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  3. Tabbyさんのレビュー一覧

Tabbyさんのレビュー一覧

投稿者:Tabby

16 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本ハートで感じる英文法

2006/04/18 09:24

English塩梅

19人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 あまりに突然なことなので、いったい何が起こったのかわからないほどであった。
昼休みに焼サバ定食を食べていたときのことである。焼サバを一口食べるや、
あまりの辛さに、頭までしびれてしまった。辛い、辛すぎる。
いくら塩サバであっても、この辛さは尋常でない。
無理に飲み込んだ後も舌がヒリヒリしていた。魚でなくて塩を食べているようだ。
これではとても食べられたものではないと、店員さんを呼んで、取り替えてもらうよう
言った。平謝りして、「すぐにお持ちします」と言う店員さん。
壁を隔てて隣にある厨房に戻るやいなや、大きな声がして驚いてしまった。
「バカヤロー!いくら塩を入れたんだよ!」と言うのはさしずめ料理長だろう。
それに答える「シオヲ『ヒトツカミ』イレマシタ」という、片言の日本語。
怒られているのは日本人ではない。修行中の、おそらくは外国人だろう。
「『ひとつかみ』じゃなくて『ひとつまみ』」なんだよ!」というさらなる怒声が
壁をも震わせた。そうしてやっとことの次第が飲み込めたのだった。
 これは私たち日本語話者から見れば小話で済ませられるかもしれないが、
もしも立場が真逆だったならば……と考えてしまう。とても笑えない話になることだろう。
 私たちは慣れない英語を運用するときに、この「塩ひとつかみ」の間違いをしでかして
いる可能性を決して否定できないのだから。中高合わせて6年間英語を学習しているとは
いえ、もっぱら行われているのは文法、読解、そしてオーラルコミュニケーションという
定型文の丸暗記。たしかにその効果はゼロであるわけがない。
が、そこには重要な「何か」が欠けているのである。
 その「何か」の一つには、英語の「ココロ」になるだろうか。
もろもろの英語学習は、いわば英語を外側から見たものである。さして自分の言いたくも
ない英語表現を無理矢理使うために、ともすれば言葉を発するときの「ココロ」を失って
いるのである。だから、たとえ感覚的にそれが間違いだと分かっていても、言葉の表層を
重んじるあまり、冒頭の「塩ひとつかみ」のようなエピソードが、英語で受け答えすると
きに起こってしまう可能性だってある。
 そういう問題に対して画期的な試みをしているのが、英語のネイティブ感覚を養ってく
れる、この本なのである。
こういうアプローチは今までありそうでなかった点だけでも大いに評価したい。
この本は英語を外側でなく、内側から理解すること、そして英語を使う楽しさをも伝えて
くれる。ポップな内容とは裏腹に、内容は充実しているのだ。
辛すぎず、かといって薄すぎない英語の絶妙な「塩梅」を教えてくれる本。
たとえば「the」の項目を読めば、いついかなるときにtheを使えば「だいたい」正しいの
か分かることだろう。下手に文法書を丸暗記してtheを「正しく」使えるより、この本で
「だいたい」使えるほうがいいかもしれない。
 この本を読めば、自信と実感を持って、
”Please pass me the salt.”
と言えること請けあいである。

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はい、泳げません

2005/09/13 14:54

不惑と水の交わり

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

【被験者】:タカハシさん 40歳
【職業】:ルポライター
【性格】:はっきりしない くよくよ考える
知人から「結局、あなたは覚悟が足りないのよ、何事も」という痛い言葉を突きつけられ
不惑にして水泳のレッスンに通い始めたタカハシさん。
最初は「本を書くために」泳いでいたのが、やがて「泳ぐために」泳ぐようになる。
その過程が細大もらさずと語られているので、「取材現場」の密着度が他の著作以上に高い。
タカハシさんの切実さがにじみ出ているからこそ、この本は泳ぐためのHow-to本にとどまらないもある。その読み方をいくつか挙げておくことにする。
1.「他者論」として
水が怖くて怖くて仕方ないタカハシさん。
タカハシさんにとって、水とはよくわからない「他者」に他ならない。
水について考えれば考えるほど、「自我」が泳ぎを妨げてしまうのだ。
水という「他者」に「自我」が溶け合うにはずいぶんと時間がかかってしまう。
2.「教育論」として
そんなタカハシさんの頑なな心を解きほぐそうとする桂コーチは、
時には厳しく、時には厳しく、結局いつも厳しくタカハシさんを叱咤激励する。
桂コーチの指導方法はユニークなもので、同じ動きでも
生徒に「通じること」を最優先し、何通りもの言い方をする。
桂コーチの言葉で、タカハシさんの泳ぎがしだいに変わっていくのだが……
3.「身体論」として
スポーツや勉強など、お稽古事の習得過程というのは、
普通は「わかる」→「できる」のステップを踏むと思いきや、
実際は真逆の、「できる」→「わかる」のステップとなっているのだ。
頭でっかちなタカハシさんが泳げなかったのもすべてこのため、
考えるすぎるがゆえに、一番大切な身体感覚がおろそかになっていたのである。
周りから泳ぎが「きれい」だと褒められ、まさに「水魚の交わり」となったタカハシさん
の姿に、さわやかな読後感を味わえるだろう。

