり方を通して浮かび上がる、大塚英志という生き様である。

 屈託ある「おたく」がいまどれほどいるのか分からないが、だらしなく口を開けた「動物」たちよりは百倍マシであろうし、それを踏まえた上で、大塚英志が言う意味での「倫理」という言葉を私は信じてみたい。「癒し」が商品になる時代とは「心」が唯物化されつつある時代であり、語るべき言葉を持たないからといってその内側に巣食う闇が狭まるわけでもないならば、「おたく」と「現在」を接続しようと試みる氏の模索はいつも、ある種の誠実さと切実さに彩られていて、この「古臭さ」こそ、失われてはならないような気がするのである。

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紙の本釈尊の生涯

2003/10/16 03:14

神話の向こうにある具体的な個人の生涯

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 「ブッダ」が固有名詞でないということを、私は本書を読むまで知らなかった。「仏陀(ブッダ)」とは「覚者」すなわち「真理を悟った人」のことで、「釈迦」とは種族の名なのだと言う。「釈尊」と言ってみても、「釈迦族出身の聖者」という意味で、それだけでは複数の「釈尊」が存在してしまいそうなのだが、そのようにしてしか「ゴータマ・ブッダ」その人を指し示す術がないのである。

 著者自身明言しているように、本書は「仏伝」でもなければ「仏伝の研究」でもない。その目的は「後代の要素を能うかぎり排除して、歴史的人物としての釈尊の生涯を可能な範囲において事実に近い姿で示そう」とすること、これである。神話的な釈尊ではなく、あくまで「人間」としての彼の生涯を追うこと。それは、一人の人間が、その到達した頂きの高さと与えた影響の大きさゆえに、幾重もの伝説と誇張を付加されてゆく以前の、具体的で個別的な実存を生きた「求道者」としての姿であった。

 筆者の解釈によれば紀元前463年に生まれた釈尊=ゴータマ・ブッダは、世俗の生活を送り、結婚して子までもうけながら、その家族と、約束されていた王位の座を捨て、人々の「精神の師」となるべき道を選び取った。退廃と破滅を説く思想家たちや、釈尊以前に影響力を持っていたバラモン教などとは一線を画す形で、「あらゆる人」にその教えを説いた。

《彼は祭祀における慣習的なものを一度否定することによって、人間の内面的精神的な面に心を向けたために、やがて仏教はバラモン教よりももっと自由な立場から世俗における実践倫理を基礎づけることができるにいたったのである》(p.100)

 民族宗教としてのバラモン教が重んじたのは「聖典」であり「祭式」であった。ところが彼が説いたのは、現実の人間をあるがままに見て、「安心立命の境地(ニルヴァーナ)」を得ようとするその方途であり、実践的存在として「人間の理法(ダルマ)」を体得することであった。釈尊はバラモン教の世俗的・慣習遵奉的な道に対して、超世俗的・出世間的な、精神的自己統一を目指す道を示したのである。

 「我には師は存在しない」と釈尊は言った。そして死の直前、弟子のアーナンダに彼はこう語るのだ。

《アーナンダよ、この世でみずからを島とし、みずからをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ》(p.207)

 すなわち、頼るべきものはめいめいの自己であり、それはまた普遍的な法(ダルマ)に合致すべきものである。そして、自分以外の何かをその支えにするのではなく、自らをこそ(自)、存在の理由・根拠(由)として、生きつづけるということ。それは、人間という存在が根源的に持つ本質としての「自由」の表明である。

《歴史的人物としてのゴータマはその臨終においてさえも、仏教というものを説かなかった》(p.225)

 仏教の初期、釈尊という一人の男の生涯を追ってみたときに見い出せる注目すべき逆説——仏教の祖は、仏教というものを説いてはいなかったという事実——を今一度噛み締めるとき、遠い神話の世界に住む偉い人が、実は身近でかつ畏敬すべき人であったことに気づかされる。

《この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ》(p.210)

