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  3. 植田那美さんのレビュー一覧

植田那美さんのレビュー一覧

投稿者:植田那美

25 件中 1 件~ 15 件を表示

「人間の資格」

22人中、22人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本を手に取ってくれる可能性が少しでもあるあなたに一つ質問をしたい。あなたは人間だろうか。もしそうなら、その理由をどうか教えてほしい。自分でもくだらない質問だと思う。だが、どうしても誰かに訊きたくなった。人間であることを訴え続けているにもかかわらず人間として見なされない人々と、人間であることを忘れていられるほど人間として扱われ続けてきた人々との、本書は出会いと別れの記録だから。

2005年1月18日、国連によって難民認定を受けた2人のクルド人が、日本政府によってトルコに強制送還された。世界最大の「国家なき民族」であるクルド人と「中東の隠れた焦点」と言われるクルド問題については、中川喜与志著「クルド人とクルディスタン−拒絶される民族−」に詳しいのでここでは触れない。むしろ日本にいる私たちがまず知るべきは、「2歳の子どもを含むクルド人2家族が、収容や強制送還におびえ、働くこともできない現状に対し、難民認定を求め、真夏の72日間、国連大学前に座り込んだ」という事実が暴き出す、「自由と民主主義の国」日本のあまりにも醜悪な「難民鎖国」としての素顔である。結論から言おう。日本では、どうやら難民は人間ではないらしい(日本の難民認定数は毎年実質ゼロに近い。日本に逃れてきた難民の多くは基本的に無期限の強制収容状態に置かれている。日本の一日当たりの平均強制収容者数は1435名。収容者の自殺や自殺未遂は後を絶たない)。しかし、日本人であることの最大の特権の一つがこの醜さに向き合わないで済むことだとすれば、人間の名に値しないのは一体誰なのか。

 クルド人難民家族の月一回の仮放免手続きに付き添って入国管理局に行ったとき、「お父さんと一年しか暮らせなかった」姉妹が「私たちも強制送還されればただでトルコに帰れるね」と言って周囲を笑わせたことがあった。そのとき、私は悟らざるを得なかった。極限の状況にあってなお他者への優しさを失わないその強さに対してこそ、日本人である私たちは確実に責任を負っている、と。彼女たちはまだ高校生。もっと我がままに生きて、周囲に迷惑をかけながら大人になっていくことだってできたはずだ。彼女たちと会うのは楽しい。そして、悲しい。無自覚の加害者である日本人が、彼女たちの笑顔によって癒されてしまうのだとしたら、これほどの矛盾はないと思うから。

人間であることに理由のいらない、人間になることに資格のいらない、そんな日はいつ来るのか。本書には、難民問題を知ってしまった人たちの希望と絶望が詰まっている。人間の体温がそのまま伝わってくる一冊。ぜひあなたの手元に置いてほしい。

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新自由主義カルトから脱会するために

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 新自由主義−ネオリベラリズム−とは、市場での自由競争によって個人や企業、社会、国家、さらには世界全体の富と福利が最も増大すると主張する政治経済的実践の理論である。本書は、市場原理主義とも言えるこの「特殊な教義」が、どのように発生し、あたかもそれが常識あるいは唯一の選択肢であるかのように世界中で受け入れられていったのかということを、1970年代以降の政治経済史を読み解きながら明らかにしてくれる。
 著者の結論から言えば、新自由主義とは「支配階級の権力回復という(成功した)プロジェクトを偽装するための(失敗した)空想的レトリック」である。新自由主義は、あまりに日常的な価値判断に組み込まれているために、私たち自身がそうと認識できなくなっているカルトのようなものかもしれない。お金にまつわる様々なことを個人の能力と結びつけて、社会的経済的な不公平を「自己責任」の名のもとに許してしまうこと。職場で不当な扱いを受けても自分が我慢をすればよいのだと不条理に適応してしまうこと。…新自由主義は、経済成長ではなく格差の拡大を真の目的としたプロジェクトであり、私たちのそうした思考は新自由主義によって誘導され、そのことによって新自由主義が正当化される回路も完成する。
 では、その回路を断ち切るために、私たちには何ができるだろうか。著者は、実践と分析をフィードバックさせる対抗運動を展開することで、新自由主義に代わって新保守主義が台頭してくる流れを止め、それらとまったく異なった価値体系、すなわち社会的平等の実現に献身する「開かれた民主主義」を選び直すことができると主張する。日本でも小泉政権の「構造改革」によって非正規雇用者が急増し、多くの人の不安を餌場にする形で「愛国心」を掲げる安倍政権が登場した。
 「美しい国」?ホワイトカラーエグゼンプション?…そろそろやられっぱなしは終わりにしませんか?

