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  3. Straight No Chaserさんのレビュー一覧

Straight No Chaserさんのレビュー一覧

投稿者:Straight No Chaser

35 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本春の雪 改版

2004/12/31 02:33

究極。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

>(『なにもない空間』)

ピーター・ブルックが「表現」について書いた言葉は、そのまま三島由紀夫の遺作『天人五衰』の最後の場面で本多繁邦が辿り着いた“場所”を表わす言葉なのではないか、と感じる。

>

哲学者ニーチェはニヒリズムの極点において「同一物の永劫回帰」を見出し、それでもなお「然り」と言い切ることのできる場所を「超人」であるツァラトゥストラの“ために”用意している。小説家ミラン・クンデラは“恋愛”小説『存在の耐えられない軽さ』においてそのことに触れ、書いている。

>

『天人五衰』のラストは、『春の雪』のラストをなぞるようにして書かれている。綾倉聡子のもとへ、雪のふる月修寺を訪れた二十歳の松枝清顕は病に斃れ、その六十年後、清顕転生の“夢”に憑かれた(疲れた)本多繁邦は、夏の日ざかりに月修寺を訪れる。

六十年前、本多は清顕に向けて言っている。
「俺はどうしてもそんな風に、必然の神の顔を、見るも怖ろしい、忌わしいものにしか思い描くことができない。それはきっと俺の意志的性格の弱味なんだ。しかし偶然が一つもないとすれば……歴史に関与するものは、ただ一つ、輝かしい、永遠不変の、美しい粒子のような無意志の作用になり、人間存在の意味はそこにしかなくなる筈だ。
 貴様がそれを知っている筈がない。貴様がそんな哲学を信じている筈はない。おそらく貴様は自分の美貌と、変りやすい感情と、個性と、性格というよりはむしろ無性格とを、ぼんやりと信じているだけなんだ。そうだろう?……それが俺にはいちばんの謎なんだ」

感情の人・松枝清顕の美しくも哀しい“恋愛物語”を助ける、意志の人・本多繁邦。ふたりの大正初年の青年。(『春の雪』)

そして、一貫して“法”の番人としての生涯を生きてきた本多の「耐えがたい責任の重さ」と、綾倉聡子(門跡)が彼にかける言葉のやさしさ。
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」(『天人五衰』)

意志と感情がひとつに融けあったとき、表現者がその融合を感じるとき。

「表現とは……時間を否定するのだ」、『豊饒の海』以上にこの言葉が当てはまる小説を僕は知らない。

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紙の本回転木馬のデッド・ヒート

2005/01/27 02:36

村上春樹の仕掛け?

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

村上春樹は、読者たちがムラカミハルキ的な小説世界にはまりすぎてしまうことに危機感をもち(なんとか責任をとらなければまずいのかもしれない)、自らの小説世界を総括するようなかたちで『アフターダーク』を書いてくれたのかもしれない、とか思う。

『回転木馬のデッド・ヒート』という短篇集は、「小説」ではなく「スケッチ」であるという。『使いみちのない風景』(村上春樹・文、稲越功一・写真)というエッセイ集のなかに、こんな文章がある。

>

村上春樹にシンパシーを感じる人のなかには、人の話を聞くことが好きな人が少なくないように思う。「自分は人の話を面白く聞くことが、もしかすると、他の人にくらべて少しばかり得手な人間なのかもしれない、これといって人に誇れるようなところなどない人間だけれど……」、なにかの拍子にふとそんなふうに自分を定義してしまって、あとで後悔する。恥ずかしい。

>

(BGMは、たとえばGuns N’RosesのPatience)
我慢強さだけではどこにも行けないけれど、そもそもどこにも行けないのが人間なのかもしれない、回転木馬のように、ということにドンキホーテのように挑戦しようとしたりして。

「突撃板に体当たりする俳優は血を流し骨を折った」と評されるような肉体派的なアングラ芝居で70年代に一世を風靡した劇作&演出家・金杉忠男は1993年、村上春樹の『プールサイド』(本書所収)と『ダンス・ダンス・ダンス』にインスパイアされて書いた『プールサイド』という芝居を下北沢ザ・スズナリで上演。男は言う、「耳の奥の方で誰かがぼくのために涙を流して、ぼくを求めているんだよ」。イルカは答える、「それはたぶん、誰かが君のために涙を流しているんだ。誰かが君を求めているんだよきっと。君がそう感じるなら、そのとおりなんだよ。いいかい。それがどんなにみすぼらしい行為に思えても音楽の鳴りつづく限りベストを尽くすんだよ」。(『グッバイ原っぱ』より)

村上春樹が敬愛する作家のひとりレイモンド・チャンドラーの『プレイバック』(清水俊二・訳)の最後の一文はこう。「部屋のなかに音楽がみちみちていた」
『アフターダーク』で、音楽青年・高橋は不思議少女・マリに自らのモットーを語る。「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」

『アフターダーク』(2004)によく似た手触りの『回転木馬のデッド・ヒート』(1985)という都市に生きる人々のスケッチ集を読み返しながら、そういえば(ふたつの中間点のように)阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があったのだな、と思い出す。

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名セリフ!

