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先月(2017年2月)

越知さんのレビュー一覧

投稿者:越知

148 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本ルポ貧困大国アメリカ

2008/02/07 19:12

新自由主義のアメリカは反面教師である。

29人中、20人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 新自由主義の浸透によってアメリカで貧富の差が拡大し悲惨な状況が広がっていることはわりに知られてきているし、私自身もBK1書評でエーレンライク『ニッケル・アンド・ダイムド』を紹介したが、日本人にはやはり日本人ジャーナリストが書いた本のほうが分かりやすい。このたび岩波新書から格好の書物が出たので紹介しよう。
 本書のすぐれているところは、具体例を挙げて貧困の実態を分かりやすく提示すると同時に、データを示してアメリカの悲惨さがどれほどの広がりを持つかを有無を言わせず納得させてくれるところである。
 例えば、「貧困」の定義。4人家族で世帯年収2万ドル(220万円)以下なら「貧困」、そしてその家庭の子供が「貧困児童」、というアメリカ国勢調査局の定義を用いている。それによれば、2005年度の貧困児童率は実に17,6%、つまり児童の6人に1人が「貧困児童」ということになり、しかも2000年度に比べると実に11%も増えているのである。おまけに2006年度には6000万人のアメリカ国民が1日7ドル以下の収入で暮らしているのだ。この数値を見て異常だと思わない人がいるとしたら、それは「異常」という語彙と感覚を知らない人間だけだろう。
 それに対して、アメリカは移民の国であり、現在ならヒスパニックなど不法に流れ込んでくる人間が多いから貧困も当然だという見方もあるかも知れない。ところが不法移民が多いのはなぜかというと、実はこれが新自由主義のせいなのである。アメリカは一方で農産物の自由貿易を唱えながら、自国の農業には補助金を出している。このいわば二枚舌の政策によってメキシコ農民はアメリカから入ってくる安価な農作物に市場を奪われ、職を失い、やがて土地をも手放さなくてはならなくなる。挙げ句の果てにアメリカに密入国する羽目になるわけだ。ヒスパニックがアメリカに向かうのにはそれ相応の理由があるのである。
 しかも、そうして何とかアメリカで暮らすようになったとしても、アメリカの医療システムは金持ちだけのことを考えて作られているので、おちおち病気にもなれない。アメリカが先進国の中で唯一、国民全体をカヴァーする医療保険を持たない国であることは、先ごろ映画『シッコ』が公開されてよく知られるようになった。本書でもそこから生じる悲劇が紹介されている。共産主義キューバからやってきた家族の1歳の子供が医療保険がないために医者にかかれず死亡したという。キューバなら助かった子供が、アメリカに来たばっかりに助からなかったというわけだ。ちなみにアメリカの乳幼児死亡率は1000人中6,3人で、先進国中では第1位という不名誉な数値も挙げられている(日本は3,9人)。
 医療についてはこれ以外にも種々データが示され、いかにアメリカがこの面で後進国であるかが鮮明に浮かび上がってくる。例えば盲腸で手術を受けて入院すると、都会だと1日入院しただけで100万円以上、ニューヨークなら200万円以上とられるが、日本なら4、5日入院しても30万円を超えることはない。病院は株主の利益を上げることを第一に考えて運営されているため(これまた新自由主義イデオロギーの浸透のためだ)医療過誤も非常に多い。なおかつ医療保険は個人が自分の判断で加入することになっているので、貧乏人は加入できず、無保険者の数も増大している。現時点で4700万人もの無保険者がいるという。WHOが2000年に出した統計では、アメリカの医療サービスのレベルは世界で37位にすぎない(日本は10位)。超大国の内実がよく分かる数値であろう。
 こういう悲惨な現実を見れば、新自由主義とは何であるかは明らかだ。新自由主義アメリカの後追いを推奨するのは物事を考えない人間のやることである。悲惨さを自ら招来するような真似はただちにやめるべきだ。
 本書でも言われていることだが、医療と教育に関しては「民営化すればうまくいく」という理論は破綻している。健全な競争社会を作るためには、健康を守り、自分の能力を向上させる手段を平等に保たなければならないのである。そのためは、医療と教育は公的なシステムで行うことが前提となる。
 本書で惜しむらくは、最後のあたりで憲法9条を守れ式の左翼的なイデオロギーが出てくることだ。アメリカの軍隊に入った日本の若者を紹介する箇所でのことだが、赤木智弘くんの例(『若者を見殺しにする国』についての私のBK1書評を参照)を見れば分かるように、食いつめた人間は何だって考えるし何だってしかねないのである。平和を守るのは憲法の条項やお説教ではない。厚みのある中流階層を基盤とした、最低限の医療保障や教育保証のある社会こそが、長期的に見て平和を保つのに寄与するのである。左翼の人たちにはそのことを肝に銘じてもらいたいものだ。
 ちなみに、新自由主義者とは対極にある立派な日本経済人のあり方が、以下のサイトで紹介されている。足立誠之氏の「ある日本人が西半球で投じた一石」であるが、「自分さえよければ」という醜悪な新自由主義者とはさっさと縁を切り、このような立派な経済人をめざせ、と日本の若者には言いたい。
http://www.nishiokanji.jp/blog/

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自分の目で過去を見、自分の頭で歴史を考えるために

21人中、19人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 歴史学は何のためにあるのだろうか。現在の自分の位置を客観的に見るためにある。しかし逆に、現在の自分の位置から見える歴史もたえず揺れ動いている。新しい史料の発見や考古学的な成果によって過去が見直されることもあるが、と同時に、今を生きる人間の考え方が変化したがために過去も変化する場合がある。典型的なのは、近年のいわゆるポストコロニアリズムによる歴史の見直しであろう。欧米によるアジアやアフリカの植民地化が「非文明地域を文明化する行為」として正当化された欧米中心史観は、いまや通用しなくなっている。ところが日本では専門的な歴史学者にまだまだ左翼的な体質が色濃く残っているせいか、その種の歴史の見直しを「歴史修正主義」などと称して非難する人が少なくない。特に不思議なのは、ポストコロニアリズムは19世紀から20世紀半ばにかけての欧米中心的な世界秩序を現在の目から批判する態度から生まれ、またそうした批判的態度を育成してきたのに、日本の歴史学者はなぜか昭和初期の日本とアジアとの関係などに限定して、つまり日本の対アジア戦略を批判するためにだけポストコロニアリズムを用い、欧米の対日戦略についてはポストコロニアリズム以前の思考法に終始する場合が珍しくないことだ。
 こうした旧弊な歴史観に異議を唱え続けてきた人に西尾幹二氏がいる。西尾氏の専門は歴史学ではなくドイツ文学であるが、そうであるがためにかえって歴史学者の狭い専門性――師の意向に従わないと専門家として認められない――を脱し、広く柔軟な視点で物事を考えることが可能になっている。或いは、西尾氏の専門とするニーチェが最初は古典文献学(実証的歴史学の親戚のような学問)の教授としての道を歩みながら、やがてそこから脱して歴史主義批判を敢行したことにも関係しているかも知れない。ここで言う歴史主義とはマルクス主義のような「歴史は一定方向に進歩する」という見方ではなく、ランケに代表されるような、各時代は各時代ごとの真実を持つという考え方である。ニーチェはそうして過去への「理解」に終始する態度が今現在の人間の生き方を弱らせるとして痛罵した。一見するとニーチェの批判は西尾氏の言論活動の逆のように見えるかも知れない。しかし歴史を見るとは現在の基準で過去を裁くことではなく、その時代の人々がどういう考え方のもとに生きていたかを再現することだという西尾氏の主張は、歴史観が国際政治のみならず内政にも影響を及ぼす昨今の風潮と深くつながっている。かつての日本人がどういうふうに世界を見ていたかを知ることは、今現在われわれが世界をどう認識すべきかという問いに直結するのであって、誤った歴史観のもとに生きるならばそれは現代人の自発性をすら損なうことになるからである。
 前置きが長くなりすぎたが、西尾氏がまた注目すべき本を出した。第二次大戦後に日本を占領したGHQが日本人に読ませまいとした書物をリストアップし、そこから何が見えてくるか、つまりGHQが日本人に押しつけようとした歴史観がいかなるものであったのかを明らかにしようとする試みである。
 と書くと、戦時中の狂信的な「鬼畜米英」的な本ばかりを再読したものと思う人もいるだろうが、そうした人は先入観を捨てていただきたい。GHQに「焚書」された本の中にはたしかにその手のヒステリックな本も少なくないが、西尾氏は冷静に事実や国際戦略を叙述する本だけを選んでおり、そこから意外な視野が開けてくることは間違いないからだ。
 一例を挙げよう。オーストラリアの位置である。この国が長らく白豪主義、つまり白人中心的な政策をとってきた事実は知っている人も多かろう。しかしそれが単なる原住民抑圧政策と言うにとどまらず、20ないし100万人いたと推測される原住民の大虐殺――その結果2万人しか残らなかった――でもあった事実を知っている人がどの程度いるだろうか。そこから、インディアンを虐殺して建国を進めたアメリカとの類似性がまず見えてくる。そればかりではない。オーストラリアは日本の南進政策を恐れていた。と書くと、これまた侵略的な日本にやられることを恐れたと思う人もいるかも知れないが、そうではない。オーストラリアはニューギニアを領土にしようともくろむなど、ヨーロッパ植民地主義の体質を持っていた。第一次大戦で日本が(日英同盟により連合国側に味方して)中国大陸のドイツ領である青島を攻めた際には、その勢いで日本がさらに南下してくるのではないかと恐れたのである。そうした日本恐怖症の体質を持つオーストラリアが、英国とアメリカの結節点となり日本を封じ込めつつ第二次大戦に至った過程については、本書をお読みいただきたい。
 もう一つ例を挙げるなら、真珠湾攻撃についてアメリカ人の書いた本が取り上げられている。驚くべきことだが、昭和16年12月に行われた真珠湾攻撃を考察した英語の本が、昭和18年4月に邦訳出版されているのである。アメリカ側が真珠湾攻撃をどう受け取ったかを、一部の専門家のみならず一般の日本人が知ることができたという事実は、戦時中の日本の知的環境が決して盲目的なものではなかったことを示している。
 最後に、GHQによる焚書に東京大学の学者が協力したらしい事実をも西尾氏は明らかにしている。「アメリカの占領政策に無抵抗でいちばん脆かったのは、残念ながら指導階級ではなかったかと思います。ことに知識人、学者や言論人といった知的指導階級の弱さは恥ずかしいばかりです」と氏は書いている。そうした流れは、アメリカの新自由主義に盲目的に従う現代日本人に連なっていよう。西尾氏の書物には、他者に従属することなく絶えず自分の頭で物事を考える真正な知識人としての精神が息づいている。欧米中心史観の奴隷になりたくない日本人はまず西尾氏の本を熟読すべきであろう。