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トラウマの国

2005/07/11 19:44

嗚呼!ニッポンの「とほほ」

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『トラウマの国』が書店のどこを探してもない!
ターミナル駅にある有名大書店の心理学のコーナーで、「トラウマ」の棚を見るも、ない!
目を移して、隣の「カウンセラー」の棚にも、さらには「心理一般」の棚にも、ない!
著者は『からくり民主主義』など、独自の切り口のルポルタージュで名を馳せた人。
だからルポルタージュの棚を探してみるのだが……やっぱりない!
ないないないない、どこにもない!
『トラウマの国』が見つからなかったことが、それこそトラウマになるかもしれず……
とは言いながら、打開策は二つばかりある。
一つ目は、何てことはない、こちらのサイトでチェックすればよいだけのこと。
著者の名前は高橋秀実。他の著書も検索すればずらずらと引っかかってくる。
それだけでは飽きたらず、もし実物を確かめたくなったならば、書店の「思想」の棚をつぶさに探せばよい。実際、某書店には『トラウマの国』は「思想」の棚に置かれてあった。
この書店の棚のチョイスも、間違いかと思いきや、的を射ているのかもしれない。
現代ニッポンにとってトラウマは「心の傷」というよりも、
「思想」、あるいは「レクリエーション」と化しているのだから。
トラウマだけではない。この本で取り上げられた他のトピック、
<子供の夢> <ユーモア> <日本共産党> <スローライフ> 等々、
すべては皮肉にも「思想」と化しているのだ。
「思想」だからこそ、「理想」でもあり、「達成された途端、色あせて見えるもの」である。
「理想」に向かって日々精進を重ねている間、「現実」は輝く。
が、両者のズレがしだいに大きくなってゆく過程を著者は見逃さない。
「理想」が「現実」から離れてゆくにつれて、人々はその「理想」からも「現実」からも
逃げようと、別の「レクリエーション」を追い求めてゆく。
そのズレに翻弄される人々の姿を、著者はインタビューを通して、半ば愛おしむように見つめている。
この人たちもいろいろと大変だよなあ、ほかならぬ自分もそうだけど、という風に。
これこそ「とほほ」の姿勢にほかならない。
この姿勢は、現代ニッポンで主流となっている、「自分をはっきりさせる」イデオロギーに対する唯一の作戦でもある。
「理想」と「現実」のどちらにも絶望せず、その間をふらふらとさまよいながら、
両者の改善をはかる。これらの硬直した関係を解きほぐすには、自分自身をもへらへらと笑い飛ばせる、「とほほ」の姿勢が有効なのかもしれない。
「理想」を「社会」、「現実」を「自分」に置き換えても話は同じ。
この本のあとがきにもあるとおり、人々が探し求めてやまない「ほんとうの、はっきりした自分」とは、実のところ、「社会」と「自分」のせめぎ合いによって、はじめて存在するものなのだろう。

