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  3. 仙道秀雄さんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年1月)

仙道秀雄さんのレビュー一覧

投稿者:仙道秀雄

47 件中 1 件~ 15 件を表示

賢人アダム・スミス

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本年はじめてのFull star gradeの超級本。本当に良い本だった。阪大で教えている方なのでぜひ会ってできるものならスミスの講義を受けたいものだ。

マルクスが「経済学批判」においてたしかこんなことを言っていた。

「諸個人はいくら主観的には自分の入りこんでいる諸関係から超越したつもりになっていてもそれは戯言であって、実践的には所詮諸関係の担い手でしかない」

この観点だと行為者それぞれのの動機を問うても結局はそれぞれの超越的主観性間のせめぎあいに終わる。個人の主観性の価値を問うのは無意味であって、諸個人から成る関係性全体のメカニズムの解明のみが主要な問題となってくる。つまり、諸個人の行動は、いろいろある部品のひとつとしての恣意的な価値をもつだけである。意味を知りたければ全体のメカニカルな設計図を見よ、となる。

これに対してスミスの理論だと、科学的なメカニズム以外に行為者において公平な観察者と幸福の概念を導入することで、人それぞれが自分の置かれた環境でどんな選択をするなかで生きるべきかという倫理的課題への回答が可能な一方、全体のメカニズムの提示によって自分の行動が全体のなかでどんな意味を持ちうるかが見えるという構図になっている。

また、国富の概念が価値(交換価値または貨幣価値)重視ではなく使用価値重視であることは現代のアメリカグローバリズム批判となりうるし、ストア派を批判的に継承した幸福論はスローライフ、メープル的暮らしにも繋がる。マルクス批判でさえある。

また道徳感情論の第六版につけ加えた次の文章―スミスが死の前年に書いたとされる文章―は大変感動的であった。

人間本性の仕組みからいって、苦悩は決して永遠のものではありえない。・・・木の義足をつけ(ることになっ)た人は、疑いなく(そうなった自分の運命、これから自分のハンディキャップに)苦しむし、自分が生涯、非常に大きな不便を被り続けなければならないことを予見する。

しかしながら、彼はまもなく、・・・普通の喜び、そして仲間といるときに得られる普通の喜びを、ともに享受できると考えるようになる。・・・公平な観察者の見方が完全に習慣的なものとなるため、・・・自分の悲運を、公平な観察者以外のの見方で見ようとはしないのである。・・・・・ひとつの永続的境遇と他の永続的境遇との間には、真の幸福にとっては本質的な違いは何もない。

・・・・幸福は平静と享楽にある。・・・人間生活の不幸と混乱の大きな原因は、ひとつの永続的境遇と他の永続的境遇の違いを過大評価することから生じる・・・。

貪欲は貧困と富裕の違いを、野心は私的な地位と公的な地位の違いを、虚栄は無名と広範な名声の違いを過大評価する。・・・・虚栄と優越感というつまらぬ快楽を除けば、最も高い地位が提供するあらゆる快楽は、最もつつましい地位においてさえ、人身の自由さえあれば、見つけることができるものである。
(引用終わり)

わたしたちは、日頃こんなことでうじうじ悩んでいる。

自分の今の職業的選択は正しかったのか、
別の選択があり得たのではないか、
自分の今のこの境遇以上のものは望めないのか、
収入はより大であるべきなのか、
より大の売上・より多い社員数の方が良いのか等々

スミスはそんなわたしたちに有益なアドバイスをしてくれた。こんなことを言ってくれる賢人はめったにいない。

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紙の本神器 軍艦「橿原」殺人事件 上

2010/05/13 16:05

戦前と戦後の日本人の組織感覚

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この小説のテーマのひとつは、戦前と戦後の日本人の組織感覚を問うことだと思った。

 戦前戦後の共通点は言挙げしないことにある。異なるものは以下の通り。

 戦前 臣民は、国家が各人に求める行動の原因・理由・目的を問おうとせず、国家が命令する行動を忠実に全力をもってやり抜くのがもののふの美学であり、最終的には天皇のために個々の命を差し出す覚悟を求められ、その決意は美しく語られた。

 戦後 天皇はGHQによって無化された。これに代わって会社が言挙げ機能をもち、ある程度だが、会社が天皇の位置を得た。かくて国民は、社員として会社がその個人に求める行動の原因・理由・目的を問おうとせず、会社が求める行動を忠実に全力をもってやり抜かねばならないとされており、最終的に社員たる国民は会社のために自分の人生や家庭を差し出さざるを得ない状況に追い込まれている。当然それは美しく語りうるものではない。

 会社はある程度は天皇の位置を占めていると言ったが、天皇の地位を得ているわけではない。戦前の天皇には日本国家の過去現在未来への見通しを民族の全体を体現して理念的に浪漫的に語ろうとする意志と文体があったが、今の会社にそのような言挙げ能力も意志も文体もない。せいぜい来期の会社の決算を利己的短期的金銭的に数字で語るのにとどまる。

 ついでに言うと、1970年代後半まで会社は社員の人生や家庭を多少顧み、本人はもちろん家庭も会社に貢献をしようと努めていたが、80年代以降、会社は社員を個人として捉え、個人と家庭をプライバシーに属する世界だとし、距離をとりはじめた。他方個人も家庭も会社を美しくないもの、胡散臭いものとして徐々に離反の道を選んだ。現在ではそれぞれが互いに縁遠い状態としあってそれなりに安定している。当然職業生活、暮らし、個人としての生き方は、バラバラに切り離され、全体性があるはずもなく、語るにふさわしい理念や浪漫はない。この窮状を救えるのは戦前戦後中心から外されてきたもの、例えば女性、地方、農業、小企業などであろう。

