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レビューアーランキング
先月(2017年8月)

ツカサさんのレビュー一覧

投稿者:ツカサ

8 件中 1 件~ 8 件を表示

奇妙であることが普通の日常

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

何が普通で何が異常だなんて、本当は誰にも決められるべきことではない。マイノリティであるから異常だという定義の世界は、ひどく苦痛だけれど、案外苦痛だと思わなければおもしろい人生を歩めるのではないかと思う。

著書の藤森直子は現役SM嬢でバイセクシュアルである。同棲中の恋人がいて、彼女が留学のため旅立つと今度は家出少女と恋仲になり同居する。セックスフレンドが何人かいて、彼らは捕まったり逃亡したりで入れ替わる。
彼女の描く日常は、日向でほのぼのと日光浴しているように穏やかだ。SM嬢といえば、耽美で退廃的なイメージを抱きそうだけれど、そのような雰囲気とは裏腹にやってくるお客はコミカルでかわいくて愛おしい。
行き着けのバーやカラオケで出会う人々も、一癖も二癖もあるのに魅力的だ。

こんなエピソードがある。
会話を放棄した男と主人公との別れのシーンで、「会話をしたいときには、男は相手に一千万円払う。自分は百万円払う」という契約を自ら破り、「生きてね」と男に言う主人公。最後まで無口のままで通すと思われていた男も「生きろ」と言い、そして差額の九百万を渡す。

そえぞれの街に思い出を大事に残して、次の街に旅立ってきた主人公はそうやってまた新しい街に新しい自分となって向かうのだろう。胸がつまるシーンだけれど、一番好きだ。
そして、「生きろ」の意味。
生きていくことは面倒だし、すぐにでもやめたければやめられるものだ。けれど二度と会わない関係だろうと、関わりを持った相手への愛情と願いと敬意をこめて発せられたその言葉は、清清しく、生への希望を思い出させてくれる。

藤森直子は今もまだ、どこかの街で奇妙な仲間たちとのどかな日常を送っていることだろう。

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Pink

2004/10/03 16:41

大好きなものたちに囲まれて

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 主人公のユミがワニを飼っているのを見て、私も思わずワニを飼いたくなった。
 そのためには、ユミがとっている手段と同じく、高額なアルバイトを今の生活と並行して行わなければならない。
 ホテトル嬢という、言わば非合法の売春をして高い金を稼ぎ、それでワニを食わしてグラビアに載っているような生活をする。
 うーん、私にはちょっと無理かも、と思いを断念する。
 ユミはピンク色のものが大好きだ。花屋でピンク色の薔薇を数本買い、家に帰ってからそれをぼんやりと眺める。その様子は呆然だと言ってもおかしくないほど、ただ、陶酔とも違う様子で見つめている。その次のコマには、「ピンク色って本当に好き」と呟く。
 常に自分をシアワセの中に置くために、彼女は生活の仕方を選択しているのだ。

 ピンク色の薔薇やワニのいるグラビアのような生活を続けるために、ユミは自分を使った労働の部分を極度に感じないようにしている。
 普通、人は様々な苦しみや喜びを同じように感じて生きている。しかし、そのどれかをセーブすることによって、人よりも楽しいことやキツイことをやってのける人間も存在している。
 私にはユミの真似が無理だ、と思ったのは、ユミと全く同じ道を歩んだ場合、そこにしがらみや苦しさが発生して、押しつぶされてしまうだろうことが予測できたからだ。
 彼女は、その部分をあらかじめ排除して生きているように見える。
 
 シアワセなんて当然じゃない? とユミが言い放つシーンがある。当然のことなのに、シアワセを再々口にしては、本当に嬉しそうな顔をするユミ。当然であるからそれに麻痺しているわけでもなく、シアワセはシアワセとしてちゃんと彼女の中で機能している。
 つまり、彼女にとっては不幸であることがあり得ないことなのだ。
 シアワセじゃなきゃ、死んだほうがまし。彼女の母親は、彼女にずっとこう言い続けていた。その結果、と安直に思うのは間違いだが、不幸になったことで自殺してしまった母親を目の当たりにしたユミが、そう当り前のように思うのも無理はない。

