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  3. 野崎泰伸さんのレビュー一覧

野崎泰伸さんのレビュー一覧

投稿者:野崎泰伸

13 件中 1 件~ 13 件を表示

「リハビリテーションの現代史」からみる「障害受容」という語りへの違和感

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この社会で起こっている出来事や規範を相対化することが社会学のなりわいの1つであるとすれば、この本はりっぱに社会学の本である。「りっぱに」と述べたのは、予想するにたぶん書店では医療関係、リハビリ関係の棚に並ぶだろうからだ。そして、「間違えて」手に取った人も、「間違えて」読んでしまってよい、そんな本である。
 それでは、この本は社会のなにを相対化しようとしているのか。それは言うまでもなく、「(ひとりで)できるということ/できるようになること(の価値)」の相対化である。そのような主題は立岩真也の『私的所有論』に通ずるものがある。著者は、そのような価値、「障害を受容する」という言葉の使われ方に対する違和感を、作業療法士という「現場」において持ち続けてきたのである。
 その違和感とは何か。ひとことで言えば、その言葉が「障害をもつ者の存在」という価値をないがしろにしている、と言うのである。言い換えれば、障害者に対してリハビリを強要し、それでもなお残る障害を「受容」することを社会の側が要請することは、障害者の人としての価値に否定的なまなざしを与えるということである。
 著者は、そのことを説得的に示すために、二つの手法によって分析する。一つ目は、日本のリハビリテーション業界において「障害受容」が歴史的にどのように語られてきたのかを文献によって明らかにすることである。いまひとつは、双方の当事者――障害をもつ者とセラピスト――の語りから、「障害受容」に関する違和感を抽出することである。とりわけ後者は、実際に現場に身を置いた著者であるからこそ、完成度の高いライフヒストリー、聞き取り調査が行われたのだろうと推測する。
 最後に、著者が「障害との自由」あるいは「他なるもの」として描きだそうとした発想は、現代における哲学的思考とも連なるものである。私見だが、著者が苦心して描きだそうとしているもの、それは決して肯定的な言語によっては表出できないような〈何者か〉としか言いようのないものではなかろうか。私が主体的に「他なるもの」を発見するというのではなく、この世界のほうから私に「他なるもの」が(否が応でも)到来する。そのように理解すれば、「他なるもの」とはいまだかつて私の理解の範疇にはないもの、すなわち肯定的に描くことが不可能であるような〈何者か〉である、といえるであろう。この世界はけっして肯定的な命題だけによっては埋め尽くされない。しかしながら、その埋め尽くされ得ない残余、つまり肯定的な表現では「語り得ない」〈何者か〉は、まさにこの本が実行しているように、「示され得る」のではなかろうか。
 著者は、現在の形のリハビリテーション(に関する語り)を批判しているが、だからと言ってそれをやめてしまえとは思っていない。「(ひとりで)できるということ/できるようになること(の価値)」から解放されたリハビリテーションの存在可能性を著者は信じている。私もまたそう信じている。その具体的な像は示されていないが、著者の今後も続くであろう真摯な研究に期待したい。それはまた、「開発」や「発達」などが、西洋帝国主義や発達保障論とは別の形、別の語り方で存続可能だし、そのように意味を変更しなければならないと思っている私とも共振するものがあったことを付け加えておく。