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卓見を随所にちりばめた絶望の書

20人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 装丁を新たにした岩波新書の第一弾として刊行された書物である。あとがきには、2001年以降の自分の仕事を分かりやすくまとめたものだ、と書かれている。
 最初に私事を記すことをお許しいただきたい。私は柄谷が評論家としてデビューした頃からその活動をずっと追ってきたが、2000年の『可能なるコミュニズム』『原理NAM』『倫理21』を最後に読むのをやめている。だから岩波の著作集には目を通していない。最近『近代文学の終り』を読んだ感想はこのBK1の書評に記したとおりである。
 なぜ読むのをやめたかというと、あくまで「国家」を敵視し、「可能な」コミュニズムを追求する柄谷の姿勢に違和感を禁じ得なくなったからだ。一定の抽象性を保った議論としてなら面白いが、現実と接点を持つ活動や政治的提唱となると首を横に振りたくなる。当時の柄谷はNAMなどの具体的な活動に熱中していた。そして(言うまでもなくと言いたいが)見事に失敗したのである。
 さて、この『世界共和国へ』である。タイトルや副題だけ見て目を背ける保守派の方々には、先入観を持たずに読んでごらんなさいと薦めたい。逆に、確固たる新しい展望が提示されているのではと期待する左派の方々には、心を引き締めて読むよう助言したい。
 なぜなら、これは大いなる絶望の書であるからだ。2000年段階での柄谷は、生活協同組合にコミュニズムの可能性を見いだそうとしていたし、「国家」の廃棄をあくまで執拗に追い求めていた。しかし本書ではそうしたスタンスに少なからぬ変化が見られる。
 まず、生活協同組合によるコミュニズムの可能性は明快に否定されている。プルードンによって提唱されマルクスによっても受け継がれたこの思想は、そもそも産業がマニュファクチュア段階にあった時分に考えられたもので、その後の高度な資本主義段階にあっては協同組合は私企業に太刀打ちできなくなる。柄谷は言及していないが、これは戦後日本の生活協同組合の歩みを見ても分かることで、現在大学などに残っている生活協同組合は一般のスーパーに限りなく近づいているし、100円ショップなどの進出によりその存在基盤を脅かされている状態なのである。
 また、「国家」の廃棄にしても、柄谷はそうした方向性を捨ててはいないが、実現は容易ではないという認識に到達している。それはロシアや中国、その他途上国で実現した革命を見ても分かるとおり、社会主義は国家廃棄につながるどころか、むしろ逆に国家を強化するものでしかないからだ。また、地球のグローバル化によって国境が解消されていくのでは、とする近年の「帝国による国民国家の解消」説をも明快に否定し、かつてナポレオンの帝国主義が他民族の国民国家形成をむしろ促したという事実などをふまえて、国家が他国家との関係において存在するものである以上、経済が国家を解体することはあり得ない、と断じる。その際に、B・アンダーソンの言う「想像の共同体としての国民国家」説を援用し、「想像」に積極的な近代的価値観を見て、単に国民国家をフィクションとしておとしめる見方を斥けているのも注目される。
 その他、我々が漠然と抱いている歴史観を転倒させるような卓見が随所にちりばめられていて、いわば柄谷らしさがよく出た本であると言えよう。
 私はこの本が絶望の書であると述べた。柄谷は最後に日本国憲法第9条と国連を引き合いに出して、この方法によるしか国家揚棄の道はないととってつけたように書いているのだが、私は残念ながら同意しかねる。ただし、カントを引用しつつ、国家並立による戦争や大規模資本主義による環境破壊を防ぐために、「一つの世界共和国という積極的理念」ではなく「持続しながら絶えず拡大する連合という消極的な代替物」に希望を見いだそうという箇所には、共感できると言いたい。