 さて、ユミは本当にシアワセなんだろうか。
 答えは、この本の中にあるかもしれないし、ないかもしれない。
 けれど私は、「幸せを恐れる者は幸せになれない」という言葉どおり、シアワセを噛み締めることのできない者はシアワセには程遠いだろうと思う。
 作者の放ったラストシーンは、果たしてユミにとってはシアワセだったのか不幸だったのか。過剰なまでの選択肢をユミに委ねることで、彼女がその先どう生きていくのかは、読者に委ねられた想像の中だけである。
  

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世界中が愛し合っているみたい、っていう冗談

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

96年に、やまだないとが様々な雑誌で発表した短編が収録されている。
その中でも、表題にもなっており最後のシメも担っている『エロマラ』が秀逸だ。

やまだないとは、マックで漫画を描く。それゆえ、線やコマ割が独特である。また、登場する女の子は唇が暑く一直線の眉毛に大きな黒めがちの目をしていて、エロティックな魅力をふんだんに漂わせている。
『エロマラ』の主人公トリコは、18歳になっても生理が来ず、訪れた病院で「常に男性と性交渉をもたなくては成長できない体」だと告げられる。
そこでトリコは「つまりあたしは、ペニスがないと生きていけない体なんだわ」と納得する。
成長しないことが死であるという極端な認識をしたトリコだが、愛とセックスを切り離している彼女にとっては、今現在に感じられるものしか求める対象にはなかった。
つまり、愛という不確かなものを排除し、快楽欲しさにコールガールをする日常を淡々と過ごすことに、何のうしろめたさもない。
しかし、快楽は快楽、愛は愛、という線引きをしていた彼女だが、シゲルという美術学校のモデルとしてやってきた男とセックスをし、そこで初めて愛のようなものを感じ、彼と同棲し始める。
その後、感染したら100%死に至るという病が世界で蔓延し、次々と友人たちが感染していくが、トリコの生きている日常とは別のところで起こっているように描かれる。
死がリアルではないというのは、トリコだけではなくトリコの周りの人間にも言えることであったが、ついにシゲルまでも感染してしまう。
物語は、トリコの語りで終焉を迎える。数カ月後に自分もシゲルも死んでしまうことを語りながらも、「なんだか世界中が愛し合ってるみたいだった。なんてね」とほくそ笑むトリコ。
死に侵されていく世界が、それでも快楽を捨てきれられずに滅亡へ向かっていく、ではなくて、不安や死がうずまく中で愛が散らばっているという様子を、そう言ってしまえる感情に衝撃を受ける。
衝撃とは、言うまでもなく、物語の中におけるトリコという人物像を明確に描く上での決定的な魅力の要素についてだ。
不安や孤独、恐ろしいものである死というものが、それに対峙しても朗らかにほくそ笑むことのできるトリコを、この台詞で描ききっている。

やまだないとという漫画家は、スタイル重視のオシャレ漫画家だと言われがちだが、こういう感覚一つとっても、素晴らしく力のある作家だと感じた。

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クレイジースマイル

2004/10/10 02:44

浮気するだろうと思いながらも、つい惹かれてしまう

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 チカという男とその周りの女模様の話である。

 チカがやたらと格好いい。女癖は悪いのだが、友達どうしである女三人にさらりと手を出す彼のやりかたはスマートだ。それゆえ、女癖が悪いと言ってしまうと語弊があるかのようにさえ思えてしまう。
 彼の場合、全ての遊びに対して真剣に楽しんでいる。しかし彼はつき合う女の全員に対して深入りせず、嘘は恋愛を楽しむ上での手段としている。
 
「女の持ちもんは化粧瓶一つとバーニング一丁でいい」
 これが彼の決め台詞。こんなクサい台詞を無邪気な笑顔を共に言うチカ。職業は翻訳家で長身の美形。編集者や出版社のバイトにまで手を出す彼だが、かくまっている女にあったかい手だと言われたときは嬉しかったと漏らす。
 ストーカーに困っていると言えば家の鍵をさらりと差出し、いつでも来ていいから、と言う。
 妊婦とヤるのは怖いとも言う。
 それから大嘘の「愛してる」を微笑を交えて言う。
 けれどどの言葉にも罪の意識はなく、本気ではない。
 それゆえ、彼に惹かれる女たちは傷つき、本気の怒りや悲しみを見せるが、結果的に彼との思い出を過去にあった良い思い出として「巣立ち」していく。
 まるで雛鳥を育てている親鳥のようなチカだが、それに性懲りもなく惹かれる女は後を断たない。
 むろん遊びだと割り切るにはうってつけの相手だが、本気でつき合いたいと思う場合には適さない。

