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    3月のライオン(1)

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    羽海野 チカ(著),先崎 学 (将棋監修)

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    はらぺこあおむし 改訂

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    エリック=カール (さく),もり ひさし (やく)

    5つ星のうち 4.5 レビュー詳細を見る

isoさんのレビュー一覧

投稿者:iso

3 件中 1 件~ 3 件を表示

紙の本クレオール主義 増補版

2005/02/17 16:51

「ラディカルなエスノグラフィー」から「“現象学的倫理学”のバイブル」へ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この数年、著者は北海道を拠点として活動していた。“山口昌男”氏との本来的な意味での師弟関係から、「日本」国家の中心とは程遠い北海道という“周縁”的な地を選択した。それはまさに「クレオール主義」を地で行く姿勢であろう。そして今年(2005年)は著者が“中心”へと立ち返る大きな転換の年となった。東京という“中心”で活動されることが何よりもすばらしいことであると私には思われる。
 本書は、単なるラテンをこよなく愛する文化人類学者のフィールドノーツという表現に収まりきる文献でもなければ、「ポスト=モダン」の〈ことば〉で代表される言説空間のなかで「クレオール」を日本で最初に紹介した先進的な提唱者による刺激的な民族誌という表現に収まりきる文献でもない。ましてや、「文化の政治学」という表現で収まりきるはずもなく、はたまた哲学(学問・科学)以前の、「倫理」が「哲学」と融合していた“神話的思考”の重要性を指摘する啓蒙書という表現すら全然物足りないであろう。
 「倫理」という〈ことば〉は、あまりにも使い古されてしまい、今日この〈ことば〉を使用する際は大きな違和感を伴ってしまう。あえてひとことで言えば一人一人の人間に抑圧的なものとなってしまっているということか。しかし本来「倫理」とは語源的に考えたとしても‘人と人との間’という意味合いを含んでいるはずである。それがどこかに飛んでいってしまい‘抑圧的なもの’という意味合いが似合うようになってしまった。
 「捉える」という〈ことば〉は使いたくないが仮に、あるがままの現実をどう「捉える」か?という問いに対してフィールドワーカーは、まず何よりも、これまでの「倫理」という縛りから解き放たれなければならないだろう。そうでなければ本来的な意味での“人と人との間”は見えてこないし、当然あるがままの現実も見えてこない。本書を通しての著者の姿勢は、そのような次元を目指すフィールドワーカーのものであろう。これまで、社会学的な社会調査論を含めてフィールドワーク論として様々な議論がなされてきたが、決して‘人と人との間’について深く思いめぐらされた議論はなかったであろう。
 そしてもっと深く考えれば、“人と人との間”の次元でこそ「相手を思いやる」という当たり前の「倫理」の地平が開かれてくるのではないだろうか。絶対的に理解し得ない他者を前に、決して自分の思うがままに他者を扱うために暴力や戦略といった他者を蹂躙する手段を使うことなく、かといって全く無視することのない、見て見ぬふりをすることのない、そのような姿勢としての、理解し得ないにもかかわらず「相手を思いやる」という“希望(倫理)”へのまなざし。その時「他者への倫理(希望)」は「私への倫理(希望)」となるのではないか。さらに、こうした本来的な「倫理(希望)」の地平へと向かうことが、とりもなおさずフッサール以来の「現象学運動」がめざした、何かが何かとして現象してくること、そのあるがままを表現へともたらす、現象学的な地平へと向かうことと連動しているのは容易に見いだせるであろう。“現象学的倫理学”という〈ことば〉は、以上のような意味合いで理解されねばならないはずである。
 著者は初版の表紙の美しい色彩とともに「“曙光”の言語(思考)」という〈ことば〉を提出した。“曙光”、それが「暗黒の中にわずかに現れはじめる明るいきざし」であり、「前途に望みが出はじめたこと」であるならば、「“曙光”の言語」とは紛れもなく“希望(倫理)”を語ることであるはずだ。その意味で本書は「“曙光”の思考」への宣言であり、“希望”を語り、それに向かう“現象学的倫理学”という新たな地平へといざなう高らかな宣言の書であるといっても過言ではないだろう。

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遥かな希望の倫理学

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 “「強靭な」思考”について熊野氏は、その著書『レヴィナス—移ろいゆくものへの視線』(岩波書店、1999年)で次のようなことを述べている。理論的な領域にかかわる作業の場合、それは解きがたい難問の前でたじろがずに一歩ずつ問題の核心へと接近してゆく思考のかたちを指すのであろう。これに対し、人と人とのあいだにおける軋みあいの現場で他者との関係の次元に目を凝らしながら思考する「倫理」にかかわる思索の場合、それは覆いがたい絶望をまえに、なおも微かな希望を紡ぎつづけようとする思考のかたちを指すのではないだろうか。
本書はまさに廣松渉という、この世にもはや存在しない“師”を通して熊野氏が紡ぎつづけた“「強靭な」思考”としての“遥かな希望の倫理学”であるように思われる。第一部は、廣松の生涯が中心的に描かれているわけだが、その廣松の、特に政治的活動を通じての孤絶な戦いの中で、絶望を拒絶し、それでもなお希望を紡ぎ続ける姿に熊野氏は“「強靭な」思考”を見たに違いない。そしてその熊野氏の姿勢が、第二部「解読」において、廣松に対する様々な分野の人々からの数々の批判的見解を超えて、「三 体系の外部—廣松哲学における「否定的なもの」をめぐって」というタイトルの論文で締めくくる通路を見出したのに違いない。それは熊野氏の、レヴィナスへの姿勢、カントの読解、ヘーゲルへの新たな読解、といった研究の中でも一貫しているように思われる。
 その締めくくりでは、廣松の哲学的テクストのある部分を「差異」「他者」「外部」を鍵概念として読みなおすことをこころみるわけだが、熊野氏は、こうした「否定的なもの」「非同一的なもの」が今日、キーワードとして流通するにいたったことについて、戦後日本の移り気な思想風土をこそあらわしているという評価を認める一方、べつのしかたで見つめることも可能であるとする。

