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  3. 白くま子さんのレビュー一覧

白くま子さんのレビュー一覧

投稿者:白くま子

14 件中 1 件~ 14 件を表示

紙の本イン・ザ・プール

2006/04/09 20:43

変人だってよいではないか。生きてりゃ幸せな夜もある。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この連作短編集の中の1つ「フレンズ」に出てくる携帯中毒の雄太くんへ、
「友だちがいなくて、いつもひとり」の先輩である私から忠告する。我々のような人間が、心が沈んでいる時には殊に、1人で街をさまよってはいけない。おまけに、あなた、クリスマスイブの夜にだなんて、もってのほかである。
10代の雄太くんとは違って、年も年なので、「友だち?いないよ」とは何のためらいも無く言える。最近は「携帯?持ってないよ。メールも電話もかける相手も、かかってくるあても全くないから」という言葉が加わった。そのような人生を歩んでいるうちに中年と呼ばれる年になってしまった私だが、それでもごくたまの機会に、街の雑踏の中を1人で歩くという時は、「どうしてこんなに」というぐらい落ち込む。街の雑踏というのはいけない。孤独の極致という心理状態に連れていかれる。自分の中へ中へとばかり、どんどん思考が落ち込んでいき、「なんて自分は何の取り柄も無くて、誰からも愛されない、人間的魅力が全く無い、つまらない人間なのだろう」などという思いばかりが、いつもにも増して浮かんできて止まらなくなる。
そんなときに、伊良部先生、助手のマユミさんコンビと、この雄太くんとのような会話をしたら、いじけて弱った心がどれだけ暖かくなるだろう。どれほど救われるだろう。
伊良部先生だから説教などしない。励ましもしない。ただいつもの伊良部先生なだけだ。
だからいいのだ。
その場面、「フレンズ」の最後、クリスマスイブの夜のくだりが好きだ。美しい。
これからクリスマスイブになったら、この場面を思い浮かべることだろう。

この本は面白い。
半端な面白さじゃない。もうそれだけで充分満足な本である。
それなのに、そのうえに、この「クリスマスイブの夜」のようなシーンがくるのだから、たまらない。

名作と呼ばれる作品は、作者の手を離れて、どんどん一人歩きをして進んでいき、もう独立した1つの存在になり、作者だけのものじゃなくなるというような話を聞く。
ならば、伊良部先生は、この「イン・ザ・プール」、続きの「空中ブランコ」を読んだ読者にとっての「共有財産」とよんでいいお人だと思う。
もちろん最初は、著者が作った登場人物だったのだろうが、もう今は、伊良部一郎という人物が、読者の中では、強烈に存在感たっぷりと確かに存在するのである。
実際に彼が側にいたら、その余りに強烈な個性ゆえに、迷惑かもしれないが・・・。
ハナについて仕方がないことばかりしているくせに、その実、全くハナにつかない。
存在はえらそうなのに、えらそうなことは言わない。説教はしない。
ただ天真爛漫に、自分の気持ちに素直すぎるぐらい素直に生きている。
こんな「医者」、こんな「主人公」は、なかなかいない。
これからも、窓枠に挟まって動けなくなり「おかあさんに叱られる」としゃくりあげて泣く、太った中年男でいてほしい。
これからも伊良部先生の物語が読みたい。

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紙の本モモ

2005/08/26 21:33

子供の頃に「時間泥棒」をしようとしたことがあった

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

4、5歳の頃に「今」というものを捕まえようと試みたことがある。「今!」と叫ぶのだが、その瞬間に「今」は過去になってしまっている。きっと自分の捕まえ方が悪いのだろう、いつかは捕まえられると思い込み、日がな1日、部屋で1人膝を抱えて引きこもり、「今!」と叫んでいた記憶がある。疲れ果てた夕暮れの頃には、過ぎていった時間「過去」と、自分の目の前に広がっているこれからの時間「未来」のとてつもない大きさと、「今」のあまりの一瞬に、ただ途方にくれて茫然とした覚えがある。我ながら小さい頃から頭のよくない変な子供だったものだ。この物語を読んで唐突にそのときのことを思い出した。
モモが「時間の国」マイスター・ホラの元へ行ったときに、自分の心の中の「時間」をマイスター・ホラに見せてもらう場面がある。
黒い鏡のような池があり、その水面のすぐ近いところで大きな振り子がゆっくりと動いていて、その振り子の動きとともに水底からつぼみが伸びてきて、美しい花がほころんで咲いていく。振り子が遠ざかるとともに花は散っていってしまうが、また振り子が近づいていく水面に違う花のつぼみが伸びてきて咲くという。前の花とはまったく違う花なのだが、やはり見たことがないほど美しいのだという。
次々に咲く花を見る度に、
・・・これまではっきりとはわからないながらもずっとあこがれつづけてきたものは、これだったような気がしました。
とある。
その花がさかりを過ぎて花びらを1枚1枚落として散っていくときには、声をあげて泣きたくなる思いがするという。でもそれで終わることなく、次の花のつぼみがゆっくりと水面に伸びてきては開き始めるのだと。
1つの人生に1つの花ではなく、幾つもの花が、みな違うが一様に美しく、次々に咲いては散り、散っては咲いていくという話に打たれた。
ならば私のこれまでの人生にも、既に何輪かの花が咲いていたのだろうか。周囲の誰にも、本人である私自身も知らない間に。誰にも気づかれなかったその花も、モモの花のように美しく咲いたのだろうか。振り子の動きが止まらない限り、つまり生きている限り、これからの人生にも花が咲くのだという。
まったく単純なことに感じ入ってしまった。
モモが訪れた時間の国の光景は、黒い鏡のような池と振り子と花と、その空間に流れる荘厳な音楽と・・・と、音楽は流れていても、森閑とした神々しい静寂の世界が目に浮かぶ。そのような世界が、生きている人たちみんなの心の中にあるのだと思うだけで、活力をもった不思議な大きな思いが、黒い鏡のような池の心の底から力強く沸いてくる。
「過去」の気づくことのできなかった花のことは「ありがとう、ごめんなさい」と手放して、これからの「未来」に花を咲かせようじゃないか。そしてその花をじっくりと眺めようではないか。今までと同様に周囲の誰にも気づかれなくても、せっかく咲いてくれた花なのだ。せめて本人である私が、これまでの時間の大半を費やしてきた、過去の怒りも恨みも涙も劣等感も、たった1度一刻ぐらいは、わが身わが心から引き剥がして捨て去って、「今」という気が遠くなるほど永遠で刹那のこの時に、今度こそは思いっきり「美しいなあ」と愛でたい。
名作である。