2005/01/24 04:33

「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバーできる、と断言しましょう」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバーできる、と断言しましょう」と鴻上さんはまえがきに書いています。

とりあげられている名セリフは31。『恋愛王』コウカミさんにふさわしく、あるいは映画『ジュリエット・ゲーム』で「恋のはじまりには理由がないけれど、恋の終わりには、理由がある」という名セリフ(?)を書いたコウカミさんらしく(『エヴァンゲリオン』で引用されちゃったんだよね、というさりげない自慢つきで紹介されています。)、『ロミオとジュリエット』(シェイクスピア)からはじまって、

『オイディプス王』(ソポクレス)
『女の平和』(アリストパネース)
『三文オペラ』(ブレヒト)
『かもめ』(チェーホフ)
『ゴドーを待ちながら』(ベケット)
『授業』(イヨネスコ)
『欲望という名の電車』(テネシー・ウィリアムズ)
『アマデウス』(ピーター・シェファー)
『サド侯爵夫人』(三島由紀夫)
『毛皮のマリー』(寺山修司)
『夕鶴』(木下順二)
『赤ずきんちゃんの森の狼たちのクリスマス』(別役実)
『熱海殺人事件』(つかこうへい)
『上海バンスキング』(斉藤燐)
『赤鬼』(野田秀樹)
『マシーン日記』(松尾スズキ)
 ……

なんて感じに、たしかに古今東西の演劇の代表作は、これでカバーできてしまったのではないか、と思いかねないような豪華なラインナップです。

でも、もちろん、そんなわけはありません。コウカミさんの、あの、のっぺりした仔豚のような顔が、信用なりません、僕は昔から。……でも、なんだか、かっこいいんだよな。

>

三島由紀夫の『サド侯爵夫人』について語りながら、そのなかにある名セリフをこの本に引用できないこと(三島さんのご遺族はとっても厳しい方なのです。)について言訳をつらねるなかに、こんなふうにコウカミさんの演劇への愛みたいなものが、さらりと語られます。

あるいは『ゴドーを待ちながら』に関して。

>

このあざとさが鴻上尚史の“毒”です。しかもこのあとに、「自分で言いますが、分かりやすい方法ですね。この分かりやすさがいいのか悪いのかはよく分かりませんが」と書いています。いけしゃあしゃあと。

で、「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバーできる、と断言しましょう」……「ありえね〜!」

けれど、根っからの芝居バカ鴻上尚史氏の「あざとさ」と「愛」が堪能できます。そして、たしかに、「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバー」、できます。(この句点の多さが、すばらしい!)

演劇の楽しさを、どうぞご堪能ください。そんな一冊です。とっても贅沢。このパラグラフだけは、ほんとうの感想です。コウカミさんがあとがきで書いているように、ぜひ続編が刊行されることを祈ってやみません。

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紙の本科学する麻雀

2004/12/27 01:40

革命者は、文学から遠く離れて。

5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 五味康祐(名著“麻雀大学”)や阿佐田哲也(名著“Aクラス麻雀”)に心酔した人々が作り上げた「文学的」な麻雀。ヒクソン・グレイシーの親友でもある伝説の雀鬼・桜井章一に心酔した人々が作り上げた「武士道的」な麻雀。東大出のプロ雀士・井出洋介に心酔した人々が作り上げた「理論的」な麻雀。漫画家・片山まさゆきが言いだしっぺの「スーパー・デジタル」……そんな系譜に終止符を打つ人、それが「とつげき東北」であるのかもしれない。

 「とつげき東北」とは誰か? そのふざけた名前は何なのか? 馬鹿にしているのではないか? しかし講談社の本だ、どういうことなんだ、これは!?

 「とつげき東北」氏は、東風荘(ネット上の雀荘)の“カリスマ”雀士である。僕も何度か一緒に打たせてもらったことがある(ちょっと自慢)が、アクの強さとか、勝負師くささを全く感じさせない麻雀を打つ人である(そんなこともあってか、わりと相性がよかった……とかなり自慢)。いわゆる劇画チックな面白さは皆無である。でも、確かに面白い。彼との対局は密度が濃いのだ。
 そもそもネット雀荘で“カリスマ”化するような人は、どこか壊れているところがあったりするものだが、彼にはそれがない。ゲームとしての麻雀の面白さ、「ゲーム」という言葉が軽すぎるならば「競技」としての麻雀の面白さを、彼が同じ卓にいるというだけでひしひしと感じる。背筋がピンっと伸びる感じ、自分勝手は許されないという感じ……たかがネット麻雀だが、そんな空気を作り出せる人である。
 断言する。この人は“ほんもの”だ。“今後の麻雀は本書を避けては通れない”と豪語するだけのことはある。
 なんだか「文学的」な褒め言葉が並んでしまっているが、本書の主張は正反対だ。「文学的」ではなく「数理的」な麻雀、膨大なデータの解析・統計処理(彼はそっちのほうの専門家であるらしい)をもとに、ルーズな常識をバサバサ斬り捨ててゆく。その手腕は見事である。