 この小説に触発されてこんなことを一読者に考えさせるほどに本書は戦前の日本人と今の日本人の組織感覚の歪みを際だたせている。ただし、この小説の扱っているテーマは、これだけにとどまらない。それについては下巻の読後語ることにしよう。

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紙の本高校生のための哲学入門

2007/12/14 14:45

学習塾経営のかたわら哲学世界と日常世界との回廊を建設してきた人ならではの洞察がここに

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 題名が目にとまり、高校生の長男のためになるかも、と思って読み始めたが、なんのなんの。

 今年読んだなかで最高の書物のひとつであった。芸術論、死生論、老年論、宗教論などどれをとってもさすがに市井で哲学に打ち込んできた人は言うことが違う。

 よく練れている。

 翻訳哲学では断じてない。学習塾を経営しながら哲学の世界と日常世界との回廊を建設してきた人ならではの洞察にあふれている。言葉に力がある。

 もちろん形而上学表現のできる一流のプロでもあり、ご存じヘーゲルの精神現象学はこの人の新訳で蘇ったと言われている。

 来年は長谷川さんの新訳で精神現象学を再読し、できれば長谷川さんにお目にかかりたい。その前に本書のノートを作っておかねば。

 今度の正月のテーマはこれだ。

 ぜひとも皆さんお読みください。

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紙の本生物から見た世界

2007/08/13 21:57

久しぶりの五つ星でした

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ユクスキュルはスピノザ主義者だと聞いたことがあり、スピノザを敬愛する者には本書は重要であるが、尊敬する日高敏隆さんの生物学に決定的な影響を与えた一書であると後書きで知って以後、わたしの興味は倍化した。しかしながら、重大問題発生。わたしは生物学にまったく疎く、適切な書評者たりえないのだ。例によって引用に次ぐ引用で本書の驚くべきコンセプトの一部を紹介するしかない。

 ある事象を観察する者がいて、その世界内に起こっていることとしてある事象が理解され、事象の構成要素xもyも観察者の世界内においてあり、事象と観察者を含んだ世界の完全な一致と唯一性が信じられている。ところが本書の環世界はこのような見方を真っ向否定している。

上は機械論か、主体論かという対立でもある。機械論者である生理学者は、「ダニの場合、すべての行為は反射だけに基づいている。反射弓がそれぞれの動物機械の基盤である。それは受容器、すなわち酪酸や温度など特定の外部刺激だけを受け入れ、他はすべて遮断する装置ではじまり、歩行装置や穿孔装置といった実行器を動かす筋肉で終わる。」と言う
p14

主体論者である生物学者は、「事態はまるで反対だ。ダニのどこにも機械の性格はない。いたるところで機械操作係が働いている。反射弓の細胞は運動の伝達ではなく、刺激の伝達によって働いている。刺激は(ダニ)主体によって感じられるものであって、客体に生じるものではない。」と言う。p15

ダニが哺乳類を、血を吸う対象物をどう発見し、どう血にありつけるかを、主体論の言葉遣いで追ってみるとこうなる。哺乳類の皮膚腺が酪酸を発生させる。ダニは酪酸という刺激を知覚器官で特異的な知覚記号に置き換え、それが嗅覚標識に転換される。知覚器官でのこの出来事が作用器官に相応のインパルスを発生させ、ダニは真下の哺乳類に落下すべく肢を枝から外す。ダニはぶつかった哺乳類の毛に衝撃という作用標識を与え、これがダニに触覚という知覚標識を解発し、それによって酪酸という嗅覚標識が消去される。この新しい標識はダニに歩き回る行動を解発しやがて毛のない皮膚に到達すると、温かさという標識によって、歩き回るという行動は終わり、次に哺乳類の皮膚に食い込むという行動がはじまる。p21

ダニにとって知覚標識となるのは酪酸、触覚、温度みっつだけである。これとみっつの作用標識(落下、歩行、食込)だけがダニの環世界をつくっている。これは貧弱で単純な世界であるが、確実に血を吸える可能性を高めている。だが哺乳類がダニのいる枝先の下を通過しなければ酪酸も出ず、落下もせず、毛のない皮膚にも行き着かない。するとダニは餓死するのだろうか。餓死するはずである。しかし本書には18年間絶食しているダニが生きたまま保存されていたと書かれている。ここで驚くべきことが言われている。

人間の時間は、瞬間、つまり、その間に世界が何の変化も示さない最短の時間の断片のつらなりである。一瞬が過ぎ行く間世界は停止している。人間の一瞬は十八分の一秒である。瞬間の長さは動物の種類によって異なるが、ダニにどんな数値を当てようと、全く変化のない世界に18年間耐える能力はダニにはないだろう。ならば、ダニはその待機期間中は一種の睡眠に似た状態だと仮定できる。この状態では人間も何時間か時間が中断される。つまり、十八分の一秒の瞬間の連鎖ではなくなる。この認識から何が得られるか。時間は、あらゆる出来事を枠内に入れるので、出来事の内容がさまざまに変わるのに対し、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だが、いまや我々は、主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。生きた主体なしには時間はありえない。p24