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紙の本初心者のための「文学」

2006/07/24 21:04

「私」が「私」であることを疑うように、「文学」が「文学」であることを疑ったとき……

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一般社会で生きている人の生活はそれぞれに違うが、牢屋に閉じこめられた人の生活は
五指で数えきれるほどのバリエーションしかないだろう。
バイタリティのある囚人なら、一度や二度は脱獄をはかるかもしれない。
地面をせっせと掘ったり、壁をえぐったり。それも監視に見つかり無駄に終わると、「食う・寝る」のサイクルを、牢屋から出られる日まで繰り返すことになる。
これでは動物園の動物とさして変わらない生活、むしろ、周りにいる人間から好奇の目で見られない分だけ、哀れな生活かもしれない。
いつか自由になる日まで、囚人は牢屋の中で悶々と過ごすしかないのだろうか?
いや、たった一つだけ、檻から一般社会へすり抜けて伝わるモノがあった。
言葉である。
しばしばTVニュースで凶悪犯の獄中手記が公開されたとき、視聴者は囚人が何を思っているのか、その言葉から知る。それが本心からのものかどうかはうかがい知れぬが、言葉だけが檻から外部へすり抜け、何らかの訴求力を持つのである。
わが国の歴史に鑑みれば、国そのものが牢屋に閉じこめられた状況の最たるものが、もろもろの「戦争期」だった。大塚英志は、この本でまず、21世紀初頭の日本をとりまく状況そのものが、60数年前とさして変わらぬ「戦争期」であると言う。
そのために最初に取り上げる作家が三島由紀夫、太宰治の二人。
ともに「わくわく」を描いた作家、つまり「今、ここ」が戦争期であるからこそ、戦争が終わったならば……という「わくわく」を描いたと指摘する。
それは無意識に近いレベルで人口に膾炙するため、大っぴらなナショナリズムよりも性質の悪いと評価も手厳しい。いわゆる「文豪」であっても容赦はしない。
内向きの言語で事足れりし、何より「今、ここにある現実」との接点を持たない「文学」。
「私」と書くだけで「私」の存在が自明であるように、
「文学」と名乗りさえすればそれが「文学」であると認定されるのか?
それこそ、「私」はおろか、国家、「文学」の「ひきこもり」ではないのか?
大塚英志は日本文学への愛があるからこそ、言葉をいささかもゆるめない。
その一方、井伏鱒二、大江健三郎は「あるべき文学」だとして評価している。
井伏のように、「私」でない誰かのために言葉をつむいだり、
大江のように、「ムラから外へ出ること」が、「あるべき文学」だと言うのである。
携帯電話やインターネットなどの技術革新でコミュニケーションの形は変われど、
人間関係に潜む問題も昔とさほど変わっていない。
だからこそ、「私」と「文学」の存在が自明のものであるのか一度疑ってみてこそ、
「あるべき文学」が生まれるのだと、叱咤激励している。
つまるところ、牢屋にいる人間を食う寝るだけの生活から解放する力を備えてはじめて、
カッコなしの文学は生まれるのだろう。
すり抜けた言葉をきっかけにして、牢屋の鍵は外側から開かれることになる。

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紙の本遠い水平線

2005/07/06 07:41

空と海のあいだに

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

浜辺から海を見やると、その遠い先には一本の水平線がある。
一本の線にくっきりと隔てられた空と海。
空は「死」、海は「生」を意味しているのかもしれない。
が、本当にそうであるのか?生と死はそんなに厳然と区別されているのだろうか、
この物語の主人公、死体置場の管理をつとめるスピーノはそういう疑問を抱かずにはいられない。
そんな折、出会った「死体」の名前が「カルロ・ノボルディ」。
ノボルディは、「nobody=誰でもない」を意味している。
果たして彼が誰も知らないまま葬られてもよいものか、スピーノはいてもたってもいられなくなり、カルロ・ノボルディの足跡をたどっていくのことになる……
この小説は、第一に「死者の弔い」という意味合いが含まれている。
亡くなった人の足跡から、すなわち、別の人が彼の人生を「もう一度生きる」ことから、
何か見えてくるものはないか?
もし見えたとしたら、いや、たとえ見えなくても、ただ足跡をたどるだけで
ノボルディの弔いになっているのかもしれない。
生きているスピーノと亡くなったノボルディは、互いに「二度生きる」ことになるのだ。
さらに、この小説は「偶然をめぐる」物語でもある。
スピーノとノボルディが出会ったのも、まさに「偶然」のなせる技。
互いの意志で会おうとしたわけでもない。何かの「見えざる手」によって、
二人は引き合わされたのだ。
その「偶然」が「必然」に変容する瞬間を、作者タブッキは巧みにとらえている。
タブッキ自身、ジュール・ヴェルヌの『海底二万海里』と出会った「必然」の「写し絵」が、この物語なのかもしれない。
サスペンスの名のごとく、ラストは「宙ぶらりん」に感じたりもするのだが、
その違和感まるごと、結末をじっくりとかみしめておきたい小説である。

