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レビューアーランキング
先月(2017年2月)

くれい爺さんのレビュー一覧

投稿者:くれい爺

10 件中 1 件~ 10 件を表示

輝く日の宮

2004/04/29 19:45

ミステリーとして読む

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

丸谷才一を描写するなら“才人”という言葉がぴったりではないかと思っている。
この「輝く日の宮」はその才人ぶりが見事に出た作品といってよいのではないか。

“学ぶ”という言葉は“問う”とか“究ねる”といった言葉と相性がよいように疑問を解決するという意味も含まれているように思える。
昔、私の師が「習うというのは形を覚えることで、学ぶというのはその意味を知ること、そして修めるというのはその意味を知った上で自在に使えること」と言われたことを思い出した。

作品の中で、芭蕉の「奥の細道」の中の“百代”を“はくたい”と読むことについて書かれているが、そこに疑問を持ち、それを解決することの面白さ、そこに学ぶことの面白さがあり、教育というのはその学ぶことの面白さを知ってもらうことではないかといっているようだ。
疑問を持たずに“百代”を“はくたい”と読んでしまえば、それは学んだことではなく、習ったことにしかならない。

学問の中でも“歴史”というのは特に相性がよいらしく、ミステリーの一分野においても“歴史ミステリー”というものが存在し、数多くの傑作があるのもその証明であろう。
それは文学史という、古典を振り返ることにも通じるようだ。
この作品をミステリーを楽しむように読むこともできるだろう。
「源氏物語」における「輝く日の宮」の章の存在への考察も推理といってもよいほどに面白い。

それにしても、こういう助手や助教授がたくさんいるのなら、世の大学教授たちがセクハラや猥褻行為に走りたくなるのも分かるような気がするが…(^^;

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紙の本壬生義士伝 上

2003/12/29 17:28

浅田ハードボイルドの頂点

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神学者バロンは「キリスト教における神と個人の関係は、
神が垂直に個人を串刺しにしているのだ」といい、司馬
遼太郎はこの言葉を引いて「誰も見ていなくても神は見
ている。つねに神が個人を串刺しする。こういう厳しさ
が『愛』を生み、『倫理』を育てます。」と言っている。
この神と個人の関係が個人の倫理の物語であるハードボ
イルドの一つの原点という気がする。
翻って日本の場合を考えると、このキリスト教における
神と個人の関係に最も似た精神風土は「武士道と武士」
の関係だと思う。
歴史・時代小説がハードボイルド的な雰囲気を持ってい
るのはそのためではなかろうか。
人によっては「ハードボイルドの極北は、山本周五郎の
『樅の木は残った』だ」という人もあるらしい。
浅田次郎の「壬生義士伝」は正真正銘のハードボイルド
と私は読んだ。
浅田次郎はこの作品では、「義」こそが大事であって、
武士の考えた武士道はその「義」を「忠義」にすり替え
てしまっている、本当の「義」はそんなものではない、
と言っている。
「義」の本来は「人道正義」、「人の踏むべき正しい道」
だと言う。
では「人の踏むべき正しい道」とは?
それは読者それぞれがこの作品から読み取り、感じ取る
しかないだろう。
佐助の章に出てくる佐助の言葉にそれを感じたのだが。
浅田次郎はこの壮大なドラマで「義」を書ききったと思
う。

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最期の声

2004/04/29 20:11

一度しか使えないネタ

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

シリーズの中で、レギュラーの登場人物を殺すというのは大きな転換点に
なることは確かで、それは一度しか使えない。
いや、使えることは使えるのだが、それらがすべて良い作品になることは
ほとんどない。
テレビドラマ「太陽にほえろ!」は数多くの殉職者を出したが、ジーパン
の殉職以外はあまり語られないようなものだ。

主人公のピーター・ダイヤモンドの妻、スティファニーが殺されるという
設定は、シリーズの愛読者にはショックこのうえない。
が、こういうのも二度とは使えない。(もちろん妻は一人だけなので、使
い様もないのだが)
その二度とは使えぬ設定を、きちんと構成し、読ませる内容にしているの
はラヴゼイならでは。
また、34章で“ついに動機がわかった”とダイヤモンドの心情を描写し
ているが、これは“読者への挑戦”とみてもよい。
推理のためのすべての要素は出し尽くされているからだ。
その時点では読者にも簡単過ぎるのが残念だが。

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紙の本魔球

2004/01/03 14:38

あの謎を東野圭吾はなぜ種明かししなかったか?