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紙の本プリンセス・トヨトミ

2010/12/03 23:31

その秘密が守られてきたのは、二人だけの約束だったから。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

>無名の人々による、無言の歴史
 
>それはあまりにもやりすぎじゃないか。
>そう人々がおもったとき、すべては始まったのだという。
 
物語の核心に差し掛かった時のこれらの一連の文章を読んだ時に、
「腑に落ちる」というのか、
「感覚としてよく分かる」と言ったらいいのか、そういう気持ちになった。
 
そして
 
>信じられたのは、・・・の言葉だったから。
>約束が何百年にもわたって守られてきたのは、二人だけの約束だったから。
 
という内容の文章が出てくる。
これほど説得力のある説明はなかったし、同時に気持ちを熱く激しく揺さぶられた。

ともすれば、良い意味での「大きなホラ話」と受け取られかねないようなこの本の印象に、
「説得力」と書くと、不思議に思われる人がいるかもしれないが、
この部分を読んだ時は腹の真ん中にストンと落ちて、こみ上げてくるもので胸がいっぱいになるだけであった。
最初の方の、会計検査院の調査官3人が新幹線に乗るところや、セーラー服を着る少年の苦悩の辺りを読んでいた時は、まさかこの小説でここまで真剣に泣かされるとは思いもよらなかった。
「大きなホラ話と受け取られかねないような」と書いたが、私個人の感覚としては「あり得る話」と受けとめた。何を言っているんだ?冗談だろう?と言われるかもしれないが、実際にそう感じたのだから仕方がない。
 
しかしまあ面白かった。
壮大な小説だから、アラとか傷はそりゃあ探せばあるだろう。
だけどそれが何だというのだ。
これだけ笑わせてもらって泣かせてもらったのだから、いいではないか。
 
登場人物の名前を見るだけでも楽しめた。私は歴史に大変疎いものだから、残念ながら、登場人物の名前に関して作者の意図したものが、全て理解できたとは言えないが、それでもいっぱい笑えた。
個人的にはプリンセスの設定が良かった。
名前はもちろん、彼女を取り巻く環境、容姿、言動、そして何といってもバイタリティあふれる圧倒的な人間的魅力。
これぞ大阪のヒロイン、プリンセストヨトミであった。
 
著者に、「よく書いてくれた」「書いてくれてありがとう」と言いたい作品である。

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紙の本ぼくんち 3巻セット

2004/07/19 22:52

「ぼくんち」を読んで寝る

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ソープランド「完熟」
この店はお姉さまが、
たくさんかせいでゼイタクしたくて働くとこじゃなくて、
生まれた時から人にだまされて、
だまされて、だまされて、だまされて、
日本中をヤシの実のように流れ
ただよって最後にたどりついた、
そんなお姉さまが
つくだにになっている店で、

という話が、「ぼくんち」3巻にある。

そして、このお姉さんたちは、自分よりさらに弱いものにかみつく、と。
自分がイヤというほどしてきた悲しい思いを、人に対して同じことをする…。
といった風に話は続く。

今、世間は、そんなお姉さんたちを、認めてくれない。
本屋にあふれている本を読めば、
私は、苦労して、努力して、頑張って、その結果、今は成功して、幸せだ。
だから、この本を読んでいるあなたも、もっと頑張れ!という本が実に多い。
とにかく「立派な人」が、本を書いている。
読めば読むほど、こちらの劣等感を刺激され、滅入ってしまうし、腹が立ってくる。
そんなことは、本を書いているその「立派な人」にわざわざ言われなくても自分が一番よく分かっているし、ずっと嫌と言うほど耳にしてきた。
私は、努力をしない、向上心を持たない怠け者です。グチと人の悪口しか言わない、ダメ人間です。毎日惰性で過ごしているだけで、そんな自分を何とかしようとも思いません。そしてそんな毎日に疲れて「どうせ」と「しょうがない」と、投げやりにいろんなことを諦めました、と。

気が付けば、夜、寝床で、「ぼくんち」を読んでいる。

今日もまた我慢して我慢して怠けながらも働いてきて、いつものように辛いことが多かった1日を終えようという、寝る前のほんのひとときぐらいは、「立派な人たちの、あなたのためを思ったありがたいお言葉」から離れて、「こちら側」の人たちの世界にくるまりたいのだ。クスリと笑ってホロリと泣きたいんだ。

ただ、この「ぼくんち」の住人はみんなそれぞれ、死に物狂いで、一生懸命に生きている。だから単なる完全な怠け者である私と同じ「こちら側」と言うことは、彼らに失礼なことであろう。
一生懸命だから笑えるし、一生懸命だから泣ける。それなのに彼らはどうしても幸せになれない。せつない。笑って、泣いて、せつなくて。今夜も「ぼくんち」の世界にひたって、眠りにつく。