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「戦争寓話」はスルメの味

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

【お悩み相談 その1】
いまインターネットではブログで日記を書くのが大流行しているそうで、
私も試しにブログを始めてみました。するとすっかりブログにはまってしまうことに。
日々のつれづれや読んだ本の感想を書き、他の方のブログも読んだり、
気になる記事があればその方にコメントしたりしています。
コメントの種類もいろいろとあって、その中の一つが私の悩みの種となっているのです。
何かいけないことを書いてしまったからなのか、毎日同じ人から嫌がらせのコメントが
私のブログに寄せられてくるのです。面と向かっては決して言わないようなことでも平気で書かれてしまうと、本当に気分がめいってきます。コメントを消しても消しても新しいコメントが来る始末。どうすればいいのでしょうか?こまってこまって仕方がありません。
回答:『こまった人たち』に収められた「匿名者」を読んでみてください。
そのような悪意あふれる人が実際はどういう人なのかが分かります。
【お悩み相談 その2】
「コエンザイムQ10」のような、新しい言葉がマスコミで取り上げられると気になって気になってしょうがありません。すぐに関連の商品を買ってしまいます。
私はこんなに流行に流されやすくていいのでしょうか?本当にこまってしまいます。
回答:ぜひ『こまった人たち』に収められた「発明家」を読みましょう。
すべては「まず言葉ありき」ということが描かれていますよ。
上の例のように、この小品集では、設定を少しいじるだけで現代の日本にもそっくりそのまま当てはまる人々の姿が描かれている。
これらの小品に描かれている人が、あなたのまわりにもいませんか?
それとも、あなたがこの中の誰かだったりして……
この本は良い「反面教師」となること請けあいである。
さらに、チャペックの批評眼はそういう日常の枠内にとどまらない。
チャペックが生きたのは1890〜1938年、まさに戦争まっさかりの時代である。
最後に収められた寓話集には、戦争への皮肉がこれでもかというくらいこめられている。
チャペックの視点は「戦争と平和」という二項対立を超えたところにあるのに注目されたい。寓話だから、答えはない。ただ読んだ人それぞれがその意味を考えるのみなのだ。自分の頭でものを見、考えることのめっきり少なくなったこの時代だからこそ、
こういう本が出版されたことを喜びたい。
現代でも、世界のいたるところで戦争が起こっているのだから。
戦争を防ぐには、個々人が「大きな物語」を拒否することが一番の薬なのかもしれない。

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紙の本その街の今は

2007/01/15 23:51

われら橋の子

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 淀屋橋、日本橋、肥後橋、天満橋、京橋、鶴橋、長堀橋、四つ橋、心斎橋など、
大阪の地下鉄で「橋」のつく駅は多いが、すべての橋が現在も残っているわけではない。
 大阪南部の繁華街、いわゆる「ミナミ」の大動脈となっているのは、
難波の高島屋百貨店を南端とし、中間地点は戎橋、そして北端の心斎橋交差点まで続く
アーケード街である。人と車の往来が昼夜せわしない心斎橋交差点は、
交差点の中央に橋の欄干をあえて残していることで、かつてここに川があったことを
思い起こさせる。
 『この街の今は』の主人公に倣って、心斎橋の由来を調べてみると、
橋を作った岡田心斎にちなんでいるらしい。人名から橋の名前へ。
やがて橋がなくなり、地名だけが残っている。
 もう一つ、この小説の主人公の行動範囲も、大阪の都市地図で調べてみると、
日中は、本町と堺筋本町と心斎橋のどこからも中途半端な距離にあるカフェでアルバイト。
オフのときは、南は難波、北は心斎橋と、「ミナミの大動脈」を中心に、
1キロメートル四方あるかないかの区域をせわしなく移動している。
移動のさなか「鰻谷」、「周防町」など、刻みつけられる地名の数々。
 人との出会いと別れを繰り返しながら、大阪という街で生きること。
そのプロセスにおいて、主人公の心の中で、人と地名のそれぞれが「固有性」を持つ
のだろう。人と街とは、互いに分かちがたいものとしてあるのだ。
 人や地名だけではなく、建物の「固有性」も、この小説には描かれている。
時代とともに消えゆく建物、建築中の建物、そしてまだ見ぬ建物。
かつてあった建物のたたずまいは、映像、写真、さらには人々の記憶に残るもの。
主人公が地名や建物に並々ならぬこだわりがあるのも、街の来し方行く末を、
できるかぎりわが記憶にとどめたいという衝動にかられてのことなのであろうか。
 人と土地と建物、それらをまとめた街こそ、変化し続ける生き物なのかもしれない。