空間にも同じことがいえるとユクスキュルはのちの章で語る。どうであろうか、諸兄、精読の要ありとせざるを得ないではないか。

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紙の本サバイバル登山家

2006/08/15 15:06

登山が文明批評になった

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

面白く読んだ。本書は現代文明をはこう断定する。

都会に生きる人々の大多数は一方的に消費するだけの人間という意味でお客さんである。買い物客、乗客、もしかしたら患者まで、自分で解決する機会を奪われたか、あきらめるようにし向けられてきた人々だ。食料の調達をあきらめてスーパーに買いにいき、自分で移動することをあきらめて電車に乗り、自分で治すことをあきらめて病院に行く。
 僕は街にいると、自分がお金を払って生かされているお客さんのような気がして、ときどきむしょうに恥ずかしくなる。(p250)

 できるだけ(なんでも)自分でやりたいと僕はつねに思っている。山に向かうのも、消費者である日常から期間限定であっても逃げ出したいからなのかもしれない。・・・僕は山では極力お客さんにならないように努めている。(p250)
 スーパーで肉を買い、自分の手を汚さないで食べるほうが、ケモノを殺す狩猟者よりよほど野蛮である、という意見を最近よく聞く。正論だ・・・。(p252)
 自分の食べるものは自分で殺したいという思いから、僕は狩猟の世界に入っていった。・・「生きること=殺すこと」という、都市生活に覆い隠されている大原則から目をそらしたくないからである。(P252)
 都市型生活をする人々は地球環境にとってどこまでもゲストである。自分がこの星のお客さんだおと知るのは悲しいことだ。(p255)
 (1969年生れの著者は)僕らの時代はただ生きているだけでは、何の経験も積み重ねることができない時代なのだと信じていた・・。・・・昔の人間なら生きるだけで深い経験ができたような気がするのだ。
(p248)
 生きるということに関してなにひとつ足りないものがない時代に生まれ育ってきた。それが僕らの世代共通の漠然とした不安である。・・・なにひとつ欠けていないという欠落感を人権だ個性だという自意識教育が煽り立てる。(p28)
 著者はサバイバル登山という概念を提示し、それを実行する。
サバイバル登山とは、(登山のための)道具をひとつひとつ身体から外していくことだった。自分の肉体と山との間に挟まっている物を取り除いていくことで、登らされている部分を排除し、人はもう一度、登るという行為に近づいていった。(p35)
 著者にとって登山とは「生きようとする自分を経験すること。僕の登山のオリジナルは今でもそこにある。僕は自分の内側から出てくる意志や感情を求めていた。」(p30)
 そこで著者は登山によって目的を達成できたのだろうか。
 僕のやっていることは遊びなのだろうか。サバイバルといったところで、あえて自分に課した課題でしかなく、ヘビやカエルを食べているのも、必要に迫られたというより、そんな気分に浸りたいだけなのかもしれない。だが、いま僕を包んでいる暗闇は本物だった。知床の雪床だって本物だった。K2のアタックで見た満天の星空も、インダス川を埋め尽くした蛍の瞬きも本物だった。目の前で岩魚を照らしている焚き火をおこしたのも僕だ。岩魚は僕が殺したのだ。素直、自然、ありのまま、それらの言葉が意味するものは、真実ということに近い。(p64)
「野生動物のようにひっそり生まれて、ひっそり死んでいく。死んだことすらも誰も確認されない。」それは僕が山登りで究極に求めているものの一つだった。・・・誰も助けてくれない。死んでも骨さえ拾ってもらえない。それは思っていたより怖い感覚だった。しかし、そんな状況がほんの少しだけ、自然の掟のなかに入り込めたような気持ちを僕に与えていた。僕は社会的に消えてなくなり、そこで何をしているのか誰も知らない。それでも、二本の足でちゃんと大地に立っていた。世界が広く大きくなったような気がした。
今年のお盆は本書といい、西鶴の感情といい良書に巡り会えわたしは幸せであった。

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古典の威力いまなお有効

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 組織、それなしには現代の人間は生きていけない。家庭も、会社も、同窓会も、オーケストラも、みな組織である。
 バーナードは言った。組織とは目的があり、二人以上のメンバーがいて、役割が定義され、メンバー間のコミュニケーションがあるもの。
 では会社組織は現代社会にどんなポジションをもっているのか。ドラッカーが1946年に本書ではじめてそのことを語った。会社組織はごく最近の現象なのだ。
 分権制、パートーナーとの連携、個人と組織全体との調和、人と仕事、企業利益と社会の利益、雇用と社会などが各章のタイトル。どんな種類のことが述べられているかが分かると思う。

 以下本書で共感したことを列挙しておきたい。()はわたしのコメント。
 マネジメント的視点をもつ責任ある従業員という考えこそ、もっとも重要な考えであって、社会に対する(本書の)最大の貢献であった。

 マネジメントは医学と同じように、基本的に実務であり、科学はその道具にすぎない。
 (科学を道具として使う。どう使うかは個々人の智慧に依存する。智慧は科学ではない。)
 利益とは公益に反するどころか、社会の福祉と存続に不可欠のものである。利益は経済的リスクに対する保険料である。さらには、あらゆる経済発展の基盤となるべき資本形成の唯一の原資である。