 「とつげき東北」氏は、偶然は偶然として認めることが大切である、と言う。“運”とか“偶然”という言葉に逃げることの許されない部分をデータの裏付けをもって徹底的に追究してゆくこと(ウィトゲンシュタイン、或いはゲーデルの如き態度である)、その結果として明らかになったものを、惜しみなく本書は提供してくれる。
 たかが麻雀と馬鹿にするなかれ。なかなかどうして奥が深い世界である。“言葉”ではなく“牌”を使って卓上でコミュニケートする……“捨て牌”という表の顔と“手牌”という本当の顔……うむ、どうも僕が書くと全てがあまりに「文学的」になってしまう……
 
 麻雀なんて要するに“遊び”であるし、“馬鹿げた”“無駄な”ものである。でも、“道”というのは案外そんなところから開けてきたりするものだ。
 ふと思ったのだけれど、むしろ麻雀をよく知らない人にこそこの本は深い意味をもつのかもしれない。「ああ、麻雀ね…ふん」ぐらいの気持ちで手にとってみてほしい。この本のなかでは、確かにスゴイことが起っている。かつて麻雀にハマった経験のある僕の濁った心には見えないものが、あなたには見えるかもしれない。

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紙の本檸檬 改版

2004/12/24 02:14

梶井基次郎がどうにも好きになれない人に宛てて。

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

梶井基次郎はゴリラみたいな顔つきをしていて、『檸檬』という繊細で詩的な小説を書くにはどうにも不似合いな男で、そもそも「結核」という病で夭折するようなタイプには見えない、というのは割によく言われることである。

彼の伝記などを読むと、彼自身自らの容貌魁偉なることを相当に気にしていたらしい。その内と外の落差はいかばかりのものであったろう。

こういうことを言い募ることは、とても鈍感なままに聞く者の思いを壊してしまう暴力になりかねないことは確かで、昨今の世間で流行中の「毒舌」に、ひっそりと「世の中の厳しさを知らしめるという懐の深い愛情」などと言訳を貼り付けて礼賛するのは良いが、自分もそのサル真似をしようと試みるとしたら、そんなヤツはバカだ。

小説などあまり読んだことのないイタイケな子供に対して、「おれが一番好きな作家は梶井基次郎だ。愛してるといってもいい」と明言したうえで、「このゴリラみたいな顔」「ガレッジセールのゴリに似ている」などと讒言を吐いてみたところ、「ぶっ、ひでぇ」と笑いながらその子供が梶井基次郎に興味を持ったとしたなら、その「ゴリラ!」なる罵詈讒謗は許されるのかといえば、許されることではない。

だが、そもそも「私」はその生の瞬間瞬間に罪深い行為のみをつづけているのだとの自覚を「ゴリラ!」という発語に込めることで、ほとんど不可能と諦めた「免罪」の可能性がほのかに眼前に浮んだのだとしたら、その希望の炎を消してしまってはダメなのではないか。

だから「梶井基次郎はゴリラだ。気はやさしくて力持ちな男なのだ」と紹介したい。

人間にとって「顔」というのは矢張りどれほど頑張ってみても大切なものだ。そこに男女の区別はない。性別を超えて自分を光源氏の立場に置いてみて、末摘花の顔を朝日のなかに見たとしたならば、ぞぉっとするに違いあるまい。「とりかえしのつかないことをしてしまった」と慙愧にたえない気持ちにさえなるかもしれない。

今でこそ価値観の多様化が「常識」となり、美醜だの好き嫌いだので物事を語ることの暴力性は薄められてきているが、そのことは認めるにせよ、暴力は気付かぬところに蔓延るからこそ「暴力」なのであって、それゆえにこそ「顔写真」込みの『檸檬』(新潮文庫版)が輝くのだというのが僕のイイタイコトだ。

『檸檬』という美しい小説に「おれはなんて醜い男なんだ。まるでゴリラじゃないか」なんて独白が出てくるわけもないが、この男の憂鬱や重苦しさの背後に単なる結核という病だけを見てしまうのではなく、結核によって絶えず尋常ならざる熱っぽさを感じていたからこそ「檸檬」の爽やかさと冷たさが彼を動かしたのだと読んでしまうのではなく、無意識の暴力にさらされながら勇敢に闘いつづけた一人の男の美しさ、やさしさ、強さを見ることもできるのではないか。そんなふうに思うのだ。