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紙の本風待ちのひと

2011/04/24 00:53

うつくしいひと

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

>泣きながら道を渡り切ると、ショーウインドウに自分の姿が映った。
・・・
>自分の姿のなんと不格好なこと。
>最初から、釣り合わないとわかっていたのに。
>知らなければ、泣くこともなかったのに。
>それでも、と思いながら涙を拭く。
>出会えて良かった。きっと生涯忘れられない友人だ。
>それでいい。
>それでいいはずなのに。
・・・ 
 
この女性「喜美子」と同じように、私も道を渡りながらとまではいわないが、ちょうど出先で読んでいるところだったから、涙をこらえるのに困った。
結局気にせずそのままボロボロ泣いた。こらえることが出来なかった。
単純である。
思い当たることがあったからだ。 
 
そう「それでいい」のである。
出会えて良かった。会ってもらえたのだ。親しく話せたのだ。それで良い。充分なのである。
これからはその思い出をたまに取り出して眺めて生きて行こう。
よく言われているように「女は思い出だけで生きていける」ものなのだ。実際これまでもそうしてきたのだから。
自分の不格好さは自分が一番よく知っている。
釣り合うとか釣り合わないとか冗談でも考えることすらためらわれるほど釣り合わないのは自分が一番良く分かっている。
だからこれ以上望んではいけない。
分かっている。頭ではよくよく分かっているのだ。
それでも「それでいいはずなのに」と涙が出るのである。
どんなに自分で自分を叱りつけても涙が出るのである。 
 
上記以外にも、心を揺さぶられる部分がいっぱい出てくる。
なにより、
最初から最後まで通して変わらずに流れているこの本の雰囲気が良かった。
美鷲という海辺の町。夏。
出会った喜美子と哲司は大人の男女である。
深い傷を抱えた者同士、田舎のおばあちゃん家のような雰囲気の岬の家で共に語り合い、音楽を楽しみ、眠る。
ただの男の子と女の子という存在になって2人仲よく並んで座って瓜を食べる。
2人は夏休みの楽しい思い出をいっぱい共有する夏の友達・・・。
全編を通して終始この雰囲気が流れ、風が吹き抜ける。
この風を感じるだけでもこの本は素晴らしいと思う。 
 
終盤は、喜美子と哲司が一緒になってほしい、幸せになってほしいと願うだけだった。
そういうことをこんなに素直に心から願った小説は余り記憶にない。
それなのに、残りのページ数はどんどん少なくなるのに、もどかしくてしょうがない。
結局どうなるかは、読んでみられて美鷲の夏の風ともにたっぷりと感じられることをおすすめする。
ラストは好き嫌いが分かれるかもしれないが、これはこれで私は好きである。
やはり「風景」が美しい。
この描かれている景色を思い浮かべたら、物語の最初から2人に付き合ってきたものとしては、泣くしかしょうがないじゃないかと泣いた。 
 
涙もろいほうであるし、いつまでもクヨクヨ引きずるほうである。
だけれども普段、
>それでいいはずなのに・・・
といつもよよと泣いているわけではない。
いつもどころか心秘かに胸をかきむしった際も、思い起こしてみれば実際に涙を流しはしなかった。 
 
残念ながら私たちは夢の中の世界だけに浸って生きていられないのである。
忙しい日常を送っているわけでは決してないのだが、物理的にも心理的にも今やらなければいけない目の前のことに追われて、そういったことは早々に心の扉の奥に押し込める術が知らぬまに身についてしまっていた。
いい年をしていつまでも乙女気分で、何を勘違いして悲劇のヒロインを気どっているんだと人様に笑われて叱られるんじゃないかと、それを恥じて恐れるあまり、何より自分が一番自分を笑って叱って制するようになっていた。 
 
このような本に出逢った時、ページをめくるそばからこぼれてくる、今までの人生で思い当たる旨を記した文章に、胸の奥に押し込めたはずの生の感情が、一緒に封印した嗚咽のかたまりとともにドッと流れ出てくる。いとも簡単に涙腺が壊れてしまう。
その当時は1人きりになった夜にも流さなかった、いや、流すことさえできなかった涙をである。 
 