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他者としてのパレスチナとの共生を考える

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 パレスチナで起きている「問題」—それに私が「出会った」のは、いみじくも2001年9月11日以降であった。そしてそのことは、まずは恥ずべきことであると自分ながらに思う。ビン・ラディンが主犯格とされるあの出来事がなければ、私は間違いなくパレスチナで起こっている出来事にも関心を寄せることがなかったかもしれない。あるいは、単なる「宗教的対立」という理解を超えることができなかったかもしれない。
 「関心を寄せる」—なんと欺瞞的な言い方であろうか。私は、その時点からすでに、パレスチナ人を欺いている。当のパレスチナ人にとっては、毎日が暴力と恐怖におびえる連鎖反応なのであるから。しかし、また私はパレスチナ人でもないし、パレスチナに住んでいるわけでもない。だから、まずは私はことごとくパレスチナ人を「欺いている」ことについては自覚的であらねばならない。そこを思考のスタートにすることにしよう。
 この本は、1947年に国連で採択されたパレスチナ分割決議181によるユダヤ人とパレスチナ人との土地の「国境線」をめぐって描かれた同名映画の解説本であると同時に、パレスチナ問題へのよき入門書ともなっている。実際には「国境線」はその機能を果たすことなく、ユダヤ人側の武力による領土の拡大によって、百万人とも言われるパレスチナ人は難民となった。これが現代におけるパレスチナ問題のきっかけとなっている。俗に言われる、あるいは私も以前は誤認していた「宗教的対立」でもなければ、「何千年もの争い」でもないのだ。「政治的問題」であり、「ここ60年間の出来事」なのである。
 共同監督の一人であるミシェル・クレイフィはこう語る。「歴史の真実を明らかにし、他者の存在とその経験を配慮することなくして、平和はありえません」。私たちは、歴史の真実を知らされていないのである。では、どこで歪曲されるのか。もう一人の共同監督であるエイアル・シヴァンはこう言う。「イスラエルという国家が骨の髄までイデオロギー国家であることは、十分に理解されているとは言えません。この国は、さまざまな神話や記憶を動員することにより、絶え間なく創造され続けているのです」。そして、イスラエルとアメリカが「新しい」国際戦略で世界をイデオロギーで塗り固めようとしているのである。私たちの日本政府もその一翼を担っている。さらに続けて、「ここでは「記憶」は同時に「消去」を意味しています。つまり「記憶」は「消去」の対立概念ではないんですね。通常、「記憶」は「忘却」に対置されますが、ここでは「記憶」そのものが「忘却」のプロセスなのです」。何かを記憶「させる」、捏造した歴史を記憶「させる」ことによって、真実の歴史を消去=忘却「させる」のである。板垣雄三の言う「久しく問題を「紛争」・「互譲」・「和平」にすり替えてきた国際政治の装置とマスメディアの操作」によって記憶「させる」ことに対する「根源的疑問」このが、この映画なのである。すなわち、この映画は、消去=忘却のシステムから歴史を救い上げるものなのである。
 さらに突きつめて考えれば、これはあらゆる「他者との共生」に関する根源的かつ共通の課題であるとも言えよう。岡真理は、「パレスチナ人という他者の人間性を否定し、彼らの痛みを忘却してきたその社会は、この世界には自分と考えを同じくしない他者が存在するという自明のことすら忘却させる」と述べる。これは何もパレスチナ問題に限ったことではない。私たち自身もまた、「他者との共生」について、問われているのである。高橋哲哉の言葉を借りれば、それは「底なしの断絶を感じさせ、色濃い絶望」であろう。しかし、それを見据えない共生は、私には薄っぺらいもののように感じる。

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証言のポリティクス

2004/04/09 17:37

歴史・他者・正義〜出来事の/と哲学

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 イラクで「一般」の日本人が3名、人質になり、拘束された。イラク
の「武装グループ」は、3日以内に自衛隊を撤退させなければ、人質た
ちを殺すと言った。日本の政府筋は、「人命救助」を、またもやアメリ
カに全面的に協力を要請し、「我々はテロには屈さない」という姿勢を
とる。

 「テロ」と名づけることによって、「テロリスト」と「そうでない側」
というように分けることが可能となる。こうした二分法的な考えを問題
にすることは、「名づけ」という行為や、「名づけ」は誰によって行わ
れているのか、を考えることを意味する。

 僕は、「テロリストの側にも分がある」ということを、「特に」問題
にしたいわけではない。確かに、そう言うことは可能であろうと思うし、
ある場面においては、そうした言説が有効に機能する。しかし、そうし
た言説そのもののうちに、暗に二分法的な考え方が前提されているので
あれば、そこから考えを始めなければならないのではないだろうか。

 高橋氏のこの著書は、「出来事から出発し、出来事をめぐって」書か
れた。高橋氏本人も認めるように、これは純粋な「哲学」とは言えない
かもしれない。だが、出来事をめぐって思考することにより、私たちの
存在—とりわけ「歴史的存在」—を照射しうるような文体/思考に挑戦
している、と言えそうだ。

 ここで描かれる出来事は3つ。「ホロコースト」「女性国際戦犯法廷」
「日韓・日朝関係」についてである。そして、僕が一番印象深かったの
は、「正しさ」にコミットするとはどういうことかについて述べた、
「「歴史の他者」が「正義」を求めるとき」である。

 高橋氏は、女性国際戦犯法廷での「原告」の証言の中に、「私たちは
正義を求めている」「苦闘して求め続けてきた正義を、この法廷が私に
与えてくれた」という言説を見る。そして、私たちはこのような(歴史
的)出来事との関わりの中で、「正義」とどう係わるのか、あるいは係
わらないのかを自問せざるを得ない、と続ける。

 そして、「物語る」ということと、「正義の審級」について、「複数
の物語の和解しがたい抗争」を主張する、「歴史的理性の批判者」上村
忠男氏をも鋭く批判する。非常に切れ味鋭い批判のように思われる。ぜ
ひ一読されて、その鋭さを味わって欲しい。