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「存在し得ないアイヌ問題のために」

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「第三世界における貧困や圧制は、工業の未発達であることの結果ではなく、工業の発達そのものの結果なのだ(中略)第三世界の政治的・社会的・文化的・経済的な状況は、世界資本主義によって作りだされており、その不可欠な一部分なのである。メキシコ・シティのスラム街やフィリピンの戒厳令や朴正煕の拷問室は、霞ヶ関ビルと同じように近代的なのであり、雑誌『アン・アン』と同じように、「流行」なのである。スラム街や戒厳令や拷問室を「時代遅れ」というひとは、時代というものについて思い違いをしたがっているのだ」と洞察したのは政治学者のダグラス・ラミスであった。本書は、アイヌという少数民族が「近代化」ゆえにその尊厳を貶められていく過程を多角的に分析したカルチュラル・スタディーズの良書であり、いわゆる「アイヌ問題」が本来「シャモ(和人)問題」にほかならないという歴史が検証されている。

 「アイヌ問題」が「シャモ問題」にほかならないとはどういうことか。それは、アイヌの歴史がひたすらシャモに「(1)侵略され(2)搾取され(3)屈従し、たまりかねて(4)反乱を起こしては(5)弾圧される」(みなもと太郎)という5つの繰り返しであったことに端的に示されている。常に問題があるのは多数者の側だと指摘する著者は、日本で「アイヌ問題」は存在し得ないという確信に基づき、アイヌの歴史を自分たちの現在に結びつけて考えようとしない私たちの傲慢な無知と想像的貧困を、彼女の生きるオーストラリアの状況とも重ね、自身の問題として真摯に考察する。

 日本の対ロシア外交の焦点の一つである北方領土について私たちシャモが語るとき、どれだけの人がアイヌ−日本とロシアという2つの国家に組み込まれ/引き裂かれていった存在−に思いをめぐらせているだろうか。アイヌ語でシャモとは「おとなりさん」という意味である。一方、日本語でアイヌとはどういう意味合いを持つのだろう。確かなことは、「旧土人保護法」が1997年にようやく廃止された後も「日本は単一民族である」といった妄言を振りまく低レベルな政治家が後を絶たず、彼らに対して私たちシャモが猛然と抗議をしたという話も聞かないということだ。

 「北方領土が世界の国境を解体するモデルになればいいのにね」と私の友人がいつか話したことがある。その柔軟な思考にはっとさせられると同時に自らがまだ内なる国境に囚われていたことに気づいた瞬間だった。願わくば本書があなたにそうした心地よい刺激を届けてくれることを。

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もう一冊の『ロシアン・ダイアリー』に寄せて

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書はあるロシア人ジャーナリストの遺作である。彼女の名はアンナ・ポリトコフスカヤ。ロシア国内からチェチェン戦争を告発し、プーチン政権を辛辣に批判してきた彼女は、何者かに暗殺された。2006年10月7日、プーチン大統領の誕生日だった。 本書の序文にはこうある。「アンナの『ロシアン・ダイアリー』を読むと、なるほど彼女は生きるのを許されるはずはなかったのだと納得がいく。彼女が本書やこれまでの著書で明らかにした事実は、ウラジーミル・プーチンの政権にとってあまりにも打撃が大きい」。 その認識には同意しつつも、私は次のようなことを考えた。アンナはどうすれば殺されずに済んだのか?すぐに思いつく答えは二つある。一つは、彼女がプーチンのロシアに迎合すればよかったということ。そしてもう一つは、彼女以外の人間が彼女の言論の自由を守るために戦うべきだったということだ。世界が彼女を「ロシアの良心」と呼んだ理由が彼女の孤立ゆえだとすれば、それを許してしまった世界に彼女の死を悼む権利はあるのだろうか? 私たちはアンナの死を悼むとき、その死の理由の一端に自らが連なっているかもしれないと考えることはあるだろうか?彼女の代わりはもういないと嘆くとき、私たちは自分たちの良心を代弁してくれる新たな「アンナ」の出現を待望し、再びクレムリンへ生贄を捧げようとしていないと言えるだろうか? アンナにロシアの良心を預けていた世界と、すべてをプーチンに委ね、彼に服従しているロシアは、互いの鏡像であると思う。そして、鏡が一枚であるという真実の中に、希望と絶望が混在しているのかもしれない。鏡のどちら側にいるにせよ、私たちにはそれを壊すことができるという希望と、私たちには「彼ら」がそうするのを待つことしかできないかもしれないという絶望が。私たちは今、アンナ・ポリトコフスカヤ亡き後の『ロシアン・ダイアリー』という鏡の裏面にいる。