良い本というのは、こういった素晴らしい力を持っている。
だから本を読むことをやめられないのかもしれない。

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紙の本着物あとさき

2006/08/15 21:25

着物のことを何も知らなくても、一気に読める本

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

実のところ、青木玉さんの本の書評を書くことは嫌なのだ。
大ファンであるから、好きすぎて、どの本も「とにかく良かった。是非読んで下さい」としか書けなくて終わってしまうのではという心配がもちろんある。だが私が一番懸念するのは、私が物や言葉を余りにも知らない人間なので、そういう人間が書いた書評を読んでくださった人が、青木玉さんの本を読もうという気になってくれるとは、とても思えないということである。
いやらしい謙遜ではない。例えば、私は着物に関する様々な名称や単語をほとんど全く知らない。漢字だけで書かれていてルビがふってなければ、まず読めない。だから着物に関する著書が多い青木玉さんの本を読むときは、その読めない単語を目で飛ばして読むか、適当に当て字ならぬ当て読みして、読み進めているのだ。
恥を承知で言う。私の、読めなくて意味も全く分からない、数ある着物用語の中から例をあげると、
単衣(ひとえ)を「たんい」、袷(あわせ)を「はまぐり(蛤)」と自分の頭の中で当て読みして読んでいたのである。初読のときは(正直言うと、今もよく分かっていないのだが)、意味などもちろん何も分からなかった。着物の部位なのか、種類のことなのか、布地のことなのか、皆目見当もつかなかった。なお私は着物の一大生産地で生まれ育ち、今も在住している中年女性である、などと書くことは、恥の上塗りか・・・。
袷(あわせ)を「はまぐり(蛤)」と読むような女性がすすめる「着物に関する本」を、読んでみようという気になる人はいないのではないかという心配があるのだ。結果的に、人の「読もうという気持ち」を逆に萎えさせてしまうのではないか、と。
でも、もうここまで書いてしまったのだから、開き直って書く。
この方の著書は、恥ずかしいぐらいに着物のことを何も分からない物知らずが読んでも、面白い。一気に全部読ませるのだ。
この方の著書には、どの本にも1ヵ所はホロリとさせる部分がある。「小石川の家」「幸田文の箪笥の引き出し」「なんでもない話」・・・、何度も読み返して泣いた。どの本にも心に残る場面、文章がいくつもあり、日々の生活の中で、ふとしたときに手に取り開く。もう諳んじるほど読んでうなった名文が、そこかしこに詰まっていて魅了してくれる。
この本「着物あとさき」の中では、98ページからの「色移る」の梔子色の紬(くちなしいろのつむぎ)の部分がジンときた。相変わらず私には読めないし意味も分からない、着物に関する単語が、いくつも出てきた。それでもやはり心に迫ってくるのである。この感覚を何と説明したらいいのだろう。何かが伝わってくるのである。
青木玉さんはもっと評価されていい文筆家だと思う。歯がゆいくらいである。幸田露伴の孫、幸田文の娘であるという点ばかりが取り上げられすぎていると感じる。また、ご本人が著書の中で、余りにも謙遜なさりすぎるというところも影響しているのかもしれない(そこがまた奥ゆかしい魅力であるのだが)。
青木玉さんという方はご本人が才能あふれる魅力的な文筆家だ。著書が出る度に待ち構えて飛びついて一気に読んでしまう。単語を飛ばして読みながら涙してしまう。抑えた美しい言葉、奥ゆかしさの中から、心が伝わってくる、稀有な存在の作家である。

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紙の本楽譜の風景

2005/09/19 16:12

「楽譜の風景」から聴こえてくる音楽

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

高校のときに国語教師がこの本を朗読してくれた。
「最近買って読んだら、実に面白かったので、みんなにも読んでやろうと思って」という教師の言葉だった。
指揮者岩城宏之氏がオーストラリアのメルボルン交響楽団の演奏会で、ストラヴィンスキーの「春の祭典」という曲を指揮する。岩城氏はこの長大な難曲を、楽譜を見ないで暗譜で指揮し、ところどころで起こる演奏上のミスという事故を何とか最小限に食い止めながら、いよいよ最後の最難関部分に差しかかる。しかしここでとんでもないことが起こるのである・・・。
という3章の「網膜へのフォトコピー」「頭の中のめくりそこない」の部分を、国語の授業1時限を丸々使って読んでくれた。
当時、我がクラスの教室の最前列には、髪型や服装が個性的でおしゃれな男子生徒が、つまりはやんちゃな悪ガキたちが、教壇に立つ教師のすぐ目の前に横一列、ズラリと並んで座っていた。彼らの元気さに手を焼いた担任が座らせたのである。
今思えば、彼らも素直に前に並んで座るあたりが、まだまだのんびりとした古き良き時代の香りを残していた頃であった。しかし元気が有り余っている彼らが、最前列とはいえ一日おとなしく座っているはずもなく、授業を聞かずに騒ぐのはいつものこと、早弁、その後の睡眠など、やりたい放題に若いエネルギーをあふれさせていた。
教師が朗読を始めてまもなく、ふと気が付けばこの最前列あたりがいつになく静かだ。寝ているのか食べているのかと目を向けたら、一人残らず起きていて、身じろぎもせずに耳を傾けている。「春の祭典」の演奏がクライマックスに差しかかったときなど、教室中が息をするのもはばかられるようなピンと張り詰めた緊張感に包まれて、40数人の若い集中力に怖さを感じたほどだった。曲も話も佳境に入ったというときに、無情にも授業終了のチャイムが鳴り、教師はあっさりと本を閉じた。
この中断を最も残念がり、続きを聞きたがったのは最前列の面々であった。そして彼らが、この教師の次の授業時に、必ず続きを読んでもらうという約束を取り付けてくれた。「先生、忘れんといてや」「絶対やで」と、何度も繰り返していた彼らの言葉が耳に残っている。
かくして2日に渡っての教師の朗読という形でこの本に触れたのであるが、めったにないほどの臨場感、緊張感、集中力に満ちた、忘れられない「読書」となった。
さしずめ教師が指揮者で私たち生徒がオーケストラのメンバー、中でも最前列はコンサートマスター等の中心になって引っ張っていく演奏家たちで、みなで手に汗を握りながら協力し合って、実際に「春の祭典」を演奏した気分であった。
あの朗読後、すぐに自分でこの本を購入し、今でも時々読み返す。さすがに20年以上も経つと、最初にこの本に触れたときの緊張感に満ちたこれらの思い出も薄れてくる。でも読むたびに、例の「春の祭典」の部分では、その時の岩城氏と同様に、緊張のあまり体温が急降下するし、最後には、国境、民族を越えた人の思いやり優しさに毎回涙ぐんでしまう。
最初に出会ったときそのまま色褪せずに「実に面白い本」である。