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紙の本本に読まれて

2005/06/28 00:03

本読みの轍

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この書評はいったいどこに向かっているのだろう、須賀敦子の書評の冒頭を読むと
そういう感覚に襲われてしまう。(という書き出しそのものが須賀敦子の書評の特徴!)
イタリア滞在時の話であったり、はたまた戦時中の話であったり、
ごくごく身近な話題から書評が始まってゆくことが非常に多い。
だから、触れられる書物も彼女のエッセイの「つま」でしかないのかといぶかしく
思いたくもなる。本の話をするつもりでいて、実は「自分語り」が目的なのではないかと。
が、そんな思いはものの見事に裏切られてしまう。
読み進むにつれて、文章はなめらかな曲線を描きながら
題目の書物との距離をしだいに詰めていく。
その距離の詰め方にこそ、須賀敦子と書物の関係が如実に表れているのだ。
過去に一度読んだもののその真価がやっと分かった本、
最近読んだ本と関係が深いから手にとって見た本、
その作者に取りつかれて読み続けずにはいられない本、
大切な人を思い起こさせる本、
などなど、本はそれ自身として決して存在してはいない。
何者・何者かとの関係によってしか規定されえないものなのだ。
そういう、須賀敦子の読書の軌跡を『本に読まれて』に「読まれる」ことによって
味わうことができる。
本は「読む」のではなく「読まれる」もの。
すなわち、本は一見主体的に読んでいるようでいて、実のところ、
現在の自分の精神状態や周りの環境によって必然的に選ばれている、
それが「読まれる」の意味にはこめられているのかもしれない。
自らの人生を豊かにしてくれる本に、しかるべき時に出会うことにこそ
読書の真の悦びがあるのだと。
志なかばにしてこの世を去った須賀敦子の軌跡を大切にしながら、
ここに語られた本に一つずつ丁寧に「読まれて」いきたいと思う。

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紙の本みるきくよむ

2006/01/16 23:27

感性の旋律

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 レヴィ=ストロースは『野生の思考』などの著作で構造主義の礎を築いた思想家である。
人間の本性は「贈与」にあるとして、『構造人類学』では、親族制度には「見えない構造」、すなわち、親族間に女性の交換という「構造」があることを論じた。
レヴィ=ストロースは、その他、経済活動・言語活動にも「贈与の構造」があること
を論じている。人間なりお金なり言葉なり、何かをやりとりすることは
広い意味での「コミュニケーション」にほかならないのだと。
 文化人類学に根ざした、どちらかと言えば非情緒的な構造主義の思想家が
芸術を論じるのも少し意外な気がするが、それもゆえなきことではない。
 そもそも構造主義は「音韻論」という学問をベースにしているのである。
さまざまな音を、まるで物質を原子に分けるように、「音素」という音の単位にまで
いったん分解して、その組み合わせなどを論じるのが、音韻論のあらましとなる。
構造主義を語るときには音に始まり各言語の「発音」を語るものの、
それが各芸術の「音楽」に向かったのがこの本なのである。
 絵画、音楽、文学について、これまでに培った膨大な知見が盛り込まれているが、
扱われるのはもっぱら18世紀の芸術、とりわけ音楽に多くのページが割かれている。
その時期の芸術にはなじみがないため、最初はとまどうものの、
読み進むにつれ、レヴィ=ストロースの思考に慣れてくると、底流にある「思考の旋律」
が心地よく感じられる。
まさに音楽のように、知識と知識を、和音のように重ね合わせ、響かせる文章の数々。
 直接的には触れられない芸術の真価を、言葉によって現出させた、
まさに「芸術の構造」をすくい上げた一冊、
願わくば、芸術とこのようにコミュニケーションしたいものである。