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「操り人形は差別に踊る」

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この書評を見つけてくださったあなたは日本人ですか? もしそうなら一つ伺いたい質問があります。「海外旅行をしていて中国人や韓国人に間違えられたとき、あなたはどんな気分になりますか?」

 本書は斎藤貴男という一人の諦めの悪いジャーナリストによる「自由のための書評&ルポ集」である。実際、本書の目次−「再び戦争の世紀か」「暴走する国家」「倒錯する大学改革」「歪んだ日本式経営」「アメリカ型企業統治の果て」「いま、人として」「差別を拡大再生産する教育」「瀕死の公教育再生のために」−を眺めるだけでも著者が時流に乗れていない人間であることは充分解ってもらえるはずだ。しかし、本書を最後まで読む人はそれすらも過小評価だったことを知り、半ば呆れることだろう。はっきり言ってしまおう。著者は現代日本の「抵抗勢力」だ。それも、平和と自由と人権を諦めずに闘い続けている絶滅寸前、の。

 さて、冒頭の質問に戻ろう。私は海外で中国人や韓国人に間違えられれば嬉しい。韓国の料理店で日本人向けメニューの料金が他の国籍の人たちよりも割高に設定されているのを見てからはなおさらそうなった。もちろん現在は日本人がテロの標的になりかねないという事情もある。だが、日本人の多くは中国人や韓国人に間違えられたとき不愉快になるのではないだろうか。彼らを差別しているかと問われれば、あなたは否定するかもしれないが。

 1951年の日米安保条約の立役者であり後に国務長官となったダレスは「アメリカは日本人が中国人と朝鮮人に抱いている民族的優越感を十分に利用すべきであろう」とし、冷戦を有利に進める上で日本人の傲慢な差別意識が果たす役割に高い「評価」を与えていたという。冷戦は終わったが、東アジアの分断あるいは敵対が自国の軍事的政治的経済的影響力を増大させたい米国の「国益」にかない、それを私たち一般の日本人の「国民感情」が支えているという構図は現在も基本的には変わっていないだろう。だから、もしあなたが北朝鮮への経済制裁を望んでいるなら一度考えてほしい。あの国が犯罪的独裁国家であるから経済制裁もやむを得ないと言うなら、まさにそれと同じ理由によって独裁者の犯罪行為の責任を子どもたち−経済制裁で最初に犠牲になるのは弱い立場の人間だ−に転嫁することはできないのではないだろうか。ここから先は本書に語らせよう。差別という「流行」に便乗しないためにも、ぜひ一読をお勧めしたい。

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紙の本子どもと話す言葉ってなに?