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紙の本常識はウソだらけ

2008/01/30 11:24

捕鯨問題早わかり

18人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 オーストラリアで政権が交代したせいで、またぞろ南極海での日本の捕鯨が槍玉に挙げられるようになった。ここで注意したいのは、従来の保守政権は日本との関係を重視してあまり事を荒立てなかったのにたいし、左翼政権に代わったとたんにこの有様だということである。日本でなら、左翼は弱者の味方だから、鯨食文化のような非欧米系の文化に理解があると思われるかも知れないが、事実は逆であり、左翼は進歩史観を奉じているためにむしろ欧米中心主義=白人中心主義になりやすいのである。19世紀にヨーロッパがアジアやアフリカを植民地にしていた時代にも、ヨーロッパ左翼は植民地主義を批判するどころか、むしろそれを正しいと見なしていたことは知っておくべきだろう。
 閑話休題。捕鯨問題について手っ取り早く分かる本が出たので紹介しよう。ジャーナリスト日垣隆氏の『常識はウソだらけ』である。TBSラジオの「サイエンス・トーク」という番組で、日垣氏は毎回ゲストを呼んで話を聞いている。そのなかから8回分をよりすぐって書籍化したものである。そういう成り立ちの本だから、捕鯨問題だけを扱っているわけではないが、全8話のうち2回がこの問題に充てられている。
 第5話は「動物保護運動のまやかし」と題されて、ジャーナリストの梅崎義人氏がゲストに迎えられている。梅崎氏はもともと時事通信社に勤務していたが、捕鯨問題をライフワークと見定めて退社し、水産専門のジャーナリストとなった人だ。ここでは鯨だけではなくタイマイ(海ガメ)についても語っている。タイマイは日本のべっこう細工の原料であるが、ワシントン条約で輸入が禁じられてしまった。ワシントン条約とは、動植物の取引に関する国際条約であり、絶滅の恐れがあるものについては輸出入を禁止している。しかし問題は、この条約が科学的な根拠に基づいて取引禁止生物種を決定しているのかどうか、というところなのである。この条約には科学委員会が設けられており、そこでは絶滅の心配がないとされていても、本会議ではそれが通らない。タイマイについて言えば、原産がキューバであり、アメリカにとって目の上のたんこぶの国家であるという理由が大きいという。つまりキューバが外貨を稼ぐ手段を封じようというわけだ。本会議はしばしばそうした大国の政治的思惑が優先し、科学的な正論がねじ曲げられてしまう。同じような理不尽さは、アフリカ象についても見られるという。
 科学委員会の正論が通らないという点では、国際捕鯨委員会も同じである。ここでも(国際捕鯨委員会の内部に設けられている)科学委員会が捕鯨の全面禁止を決定したことは一度もない。なのに本会議ではそれを無視した決定がなされてしまう。
 以上から分かるように、野生動物保護の問題は、実はエコロジーの問題というよりは、国際政治上の欧米中心主義・対・非欧米系諸国という側面を濃厚に持っているのである。
 日垣氏の本に話を戻すと、第6話では小松正之氏がゲストに迎えられている。水産庁漁業交渉官として反捕鯨国と渡り合った人である。鯨の資源量は減っていないという事実、そして水産資源の中で鯨だけを保護すればむしろ生態系のバランスを崩すという指摘も貴重だが、国際会議におけるEUの重みと、非欧米国の代表がいかにEUに気を遣っているかという体験談も面白い。国際社会は多数の国が同等の権利で交渉を行う場ではなく、欧米中心に回っているわけだ。19世紀のヨーロッパ植民地主義時代からあまり変わっていないと言っていい。そうした構図を頭に入れておけば、「捕鯨はケシカラン」という欧米人の主張がどういう場所から出てきたかは明瞭となるだろう。
 なお、本書で捕鯨問題をさらに詳しく知りたくなった人には、梅崎義人氏なら『動物保護運動の虚像』(成山堂書店)、小松正之氏なら『よくわかるクジラ論争』(成山堂書店)をひもといてみることをお薦めする。

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中南米に左翼政権を続出させた新自由主義の矛盾

16人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 米国(本書は中南米諸国家を扱っているので、誤解を避けるためにアメリカ合衆国をこう表記する)は民主主義の国だということになっている。無論、これを文字通りに、いわば純粋に受け取る人はほとんどいない。歴史をひもとけば、この地で黒人差別やアジア人差別が横行していた事実は歴然としているし、そもそも米国自体が、アメリカ大陸の原住民をだまし討ちにしたり虐殺したりして作られた植民地国家だからである。
 しかしそれを別にしても、米国が中南米でいかに横暴に振る舞ってきたかを知る日本人は多くないだろう。この点について分かりやすく解説した新書が出たので紹介しよう。
 現在、中南米には左翼政権を有する国家が多い。自由主義の権化である米国の身近な国家群がなぜ左翼政権になってしまうのだろうか? 答は米国の横暴のためである。米国が過去に中南米の諸国家にどれほど無法な口出しをし、それどころかCIAを用いた裏政治工作や海兵隊を用いた軍事介入を行ってきたかは、本書を読めば一目瞭然である。
 まず、前提として、米国が南北アメリカ大陸をどう見ているかを知らなくてはならない。世界史を高校でちゃんとやった人なら、モンロー主義という言葉を覚えているだろう。ヨーロッパがアメリカ大陸の政治的動きに対して口出しをするのを拒否し、逆にアメリカ大陸側もヨーロッパの政治には口出ししないとする第5代大統領ジェームズ・モンローによる演説のことだ。ふつう、モンロー主義は相互不干渉を訴えているから米国の孤立主義を表すと思われている。ところが本書によるとそれは誤りなのである。あくまでヨーロッパ大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を訴えているに過ぎないから、米国がアメリカ大陸の他国家に口出しするのは構わないのであり、むしろモンロー主義によって米国は自分がアメリカ大陸内の政治を仕切ると暗黙理に宣言していることになるという。
 実際、本書で米国の悪辣なまでの中南米への侵略・介入・政治工作を見れば、それもなるほどと思えてくる。典型がメキシコ侵略である。現在の米国テキサス州はもともとはメキシコの国土であった。しかし人口が少なかったので米国人の入植者が入り込み、お人好しのメキシコもそれを支援した。やがて米国人入植者が多数に及ぶと、テキサス独立の動きが出てくる。有名な「アラモの砦」は、テキサス独立を「応援」するためにデイヴィ・クロケットなどの米国人が駆けつけてメキシコ軍に殲滅された戦いである。この「アラモの砦」をいわば「真珠湾」のごとくに愛国心高揚の手段とした米国は、メキシコを攻めて大勝する。テキサスは独立するが、やがて米国に併合されて州となってしまう。現在は米国領であるカリフォルニアも、同様の手段でメキシコから奪ったものである。
 他方、中南米に左翼政権ができると米国は露骨な介入を行う。例えばチリに1970年、アジェンデ左翼政権ができた。新政権は銅鉱山など資源産業の国有化をはかった。当時銅山はほとんどがアメリカ企業の支配下にあった。それどころか銀行以外のチリの大企業18社はすべて米国多国籍企業の子会社だった。アジェンデ政権の前の政権がケネディ大統領の政策を受け入れて外資導入政策をとったためにそうなってしまったのである。さて、米国はアジェンデ政権の企業国有化政策に対抗して経済封鎖措置をとった。それだけではない。CIAによって反アジェンデ陣営と軍部に資金を供与し、軍部によるクーデターを起こさせる。こうしてチリには抑圧的な軍事政権が誕生し、17年間も続くのである。のみならずアジェンデ政権の閣僚だった人物を暗殺させるなどの工作をも米国はやっている。
 チリはほんの一例に過ぎず、また最近の新自由主義政策の前触れにすぎなかった。1990年代に入ると、新自由主義的な経済政策が米国の圧力によって中南米に浸透し、その結果として地場産業は倒れ、失業者は増え、格差は拡大した。せっかく育ってきた中間層が貧困層に転落してしまう。当然ながら国民の不平不満は高まる。こうして左翼政権が続々と誕生していった。新自由主義が格差拡大によって中南米にイデオロギー的に正反対の左翼政権を生み出しただけだったということは、日本人もよくよく覚えておいた方がいい。
 ことは中南米だけにとどまらない。ハワイにしても、もともとは独立国だったのが、戦略上重要な地点にあるために、テキサスと同じようなやり口で米国領となってしまったものである。当時、ハワイ王は米国の動きを封じようと、明治天皇に王位継承権を持つ王女と日本の男子皇族との結婚を申し入れたが、残念ながら実現しなかった。日本が米国に対する戦争を始めたとき、米国は「真珠湾」を合言葉にしたが、もともとハワイは米国の領土ではなかったわけで、戦争時点ではまだ準州扱いであり、正規の州に昇格したのは戦後になってからである。ハワイの先にある国、それが日本であることは言うまでもない。
 こうした一連の米国の行動を知っておけば、現在の新自由主義政策にともなう日本への要求が何であるかも見えてくるだろう。日本人の新自由主義者がディヴィ・クロケットの役割を果たしていることも明瞭だ。むろん、世界一の超大国をいたずらに敵視するのは賢明ではないし、本書もそんなことを主張してはいない。要するに世界は米国ではないし、米国の侍従でもないのである。米国のやり方に盲従するのは物事を考えない人間のやることなのであって、自国の政策はあくまで自分で決めるという基本を忘れなければいいだけの話である。政治の目標とはいつでも最大多数の最大幸福なのであって、一部の人間だけが富み栄えることではないのだから。