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紙の本ななつのこ

2007/01/05 23:42

「七つの子」の歌が聴こえてくる

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

連作短編集であり、7つの章からなる。
どの話もよかったが、特に6つ目の「白いタンポポ」は印象に残った。タンポポの花の絵を真っ白に塗る、小学校1年生の真雪ちゃんの話である。
読み終わった後「白いタンポポは確かにあるのです」という言葉が心に浮かんだ。本文には直接出てこないが、気が付いたら頭の中で繰り返していた。そしてこれまた気が付いたら泣いていた。
そういうとき私の場合は、どこかに「泣かせのツボ」があって泣くことが多い。だがこの話の場合、私にとっての「とどめの一言」が特には見当たらないまま、ふと我に返ったら涙が流れていた、という状態であった。
真雪ちゃんのような年の頃はもちろん、年をとって大人になっても、誰かに肯定してもらうということは、なんと嬉しいことであろう。人と同じ色に染められない部分が、誰にだって1つはあると思う。それを頭から否定されることを、悲しいことに私たちは子供の頃から幾度も経験し、慣れてくるのである。その「人とはちょっと違う部分がある」という“火種”が大きくなってくると、嘲笑され、馬鹿にされ、そして「いじめ」に・・・となってくる。だから年を重ね、経験を積んだ末に、慣れざるをえなくなるのである。しかし幾度経験しても、幾つになろうとも、そして慣れていようとも、やはりその度にどこかで傷ついているのである。だから、誰かが「白いタンポポは確かにあるのです」と、ただ肯定してくれるだけで、いい大人になった今でも、嗚咽がこぼれて、涙が止まらなくなるのだ。自分が長い年月をかけて、これほど傷ついていたのかと、自分自身で改めて思い知って驚くほど、泣ける話であった。
3つ目の話の「一枚の写真」も大好きな話である。子供の頃に、同級生にアルバムから盗まれた写真が、19歳になったときに、その盗んだ本人から郵送されてくる、という話である。
これはもう、盗った女の子の側、盗られた女の子の側、双方の昔と今の気持ちが、同じ女性として、言葉や理屈ではなく分かるように感じて、心に深く染みてくる話である。
この「一枚の写真」の話の中に、二重構造で出てくるもう1つのお話「空の青」の中で、はやてくんとその仲間の少年たちが、夏休みの宿題の絵を書く場面がある。真っ赤な夕焼けの村、お祭の夜の花火、夕立の曇り空、端から端まで全部山、といった絵である。青い空の絵が1枚も無いのにはわけがある。青い絵の具が何者かに盗られてしまったことと、困り果てた少年たちに「空は青いばかりじゃ、あるまいに?」とアドバイスをしたおばあさんがいたことなどから、それらの絵が生まれたのである。無くなった青い絵の具はどこにいってしまったのか?この「謎」には、それは美しい謎解きが待っている。
しかしまあ、なんと美しい話の数々であろうか。白いタンポポ、青くない空、みんな温かく肯定してくれる人が、この本の中には存在するのである。その人、その事実を、そのまま普通に受け入れて、抱き留めて、日常は続いていくのである。
ふるさとの自然と思いが満ちた、夕焼け、夕立、花火の夜、山、といった子供たちの描いた絵、そしてこの文庫本の表紙の、郷愁あふれる美しい絵。これらの絵を言葉にして物語にすると、この本の中身になる。そのような本である。

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紙の本シャーロットのおくりもの

2004/10/17 23:14

20年後の再会、30年後のおくりもの

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「今まで読んだ中で一番良かった本は?」という質問に、「シャーロットのおくりもの」と私の目の前で答えた同年代の女性がいた。
「やられた」と思った。
その後すぐに地元の図書館に向かい、探してみたら、約20年の時を経て、私が読んだ本のまま、ボロボロになってまだその館の本棚に鎮座していた。
この20年の間、どれだけの子供たちの手にとられたのか。その子供たちの心に、何か「残る思い」を、全員にとは言わなくても、幾人かには置いてきただろうか。などと少し感傷的になりながら久しぶりに読んだ。10年ほど前の話だ。

今回、3歳になる姪っ子の誕生日プレゼントを考えたときに、この本の名前が浮かび、求めてみたら、図書館の年代ものの本とは、違う翻訳者、出版社になって、ピカピカに光って私のものとなった。最初に出会ってから約30年目のことである。
姪っ子のためにと買ったのに、やっぱりすぐに私が読んでいる。
3歳にはまだ早いか考えた。
初めて読んだ7歳のときに、私はこの本の一体何に感動したのだろう?
友情・約束を守ること・仲間・命・死・ひとりぼっちで寂しいと、ご飯も食べずに堆肥に身を投げ出して泣く子豚の姿・登場人物(動物)みんなそれぞれに欠点があるからこそ、親近感を覚え、生き生きとして魅力的だということ・そして、別れ…
年を取ってしまった今では、このようにもっともらしい説明の言葉はいっぱい出てくる。だけど言葉で言えば言うほど違っていくような気がする。もっとリアルに、感覚的に、本の中の農場の風に、においに当っていたように思う。「生きていることがすきで、この夏の夕べに自分がこの世に生きていることを楽しんでいた」という子豚の、その夏の午後の日が落ちかけてきたときの、あの何ともいえないけだるさや光の加減を、もっとそのまま感じていたように、ほんのかすかに感覚が残っているのだ。

初めて読んだときから20年後にこの本の題名を聞いたときに、「やられた」と思うほど、私の中にしっかりと「思い」は残っていたというのに、最初に読んだときのそのリアルな感覚がはっきりとは思い出せない。

