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先月(2017年8月)

Mさんのレビュー一覧

投稿者:M

4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本シーシュポスの神話 改版

2007/03/20 04:59

しかし改版には意義がある

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 文庫版初版から約40年経った2006年、改版として新たに発行されたのが本書である。
 言わずと知れた若きアルベール・カミュの思索の旅。この瑞々しい若書きについて、いまさら言うべきことはないだろう。けれども改版である本書については言わねばならないことがある。気づいていないひとが多いと思うからだ。
 訳者による改版あとがきには、訳注は大きく変えたが多くの部分はかつてのままだと書かれている。だがもっとも変わった点、もしこう言ってよければこの改版の意義は、「文字の大きさ」の変更である。もちろん大きくなったということ。かなり読みやすくなった。逆に言うと旧版が読み難かったということだが、あとがきまでの頁数は、旧版202頁に対し、改版251頁である。改版の註釈よりも旧版の本文のほうが小さいと書けば、この50頁の増加についてお分かり頂けるだろうか(そこから旧版の註釈を想像してほしい)。
 わたしにとって、カミュ——あの不条理の哲学の記憶は、字の小ささとともにある。これは冗談ではなく、太陽が眩しかったからと殺人を犯す不条理な人間ムルソー(『異邦人』)と、細かい文章、ぎらぎらした文庫版の表紙(これも改版で変わりました)を同時に想起してしまうのである。
 実際、わたしは文庫で読むことを断念し、図書館で全集を借りたのだ。文字は少し大きくなった。当時はかなり大きくなったと思ったろう。というのは全集(1972年刊行)の文字よりも改版のほうが大きいからである。
 もちろんただちに書き添えておかなければならないこと。それは、どれほど文字が眼を射抜いても、けっして本を放り出すことはなかったということである。この哲学的エッセーはほんとうに刺激的だった。内容には少なくない個所で同意できなかったのは事実である。字も小さい。それでも放り出すことはなかった。カミュのなけなしの賭け、瑞々しい文章、それを通じて運ばれてくる誠実な態度。メッセージではなく、メッセージの高揚にわたしは魅惑されたのだと思う。
 ——真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。(12頁)
 「不条理な論証」はこのように始まる。カミュは不条理に賭けた。エッセーの語り手は、不条理を、不条理な人間を冷静に見極めてゆく。論証が進むにつれ、気づけば語り手は不条理な人間にかわっている。それはやがてサルトルとの論争を準備する、反抗的人間である。
 カミュは「不条理 absurde」の語に特別の意味を与えている。辞書的には、筋が通らないこと、荒唐無稽なことを意味するのだが、それでも人間には全体を求める願望(カミュ曰く「絶対への郷愁」)があり、そうした人間の渇望と理性で割り切れない世界との均衡関係を「不条理」と呼んでいる。
 不条理を生かしつづけること——もともと世界は非人間的で不条理なのだと和解して、あるいは、非人間的ゆえにそれは神なのだなどと飛躍して、不条理を解消しないこと。不条理を凝視しつづけるその反抗的な姿勢において人間の意識は解放され、十全な経験をすることができるのだとカミュは言う。したがって、人生に意義がないことによって人間はいっそうよく生きられるのだと言う。不条理な人間に希望はない。それゆえこの現在をよりよく生きられる、と。
 カミュは論証のひとつの帰結として、自殺が間違っていることを導く。人生に意義が無いからという理由で自殺することはできない。論理的に間違っているからだ。いったいこんな論証はあるだろうか。だからこそ「不条理な論証」なのである。
 こうしてカミュは賭けを続行する。不条理にとどまるカミュの文章は悦びに満ちている。論証はつぎのように締めくくられる。
 ——いまや、問題は論証ではなく、生きることだ。(115頁)