 (我々の祖先は利益に偏見をもっていた。我々もそれを受け継いでいる。偏見ならば、我々は偏見から自由にならねばならぬ。)
 企業の存続が社会の利益であるという理解は最近のものである。企業の存続などは社会のあずかり知らぬことであって、企業の存続に意を用いることは国民経済全体にとって害とされていた。この見方は、自由市場における個人営業の商人(会社組織以前の段階)、リカードの仲買人のモデルとする産業化前の古典派経済学のものである。
(古典経済学のみならず、科学は対象領域確定を要する。マルクスは無意識のうちに当時の金本位制を前提に価値形態論を語った。自然科学であれ社会科学であれ、領域設定をよく意識しておく必要がある。)
組織が長期にわたって繁栄を続けるには、組織内の人間が、知的レベルにおいても、自らの能力を超えて成長できなければならない。
(個々の成長が組織の延命に不可欠である。今此処で20年先の彼処を想像できるか、今の時空を越えた構想力を持ち、実際に日々時間を使っているか、という問題。)
 中央のリーダーシップが強くなければ組織は機能しない。同時に現場のリーダーシップが十分に強く、かつ十分に自立して責任を負うことがなければ組織は機能しない。したがってあらゆる組織にとって権力の配分が大きな問題となる。
(権力は組織に不可避的に発生する。分権制でも最終決定者は存在する。それゆえ最終決定者が分権レベルでの決定に従うこともある。我々のリーダー概念はかく開かれているだろうか。)
 そもそも自由経済と市場社会の嫡子としての企業には、社会における個人の位置づけと役割の必要性を考慮に入れていないという弱みがある。市場社会には経済的な報酬以外の基準は用意されていない。・・・・われわれが今日直面する最大の課題は、・・・機会の平等を諦めることなく、無数の人たちに位置づけと役割をあたえることである。
 (企業は個人の利己心の肯定に傾く。くどいほど社会性、公共性、利他心を語って丁度ということか。否、問題は、どんな実践をなしうるかである。)
 ドラッカー先生もわたしらと同じように格闘し、いや、わたしら以上に格闘し、「まぁそんなもんやろー」みたいにして湧き上がる思考停止への誘いを拒否して、考え抜いてきた人だ。
 わたしの事業もドラッカー先生の言われる「企業の最大の課題」に答えるべく努力し続けたい。京セラの創業者稲盛和夫氏の議論とほとんど重なることに驚く。

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いつまで「葦原の水穂の国は神(カム)ながら言挙げせぬ国」し続けるのか

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この20年の日本の低迷は、日本人は自分自身が何をしたいのかを明確にしないことに起因し、さらにそれは天皇制とともに古いかもしれない。それがこの非常に魅力的な本を読んでの深刻な結論の一つであった。
 
 これこれをしたいというのは、自分がどんな欲望を持っているかについて自覚的ということである。これこれをしたいか、したくないかが分からないとは、自分が自分の欲望について意識化していないということである。

 二人連れが昼どきに会話をしている。A「君、昼飯、何にする?」B「何でもいいです、部長は?」A「私はA定食にしよう。」B「わたしもそれにします。いいですか。」という場合のBさんの言説・判断・行動・他者との距離の取り方が日本人の典型だということになる。ところで金泰昌さんはこれは語り合いではないという。わたしもそう思う。同一化でしかない。対話的要素がない。

 行動は欲望という起動力がなくてもできる。上司が命令するか上司に以心伝心で倣えばよい。だがそのとき行動目的は自己目的化し、行動するヒトの動機と行動目的は無関係なもの、必然性のない偶然的なものになっている。なんだっていいのだ。

 1867年以降日本は弱肉強食の国際社会を生き抜くために西欧列強に倣って植民地経営をしようとし結局失敗した。1945年以降日本の上司は戦勝国アメリカであった。アメリカモデルを輸入しこれを手本に日本人は頑張った。手本があれば日本人は頑張る。勢い余って1985年頃日本はアメリカに肩を並べかけた。しかしプラザ合意でボスの窮状を救うために日本は大幅なドル安円高(1ドル235円から1年後には150円に。)を容認した。このとき日本には世界文明において指導力を発揮するチャンスがあった。だが、日本にはその認識が全くなかった。アホな大企業の経営者が「欧米にはもう学ぶものがなくなった。」という言説を豪語と勘違いするのみだった。

 例えば、次のような言説こそをエコノミックアニマルを脱した影響力ある経営者は世界相手に発信するべきであった。

 「これからは成熟経済となる。今までのようなGDP一辺倒の成長路線ではなく、量より質、モノよりサービスを充実させ、低成長でも物心両面の豊かさを多くの人々が感じられるような幸福志向の経済体制に切り替えていこう」

 何故か。

 「葦原の 水穂の国は 神(カム)ながら 言挙げせぬ国」(柿本人麻呂)の枠内にあり続けたからからではないか。何のための経済成長か、何のためのGDP重視か。それらは上司の命令のもとで行うか、もしくはそれらを自己目的化する思考において行うしかなく、こうした習癖から抜け出そうとしなかったからではないか。それが冒頭の「日本人は自分自身が何をしたいのかを明確にしない」という命題に連結してくるとわたしには思われる。