2006/08/23 22:45

「私たちはどこから来て、どこへ行きたいのか?」

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最初の感想は、ずるいくらい面白い本だな、というものだった。『子どもと話す言葉ってなに?』という題名が表すように、本書は言語学の専門書でもないし、外国語学習やスピーチ技術を磨くための実用書でもない。といって、言葉に関する子供向け解説書といった、題名通りの一冊というわけでもない。では何なのかと訊かれると、少し困る。確かなのは、本書が言葉について語っていながら、実は私たち自身、そして私たちの社会を映し出す鏡になっていることだ。それは、言語学の専門書が観察対象として、実用書が技術として、言葉を扱い、私たちと言葉との間に一定の距離を置こうとするのとまったく対照的である。本書では、言語の習得から運用、言葉と意味といった問題から、政治や経済、福祉、人権、アイデンティティといった問題までもが、縦横無尽に語られる。そうした意味では、本書は鏡というよりむしろ万華鏡のようなものかもしれない。言葉という万華鏡を著者の視点で覗き込んだときに見えてくる世界。そこでは、言葉は世界と不可分で、言葉について考えることは、私たちと世界との関係を結び直すことである。
 ・・・などと書くと、何だか小難しい本のように思われるかもしれないが、本書で語られていることの多くは極めて日常的な事柄で、特に著者が最近の「ネイティブのように英語を」ブームに淡々と冷水をかけているあたりの文章は、かなり爽快なものがある。日本に来た欧米人(正確には白人に見えてとりあえず英語が喋れる人たち)がもっとも簡単に見つけられる仕事は英会話スクールの教師らしいが、なぜか在日非外国人である日本人にはそのことはあまり知られていない。(余談だが、中国人留学生の友人は、日本では欧米人の方がよっぽど簡単に不法就労ができるのに、なぜ自分たちばかり目の仇にされるのかと文句を言っていた。)
 文中で著者は、「意味というのは、心の中にある何か深淵で謎のような抽象的な存在ではなくて、ただ自分が話しつづけてそれが意味あるかのように受け入れられるだろう無限の状況への確信というか、賭けということになる」と言い、「言葉は『どんなに壊れようともいつも動いている機械』だ」というソシュールの言葉を引用している。当たり前のことだが、言葉について語ったどんな言葉も、言葉でしかそれを語ることはできない。言葉とは何かという問いに言葉でしか答えを返せないのだとすれば、言葉の本質は誰かが学問的に証明してくれる類のものではなく、私たちがそれを使い続けていく過程の中にしかないのだろう。本書は、その過程を豊かにしてくれる、貴重な道標だと思う。

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「石油中毒」

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ピーク・オイルとは、一言でいえば「石油生産の増大が遠くない将来ピークを迎え、それ以降は減少に転ずるという予測」である。本書は、石油を切り口にイラク戦争やグローバリゼーションを論じると同時に、石油企業と個人との魅力的なエピソードを通じて人間の弱さと強さを綴った、石油をめぐる果てしない物語の一編だ。いわゆる石油メジャー陰謀史観に終わらない著者の目線に好感の持てる良書で、訳者あとがきも抜群に面白い。
だが、私たちはそろそろ気づいてもよいはずだ。ピーク・オイルを目新しい危機として語ることが、石油のための戦争を容認する「先進国」に生きる人間に許された特権だということに。安価な石油はもうすぐなくなるかもしれない?石油の生産がいつか需要に追いつかなくなる?自国の天然資源へのアクセス権を奪われたイラクやアチェ、コロンビア、チェチェン、そのほか私たちが名前さえ知らずに一生を終えるであろう多くの地域では、石油をめぐって人間が殺されることなど日常茶飯事だ。なぜなら、私たちが手放したくないと思っている石油—身のまわりに溢れかえる車やプラスチック製品に象徴される富の源泉—は、本来なら彼らのものなのだから。
世界の富の80%をわずか20%の人口が独占する非対称の世界では、初めから自分たちのものを失うことさえできない人々が多数を占める。私たちが当然の権利として享受している物質的な利便性は、失うことすらも実は一つの特権だ。本書で紹介されている「なぜ我々の石油が、奴らの砂の下にあるのか?」という秀逸なフレーズは、私たちの石油依存症が末期症状であることを冷徹に告げている。処方箋を手に入れるためには、石油のための戦争を続ける藪医者たちに見切りをつけ、私が、あなたが、石油文明の申し子であることを止めなければならない。

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紙の本蜂起

2005/04/24 20:24

「テロリストのレシピ」

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ものすごい本が世間様に出されてしまった。改めて読み返して、そう思う。表紙はライフルを片手に日の丸を振りかざす自由の女神(のポーズを取る女性)。帯には「リストカットを繰り返す女子高生よ、セクハラに耐えるOLよ、懲戒免職された元警視よ、伝統的右翼集団塾長よ、そして野宿者たちよ。壊せ。壊し続けよ。憤怒の炎が首都を焼く。落とし前をつける相手は、「日本」というシステム。世情騒然、人心騒乱、現代を映す黙示録的戦慄!!」という煽り。不吉である。不謹慎である。でも、これがまたとんでもなく面白い。著者の言葉を借りれば、「失うものは住宅ローンしかなくなった奴ら」は「どこのガソリンスタンドでも購入可能な透明な液体によって、文字通り火を噴」けるのだ。「小泉純一郎日本国総理大臣流にいうのなら、——やればできる」、というわけ。感動した。