>

梶井基次郎はジャズが嫌いだった。モダンジャズを聴くことなく、「バップ(bop)の高僧」と綽名され奇矯な性癖で知られるセロニアス・モンクを聴くことなく、1932年にこの世を去った。享年31歳。あてどもなく暗い街をさまよう彼がモンクの「ラウンド・ミッドナイト」を聴いたら……。梶井基次郎の小説にはモンクがよく似合う。

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紙の本プレイバック

2005/01/14 04:14

静寂。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

レイモンド・チャンドラーの小説が優れている点のひとつは、その余韻の静かな味わいにある。どの小説を読んでも、余韻の静けさをあなたまかせにしてしまうことなく、丹念に、それでいて押し付けがましくない「おわり」を書き込んでくれている。物語が終れば、事件が解決すればそこで終りというわけではないということを、彼はとてもよく理解していて、そういうことをあまりよく理解していないように思える人々の思いや行動が世界を息苦しい場所にしてしまっていることを、やさしく語りかけてくれる。

「強くなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」というフィリップ・マーロウの有名な台詞も、そんな静かな余韻のなかで語られる。

“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive.
If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.”

「おわり」の「おわり」。レイモンド・チャンドラーの遺作『プレイバック』には、他の作品にはない息苦しさがある。終らせることの困難に真っ向から挑んでいるような、息苦しさが全編に漂っている。世界の息苦しさが、チャンドラー自身にまとわりついて離れない、そんな印象さえある。死の予感さえあるのかもしれない。

「私ほどの歳になると、楽しみはほんのわずかしかない。はちどりとか、ストレリチアの花のふしぎな開きかたとかいったようなものだけだ。なぜ一定の時期になると、つぼみが直角に向きを変えるのだろう。なぜつぼみが徐々に裂けて、花がいつも一定の順序で開き、まだ開いていないつぼみのとがったかたちが小鳥のくちばしのように見え、ブルーとオレンジの花弁が極楽鳥のように見えるのだろう。神さまはどんなにかんたんにもつくれたはずなのに、なぜこんなに複雑につくったのだろう。神は万能なのだろうか。万能といえるのだろうか。世の中には苦しみが多く、しかも、多くの場合、なにも罪のないものが苦しんでいる。母うさぎがいたちに追いつめられると、子うさぎを背中にかくして、みずからののどを咬みきられるのはなぜだろう。なぜそんなことが行なわれるのだろう。二週間もたてば、母うさぎは子うさぎを見わけることもできなくなるのだ。君は神を信じているかね」

ホテルのロビーで、ヘンリー・クラレンドン四世とかいう老人がマーロウに語りかける。事件とは無関係な長い長い与太話。マーロウは「ながい廻り道だが、どうしてもこの道を通らなければならないようだった」とひとりごちる。一読者としては、まったく退屈ではない。

クラレンドン四世は長い与太話に終止符を打つようにして、おだやかに言う。「私はいつも際限なくおしゃべりをするが、自分の声が聞きたくておしゃべりをしているのではない。だいいち、みんなの耳に聞こえるようには聞こえない。なにかしゃべっていると、礼儀を失しないで人を観察することができるのだ」……「私は握手をしないよ」……「わたしの手はみにくくて、いたいたしい。だから、手袋をはめているのだ。おやすみ。もうお目にかかれなかったら、幸運をいのる」

まだ事件は終っていない。そして(しかし)すでに静かな余韻が漂い始めている。というか、260頁あまりの小説の四分の三を終えたばかりだというのに、静かな余韻にどっぷりと浸り込んでしまっている感じさえする。マーロウは自分に言い聞かせる。「ヘンリー・クラレンドン氏はなかなか抜け目のない人物である」と。

そんなわけで、やはり『プレイバック』はとても素敵な、とてもチャンドラーらしい小説だと思います。僕は一番好きです。もしかすると『長いお別れ』より好きかもしれないぐらいに。

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紙の本人間失格 改版

2005/01/12 03:32

人の生き死にを見つめた太宰さん(1)