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紙の本素晴らしい世界 2

2007/03/12 06:50

世界を肯定する二拍子の運動

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本作は2002年から2004年にかけて「月刊サンデーGX」誌上にて発表された、浅野いにお初の連載作品、連作短編集である。
 ——浅野いにおは「素晴らしい世界」を描いている。
 本作を読んだひとならば誰しもが感じることだろう。しかしまた、本作以降の作品を読んでもそう感じることだろう。浅野いにおの全ての著作を「素晴らしい世界」連作集と呼びたいくらいである。その意味でも、この連作短編集は現在発表されている作品のなかで、とりわけ重要な位置を占めているのではないか。
 『素晴らしい世界』の世界は、ゆるやかに結ばれている。絡まりあう人物の関係(例えば姉妹、同業者、元恋人)や配置(同じ虹を見あげている)によって各エピソード間はつながり、そのようにして、ひとつの世界であることが強調されている。ただしそこには時間的な前後の移動がない。四季は移り変わる。時間は河のように流れゆく。そうした万物流転のイメージが度々あらわれる。要するに、つながりは空間的な横の移動に限られているのである。そしてこの事実は、以下に記すように本作の主題と深く関連しているように思われる。
 まず読み進めて気づくのは、各エピソードがほとんど同じ調子で展開されているということである。
 一、酷い現在によって未来が否定され、
 二、それでも世界は素晴らしいのだ!と未来を肯定すること。
 この一から二への移動。未来へ踏み出す歩み。世界を肯定する二拍子の運動によって各エピソードが織りあげられていると気づくとき、タイトルの「素晴らしい世界」とは、「それでも世界は素晴らしいのだ!」と世界を肯定することなのだと理解できる。その満ち溢れた意志が、高揚した気分が、恥かしいほど率直に伝わってくる。
 しかし、読み進めながら身に馴染んでゆくこの二拍子のリズムは、最終話のひとつ前、第18話で乱される。安定していた足並みが、何かに躓く。
 三、素晴らしい現在を肯定して未来が否定され、
 私は体ごと投げ出される。宙吊りにされたような、不安定な印象を強く受ける。だが、この個所こそ本作をただの短編集にとどまらせない、最も優れた点であると私は思う。というのも、本作を第17話までのリズムで、安定した歩調のままに終わらすこともできたはずだ。「それでも世界は素晴らしいのだ!」と世界を肯定する物語として幕をおろすことも可能だったろう。
 にもかかわらずラスト二話が描かれた。これはどういうことだろうか。
 私が思ったのは、読者の能動性が求められているということである。これまでのエピソードで読者は完全に傍観者だった。世界を肯定する登場人物たちを微笑ましく見ているだけでよかった。しかし今やその登場人物はいないのである。世界を肯定すること。それは、過去や現在だけではなく、いまだ到来せぬ未来を肯定することも含まれているのだというあまりにも素朴なことを(素朴ゆえに)、ここにきて初めて気づかされるのだが、その未来は否定されているのである。「それでも世界は素晴らしいのだ!」と、否定を否定する人物がいないのである。
 いや、ひとりだけいる。
 注目したいのは、このとき、各エピソードにおける登場人物の関係が、全体としての物語における読者の関係に等しくなっていることだ。
 もはや読者は登場人物である。読者だけが、安定した二拍子の運動を取りもどし、世界を、素晴らしい世界にすることができる。

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紙の本シネマの記憶喪失

2007/04/02 04:55

シネマの再生装置

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ポップな桃色のカバーをよく見ると、そこに薄っすらと浮かんでいるのは映画『スキャナーズ』の衝撃的場面(カバー下はモノクロ)という本書は、『文学界』二〇〇五年三月号から二〇〇六年十二月号までの連載を単行本化したものである。
 毎回、連載時に公開されていた一本の、あるいは何本かの映画を採りあげ、小説家の(というよりシネフィルの)阿部和重と中原昌也が交わす映画談議録。ともすればこの種の談議は瑣末な話題に陥り、読者が置いてけぼりにされるものだが、本書はそんなことなく、またこの形式によって堅苦しくもなく、とても読みやすいものになっている。むしろ、聴きやすいといったほうが適当かもしれない。
 またこの二人に加えて、ゲストに『シネマの記憶装置』の著者である蓮實重彦、それから青山真治が迎えられる回ではわたしは既視感をおぼえずにはいられない。場合によっては、ここで読者をある程度選んでしまうかもしれない。つまり、映画=娯楽映画といったぐあいに等号でただちに結んでしまうひとには読み辛いかもしれないということだが、とはいえ阿部も中原もエンターテインメント作品を評価しないわけではない。蓮實にしたって『宇宙戦争』を絶賛しているのである。だが、オスカーを獲得するような作品であってもそれが通俗的なものであれば蔑視される。
 そのことをよく象徴するのが、M・ナイト・シャマラン監督の『レディ・イン・ザ・ウォーター』の評価だろう。
 「そんなに評判悪いの?」と阿部の問いかけで始まるその回では、問いとしてあらわれているように、二人はこの作品を、そして監督のシャマランを高く評価している。実際、興行成績は芳しくなかった。評論家にも、一般的にも受けがよくなかったことは事実だが、二人は作品をなんとかして擁護するというよりも、どこが不満なのだろう、どうしてついてこれないのかわからないと素朴に問いながら話をすすめている。
 ここで阿部が披露してみせるシャマラン作品の解釈(阿部の映画評論集『映画覚書 vol.1』で言及していたことの展開がみられる)は極めてスリリングで、『レディ〜』をはじめ一連のシャマラン作品に不満を持つひと、あるいはまた、シャマラン=どんでん返しといったぐあいに等号でただちに結んでしまうひとが読めば、別の視点をあたえられるのではないかとわたしは思う。
 もっとも印象に残ったのがその回だが、ほかにも、近年のデヴィッド・クローネンバーグがクリント・イーストウッド的であるという鋭い指摘、9.11を題材にした『ユナイテッド93』における阿部が至るところで繰返し批判してきた擬似ドキュメンタリーの問題など、興味深い主題が多くあった。それから、『ホステル』の監督イーライ・ロスに中原昌也が電話インタビューしたときの逸話などもわたしは面白く読んだ。
 また、本書を小説家としての二人の言説として読むこともできるだろう。
 阿部和重と中原昌也の小説は構造も主題も違うものだが、にもかかわらず、どこか共通する部分があるように感じられる。このことは二人の映画に対する姿勢と同様である。実際、本書でもっとも辛辣に批判されている『エターナル・サンシャイン』を採りあげる回では、最後のほうは中原昌也の小説の話になっている。「安易な共感を押しつけることによって作家とか言って偉そうな顔をするぐらいだったら、虚無的な人間だと思われたほうがまだマシだよ」(31頁)と発言する中原は、文芸誌で見られる中原昌也その人ではないか。