そんな本書は、当たり前と言えばそれまでなのだけど、真面目な読者に叩かれた。掲載誌の週刊金曜日では抗議の意味で定期購読を中止してしまった人までいたとか。それでも「テロリストに希望はない。希望がないから、テロに走るのである」という本書の問題提起は、単なる有害図書として片付けてしまうには重すぎると私は思う。だから、著者が「じつはわたしは、大きな不満と深い無力感を抱きながら、この小説を書いていた」とあとがきで告白したとき、殊勝な振りをしやがって、なんてことは私は少ししか考えなかったし、ますます本書をシュールでリアルな小説だと思ってしまったのである。

「失業革命家」が『不朽の自己責任』作戦で「われらがシンちゃんのおわす(もっとも、ほとんど不在だそうだが)都庁」を爆破しようとする小説は、確かに不謹慎かもしれない。でも、1日に100人近くの自殺者を出している日本の現実は、それよりずっと不謹慎ではないだろうか。

本書は誰でも作れるテロリストのレシピだ。あなたが気づかないうちに作っているその料理の、あなたに気づかれないうちに作られているその料理の、正体をこの本で確かめてみてください。

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「平和ボケワクチンの開発」

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「戦時体制下の省察」という副題を見たとき、間抜けにも歴史物かと思ってしまった。が、目次をめくり、自分が平和ボケであることを知った。「壊れゆく言葉−有事・戦時下の言論状況−」、「出兵兵士を見送って打ち振られる日の丸の小旗の戦慄と衝撃」、「「始めに戦争ありき」とする時代錯誤」など、本書に収録されている文章は殆どが2001年9月11日以降に綴られたものだ。自戒を込めて思うが、平和ボケとは決してよく言われるような一国平和主義や危機管理の欠如などではなく、自らを安全地帯に置きながら戦争を支持あるいは批判することではないか。自宅のテレビの前に寝そべりながら戦争の「実況中継」をゲーム感覚で楽しむこと。自分もどこかでそれに荷担しているかもしれない戦争の野蛮に対する無謬の告発人になること。言ってみれば平和ボケとは戦争に対する完璧な傍観者なのだ。

「「国家と戦争」異説」という本書の趣旨をあえて一言でいえば、それは人間には国家が必要であるとか、世界から戦争をなくすことはできないといった「常識」を蹴散らせ、ということだ。実際、18世紀以降に誕生した国民国家という概念も、その起源に諸説ある戦争の歴史も、「600万年の人類史のなかではごく新しい出来事であ」り、「ヒトの歴史を六メートルとすると」国家の歴史は0.3ミリ弱、「戦争の歴史は一センチ強にすぎない」という。にもかかわらず、私たちはそれに肯定的であるか否定的であるかを問わず、国家や戦争に翻弄される。それ以上に恐ろしいのは、振り回されることへの慣れが、両者を人間に不可避な属性として仕立て上げていることだろう。まるで私たちが国家と戦争なしでは生きることも死ぬこともできないかのように。著者はこうした「「国家と戦争」定説」を容赦なく粉砕する。その論理は「今ここ」を真摯に見つめる者ならではの優れた空間的歴史的射程をもって読者を挑発する。「おまえの敵はおまえだ」という言葉によって徹底した自己批判をも厭わない著者は、読む者に対しても傍観者であるという逃げを許さない。平和ボケワクチンにしたい一冊。

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「障害をもった遺伝子が未来を作る」

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 還元主義的パラダイムにおける学問領域相互のコミュニケーション不全を克服すべく生まれた本書は、従来の知の「科学性」あるいは「客観性」という虚構にオルタナティブを提示することで既存の学問にパラダイム転換を迫る秀逸な一冊だ。経済学者と生物学者である著者らは、セーフティーネットという価値を根底に据え、個/還元主義と全体/システム論という二元対立の陥穽を排し、個と全体のコミュニケーションを「多重フィードバック」によって読み解くことで、生物学と経済学に共通の方法論を模索している。本来人間のために存在する生物学と経済学が、競争淘汰による適者生存というネオダーウィニズムおよびネオリベラリズムをあたかも人間の本質であるかのように錯覚させ、私たちを遺伝子と金銭の奴隷に貶めてしまった現代において、そうした科学の「原理主義」的暴走に一貫した異議申し立てをし、共存という多様性を育むセーフティーネットこそが進化の源泉であると主張する本書は、生物学と経済学を私たちの手に再び取り戻そうという試みでもある。

