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ユー・リーダーズ・アット・ホーム!さんのレビュー一覧

投稿者:ユー・リーダーズ・アット・ホーム!

紙の本聖の青春

2007/04/17 23:24

長くて、ややこしくて、もう届かない恋文

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

村山さんが亡くなった年度の、A級順位戦最終局のテレビ中継を今もはっきり覚えています。何度も画面に現れるA級順位戦対戦表の左端に村山聖八段(追贈九段)の名前がありました。既に前期、A級復帰を決めてすぐに次期の休場を決断していた村山さんの対戦表は空欄で、当の村山さん本人も、最終局のその日から半年さかのぼる8月に、もう鬼籍の人となっていました。対戦表のボードが映るたび、あるいは緊迫する対局場の様子を眺めていると自然に何度も、ああ、もう村山さんはいないんだと思えてくるのが悲しくて、ほとんど呆然とした気分で画面を眺めていた気がします。
この本に書かれている、奨励会の26歳の年齢制限までに昇段がかなわず、プロ棋士への夢が断たれた友人の加藤さんとのエピソードで、勝たなければ即退会が決まる一番に破れた加藤さんに対して、負け犬、と追い討ちをかけるように言い放って泣いていた村山さんの気持ちは想像を絶します。プロを目指す奨励会員も、あるいはプロの棋士たちも、負ければ何もないという世界で命をかけて戦っています。だけど、村山さんにとって、負ければ死に、勝てば希望が繋がるといことは、かけらも比喩なんかではなかったんじゃないかということです。加藤さんが奨励会を退会しなければならなかったその時、村山さんはB級2組で戦う六段のプロ棋士でした。本来なら、加藤さんの立場から見れば圧倒的に羨むべき位置にいる村山さん自身にとっても、目指す夢へと確実に歩を進めている道の途中だったはずですが、それでも、棋界から去ってゆく加藤さんを負け犬と痛罵して、自分は負け犬にはならないと叫んだ村山さんの心には、負け犬に“ならない”というよりも、“なる余地すらない”という思いがあったのではないかという気もします。
夢が破れても、加藤さんには別の人生がある。二十歳の誕生日に、生きていられると思わなかったと喜んで師匠の森さんに報告していた村山さんが毎日見つめていた死は、すぐ目の前で強い将棋を指す村山さんを見ていた周りの人たちには想像のしようもないくらいに切実なものだったのではないでしょうか。将棋を失えば、殊更の夢なんかじゃなく、ごくごく素朴な暮らしさえ託す時間はないんだと、村山さんは思っていたんじゃないかという気がします。夢破れて傷ついていても未来のある加藤さんに、自由にならない自分の人生を突きつけられるような思いがして、それでも自分は絶対に負けない、泣き言なんかいうものかという切ない決意だったのかもしれない。もう、将棋が本当の意味で村山さんの人生で、だから負けてしまえば本当に死を意味したのかも知れないし、負け犬と言い放ったのは、むしろ淡い羨望の裏腹だったのかもしれない。
対局の前には、ほとんど相手を斬るという気持ちだといった村山さんの覚悟は、寄り添うような本物の死を間近に見つめる人の真剣さだったのではないでしょうか。自分より長く生きるだろう人たちを相手に、差し迫った自分の人生の足場を問い続けるようなジンレマを抱えながら、その相手の夢をつぶす可能性さえ人一倍承知の上で、真剣に、斬り合いの覚悟で、全力で挑んでいった村山さん。それしか生きる道はなかった。一年の休場を決めた後も、村山さんは最後まで復帰の希望を捨てませんでした。
もし叶うなら、いまから村山さんのところに駆けていって、ちょっと勇気を出して声をかけて、あなたの将棋が大好きですと伝えたい。本当に、大好きだった。

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光と陰りの背中を見送る

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

回顧の文章なので、須賀敦子さんの基本的な姿勢はまず、後ろを振り返るというところにあって、しかもそれは肩越しに見やるといった感じではなく、立ち止まって、しっかりと後方に正対するような感じです。その眼差しの向こうに見るのは、人生の中の若く大事な(ご本人は「晩い青春」といったりする)時間を過ごした遠いイタリアという国で出逢った人たちの後ろ姿であって、どちらから去っていったかにかかわらず、日本に帰国した須賀敦子さんがイタリアの暮らしから時間を隔てて、その遠い日のことを書かれているので、自然、時間の流れとともに、後日談を含め、ほとんどの人たちの背中を眺めることになったといえるように思います。

流れ着いたというのではないにしても、当初の目的地とは違うイタリアで、異邦人という自覚や新しいものを吸収しようとする透明度の高い眼差しは、バイアスを遠ざけ、だけど周りの人たちそれぞれの立場の価値観を確かに受け止めながら、社会にある種の揺らぎがあった時代、その景色の中にいた人たちを近く、遠く、親近感と同調しきれない部分とを同時に抱えつつ、圧倒的な共感を傾けて、触れるところは全て真摯に見つめていた、そんな感じです。