 いかなる「正義」への批判も、それは「正しさ」にコミットしていな
ければならない。その「判断=審判」が成り行き任せでは、高橋氏の言
うように、たとえその成り行きが「強者」にとって支配的なものである
にしても、沈黙せざるを得ないのである。それはまた、「局外中立」が
「強者」にとって全く都合のよいものであることを意味するのではない
だろうか。

 私たちは、「語りえぬものたち」にどう向き合うのか。そこに「正義」
への志向を見出す高橋氏の思考は、間違いなく私たちの<現実>に批判
的に介入する。私たちは、こうした高橋氏の著述に無関心でいられるの
だろうか。

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「自由」の言説の再検討

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本は、政治哲学を扱った本でもあり、経済思想や倫理学とも接点がある。著者の立岩さんは、「自由」や「平等」といった主題を扱うべきこれらの分野が紡いできた言説に、まったく満足していない。答えを出すべきところで出さずに、別の何かをもってきて、「答えらしきもの」を提示しているにすぎない、と言う。その何かに、正当性に耐えうるような根拠は薄弱である、とも述べる。そしてそうした意識は、『私的所有論』とまったく同じであると言ってよい。
 第1章は、いわゆる「リバタリアニズム」に対する批判にあてられる。この立場は、「自由を尊重している」というところからは実は出発していないことを述べ、他方で「自由の尊重」というその立場の主張を切り崩していること、が論じられる。
 第2章は、社会的分配への批判として存在する、「それは分配を欲する側からくる嫉妬という心性だ」というものに対する批判にあてられる。そして、実はそんなふうに言う側の方が嫉妬なのだと言う。
 第3章は、分配の「根拠」について、問いの立て方を検討している。それは根拠づけが必要なことか、また、そのように問うとはどういうことか、というところから、根拠に必要なものが提示される。そして、「人間性」や「利他心」といったものが検討される。さらに、それに対する「普遍的な答え」という主題が検討される。
 第4章は、「価値を選ばない価値」が検討される。近年、価値相対主義というものがはやっている。それは、近代の普遍主義に対抗して出てきたものである。そして、価値観は歴史的、文化的に規定されるものであり、何が正しいとか正しくないとかは言えない、とする陣営である。この章では、こと分配に関して、そうした陣営の審判にあてられる。たとえば、望むものや要求するものがあまりにも高すぎる人や低すぎる人に、当事者以外の者が何か/が言えるのかを言ってみようとしている。
 第5章は、「機会の平等」が検討される。それは大切だが、それだけではいけないし、それを社会の第一原理にしてはいけないことが述べられる。そして、意外にも?多くの「リベラル派」が、こうした罠にはまっていることが述べられる。そしてそれは、ADA法の検討や、ワークシェアリングがなぜ支持されるかという問題と密接に関わるものである。
 第6章では、リベラリズムが所有権の付与のしかたについて、間違ったことを言っていることを述べる。結局は、その人のものかどうかというときに、その人に帰せられるかどうかを問題にしてしまっているということ、そして、それとは違う基準を持ってくるべきだと主張する。すべての人があらゆる存在と関わっているという「アニミズム的」世界観を批判し、自らと切り離すべきものがあるということ、むしろそちらを称揚すべきことが述べられる。自分で作ったものではないものが分配されることを肯定すること、それが他者の存在を肯定するということであるなら—少なくとも私はそう思うのだが—、そちらを基準に社会について考えていくほうがよいことが述べられる。
 立岩さんは社会学者であるが、この本はあらゆる方面にわたる。使い古された感のある「学際的」ということばに光をあてなおすならば、この本をそう呼ぶことが妥当であると思う。経済学や法学に興味のある人はもちろん、世の中の「しくみ」について考えたい人は必読であろう。特に私が読んで欲しいと思う人は、「分配だけが正義ではない」と主張する、いわゆる「文化派」、カルチュラル・スタディーズなどに興味を持つ人々である(その主張じたい、私はむしろ妥当であるとさえ思っている)。そうした人々が、どのように評価するかは、たぶん立岩さんと同じぐらいに楽しみなはずである。

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矛盾・暴力・自己正当化

3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『不登校、選んだわけじゃないんだぜ』の「おもしろさ」は、やはり「自分を棚上げしない」ところから思考が始まっているところである、と言える。そして、それは「不登校者本人が言うからこそ、それができる」ということを意味しない。

貴戸さんは、いまは東大の院生である。あえて言わせてもらうが、「小学校時代不登校だったにもかかわらず」である(あぁ、こういう陳腐な言葉は何と暴力的なんだろうか)。そして大事なことは、彼女自身が決してそのことから目をそむけていないと言うことだ。むしろそれが特権であり、正当化できないことを認めている。例えば彼女は、東大の大学院より、調査しているフリースクールのほうが、自分の居場所としてしっくりくると言う。ではなぜ、大学院をやめて、フリースクールに行かないのか、それは、フリースクールに通っているある人の意見が非常に的を射ていたという。彼女は「それはきみの学歴信仰と無関係じゃないと思う」と言われたのだ。彼女は「返す言葉がなかった」と言う。