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紙の本ざらざら

2006/08/16 19:31

「麻」の手ざわり

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 川上弘美は「小説の女神様」、もしくは女神様の化身なのかもしれない。
これも「縁」があってのことか、『ざらざら』の後、中沢新一の「カイエ・ソバージュ」
シリーズの第一作『人類最古の哲学』を読み、続けて川上弘美のデビュー作『神様』を
読み返してみると、それは確信に近いものとなったのである。
中沢は『人類最古の哲学』の冒頭で神話についてこのように語っている。
「神話は人間の精神の奥深いところで働いている無意識の論理過程が、外からの影響力か
ら自由になった状態で、自由に結合や反転や変形をおこないながら、自分を展開しようと
している」
 『神様』の表題作の冒頭の一文は「くまにさそわれて散歩に出る」とある。
「カイエ・ソバージュ」の続編、『熊から王へ』でも指摘されているように、
この「熊」こそ、「神話的生物」にほかならない。いわば熊が「神様の化身」なのである。
かくして、川上弘美は「神様」の冒頭でいにしえの神話とリンクし、
「わたし」はくまの神様にさそわれて河原に行くのである。「河原」というのも、「三途
の川」でおなじみなように、「この世」と「あの世」を結ぶものである。
 また、神話は時と場所を変えて語られていくうちに、その内容が「変奏」される。
かの「シンデレラストーリー」も、ユーラシア大陸の西端と東端で、細部に多少の違いは
あるものの、物語の大筋は保持されているのである。
 川上弘美の数々の物語も、シンデレラストーリーのように変奏されている。
初期作品——『物語が、始まる』『蛇を踏む』——は神話の原型を想起させるものだが、
やがて『センセイの鞄』でブレイクすることになる。ここでは「くま」が「センセイ」
となり、「センセイに誘われて居酒屋に行く」となっているのである。
まさにくまの神様が地上に舞い降りたのが『センセイの鞄』であり、その後は、
『龍宮』で初期作品を彷彿とさせつつも、川上弘美といえば恋愛小説の名手という
イメージが固まった。『ニシノユキヒコの恋と冒険』もこの部類に入るであろうし、
何よりも『ざらざら』である。
 白水uブックス版『ユルスナールの靴』のあとがきで川上弘美は、「ほんとうに柔らか
いな、と須賀敦子の文章を読み返すたびに思う。柔らかくて、いい匂いがして、いつまで
も触れていたい、それは上等の布のような感じのものだ。」と、まるで「シルク」の手触
りのように評していた。
須賀敦子がシルクなら、川上弘美の文章の手触りは「麻」であろうか。風通しが良く、
それこそ「ざらざら」した手触りがある。気取らない、でもしっかりとした糸で縫い上げ
られた布。麻は人類が繊維を得るために、最初に栽培したものの一つでもある。
 『ざらざら』の表題作は、『神様』所収の「クリスマス」の変奏であるとも言える。
どちらも三人の人物が登場する。「クリスマス」はわたし、ウテナさん、壺から出てきた
コスミスミコの三人。「ざらざら」はわたし、恒美、バンちゃんの三人。
飲んで食って寝る、だらだらとした生活から垣間見える「日常のざらつき」を、
川上弘美はすっとすくい上げる。
 「日常」はささやかであろうがなかろうが、命あるかぎりつづくもの。
だから川上弘美の「神話」は、これからも変奏されつつ続いていくであろう。

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紙の本チェーホフ

2005/02/28 17:28

百年早すぎた作家

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

とあるクイズ番組の風景。

司会者「スクリーンの向こうに赤く丸い物体があります。さてこれは何でしょうか?」

解答者A「リンゴです」
司会者「Bさんもリンゴだとお思いですか?」
解答者B「いいえ、トマトです」

司会者「ブー、残念! お二方とも間違いです。正解は……ナイショ!」

チェーホフの小説・戯曲を読んでいると、このふざけたクイズ番組のように、いつもはぐらかされた気分になる。読むたびに違った印象を受けるのである。ある登場人物に肩入れすると、その人の言っていることが正しいように思え、また別の人に肩入れすると、別の見方が正しいように思えてしまう。チェーホフ後期の代表作の一つ、『中二階のある家』など、その最たる例であろう。風景画家である「私」と、社会運動に精を出すリーダの議論は、一向に噛み合わないまま繰り広げられていく。語り手である「私」の言っていることが一見正しく思えるものの、そうでもなさそうだ。リーダの主張することにも一理ある。

