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  3. 森山達矢さんのレビュー一覧

森山達矢さんのレビュー一覧

投稿者:森山達矢

18 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本愛と幻想のファシズム 上

2005/11/11 02:07

「閉塞感」をもつ「弱者」の「カリスマ」

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この小説が書かれたのは、バブル真っ盛りの1980年代後半だ。
文庫本のあとがきに村上は、
「私が書きたかったのは、ある種の「閉塞感」である。この国に充満する、「世界から切り離されて、自ら閉じられた円環に収束しようとする」不健康なムードについてである。」と書いた。
この小説のリアリティ(舞台は1990年代初頭)はまったく薄らいでないと思った。というよりも、そのリアリティはより現実味を増しているといっても過言ではない。
なぜか。
「閉塞感」「弱者」「カリスマ」「愛国心」
など現在の日本を論じるうえで欠かすことのできない
キーワードが小説のテーマとして描かれており、
またファシズムを受け入れる素地は、
現在でも充分に高いと思えるからだ。
村上が主人公のトウジに語らせているのだけれど、
ファシズムの優れている点は、
「能率です、決定にあたって、余分な手間がかかりません、最小のコストで済みます、税金が最も有効に使われます」
この発言は、小泉の構造改革と共鳴する点がおおい。
というか、ファシズムを構造改革にすれば小泉の主張そのものだ。
また強調されているのが、「適者生存」。
自然の摂理によって弱者は淘汰され、強者だけ生き残る。
生態系における「事実」を、社会のあり方に反映させ、弱者の淘汰を正当化する。
「(弱者は)余裕がなくなったら切り捨てざるを得ないでしょう、僕が切り捨てるのではない、
生態系が切り捨てるんです・・・」
小泉はこんな露骨なことは言わないが、実行している政策はこれに近い。
小泉の政策から読み取れるのは、「小泉は弱者が嫌いだ」ということである。
小泉もトウジも「ネット右翼」も、戦後民主主義に対する嫌悪の中に生きている。
理論のレベルでファシズムのこうした思考を批判するのも難しいが、現実のレベルでこれらを批判することはもっと難しいと思う。
ファシズム・ナショナリストは嫌いだが、読みながら、こんな強力なカリスマを持つ人間出てきたら、「もしかしたらなびくかもしれん」と正直思ったほどである。
国民がファシズムになびいていく過程が描かれているのだが、おそろしく不気味に思った。
村上の小説がわれわれに突きつけているのは、「ファシズムは危険だ」という戦後民主主義的な陳腐な教条ではない。この本の中にも描かれているように、「狩猟社」の政治的攻勢の前に、社会民主主義は勢力は無力なのである。
この本で突きつけられているのは、大衆は「ファシズムを選択せざるを得なくなるのではないか」という歴史的な事実に基づいた可能性なのである。
いずれにせよ、村上の1980年代のフィクションと2000年代の日本の状況を分け隔てるものは、限りなく薄いといえる。

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身体のロゴス

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 テーマは、至極単純である。それは、「身体を生きる」ということである。本書は、この言葉で始まり、この言葉で閉じられている。ちなみに、筆者は哲学者ではなく、精神科医だ。
 この「身体を生きる」とはどういうことか?筆者は、それを説明するために、解離、過食・拒食症、境界などの精神的な病症例を出す。
 これらの症例、特に解離と境界などは、まったく逆の志向を持つものといえるかもしれないが、筆者によればある点で一致しているのだという。すなわち、「ハイマート」を探求するという点においてである。
 ハイマートとはなにか?筆者によれば、ハイマートとは、「自らの起源や、最も安心できる場所や、自然な他者との情緒的交流」のことである。つまり、筆者によれば、上記の精神的疾患は、このハイマートを巡るものなのである。
 解離とは、患者自身の「私」と「身体」の隔たりが問題なのである。言い換えれば、解離とは、強力な引力を持つハイマートへの身体的拒絶の症状のことなのである。「彼らは、ハイマートへの希求と拒絶とを繰り返しながら、自らの存在の意味を問い続けている」のである。
 一方境界例においては、自分の自己性を、他人と身体的に共感することで確認する。彼らはそうした他者を必要としている。そうした共感してくれる他者に対する要求が、対人関係においてトラブルを起こす。このような対人関係に対する要求は、ハイマートへの希求の表れなのだと筆者は言う。彼らは、ハイマートを具体的な他者に求めているのである。
 これらの症例に見られるのは、私と他人の身体との関係のありかたである。一方は、他人の身体から距離を取る。一方では、その距離を限りなくゼロにしようとする。そうしたむなしい努力をしている姿は、ある意味悲劇である。けれども筆者は、次のように言える。
 「他の人たちとの共存も、他の人たちとの絶対的な距離も、共に真なる現実のはずだ。この二重性こそがそもそもの悲劇と言えるのかもしれない。「不可能な合一」とでも「中絶された癒合」とでも言い表すことができるだろうこの悲劇は、単に忌まわしい現実を説明するものではない。いや、むしろこの悲劇こそ、私たちが日々の経験を豊かにし、今ここに生きていることを保証するものなのかもしれない。「私」とは、「単独者の孤独」なのではなく、「全体の亀裂」なのだ。」(p.220)
 人はあらかじめ他人に開けた存在なのである。癒合もできるし、分離することもできる。が、完全にはそれをすることができない。しかし、僕らがそうした中途半端な存在であるからこそ、僕らの経験が逆に生き生きとしてくるのだ。
 人間が人間を嫌うのも、人間が人間を好きになるのも、人間が身体をもち、他人に開かれているからだ。嫌いな人には障りたくないし、近寄りたくもない。けれども好きな人、好きになって欲しい人には、近寄りたいし、触りたいと思う。そんな「エロティックな関係」を欲望するのは、脳でもあるけれども、それ以上に身体なのだ。不快をできるだけ避け、心地よさを求めるのが、身体のロゴスである。この身体のロゴスこそ僕たちの「生」である。
 そうなのだ、僕らは身体を生きているのだ。