だが、彼女は大学院をやめない。確かにそれは暴力的だ。しかし彼女は、自分が「それでいい」と居直っているのではないと思う。もっとも、彼女もいさぎよく大学院をやめるのは1つの「倫理的な態度」だとも思っているだろう。しかし、あえて彼女はその暴力を振るう自分を、そうした自分を内包する自分をさらけ出すことで、何かを見出そうとしているのではないか。彼女は、自分だけ大学院をやめてしまうということもまた自分にとっての「無痛化装置」であることを認識しているように思う。ある暴力をふるうことが自己正当化につながること、またしかし、それを避けようとすることも自分を無痛化するだけだという認識が、彼女にはある。その認識こそ、ある暴力をふるうことと自己正当化とのつながりを根底から破壊していくものにはならないのだろうか。だからこそ、彼女は、大学院で語られる「知」が、けっしてそこに一生行けない人が欲しているものであると言い、そのためにこそ自分は大学内部から「学校制度」そのものを解体していきたいと言うのだ。そこには明らかに、スピヴァクの言う「unlearn」の思想、さらにはサイードの言う「知識人像」とパラレルな関係が垣間見れる。

最後に余談だが、僕自身もまた貴戸さんやスピヴァク、サイードに共感している。その理由は、僕が彼らと同じマージナルな立場にいるからかもしれない。決して僕は「そうではない」と言わないし、言う自信はない。だからこそ、彼らの発言が正しいものだと思えるのかもしれない。しかし、これだけは言っておきたい。つまり、そんなふうに言う側も、実はその構造を逃れていないと言うことだ。貴戸さんの態度を批判する者は、もし批判者の言っていることが正しいとするならば、その批判者自身もそうした構造の上にしか成り立たないと言うことである。これは「マージナルな立場にはない者の自己正当化」に他ならない。そしてたいてい、そのことは気づかれにくい。なぜなら、彼らはすでにこの社会で「彼ら自身の特権を、それらが特権であると気づかなくても生きていける」からなのであり、そのこと自身がすでに彼らの特権であるからなのである。

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紙の本研究する意味

2003/08/11 14:05

研究者(の卵)はぜひ読め!

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

研究者、大学生、大学院生は言うに及ばず、すべての人に読め!と言いたくなるような本である。

この本は、人文社会科学の第一線で活躍する研究者たちが、「研究とは何か」について渾身の力をこめて語り、綴り、討論した記録である。私的には、苅谷剛彦氏以外のすべての著者たちの著作や論文には目を通した経験があったので、納得しながら、反面で反省させられながら、詠み進めることができた(苅谷氏の『教育改革の幻想』、『なぜ教育論争は不毛なのか』も、本書の読了後に目を通すことになったが)。

私が、彼らを敷衍して思うに、研究とは「生きること」そのものと言っても過言ではない。いや、「生きること」だけでは「研究」には値しないかもしれないとすれば、こう言おう。

私たちがこの世に生を受ける。このことは、事実でもあり、またある意味で価値や規範でありうる、と言ってもよいのではないか。すなわち、「あなたが生まれ、生きてきたこと」は、字義通りの意味において、歓待されるべきことなのである。

だが、この社会のある種の装置は、特定の生を自由にしない。そして、「これが現実だ」と「現実派」は言う。それ見たことか、と言う。

しかし、生きること、ただ存在することを肯定する立場に立てば—私は、この立場しかあり得ないと思っているが—、むしろそうした「現実」が「存在」の上位価値として君臨してしまっていることに気づく。

研究者は、この種の装置に批判的に介入(本著の帯の文言を借りれば「現実に批判的に介入し、知の最前線で闘う」ということになるだろう)すべきなのである。研究者は、その責任を負う。知識が人間を豊かにするものならば—そして私は、豊かにするべきだと思っているのだが—、人間の生を豊かにしない知識は、その名を捨てるべきだと思う。研究者がそうした知識にアクセスしやすいのであれば、少なくとも研究という仕事を行うことに関して、それへの義務は付与される。

研究が何をなすべきか、という問いは、人はいかに生きるべきか、という問いと本来密接につながっている。それらの2つを乖離させたのが近現代の研究であるとするならば、そうした研究は間違っている、と批判的に介入してよい。そうしたことが、少なくとも言われるべきであり、だから本著の著者たちがくどくど言ってまわる必要が彼らにはあった。