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紙の本市場経済を組み替える

2007/04/22 02:15

自由ではない、自在さこそ。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 内山さんのもっとも重要な概念は、自由ではなく、自在だ。だから響いた。
 50になってから、本気で音楽をやろうとしたのは自在さが欲しかったからだと気づいた。全部自分でやればめんどくさいし、手間がかかる。なかなか上達しない。効率的にインスタントにパッと音楽の世界にいけない。
 しかし自分でコツコツと仕上げる分隅々まで我がものになっているのが分かる。もうかれこれ5−6年になるだろうか。下手ながらバッハやベートーベンが弾けるようになり、コンテストで入賞できるようなったのは、だんだん自在さを得ることができ、練習が楽しくなっていったからだ。(自慢話っぽく聞こえたらそれはわたしの徳のなさ。ご容赦ください。)
 この面白さは手放せない。
 大企業への就職活動をせず、腕を磨くのだ、世渡りできる実力をもった職人になるだと啖呵を切った大学4年の春。その後自分で経営するのを選んだのもお金を儲けるプロセスを上から下まで関与し、最終責任を持つ方が、「掴み」があると直観したからだ。「掴み」と自在さの獲得とは裏表なのだ。
 面子や生涯獲得賃金の最大化や失職リスクの最小化などを考慮した結果大企業のメンバーになるのもいいかもしれないが、自在さはどうなのだろうか。自在さのある大会社があればきっと若人を惹きつけるに違いない。
 いつか内山さんに会いたい。

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紙の本音楽と社会

2005/01/03 14:53

2項対立、逸脱、逃亡

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 二人がこんなことを言っています。

 バレンボイム:僕がat homeな気分になるとすれば、じつはそこに移行(transition)という感覚があるからだろう。すべては動いているのだから。音楽だって移行だろう。流動性という観念としっくりいっているときが、僕はいちばんしあわせだ。

 サイード:アイデンティティーというものはひとまとまりの流れつづける潮流であって、固定した場所や安定した対象に結び付けられるものではないという感覚。それはとても実感がある。

 言葉を発せしめる世界が「流れつづける潮流」だとしたら、記号や言葉にはズレや遅延化が避けられない。しかし人の観念にはズレを無視して論理的に完成させようとする力が働いている。そこへいくと(異文化間コミュニケーションとして)「音楽が、理想的なのは、説明的な観念を必要としない」(バレンボイム)ということになる。文字の呪縛からの逸脱といえるのではないだろうか。しかしそれは「逃げ」(パレンボイム)にもなるというところに本書の複眼的な深さがある。これもまたtransitionの産物といえる。

 最後の最後まで大変面白く、有益で、元気をくれる本でした。自分と響きあう箇所がたくさんありました。エリック・ドルフィーにWhen you hear the music, it's gone in the air. You can never capture it again という言葉がありますが、同じことをバレンボイムも言います。バレンボイムはもっと深くこれを展開していきます。しかもその展開が対立する2項を統合するような仕方で。

 例えば、楽譜の読み方では、ベートーベンが自分に降り来たるまでに読み込み同一化すること、それが楽譜を読むということだ、と言います。作品の書き手(作曲家)と作品の読み手(演奏家)という2項を乗り越えて、統合するそのさまは、小林秀雄の「かむかふ」(「考える」の古形。身を交わすことが「考える」という意味だ、という解釈)を想いおこさせます。一昨年大阪でバレンボイムがシカゴフィルで聴かせてくれたマーラーのサウンドの意味がいっそうよく分かったように思いました。ベルリン国立歌劇場管弦楽団と録音したベートーベンをぜひ聞かねばとも。

 サイードもまた最高です。「音楽という行為にとても重要な一面は、音楽が、なにか根本的なところで、すべてのものを商品化し、社会的に同化することへのたぶん最後の抵抗なのだ…」と語っていて、それは下手なりに自分の弾くチェロの響きに耳を傾けたりアンサンブルの一員として音楽に浸っているわたしの時間と、ビジネスマンとして動いているわたしの時間との違いを思う時、「チェロは逸脱だ」と思うのを別の言い方をサイードがしてくれている、そう思います。しかし逸脱しすぎてはいけない、とも。

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「いき」の構造 他2篇

2003/05/02 10:43

自由な精神がここにある

5人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今までずーっと気になっていた書物ではあったが、こんなに凄いとはつゆ知らなかった。

読み進めばすすむほど、この九鬼周造というひとは、世俗の空気と理論の世界とを自由に行き来できる小林秀雄や宣長級の自由な精神の持った一級の洞察家ではないか、と感心、感心、また感心。

「いき」の四角柱をもっと学びたい。こういう考え方はある事象を概念を使って多様な角度から把握するには非常に優れたアプローチではないかと思う。

2項対立で論を組み立てるのはよくある。ここでも同型の構造(二元論といってもよい)が九鬼周造の思考の軸になっている。しかし驚かされるのは、2項がさらに立体的になって、四角柱や正六面体にまで発展していること。

ある事象に関して、その立体模型に(スピノザの)「度合い」をこの四角柱に位置付ければ、各点を結んでできあがった図形がその人の個性であったり、ある時代でのその事象の位置付けとのちの時代の位置付けとを比較すれば差異の発見につながり、これを唯名論的に比喩できるのではないか、とも思う。たいへんイマジネイティブな議論である。

2篇目の「風流に関する一考察」では、風流とは俗からの逸脱だと語られている。ということは九鬼周造は、資本運動から逸脱しつつ差異を創出する事業実践を夢見るわたくし(たち)の大先輩だということになる。

風流人=逸脱する者とは、語を変えれば、非僧非俗、そはたれあらん、「阿弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」の愚禿親鸞であり、宣長、小林秀雄、中上健次、柄谷行人、諭吉、ガンジー、稲盛和夫、二宮尊徳らの面々。

Oh my goodness

そして「風流」とは、「風」と「流れ」であるとも九鬼周造は語る。これはドゥルーズのスピノザの冒頭「あの人(スピノザのこと)はつむじ風です」を思わせ、「流れ」はドゥルーズの潜勢的な「生成の流れ」に通ずる。


かと思えば、3篇目の「情緒の系譜」では、な、なんとデカルトとスピノザをモロに方法論として使っているではありませんか!!