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紙の本君が代は千代に八千代に

2005/09/16 02:48

虚仮の生す○本

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

現代の『狂人日記』と位置づけられる作品か。
イカレタ人々のオムニバス。というかオンパレード。
娘との近親相姦への欲望に取り付かれたパパ。
ペドフィリア(幼児性愛)の小学校教師。
現実が、一枚の薄いベールにかかっているように感じる人間。
などなど。
人間の欲望に歯止をかけるものがなくなった現代日本のある意味リアルな「日常」をシニカルに描いている。
妄想なのか現実なのか明確な境界がなくなりつつある
なんでもありのハイパー・モダンの世の中では、
すこし壊れてないとやってらんない。
狂っている現実に、まじめに「正常」を対置したところで、
それ自体が狂気の沙汰とされてしまう。
狂っている現実に対して、まともに狂うのではなくて、
シニカルにキチガう。
そうした「冷静な狂気(凶器)」の携帯のしかたを
暗に描いているように思える。

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紙の本古道具中野商店

2007/04/14 23:28

積み重なる時間

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

古道具屋に集う、よく分からないおじさん・おばさんとやや生きるのがあんま
り上手くない若者のお話。
川上弘美の小説によくあると思うのだが、登場人物を完全に把握することがな
かなかできない。登場人物の芯と言うか骨みたいなものをつかむことができな
い。
ケーキのスポンジみたいといえば、そんな感じだろうか。
ふわふわ
という感じなのである。
これを悪い意味で取らないで欲しい。
逆に、そうしたとらえどころの無さが、彼女の作品の魅力だと思う。
そして、ケーキのスポンジと同じで、スポンジとスポンジとのあいだに生ク
リームが(あるときはそのなかにイチゴが)挟み込まれている。
で、その甘さが絶妙なのだ。
甘すぎず、味気なさ過ぎないのだ。
とにかく絶妙なあんばい。
古道具は、時間がたってはじめて価値が出てくるものだ。
その価値が分かるのも、厚みのある歳月を重ねることが必要だ。
そうでない人間の目には、その価値が分からない。
積み重なる時間が流れているのが古道具店なのである。
そして積み重なった時間があって、モノを判断できるようになり、人を理解す
ることができるのである。
時間が堆積する古道具屋での、若い二人のひっそりとした恋愛は、じれったい
ぐらいにうまくいかない。
しかし、堆積する時間の中でおなじ空気を吸った彼らは、それと気づかずに厚
みのある「大人」となる。
数年後に再会したとき、ヒトミの<ひと言>でそれが分かる。
その<ひと言>のためにこの小説は書かれている。