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紙の本よくわかる慰安婦問題

2007/07/27 16:17

慰安婦問題を考えるにあたっての必読書

17人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

米国の下院で日本のいわゆる従軍慰安婦問題に関する非難決議が行われようとしている。この決議が事実をふまえたものでないこと、つまり日本軍による朝鮮人従軍慰安婦の強制連行などは存在しなかったことは、すでに日本では主流な見解になっているが、あらためてこの問題を分かりやすく解説した本が出たので紹介したい。
 従軍慰安婦論争は93年の河野談話によって火が付けられた。政治家としてまことに不用意な「談話」を出した河野洋平の責任は重大だが、その後の様々な調査によっても、韓国人慰安婦の強制連行が検証されるどころか、むしろその逆の事実が浮かび上がってくるばかりなのである。
 例えばよく名が出る金学順。彼女は雑誌『宝石』92年2月号に載ったインタビューで「自分は40円でキーセンに売られた」と語っている。要するに売春施設にお金で売られましたと言っているのであって、日本軍に強制連行されたなどとは一言も言っていないのだ。同誌に匿名で載った他の二人の慰安婦の発言も同様である。
 金学順が元従軍慰安婦として名乗り出たのはその一年前の91年8月だが、それを報じたのは朝日新聞で、その記事は「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人慰安婦』」と書かれており、強制性が強調されていた。
 ところが、同じ頃に韓国の左派系新聞に載った金学順の記者会見記事では、「生活が苦しくなった母により14歳で平壌のキーセンに売られた。日本軍相手にキーセンの修業をした」となっており、上述の『宝石』と同じ内容になっている。
 ではなぜ朝日新聞の報道だけが違っているのか? これについて著者は、記事を書いた植村隆記者の捏造だと断じている。著者は以前からこの点について雑誌や単行本に書き続けているが、朝日新聞からの反論や訂正や誤報への社内処分などは一切ないという。報道機関としての朝日新聞の見識が問われるところであろう。
 話を金学順に戻す。以上のように当初の彼女の証言は強制連行などとは無縁であった。ところがその後彼女の証言は少しずつ変わっていく。91年12月の証言では「売られた」という言葉が省かれる。さらに西岡氏が『文芸春秋』92年4月号で証言には強制性がいささかも含まれていないことを指摘すると、92年7月から始まった韓国人学者による聞き取り調査では、日本軍人に暴力的に連行され娼婦にされたという内容に一変してしまう。この変化が何に由来するかは明らかだ。日本の左翼ジャーナリストや弁護士が慰安婦問題で訴訟を起こせと策動しており(この点についても本書では明快に説明されている)、それに合うような形に修正していっているのである。
他にも強制連行されて慰安婦にされたという証明がなされた例は皆無であることが、きわめて分かりやすく解説されている。
 一方、慰安婦を強制連行したという旧日本軍人の証言はどうか。有名なものとしては吉田清治の告白があるが、これは秦郁彦の調査によりそのインチキが暴かれた。本書でも簡潔に説明されているが、詳しく知りたい方は秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社)を読まれたい。
 もう一つ、41年に陸軍が朝鮮総督府に8千人の慰安婦派遣を依頼したという関東軍参謀・原善四郎の証言がある。千田夏光『従軍慰安婦』により有名になった話だが、これについても原の間近にいた軍人からの反証があり、また千田が原に直接ルポをしていない疑いもあって、信じるに足りないという。
 以上は本書の内容のほんの一部である。他にも65年の日韓基本条約で支払われたカネのうち民間賠償に充てられた分や、日本外交の拙劣さなど、貴重で基本的な指摘が多い。慰安婦問題を考える上での必読書と言えよう。

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紙の本フィンランド豊かさのメソッド

2008/07/28 15:22

愛情と冷静を両立させつつフィンランドを紹介した好著

16人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 フィンランドと言えば、2004年度のPISA(OECDによる子供の学力調査)で世界一となり一躍注目を浴びたことが記憶に新しい。当時、PISAの話題に言及した書物を私もBK1書評で取り上げた。そこでも書いたことだが、教育はその国が持つ社会体制全体の中でなされるものであるから、教育だけ切り取って論じたり、いわんやそれだけ日本に輸入しようとしてもうまくいくはずがないのである。しかしフィンランドの全体像を日本人がどのくらい知っているかとなると、私を含めてはなはだ心許ない。今回その穴を埋める書物が出たので紹介したい。
 著者は日本の大学を出てからフィンランドの大学院に留学し、その後あちらの企業に勤務している方である。
 まず、フィンランドの強さは子供の学力だけではない。世界経済フォーラム(WEF)による国際競争力調査によると、2001年から2004年まで第1位を続けている。その後やや順位を下げているものの、それでも2006年で第6位に入っている。競争力って、フィンランドに何か有力な産業があったっけ、と思う日本人も多いだろう。この国の主要産業は、森林業、金属・エンジニアリング、ITと3つある。もともと森林には恵まれた国だから森林業は分かるが、ITはどれほどなのか? 世界の携帯電話市場では、フィンランドの企業ノキアがかなりの占有率を誇っている。2007年度第4四半期の世界携帯電話端末の販売台数ではノキアが40%を占め、ダントツの第1位だという。日本でこのメーカーの知名度がさほどでないのは、日本の通信システムがヨーロッパと違っているためにノキアがあまり入ってこられないようになっているからだ。
 もっとも、フィンランド経済も絶えず好調だったわけではない。1990年代初めに一度経済危機に見舞われている。しかし対応策がしっかりととられたために立ち直ったということのようだ。詳しくは本書を読んでいただきたいが、人口が500万人で日本の20分の1以下だから簡単には比較できないけれど、参考にすべき部分があるはずだ。
 さて、気になる教育だが、特にスパルタ式で勉強をやらせているわけではない。小学校6年間と中学3年間は日本と同じ。週休二日制で夏休みも2カ月半あり、秋休みやクリスマス休み、スキー休みと休暇が多い。1日の授業時間数も日本と変わらず4~6時間である。したがって1年間の授業時間数で言うと、ゆとり教育の日本よりさらに少ない。そんなフィンランドの子供の学力はなぜ高いのか?
 大きな違いは、まずクラスの規模。1クラス平均25人。また学校そのものの規模も小さく、少し田舎では複式学級が当たり前なのだそうだ。次に教師の質。教師は最も人気のある職業であり、基本的に修士号を持っていないとなれない。また学力・知力だけではなく、他の面をも含めた適性検査にパスしないと大学で教職課程を受講できないという。三番目には、私立校が存在せずどこの学校でも質的に同じだというタテマエが守られていること。そして授業についていけなくなった生徒には特別補習授業を受けさせて落ちこぼれないようにとの配慮がなされる。要するに飛び抜けた秀才を育てるより、落伍者を出さないというシステムであり、それが平均学力の高さにつながっているのである。なお、均質な教育がしやすいのはヨーロッパの他国に比べて移民が少ないからだという指摘もなされている。しかしフィンランドでも現在移民が増えつつあり、この点で将来どうなるかは予断を許さないという。
 教育で他に注目すべきは、小学校3年生で英語を習い始め、高学年で選択ながら第二外国語を、中学高校では第三外国語を学ぶところだ。したがって英語とスウェーデン語くらいは誰でもできて当たり前であり、それ以外にドイツ語やフランス語ができる人も珍しくないという。フィンランド語はもともとヨーロッパ語系の言語ではないから、例えば英語国の人間がフランス語やドイツ語を学ぶのは日本人に比べて楽というような意味での有利さはない。したがって、小国だから外国語を身につける必然性が高いという理由を別にすれば、日本との教育システムの違いはここでも大きい。
 産業や教育以外にも、さまざまなフィンランドの特質が落ち着いた視点で観察され、長所と欠点が過不足なく紹介されている。外国のことを紹介する本は、得てして相手国の美質ばかりとりあげて絶賛するか、或いはその逆にくさすだけに終わるかになりやすいものだが、著者はいずれにも偏することなく、記述にも肩の力が抜けていて説得力が高い。
 例えば出生率の問題では、フィンランドでも一時期かなり低下していたものの、その後手厚い子育て保護政策がとられたために最近は1,8になっていると述べた後、「逆にこれだけ支援制度が整っていても、それだけの理由で子どもを産む人が劇的に増えるとは限らないというのも事実だ」とコメントしている。また、男女平等政策で、北欧の国らしく仕事も家事も男女平等がかなり浸透していると述べてから、フィンランド女性の「日本の女性は結婚したり子どもを産んだりすると仕事を辞めてしまうのはかわいそう」という声を紹介した後、日本人女性は忙しく会社で働くよりも主婦業をして趣味にも時間を使い幸せに暮らしている人も多いが、子どものころから夫婦で仕事をするのをみて育っているフィンランド女性には働かないと人間としての価値がないように見えるのだろうとコメントしている。いずれも性急な結論を出すことなく大人の視点で物事を観察する著者の真骨頂があらわれた箇所だ。著者はフィンランドに多大な愛情を注いでいるが、「恋は盲目」に陥ることがない。外国を紹介する書物はかくありたいものである。