短歌の分析手法にでっせ。デカルトとスピノザを使っているのだ。老眼過程にある近視性乱視がまん丸になってしまう。

カッコいい。よすぎる。小なる完全性から大なる完全性への移行が善である、まさにスピノザはエチカの世界でござる。

しかも宣長と同様「語義」の確定を、用法例の確認で行うという立場からの、短歌を題材にしての「嬉しさ、楽しさ、悲しさ、嘆き」等々の関係構造の確定、ますます気に入りました。わたしの弱点である短歌鑑賞力強化手引き書でもある。

宣長はこう買いている。

されば諸の言は、その然云フ本の意を考ヘんよりは、古人の用ひたる所をよく考へ
て、云々(シカジカ)の言は、云々の意に用ひたりといふことを、よく明らめ知る
を、要とすべし、言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞こえがたく、又みづからの物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也 (うひ山ぶみ)

巻末で多田道太郎は、九鬼周造がヨーロッパ滞在中ハイデッガーを師とし、パリでの家庭教師は無名時代の若きサルトルであったこと、いくつかの失恋の末、祇園の女性を奥さんにしたなどの話を魅力的に語りつつ、本作品への批評も簡潔にしてポイントを押えている。

皆様、いかがでしょうか。買って読もうという気になりました?

あれこれ飛びすぎてなんのこっちゃ、でしょうか。

さらばじゃ。

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遠い場所の記憶 自伝

2005/03/07 13:35

中東問題を考える前にぜひ本書を

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 サイードは複雑な環境の中に育ったパレスチナ人である。アメリカ市民権をもったアラブ系の有能な事業家の父のもとにキリスト教の環境でエリート教育を受けた。幼少時代に育ったカイロに強い愛着をもち、プリンストン・ハーヴァードで文学者になるための基礎的訓練を積んだのちは、アメリカ人として終世ニューヨークにとどまり、1967年以降はPLOとの距離を保ちつつも「パレスチナ人の物語」を編むことに強い情熱を燃やし、高い知性をもって批評活動を続けてきた。

 その複雑さは自分の名前エドワード・サイードという名を語ることに躊躇した幼年時代にすでに現われている。エドワードという名は、当時の中東で支配的な文化だったイギリス的なものを象徴している。一方、サイードという名は、父のアラブ系の名前である。彼は自分の名前のそうした複雑さが他人からみて奇異に映ることを直観していたので、他人に自分の名前をうまく伝えられなかったのである。例えば私が、父も母も日本人なのにリチャード・大塩という名をもし与えられたとしたらその奇異さ、居心地の悪さは明らかであろう。

 こうした複雑さに、抑圧的な父、極端でアンビバレントな愛情を注ぐ母、その母へ寄りかからざるを得ないサイード、さらに中東戦争の傷はサイード家とその縁者との距離を広げるという難題が加わり、さらにこの人物の独立心と「どこに置いても異質なわたし」という葛藤が加わる。

 しかし本書は白血病によって死を意識した個人としてのサイードがこうした諸問題を和解させつつ、パレスチナ人の物語を提出することである種の普遍性を獲得することに成功した。苦労は人を鍛えるとはまさにこのことだ。その方法は古典に親しみ、音楽に親しみ、出来合の枠組みから逸脱した思考をし、フェアな態度で人と語りあうことに尽きるという意味でわれらを大いに励ましてもくれる。

 最後に、どうしてパレスチナ人の物語が必要なのかについての引用を紹介しておきたい。

 「パレスチナ人による物語の欠如が招いたものは、人間らしい存在としての国際的な認知の欠如であり、その結果、テロリストというレッテルを貼られたパレスチナ人は収奪しても殺してもかまわないかのようなことがまかり通る状況が現出している。これに対抗するには、パレスチナ人にも同じような歴史があり、破壊によって失われたことを悼むべき社会があったことを示す具体性のある『物語』が提示され、そこに生きた男や女のひとりひとりが何を悩み、何を夢見たかということがパレスチナ人自身によって語られる必要があるということである。」
(344ページ)

 してみれば、わたしらもまた蔓延する貧しい知性によるドラマやあたたかみのない感性の露出する世間に抗して自分たちの物語を編む必要があるといって差し支えないだろう。

(訳者の力量にすばらしさに感嘆したことも付け加えておきたい。)

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紙の本日本語の起源 新版

2004/04/11 21:19

本居宣長の後継者かもしれない

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 丸谷才一さんの「輝く日の宮」で文法が読解に欠かせないことを知った。新聞で丸谷さんが本書の著者大野晋さんの説に従い「もののあはれ」を古典タミール語から定義し直している文を読んだ。本居宣長全集を読むと、この大野晋さんが解題を書かれているのを知った。自分の使っている古語辞典の編者のひとりが大野晋さんであることも知った。源氏物語を原文で読みつつあるのだが、助動詞の使い方その他の古文法を復習せねばと思い、著者の「古典文法質問箱」を読んだ。「この人はただものではない」と思った。