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紙の本大山倍達正伝

2007/02/23 20:44

「自らが学び、自らを鍛える」

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本は、説明するまでもなく大山倍達の一生を記したものである。しかしこの本は、「武道」「格闘技」の本来的意味とはなにか?ということも暗に問うているようにも思える。
この本に伏流するのは、大山の武道哲学である。
その武道哲学とはなにか?
それは、非常に簡潔である。
「自らが学び、自らを鍛える」
おそらくこれは、筆者らが大山から、極真空手から身を持って理解したことである。
こうした<身体化された哲学>があるからこそ、この本の執筆が可能となったのだと思う。
大山の武道哲学から見れば、現在の格闘技ブームは、武道・格闘技の本道から外れているのである。K-1もPRIDEも、結局は観て楽しむためのエンターテイメントでしかないのである。
空手の大会を開催し、ファンを増やすことの意味に関する大山の言葉を、筆者は引用している。
『プロレスを観て楽しむ人間には極真の試合を観てもらいたいとは思わない。キックボクシングの殴りっこに興奮するだけのファンは極真には必要ない。武道空手の現場で戦う選手たちの生きざまに感動してくれる人間に見てもらいたい。』
たしかに、PRIDEやK-1を観れば、「戦う選手たちの生きざま」が試合とともに映し出されている。しかし、大山が見せたかったのは、エンターテイメントとして消費されるために華美に脚色された選手の姿ではなかっただろう。
大山が見てもらいたかった「武道空手の現場で戦う選手たちの生きざま」とはなにか?
それは、共同執筆者の塚本がはじめに書いている。
塚本は、仕事の関係から極真を取材することになった。もともと空手なんかに興味の無かった彼女が、仕事をしていくうちに極真空手に関心を引かれたのは、選手たちの真摯な姿だった。彼女の関心を特に引いたのは、一流のトップ選手ではなく、無名選手たちである。
『たとえ試合で結果をのこせなくても、彼らの極真空手に対する熱い思いは一流選手となんら変わらない。華やかなスポットライトを浴びる一流選手の陰で、客席の歓声に包まれることもなく黙々と戦い続ける多くの無名選手——彼らの姿に、私は損得や地位、名声と関係なく極真空手に打込む純粋さを見た思いがした。』
そしてこうした無名選手の戦いは、目の前の敵を倒すということではなく、「現実の生活のなかで、ともすれば逃げたり妥協したりしてしまう「弱くて脆い自分の心」との戦いなのだといい、そうした選手達の姿に感動したのだと記している。
おそらく大山が見せたかったのは、そのような純粋に「戦う」人間の姿だったのだろうと思う。
そして、それがおそらく、極真に限らず、現代における武道の存在意味なのだと思う。つまり、武道とは、一つのことに徹底的に打込み、高みを目指し、一つ上の段階に立つということを一生続けていくこと、そうしたものを発見させてくれるもの、体得させてくれるものなのである。
問題なのは、それを<感得すること>である。そして感得した瞬間、私に対し<世界>は開かれるのである。
大山が見せたかったもの伝えたかったもの、小島が極真空手で体感したもの、そして塚本が無名の選手の中に見たもの、それは<開かれた「世界」の景色>なのだろうと思う。その景色は、自分の力で変えてゆくことができ、同じ景色なのだけれど、全く違った装いのものとして再現前させることができるのである。そうしたことを、大山は伝えたかったのだろうし、その意図を空手とは違う文章と言う形で伝えようとしたのが、筆者たちなのである。こうした意味で、筆者たちは、極真を引継ぎ分裂させた高弟たち以上に、大山倍達の<正統な>弟子たちなのである。

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紙の本となり町戦争

2005/04/28 23:23

リアリティを感じないというリアル

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読後、表紙を見ながら余韻に浸った。この四半期のなかで最高の一冊である。
この本のテーマは、現実に対してリアルさがないというリアル、である。
すべてのことに対する手ごたえのなさ、実感の無さ、そうしたリアリティの喪失というリアルを追求したものだと思う。
死や人を殺すことが抽象的になればなるほど、生きる実感はますますとらえどころがなくなる。そして、生きる実感が抽象的になればなるほど、死や人を殺すことが実感の無いものとなっていく。
こうしたことの背景として、筆者は、非人格システム(小説では町の行政機関)を挙げている。町の行政機関のエージェントである香西さんは、そこにいるけどそこにいないような感じがするし、人が死ぬという状況においても、行政機関の計らいによって、主人公はそうした状況から周到に隔離され、現実に人が死ぬという場面には遭遇しないのである。
このような抽象システムによって創られる現実のなかでの、リアルさの無いリアリティ。日常と非日常との境界線が、無くなりつつあること。戦争の日常化と日常の戦争化。こうしたなかで、僕らの現実に対する感覚はだんだんと麻痺し始める。僕らは、戦争を考えないようにし、僕らの身の回りから戦争というものを排除しているというわけではない。もしかしたら、戦争は僕らの日常にすでに組み込まれているのではないか。
この不気味な状況をみごとに表現していると思う。

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紙の本悪人 上

2010/03/07 20:20

ふたりぼっちの世界の儚さ

5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この作品は、言葉にすれば非常に単純で常識的なことを言っているように思える。
「人間は、善良な側面と邪悪な側面、両方を併せもつ存在である」。
あたりまえのことだ。こんなことは、誰でもいえる。
けれども、そうしたことをある程度のリアリティや強度をもって描くことのできる人は少ない。この小説の秀逸のところは、当たり前のうちにあるリアリティやその深さ・深淵をきちんと提示していることにある。