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学者のウソ

2007/05/03 19:35

フェミニストが学者失格であることを明らかにした快著

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 近頃は学者の権威も地に墜ちているようだ。研究内容や研究費使途のごまかしなどが次々と露見している時代である。そのこと自体は結構なことだと思う。わけも分からず書物を完全に誤読して書評を書き著者にイチャモンつけるような輩は論外であるが、学者の発言を盲信するのではなく、正しいかどうかをきちんと吟味し、信用できる学者とそうでない学者を見分け、なおかつ信用できる学者にはそれなりの処遇をすることが、日本全体の知的レベルを高める道であることは間違いないからだ。
 その意味で注目に値するのが本書である。学者の発言や研究内容に遠慮会釈なく異議を唱えているのだ。無論、わけが分からずそうしているのではなく、きわめて筋道の通った議論を展開している。
 少し前まで長野県知事を務めていた田中康夫がダム建設を認めない政策をとっていたことは記憶している方も多いだろう。ダムは害の方がはるかに大きく、むしろ「緑のダム」(森林のこと)によって治水利水は可能だとする立場である。しかし田中は一人でこの政策を進めたわけではない。ブレーンとなった学者がちゃんといたのだ。国立大や有名私大の教授たちであるが、著者は彼らの提言を様々な角度から検討し、「実践は不可能」と断定する。はっきり書けば、森林をダムの代わりにするという考え方自体がトンデモだということである。幸いにして田中は選挙で敗れて知事の座を降りたが、この提言をした学者の責任はどうなるのだろうか。著者はそこを鋭く突いている。
 本書の中で特に注目すべきは、フェミニストに対する容赦ない鉄槌であろう。例えば現在日本では少子化が大問題になっているが、男女平等政策が少子化を促進することはあってもその逆はないことが赤川学『子供が減って何が悪いか』により明らかにされている(BK1での私の書評を参照)。そこでは外国の統計を引用する際に日本のフェミニスト系学者が意図的に操作を行い、男女平等政策が少子化につながることをごまかそうとした事実も指摘されている。
 ところが上野千鶴子・東大教授はそのことを糊塗しようとしてトンデモナイことを言っているのだ。「だがこの仮説〔男女平等政策で少子化は防げるという説〕の根拠となった統計を作ったのはフェミニストではなく人口学者である。(…)人口現象はあまりに複雑すぎて何が原因かを突きとめることができない。(…)だから極端に言えば、〔少子化対策は〕やってもやらなくても同じと言える」。
 最初の文章がおかしいことは誰でも分かるだろう。統計を作ったのが他人であれ、それをごまかして利用した者の責任が軽くならないことは自明だからだ。また最後の言い分については掛谷氏は、複雑だと言うなら社会現象はすべて複雑なのであって、だからやってもやらなくても同じというなら社会学者は必要ない、上野氏はすぐに学者の看板を下ろさなくてはならなるまいと痛罵している。まったく同感であると同時に、上野氏のようなお粗末な言説を弄する「学者」が日本一と言われている大学で教授職に収まっている現状からして、日本はまだまだ知的レベルが高いとは言いかねると思い知るのである。
 フェミニストのおかしさはこれだけではない。厚生労働省の会議に集まったフェミニストたちは、取ったデータは自分たちの主張に都合が良ければ外に出すが、そうでなければ別方面から自分たちの主張を通していこうなどと話し合っている。しかもそれを議事録にそのまま残しているのである。データを出す出さないはすべて自分の主張に都合が良いかどうか次第というのは、学者ではなく悪質なデマゴーグの考え方であるのに、学者失格を証明する言動を残しておいて問題ないとするところからして、彼らが学者でも何でもないことは明らかだ。こうしたエセ学者を見分ける作業は、これからますます重要になってくるだろう。本書の一読をお薦めする所以である。

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紙の本漱石文明論集

2007/04/18 12:05

漱石の「自己本位」は新自由主義じゃありません。

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 漱石や鴎外の生きた明治時代、国費でヨーロッパに留学できるのは限られた超エリートだけであった。今のように高校生でも修学旅行で海外に行く時代ではない。山崎正和は有名な『鴎外・闘う家長』のなかで、生ま変わったばかりのひ弱な国家=日本が、留学生たる鴎外(森林太郎)に「頼むよ」と手をかけているように思われたと書いている。そして医学を専門とした鴎外にとって留学の意味は自明であった。先進国からすぐれた知識を学び、それを祖国のために役立てればいいのである。
 しかし漱石にとって留学の意味は必ずしも明瞭ではなかった。なぜなら彼の専門とする文学は医学と違ってその効用がはっきりしていないからである。文学なんかやって食っていけるか、というのは昭和になっても放蕩息子に頑固親父が投げかける決まり文句として通用した。しかし先進国たるヨーロッパは効用のはっきりした学問だけでなく、文学や美術などの分野でも応分の投資を行っていたから、日本も文学分野で留学生を送ることになった。鹿鳴館で外見だけヨーロッパを真似て失笑を買った政策とどこか共通していたかも知れない。
 漱石の悩みは、そうした背景の中で見れば明治の日本にあって生まれるべくして生まれたと言えるだろう。彼は結局は帝国大学の教員ではなく一介の小説家となったが、当時帝大教員と小説家では月とスッポンくらいの違いがあったのである。無論向こう見ずで作家になったわけではなく、朝日新聞社社員として安定した給与を得られるという確証があってのことだが、その頃の立身出世の観念からすれば明らかに漱石の人生行路は世間の価値観から逸脱していた。
 といって、漱石を今風の「自分の好きなように生きる」という観念の先駆者と思うのは早計である。文学分野であれ、当時稀な国費留学生として英国に行ったからには、応分の勉強をしなければならない。矛盾しているようだが、私的な分野である文学を勉強して何らかの公共性を追求しなければならないのだ。明治人・漱石はそうした公共性を自明のこととして受け入れていた。
 『私の個人主義』にはそうした漱石の考え方がよく出ている。ここで言う自己本位とは国家や公共性という観念が今とは比較にならないくらい強かった時代におけるプライヴェート宣言である。今どきの新自由主義的な自己本位とはわけが違う。個人主義という言葉自体を悪とする風潮が強かった頃の講演なのである。漱石はこの講演の後半で恵まれた階層である学習院(学習院大学ではない。学習院が大学になったのは戦後である)の学生に対して英国の例を引きながら、自由と秩序の両立を訴えているし、また金力には責任が伴うとも述べている。つまりノブレス・オブリージュ(高貴なるがゆえの義務)だ。これまた「自分さえよければ」の新自由主義とは相容れない。
 漱石はこうして時代の矛盾のなかで苦しみ悩みながら生きた。そして49歳でこの世を去った(このくらい知っておかないと一流大学には受からないよ、受験生諸君)。
 昔の人の文章を読むというのは、こういうことである。時代には時代ごとの支配観念があり、人はそれに従ったり逆らったりしながら生きる。書かれた文章もしかり。背景をふまえて読む能力がないなら、古典なんか読まないことだ。左翼がなぜダメだったかと言えば、何でも階級史観で捉え、それにはまらないと「保守反動」で済ませていたからだ。時代は変わった。そうなると逆に分からないことは何でもサヨクで済ませる輩も出てくる。昔の左翼と今の新自由主義者には、実は相当に重なる部分がある。注意しよう。