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

          死のうと思っていた。

 太宰治の処女作品集『晩年』の冒頭に置かれた「葉」の書き出しである。
 その直前にヴェルレーヌの詩がエピグラフとして置いてある。

          撰ばれてあることの
          恍惚と不安と
          二つわれにあり    ヴェルレエヌ
                    
 なんだかとても妙なバランスである。
 そして「葉」のおしまいの一行はこう。

          どうにか、なる。

 たしかにそう、そう言ってみるしかないところだ。
 作者自身、ことによると「どうにか、な」ってしまったようなのだからおっとろしい。

 「大庭葉蔵」という主人公の名前が初めて読者のまえに登場するのが『晩年』所収の「道化の華」。

         「ここを過ぎて悲しみの市」

 これが劈頭の言葉。
 五行ほどあとに「大庭葉蔵はベッドのうえに坐って、沖を見ていた。沖は雨でけむっていた」と書き付けたあと、太宰はこんなふうにお道化てみせる。

>

 狂っている。ロマンティックな甘やかさが感じられる。それに比べると『人間失格』は、途方もなく深い。
 『人間失格』のなかに、葉蔵が小学校時代に体験した「震撼」すべき体験が描かれている。(この箇所は、山田詠美が『ぼくは勉強ができない』という素敵な青春小説のなかでさりげなく引用していたりする。)

>

 この竹一という「白痴に似た生徒」が葉蔵に教えてくれたものの一つがゴッホの自画像、竹一曰く「お化けの絵」。
 そんな太宰治の「お化けの絵」は「死のうと思っていた」と始まり、『人間失格』でいまだかつてない深みに達する。そんな太宰の死をうけて、坂口安吾は「不良少年とキリスト」というエッセイを書いた。そんなキリストについて太宰治は『走れメロス』所収の「駆込み訴え」に、裏切り者ユダの口を借りてこんなふうに書いている。

「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ」

 ユーモアが炸裂!
 ふと、「粗にして野だが卑ではない」なんて言葉が思い浮かびました。

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紙の本夜と霧 新版

2005/03/03 22:39

夜と霧のなかへ。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『表層批評宣言』という本のなかに、「人は、問題を、思考し行動することの善意によって埋めるべき部分的な欠落だと思い、解決がその欠落を充填することの最終的な結論だと思いがちである。……なぜ思考はそうまでして執拗に欠落と戯れたがるのか。理由は簡単である。誰も、欠落を真の頽廃とは思わず、いつかは必ず何らかのかたちで埋めうるものと信じるがゆえに、それを本気では恐れていないからである」という文章がある。

ともすると物事を抽象化して語りたくなってしまう(「この欠落を埋めるためにXをすれば、人は正しい方向へと向かうはずだ」云々)、そもそも言葉は抽象化するものなのだから仕方ないじゃないか、でもそれはまずいのです、そのことで傷ついてしまうものが必ずある、そのことにあまりに人は鈍感すぎる、あるいは敏感すぎるから耐えられずに顔を背けてしまい、いつか忘却してしまいかねない……「ホロコースト」というふうに、あるいは「ナチスによるユダヤ人(だけではない)大量虐殺」というふうに、それとも「当時ユダヤ人はドイツにかぎらずヨーロッパ各地で憎悪の的となっていた、狂った時代だったのだ、そこから私たちは学ばねばならない」というふうに……いかように表現しようとも、そこでは何かが確実に欠落しつづけ、何かを決定的に損ない、傷つける。ぼくはいくら無理をしても「当事者意識」をもてない、無理に「当事者意識」をもてたのだと錯覚して熱く語ることは騙すことであり、裏切りだと思う。「外部」にいるわけではないのに、語ろうとするときに「外部」からの言葉を装わなくては語ることのできない(許されない?)自分がいる。

>(129頁)

この文章をたとえば今の“自分”(あるいは誰か)と重ねて読もうとするとき(「読む」ということは、多かれ少なかれそういうことを含むと思うのですが)、そこには(乱暴な言い方をすれば)収容所の「外部」から読んでいる自分がいる。

自由はいつも「外へ」という志向をもつように思える。囲いのなかで「外へ」と志向しつづけることが「自由」の姿なのではないか、と思いもする。「外部」がないのではなくて、自分が「外部」にいて、どうしても囲いのなかに入ることが不可能な状態におかれているように思える、だから自由に語ることができないのかもしれない。

レヴィ族というイスラエルの一部族名に由来する名前をもつエマニュエル・レヴィナスという思想家は、「ホロコースト」を抽象的な(乗り越えられるべき)問題としてではなく、具体性において(いま、ここにおいて?)考えるべく促す文章を紡ぎつづけた人だと思うのですが、彼が「他者」といい、あるいは「顔」といい、「自由」というとき、そこにはたしかに「ホロコースト」があると感じる。

>(レヴィナス『存在するのとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』)

両親の生、妻の生、子供たちの生を収容所に奪われ、ひとり収容所の「外」を生きのびることを余儀なくされたフランクルの言葉に耳を澄ませる。そこにレヴィナスがあのような難解に思える文章(エクリチュール)を紡ぎつづけたことを重ねつつ、「自由」について、抽象化への抗いを忘却することなく(できるかぎり「内」において)考える。

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紙の本アメリカの夜

2005/02/23 08:10

コーネリアスふうな世界。

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「もっともっと存在を消さないと、誰かが火をつけてくるだろう」