「人間は、善良な側面と邪悪な側面、両方を併せもつ存在である」と、われわれが感じるのは、他者との関わりにおいてである。「良い-悪い」ということは、「具体的な対他的な関係性」のなかで生まれるものだ。
われわれは、取り結んでいる関係に従って、自分の内面を開く加減をおこなっている。簡単にいえば、われわれは対他的な関係のなかで、他者に対して見せていい部分と見せない部分を微妙に調整している。
それゆえ、対他的関係のなかで生じる人格は、多元的にならざるをえないし、関係性が多様化すればするほど、同様に人格のありかたは複雑化する。この小説が描いているように、ある人はある他人にとって悪人に見えるし、また他の他人にとっては善人であるように映る。

この小説が素晴らしいのは、多様化する関係性、それに伴う対他的パーソナリティの多重化を、ある殺人事件をフックとし、多数出てくる登場人物の視点を多様に交差させながら、描ききっていることである。そしていうまでもなく、そこのなかには人間のありとあらゆる感情が表現されている。
文章のなかで、こうした現代的なリアリティが析出されている。この小説を味わうポイントは、ここにあると思う。

この小説は、いろんな読み方ができると思う。例えば「ミステリー」として。
自分はこの小説を「恋愛小説」として読んだ。というか、読み終わって「すぐれた恋愛小説だ」と思った。
同時に、恋愛小説としてのこの小説のモチーフは、なにかに似ているとも思った。
そこで思い出したのが、フィッシュマンズの「頼りない天使」だ。

 なんて素敵な話だろう
 こんな世界の真ん中で
 ぼくらふたりぼっち

吉田修一も佐藤伸治も、「ふたりぼっちの世界」がかくも儚いものでしかないということを表現しようとしている(た)と思う。

関係性が多様化し、人格が多重化すればするほど、「ホントウノジブン」をさらけだすことのできる「Only One」な関係が希求される。けれども、こうした関係性の複雑化は、「Only One」な関係を作り出す条件であるとどうじに、その関係自体を破壊するものである。それゆえ、この「Only One」な関係は、「ありそうでないもの」のように感じられる。
この「ありそうでないもの」を求めざるを得ない存在であること、そうした存在であることの空虚さや切なさ、そして、強さややさしさ。吉田修一が人のなかにみるものは、そうしたものなのだと思う。

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紙の本残虐記

2009/01/13 04:40

「想像力」の彼岸に向けられる「想像力」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは、桐野が新潟の幼児監禁事件にインスパイアされて書いた小説である。

この小説を一読して思ったのは、なにかを想像している自分というのは、いかなる存在なのかということを桐野自身が顧みながら描いた小説ではないかということである。

桐野が新潟の事件からインスピレーションを受けて描くのは、誰もが想像する加害者に対する被害者の強烈な憎しみではない。
桐野が彼らの間に見たものは、憎しみと真逆の関係性である。
桐野の小説では、監禁した犯人と監禁された少女との奇妙な精神的結びつき、正確にいえば、イマジネールな領域における性的な結びつきが描かれている。

この小説において、監禁された少女は小説家となり、自らの体験を小説にする。正しくは、自らの体験を小説にすることで小説家となった。
この小説の妙は、主人公が小説家であり、小説家として過去の事実を語るということころにある。
主人公は過去の事件の真実をありのままに描いているというように読者は読み進めるのだが、最後に、実はそれがフィクションかもしれないということが明らかとなる。
桐野はフィクションのなかでもう一つフィクションを重ねるのである。
そうすることで桐野は、現実はフィクションの一つにすぎないとか、現実はフィクションによって構築されるものだといった陳腐な社会学的テーゼを繰り返しているのではない。
桐野は、フィクションを多層化させ、想像を加速させることで、そうした社会学的思考や「現実は小説より奇なり」という平凡なリアリズムを徹底的に破壊するのである。
想像に想像を幾重にも積み重ね、その境界においてわれわれが発見するのは、人間の深層の捉えどころのなさなのである。
この小説の凄味は、想像のリミットにおいて浮かび上がる、人間の不気味さの「リアリティ」である。

想像力を削ぎ落とした徹底した「リアリティ」と、想像を追求したうえでの「リアリティ」、どちらがより現実性を感じることができるか。
この小説は、こうした問いを立てているようにも思える。
しかしこの問いは、後者においてすでにイマジネーションが介在している点において、比較ということにおいて無意味だ。
問題はそうではない。