過去は、それ自体が具体的にも抽象的にも現在の自分の手元で大切な宝物となる一方で、必ずなにかを置き去りにしてきていることの象徴のようなもの。記憶はところどころで薄らいだり、混乱したり、鮮やかさを失ったりするけれど、その向こうにかすんだものを思い返せば、全てを箱に詰めてここまで持ってこられたわけはなく、その通り、確実に置き去りにしてきたものを突きつけられて、どうにもならない懐かしさに沈む。須賀敦子さんの記憶は、ほとんどいつも驚くほど明晰ですが、いくらか自分に重ねてみて、そんなことを思わされます。

少し厚めのこの文庫は、詰め込まれたように文章がつづられ、平明達意な筆致にすいすいと読み進められますが、雪崩れるような過去の場面と思いに溢れています。うっかりすると、登場する人たちがすべて若者のように錯覚することさえあるけれど、実際はもう少し年上であったりして、そのことに気づくと、はっとさせられもします。作者が長い時間を過ごしながら眺めていた経過があるから、知己の人たちのその後を知らされて、人の人生は一様ではないという印象も強い。

こんなにも人の背中を見つめた人なのに、意図的ではないとしても、恐らくほとんど巧妙といえるくらい、須賀敦子さんはご自身の背中を見せられてはいない気がします。それは決して須賀さん自身のことが描かれていないというのではなくて、要するに、その文章が描写であって、吐露ではないということ。そこに描かれているのは須賀敦子さんの目に映ったすべてであって、矢印はご自身に向けられていない。だから、あらゆる物事が須賀敦子さんというフィルターを通して、その時々の心情とともに、どこかしんとした鮮やかさで伝えられる。

その眼差しに身を置くように読みすすめていると、だけど、須賀さんの背中は見えないとしても、その視線が単に物事を見つめているのではないことにぼんやりと気づかされるようです。なにかを見ているその向こうにはいつも、イタリアで暮らしていたころに喪くした旦那さん、ペッピーノさんがいる。その視点はぶれることなく、紙の上で、懐かしい日のことに近況を交えながら語らっているようです。

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紙の本金色の玄関に

2005/12/04 13:40

金色の玄関から

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

終止、文章を読むこと自体がとても楽しい本でした。ロシア語ができたら、溢れる隠喩にばんばん鋭く反応できるだけの十分な知識があったら、と思わされること度々といった感じでしたが、それくらいどの物語も縦横無尽な幻想と連想の駆けめぐる作品でした。作者の中で止めどなく展開する連想と、それが文章として実体化され、隠喩として表わされたときの、そこから広がる解釈や、言葉のつながり、ときには言葉遊びからさらに転がり続ける連想、特にこういう自由奔放な展開が作品となったとき、そこに表現されているものすべてを厳密に日本語に翻訳することは現実に不可能な作業なんだと思います。また、隠喩となっているものすべてに反応するには、作者と同じだけ表現の背景にあるものを知らなければなりませんが、それを単に書き手と読み手の間で前提となる知識の重なりの問題というだけでなく、国も言葉も、基本的な条件の異なる言語に移し替える翻訳という作業の、もっとも難しい部分が試される作品、あるいは、そういうスタイルを持った作者の手になる作品なんじゃないかと思いました。
その点、沼野充義さんの翻訳は平明達意、ロシア語ができない立場からでも、とてもわかりやすく、かつ原文の伝えるところをできる限り制約しないよう非常に丁寧に思いの至った翻訳がされているので、作者の世界に取り残されることなく、流れに乗って読みすすめられます。とはいえ、あとがきで訳者の方がいわれているように、文章自体にトリック(という表現が正しいかどうかわかりませんが)が多いので、どの短篇も、さっと読んで通り過ぎるのではなく、そこから広がる豊かな意味のつながり、連想される世界をじっくり楽しみながら読んでいってこその作品だと思います。また、トルスタヤ作品についてはメタファーという言葉で読み解かれることが多いようですが、むしろ個人的には連想による流れの多面的な面白さのようなものを感じました。そのためのメタファーという手段でもあり、メタファーから生まれる連想ということでもある気がしました。そういうものの進められ方、表現のされ方には、どこか高野文子さんの「黄色い本」を思わせる、それに似た雰囲気が感じられる気もします。文章自体もまた、メタファーの多用という点からもいえることかもしれませんが、時として詩の連なりのようです。
作者のタチヤナ・トルスタヤさんは現在、主にアメリカに住まわれ、エッセイや評論などを出されているようですが、それも最近のものは大抵英文のみでの公開らしく、とくに作家としては寡作な方といっていいかと思うのですが、ぜひ作品をどんどん書かれて、日本でも逐一翻訳が楽しめるよう活躍していただきたいと思います。蛇足ですが、作者はトルストイの孫娘さんにあたります。が、トルストイの名を出すまでもなく、素晴らしい才能にあふれた稀有な現代作家のひとりだと感じました。長くなりましたが、それくらい素晴らしい1冊です。