この物語の舞台の、農場の仲間たちの中に人間の少女ファーンがいる。8歳の彼女は動物たちの言葉が分かる。いつも仲間の動物たちのそばに、ただ黙って何時間も座ってみんなの話を聞いていることが、楽しくてたまらない。
そのファーンは、ひと夏が終わる頃には、人間の男の子に夢中になって農場の仲間の元から離れていく。きっと動物の言葉ももう聞こえなくなるだろう。
初めてこの本を読んだときから、どれだけのいろいろな夏を越してきたか分からない私も、いつのまにか農場から遥か遠くに来てしまっていたようだ。

3歳の姪っ子には、やはりこの本はまだ少し早いと判断した叔母である私は、自分がもう少しの間、代わりに大事に読むことに決めた。これから初めて読む「子供」である姪っ子に、ちょっと羨ましさを感じながら。

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好きな人には…

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

恋愛指南本、あるいは、生き方指南本というものがどうも苦手だ。
「こうすれば恋も人生も上手くいく」と言われても、根がひねくれているのか、「何をえらそうに」という腹立たしさが先に立って、「フン!」と鼻白むというか、有り難いそのお言葉を、素直にはとても受け入れられない。

この「日日是好日」の著者は、「お茶のお稽古」を、日々の生活の中に組み入れて、25年、表面的にはただ淡々と、その実は、真面目に一生懸命に「生活」を生きてきた。
何かものすごい事件が起こるわけではない。一般的な女性の人生を送る中で出会う、失恋、身内の死という、波風にも、ただ、まっすぐに誠実に向き合う。波風が終わった後は、何事もなかったかのように、また日々の日常に戻り、「お茶」も含めた「生活」を生きていく。

その上で著者は言う。
「会いたいと思ったら…」「好きな人がいたら…」「花が咲いたら…」「恋をしたら…」
「…しよう」と。

そこで涙が止まらなくなった。「にじむ」といったものではない。真下にストンストンと涙が落ち続けるのだ。
真下にまっすぐに落ちる涙のように、著者の言葉が、心にストンと入ってきた。何の抵抗も腹立たしさもなく、素直に受け入れられたのだ。ページを開いたまま、グシャグシャの顔で鼻をすすりあげて、ただ「うん、うん」と、うなづくのみであった。

どうしてこれほどの説得力があるのだろう?
著者は、「お茶」を、つまり、日々の「生活」を、それはとどのつまりは「人生」を、真面目に誠実に一生懸命生きてきた。
気が付けば、25年と、著者は書いているが、これは、もの凄いことなのではなかろうか。
なにかの世界で一番になった、とか、派手な世界で名を成した、ということも、それなりに、評価される凄いことであるのは、確かである。
だが、この著者の、毎日の生活の積み重ねの25年という歳月と、その間の変わらぬ誠実で一生懸命な姿勢に、ただ素直に圧倒されたのだ。

読後、そのときにほのかに好きだった人に、著者の言葉通りの行動を起こそうか、と思ったのだが、そこは、いい加減に何となく日々を送ってきただけで、自分にまったく自信のない身。結局、何も行動を起こせなかった。

私の、この物事に対するいい加減な姿勢を改めて、これから真面目に「生活」に取り組んだら、いつかは、「好きな人」に、著者の書いてくれたような行動を起こせるだろうか?
それは、確かに誰でも今すぐにでも始められることなのだが、同時に、とてつもなく、遠く厳しい道のりであるように感じられるのだ。

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紙の本バッテリー 5

2005/02/01 10:54

想いを目の前の相手に伝えたい。どういう言葉を使ってでも伝えたい。

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「バッテリー」シリーズとの出会いは、まったくの偶然だった。
書店の児童文学のコーナーで、違う著者の本を探していて、ふと、すぐ目の前にあった平積みの本に巻かれている帯に目が止まった。
「想いを目の前の相手に伝えたい。
どういう言葉を使ってでも伝えたい」
と、大きな文字で書いてあった。
それだけなのに涙が出た。なんと言ったらいいのか。こういうのを「衝撃」と言うのか。その本、バッテリー5巻の帯の文字だけを、何度も読んだ。
勉強不足で時代遅れの身。その時は、知らない作家名、書名だったが、とにかく読んでみようと決心した。
1巻を読んでしまったら、もう駄目だった。
また私がケチでセコイものだから、まとめてではなく、とりあえず1巻ずつ手に入れて読むなんてことをしてしまったから、とにかく先を読みたい。夜中でも今すぐ続きを読みたい。朝まで我慢できない。眠れない。という状態になってしまい、数日間というものは、昼も夜も「バッテリー」のことしか頭にない日々になってしまった。
そしてやっと問題の帯の本である、この5巻にまでたどりついた。
この5巻の本文の最後の方に、その「想いを目の前の相手に伝えたい…」が出てくる。
どうしてこの言葉に、ここまで心を揺さぶられたのだろうと、今、自分で自分の気持ちを客観的に見てみたら、どうもこの言葉は、私の心にいつもある気持ちの1つを、見事に言葉で表しているように思う。
私も伝えたいのだ。いっぱい伝えたくて仕方がないのだ。この心の中にある思いを。
だけど、口があるのに、話す言葉というものがあるのに、いや、それだからこそか、どうしてもいつも、誰にも何もうまく伝えられない。だからこのように文字で書いてみたり、「バッテリー」の中の巧のようにボールを投げることや、他のいろいろな違う手段を使って、人は何とか伝えようとするのだろう。
私自身においては、あまりに何度も何十年も、伝えるということに失敗し続けてくると、伝えられないということに慣れて、諦めてしまう。苦手な話し言葉はもちろん、せめてその下手な口のフォローになればと、書いて説明することさえ試みなくなった。何より、伝えようとする意欲、強い思いを持つことさえしようとせず、「どうせダメだ。上手くいかない」と最初から諦めて投げ出してしまって、もう随分な年月になる。
それなのにである。「伝えられるんじゃないか」と思ってしまったのだ。
「バッテリー」シリーズにどっぷり浸った幸せな時間のおかげで、私も良い意味でも悪い意味でも、青くさくなってしまったのか。ここまで激しく強く「どういう言葉を使ってでも伝えたい」と思えば、伝わるんじゃないか、と。
実際の結果はどうなるのかは分からない。でも、ここまで強く思って伝えようとすれば、伝わると、私は信じたい。