「欲しいのは真実じゃないんですよ」…「真実に迫ろうとする想像です。想像の材料、そういうものが欲しいんだよ…」

問題なのは、「想像」そのものなのである。
結局、この小説全体において示されているのは、「想像に魂を奪われた」ことの意味であり、なにかをきっかけとして駆動される想像への偏愛なのである。
われわれは想像力によって現実から守られ、救済される。そして想像力のなかで、われわれは現実から離脱することができ、想像の中でどこへでも行けるのである。われわれは想像の中で自由になれるのである。

しかし、想像する主体である自分は、他者によって想像される対象でもある。想像する主体は、他者の想像の中で、弄ばれ、凌辱される存在でもある。そして、 そのような他者の想像をみずから想像することもできる存在なのであり、そうした自らの想像によって苦しみを受ける錯綜した存在でもあるのだ。
つまり、われわれは想像の中で自由となり、想像の中で拘束されてしまうのである。
桐野は、このようなわれわれと想像の複雑かつ宿命的な関係を、フィクション(想像)によって描くという自己言及的作業において、指し示しているのである。
桐野は、想像と不可分な存在とはいかなる存在なのかということを問うと同時に、その問いの答えを追求することによって想像力の限界を強引に押し開いていくのである。
こうした知的力技によって紡ぎだされた卓抜なフィクションは、想像力の彼岸にある「なにか」へと向けられるわれわれの想像力に火をつける着火装置(スターター)なのである。

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紙の本バスジャック

2006/03/24 18:25

日常からの脱出・日常への滞留

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『となり町戦争』に続く作品。僕は以前この本を、戦争が目に見えない形で日常に侵入している事態を描いていると評した。『バスジャック』を読んで、それが間違いであることに気づいた。三崎が描こうとしているのは、そのような非常事態ではない。
彼のテーマはあくまでも「日常」なのである。彼の言葉を使うと「ずっと続いていく」日常である。「送りの夏」に次のような会話がある。
 「続けていくものではなくて、続いていくものなんだよ。晴れる日もあれば雨の日もある。日照りの夏があれば、時には嵐の〜夜も〜ある〜〜っとね」
 幸一は、最後の部分は節をつけて歌にしてしまった。
 「続けていく、じゃなくて、続いていく、か……」
 麻美は納得したような、はぐらかされたような複雑な気持ちで、手元の平らな石をつかんで立ち上がるアンダースローで投げると、波のない海面で、石は二度、三度と水を切って進んだ。それで麻美の気持ちは幾分すっきりした。石の軌跡を見つめて、幸一が呟く。
 「そう、続いていくんだ。続いていかなくちゃならないんだ。」
 その呟きは、麻美にではなく、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「続けていく」日常と「続いていく」日常。この表現の仕方は、どう違うのか。
そこには、主体が介在するか介在しないかという違いがある。
「続けていく」日常は、主体の意図が入り込んだものとして捉えられる。「続いてく」日常は、主体の意思とはまったく無関係なものとして捉えられている。つまり、筆者は、我々の意思では、どうにもならないものとして「日常」を捉えているのである。日常とは、我々の意思とは無関係に我々の行動を規制する不条理なものなのだ。
「動物園」では、動物を人間、「檻」を日常のメタファーとして描いてる。日常とは、抜け出したいけど、抜け出せない頑丈な檻なのだ。
 「誰にでも日常を放擲したいという願望は訪れる。運転をしていて「今ここで思い 切りハンドルを切ったら」と思うってしまうような。実現させえないからこその、 破滅への刹那の欲望。
 (略)
 丘の高みから見下ろす。雑多な町並みに朝の光がさしていた。遠く都市高速の高架を車が行き交い、着陸態勢に入った飛行機が、速度を感じさせないまま舞い降りようとしていた。
 私は眼をつぶって、大きく息を吸う。この日常の日々は、劇的でもなく、華やかでもない。まるで、緩やかな起伏の坂道を思わせる。私はそんな人の営みを一瞥して飛び去るヒノヤマホウオウにあこがれる。ほんの一瞬だけ。」
 しかし、そうした日常化から脱出したいと願うが、その檻がはずされたとしたら、どうするだろうか。筆者は、その抜け出したい日常にこだわり続ける。不条理な日常から脱出するわけでもなく、不条理を道理あるものとするのではなく、不条理を不条理のまま肯定する。これこそ筆者のテーマなのだと思う。
「今この檻が突然なくなってしまったら、ヒノヤマホウオウはどうするだろうか? あの時のように一瞬で飛び去ってしまうのだろうか? ううん。私は首を振る。きっとホウオウは、無限に開かれた自由な空を見上げて、一度だけ羽を大きく広げるのだ。そして、いつでも飛んでいけることを確かめて、やはりここにとどまるのだろう。」