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紙の本“ポスト”フェミニズム

2003/08/09 18:08

生/性、思想と制度

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

編者は英語圏の文学批評を専門としながら、ここしばらくはジュディス・バトラーやトリン・ミンハといったフェミニズムの論客たちの邦訳を手がけ、また自身も『フェミニズム』『愛について』といった著書を残している。

現在、フェミニズム思想は、この本も述べるように、深化しているといってよい。そしてそのことに対し、私はまさに「この時代が要請した」と思えてならないのだ。確かに、一見、理論が先行し、ともすれば「頭でっかち」、あるいは「机上の空論」と思われるかもしれない。しかし、より複雑化した世界(私はあんがい単純かもしれないとも思うのだが)において、「女/男」をめぐる状況は、かなりよじれてしまっているように思う。この本は、その中のいくつかのテーマにおいて、それらを解きほぐすことに果敢に挑戦している。

現在の「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」を背景とする異性愛、あるいはそれに基づく一夫一婦制、身体の欲望が法としての家族と無根拠につながるとき、それらはいったい何を意味するのか?

そうした身体の欲望はまた、再生産という機能をも侵食する。とくに医療技術が進歩甚だしい現在において、生殖技術の(とくに女性に対して顕著にみられる)身体への介入、また、摂食障害という主題、これらの倫理的側面を考え、さらにそれらと「自己決定権」、「優生学」といったことが考えられなければならない。

「私たち」は、フェミニズムという主題を「誰の視点で」語ってきたのかが、最近問題にされる。「私たち」と語られる「彼女ら/彼ら」は、いったいなぜ「隔絶」してしまっているのか? 「9・11」以降、「私たち」の正義が語られてきた—いまもなお語られつづけている—が、それはいったい誰の論理なのか、そういった「隔絶する」思考が、フェミニズム内部に存在するとすれば、これを抉り出さねばならない。

しかしまた、この世に不正義を感じる者がいる限り、何とかして彼女/彼の正義を救いださなければならない。そうしたことを「語る」という行為が、いったい「どのように」可能なのか?

最後に、「現実に」生きている限り、それを支える基盤がなければならないが、それを「行政=法律」や経済の問題として考え、法制度の不備や法制度そのものがもつ暴力性について考える必要があるだろう。ただし、このことは法整備は不要であることを導かない。むしろ「何が必要で、何が不要か」を、行政の中で/超えて思考し、議論し、政策立案しなければならないのである。

そういった主題群があり、どこから読み進めてもよいだろう。興味のあるところから読めばいいように思う。ただ、内容は決して離散しているわけではない。現実の生を考える上で、「性」はこびりついており、それこそ制度であり、また思想なのである。だからこのようなことが考えられてよい。フーコーが言った「生=政治」は、いまなお、あるいはいまだからこそ考えられるべき主題なのである。そして本書はそれにいくばくか答えようと試みている、そんな感じなのではなかろうか。

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紙の本在日

2004/03/31 23:06

アイデンティティから他者性へ

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者は1950年、熊本県生まれの「在日」二世。職業は大学教員。専門
は政治学・政治思想史。ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの研
究者として著名、というか、「朝まで生テレビ」の印象が世間的には強
いか?
 僕がもっとも印象深かったのは、第6章「社会的発言者へ」である。
この章は、姜氏が「在日」として社会的発言をするということはどうい
うことかの考察にあてられる。
 大学での研究を「干物」、メディアでの発言を「生もの」にたとえる
姜氏は、メディアでのアクチュアルな発言を、しかし、大学での研究の
蓄積に支えられたものだと分析する。こうした研究以外の仕事は、確か
に時間を割く。しかしそれは、姜氏をして、「そうしなければならない、
と自分に言い聞かせてきた」と言わしめる。
 「在日」として発言するということに関して、「なぜ「在日」は「在
日」問題しか語られないようになっているのか」、「自分が「在日」一
世のことを語るという代理行為について」など、さまざまな興味深い話
題が飛び交うが、特に僕は、次の点において興味を持ち、自分でも深め
ていきたいと思っている。
 それは、「在日」というアイデンティティを語ったり、立ち上げたり
することの「可能性」と「限界」のはざまについて、である。
 姜氏は、昨年亡くなったエドワード・W・サイードを引きながら、次
のように述べる。「植民地支配という心身に及ぶ深い「精神的外傷」を
こうむった民族が、そのトラウマを必死になって除去しようと格闘して
いるにもかかわらず、その苦渋に満ちた葛藤のドラマに、いささかの痛
みも共感も抱くことのない「加害者」がいるとすれば、その「加害者」
に向けて、新たにナショナリズムの神話を捏造して自分たちを主張した
いという誘惑に駆られることは決して理解できないわけではない」(18
3ページ)
 しかし、サイードがこうした態度を決然と否定した(サイードはイギ
リス委任統治期のパレスチナ、エルサレムに生まれ、15歳で渡米、帰化
する)ように、姜氏もまた、幾重にも引き裂かれ、どこにも所属するこ
とができないという。そして、日本に住む「アマチュア」として、発言
しようということになるのである。
 心理学者のフロイトを敷衍してサイードは、自分の中にある「他者」
の痕跡を発見せざるを得ないのではないか、という。それは、アイデン
ティティによって世界や自分が二分法的に理解されるということではな
いのである。
 だからこそ、生きていく上で、アイデンティティの立ち上げが、それ
自体で抑圧を孕むものになり得る。それが、たとえ社会的に抑圧された
アイデンティティであっても、である。
 姜氏のこの著書は、それを踏まえたうえで、姜尚中という人物像を自
ら深くえぐるものだと言えそうだ。文体は平易であり、読みやすい。多
少の政治学的知識は、下欄の豊富な解説によって補えるようになってい
る。