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日本の教育が危機的な状況にあることを知るために。

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 教育危機を扱った本である。というとそんな本は巷にあふれているという声が聞こえてきそうだ。しかし長年高校教師を勤め、また「プロ教師の会」の重要メンバーとして現場から意見を述べ続けてきた著者の見識にはだれもが一目おかざるを得ないだろう。
 例えば「ゆとり教育」対「学力重視」という、世間を騒がせた対立軸がある。私自身、ゆとり教育には重大な疑問を抱き、文科省の軌道修正を良しとしてきた。しかし著者によると「ゆとり教育=学力低下」という図式に還元してしまうこと自体が誤りなのであって、文科省のゆとり教育政策は現状認識と意図に限定する限りは悪くなかった、と評価する。ただし、だからといってゆとり教育を肯定しているわけではない。学校にゆとり教育を導入すれば「生きる力」がつくというのは無論バカげた話なのであって、本来そういうものは社会の中で生きながら獲得していかなくてはならないのだ。ではなぜ文科省はそういうバカげた政策をとったのか。学校の中に消費社会が乱入して生徒の質が変わってしまったからだ(この点については『下流志向』に関する私の書評を参照)。
 加えて、学者や評論家にも学校をそういうベクトルでしか捉えられない人間が目立っている。本来教育世界は消費社会や利益優先の資本主義とは相容れない部分があるのだが、それを無視したリバタリアンが教育を論じてしまっている現実がある。
 少し前、加藤寛や渡部昇一といった論客がどんな主張をしていたか覚えている方がいるだろうか? 彼らは、公教育より塾や予備校の方が効率的であり学力向上に役立つのだから、教育を自由化して塾や予備校にも学校と同じ地位を与えよと言っていたのである。しかし著者は、これを現場を知らない人間の妄言として一蹴する。塾や予備校の存在意味は認めるが、しかしそれは公教育と相補的なものであり、一方だけで済むものではないと言うのである。教育とは、教育に向かおうとする心性を子供に持たせるところから始まるのだが、現状ではそのこと自体にかなりの時間と手間がかかる。ところが予備校や塾は、初めからそういう心性が子供にあると前提している。子供にそれがあるのは、しかし実は公教育が苦労してそれを身につけさせているからなのだ。
 消費社会の浸透によって、いかにそういう心性が損なわれているか、本書には実例が多く挙げられている。最後近くに世界各国の高校生と日本の高校生との比較データが載っているから、多忙な方はここだけでも読んでいただきたい。自宅学習の時間が壊滅的に少ないのもさることながら、人間としての心構えのようなものからして問題があるのだ。
 例えば「尊敬する人は」という問いに、アメリカと中国の高校生は科学者や政治家や芸術家を挙げるのだが、日本の高校生はミュージシャンやプロスポーツ選手を挙げる。「尊敬」という言葉は本来、必ずしも十全に理解できなくとも世の中のために尽くしているとイメージできる人に向けられるはずなのに、日本では身近な、子供にもよく分かる存在にしか目が行かないわけだ。若者をターゲットにした消費社会の中でいかに子供が変容しているかが分かる。一部社会学者は、戦後間もない頃の日本は中進国として先進国を目標に国全体が邁進していたのだから、当時の教育と今のそれを同じレベルで捉えるのは間違いだと主張する。しかし近代化に長い歴史を持ちシニカルな個人主義の国というイメージが定着しているフランスと比較してすら、日本の高校生は社会への関心が薄く、自分自身の殻に閉じこもろうとする傾向が顕著なのである。
 繰り返す。効率や学力だけで教育を論じるのは大間違いである。これからの教育政策はそのことを大前提にしなければ、日本という国の根幹が揺るがされる事態になるであろう。

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紙の本歴史学の名著30

2007/11/10 18:57

歴史家は慧眼でなければつとまらない。

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 新書ではときどき特定分野の名著をまとめて紹介する本が出る。かつては中公新書が得意な分野で、歴史学でも樺山紘一『現代歴史学の名著』が出ていた。最近は新書でそういう本があまり出ないのが寂しいと思っていたところ、それをカバーするかのように、東大教授・山内昌之氏の『歴史学の名著30』がちくま新書として新たに登場したのはうれしい限りである。
 まず、扱われている歴史書の幅の広さがすごい。まず時代の幅。ヘロドトスやトゥキディデス、司馬遷といった古代から始めて、第二次世界大戦を回顧したチャーチルや近年注目を浴びているアナール派のブローデルに至るまでを取り上げている。
 地域の幅の広さもこれに劣らない。新井白石や内藤湖南といった日本史家や、ブルクハルトやランケといった西洋史の大家は言うまでもなく、中国や朝鮮やヴェトナム、さらには著者の専門であるイスラムからも選ばれている。文字通り、世界史を知るための名著が目白押しなのである。
 紹介されている名著のどれに興味を覚えるかは読者により様々であろうが、ここでは私の目に付いた2冊に触れておこう。
 まず、潘佩珠(ファンボイチャウ)の『ヴェトナム亡国史』がフランスの植民地支配の実態を暴いていて啓発的である。1884~85年の清仏戦争の結果ヴェトナムはフランスの植民地になってしまったのだが、フランス人の悪辣なやり口はまさに残忍非道であった。ことにその重税には目に余るものがあり、田畑税、人頭税、家屋税、生死税、契約税、人事雑税、商業税、市場税、塩酒税、寺社税、製煙税・・・・・・まだまだあるのであるが、これだけ取ったら後に何も残らないのではないかと言いたくなるようなひどい搾取がなされていた。おまけに、これではもう頭上の天しか売るものがないと愚痴ったヴェトナム人に対して、フランス人は「天を売った」との証文を書かせ、以後空の下を歩くのを禁じたという。フランスというと革命と人権の国というイメージが強いが、その人権が自国かせいぜい欧米にしか適用されない概念だったことは明白である。
 しかも、著者はここでヴェトナムと日本に領有された台湾とを比較し、同じ植民地であっても台湾は天国のようだと述べているのである。無論日本を手放しでほめているわけではないが、昔日の日本の植民地政策を客観的に評価する手がかりがここにあると言ってよい。少なくとも戦前の日本の政策を百パーセント悪とするような見方がいかに世界史的におかしいかが分かるはずである。
 アイザィア・バーリン『父と子』の紹介も教えられるところの多い章であった。バーリンのこの書物はロシアの文学者トゥルゲーネフの小説『父と子』によってタイトルを付け、トゥルゲーネフをきわめて説得的に分析した書物だという。小説『父と子』は私も昔読んだけれど、極論を吐いて自己満足しているロシア知識人の肖像画程度の読後感で終わってしまっていた。しかしバーリンによればトゥルゲーネフこそ当時のロシアにあって最も良心的な知識人であり、過激な左翼の持ち出す理想論と現実べったりの保守主義との間にあって、そのいずれにも与しない漸進的な自由主義を説き、逆にそれがために両極端の思想家たちから攻撃されたのであった。現実を良いものにしていく力を持つのはこの漸進的な自由主義だ、というバーリンの指摘にはうなずけるところが多い。バーリンの書物を30冊の歴史書に敢えて入れた歴史家・山内氏の慧眼に敬服した箇所であった。