 陳腐なヒューマニズムとひとは笑うかもしれないが、本書によって浮かび上がった「釈尊像」が、おそらく長きに渡って私を支配し続けるであろうことは想像に難くない。

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紙の本正義の喪失 反時代的考察

2003/10/09 21:23

二分法を越えて

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 「平和を守るための戦争」という言い方ほど、矛盾した物言いはない。「平和」のために「戦争」が肯定される。「正義」を標榜した「戦争」が称揚される。仕方がないと言われるかもしれないが「戦う」こと以外に方途がないのだとすれば、いつまで経っても「争いの連鎖」から解き放たれることはない。

《正義と平和の間には、克服し難い原理的矛盾がひそんでゐる》(p.55)

 「自由」と「平等」が相反する概念であるように「正義」と「平和」もまた相容れない要素を持っている。これは基本的な事実だ。湾岸戦争もイラク戦争もその意味でまことに「奇妙な戦争」であった。

《問題は、人々の掲げる正義が一致しないことにあるのではない。喰ひ違つた「正義」と「正義」とが、どうして裂け難くぶつかりあひ、戦ひあつてしまふことになるのか?——そこが問題なのである》(p.59)

 お互いがお互いの正しさを主張して譲らない。双方が「正義」の名のもとに自らの行為を正当化する。結果、事態は平行線を辿らざるを得ず、いつか火蓋は切って落とされる。

《「正義」という概念の内には、たしかに、人を戦ひへとさし向ける、ある必然的な構造が潜んでゐる。…それは「正義とは不正の処罰である」といふ考へ方にほかならない》(p.61)

 「大怪盗」なしに「名探偵」が存在し得ないのと同じで、「正義」は「不正」をその動力源としている。一方なしに他方は存在できない。お互いが相補的な存在なのだ。ゆえに「この世に不正あるかぎり、正義はなくならない」のであり、その限りにおいて「正義のための戦争」もなくならない。

 最近の話に限らない。明治期日本における「開化」と「独立」という問題もまた、その内部に避けがたい矛盾を内包していた。

《異文化の余りにも徹底した採用は、独立を守る代りに、かへつて内側から独立をつき崩してしまふのではあるまいか》(p.133)

 戦わねばならぬ、しかし戦ってはならぬ。あるいは、文明を取り込まねばならぬ、しかし国体は守らねばならぬ。どちらも、絶え難い「二重拘束(ダブルバインド)」だ。一方に依れば他方が立たず、といってその図式自体を無効にするわけにもいかない。

 極大の話に限らない。何気ない日常生活における一コマ、「仕事」か「家庭」かという問題もまた、葛藤と諍いを生む典型的な対立項である。

《仕事も、本当にそこに自分をかけるという仕事の仕方をしたら、絶対に周りの人間に有形無形の犠牲を与えずには出来ないし、今度は逆に絶対に家庭に迷惑をかけまいと思ったら、本当に自分を投入するような仕事は少なくともその時期には出来ない》(p.325)

 截然と区分けするわけにもいかず、それゆえ惑い、そして迷う。対立を乗り越えるための徹底的無抵抗や非暴力を遂行できるほどわれわれは我慢強くなく、他人の影響を遮断して独立独歩できるほど自分に自信もなく、「仕事」だけを生きがいにできるほど強靭でもない。消費社会の発展に伴なって、心身ともに耐性が弱くなってきているからなおさらである。

 「正義」を喪失し、「独立」を喪失し、今まさに「過去」と「未来」を一緒くたに喪失しようとしている。

 「幸福」を「快楽」と勘違いして、文明という「汽車」は今日も走る。著者である長谷川氏は言う。「誠実にもがいてください」。——仰るとおり。それを手放したら、お仕舞いだ。テーマは「家庭」から「歴史」、「国際社会」まで幅広い。こんなにお得な文庫はない。

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紙の本可能性としての家族

2003/10/06 22:50

「家族」は解体しない

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 初版が発行されたのが1988年だからもう15年も前の本になるのだが、この度出版社を替えて再版されることになったようだ。私は今回が初読である。扱われている時事的なものは時代を感じさせるところがないでもないが、「家族」なるものの〈本質〉を見極めていこうとするその姿勢自体は、15年経った現在においても全く古びていないように思われる。