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紙の本生きる意味

2005/01/25 17:11

あえて批判する・2

10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

着眼点はおもしろいし、それを棄却したいとは思わない。こうした本を読んで、シニカルに読み棄てる輩に対しては、最大限に蔑視したいとすら思う。

その上で、である。

こういう本を読んで、素直に納得できないのは、やっぱり僕の心が曲がっているからだよなぁと思いつつ。

彼は、数字で人生を決める「客観的」な社会から、「主観的」なQOLを重視する社会へと移行すべきであると説いている。「生きる意味」を失った人ばかりが住む社会への危機感を唱え、いきいきとした人生を送れる社会であるべきだ、と言う。

問題意識としては、決して外れていない。それは森岡正博が『無痛文明論』で描き出そうとするものと呼応しているとも思える。だがやはり、「本当の満足」が得られるためには、心の問題だけに目を奪われるべきではないと思う。数字的な欲望(森岡の言う「身体の欲望」)から人生の質を重視する欲望(同「生命の欲望」)への転換だけでは、「生命の欲望」を持たない人は「生きるに値しない」ことになってしまわないのか? そして、そもそもそんなことが問い得ないように思える、重度の知的障害者には「生きる意味」を問うことすら不可能にも思えるが、そのとき、「理性ある」者が「生きる意味」をことさらに問いたてることは、知的障害者(やその支援者、家族など)をさらに追い詰めることにはならないのだろうか。

ただそこにいればいい。ただ生きていることをまずは肯定しようと思う。それに比べれば、(言いすぎだと思うけど)「生きる意味の問題なんて…」と思ってしまう。私たちは、「生きる意味」を問う前に、まず最初にすべきことは「ただ生きる」ことを肯定することだということを、忘れてはいまいか。「生きる意味」は、死んでしまっては問い得ない。

いま「生きる意味」を感じられなくて、死のうかと思っている人もいるだろう。そして「巷の噂」を信じれば、ネット上にはそういう人が数多くいるはずだ。しかしそういう人たちに対して、あえて僕は「ただ生きていろ! あなたが生きていることそのものが、あなたの尊厳なんだ! だから、何もいま死ななくともよい!」と、無責任にもまずは言いたい。

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紙の本いまここに在ることの恥

2006/08/14 13:27

「恥としての人間の生」の強靭な肯定

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 人間として生きることは、根源的に「恥」である。
 人間がその「恥」を感じる瞬間を、辺見は「一瞬の人間的な蘇生、一刹那の覚醒」(p.99)であると言う。
 「恥を恥であると感じないこと」こそが最大の恥辱である。そして、このことこそが辺見のこの一冊にささげられた渾身のメッセージだ。
 生きるということは「恥をさらす」ということである。何かをすることが恥なのではない。ただ生きるだけで恥なのだ。生きることは無様なことだ。そして、無様に生きるということを通してのみ、そのようなものとして生は肯定されるのである。
 辺見は、「コイズミ」の、「靖国」の、「天皇制」の「恥」について語る。しかし、本当に辺見が語りたいのは、それらの「恥」を「恥」だとも感じない私たちの「恥辱」である。私たちが、「恥知らず」なのは、恥そのものを知らないから、ではない。そうではなくて、知っているにもかかわらず、知らぬふりをすること、これこそが最大の恥辱なのである。
 「ファシズムの美学」はまた、この「無様に生きる」という恥を捨てさせようとする。辺見はこう書く。「恥とはむしろ、脳梗塞で心身が不如意になった自己身体を恥として捉える人間観の、狭さと尊大さにあるような気がします」(pp.135-136)。つまり、病体であるということを不当にも貶める「美学」こそが、そうした「尊大さ」こそが、本当は恥辱なんだということである。あの「恥を恥であると感じない」尊大さのことである。「人の実存に形骸はありえない」(p.137)のである。そして、「おまえは、みっともなく無様であるがゆえに、死ぬな」(同頁)という定言命法を導くのである。
 「コイズミ劇場」の内政と外交は、最大の「恥辱」であるという点において、皮肉にも一貫している。内政における社会保障の一貫した切り捨て政策と、外交におけるアメリカ追随政策は、おもしろいほどそのレトリックにおいて軌を一にする。社会保障を「受けるに値しない」者には「自己決定」の名の下で「尊厳死」をしてもらおうというレールと、「反テロ」を標榜する「正義」を錦の御殿とするレールとは、実はパラレルに進んでいるのである。
 それは、特定の誰かの生を「恥」だと名指すことによってこそ生まれる。名指しているのは、いったい誰なのか?
 冒頭に、「人間として生きることは、根源的に「恥」である」と書いた。現在を生きる私たち——当然、そこにはこれを書いている私自身も含まれる——は、いまこそこのことを思い知るべきである。生きていることは、平等に「恥」であることを。では私たちは、生そのものが「恥」であることを、いかように知れようか。私には、辺見の言う他者との出逢い、他者との「邂逅」(pp.49-52)こそが、その可能性をもろくも担保するものであるように思われる。
 私は、人間の生を根源的に「恥」であるようなものとして肯定したい。そして、「恥」であることを徹底的に駆除しようとする「恥辱=美学」なるものに、徹底的に抗いたい。