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紙の本強欲資本主義ウォール街の自爆

2008/12/26 19:08

病めるアメリカ経済の本質をえぐる書物

12人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 サブプライム問題をきっかけにアメリカ経済が大失速し、世界的な不況に突入してから数カ月。世界経済が上向きになるまでまだしばらくかかりそうだが、こういう事態になったそもそもの原因――つまりここ10ないし20年のアメリカ経済のどこがどう問題だったのかをきちんと見届けておく作業は、日本が同じ轍を踏まないためにも絶対に欠かせない。その作業の手助けになるのが本書である。著者は長らくNYに住み金融関係の仕事をしてきた方である。
 本書を読んで考えさせられるのは、銀行は何のためにあるのか、投資や金融の本来の目的は何なのか、ということである。つまり、経済とはそもそも何のためにあるのかという問題なのだ。それは、言うならば「人は何のために生きるのか」と同じで、いわば哲学的な問題である。こういうことを書くと大げさだと言われるかも知れない。しかし、経済が人間の生活に深く関わっている以上、こうした哲学的な問題を考える能力のない人は経済に手を染める資格もないと言うしかない。
 著者は書いている。アメリカでは頼りがいのあるバンカーがいなくなりつつあると。こう聞くとびっくりする人も多かろう。世界中のカネが集まってくるアメリカになぜ頼りがいのあるバンカーがいなくなっているのか、と。答えは、大口で「今現在自分がもうかる」取引にしか興味を持たないバンカーがほとんどになってしまっているからだ。本来、小さな会社の将来性を見通してその企業を大きく育てていくというのが銀行の重要な役割の一つであるのに、その役割を放棄してしまっているのである。
 ある企業の収支を改善するとき、その企業の業務内容や将来性などさまざまな要素を勘案して解答を出そうとすれば、バンカーによって意見の違いが出てきて当然なのだが、現在のアメリカでは誰がやっても同じ答えしか出さないという。新製品を開発するというような未来への危険を伴う投資はせずに、現行のコストをカットし従業員の首を切るといった、誰でもできる財務内容の改善策しか出さないのだ。それは銀行に勤務する一流ビジネススクール卒のエリートたちが今現在自分が成功するという近視眼的な考えしか持たないからだという。
 そうしたバンカーの硬直した手法が、アメリカにおける物作りがダメになった理由の一つである。自動車産業についてはすでにビッグスリーの惨状で事態は明らかだろう。顧客のニーズを敏感に捉えてクルマを開発し販売するという根本的な姿勢が欠けているが故に、ビッグスリーはトヨタを初めとする外国車の進出に敗北したのである。
 電機産業も同じである。ゼネラル・エレクトリック(GE)はアメリカを代表する電機メーカーであったが、今年5月、ついに家電部門を売却すると発表した。現在のGEで家電部門は収益の14%を占めるに過ぎず、最も大きな収益を上げているのは金融部門だという。ここからも明らかなように、アメリカは徹頭徹尾物作りができなくなっている。
 物作りを支援しない銀行や投資が行き着く先はどこか? サブプライムローンである。ローンを返済できそうもない貧しい人たちに多額の借金を背負わせる詐欺的な手口についてはすでに明らかになっているが(本書でも分かりやすく説明されている)、その根本にあるのはモラルハザードなのである。「今日のもうけは僕のもの、明日の損は君のもの」という論理が横行し、違法すれすれの、その場でのもうけを追求するやり方が蔓延している。実際、アメリカ金融家のそういった手法に乗せられて巨額の損失を出した日本企業も少なくない。その実例や手口は本書をお読みいただきたい。
 そればかりではない。そうした違法すれすれの利己的な手法で巨額の冨を稼いだ人間が、アメリカでは政府高官にまでなっているのである。なぜか。実はそこにもさらなる利益を稼ぐための方策があるというのだから、驚いてしまう。これについても本書をお読みいただきたい。
 物作りができなくなったアメリカは金融立国をめざしたが、あえなく挫折した。アメリカの預金保険公社の予測では、今後2年間で90ないし300のアメリカの銀行が破綻するだろうという。1人あたり10万ドルまでの預金は預金保険公社が元本を保証しているから、預金者から見れば安全かも知れないが、銀行の破綻処理をする公社は税金によって動いている。著者は、アメリカの住宅金融証券市場は実質的に国有化されたと述べて、資本主義の行き着く先が金融市場の国有化とはなんたる皮肉かと結んでいる。
 人ごとではない。バブル崩壊時の日本でも有力銀行が破綻し、その処理には日本国民の税金が多額に使われている。そして挙げ句のはてに外国資本に超安値で売却された。税金の無駄遣いを言うなら、役人攻撃をやるよりこうした近年の経済政策をまず糺すべきだろう。「不況でもどこそこにカネが沢山ある」などと見当はずれのことをのたもうている輩は経済が分かっていないのだ。カネは、健全な投資対象があってこそ活かされるのであり、健全な投資対象を育てない金融関係者は詐欺師に近いのである。
 先に発表されたように、国民一人当たりのGDPでは日本はすでに世界十位以下に転落しており、「もやは経済大国ではない」という言い方もなされるようになっている。バブル以降の日本経済を考えるとき、レーガノミクス以後のアメリカ経済理論の猿真似をしてきた経済学者や新自由主義者が何をしたのかは、今となっては明白だ。なお、本書はこの点についても、いわゆる前川レポートと下村治氏の経済理論を対比させて明快に論じている。一読をお薦めしたい。

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旧ソ連地域の現在がよく分かる本。

13人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ソ連が解体してロシアを初めとするいくつかの国に分裂してから十数年になる。しかし共産主義のくびきを逃れて新しく出発した国々の事情が日本で一般によく知られているとは言いがたい。今年になってこの穴を埋める優れた書物が、新書という入手しやすい形で出たのはありがたいことだ。ここに紹介しておこう。
 旧ソ連地域が理解しにくいのは、まず多数の国に分裂し、その分裂した地域が異なる宗教や文化的背景を持っているために互いにいがみあう場合が珍しくないこと、そして中心にあるロシアもそうした紛争を自国に有利なようにと利用しがちであることがある。しかも、そもそも国家として承認されていない地域が国家として名乗りを上げているので、事情はいっそう複雑になる。
 例えば「沿ドニエストル」と「ナゴルノ=カラバフ共和国」という未承認国家の例に第2章で言及がなされている。いずれも日本ではなじみのない名前で、よほど旧ソ連地域に興味のある人でないと「なんだ、それ?」と思うところだろう。しかし本書での叙述を読むと、民族や言語や経済事情などによって分離独立を表明したこれらの「国家」と、分離独立を認めまいとする「本国」との微妙な関係が分かりやすく説明されているので、読者は改めて国際問題の複雑さを思い知らされることになるだろう。
 また、これらの「国」に「入国」する苦労をも著者は語っている。というのも、これらの「国」からすると独立しているという建前だから「入国」するのに査証が要るわけだが、「本国」からすれば独立を認めていないのだから査証の存在をも認めるわけにはいかない。これらの「国」の査証がパスポートに貼ってあったりすると「本国」に戻ったとき逮捕されかねないのだが、そこはよく考えられていて、査証はパスポートに貼られない一枚の紙で済ませ、「本国」に戻ったらそれを処分してしまうことが可能なのだという。つまり本音と建前の使い分けである。独立と非独立との区分けの曖昧さ、パスポートと査証というものの巧妙な使い方は、海に囲まれて国境の存在を日ごろあまり意識しない日本人には考える材料を与えてくれるだろう。
 エストニア・ラトヴィア・リトアニアのバルト三国についても簡潔に紹介されている。1939年、ソ連とナチスドイツとの密約によってソ連になし崩し的に編入されたこれら三国は、ペレストロイカ期に独立し、その後もヨーロッパへの接近をはかっている。そのため逆に国内のロシア系住民は反発し、国内での摩擦を生んでいる。面白いことに、バルト三国は歴史博物館を作って、ナチスと共産党の大虐殺を展示しているという。ナチスもソ連共産党も、これらの国にとってはほぼ同じような抑圧者であったという認識がそこにはある。
 しかし、旧ソ連地域で共産党が一方的に悪者とされているわけではない。むしろ日用品の安価さや社会保障の存在、貧しくても意欲と能力があれば高等教育が受けられる制度などをなつかしむ声が強いという。新しい政権もこうした声を汲み上げていかないと安定した未来を作ることは難しいだろう。西側諸国から見るのとは違い、共産主義は現地ではそれほど大きなマイナス評価を得ているわけではないのだ。
 さて、やはり日本人にとって一番気になるのはロシアの動向であろう。プーチンの強権的な政治、今も残るKGB的な体質についてかなりのページがさかれているし、日本語で読める各種文献の紹介もなされているのはありがたい。ロシアはGDPでは20年後にはドイツを抜いてヨーロッパ第一位になると予想されているし、原油生産量では現在サウジと並んでいるし、天然ガスの埋蔵量では世界の4分の1強になるという。資源のない日本としてはロシアとの関係を従来にも増して重視していかざるを得ないだろう。旧ソ連地域は概して親日的だという指摘もなされているとはいえ、扱いにくい強権的な大国ロシアといかに付き合っていくか、一筋縄ではいくまい。それを考える出発点として本書をお薦めしたい。
 最後に、三十代半ばの女性研究者である著者が、旧ソ連地域で何度も危険な目にあいながら――著者のそうした体験も本書に紹介されている――研究に打ち込み、すぐれた書物を上梓したことに敬意を表したい。

