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柊ショコラさんのレビュー一覧

投稿者:柊ショコラ

2 件中 1 件~ 2 件を表示

紙の本世界は密室でできている

2004/09/08 00:01

誰もが密室を抱えて生きている…舞城ファン必読!!!

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 舞城王太郎の三冊目の講談社ノベルス作品。舞城ワールドの出発点たる奈津川家サーガの番外編にして、著者唯一の本格的青春小説。デビュー作『煙か土か食い物』ではあっけなく殺されてしまった名探偵ルンババ12の青春時代の活躍と葛藤が幼馴染みの親友、西村友紀夫の視点から語られるとともに、東京への修学旅行中に運命的に出会うヒロイン井上エノキと友紀夫との、とびきりキュートなボーイミーツガール・ストーリーでもある。その語り口のナイーヴさにサリンジャーを思い出す人も少なくない(例えば仲俣暁生や豊崎由美)。
 しかし、それだけではない。二つの理由からこの小説は舞城作品の中でも極めて重要な一冊である。
 一つは、舞城自らが執筆の舞台裏を明かしていること。基本的に小説とイラストしか発表しないこの覆面作家にあっては極めて例外的と言える。問題の文章は「群像」(二〇〇三年十二月号)の現代小説・演習という企画に掲載された愛媛川十三「いーから皆密室本とかJDCとか書いてみろって。」。奈津川家サーガの読者ならすぐにピンとくるだろう、愛媛川十三=舞城である。この現代小説・演習は、毎回評論家が「こんな小説を読みたい!」とオーダーし、それを踏まえて小説家が短編小説を書くというコラボレーション企画なのだが、この号では奇妙なことに、小説家愛媛川十三が自らの執筆経験を紹介しつつ、他ならぬ舞城王太郎に「完璧な小説」を注文するという自作自演になっている。
 さて、愛媛川十三は『世界は密室でできている。』の舞台裏を次のように語る。密室本の執筆依頼を受けた後のこと。

 アホらしい!と思って断ろうと思ったけど、ちょっと待てよ、(中略)「密室」って必ずしも中に死体があって犯人がどうやって出入りしたんか判らーん!ってことなんか? ホントはほんだけじゃねえやろ?(中略)「密室」って言葉を「閉じ込めること、閉じ込められること」に解体したとき、俺はこの世にいろいろ散らばるたくさんの書くべき事柄を得た。そうなのだ。「密室」って言葉もまたいろんな意味を持ちうる。

 本書へ戻ろう。上の引用と『世界は密室でできている。』という標題からは、舞城が「密室」の意味を空間的に拡張した上で、いわゆる「事件の謎を解く=世界の謎を解く」型のミステリーを企図したように見えるかもしれない。だが、実際に舞城が本書で試みたのは「密室」を一種の特殊な時間を表す概念として描くことなのだと思う。ルンババとエノキは、二人とも尋常ならざる形で姉を失った経験を抱えて生きており、それが少なからずトラウマになってしまっている。姉の死という過去に閉じ込められている。それは年齢を重ねても燻り続ける、人生における「密室的時間」であり、それを乗り越えなければ大人にはなれない。そして、これを解体してやるのが主人公友紀夫の役割なのだ。どんなに密室殺人事件を解決しても壊せない、名探偵ルンババが抱える密室的時間という呪縛、友紀夫はそれを鮮やかに解き放つ。そしてエノキにも約束する。彼女が人生の密室を解かねばならない時がきたら、そばにいてあげることを。こんな優しさもあっていい。
 さて、この小説が重要であるもう一つの理由は、先述の現代小説・演習に愛媛川十三の注文に応える形で書かれた短編「私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる。」に求められる。こちらにも西村友紀夫という人物が登場するが、なんと彼は「舞城王太郎」名義で小説を書いている! 登場人物名を別の作品の異なるキャラクターに使い回すのは舞城の常套手段だから鵜呑みにはできないが、こちらの友紀夫のそばにもやっぱりルンババとエノキがいる。それに、思い入れのない登場人物に舞城王太郎を名乗らせるだろうか? 『世界は密室でできている。』とその主人公への作者の深い愛着を感じずにはいられない。 

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物語のような評論

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 私は安房直子の熱心な読者ではないが、本書を読了した時、ここで引用されている数多の安房直子作品を実際に自らの眼で通覧したかのような錯覚を覚えた。そして、そのような傲慢な印象を抱いた自分を訝しく思ったが、次いで、「ああ。この本は物語のような評論なのだ」という第二の印象が訪れるに至って合点がいった。
 第二の印象には、実は伏線がある。先日、文芸評論家の仲俣暁生氏のブログを読んでいて大変刺激的な考えに出会い、それがずっと引っかかっていたのだ。氏は舞城王太郎氏の小説を論じた文章の中で「すぐれた物語というのは極めて批評的なものだ」という趣旨のことを書いていた。即座に一つの疑問が浮かんだ。その逆は成り立つのか? すぐれた批評は極めて物語的なものであるのか?
 もちろんこれはすぐに答えを出せる類の問いではない。しかし私は、『こころが織りなすファンタジー』によって、物語的な批評・評論というものが確かに存在することを知った。

 本書の眼目は、安房直子の物語的想像力の在り様を、全二七〇編の作品を視野に入れた上で明らかにすることにある。本書の冒頭近く、「私の心の中には、メルヘンの森とでもよびたい、小さい場所ができて」おり、その森の住人のうち「ひとりをつれて来て、これから書く作品の主人公にします」という安房直子の発言を引いた上で著者は、「これから、この森の中を、(中略)私たちは少しずつたどってゆく」と宣言する。この「森」こそが安房直子的想像力に他ならない。
 とはいえ、著者の道のりは容易ではない。喩えて言えば、森の中に池があり、洞窟があり、きこりや熊やうさぎが棲んでいることは知っているけれど、それぞれの在り処や居場所も分からねば、池から流れる小川がどこへ流れていくのか、森の住人達がどのように小川と関わっているのか、そもそも本当に小川が流れているかも分からない、そういうところから著者は出発するのである。
 しかし、冒険小説の主人公のように道なき道を切り開いてゆく著者には強力な武器があるのであって、それは全二七〇作品を視野に収めていることと、著者自身の想像力に富む着眼点に他ならない。著者は数々の独創的な切り口によって安房作品を分類し、結びつけ、彼女の物語的想像力を一枚の森の地図として描いていく。とりわけ、作中人物が(たとえば「小夜」のような固有の)名前を持つか否かに着目して安房直子的想像力の伏流に迫る第七章の切れ味鋭さは特筆に値する。
 やがて、森を彷徨う著者の旅は、いつしかそれ自身が一つの物語であるかのような観を呈してくるのであり、読者は、まるでその物語の様々なエピソードに接するかのような心持ちで安房作品の引用に触れることができる。冒頭に記した私の二つの印象もここに由来するのだと思う。著者紹介によれば、著者自らも童話や純文学の書き手であるようだから、安房直子の物語的想像力を追いかけるうちに自らのそれが触発され、躍動を始めたとしても不思議ではあるまい。
 そして、安房直子の物語的想像力の最深部、物語る動機にまで光を当てる最終章(及び巻末の年譜)こそは本書の白眉であって、ここにおいて著者の旅路も幕を閉じる。

「物語のような評論」である本書を読了して私は、やはり評論というものは読者をワクワクさせてくれるものでなければならない、との思いを強くしたのだった。(評論について言うのも変だが)著者の次回作が待ち遠しい。

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