 

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心に根を張る物語

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 この本を図書館で手に取ったとき、私はまだ小学四年生くらいだったと思う。「だれかを好きになった日に読む本」というネーミングに惹かれ、わずかに頬を紅潮させながら本を開いた。
 がしかし、全ての短編を読み終わったとき、当初に得ることができるだろうと予想していたような甘酸っぱい切なさなどはなく、えも言われぬ感情が私の中にはっきりと産まれていた。十歳ほどだった私にとって、その感情は理解しがたく、さらに許しがたいものでさえもあった。
 私は、両親にこの本を借りてきた事実を知られないようそっとランドセルに隠し、熱っぽい体で床についたことを覚えている。
 それから長い間、この本の存在は私の心の奥深くに封印されていた。
 成長期、思春期を通過するときでも、この本の存在を思い出すことはなかった。
 しかし成人したある日、ふとこの本の存在を強烈に思い出した。同時に、十歳ほどの私があのとき感じた、理解できなかった感情が、はっきりと理解することができた。
 私はすぐさまインターネットで本を探した。
 物語の印象は場面場面までも正確に思い出すことができるのに、本の題名は「好き」というキーワード以外に思い出すことができなかった。できるだけ思い出せるキーワードを打ち込み、そしてようやくこの本に辿り着いた。
 私の心に根を張っていたのは、収録されている川島誠の「電話がなっている」だった。
 ひらがなの多い字が綴る切ない恋物語は、点数至上主義への皮肉ともとれる近未来が舞台だった。中学生である主人公の恋は、性や生、皮肉な身分選別などを経て電話の鳴り止まないダイニングへと集約されていく。
 おそらく、私が初めて生々しい性というものを感じたのが、この物語を読んだときだった。その思いに辟易しながらも、ずっと意識に触れない部分でこの物語を根強く感じていた。
 様々な物語に出会ってきたが、ここまで意識下に根を張り、しかも増殖し続ける物語はそうないだろう。
 私は、あの日図書館でこの本に出会ったことを、幸運だと思っている。

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女子高生の実体

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 かつては高校の美術教師だったという作者の描いた、シュールな女子高生ギャグである。
 女子高生ものといっても、今どきの女子高生を踏まえつつ、それに向けた大人としての視線でアイロニーを含めて、ある種の賞賛すらしてしまうといった徹底されたギャグである。
 
 たとえば、ある高校では帰宅部が一番の厳しい部活であるという。帰宅部とは世間の女子高生の代表であり、態度と声はでかく、最低でもファーストフード店で二時間は居座り、常に意味もない世間話をしなければならないというのが部の規則である。
 部長である熱血な女子高生は、マックで唯物論と観念論について語っていた部員に対して、そんな真面目な話はするなと檄を飛ばす。
 さらに帰宅部には過酷な夏合宿があり、やはり意味もない世間話をしながら命をかけて厳しい山道を生き抜かなければならない。喋りながら、途中で誤って崖から転落した女子高生に対し部長は「そう……かおり、最後まで言葉乱れてなかったんだね」と涙を流して哀悼する。
 そんな女子高生たちに対し、著者は「こんなにもひたむきな彼女たちに対し、そっとガンバレと応援してあげてください」と呼び掛ける。

 また、作中に目立つのが、子供向けの教育番組のパロディだ。
 かわいいぬいぐるみとおねえさん、というお決まりのパターンを提示し、そこでSMをあくまでも愛らしくレクチャーする。明らかに実在する番組のパロディーだとわかるキャラクターまでも登場し、彼らにやはり性的なものを付属させて、そこでドラマ的な人間関係をさせてみせるということもする。

 とても、シュールである。がしかし、女子高生を記号化して、その細末に着目した主題のおかげで、シュールさが割と緩和されているのは、効果的だと言えるだろう。
少しずれた目で観察した女子高生像は、前作の「palepoli」を読んだときに感じた子気味の良い違和感と同じものがある。
不条理ギャグとも違った笑いを投げかけ、そこで苦笑する読者を見ながら、著者が笑いを堪えている様が目に浮かぶ。

 

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紙の本BABYいびつ

2004/10/10 03:04

素敵で不思議な不条理ワールド

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 三編からなる短編集。表題である「BABYいびつ」は一番最後に収録されている。