だからチェーホフは嫌いだ、本当は何を言いたいのかが分からない。という向きもあろう。そんな中、チェーホフ読解の手がかりを与えてくれるのが本書である。
チェーホフの生い立ちから始まり、不幸な少年時代、駆け出し作家の時代、名声の獲得、そしてサハリン旅行と、ごくごくオーソドックスながら、チェーホフについて押さえておくべき背景は本書で懇切丁寧に語られている。またとないチェーホフ入門書である。
代表的な短編にも言及されているので、気に入った短編があれば、手にとって読むこともできる。

チェーホフは、ドストエフスキー、トルストイといった、いわば「文学の父」亡き後に登場した作家である。まさにこれは、その百年後の、「大きな物語」が崩壊した「ポストモダン状況」と符号が一致する。となれば、去年に没後百年を迎えた今こそ、チェーホフは読まれるべき作家なのかもしれない。
『六号室』なんてどこにでもあるし、『箱に入った男』も、誰の周りにも一人や二人はいるはずなのだから。

本書を読んでも、チェーホフが何を言わんとしているかはおそらく分かるまい。冒頭のふざけたクイズ番組のごとくはぐらかされる事多々あるだろう。
だからこそ、チェーホフのおびただしい数の短編・戯曲には、これからも読者各自の「答え」を出す楽しみが残されているのだ。本書はその「答え」の土台を提供してくれている。

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紙の本先生はえらい

2005/02/21 22:26

正しい「誤解」の仕方

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本のタイトルは『恋人はえらい』です。

あれ?『先生はえらい』じゃなかったっけ?と思ったアナタ!
これからアナタが取る道は二つあります。

その一:
先生でも恋人でも別にどっちでもいいや、ぷいっ、とこの本をスルーする。

その二:
もしかしたら、先生のみならず、恋人をゲットする方法も書いてあるのかも?という「謎」がむくむくとわき起こり、ふらりと寄った書店でぺらぺら立ち読みし、そのまま購入して家でむさぼり読むものの、やはり「謎」は解明されないまま……

それでいいのです。「謎」は「謎」ままで。でないと、この本の真意が損なわれますからね。
「その二」の道を取った人のみにこの本の真意を「誤解」する余地が残されているのです。

「はじめに」のなかにすでに書かれています。「先生の定義とは、うんぬん……」と。
そこから、先生にまつわる議論をひとまず脇に置いて、「恋人」について、「学び」について、「コミュニケーション」について、果ては「ゲームの規則」について読みやすい形で論じられる本書は寄り道だらけですが、それでいいのです。
つまるところ、どれでも本質はいっしょ、相手あってのものなのだから(と私は「誤解」しました)。

読む人によっては「最強の恋愛マニュアル」に思え、また他の人には「ゲーム必勝法」に思え、さらには「コミュニケーションの理想型」にも読めなくもないこの本は、まさに万華鏡のように、ころころとその相を変化させます。
つまり、答えが「開かれた」本なのです。
どう「誤解」しようと勝手、いや「誤解」そのものを読者に要請している本なのです。

私は、学びであれ、恋愛であれ、コミュニケーションであれ、ゲームであれ、とにかく「して楽しむもの」だと「誤解」しました。

さて、アナタはこの本をどう「誤解」されますか?
その「誤解」に、アナタの独創性が発揮されるのです。

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イワン・デニーソヴィチの一日

2005/02/16 09:59

朝起きてから寝るまでの文学

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

無実なのに、八年の懲役刑を科されたイワン・デニーソヴィチ・シューホフの、朝起きてから寝るまでの収容所での暮らしについて。

と、さっくりとあらすじが書けてしまう小説だからこそ、その中に込められた「細部」には作者ソルジェニーツィンの並々ならぬ情熱が伝わってきます。

たとえば以下のごとく。

氷の張るような冬の寒い朝、起きるのが面倒でいつまでも布団にくるまっていたいなあと思ったことはありませんか?
仲間と食事に行ったとき、自分の食べたいものを先に食べられてしまったという経験は?

職場、学校などにおいても、
単調な作業を延々と続けてほとほと嫌になったことは?
仕事をさぼる仲間を見て「コノヤロー」と思ったことは?
先生・上司からのお叱りを受けるのが面倒くさくて、いい子・良い社員の「ふり」をしたことはないですか?