辻仁成の『ピアニシモ』(1989)を評して青野聰は、「主体の獲得」を描くという「ありふれた主題」を扱って「現代を掴みとろう」と奮闘したことに「拍手」を送っている。ヒカルという別人格を作り出すことでバランスを保つ氏家透、「いじめられるのが嫌で、鍵かけて、いちぬけた」、ジンセーの歌そのままのフレーズさえ散りばめられたその小説には、こんな一節がある。

>

光と影、昼と夜、表と裏、現実と夢、そんな二項対立を並べながら、「平等」を唱える「太陽」の反対側で「申し訳なさそうに舌を出」す「影」を愛するジンセーはあざとくも(無意識的に、ではなかろう)「透」の“影”の人格を「ヒカル」と名付けている。

『アメリカの夜』(1994)の場合、シゲカズと中山唯生はサンチョ・パンサとドン・キホーテ(アロンソ・キハーノ)として、「透」と「ヒカル」の関係を逆さ吊りにしたような二人組として、闇の到来をごまかしつづける「小春日和的なもの」を内破させようと試みる。

>

さまざまな引用から織り成される『アメリカの夜』、その結論的な(堂々巡り的な)場所において『神聖喜劇』(大西巨人)の引用がなされ、そこにソシュール言語学的な理論=体系(言語記号の恣意的性質に発するシステム)の苦楽が重ねられる。

>

ジンセーは「ヒカル」の死を描き、カズシゲは「唯生」を「キャメラをもって旅立」たせる。

『ピアニシモ』的世界を幾重にも深く折り曲げたとき、その軋み音のなか『アメリカの夜』の「彼=私」は「見る-見られる」関係から暴力的に身を引き離すこととして「撮るひと」/「書くひと」への回生を成し遂げる。

>

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舞台の水

2005/01/22 01:02

太田省吾はエリック・サティのように、「各人が自由に自分の足跡を残せる、白い路を示してくれる」(ジャン・コクトー)。

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鈴木忠志とともに日本の現代演劇を精緻な理論で支えてきた演劇人、それが太田省吾である。僕は彼らの舞台を見たことがない。ただ彼らの本を読み、折に触れて読み返しながら、たしかになにか力強いもの、希望のようなものを感じ、受け取ってきた。それによって生きやすくなったかといえば、むしろ逆であるようなのだけれど。すべてが崩れ落ちてしまいそうなとき、彼らは“そこ”からスタートすることができる“時空”のおとずれを、静かにささやきかけてくれる。

太田省吾は『劇の希望』(『舞台の水』入門篇)のなかで「劇的」なるものを疑う。「劇表現の自由」を得るために「劇的素材」と「劇的手法」を疑う。

>

>

彼は哲学者・竹田青嗣の言葉を引きながら論を進める。

>(竹田『問題としての昭和』)

「信」の問題を回避するとき、「劇」は「人生の退屈な部分を削除したもの」(アメリカの某テレビ局の社長談)になる。しかしそれは「芸能」の方法である、と彼は言う。

>

吉本隆明の『空虚としての主題』を引いたうえで、太田省吾は言う。(彼にとって、「物語」=「劇的」なるものである。)

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この路の先にたとえば、宮沢章夫の『不在』という、『ハムレット』を下敷きにした小説が書かれている。

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夢のかたち

2004/12/31 17:39

「最高シュールな夢が見れそうで♪」(“C調言葉に御用心”)

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 奇才シブサワタツヒコの手によって集められた百二十六篇の夢に関する文章が集められたとてもPrettyなアンソロジー、それが『夢のかたち』という本である。

>

 本書の編者、澁澤龍彦は序文に書いている。
 いきなり「世界の終り」と題して、マリ・バシュキルツェフの『日記』からの引用から入るあたり、もうシビレてしまう。不勉強な僕はマリ・バシュキルツェフなんて人を知るわけもないのだけれど(今Yahoo!で検索して28件しか出ないぐらいだから大抵の人は知らないだろう)、大島弓子のマンガにそういう話があったな、そういえば“夢”の儚げな空気感を壊さずに大切に表現できる細やかさが、大島弓子と澁澤龍彦、一見まったくミスマッチなふたりには共通しているのかもしれない、なんて思ううちに「寝すごすほどの覚悟」は自然に出来上がっている。
 いまだにジグムント・フロイトというユダヤ系の天才的な男の学説の“俗流”解釈が多くのものを傷つけつづけている今日この頃、いたずらに“夢”を解釈したり判断したりするのではなく、生半可な知識をひけらかすことなく、ひきずられることなく、“大切にする”やさしさを、いとおしく味わってみる。