 大雑把に言ってしまうと、「自分のことは自分で決める」という考えに基づいた狭義の個人主義にとって、「家族」というものは立ちはだかる壁として感じられる部分が少なくなく、そのような個人意識の発達と浸透によって、これまで強固な基盤を誇ってきた「家族」なるものが崩壊の危機に面しているのではないかという思いは、21世紀に入った現在においてもかなり一般性を持っているであろう。

 現に、「自由で自立した個人概念」を旗印に、「家族解体論」を展開する知識人も未だよく目にするし、世代を越えた同居世帯の減少や増加する離婚率なども血縁意識からの離脱と受け止められなくもない。ただ、「家族」という「非常に特殊な共同性」について考えようとするとき、「家族なるものが段々解体していくのは歴史的必然である」という思い込みに著者はある留保をつける。

《むしろ、〈家族〉というテーマとの関わりで歴史的進展を云々するなら、近代は、性を基礎とするこの私的な領域を、ハードな社会的制度との癒着的構造から切りはなして解放したと考えるべきなのである》(p.37)

 例えば、新聞の見出しなどでも見かける一世帯あたりの子ども数の減少は、予期に反して起こりうる妊娠・出産・養育というリスクに満ちたプロセスを、自ら意識的にコントロールしようとする近代人特有の現象なのであって、そこに働いている力学は家族の解体どころか一層濃密な関係性への凝縮へと向っており、そこには〈再編〉の可能性さえ胚胎している、と言うのだ。

《近代は、制度としての家族を未解決の課題として残したのではなく、家族そのものに固有の原理を自立化させ、前面に押し出したのである》(同上)

 近代が家族を解体へと導いていくのではなく、逆に近代が「家族」という形態へ個々人の意識が焦点化されるような趨勢を持ちえていただとするならば、「……主義」がどのような社会的影響力を持とうともそれらとは無縁な形で、「家族」という共同性のあり方は存在し続けることになる。

《だれしもある親の子であるという意味において…家族関係を作らない人などは存在しない》(p.64)

《家族とは、一対の男女の性的親和および性的産出を核として、互いが互いのことをその特定の固定した位置関係にもとづいて「気にかける」ところに成り立っている共同性である》(p.81)

 世のお父さんお母さん達は思い出してみて欲しい。自らが「家族からの自由」を欲し、そして己が手にしたものが新たな「家族への自由」であったことを。

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紙の本「おろかもの」の正義論

2005/02/16 09:33

「絶対」などない世界のなかで

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 現代において、あらゆる「絶対」は存在しない。絶対的な権威も、絶対的な価値も、絶対的な規範もない。もちろん絶対的な「正義」もない。相対主義者のたわ言ではなく、これは「事実」だ。

 だがそれでもなお「正義」あるいは「正しさ」なるものが立ち上げられうるとすれば、いったいどのような形で可能なのか。

《「正しさ」を決定する絶対的な存在を前提できない以上、誤り多き人間が、約束事として「正しさ」を作り上げていくしかない。》(p.43)

 作り上げられる「正しさ」とは、「規範的な正しさ」だ。それは「正しさ」の根拠うんぬんとは関わりなく、人間を尺度として測られる「見なし」の態度である。例えば、胎児はまだ生まれていないのに相続権があると見なすように、生物学的・科学的事実には反していても、私たちはその基準を「正しい」ものとして扱う。凶悪犯罪の被疑者であっても、彼を「無罪」と見なさない限り裁判は機能しないし、弁護士の役割も無化されてしまう。事実は、認定されなければ「事実」でさえないからだ。筆者によれば、弁護人は、被疑者の人権を守るために闘っているわけではない。事実を確定するために、被疑者が無罪であるという可能性を追究しているのである。

 絶対的な事実は存在しない。しかし、事実なしに物事は立ち行かない。ゆえに、「事実」を確定しなければならない。ニーチェを気取って「事実は存在しない」と言ってみたところで、現実はその機能を停止してしまう。

《事実とは、つまり約束事なのである。》(p.93)

 これは、事実が約束事にすぎない、と言っているのではない。曖昧な事象を無理やり単純化するゆえに起こる陥穽を避け、絶対的ではない合理主義から抜け出すために必要なスキルなのだ。論点の違いを「価値観の相違」と言って投げ出すのではなく、合意形成に向けた取り組みを可能にするための基盤なのだ。