 そんな背景においてこの本を手にした。その学説は衝撃的であった。諸学一般にも言語学にも無知なわたくしが論評などできるわけがない。すくなくともbk1にある大野晋さんの書物21冊すべてを読んでおくことが自分の人生に必要だと思った。若い頃タミール語が日本語と同系の言語だという大野晋さんの説は読んだことがあったのだが、その頃は単なる知的好奇心の域を出なかった。こんな驚きはもたなかった。わたくし自体も変化したのであろう。

 生涯をかけた古事記の徹底的な読みから日本人の原像を取り出そうとしたのが本居宣長だとすれば、大野さんはその宣長の古事記の世界を理解した上で更に深く遡ろうとされた。その結果がこの本ではないか。それがわたしなりの読解であった。柄谷行人さんの東アジア世界を前提して日本史を考えるという地理的スケールを抜いて、南インドから東アジアまでをひとつの世界として捉えている。

 日本語とタミール語の類似性とはどれほどの範囲でおっしゃているか、というと、
1.単語の対応
2.文法の比較
3.墓、墓地
4.生活慣習の対応関係
5.精神生活
に及んでいる。少し例をあげると、

1.単語の対応
巻末に500語ほどの対応表が掲載されている。生る・成る、勝つ、神(かむ)、米、定め、好き、知る、白、遊ぶ、足、咲く、高い、樽、亡ぶ、あはれ、轍、畑、田んぼ、稲、餅、粥、穂、早稲、墓、カネ(金属の意)、織る…。
2.文法
分類法の類似、語順、係り結びの存在、助詞・助動詞の存在、そしてなんと、驚くべきことに五七五七七までも対応する。
3.墓、墓地
甕棺、集合墓地、支石墓、土器のグラフィティ(一種の象形文字)
4.生活習慣
妻問い婚、夕占(ゆふけ)など。
5.精神生活
天(アメ)、神、祭り、祓い、寂び、恥、悪し、など。

 大野晋さんは先にも言ったように古語辞典の編者であり、筑摩の宣長全集では解題を書かれている。更に岩波の日本古典文学大系の古事記と日本書紀を執筆された実力者である。それほど古語に詳しいオーソリティと言ってもいい人が60歳になってから日本語とタミール語は同系の言語ではないかと思いはじめ、学会からはボロクソに言われてもめげずにインドに留学してタミール語を学び、その学説を更に展開し、その領域は考古学にまで及んでいる。その学問もさることながら、生き様にも学ばねばならない。

 まことに恐れ入るばかりのエライ人である。余談ながらわたくしの尊敬する吉川幸次郎先生も宣長全集の解説に登場しており、大野晋さんの解釈について論じていたが、先生も大野晋さんには一目置いていたのがよく分かる。

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紙の本噤みの午後

2003/12/28 18:55

今後がますます楽しみ。

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 こういう会社員稼業をやっている人が、自分ひとりで、永遠にむかって、誰という特定の聴き手がいるのではないが、誰と特定できそうなほど固有の周波数で、前向きに、自分自身、自分を取り囲む物、人、風景について、静かに語りかけていて、それが世間から評価されているのを確認できるのは、作者の四元さん同様ビジネス社会の住人である中年のわたしらには大変楽しく、勇気づけられもする。四元さんは、ドイツに18年(?)ほど暮らしている大手製薬会社の40代半ばの中堅社員で、詩を書くのはいつも早朝、出勤前だそうである。

職場での仕事は
プールならぬ情報の
高速かつ大容量の流れに身を浸すこと
それに対するわたしたちの無意識的身体的反応
すなわち心拍数の変化や瞳孔の収縮や脳波の震えぐあいが
さらに新たな情報として採取され送信されて
壮大な規模による集団思考が
繰りひろげられているという話だが
その主題が明らかにされることはなかった

(「水浴市民」より)


生と死の垣根を軽々と越えて
あの時ぼくは自分がある高みに達していることを感じていた
あ、ぼくの時代にはまだ無意識とかユング派とかなかったですから
あなたがそう呼びたいのなら深みと言っても構わないけど
とにかく問題はね

生身の人間はそんな瞬間には留まれないわけでしょう
いつだって日常という名の
この身も蓋もない散文的な現実へと押し戻される
詩的瞬間のうっとりとした思い出を永遠のブローチに入れて
汗臭いシャツの下にぶらさげたまま
淡々と余生を過ごす

そんなのは真っ平御免さ

(「薄情」より)

ここからアウシュビッツまでは僅か五十キロ
六万五千人が住んでいたという旧ユダヤ地区には
いまだに所有者の行方が分からぬままに
売却も取り壊しもできない古い(星のついた)建物が残っている
二十一世紀のゴーストタウン
ゲシュタポの本部に使われていたという黄色い建物の前に
ゴミの群れはひっそりと横たわり
どこからかハードロックの音楽が響いてくる

(「Krakow・POLAND」より)

喋りながらわたしはだんだん馬鹿らしくなってしまう
美術評論家ではあるまいし、こんな技術論を交わすためにハマショイに出てき
てもらったわけではないのだ
わたしが本当に訊きたいことは——、
だがどうやって言葉にすればいいのだろう
問いかけと答とが見つめあったまま口を噤む謎の前で

(「噤みの午後」より)