 ニーチェ、シェイクスピア、ホメロス、カフカ、南方熊楠、ボードレール、ポー、プルースト、上田秋成、ゲーテ、ボルヘス、ヘミングウェイ、マラルメ、デカルト、ミルトン、パスカル、エミリ・ブロンテ……決して「おまえ、これ知らないだろ(ばか)」的な基準で集められているわけではなく、かなりメジャーな人たちの名前が並んでいる。知らない名前のほうが少ないぐらいで、澁澤龍彦という人はもっとマニアックな人かと思っていたから、うれしい誤算である。いまさらながら、澁澤ファンになってしまいそうな、いとおしい一冊。
 解説(ゲスト・エッセイ)を、中沢新一が書いている。

>

If your heart is in your dream, no request is too extreme.
(星に願いを♪)

どうぞ、すてきな初夢を。

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美を求める心

2004/12/25 21:33

なまあし

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珠玉のエッセイ集である。
凛とした美しさと、少女らしいお茶目さが、ふたつながらに息づいている。
言葉の輪郭がくっきりしている。
深く、静かに呼吸をするような文章が清冽な瀬音を響かせながら、日々の“生活”のなかを流れてゆく。心が潤う。

「私たちが、自らのなかに“ほろぼさねばならぬもの”と意識している感傷でさえ、それによって育てられ、人間らしくなり得ていることのあるのをわきまえる」
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解説の文章にこうある。「傷ついたものがみずからの傷については言わず、他の人びとへの思いやりの深さによってそれをあらわすという、別様の甘さ」「自分の傷のいたみをとおして他への配慮を深める、そのための一つの機縁として美があるので、そこからは自然に、美を求める心のむきは、美を越える方向にむかう」(鶴見俊輔)

著者と深く関わり、その人柄をよく知る人の書く解説には、著者の紡ぐ文章とは別様の“美”が感じられて、おもしろい。

「のぞきこめば、鉢の中に宇宙がある」と書き起こされる>という一篇に、岡部伊都子の紡ぐ文章に凛とした美しさと、無垢な少女のようなお茶目さが共存していることの秘密の一端が、ほんのりと表れているように思う。

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「なかなか、美しいといえる道は少ない」と始められる>という一篇が、この本の冒頭に置かれている。

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比叡山の奥、坂本から七キロばかりはいった横川(よかわ)の林道は、日々の“生活”の慌しさに押し流されそうになるとき、彼女が心静かに戻ってゆく聖域のようなものとして、>という慈愛に満ちた一篇にも描かれている。

>という文章の終わりかた……

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なまあしで歩きながら、心を歩かせることのできる貴重な道、その言葉はそのまま『美を求める心』という本を紹介する言葉にもなるように思う。

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紙の本なにもない空間

2004/12/17 06:39

演劇を語るなら。演劇を語るのではなくても。

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『なにもない空間』の冒頭の一節以上に、演劇行為を鮮やかに文章化したものは、存在しない。

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言語もまた、演劇行為の似姿として語られる。冒頭の一節のヴァリエーション。それはピーター・ブルックにとって生と演劇が切り離せないものだから。そして生と演劇は完全に溶け合うことなく、常に彼自身のなかで鋭く矛盾・対立している。彼はその矛盾を決して誤魔化さない。その矛盾の強烈さこそが力の源であり、輝きの源であることを信じているから。

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1)商業主義に毒された退屈きわまりない「退廃演劇」を脱して
2)不可視のものを可視化しようとする「神聖演劇」(たとえばグロトフスキー、ベケット)と、大衆演劇の猥雑なパワーに溢れた何でもアリの「野性演劇」(たとえばブレヒト)両者の力を二つながらに、その矛盾込みで保持しながら
3)「直接演劇」(たとえばシェイクスピア:「目に見えぬものに向かって必死の緊張をしたあげく、敗北に直面し、大地に突き落とされ、そしてまた始めからやりなおさなければならない」)へと至る。

そんな道筋を素描してみせたうえで、ブルックは『なにもない空間』に明確な区切り目をつけるようにして、一つの作業仮説を提示する。

<演劇=RRA>
Repetition(反復、稽古)
Representation(提示、表現、上演)
Assistance(援助、列席、観客)

読書空間(=もうひとつの「なにもない空間」)において示された<演劇=RRA>という作業仮説。それは、彼自身の生と不可分なまでに絡み合った演劇に関して、読者ひとりひとりの実践のなかで試され書き改められてゆくべきものとして発せられた、「生」そのものへの問いかけの言葉であり、仮初でありながら途轍もなくパワフルな虹の階梯である。

役者にとって、芝居が「反復」から「表現」に変わるためには、観客の「援助」が不可欠だ。そして観客は「援助」という形での積極的な「表現」への関与を通して、反復的な外界での生活を脱し、明瞭でありかつ一瞬一瞬が充実した生という特別の場所へと移し変えられる。(もちろん、役者も観客も決して特権的な場所にいるわけではない。)

演劇人ピーター・ブルックの言葉の、この炸裂具合!

