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先月(2017年8月)

イチイさんのレビュー一覧

投稿者:イチイ

3 件中 1 件~ 3 件を表示

紙の本私が語りはじめた彼は

2007/01/27 14:07

他人を語り切ることなど、誰にも出来ぬ。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 恋愛小説の名残をメインコードに、男女が求め、失い、回帰し続ける感情を描いた、叙情小説でもあり、心理小説でもあり、ミステリの性質すら備えている力作。
 物語の中心に位置付けられる人物、村上融。大学教授であり研究者である彼には、多くの者に愛され、また多くの者に憎まれる彼の家族や教え子、更にその家族や級友らが縦横に絡み合い、長い時を経て繰り広げられる物語の数々…。短編集の形をとって語られる6つの話は、どれも猜疑心に満ちた心の動きを掘り起こしていくのですが、それらは皆、村上の影を切っ掛けに、己の生活の中に隠れていた闇、そしてそれに向かう己自身の闇を見つけ出すものとなっています。それゆえに決してトーンは明るくないのだけれど、重いばかりの空気にしていない三浦氏の手腕は素晴らしい。
 思うに、村上融は男女関係が不得手…、恋愛が下手なわけではない。実際、女たちは彼の隠れた魅力に惹き付けられ、群がるかのように慕いやってくる。彼が婚姻の事実を得ていようとも、それは女たちには関係のないことなのです。本質的な部分で人を好きになるということは確かにそうなのだけれど、普通、人は倫理的なクッションを介して人と接するから、不義など起こしたりはしない。けれども本作を読む上で重要視されるのは恐らく、恋愛の主体者であるはずの村上の恋愛感が、本人の口からは殆ど言葉にされないことなのだ。誰もが、私にとっての彼はこうである、自分にとっての彼はこうであったと口々に言うばかりで、本当に村上がそういう人物であったのかどうかを正確に把握する者はいない。それは本当に、彼を愛したことになるのだろうか。多くの女たちは、村上の表面的な部分しか捉えることが出来ずにいた。だからこそ、どうしてなのか分からないが女たちは彼を求めてやまない。多少強引に言い換えるならば、その不透明さこそが、彼の魅力として女たちに映っていたのかもしれない。
 最終話ではついに彼の訃報から端を発することになりますが、悠々自適に身の回りを移し変えていった彼の人生が真実、幸せなものだったのかもやはり、明らかにはされないのです。そして彼の最後の妻となった太田春海。彼女こそが、辛酸を舐めることになった女性であると言えるでしょう。残された彼女にとって、村上はいつまでも「彼女にとっての彼」という形で、姿を変えずに彼女の中に残り続ける。彼女が語ることの出来る彼は、最早、誰の何処にもいないに等しいのだから。
(初出:CANARYCAGE)

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紙の本あめふらし

2007/01/27 13:37

まるでファンタジィのように倒錯は交錯する

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 何でも屋の主、橘河、その番頭であり、橘川に全てを拾われた経緯を持つ男、仲村。そしてまた、橘河に魂を拾われて従属の日々を送ることになる青年、市村…。ウズマキ商会に持ち込まれる、不可思議、不審、不穏な頼み事、運命に巻き込まれ、翻弄される男たち。
 そこかしこに香る、男の匂いと女の匂い。男性と女性、或いは雄と雌の香り。長野まゆみ小説の真骨頂、四季折々の語感が漂う文章のスタイルの中に、ひたすらに言葉の綾を含み、ひたすらに感情の猛りを匂わせる会話が織り込まれています。この「含み」が、長野小説の特徴である衆道(ゲイのことですね)がまず一番に人物描写を支えていることを裏付けていて、しかしこれが…、長野氏の確信犯であるのかどうか、やたら隠語(淫語!)だらけで逆に嫌らしさを増幅させているのがもどかしかったり、含み笑いを禁じ得なかったり(一応、褒めています)。本書の場合、色々となぞらえられているモチーフはあるのですが、女性の影が多少濃いようにも思い、これまでの長野小説とはまた少し違った印象を抱きました。
 数年前からでしょうか、氏自身が模索していると公言していた文体が、本書にも十全に現れています。地の文の中に完全に会話分が同調していて、そういうものだと知らない人はまず、その読みにくさにとっつきにくさを感じることだろうと思うのですが、これが不思議と慣れなのか、いつの間にかするすると読めてしまう。元々、誰にでも読みやすい、と言えるような言葉遣いをしない作者であり、日本語特有の響きや漢字本来の意味を重視する作風から、その物語は物語そのものの意味を読み解くというよりも、その雰囲気こそを物語の価値として高めようとする意図があるように感じられるのです。不可思議な物語が一つあって、長野氏はその物語の中で派生した謎を、ある程度まで解いておいて、或いは、作中のある人物は真実を掴んでいるのに、読者の目にははっきりとした真実の形で解説しない。そういう「狡さ」が本書にも満ちているように思われます。長野氏の小説を読んでいて感じる「もどかしさ」は、そういう、場合によっては幾多にも読み取れる「物語の行方」の中の、少なくとも作者である長野氏にとっては絶対的な真実である完成された「物語」を読者に易々と提示してはくれない狡さなのだと、本書を読み終えて再認識しました。これは本書を形作る上での瑕疵とは言えないかもしれませんが…、でも、冒頭から結末までひたすら言葉を含み続ける姿勢には「僕は焦らされているな」と妙な意識をしてしまい、それもまた、確信犯的な作為が働いているのだな、と思ったのです。
 純粋に文学として読むには、色々な意味で難しいと思われるのですが、しかしかつての、ひたすらに「少年」という記号を描き続けた長野氏の姿勢とは全く違う、独特の「長野まゆみ」がここにあります。
(初出:CANARYCAGE)

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タイトルが全てを語ります

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 神様中学生、略して「かみちゅ」。このタイトルフレーズだけでアニメは成功したも当然だと思うのですが、実際、アニメの出来があまりに良かった(個人的感想)ために、本書は「アニメのコミック版」という先入観が強くなってしまって、二番煎じとして読んでしまっている自分がいる。普段にも増して…、無念。
「私、神様になっちゃった」
「ふーん」
 という会話で、全体の説明が付いてしまうという、不思議な世界観を持っています。主人公は女子中学生、一橋ゆりえ。彼女が神様になった、ということが判明して、それ以外は全く普通の、何処にでもある長閑な町並み(町の人が「ゆりえちゃん、神様になったんだって?」「あ、はい、そうです」そんな感じ)。平和な日本、今どきの子供に大人。けれども小さな神様が生まれたことで、町にはこれまではなかった色々な出来事が起き始める…、いや、神様になったゆりえは、ただの人には感じることの出来ない「八百万の神」を感じることが出来るようになり、それはつまり、少なくとも彼女にとって、現世は全く違う姿を見せつつあるということで…。
 中学生、という生き物には常套である「自分って、一体、何なんだろう?」というアイデンティファイ(「自分」を追い求める)が、「神様って、一体何なんだろう?」と己に向かう疑問として求められていくのが、本作でしょう。その辺りはまだ、始まっていないみたいですが…、はてさて。
 うるおい…、欲しいなあ…。

初出:CANARYCAGE

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