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紙の本小説の誕生

2007/02/26 06:16

作品と一緒に、作品外のことまで考える

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は前著『小説の自由』に続く、「新潮」連載中(2007年2月現在)の「小説をめぐって」の第二期の単行本である。
 ——作品について考えるのではなく、作品と一緒に考える。
 この意味に類する言葉を著者は繰り返し述べている。そして読者とは「作品と一緒に考える人」である、と。したがって、そのとき作品は、読み手の(あるいは書き手の)考えを促す触媒のようなものだといえるだろうか。
 また本書はエッセイよりも評論よりも小説に近い、とも書かれている。先の言葉を換言すれば、一緒に考えさせるようなものが小説だ、と言えるだろう。事実、引用される多くの文献は小説に限らず、小説的に読まれているのだ。作品と一緒に考える。そして読者も一緒に考える。とすれば、本書もまた小説的であるだろう。
 全13章のなかで扱われる問題は、すべてを小説的に考えられている(あるいは考えさせるものを扱っている)という一貫性を除けば、雑多にわたる。——フィクションにおけるリアリティ、文体、一人称体と三人称体、現在形と過去形といった小説の表現面の指摘、また大きな問題、哲学、形而上学的問題としては、5章の終わりからは人間の不滅性を、10章からはニーチェの永劫回帰の思想を扱っている。
 だが、わたしに印象的だったのは本書のなかに響く声である。
 著者は「小島信夫のなかにカフカが住みはじめている」と書き、またベケットのなかにハイデガーを見出し、裸の王様からウィトゲンシュタインに飛んでゆく、等々。一言で言えば連想だが、本書のなかに数多くの声の反響を聴き取ることができる。いや、それらが先行世代から受け継がれてきたものであることを思えば、(著者の小説の題名を連想しつつ)「残響」と呼ぶのが適当だろう。そしてこの声の受渡しは「不滅性」の議論と繋がるのではないか、と考えさせられもする。
 固有名詞はその声の発話者を特定してくれるが、もちろん匿名の声も響いている。
 たとえば13章での記憶の話題に東京駅が例に出されるが、それは大森荘造の声なのではないか。または序盤には引用されるが、永遠性・永劫回帰の議論では決して名の挙がらないボルヘスの声。さらにはニーチェを注解するクロソウスキーの書く「一度限り決定的に」はキリストの磔刑のことだろうと著者は予想するが、それはやはり作中で引かれるアウグスティヌスが循環説への反駁で言ったことではなかったか。等々。
 こうして有名無名の誰彼の声は受継がれてゆく。その声の主もまた誰彼から受継いだものであろう。したがってそれは不滅である。ほんとうにそうだろうか。当然の疑問がおこる。芸術家以外の多くの人々はどうなのか。作家だけが不滅なのか。このような問いも本書で問われている。いや本書で問われなくとも問うことになるはずである。なぜなら読者は「一緒に考える」のだから。
 ——作品について考えるのではなく、作品と一緒に考える。
 ところで作品と一緒に考えるのは作品のことだけではないのだと、読後に殊更実感できるのが本書の特徴だと思う。別のことを考えているのである。だがそれは読後、つまり作品と一緒に考えた後のことであって、「作品と一緒に考える」ことをした影響によるものだ。何か結論を得られるということではない。だがわたしは快適さを感じる。思考が促されている。油が射されたかのように順調にあたまが働くのである。
 作中に引用される『ミシェル・レリス日記』の面白さに、著者は、「読み終わるのが惜しい」「むしろ不安」だと書くのだが、本書もそのように感じられた。その言葉に続けては、「読み終わったらまた最初のページに戻って読みつづければいいのだが」と書かれている。

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