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この作品で東野圭吾はミステリーとしてはちょっと不完全なことをしている。
最後まで、一つの謎の種明かしをしていないのだ。
それは、須田武志の右腕はなぜ切られたか、という疑問に対してである。
その疑問に対する答えそのものは読者には案外簡単に読み取れるはずだ。
ならば、なぜ東野圭吾はそれを書かなかったか?
それはそのことがこの作品の中核をなすもの、主題といってもよいかもしれ
ないが、それと密接な関係を持っているからであろう。
東野圭吾はあえてそれを書かないことによって、それを読者に強く訴えてい
るようだ。
東野圭吾の初期の作品であるが、こういう細工ができることは、現在の彼を
予感させるものだったかもしれない。
須田武志の右腕はなぜ切られたかって?
それは皆々様でお考えを…

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紙の本我的中国

2004/08/30 20:08

日本在住の美国人

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「我的中国」
  リービ英雄

“的”は中国語では所有を表す助詞で日本語の“〜の”に相当し、“我的中国”は“私の中国”という意味になる。
現代の日本において“的(てき)”は若者が“わたしてきには”とか“じぶんてきには”などと使用する場合の“私が思うところとしては”とか“自分の感じるところでは”というようなニュアンスで使われているようだが、この作品の題「我的中国」の“我的”も著者はそのような意味合いで使っているようだ。
その意味で“私の感じたところの中国”というような意味合いで受け止めるのがよいかもしれない。
著者は自らのアイデンティティーを“日本在住のアメリカ人”というところにおいており、その感覚で中国を語るのだが、中国人が「アメリカ人は嫌い」というのと「日本人が嫌い」というのでは雲泥の差があるのではないか。
アメリカと中国がユーゴの中国大使館誤爆のような現代を共有はしていても、日本と中国のような歴史を共有はしていない。
ならば、著者のアイデンティティーはサッカーのアジアカップ北京大会での反日ブーイングの嵐を見た後では、“私は日本人でもなく、アメリカ人でもなく、中国人でもない”と言っているようで、たしかにそれは客観的に中国を見ることができるのかもしれないが、日本人の私にとっては少々物足りなさを感じる。
作品中の中国の高校生が“アメリカ人は嫌いだ”というのと、日の丸、君が代に対するブーイングとはその重みに大きな違いがあると思うからだ。
私が初めて中国を旅行したのは1978年の8月で、初めて一人旅をしたのは1992年8月、合計する15,6回は中国を旅行している。
10年前の一枚の写真を頼りに、その写真の場所を訪ねようとしたとき、言葉の出来ない私に代わり、一生懸命に聞いて回ってくれたタクシーの運転手さんなど、お世話になった中国の人もたくさんいる。
そういう人たちにとって日本人とは何なのか、日本人である私はどういう存在であったのか、今そういうことを尋ねてみたい気がする。
それはたぶん著者とは違う、日本人としての中国紀行になるであろうが。

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紙の本秦の始皇帝

2004/04/29 20:16

自戒とせよ

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どちらかというと悪役のイメージが強い秦の始皇帝だが、近年中国でも
評価の見直しがあったとも聞いている。
また映画「英雄(ヒーロー)」では、時代考証や歴史事実が違うといっ
たことで話題になったりもしていた。
著者は秦の始皇帝について書かれた記述がその後の漢の時代に書かれた
ものであることから、悪意を持って書かれたことを割り引いて考えねば
ならないとし、始皇帝の行った事実のみを検証して評価すべきとして書
いている。
初出は1994年1月から3月のNHKの人間大学での放送。
分かりやすくて入門書としてよいかもしれぬ。

あとがきでの晩年の始皇帝についての記述が面白い。

「またあなたは、人間の弱さを、始皇帝の中に発見できる。自分を絶対
者だと思いこむ人の、庶民のじいさんと変わらぬすがたも、そこにいく
らも見出せる。

 (中略)