1つの言葉、思いしか取り上げられなかったが、「バッテリー」は、もちろんこれだけじゃなく、読み出したら最後。とりこになってしまう魅力が詰まった本だ。
「バッテリー」シリーズが書かれて、そして、めぐり会うことが出来て、本当に良かった。

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紙の本風が強く吹いている

2007/09/10 23:38

風が強く吹いてすがすがしい。

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同年代の男子大学生10人が主要登場人物であることと、何より私の読解力に問題があって、読み分けというのか、各々の人物把握が最初は上手く出来なくて、前半部分は物語の中にスンナリとは入っていけなかった。前に読み進むのに時間がかかり、途中で投げ出そうかと思った頃、俄然面白くなってきた。逆にやめられなくなる。
箱根駅伝当日、極度の体調不良に襲われて、それでもスタートしていこうとする選手に仲間がかける言葉は胸を打つ。そこに至るまでの様々な事柄、たくさんの人たちの思い等を飲み込んで、それでもそれだからこそ言わずにおられなかった言葉には泣かされた。ここまでこの本に入り込んでしまえば、後はもう最後までノンストップだった。
「青春」だ「友情」だなどと言ってしまえば余りにもありきたりの表現で、この本の世界を汚してしまいそうなのだが、お互いを思う気持ちがいい。表面は冷めているようでその実深く熱いのだ。心では通じて信じ合っている。やっぱりいいものだ。 

私事だが、20年近く趣味で続けている習い事がある。これがまあ世間の常識を遥かに超えて上達しない。私の度を超した不器用さと努力が足りないことが原因なのだが・・・。ある時「普通の人はプライドというものがあるから、しばらく習ってそこまで上達しなかったらやめるものだ。それをあなたは恥ずかしさも感じずに続けているところがえらい。いやあ私にはとてもできませんよ」と言った人がいた。冗談混じりとはいえ、その声ははっきりと侮蔑と皮肉を宿していた。周囲の人間も待ってましたとばかりにドッと沸いた。 

「何かをする」ということに関して私たちはとても臆病になっているように思う。才能のある選ばれた人しかその何かをしてはいけないように考えてしまう。周囲の人に「何を言われるだろう」とビクビクしながら何かをするより、その「何かをしている人」を高処から見物して笑いながら批判している方がそりゃあ楽である。
この本の駅伝メンバー10人の中にも長距離を走るということに関して選ばれた才能を持たない人達がいる。箱根駅伝後にも長距離走者を目指すわけではない。群を抜いた才能を持たない彼らだが、厳しい練習、努力によって、周囲の者が驚くほど目覚ましく上達する。だから私個人の上達しない下手くそな習い事に関することと並べて考えることが間違っているのだが、広い世の中いろいろな考えの人がいるから、そういう彼らのような者にも何か皮肉を言う人が存在するかもしれない。
才能のある者もない者も関係なく、彼らはかけがえのない1年間を過ごす。そして一生に1度経験できるかどうかという素晴らしい思いを味わう。かけがえのない仲間とかけがえのない時を共に味わうのである。こんな幸せなことはないではないか。
彼らの過ごした苦しくて厳しい練習の毎日に、私はとても耐えられないが、うらやましさを感じずにはおられなかった。 

私は人間の出来ていない未熟者だから、人に何だかんだと面白おかしく言われれば、嫌だし、格好悪いし、恥ずかしいし、で、激しく気にして落ち込んでしまう。だから基本的に何もせずにじっと引きこもる方である。それがこの本を読み終わった時は、才能などこれっぽっちもなくても、上達しなくても、馬鹿にされて笑われようが、恐れずに勇気を出して「何かをする」ということは、やっぱりいいことだなあとの単純で素直な思いが、何の引っかかりもなく真っ直ぐに心にわいてきて、すがすがしさを感じたのだった。

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紙の本手紙

2004/01/27 21:57

送り続けられた「手紙」がもたらしたもの

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

弟を進学させたい一心で、強盗殺人を犯してしまった兄。当時高校生だった弟のそれからの人生はイバラの道となる。就職、恋愛、日常生活…あらゆる場面で、兄の存在が大きな大きな障害となってくる。
そんな中、返事を出さなくても、刑務所から届き続ける兄からの手紙。兄の存在のために悩み苦しんでいるというのに、その当人の兄からは、弟の目からみると、のんびりとした脳天気な手紙が送り続けられてくる。
全357ページのこの本の約300ページ余りまでは、凶悪犯を身内に持った家族の厳しい人生物語として、淡々と読んでいった。
それがラスト近くになって、気持ちを大きく揺さぶられることになる。