どうです。なかなかいい掴みをしてはるでしょ。応援するつもりでもう一冊「世界中年会議」というのも買いました。そこらへんの文芸評論家や大学の先生なんかよ
りも「世間」から制約を受け「書くこと」について真剣にならざるをえない分しっかりした思考と文体を作っておられる。次の作品にも期待したいものです。

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アメリカの会社とつきあうにはまず本書を読んでから

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 ウチの会社はアメリカ人とのつきあいが深く、且つ、頻繁である。交渉するたび、
話をするたびに、「アレッ」と思うことが多い。例えば、契約書を交わす機会が多
いが、彼らは、法律用語については弁護士に頼るものの、その内容については、
彼らの常識、即、法律みたいな感じがあるのが不思議だった。その答えは本書に明
快に述べられている。

 「そこには、慣習法を中核とするコモンローの伝統があるように見える。政府が
諸制度を細目まで法令によって整備するのではなく、民間の商取引における慣行
や取り決めが先行し、それが実務面で受け入れられ定着していれば、事実上の標
準(デファクトスタンダード)として法制的に追認される。それに対して日本の
商法などは限定列挙主義であり、条文に書かれていない商行為や契約は無効とさ
れる」。p81


 この本は、岩井克人さんの「会社はこれからどうなるのか」の読後のノリで、たま
たま読み始めたのだが、大変面白い。株式会社論は岩井克人さんの本でも述べら
れているが、この本は大部な分(487ページ)説明が詳しい。事業経営のうえ
で、アメリカ人とつきあううえで大変参考になる。

 株価形成の理論の部分は、実務的に不案内なので、財務顧問をしてもらっている先生に解説をしてもらって理解を深め、将来あるかもしれないM&Aに備えておこうと思うほどである。

 この本のいいところは、単に実務的であるばかりか、アングロサクソンモデルの
淵源まで辿っており、委託ー受託の関係がゲルマン法、ローマ法まで行き着くこ
となどの記述のあること。

 副題は「株式資本主義のカルチャー 貨幣としての株式、法律、言語」であるが、「貨幣、法律、言語」というあたりはポスト構造主義的な匂いが漂っており、その期待を裏切らない確からしさと深さを持っている。例えば、資本論でマルクスが語る物神性は、ケインズの流動性選好によって同じことが語られているという記述には目からウロコであった。

 著者の渡部亮氏は、去年まで野村総研のヨーロッパ社長を勤めた人。今年から法
政大学の教授の職にある。こういうビジネス経験があり、且つ、思想史にも強
い人が日本の言論界にいちばん求められているように思う。世間に跋扈するウ
ケ狙いを専らとする底の浅い迎合派経済評論家どもを一刻も早く叩きだしてもら
いたいもの。とはいえ、自分の頭を使わず「有名」ブランドの言説に頼るアホな経営者がいっぱいおるから、そうはいかんでしょうが。

 蛇足ながら、「貨幣としての株式」という捉え方は、柄谷行人さんがどう評価するか聞きたい。NAM運動は「通貨としての貨幣」に依存しすぎているように思われるから。

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紙の本五重塔 改版

2003/03/11 12:51

圧倒的なデーモンの力

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最後のくだりを紹介する。

暴風雨(あらし)のために準備(したく)狂ひし落成式もいよいよ済みし日、上
人わざわざ源太を召(よ)びたまひて十兵衛と共に塔に上(のぼ)られ、心あって雛憎(こぞう)に持たせられし御筆に墨汁(すみ)したたか含ませ、我この塔に銘じて得させむ、十兵衛も見よ源太も見よと宣(のたま)ひつつ、江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す、年月日とぞ筆太に記し了(おわ)られ、満面に笑(えみ)を湛へて振り顧(かえ)りたまへば、両人ともに言葉なくただ平伏(ひれふ)して拝謝(おが)みけるが、それより宝塔長(とこしな)へに天に聳えて、西より瞻(み)れば飛檐(ひえん)ある時素月を吐き、東より望めば匂欄夕に紅日を呑んで、百有余年の今になるまで、譚(はなし)は活(い)きて遺(のこ)りける。

幸田露伴がこれを書いたのは明治24年ごろ、舞台は徳川時代の江戸。100年以上前の出来事という設定。書かれた時期が今から100年以上前で、テーマはさらに100年前の話しである。十兵衛を襲った内側から突き上げるパワー、そして、塔が完成したあとの嵐の凄まじさ。時間を超えてこの小説が我々に与える圧倒的なデーモンの力はどうだ。それゆえの静と動の鮮やかな対比。

この塔は実際に谷中に建っていたそうであるが、焼失したという。幸田露伴がこの小説を書いた時点ではこの塔は在ったらしい。この塔にまつわる言い伝えを取材して、人物像を造型してできたのがこの小説ということになる。口承である。

巻末に桶谷秀昭さんの解説がついている。「ところで十兵衛は、その後、どうなったであろうか。偉業をなしとげた職人として、輝かしい棟梁の生涯を送ったであろうか。私は気抜けしたようになって、もとの『のつそり』十兵衛に戻ったか、菰をかぶって路頭に迷う境界におちぶれたかもしれない。」という読み方に賛成である。世間というものはヒトや自然に潜むデーモンを統御しようとするものなのだろう。

露伴のこういう文章に触れると、「読んでよかった」と心底思えてくる。言い換えはできない。読んで感じるしかない。それが芸術だ。確か小林秀雄も言っていた。

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