 セーフティーネットが進化に不可欠だとする著者らの結論は単なるセンチメンタリズムではない。なぜなら「自然淘汰によって個体数が増えればいいと考えると、適応度という概念に依存する集団進化論は、いわば無制限に増殖する癌細胞が進化の理想型と考えるのと同じ」であり、競争淘汰の行き着く先は有限な自然環境を食い潰した上での自滅にほかならないからだ。本書は「個と全体を結ぶ中間領域にある制度、調節制御のしくみ」を「セーフティーネットを起点とする多重フィードバック」から説明し、生命や経済を支えるためにはフィードバックの壊れやすいもっとも弱い部分を守ることが必要だと指摘する。

 「逆説的だが、市場経済でもっとも弱い史上が、市場経済を成り立たせていくうえでもっとも重要な市場となる」

 「セーフティーネットは、リスクを共有することによってこそ思いきった競争が可能になるという意味で、競争と協力、あるいは自己決定権と社会的共同が相補関係にあることを示している」

 「電話機を発明したベルは聴覚障害者の家族の中で育ったことから音に深い関心を抱くようになった。視覚障害者は、聴覚と触覚に鋭い感性を育てる。「障害」から生まれた新たな文化は、新たな価値を人類にもたらす。競争淘汰はたしかにある。だが、多様性をもった多重制御系は、生物の生み出した淘汰で生き残る最大のしくみである。多様性を生み出し、支えながら、競争を可能にする多重的なしくみこそが求められるのである。」

 狂牛病の原因となったヤコブ病の抗体を持っていた羊は、効率性の名のもとに絶滅寸前に追いやられていた種であったという。「障害をもった遺伝子が未来を作る」という本書の大胆な肯定には思わず身震いがする。

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紙の本こんな国はいらない!

2004/12/15 10:35

“NOMOREJAPAN?”

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「社長は『仕事が欲しければ3回まわって俺の股をくぐってワンと鳴け』と言ったよ。だから俺はそうした。でも社長は仕事をくれなかった。」

 これは先日知り合ったホームレスの男性が私に教えてくれた話である。週末に「墨田区路上生活者実態調査」に参加していた私は、その墨田区が彼らにテントを作らせないため地面一帯に岩を敷き詰めた川沿いで彼の言葉を聴いていた。「今回の調査はどんな結果であれ俺たちを追い出す材料にしか使われない」と述懐した彼を慧眼と言うのは大きな侮辱だろう。彼らのテントに貼られた区の警告用紙−「迅速に撤去せよ」−がすべてを物語っていた。彼らが人間として「撤去」されることこそが正しい「実態」であるべきだ、と。

 本書の著者、鎌田慧は反権力のジャーナリストであると言われている。しかしこの評価は完全には正しくない。なぜなら、主権在民と基本的人権の尊重、戦争の放棄を謳う憲法を強姦する小泉政権への糾弾も、「推定有罪」の原則に忠実な公権力とマスメディアへの批判も、「権力」と「金力」と「ウソ」にまみれた原子力発電への告発も、「公害、労災、過労死、自殺、精神障害、いじめ自殺、交通事故の多発」を生み出す「競争至上主義」への弾劾も、権力への対抗としてしか存在し得ない反権力によってなどではなく、それ自体が肯定されるべき普遍的な人権意識によってなされているからだ。権力が人権を侵害するがゆえに著者が反権力を貫かざるを得ない以上、むしろ権力こそが「反人権」なのである。まさに「こんな国はいらない!」だ。だが、私たちはまだ選ぶことができる。そして、もし「人権」に組みしようとするなら、他者への想像力が完全に壊死してしまう、その前に動かなければならない。

 「さまざまな矛盾を解決するための根底的指針は「人権」であり、他者への想像力である、とわたしは思う。どんな人間にも「尊厳」がある、これを認めることからすべては始められなければならない。そして差別されているマイノリティの日常的視点に立ってみると、「人間の尊厳」のありようはくっきりと浮かび上がってくる。視点の縦横の移動を通して、社会的矛盾の深奥へ分け入ることができる」
「「個」のない主体に、「人間の尊厳」を感じるチャンスはない」

 …現在日本では毎日およそ100人が自らの命を絶っている。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定した憲法25条は、憲法学界では抽象的権利であり具体的訴訟権を有しないというのが通説である。

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紙の本ゲバラを脱神話化する

2005/02/22 17:33

「解放−英雄の、そして英雄からの−」

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 チェ・ゲバラ。その名に馴染みのない人も、戦闘服に身を包んだ彼の肖像にはどこかで出会ったことがあるだろう。