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紙の本ニシノユキヒコの恋と冒険

2006/12/19 22:18

とりとめのない宇宙で居場所を見つける

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「切ない」。
この一言以外に言葉が思い浮かばない。
この小説は、ゴースト(幽霊)の物語である。
物語のはじめから(『パフェー』)主人公は「死んでいる」。そうした意味において、この物語は「ゴースト」の物語である。また、ユキヒコの立ち振る舞いは、つねにそこにいるようでそこにいないような感じなのだ。どこか掴みどころがないのである。まさしく、ユキヒコは幽霊なのである。
この幽霊は、おかしな言い方だが、なにかに取り憑かれたように女の子の中に何かを求める。そして、そこになにもないということを確かめるように。そして、自分が無力であることを確認するかのように。
この幽霊の魂は何を求めて彷徨っていたのか。
「膨張する宇宙の外側が何であるかを、知ることができただろうか。生きて、誰かを愛することができただろうか。とめどないこの世の中で、自分の居場所をみつけることが、できたのだろうか?」(p.270)
ユキヒコの霊は、この「自分の居場所」を捜し求めていたのだ。それゆえこの小説は、ある意味題名どおりニシノユキヒコの「冒険譚」なのである。
結局、彼はとりとめのない世界で居場所を見つけることができなかったのだろうか?生きている間、彼は居場所を見つけることはできなかった。だけれども、彼が死んだ後、幽霊となり夏美さんのところへ訪れる。そこで小さな「お墓」を作ってもらう。このお墓は、彼がこの世に存在したという証拠であるし、彼の魂の拠り所となったのかもしれない。
しかし、それが本当に「弔い」となったかどうかは分からない。彼の魂は、次元を変え、未だに居場所を求めてさまよい続けているのかもしれない。彼の「冒険」はまだ続いているかもしれないのである。

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紙の本OUT 上

2005/02/20 15:53

「過去に生きる」か「未来に生きる」か

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

文庫本の解説で松浦理英子が解説しているように、この小説は「階級」を一つのテーマにしたものである。が、そうした先入観を抜きにしても、本当に読み応えある作品である。緊張感が最後まで漲っていて、一気にラストまで読めた。久々に「本を読んだ!」という気分にさせてもらった。

確かに、テーマは「階級」なのだろう。
しかし、僕はこの小説を「自由」をめぐる問題をテーマにしていると読んだ。
正確に言うと、ドロップ・アウトしてしまった状況で「自由が希求」される意味と何かということ、そして「希求される自由」とは一体なんなのかということである。具体的に言うなら、あたえられた条件の中で「どう生きるか」といった実存的なことを主題にしていると読めた。

クライマックスで雅子と佐竹のまったく正反対の「生」(=生き方)が現実的・肉体的に交叉する。
佐竹は、ある女をレイプしながら惨殺したという過去に自分の生の根拠を見出している。佐竹は、女を殺したという過去を隠蔽し囚われ続けて、そこに閉じ籠もったままだ。佐竹は「女と自分を過去に封じ込めて、そこに魂の自由を夢見る男」なのである。
一方の雅子は、子供は家庭の中で口をきかず、夫は自分の中に閉じこもり、自分は夜勤のパートというハードな底辺の作業をしながら、絶望のなかで生きている。
佐竹は、雅子のなかに昔の女の影を見て、かつての行動を反復しようと欲望する。そして、実際に佐竹が雅子を暴力的に陵辱するとき、二つの「生」が交叉する。つまり、過去に自由夢見る男と絶望の中に生きる女が「交わる」。
そしてこの「交わり」は、雅子の「生への欲動」を「産む」。

「佐竹は虚ろな夢に生き、雅子は現実を隅から隅まで舐めて生きる。雅子は、自分の欲しなかった自由は、佐竹の希求していたそれとは少し違って伊いることに気付いた。雅子はエレベーターのボタンを、力を籠めて押した。これから航空券を買うつもりだった。佐竹とも、ヨシエや弥生とも違う、自分だけの自由がどこかに絶対あるはずだった。背中でドアが閉まったのなら、新しいドアを見つけて開けるしかない。」

結局、佐竹は雅子のメスによって致命傷を負い、毀れたものどうしという連帯感に包まれ雅子に看取られながら死ぬ。
筆者がこの作品で最終的に描きたかったのは、過去から現在を志向するトラウマ的な佐竹の生き方と、未来へ自分を投企し続ける反トラウマ的な雅子の生き方である。そして両者を併置しながら、後者の生き方の可能性を指し示しているのである。

桐野が描いたフィクションは、階級分化していく日本でこれからだんだんとそのリアルさを増してくるはずである。「負け組み」という「OUT」な絶望的状況のなかでの「自由」とは? そのような問題を先んじて取り上げた作品なのだと思う。