こうして、徐福をはじめ大ぜいの、いかさま師の食いものになるすがた
は、いまもむかしも変わりはないのである。」

私も含めて、世の年寄り諸君、自戒とせよ。

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シャッター・アイランド

2004/04/29 20:07

世界の逆転を楽しむ

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結末の袋とじの話題が先行しているように思う。
内容は“世界の逆転”というようなトリックを使用しているのだが、この手のトリックはたまに使われるもので新鮮さには欠ける。
それをどう読ませるかなのだが、そこはさすがルヘイン、楽しませてくれます。
帯にある“衝撃の結末”にも偽りはない。

この“世界の逆転”というトリックで驚かされたのが映画「ビューティフル・マインド」。
ミステリー映画ではないのでよけいに驚かされたのだが、そのトリックが明かされたときには口をあんぐりさせられた。

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猫の舌に釘をうて

2004/04/29 19:59

このトリックって

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このトリック、ミステリー史上で5本の指に入る(と思う)、女性推理作家のあの作品に似ているんじゃないの?
たしかに“犯人であり、探偵であり、被害者である”という設定はアクロバット的で、そのための構成もしっかりとしているのだが、そのトリックのために、あえてしている構成という印象が拭えない。

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瞬間芸のトリック

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基本的にミステリーを評価するとき、魅力的な犯罪、緊迫感のある展開、意外で鮮やかな結末、ということを意識している。
その三つがすべてそろっている作品というのは名作に違いないが、ミステリーの種類によって特徴があることもしかたがなく、ハードボイルドは結末の意外性は乏しくなるし、本格は展開に緊迫感が薄れる傾向にあるようだ。
特に叙述トリックは読者を騙す書き方をしなければならないため、その傾向が強くなるのではと思う。
そういうところからと見ると私は叙述トリックというのはお笑いの瞬間芸に似ているように思うのだ。
結末の意外性やその鮮やかさが見事であるほど、瞬間芸で大笑いするように驚かされるのだが、その後に残るものが少ないというか…
この作品も結末は見事だし、そこへのトリックも描ききっているとは思うが、瞬間芸の域は出ていない。

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紙の本空海の風景 改版 上巻

2004/04/28 20:55

ヤな奴だねえ、空海って奴は!

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「空海の風景」
  司馬 遼太郎

“天才”という言葉で真っ先に思い浮かべるのは、私の場合モーツアルト
かな。
しかし私たちは“天才”という言葉をよく使うのだが、そう呼ばれる人物
がなぜ天才なのかということを理解していることは少ないのではないだろ
うか。
私にしてもモーツアルトが“天才”だと思ってはいても、なぜ彼が天才な
のかはよく分かっていないのである。
美しいメロディを紡いだから。
それもあろう。
しかし、美しいメロディならモーツアルトの交響曲でなく、歌の「ジュピ
ター」だって十分美しいと思う。
音楽的にモーツアルトの天才を理解するには、私の音楽的な素養はほとん
どないに等しい。
「アマデウス」はモーツアルトと同時代に、同じ音楽の道を歩みながら、
モーツアルトの天才の理由が分かってしまう人間の苦悩を描いていたもの
であった。
あるいは画家のダ・ビンチを“天才である”というときも、なぜ彼が天才
なのかを理解するには、私は絵画的素養にも欠けている。
たぶん大多数の人が私と同じではないだろうか。
“天才”という言葉はよく使うが、その人物がなぜ“天才”という言葉に
値するかを理解できる人は少ないのではないだろうか。

この作品で司馬遼太郎は空海を“天才”と位置付けているのだが、著者自
身もそれを理解しているとは言っていない。
空海という人物とその人生の風景を描くことによって、それを浮かび上が
らせようとしているようだ。
ただ空海の思考を論理的、合理的だとしているが、それを解き明かすには
膨大な真言密教の理論を解き明かさなければならず、それは著者の目的で
はない。
それゆえに論理的、合理的という空海の思考も観念的にしか理解できない。

それにしても空海っていうのはヤな奴だねえ。
こういう奴は、同行したくないタイプだな。
著者の意図してか、せずかはわからないが、作品からはそういう印象が伝
わってくるね。
最澄は天台の思想を伝えるだけは伝えたが、その理論をまとめあげられな
かった能無しだが(ゆえに天台は後にそれを肯定しようと否定しようと、
そこから新しい仏教が多く生まれたし、あるいは現代の法華経の隆盛があ
るのかもしれない)、人間としては“いい人”だ、と読めたけど。
今年は空海の入唐1200年ということで、そういう空海の評価を見直す
意見も出てきているようだが。

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