 「たとえば「差異」ということばが主題化されるにいたったのは、なんらかの同
  一性の内部に回収されない多様性へと視線がむけられるからである。同一性を
  食いやぶり、概念的な枠どりをあふれ出すことがらこそが問題化されなければ
  ならない。「非同一的なもの」が問われるべきなのだ。そのようなまなざしの
  向きかえは、現在的な課題のなにほどかとたしかに通底していることだろう。」
  (239〜240ページ)
 
 そして、ここで語られている次元においてこそ〈倫理〉という〈ことば〉に、いや、もっと積極的に言えば〈哲学することそのもの〉に触れることができるのではないかと熊野氏は語っているように思われてならない。だからこそ、その次元について思いめぐらすことは、「まえがき」での切迫感漂う発言に深く深く思いめぐらすことと連動するように思われるのである。最後に、それを記しておきたい。

 「廣松渉が逝去して、すでに十年の年月が流れさった。情況は、ある意味ですこ
  しも変わってはいない。一九九四年五月、廣松逝くとの報が伝えられたとき、
  この国の哲学界にはいまだ、廣松にかわりうるなにものも登場していなかっ 
  た。そればかりではない。廣松の業績を真に継承するなんびとも登場してはい
  なかったのである。情況は、いまもかわらない。なにもかわっていない。」
  (まえがき)

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紙の本在日

2004/04/01 00:43

「リアルであること」と「クレオール主義」

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 書評タイトルにある「リアルであること」と同じタイトルの文献を著している中沢新一氏と深い関係にある網野善彦氏が死去した。その網野氏が中心となり編集された講談社の日本の歴史シリーズ。最初の00巻である「「日本」とは何か」を網野氏が著し、最終巻である「日本はどこへ行くのか」に姜尚中氏が論文を著している。網野氏の死去は私にとっていまだにショックであるが、その思想的なものは、この姜氏の『在日』に受け継がれ、流れているように思われる。そこで問われていることは、単に姜氏自身の出自に関わるようなことだけではないだろう。姜氏も『在日』第六章「日本国民の在日化」の中で述べている。

「こうして社会の光景がこの十年あまり、かなり変わってしまったような印象を受ける。それはひと言で言うと、戦後日本の安定した豊かさを支えていると思われてきた社会の仕組みや人々の生活意識の変容である。企業や組合、地域や各種団体などを中核とする共同体意識がくずれ、同時に社会的なセーフティーネットが、いろいろなところでほころびはじめるようになったのである。それは、誤解を招きやすいが、日本国民の「在日化」と言えるような現象である。」

 このことを確認したうえで姜氏は日本のナショナリズムの方向性について危惧しているが、そこで考えなければならないことは、こうした(プチも含めた)ナショナリズムの傾向に対して、どうのような立場、どのようなアイデンティティ、どのような認識論的な地平を確立することができるか、ということだろう。
 いみじくも姜氏が歴史認識の問題に触れているように、網野氏が戦後歴史学に対して問い続けた事柄と姜氏の主張が連動するように思われる。それをひと言で言おうとすれば、「海」は諸国を分断するのではなく様々な交流を生み出す、ということになろうか。それは『在日』第八章のタイトルである「東北アジアにともに生きる」という姜氏の希望とのつながりを感じる。
 さらに問い続ければ、文化人類学者である今福龍太氏の、彼の著した文献のタイトルにもなっている「クレオール主義」にまで考察を向ける必要を感じる。言語学的な領域でのクレオール語から発展させ、文化人類学的な領域におけるクレオールを通過し、思想的な領域にまで高めたノンエッセンシャリズムな認識論としてのクレオール主義。ある意味での認識論である以上、このクレオール主義を考えるとき、同時に記述の問題、すなわち近代的な科学的合理主義がもたらしたと言ってよい主観性と客観性の問題を含めた現実理解の問題、「リアルであること」に対する記述のあり方が問われてくる気がする。(そしてこの問いは網野史学とも連動するであろう。)
 そうすると、客観的な時間を超えて、現在的な地平から記憶を掘り起こし、あるがままの状態で書かれたような『在日』の、記述のあり方に注目せざるをえない。昨年9月に死去したエドワード・サイードの『遠い場所の記憶』に触発されるかたちで出版したようにも思われるこの『在日』という文献は、最も「リアル」なかたちで、私たちが問い続けなければならない課題を提出しているように思われる。

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