《わたしがしようとしているのは、現状を非難することなくありのままに見つめ、そこを出発点として前に進む道を探ることなのだ。居直らず、諦めず、居丈高にならず、ふて腐れず、半歩でも前に進むためにはどうすればよいかを考えることなのだ。》(p.216)

 こういう著者の話には、耳を傾ける価値がある。

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紙の本エロス身体論

2004/06/11 22:11

人間という奇妙な逆説

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 本書で言う「身体」とは、物理的な実在や生理的な機構としての「肉体」のことではなく、

1.生命機能を統一させたシステムとして
2.主観的なイメージを成立させる「座」として
3.外的な世界との関係を変更する手段として
4.他者との関係における相互認知、相互交渉の手がかりとして
5.エロス的な関係の価値を創造したり維持したり破壊したりする目標として

 などの、さまざまな機能面・実存面における複雑な「意味の体系」として存在するもののことである(p.69)。

 ロゴス、すなわち言葉や論理だけで人間が語れるわけでもないし、パトス、すなわち情緒や感性だけで日々を過ごせるわけでもない。その両者の奇妙な複合体として〈私〉はある。著者の目論見は、なおざりにされがちな人間の情緒的側面、あるいは表立って語られることのない性的な要素までを含みつつ、「人間とは何か?」という大きな問について考察してゆくことだ。

 この世に生を受け、出会い、まぐわって、そして死ぬ。この単純にして壮大な物語について丹念に追跡を試みるとき、抱きがちな俗情でさえ、ある重大な示唆を含んだ契機として浮かび上がる。「哲学」とはひょっとして、とてつもなく「淫らな」ものであるのかもしれない。そして同時にエロスとは、非常に「観念的」なものであるのかもしれない。

 これほどまでに「個人主義」が浸透し、誰もが自分の固有性について、あるいは「人権」という形で擁護される己が「権利」について疑いを持たないとき、その「個」たるものが実は「他」との関係の中でしか成立しえず、結局のところ他者への「開かれ」なしには、生きることも死ぬこともできないという「原理」から言説を立ち上げてゆくことは、行き詰まりを見せつつある閉塞状況に対して何らかの見通しをもたらしてくれるのではなかろうか。

 「身体として・いる」この私から〈私〉は逃れられないと同時に、ここを足場としてしかあらゆる「志」を発現することもできず、既成の道徳に対して懐疑的であるとき、その懐疑を抱いた者は、何とか懸命に己が取りうべき態度を「倫理的」に構築せざるをえない。

《倫理とは、人間が、他者とのあいだである行為をなしたとき、またはそうなったとき、その行為を人生時間の「長さ」についての意識や、人間関係の広がりについての意識とのかかわりにおいて問題とする志のことである》(p.181)

 相反する力に引き裂かれつつ、それでもなお〈私〉という全体を統(す)べようとする基盤として「身体」はあり、そして常にその「身体」から「身体」を目がける形で、欲望は発露する。まぎれもなくそれは「身体の思想」なのではなく、「思想としての身体」となるはずである。

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紙の本海辺のカフカ 上

2004/02/06 23:31

不在というかたち

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 画家が白いキャンバスに向かって筆を執るとき、彼によって捉えられている〈かたち〉があるだろう。いまだ具体的な〈形〉としては顕在化していない、目には見えない〈かたち〉。まだ線になっていない線、色がついていない色。それらはまだはっきりとした輪郭を持っていない。それでもそこに〈形〉は先取りされ、すでに孕まれている。

 〈形〉を生み出す母胎・基盤でありながら、それは〈形〉が姿を現したときに忽然と姿を消し、そもそものはじめからこの〈形〉であったかのような顔をして、さまざまな観客の前に提示され、伝わってゆく。

 〈私〉というのも、このような成り立ちをしているのではなかろうか? 〈私〉という〈形〉ができてしまったとき、〈私〉はもはや〈わたし〉という可能性を失っているのだ。言い換えれば、〈わたし〉という、潜在的で、あらゆるものになりうる可能性への条件を忘却したところに、〈私〉は成り立っている、ということだ。