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紙の本公共哲学とは何か

2004/05/16 14:42

「私」とこの社会をつなぐ

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 「私」という存在は、何であろうか? とりわけ、この社会において、
「私」が生きているとは、どういうことであろうか?

 これは、古来から哲学が問題にしていたことである。そのうち、「私」
とはこの社会でどのような存在であるかということを、(1)「私」は
この社会でどのようにあることができ、(2)「私」はこの社会でどの
ようにあるべきか、を考察するのが、公共哲学である。すなわち、公共
哲学は、「私」とこの社会を切り結ぶべき規範について考察するもので
ある。

 規範というと、どうも堅苦しい、「またオヤジの説教かよ」お思われ
る方もいるだろう。実は、そうではない。公共哲学は、そのような「説
教」の押し付けをしない。むしろ、公共哲学は、私たちがこの社会でで
きるだけ自由であれるように、そのための約束事を決めるための議論の
場を提供するものだと考えることができる。

 別の面から言えば、このように言うこともできる。「この社会に、ル
ールは必要であるのか?」という問いに、どのように答えるべきか、と
いうことである。すなわち、「ルールがない社会が、自由な社会である
のか?」という問いである。

 ここで、公共哲学なら、「何のためのルールか、誰のためのルールか
?」と、逆に問い返すだろう。

 法哲学者の井上達夫氏は、『共生への冒険』(毎日新聞社)の中で、
小学生が遠足に持っていくお金の決め方の例を挙げているが、これが最
もわかりやすい例であると思われる。すなわち、先生が上限を決めるの
がよいか、そもそも上限などないほうがよいのか、それとも、上限が決
められるべきかどうかも含めて、上限の設定を児童が決めればいいのか、
そういう例である。

 公共哲学は、まさに「そのルールは何のためにあるべきか」を、ある
ほうがよい、ないほうがよいという選択も含めて、議論に加わる人たち
が決めるのである。すなわち、公共哲学とは、「この社会に住む私たち
すべてが、できるだけ自由であれるようなあり方を求めて行う議論の場
の提供」なのである。決してそれは、ルール自体の押し付けではない。
そのルール自体が、目的を達するために社会の構成員に義務を課すこと
はあるが、それはそのルール自体の押し付けを意味しない。

 公共哲学における主題は、以下の通りである。すなわち、正義、自由、
平等、人権、平和、共同体、疎外、福祉、科学、教育などである。その
性格上、学問横断的であらざるを得ないと同時に、従来の学問の垣根す
ら取り払わなければならないのである。

 実は、古来アリストテレスの時代から、こうした議論はあった。日本
でもやっとここ10年ほどで議論が沸きあがっているところである。山
脇氏のこの著書は、そうした歴史の整理と、自ら議論への介入を試みる、
「出るべくして出た」格好の入門書なのである。

 「私」とこの社会とを切り結ぶとは、「私」と「他者」との関係性を
必然的に問わざるを得ないのである。

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無痛文明論

2003/10/23 10:33

あえて批判する

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著者の関心ははっきりしており、よくわかるし、説得力に富む叙述である。また、確かに「無痛文明」なるものは存在し、私達が知らず知らずのうちに近づいては、「近づいていること」そのものすら自覚し得ないような「症候」に陥っているといえる。その意味において、私達一人一人の生き方が問われているのである。

ただ、著者は「集中治療室で看護をする看護婦(看護士)の話からヒントを得た」と書いているが、そもそも、「病気を治すということ」そのものがすべて「無痛文明」であると批判されねばならないのだろうか?

