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野崎武司さんのレビュー一覧

投稿者:野崎武司

2 件中 1 件~ 2 件を表示

少年院のリアリティを描く実践記録、かつ教育・人間を問う研究書

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、少年院の矯正教育の実践記録である。実践記録(ノンフィクション)は、読者の既存の観念(フィクション)を揺るがす限りにおいてその存在意義がある。その意味でも間違いなく価値のある一冊だ。
 少年院のリアリティが端々の小さな記述に豊かな質感をもって輝いている。教室に行くまでのいくつものドアと鍵、格子のある寮の窓。西平直は、最初の部屋が決定的で自分がそこに「入っちゃった」という。「どういう気持ちであそこに入るのか。連れてこられてどんな気持ちであの部屋に座るのか。言葉がなくなりました」という。
 子どもたちの反発や揺れ、そして仲間や教師、家族たちのとの関係の恢復と飛躍的な成長などの記述もリアル。同様に教官たちのチームとしての取り組みや動揺、戸惑い、そして教師として磨かれてく豊かな道筋が、教育実践の現場のなかで築かれていくプロセスに深いリアリティがある。
 本書は、現代の教育問題を包括的に問う理論書としての深さも兼ね備えている。様々に深い議論があるが、最も印象深いのは「創作オペレッタ」にかかわる子どもたちの涙(至高体験)についての議論である。「創作オペレッタ」は<創作>でありながらも子どもたちの<再生の物語>が仕組まれていることにおいて、情動の流れを水路づける政治技術として作用していることが暴かれる。しかし<物語>との間で子どもたちの抱えるズレや葛藤こそが、彼女たちの意味ある体験を生み出していると再評価される。そこでの議論は、教育における「文化性の高さ」の議論へと流れ込む。安易に「生きる力」を求める教育ではなく、高いものを追究しようとする中でこそ、はじめて「生きる力」を求めていけるのではないかと。この議論は、教師の身体性の問題に大きな提言(守破離)を投げかけているように思う。教師の身体は、何らかの高い文化性に貫かれていなければならない。その文化性に生命力を与えられながら、子どもたちとの関わりの中で(文化にとっても子どもたちにとっても)新しいいのちを吹き込んでいかねばならない。いわば既存の文化情況から離れ、自在の境地をもって、新しい時代の子どもと出会い、その場の関わりの中に教育という営みを組み上げていくこと、それは子どもたちにとっては教師の身体性(の感受と応答)を介して自らの内なる可能性が開かれていくこと。教師の身体とはかくなるものか、と思い知らされた。

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赦しえないものへの赦しへ—資本主義を超えて

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本は、イスラム原理主義が資本主義の逆説的産物であり、本来のイスラム教とは無縁であることを、一貫して主張している。これは最後まで多面的に語られる。

 資本主義(柄谷=大澤の再三提示する広義の資本主義)は、絶えざる普遍化を志向するのであり、それはフーコーの言う生権力をも生み出したという。それは善人も悪人もなくあらゆる形式の生(特定の資格を満たした人民ではなくすべての人口)をも、妥当なものとして捕捉するような、権力の最も普遍化した形態である。すべての生に「生きよ!」と命じる生権力は、その普遍化の極限で逆説的に転回し、自らの内部に「内部/外部」の差異を再参入させ、かえって、生きてはならない外部(人間にあらざるもの)を生み出してしまう(理念的博愛主義者の人間嫌い:ナチスにとってのユダヤ)。生権力が極端な殺す権力に反転する逆説は、資本主義の極端な普遍化への指向性に由来するという(ビンラディンは元来トップクラスの資本家の家系にあった。いわばアルカイダはアメリカの秘めた欲望の一つの現われ)。

 ここにあって伝統主義、近代的正義論、多文化主義もまるで機能しないカオスが目前にある。こうした資本主義の帰結を突き抜ける原理は、「赦しえないものへの赦し」である。受動的に存在するだけで他者の贈与を触媒する人間の原権利(深刻な病者はかえって他者の能動性を引き付ける)。その存在の深部に触れる時、WTCもバーミヤンの仏像も自らを恥じて崩れ落ちたと直感される。そんな啓示的な直感に基づいた「赦し」こそが、共に変容しうる可能性を媒介とした、奇跡的な真の普遍性を導くという。こうした「赦し」こそ、キリスト教やイスラム教という世界宗教の成立原理ではないか? 今あたらしい世界宗教の誕生が待望されているのか?

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