これらに似たことが、小説の「細部」として、執拗に描かれています。
現在・過去・未来と、良い小説に必要な要素も、その当時のロシアの現状を題材に、
すべて描き出されています。
あと、ぎりぎりの生活環境で生きていくための「心構え」も。

これが文学でなくて何が文学でありましょう。
ソ連共産党体制という、「反抗するべきもの」がなくなった現代こそ、
この小説が放つ光はなおいっそうまばゆくなってゆくと思います。

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「『私』と名のる猫」と読むウチダ本

8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ウチダ本を読むときの「儀式」としては、まず部屋の隅々にまで掃除機をかけ
風通しを良くする。掃除でかいた汗を風呂で流し、ほてりが冷めたら手袋をつけ、
机の前に背筋を伸ばして正座し、肘を90度に曲げて目の高さに持った本を読む。
一字一句おろそかにすることなく、眼光紙背に徹して……
 などという生真面目な態度を取る必要はまったくもって、ない。
ドストエフスキーであろうとトルストイであろうと夏目漱石であろうと、
本を読むときは「密室状態」である以上、その態度は誰にも見とがめられない。
電車でもカフェでもトイレでも、本はいつどこででも読める。
なかんずく、この本のように読み切りサイズの文章が並んだものは、
空いた時間に好きな文章をランダムに読めばいい。
 ただ一つ、私がウチダ本を読むときに心がけているのは「『私』と名のる猫」と
一緒に読むこと。本当に読むのは私ではなく、「『私』と名のる猫」なのである。
私は猫に読んで聞かせて猫ならではの意見を求めるだけとなる。
くだんの猫は、見たところ全身グレーのようでいて、喉の下が白くて尾が縞模様の、
「なんちゃってロシアンブルー」。
それを召喚、すなわち、潜んでいる猫を見つけ、手なずける。
喉をゴロゴロ鳴らしたらこちらのもの、読書の準備はこれで万全となる。
 そうして、ことあるごとに猫にうかがいを立てる私。
もはや聞き飽きたフレーズをここ一番のタイミングで言っているかどうか。
ベストタイミングならば、猫が機嫌良く「にゃー」と鳴く。そして先を読む私。
おなじみの言い回し・論理であっても、それが出てくる文脈によって、
ほんの少し意味合いが変わってくる。と同時に猫の反応も変わってくる。
 全体を通して読めば、この本はいつも通りのウチダ本、さして目新しいこともない。
それこそ「借りてきた猫」のようにおとなしいのが不気味なぐらいである。
文庫本の解説や音楽誌の記事など、あらかじめ「読者」が想定された文章であるため、
今回はウチダ基準で「クリアカット」されているとも言える。
猫は猫でも、雑種どおしの違い。それが数々のウチダ本なのかもしれない。
私が満足するよりも、「『私』と名のる猫」さえ満足されればそれでよい。
 つまるところ、ウチダ本の効能は「『私』の中の他者」を駆動させることにあるのだから。

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紙の本これも男の生きる道

2005/06/21 00:48

始まりは”Idon’tknow.”

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

橋本センセイ、
「男がもっと率先して家事に参加するよう<自立>についての本を書いてくれませんか?」
というオファーに対し、
「その<自立>の定義自体がいささか違っているのではないか?」
と問い直すことから、この本は始まる。
ラディカルな問いを忘れないのが、いかにも橋本治らしい。
いつものように大切なことは、繰り返し繰り返し、これでもかというくらいくどく
語られている。議論が脱線することもしばしば。
その曲がりくねった議論の変遷をたどってみると、
【1.自立について】
男が自立できないのは、「父」がいないからなのだ、と。
橋本治にしては、普通の意見で面白くない。
【2.「わからない」「できない」から始める】
いつの間にか議論が脱線して、それこそ「わからなく」なってきた。
自立と「わからない」がいったいどういう関係があるのだろうか。
【3.「一人前」を目指せ!】
今までの議論はここで一気にチャラにされてしまう。
一人前になりさえすれば、自立は自動的に達成されるのだ、と。
これもいたって普通の意見だけれども、妙な説得力がある。
他人がしていることだから興味がない。そんなの簡単だよと思ってしまう。
そういう甘い態度に、橋本治は容赦なく冷や水を浴びせる。
つまるところ、一人前になる道のりのスタートは、生き方の難しさに対し、
「私は知らない」と疑問を発することにあるのかもしれない。

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