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紙の本ランドマーク

2004/09/15 18:18

無機質化し交差しないリアル

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 吉田修一によって描かれる人物は、どこか壊れている。
 その壊れ具合がとても絶妙であり、彼の小説を読むと、その内容が非常にリアルに感じられる。

 『ランドマーク』の主人公は、建築士の犬飼と彼が設計した「O−miya スパイラル」を実際に造っている鉄筋工の隼人。犬飼は、紀子という妻がいるが、年下の菜穂子と不倫中。隼人は、ネットで買った貞操帯を下半身に身に付けている。彼らは、「計画した人」と「実際に造っている人」という関係にあるが、彼らの「生」は決して交差することはない。彼らが建設しているビルのように捩れ続ける。一方はリッチなハイ・クラスの暮らしを送り、一方はアンダー・クラスの生活。
 この小説には、このような対照的な「生」が平行して描かれているのだが、さらにこの交差することのない二つの「生」の両方を侵食している不気味な現実をも描いている。

 この小説には、「肉感」と呼べるような記述がほとんどない。人間に不可欠な要素である「身体」、それが触れ合うときに感じる、あのなんともいえない感覚(「ギュツ」「ムギュ」という表現で分かるだろうか?)、その感覚を喚起するような記述がほとんどみられないのである。

 出てくるのは、貞操帯やコンクリーといった無機質な物体だったり、中華料理屋の入り口に取り付けられた機械の「ピロリロリン、ピロリロリン」という無機質な音である。

 『ランドマーク』で描かれているのは、人と人(=肉体と肉体)との接触が、その質感を喪失させている現実、肉体的な交流が拒否・禁止されている現実、人と人とがつながるとき、無機物を媒介にしてしか繋がらない現実なのである。

 街に出れば、電子音が「電車が通過します。お気をつけください」「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と言っているのを何度聞くだろうか。
 
 吉田は、街の中を歩くと感じる、あのザラついた嫌な感覚の出所を的確に表現しているように思える。



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紙の本彼岸先生

2006/10/27 02:32

彼岸と此岸のあいだ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「絶望はいい。ニヒリズムは悪徳だ。」(柴田翔)
この小説は出だしにすべてのことが書かれてある。
——もう人間はいなくなってしまった。人間の影だけだ。現実もまた消えてなくなってしまった。そして、フィクションだけが残った。私も君も、一切が途中であり、しかもすべてが終わっているフィクションの吹けば飛ぶような登場人物に過ぎない。
菊人は、先生を反面教師として(とは必ずしもいえないが)、
世の中と折り合いを付けた。
その折り合いの付け方とは、
「諦め」というような「世の中何もありゃしない」という
単純なニヒリズムではない。
「「諦めること」を諦める」という逆説的にポジティヴなものだ。
ここでいうニヒリズムとは、
「いま-ここ」だけしかないという諦めである。
またここでいうポジティヴというのは、
「いま-ここ」ではない「どこか」(彼岸)がある可能性を否定しないが、それを拒否しつつ、「いま-ここ」へ回帰するということである。
菊人は、彼岸の不可能性を感取し、「いま-ここ」へ回帰する。
が、そこへとどまり続けようとしているわけではない。
回帰した場所からも自由でいられること、これが肝要なのである。(ここがニヒリズムとの違いである。)
「此岸」と「彼岸」の両岸の間で宙ぶらりんのままでいること、
これが折り合いを付けるということなのである。
そして、宙ぶらりんのままいつづけること、現実とフィクションとの「あいだ」にいつづけるためには、「想像力」が必要なのである。
その想像力とはなにか?
「一切が途中であり、しかもすべてが終わっている」という矛盾の中を、その矛盾を止揚せず、矛盾を抱えたまま生きるために必要な能力なのである。