確かに、著者の言う通り、私達は必要以上に快楽を求めすぎ、苦痛を和らげる文明へと走っている。しかし、痛みを取り除くことすべてが「快楽を求めること」になり得るのだろうか?

私達は、何も食べなければ、空腹になる。そして、ずっと何も食べなければ、死んでしまうだろう。その時、「空腹を満たすべく何かを食べること」は、確かに「空腹という痛みを取り除くこと」である。しかし、これを「無痛装置」の中に入れることができるのだろうか?

私は、「無痛化」には2種類あると思う。そのうち1つが、著者の批判するような「無痛化」、すなわち、「快楽をむさぼり尽くす装置」としての無痛化装置である。もう1つは、「批判してはいけない」「無痛化」、すなわち、「必要を満たすこと」としての無痛化装置である。快楽と必要とは、少なくともいったん切り離して考えることができるのではないだろうか。

著者が現代社会に見る「無痛化」は、「快楽をむさぼり尽くす装置」としてである。しかし、そうしたところから論を進めるということじたい、著者は「生きるために満たすべき必要」は満たす可能性がある位置にいるということではないのだろうか。必要が満たせない人が必要を満たそうとするとき、それを「無痛文明」として批判することはできないのではないだろうか。

要するに、この社会には「政治」がある、ということである。生きるためのポリティックス、である。そこに行きつく人と、必要すら満たせない人がこの社会には存在する。それは例えば、アメリカがイラクを攻撃して行う「人殺し」と、パレスチナの少年がイスラエル兵に向かって「自爆テロ」と私達が称する「人殺し」を「同じ位置」では批判できないということを意味する。

生きるための最低限とは何か、という議論はあるだろう。だが、こうした政治の中を私たちが生きなければならないのなら、同じ問題をもっと詳細に検討することが必要であろう。「満たすべき必要という観点は無痛文明か」という主題である。そして、どちらかといえば私自身は、こうした「ポリティックス」を巡って議論するスタンスを取る。

だが、だとしても著者の論は否定はされる必要はない。重要な問題提起をはらんだ著作であるということには変わりがないし、これは私達一人一人がどう生きるかということを世に問うた著作であるからである。

(個人的には、『生命学に何ができるか』のほうが好きです)

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事実を知るにはよい本

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シエラレオネについて、日本ではほとんど知られていない。アフリカの西部に位置する小国で、平均寿命38.9歳、成人識字率36.0%、1人当たり所得490ドルという、世界の「最貧国」である。これらの数値は、いわゆる「開発途上国」における平均数値がそれぞれ64.7歳、73.7%、3783ドルであることを考慮に入れれば、いかに「貧しい」かがわかっていただけると思う(数値はUNDP[2002])。

私は「この国が貧しい」ということをことさらに煽動しようとしているのではないが、少なくともまずは、こうした事実が知られてよい。人間として生きるに値する自由が彼らにはない、ただそれだけだ。

そうした事実と関連して、あるいはところどころでは切断して、こうした事実、現実は「私たちの社会にとって望ましいことなのか」が問われてよい。多くの者は、望ましくない、と直観するだろう。ひとつに、そうした直観を裏付ける根拠が考えられてよい。

また、シエラレオネは90年代、「反乱軍」と称するリベリアの軍隊に攻め込まれる。この国で採鉱されるダイヤモンドをめぐっての争いである。この争いによって、シエラレオネの子どもたちは狙われる。麻薬を注入され、また、「半殺し」—実際には、手足を切断されるのだが—の目に遭わされる。

誰もが酷い、と思うだろう。けれども、私たちこそが、抗争の原因を作っているのである。私たちが手にするダイヤモンドは、ほとんどシエラレオネから採鉱されたものであり、また、それはたいていイスラエルを経由して市場に出まわる。すなわち、私たちは、無自覚にシエラレオネの惨劇(あるいは、パレスチナにおける虐殺)に加担しているのだ。この事実を、どう思考すればよいのか?

著者はあとがきで、「さらなる貢献を」と言う。それを否定しないし、大いに貢献すればよい。だが、そうした語りが、貢献する者の気持ちよさのみを助長することがあり得、それは現地の住民を再び抑圧する「新たな植民地支配」になるのである(著者も少し言及しているが)。また、私たちが無自覚に振るう彼らに対する暴力についても思考せねばならない。

こうした事実のみの描写を、ただ受けとめること。そこに不足や余剰を存在させないこと。こうした言説—冷たいと思われても、「暖かいと思っているあなたは何者の視点で語っているのか」と抗してよい—によって、淡々と支援をする技術が、私たちに求められているのではないだろうか。

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