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フランスの移民問題がよく分かる本。

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 移民問題はヨーロッパにとってきわめて重く本質的である。一方では自らの植民地主義が招いた結果でもあるが、労働者不足を補う手段という点からすれば先進国に共通する問題であり、また別の視点から見れば人権意識を持つ先進国と標榜してきた自分たちの本質を問われる場面でもあるからだ。
 かつてのバブル時代、日本でも労働者不足から移民を導入しろという経済界の声が大きかった。その時は、労働者不足という理由だけで安易に移民を導入するなら、犯罪者の増大や国内の文化的統合性の喪失といったマイナス要素を抱え込むだろうという西尾幹二氏の警鐘もあって、またやがてバブルが崩壊して逆に就職難が言われるようになったこともあって、移民問題は棚上げとなった経緯がある。しかし最近の少子化でまたぞろ移民をという声が高まっている。
 移民導入の是非は難しい問題だが、単純な人道主義や労働力不足解消だけで片づけるなら将来に禍根を残すことは明らかであり、最低、ヨーロッパの先例を十二分に検討してそのマイナス面を知っておく必要がある。
 さて、前置きが長くなったが、フランスの移民問題を知るのに格好の一冊を紹介しよう。新書というコンパクトな形でこのテーマを扱った『移民と現代フランス』である。
 まず最初のあたりを読むと、戦後30年ほどは労働力不足を補う目的で積極的に移民が導入されたが、オイルショックによる経済不況で転換期を迎えたこと、しかし移民を帰国させようとした政策はうまくいかず、その後は迷走状態にあることが分かる。例えば国籍である。私は、フランスは国籍については生地主義、つまりフランスに生まれれば自動的に国籍が取れるものと思い込んでいたのだが、実はそうではなく、外国人の子供は16歳から21歳の間に申請しないと国籍が得られないとする法律が93年に成立しているのである。その後若干の修正が施されたが、大筋では変わっていない。また97年には移民の滞在許可証も更新が認められなくなり、いわゆるサン・パピエ(英語ならwithout paper、つまり「書類無し」)が大量に出てくる。その後いくぶん緩和されたものの、これまた基本的な部分では変わっていないらしい。いずれにせよ、政権が交代するたびに法律がくるくる変更される有様を見れば、移民問題がいかに難しく厄介なものであるかが分かるだろう。
 第二章以下は、移民へのインタビューを中心に、フランスで彼らがいかに差別を受け、困難な暮らしを強いられているかが語られる。むろん移民といっても置かれた立場や意見はさまざまである。逆に言えば、移民に対する政策的な対処も多様でなくてはならず、ここにも困難さの種があるということだ。
 例えば同じ移民でも、モハメッドといったいかにもイスラム系の名を持つと就職が困難になり、ピエールやポールといったフランス人的な名だと容易になるとか、アフリカ系は嫌われるがハンガリーやポルトガルなどのヨーロッパ系だと歓迎されるとか、意外なことに(?)アジア系というと頭脳優秀と思われやすい、といった実態が語られている。建前上は差別をしないはずのエリートですら露骨な差別をする場合があるなど、フランス人側の問題点も手に取るように分かる。
 また教育問題で言うなら、移民が多い公立校は嫌われ、私立校に生徒が流れるという事態が起こっている。移民ですらわが子に将来を託す親なら私立校に入れるという。このように移民問題は決して「みんな仲良く」とか「世界市民」といったキレイごとのスローガンでは済まないのである。
 本書は基本的に移民側の視点で書かれているが、それがかえって面白いと思われるのは、移民が近代的な価値観に異議申し立てをし、著者も「近代」を必ずしも守ろうとはしていないことだ。典型的なのは一夫多妻に関する記述だろう。フランスでは93年の法律によって一夫多妻を禁止した。このため移民の第二夫人以下の既婚女性は滞留許可証がもらえなくなり、生活が不安定になった。また、かつてなら平均寿命が短く子供の数も多かったから夫婦は子供を独立させるころに寿命が尽きたが、平均寿命が延び子供の数も少なくなった昨今では一夫一婦制は愛情の倦怠を伴いやすく、ために現代フランス人は愛人を持つことが多くなっているから事実上の一夫多妻制ではないか、といった愉快な反論も紹介されている。
 また、「同化」に関する移民の意見も多様である。自民族の文化を捨ててヨーロッパ文化に同化するのは悪だという意見が――移民に限らず――あるが、移民でも同化を積極的に肯定し、ヨーロッパの中で生きていこうとするなら同化は当然だとする意見も少なくない。そうした移民は、多文化主義(一つの国の中に多様な民族の多様な文化がある状態を肯定する考え方)を標榜する左翼を批判し、同化を呼びかける右翼を支持するのである。移民だから右翼を嫌うとは限らないのだ。また、左翼はインテリの建前臭が強く、理論と行動との懸隔が大きいことも移民の左翼嫌いにつながっているようである。
 移民はフランスで差別されやすい。しかしそれでも故国に帰ろうと思わない、なぜなら故国ではフランス以上に希望が持てないからだという。アフリカ諸国は60年前後に次々と独立を果たしたが、それから半世紀近くたってもアフリカを脱出してフランスにやってくる移民がこうした発言をするのを本書で読むと、日本が明治維新によって近代化に成功したことの重みが改めて感じられるし、移民問題の隣には近代化できないアフリカという別の厄介な問題が存在していることが切実に伝わってくるはずのある。

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アメリカ下層民の現実、もしくは新自由主義の嘘

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 先日の報道によると、アメリカではほぼ10年ぶりに最低賃金が引き上げられることになったという。貧富の差が開くばかりと言われてきた超大国も重い腰を上げたわけだ。新自由主義的な傾向に歯止めがかかったのも、一つにはアメリカ下層民の実態を調べ上げ本にまとめたジャーナリストらの活動が引き金になっていると思われる。そうしたルポは複数邦訳されているが、その中でも10カ月前に邦訳が出た本書はページ数も値段も手頃でお薦めできるものだ。
 著者のエーレンライクは41年生まれの女性コラムニスト。アメリカではよく知られた存在で、その著書は本書以外にも邦訳されている。本人は高学歴で階層的には中か中の上に属するが、敢えて下層民の仕事を体験して、彼らの生活や思考の実態を本書で明らかにしたのである。
 彼女は居住地を変えながらレストランのウェイトレス、掃除婦、巨大スーパー・ウォルマートの店員として働く。こうした労働体験の末に判明したのは、アメリカの下層民は怠けているから下層なのでは決してないという事実である。
 最低賃金ぎりぎりの給与で仕事をしていると、まずまともな暮らしはできない。その結果どうなるかというと、仕事の掛け持ちをすることになる。つまり昼間はウェイトレスとして働き、夕方からは別の職場でアルバイトをするといった生活である。睡眠時間や食事の時間も満足にとれないきつい労働に一日が明け暮れる。そうした毎日を過ごしていると、考えること自体ができなくなっていくと著者は指摘している。過酷な肉体労働によって思考能力までがむしばまれていくのである。アメリカンドリームを実現するどころではなくなっていくわけだ。
 大企業が社員に労働組合を作らせまいとして様々な妨害行為を行っていることも本書で実例を挙げて告発されている。基本的な労働権すら守られていないアメリカの実態が白日のもとにさらされている。
 新自由主義者は、上層階級が巨額の利益をあげていけばやがてその利益が下層民にも回っていくと主張するが、それが虚偽であることも本書でデータを挙げつつ証明されている。すなわち2000年上四半期に労働者の最も貧しい10パーセントが得た賃金は、73年の同じ層が得ていた賃金より低くなっているのである。他方で最近の上流階級は以前にも増して巨万の富を稼ぐようになっている。つまり上が稼いだ富はいささかも下に環流してはいないのだ。
 下層民の暮らしがきつくなってきた理由として、低賃金に加えて住居費が上昇していることが挙げられる。1960年代始めには平均的な家族の住居費は収入の29パーセントだったが、99年には37パーセントに跳ね上がっているのである。実際、著者はいくつかの州で下層民の仕事に従事したわけだが、就職するごとに住居を確保する作業にまず四苦八苦している。特にミネソタ州では住宅が不足しており、著者はここでは最終的には低賃金に見合った住居を見つけられないという理由で仕事を辞めることになってしまう。
 以上のような事実を、われわれ日本人は言うまでもなく他山の石として知っておくべきだろう。ソ連崩壊により共産主義国家の夢想はついえた。しかし完全自由放任の資本主義などというものはそもそも存在しない。自由放任の資本主義か共産主義国家かという二者択一でしか物事を語れない人は、現実を見る能力が欠如しているのであって、天下国家を語る資格などないと言えよう。

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