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紙の本エコノミカル・パレス

2005/12/29 03:35

目標設定能力の格差

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この小説は、人生の目的・労働の意味を巡るものだ。
主人公には、この目的がない。
同棲相手のヤスオ(仕事を辞めたプー)と主人公は以前、
アジアへ放浪旅行に行き、主人公はスリランカで病気に罹った。
その時助けてくれた聖地巡礼途中の家族に向かって、
主人公は、あなたたちがうらやましいと言う。
「私だってあなたたちがうらやましいと、だから私は言いかえした。家族全員で、こんなにたのしそうに、待ちに待ったのであろう巡礼にいけるなんてとてもうらやましいと言うと、女はぽかんとした顔つきで私を見る。うらやましいのはあなただとくりかえしながら、なぜか、しまったと心のなかで思っていた。しまった、言うべきではないことを言ってしまった、と。ものがあふれるなかで清貧を賛美するような悪趣味なことを口にしたという気持ちではない。もっと何か——自分たちの旅にまつわる決定的なことを、思わず漏らしてしまった気がした。それがいったいなんなのか、しかし今は考えるべきでない気がして、私は女に笑いかけた。」
そして主人公34歳の現在。
「羨ましいと自分が口にした理由が、今なら分かる。彼女たちには目的地があった。目的地は折り返し地点だ。目的を果たせば人は帰ることができる。あのとき私が彼女たちを羨んだのは、だからだったに違いない。」
目的がないということは、現在も同じなのである。
主人公は、長期的な目的が設定できないでいる。
その代償として刹那的なそれを設定する。
主人公は、携帯電話で知り合った立花光輝との出会いに、絶望的な状況を変えるような何かを期待する。
「プライドばかり高い無能、いつだったかヤスオがそんな単語を口にしていたが、私も所詮、そのような種類の人間なのかもしれない。雑居ビルに貼られた、黄ばんだ張り紙から目をそらし、空を仰ぎ見る。空はくっきりと青い。私はかつて、いったい何になりたかったのだったか、そんなことを思う。みずからにどのような希望を持ち、どのような期待を抱き、どのような目標のもとに日々をすごしてきたのだったか。空に引っかき傷をつくるように、長く細い雲を引いて飛行機が飛んでいく。」
立花光輝は、一応大学に属しているが、料理人になりたいという目標を立て、大学を辞めて専門学校に行く決意を固めていることを主人公は知る。
それを知ったとき、
「ジグソーパズルの最終場面にとりかかっているような高揚した気分が湧き上がるのを感じ」、「人生にはすべて意味がある」と大きく頷く。
主人公は彼のために金を工面しようと決意する。
主人公は、思いつきの目的のために嫌な仕事も簡単にこなしてしまうようになる。
しかし結局、この主人公の目的は、些細なことで潰えてしまうのだが。
これらのエピソードが暗示しているのは、仕事と目的との関係性である。
この小説で3つの関係が示されている。
主人公:刹那的目的を見つけ仕事に勤しむ
ヤスオ:なんの目的もなく仕事をする
立花:明確な目標があり仕事をする(バイト先のマスターもこれに入るだろう)
これらの登場人物が示しているのは、現在の労働者がこのように階層分化しているということである。別の角度から言うと、ある個人の「目的を設定(発見)する力」によって階層分化(勝ち組・負け組)が引き起されているということである。
『希望格差社会』とか『下流社会』という言葉がある。
こういう言葉で表現される現在の労働状況・階層化をリアルに表現した作品といえる小説である。

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紙の本禅的生活

2004/09/02 02:25

「はんなり」と生きる

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「なにも釈明するな。なにも消すな。あるがままを見て、語れ。きみには、事実を新しく照らしだすものが、見えるはずだ。」(ヴィトゲンシュタイン)

この本は、「人間どういきるか?」という実存的な問いを禅僧の立場から論じたものである。と、堅苦しく書いてしまったが、このような言い方は本書を評するに最もふさわしくない文章であろう。

「どないしたら楽に生きられるやろ?」という本当は重くない質問に、「んなもん、なにも考えんほうがええねんって。ボケーとしてみぃ、なにも考えられんくなるやろ? そやって生きたらええねん。で、余計なこと考えるのやめなはれや。そしたら、楽に生きられるで。」と軽く答えられた、そんなような本なのである。

なぜ楽に生きられないのか? 何が人生をつらくしているのか?

この問いに対して、筆者はこう答える。それは、われわれがこれまで身に付けてきた価値観や好き嫌いに固執しているからである。確かにわれわれは価値観や好き嫌いがないと生活できないし、生きられない。『我々はそれを「方便」として自覚しながら社会生活を送るのだが、ともすればそれが「方便」だということをすぐに忘れる。だから思うようにならない事態に直面すると、自分の価値観を絶対視して本気で鬼のように怒るでのある。」
だから、そうした価値観や好き嫌いを捨ててあるがままに物事を見てみたら?といっているのである。捨てられないのなら、別の考えに思いをめぐらせてみようと言っているのである。
「先入主のない心を持つ」これが楽に生きるコツなのである。(筆者はこれを「風流に生きる」と表現する。)
それでは、「先入主」を持たないためにはどうすればいいのだろうか。筆者が答えるには、経験を抱え込まないことが必要なのである。そうすれば、毎日見るものでも、常に真新しく新鮮に目に映る。(これが「一期一会」の意味である。)だから、昔の禅僧は自分の名前に、そのような意味をこめて「無学」「大愚」「無文」と付けていたらしい。
なるほど、つまるところ、楽に生きるためには、

「馬鹿になれ」(@アントニオ猪木)

ということなのであろう。
(なるほど、猪木は悟りの境地を言語化していたのか…猪木恐るべし)

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