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だいじなことは、自分で発見すること。

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哲学とは「問いそのものを自分で立てて、自分のやりかたで、勝手に考えていく学問」である。そんなふうな態度(立場)に基づいて展開されるのは、ベネトレというチェシャ猫のような猫と、ぼくの哲学対話。

ペネトレの哲学は、ときにニーチェ、あるいはスピノザ、そしてカント、ときにはホッブズ、さらにはウィトゲンシュタイン、たとえばそんな思想家の思考に触発されて形作られてきたらしい。「なにか自分にとって重要なことが言われていると思ったら、あとは自分で考えていけばいい」と、彼(猫)はいう。

第1章 人間は遊ぶために生きている!

第2章 友だちはいらない!

第3章 地球は丸くない!

各章のキー概念は、たとえば「倫理」「他者」「存在(と認識)」とかいう感じになるのだろう。でも、もちろんそんな難解そうな言葉は使われていない。

著者の永井均さんは、とてもわかりやすく、それでいて乱暴な(粗雑な?)明快さとは無縁の言葉で(本気で哲学をやっている人の言葉はいたずらに明快ではあり得ないだろう、だってそれはその人が生きることそのものであるはずだから。)哲学を語ってくれる人だという印象がある。たとえば僕がウィトゲンシュタインの考えに興味をもったのは、永井さんの本を読んだからである。そんな永井さんの分身のように、ペネトレは語る。あるいは、ペネトレを通して語られる言葉が、永井さんの哲学になっている。(「永井さんの」という言葉はいらないのかもしれない。ただ「哲学」というほうが、より正確かもしれない。)

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いつもどこでも、こんなふうなスタンスで生きられたらいいと思う。使い古された言葉で、かなり手垢がついているかもしれないけれど、「自然体」ということ。

ペネトレはこんなことも言う。

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ペネトレ自身が「ニーチェ」の影響があると言っている第一章にあるこの文章、ニーチェの強烈な言葉にかぶれてしまうことへの、やさしい注意の言葉として、心に留めておきたいと思う。

彼はこんなことも言う、「人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ」。同じような意味の言葉は、いろいろな場所で見かける。でも、これほど目から鱗な説得力を感じた文章はない。

素敵に哲学な本である。そう思いました。

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やさしい本。

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なにはともあれ素敵な引用がたくさん散りばめられた本である。そういう意味ではロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』と並べてみても遜色がない……というのは言い過ぎだろうか……

たとえば……

>(矢内原伊作『顔について』)

>(土屋恵一郎『能』)

>(レヴィナス『存在するのとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』)

『顔の現象学』は12の章に分かれている。「」「顔の規則」「ほんとうの顔?」「顔の所有」「顔の外科手術」「震える鏡」「転写される皮膚」「魂のパスゲーム」「負の仮面」「不在と撤退」「不可能な顔」「見られることの権利」、それぞれがとても興味をそそる表題を付されている。

解説の小林康夫教授は、「大きな視野から見た場合は、われわれの時代におけるの哲学は、一方でメルロ=ポンティ的なの認識論、そして他方でレヴィナス的なの倫理という二つの広大な勾配に規定されざるをえません。二つの斜面に支えられた険しい尾根を、どこにどういう道を切り開きながら通過していくか」と書いて、という誰もにとって身近なもの(?)を素材にして、現象学的な方法を用いつつやがてひとつのやわらかな「倫理」にたどりつくように、たおやかな文章が紡がれてゆくこの本を、とても的確な言葉でまとめてくれている。

鷲田清一さんの軽やかな思考の軌跡を辿ることは、難解な哲学書を紐解きつつ難解な顔をして難解な言葉をぶちかますような野蛮さの対極にあるような、しなやかさの印象を帯びて、そこでは「内部/外部」というような二分法の暴力は影を潜めている。解説の小林教授は「この辛抱強い思考は、をもはや意味の現象としてではなく、として、つまりとしての自己のとしてとらえる地点に達している」と書いているけれど、この『顔の現象学』という本のあり方が鷲田さん自身の「としての自己の」という印象のある、とてもvulnerableなものであるがゆえか、その文章、その言葉の暴力性があたうかぎり外へ向かうことのないように、そんな細やかさが行き届いて、読者を傷つけることのないやさしさに満ち溢れている。

について思考をめぐらすうちに、乏しさ、貧しさというものに視線がどんどん吸いよせられていった。貧しい存在、「情けない」「哀しい」とは言えても、「清く貧しく美しく」などとは口が裂けても言えぬ、存在の乏しさについてである。じぶんのなかのそういう乏しさに独り向きあっているひとの顔に惹かれる。そしてその顔をまなざしているうちに、じぶんまですごく落ち込んでしまう。そういうときの他人の顔というものが、いまのところぼくにはいちばんリアルである。>>(「原本あとがき」より)

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