 15歳の〈少年〉は、ちょうど〈わたし〉から〈私〉への境界上にいる。いまだ具体的な輪郭はもっていないが、おぼろげに縁取られた存在の輪郭。古今東西の書籍で組み上げられた架空の楼閣には、番人はいても住人がいない。欲望の所在には気がついていても、それを向ける矛先は、夢と現のあいだを彷徨っている。ライオンになろうと思えばライオンにもなれただろう。だが彼は「カフカ」になった。

「夢の中から責任は始まる」(上巻p.227)

 もし、〈私〉が生まれたことに対して〈私〉に自由がないならば、〈私〉には一切の責任の発生する余地がない。だが、もし〈私〉がすでに作られつつある中で、消え失せようとしている〈わたし〉に対して責任を負えるなら、〈私〉はきっと〈わたし〉を喪失したまま、その内部に〈わたし〉を宿して生きてゆくのだろう。

 〈私〉は必ず具体的な姿で、〈形〉を持って存在するしかない。
 〈私〉になる、ということは、〈わたし〉とは全く別のものとして存在し始める、ということだ。「別の名前になること」は簡単にできるかもしれないが、〈私〉になることは容易ではない。

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「顔」とは何か?

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 「単なる人間の頭部」でも、「コミュニケーションのインターフェイス」でもないとすれば、「顔」とはいったい何か。またそれはいったい何を伝達しているのか。

 自分の知己の「顔」は、時間が経てもすぐに認識することができる。その人のもつ〈固有性〉を、われわれはその「顔」を通して手に入れることができる。だがしかし、そこで手に入れられている「顔」の〈固有性〉とはいったいどのようなものか。

《「顔」の認識とは、いかなる意味でも「表象の再現前」ではありえず、むしろその都度一回性を刻印された、生成の過程であるほかはない。》(p.17)

 「顔」による伝達がその〈固有性〉である限り、その顔はパターン化することができない。「似ている顔」というのはありえても、「似ている」がゆえに決定的に埋まらない異質性がそれぞれの「顔」にはっきりと刻印されてしまっている。

《指紋の固有性は、厳密に数量化可能なパターンとして扱いうるが、「顔」の固有性の根拠はパターンにはない。(中略)「顔」の固有性は照合ではなく、直接的な肯定、すなわち確信によってもたらされるからだ。》(p.20)

 われわれは知己の顔がまさしくその人の「顔」であることを、「どんなイメージも介さずに」把握する。それは、ある言語の意味が、まさにある言語〈として〉無媒介に理解されてしまうことに等しく、その意味で「顔」は言語に等しいと言うことができる。

《「顔」に一義的な「意味」はない。それはちょうど、固有名の無意味さに似ている。一切の意味を可能にする、起源としての無意味さ。(中略)個と普遍を媒介する還元不可能な記号、それこそが固有名であり、また「顔」なのである。》(p.24)

 われわれは「名もない顔」に出会うときも、その「顔」の固有性を信じることができる。「顔」は固有名と同様に、あるいはそれ以上の強度で〈固有性〉を伝達する。

《「顔」は「固有性のコンテクスト」を伝達しつつ、みずからは言語のように機能する、きわめて特殊な記号なのである。》(p.27)

 「固有性のコンテクスト」すなわち〈文脈〉は、その存在の「実在性」を保証する連続性である。いま目の前にしている「顔」という一瞬のイメージを、かけがえのない知己の「顔」として同定することを可能にする連続性である。

 精神病において失われているのは「顔」である、と筆者は言う。顔の〈顔性〉、ある「顔」を固有なものとして同定しうる〈文脈〉、ある「顔」を成り立たしめる〈生成過程〉である。

 〈文脈〉それ自体は、決してじかに取り扱うことができない。にも関わらず〈文脈〉に支えられていない「顔」や「言語」はその〈固有性〉を伝えることができない。具体的な「顔」の中には、それが「顔」という具現性を獲得するまでの「生成過程」があるはずだが、「生成過程」それ自体は、「顔」という具現性の結晶化なしには開始されない。

 「顔とは文脈である」という筆者によるテーゼは、そのどちらかが一次的であるという問いを無効にしつつ、確信の成立と文脈による分節化を繰返しながら自らの実在性を主張し続ける。(※ページ数は旧版に拠っています)

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