 主人公の通う高校にはシャボン玉工場があり、貧乏な生徒たちは授業が終わるとそこで働いて賃金を得ている。シャボン玉が製造される奇妙な音が響き渡り、学校の周辺では朝からシャボン玉が飛んでいる。
 作中の世界では、この奇妙な設定は幻想でもなんでもなく日常の中に組み込まれている。
 教会を象ったアミューズメントでは、整然と並べられた机の上に懺悔の証である、以前にそこを訪れた人間の置いていったものが残されている。何か自分の持っているものを一つ机の上に置き、懺悔する。それがこのアミューズメントで遊ぶ(?)方法であり、それは作中の‘現在’で一番旬であるらしい。
 物語には幻想世界と現実世界の境界がない。あるとしたらそれは、主人公の視点における不条理さの極地であろう。
 日常世界に突如現れた異物に対し、主人公は不思議な現象と奇妙な空間に足を踏み入れる。しかし、それが日常とはさほど違いがないこともあり、主人公も違和感を感じている節はない。彼女が違和感を感じて驚いたのは、幼馴染みの奇行と赤ん坊のあり得ない異変についてだけである。
 主人公は、自分とまるで正反対の幼馴染みに対して劣等感を抱いている。友情が捻れて、思春期という皮肉な時期の最中にいる主人公は、奇妙な世界で自分のいる場所を否が応にも確認する。
 
 山口綾子の著書はこの一冊だけだ。彼女の新しい作品を読みたいと思っているのは、私だけではないだろう。
 

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嵐の前の静けさ

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ラリー・クラークが公園で偶然知り合った若者と意気投合し、そのまま彼の脚本を映画にした作品である。
彼というのは、19歳で『KIDS』の脚本を書いて、一躍映画界の天才ともてはやされたハーモニー・コリン。

このお二方が組んでつくった映画『KEN・PARK』を見て興味を持った私は、彼らの映画のレビューをネットで読み漁った。
それでこの『KIDS』を見るに至ったわけだが、感想としては、様々なレビューで書かれているほど過激じゃないな、というところだろうか。
 
この映画は、二つのサイドから描かれている。
一つは、処女とセックスするのを生き甲斐にしているテリー側から。もう一方は、その少年に処女を捧げてしまったジェ二ーの視点。
テリーは、少女たちから処女を奪うときには、背中が痒くなるほどの甘い言葉を吐くのに、ヤッてしまったら連絡もとらない。
そのことを友人たちに愚痴っていたジェ二ーは、友人の一人がエイズの検査を受けにいくというのに同行する。
自分がまさかエイズに感染しているとは思っていなかった彼女は、検査結果が陽性だと聞かされて驚愕する。
そして、テリーを探して夜の街を徘徊するのだが……。

映画の中の少年少女たちは、エイズに対しての認識が非常に甘い。
「子供がエイズにかかったっていう話なんて、聞いたことがない」
と笑いながら言っているのだ。
映画が公開された95年前後は、まだエイズがそんなにも若者の間で蔓延していなかった時代だ。エイズの初期の病名に、「ゲイの病気」だという意味が含まれていた時代の名残りで、エイズに感染するとことは、彼らにとってまったくリアリティのないことだった。
それゆえ、反対に言えば、エイズ=致死病という認識も強く、主人公は呆然としながらも死に対する恐怖を抱えて絶望する。
テリーと言えば、ジェ二ーが見つけたときには、13歳の処女を手込めにしてる最中だった。
しかし、ジェ二ーは警告もしないまま、テリーに部屋のドアを閉めろ! と怒鳴られて部屋と後にする。

当時の若者にとって、セックスと死はあまりにも遠い存在である。生を産み出す行為、快楽を得る行為との認識はあっても、それによって死に至る病に感染するというのは、まったくの虚偽としか受け取れなかったのである。
がしかし、今現在の若者はどうだろうと考えたとき、やはりエイズ感染者が増えているところを見ると、認識の甘さは相変らずなのかもしれない。

この映画は、ラストが皮肉めいていておもしろい。
ポップな流れに、重いテーマがトッピングされた『KIDS』は、時代背景を巧みに取り入れた子供だけの世界を、上手く描いている。それは、脚本を手掛けたハーモニーが、やはり彼ら同様若者だったからかもしれない。


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