 ゲバラは1928年にアルゼンチンに生まれ、20代後半でカストロらとキューバの独裁政権に対するゲリラ戦を開始する。キューバ革命後には市民権を与えられ政府の要職を歴任するが、1965年にベトナムと連帯する国際的な革命闘争に参加するために一平卒としてキューバを出国し、39歳のときにCIAの支援を受けたボリビア政府軍に射殺された。

 こうした略歴を持ち、また個人的な成功を夢見る一人の医師から貧困という社会の病を治癒する一人の革命家への転身というロマンチシズムを体現したがゆえに、死後40年を経てなおゲバラは英雄として人々を魅了し続けている。本書はしかし、こうした「革命の英雄」としての従来のゲバラ像を解体し、彼を等身大の人間として捉え直す意図のもとで執筆された。著者は、すべての価値を金銭に変えてしまう資本主義や「互恵」という名の搾取の横行する自由市場を批判し「他者が受けている苦しみを感じとる感性」の復権を提唱したゲバラの遺産を再評価する一方で、「軍隊というものは本質的に非民主主義的なものである」として民衆に対するゲリラ戦士や指導部の優越性を最後まで疑うことのなかった彼の限界を容赦なく暴き出す。

 本書の圧巻は「「解放」あるいは「革命」の過程では確かに不可欠の役割を果たしたに違いない「旧」ゲリラ隊や「旧」反乱軍がそのまま国軍となって、その社会のエリート層を形成し、社会全体の「軍事化」を象徴している現実を批判的に捉えること」というくだりだ。解放が新たな抑圧を生む皮肉は「解放者」に対する私たちの過度のロマン化を抜きにしては語れない。その意味では私たちが「解放者」を「抑圧者」に仕立て上げてしまうのだとさえ言える。「軍隊を常備しつつ、常にその強化を計りつつ、「平和」というお題目が唱えられているだけの、この世界風景は虚しい」とする著者の指摘を真摯に受け止め、そろそろゲバラを彼自身の偶像から解き放ってあげよう。なぜなら歴史の創造に立ち合う悩みも迷いも生身の人間のものだから。英雄が人々の理想としてしか生きられないのに引き換え、ありのままの人間は過ちを繰り返しながら成長し続けていくことができる。もう伝説はいらない。ゲバラの、私たちの、本当の解放のために。

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紙の本考え、売ります。

2005/01/04 22:56

「幼少期への鎮魂歌にあらず」

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「彼はまだほんの子どもでしかない」—ある欧米の人権活動家の文章だったと思う。天国に行けるから死ぬのは怖くないと語ったイラクの少年に対する印象。来世の幸福などという虚構を夢見る無垢な子どもを殺してもよいのかという、それは示唆であった。ここで神を未来や希望と言い換えてもよいかもしれない。子どもは大人がとうの昔に喪失した未来/希望である。したがってどのような大義も子どもを巻き込む戦争を正当化しはしない、と。無論これは真理の一面だ。が、私はこうも思う。子どもを殺すことがその無垢さや彼らの体現する未来/希望ゆえに許されないのだとしたら、その子どもが生き長らえたときに彼らの無垢や未来/希望を奪う社会とは何なのか。大人が子どもの抜け殻にすぎないとすれば、子どもの価値を謳うことそれ自体が巨大な偽善ではなかろうか、と。

 本書は「考え売り」をめぐるいくつかの物語である。考え売りは人々から桃やバナナを受け取る代わりに「頭のなかに新鮮な空気ややわらかな陽射しが入ってくる小さな窓を開く」ような考えを人々に贈る。子どもも大人も魅入ってしまう考えを。そこにはお金では買えない本物の贅沢がある。

「わたしに思いつきを一つください」
「こんなのはどうだい? 靴の底に押しピンをつけて踊ったら、音楽ができるし、それに合わせて踊れるよ」

 夏が終わると考え売りは町を去ってしまう。だが彼の残した考えは何かを少し変えた。語り手の少女ミコはそれを「魔法」と呼ぶ。

 本書は「大人の中の子どものための童話」にして「子どもの中の大人のための童話」である。当たり前のことを当たり前のこととして受け止めるすべを熟知しているうちは、私たちは子どもでしかあり得ない。当たり前のことが実は貴重なものとして噛みしめられるべきことだと学んだとき、人は心に童話を隠し持つ存在になる。そして、それは一人の人間の内に子どもと大人を棲まわせる「魔法」でもある。

 最初の問題提起に戻ろう。私は神を信じる、あるいは未来/希望を自身に見出せる者たちは誰もが侵すことのできない子どもを内に秘めていると思う。そして、神と未来、希望と決別することによって「大人」となった者たちの中にもその子どもは生きているのではないか、と。もし、大人になるということが想像力の放棄を伴なうとあなたが諦観しているとしたら言いたい。考え売りはあなたの中にもいる。

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紙の本ファルージャ2004年4月

2004/09/02 08:34

知ることは諦めることですか?