この世の人間を、嫌われる人間と、そうでない人間とに二分したとすると、私は前者である。だから、人に「手紙」を書くこと、今ならば、「メール」も、そして「電話」することも、物凄い勇気を必要とすることになる。これら、自分から手紙を出す等の行動を人に起こしたとしても、相手から返事が返ってこなかったり、少しでも迷惑そうな雰囲気を感じたら、その後、続けてそれらの連絡をとることを激しくためらってしまう。
私にとって一番辛いことは、人から嫌がられているのに、そのことに気付かずに脳天気に連絡を取り続けるということだ。相手に「嫌がっているのに気が付かないのか、この人は」とため息まじりに苦笑されている場面を、自分で勝手に想像するだけで、身悶えするほどの恥ずかしさに、自分で自分がどうしようもなくなる。
だから、嫌われているというサインを相手から感じる前に、引きこもってしまう。つまり「手紙を出す」等の人との関わりを自分から積極的に持つことも、初めから余りしようとはせずに、自己防衛して、引きこもるのである。
あまりにも卑屈で臆病で自意識過剰と言ってしまえば、それまでなのだが…。

その私にとっての最も恥ずべき行為である、「嫌がられている人がそれに気付かずに手紙を出し続けたらどうなるか?」の1つの結論が、この本「手紙」のラスト近くで出てくる。
「嫌がられているのに気がつかずに手紙を出し続けた人」が受けた思いについてはともかく、「手紙を貰い続けた迷惑を掛けられている人」の思いは、想像の範囲を越えていた。もちろん、迷惑であったという一面は揺ぎない事実なのだが…。
「実際は、そんなに甘いもんじゃないよ」と思いながらも、この兄が「手紙を送り続けた行為」そのものには、意味があったと認めざるをえなかった。

強盗殺人犯と、単なる嫌われ者を、一緒にすることが間違っているのであろうが、対人関係の気持ちの根本においては同じだと、私は考える。

「凶悪犯を身内に持った家族の厳しい人生物語」として読んでいた途中までは、「どうしてこの本の題名が『手紙』なんだろう?」と思っていたのだが、最後には、「手紙」でなければならなかったと感じた。
気が付けば、強盗殺人犯の兄に自分を同化させて読み、そして読後には「手紙」の物語として心に残った。

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紙の本船に乗れ! 2 独奏

2011/09/02 23:29

ヴィヴァルディのソナタを弾け

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

176ページからの部分に差し掛かった時、目が覚めた気分になった。
  

主人公の津島サトルが言う。
未来から過去の自分に声が届くなら、あの頃(高校生)の自分に向かっていいたい、今お前が軽く見ているヴィヴァルディのソナタを、もうこれ以上弾けないというところまで弾け!余計なことで憂鬱になったり、心配している暇があったら弾け!
という趣旨の文章が出てくる。
  

・・・なぜならそのソナタをきちんと弾くことができさえしたら、もうお前はどんなものでも弾けるからだ。
・・・
たとえこの先にさらなる困難があったとしても、そしてその困難が、今のお前の苦しさの何倍もの努力を必要とするとしても、今ヴィヴァルディのソナタが弾けるようになれば、お前はそれを乗り越えられる。・・・
と続く。
   

人生のある時の決断で、その時の選択肢であった2択や3択の選ばなかったほうを「もしあの時あっちのほうを選んでいたら、人生が変わっていたかも・・・」
という自分にとって都合のいい仮定ではない。
若き日の当時目の前に存在していた、多大な努力を必要とする苦しくてたまらないことをやり遂げること。乗り越えること。ということが前提となっている話である。
それをやり遂げたら、この先に出逢うそれよりずっと苦しいどんな困難も乗り越えられるようになるのだよ、と。
  

ヴィヴァルディのソナタに当たるものが、人それぞれあるだろう。
主人公のように「ヴィヴァルディのソナタをチェロで弾けるようになること」という明確なものではなくても、何となく「あの一連のことがそうだったのかなあ・・・」と思い当たることがあるのではなかろうか。
  
 
この場面の次に出てくる、主人公がドイツでの短期留学の最後に
「楽器のチェロを弾くこと」と、その先の「音楽を演奏すること」の大きな隔たりを、留学先の師であるメッツナー先生の演奏によって伝えられるくだりもまたいい。
クラシック音楽に詳しくない私は、ヴィヴァルディのソナタも、メッツナー先生が演奏したドン・キホーテも知らない。
だが頭の中に確かに美しい音楽が聴こえてきた。
  

ただの読書好きの個人的な好みのたわ言だが、
「どこがどうだかは具体的には分からないけれど文章がもう少し読みやすかったらいいのに・・・」とか、
「高校生の主人公が急に何十年も先の年を経た、今現在の主人公の心境になって、
『あの時、ああしていれば・・・』
『そのことがしっかりと理解できたのは、20年ほど後だった』
といった趣旨の記述がこんなに何度も繰り返し出てくるのは引っかかるなあ。その度に話の流れが止まるしなあ」
とかえらそうに思ったりしながら読んでいたのだが、
「ヴィヴァルディのソナタを弾け!」の部分で納得した。
この部分があるからこの本はもうこれでいいかと思ってしまった。
  

「ヴィヴァルディのソナタを弾きこなせれば、これから先のどんな困難も乗り越えられる」の部分が、この小説自体の「ヴィヴァルディのソナタ」だったようで、ここを乗り越えた後は加速度がついて面白くなる。最終巻である次の3巻の終わりまで突っ走っていく。
音楽の話と思わせて、誰にでも心当たりがある心に染みる言葉があらわれてくる。
  

私たちの実際の若かりし頃と同様に、主人公たちも楽しいばかりの毎日ではない。胸が締め付けられるような出来事も起こる。
だがそれも含めてのあの頃である。
胸を締め付けられながらも思う。なんと彼らはきらびやかな陽光あふれる季節のド真ん中にいるのだろうと。
読んでいる間、主人公たちと一緒に高校生活を送っている気持ちになる。
もう1度10代のあの時を味わえることが大きな魅力の1つだろう。

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