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本書は2004年4月に開始され同年9月現在なお続いているファルージャの虐殺をめぐる事実の記録である。日本の主要メディアが行っていることがファルージャを米国の民間人4名の遺体が蹂躙された土地、すなわち住民に対する米軍の報復も正当化されるテロリストの巣窟としてのみ私たちの記憶に留めようとすることなら、本書に関わるすべての人々が証言しようとしているものは「テロとの戦い」という名のもとで突然に、あるいは緩慢に殺されていくイラクのごく普通の人たちの肉声だ。

ブッシュの戦争を支える米国の大メディアに対する弾劾でもあるドキュメンタリー映画「華氏911」には、イラクで息子を亡くしたライラという名の米国人の母親が出演し、その反戦運動とともに全米で話題を呼んでいるという。が、作中においては、私の最も聞きたかった言葉が彼女の口から発せられることは最後までなかった。米国の「敵」であるイラクの人々もまた、誰かの息子であり娘であるという当たり前の事実、つまり彼らに対する共感、が。

「アメリカ人は死者たちをこぎれいな棺に入れ国旗で覆う。対して私たちは、死者たちの断片を床からかき集めなければならないのだ。そしてアメリカの銃弾が、愛する人の遺体を誰だかわからないほどめちゃめちゃにしていませんようにと願うのだ…。」

私たちの想像力が国境によって断ち切られてしまう限り、イラクで、パレスチナで、アフガニスタンで、チェチェンで殺されていく人々は「テロリスト」と呼ばれ、彼らの主張は「プロパガンダ」と言われ続けることだろう。まるで、アメリカの経済制裁によって62万人ものイラクの幼児が死んでしまったこともまた、サダムの「プロパガンダ」だった、とでもいうように。

本書が「ファルージャ 2004年4月」なら、読者に問われているのはここに描かれていない「2004年4月以前」と「2004年5月以降」を正視できるか否かであると思う。そうした意味では、ファルージャはごくありふれた、しかし私たちの目からは巧妙に隠されている無数のゾーンの一例にすぎない。いつか、イラクで起こっていることが独立戦争であったと歴史に記されるときが必ず来るだろう。知ることはつらいかもしれない。だが、「イラクで不足していないわずかなものの一つ、それが尊厳なのである」と言い切る本書には、真実から目を逸らし続けていては決して得られない本当の希望がある。

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等身大の平和を創るために

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 本書の著者であるハッサン・バイエフは特別な人間だ。チェチェンという知られざる戦場の第一線にありながら、「敵も味方もない。私は、傷ついた者を救いたいだけだ」として負傷者の治療に当たり続けた彼の半生は、殆ど英雄伝と言ってよいと思う。本書はチェチェン戦争の比類なきドキュメンタリーであり、侵略者ロシアへの告発書であると同時に、一人の人間がここまで冒しがたい強さを持ち得ることへの賛歌でもある。

 にもかかわらず、私は思ってしまうのだ。彼のような英雄を必要とする社会は不幸である、と。すべての人が彼のように強くなることはできないし、またそうなる必要もないのではないか。チェチェン人の信仰するイスラームでは、人間の本質は善でも悪でもない「弱さ」にあるとされている。人間は弱くてもよい。問題はその弱さが他者に対する見えない暴力を生み出す、歪んだ「強さ」になってはいないかということだ。

 ひとたび戦争が始まれば、私たちは彼のような英雄を必要とするだろう。いや、そうせざるを得ないだろう。しかし、本当に必要なのは、ごく普通の人たちが寄り添って平和を築いていくことだ。それが可能かどうかは、いずれ現れるかもしれないどこかの英雄にではなく、私たち一人一人にかかっていると私自身は信じている。その一歩は、例えばこの本を手に取ることからでもよい。他でもない、今ここにいるあなたが。

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