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めくるめく冒険

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ノーベル物理学賞を受賞されている著者によるエッセイで、原題に「好奇心でいっぱいの人物のめくるめくアドベンチャー」というようなサブタイトルがつけられている通り、愉快痛快な冒険物語を読んでいるといった感じでした。どの場面でもまっすぐに語られる文章が魅力的で、端的な文章だからこそあちこちに散りばめられた笑い話が余計におかしく、唐突で思いがけない展開に吹き出してしまうこと度々といった感じです。最終的に、その魅力的で個性的な素直な文章は著者が信条としていることに裏打ちされているものだということがわかります。

そんなふうに全体に非常におかしく、気持ちよく笑えるとても楽しい本ですが、同時に、著者のまっすぐな視点から数々の具体的なできごとを通して、さまざまな分野に関わる多くの問題提起がされている、示唆に富んだ部分があることもわかります。とくにブラジルの教育に関する部分では、それはブラジルの問題だと、対岸の火事のように、ただ笑ってやりすごす気の全くしない問題が指摘されていたりします。

さらにこの本の中で特に印象に残ったのはロス・アラモスに関する部分で、この本では突っ込んだ戦争についての話はされていませんが、1945年原爆実験に成功した直後の研究開発者たちのようすと、そのなかでも対照的に暗い顔をしたボブ・ウィルソンの言葉が書かれた部分で、そこには科学者はもちろん、すべての人がずっと心に留めておくべきものがあると強く感じました。

その辺から、本を読み進めながら漠然と科学者の責任ということについて考えていましたが、著者は本の最後(下巻)に非常に誠実なことばで、基本的で大切な思いを語っています。たとえば科学者は、とくに優秀であればあるほど大きな責任を負うことになるし、誠実さが求められることになるんだと思いますが、同時に、同じ地平線上で生きている人間であればだれにとっても常に、安易なごまかしにかまけることなく誠実であるということが大切なんだということを、純粋に考えさせられたように思います。

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紙の本テロリスト群像 上

2011/08/11 23:36

複雑で多面的な

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ロープシンの筆名で書かれた「蒼ざめた馬」を読んでいるときにも似た印象を持っていたのですが、著者の思いを読みとろうとしても、安易に心情を重ねられない、容易にそばに近づききれない、そういうなにかがあるという気がしました。それは、著者がテロリストだから、書かれていることは理解の範疇にないというような単純な理由からではなくて、むしろ著者はものごとを静かに眺めて伝えています。だから、著者が意図的にそうしているというより、そういう文章を書く人なんだろうという気もします。置かれた状況が違うから、暮らしいてる時代も、国も、生活も、比べれば、なにもかもが同じではないから、本当のところに思いを至らせるというのは簡単なことではありませんが、文章を読むというのは、すべてを超えて分かるということができる作業だと思っている、というのはほとんど信念です。だから考えるんだけど、なかなかつかんだとは思えない。といって、まるで伝わってこないというのとはちがう。

ページをめくりながら、サヴィンコフのまなざしを通して、行動をともにした仲間の横顔や、街並みや、街路樹を見、風の冷たさや、季節のうつりかわり、人の思いの揺らぎや、遠くの爆音を感じたりすることはできる。だけど、当事者だった著者サヴィンコフの手で書かれた文章から感じられるあらゆるものは、少し遠巻きで、どこかガラスごしに眺めているような、現実の凄惨さや臨場感からは一歩遠い、ふしぎな静謐さの中にあるようです。

サヴィンコフの文章の先に、読者にはっきりと伝えられる結論のようなものはない印象で、それは、小説「蒼ざめた馬」でも、実録の「テロリスト群像」でも共通しているように思うのですが、そこにあるのは、人を寄せつけない自らの決断のような気もします。だけど、その決断の行方も、簡単に読みとることはできない。わかるのは、サヴィンコフが、いまここにあるこの作品を書く前も、書いている最中も、そして書き終えた後も、ずっと行動の中に身を置いていたということ。

その行動の中でついには命を落としたサヴィンコフが、「テロリスト群像」を書いていた意味は何だったのか。描かれているのは著者自身のことではなく、すべては、少なくとも一度、ともに信念のために命を賭して戦う決意をした人たち、必ずしも個人の信条は一致していなくても、大義を同じくして、結束し、その後の運命を異にしたひとりひとりのことです。

ものごとや人に対する印象や好悪のようなものは、ある程度たんたんと現れるサヴィンコフの文章に、直情的なもの、感情の起伏のようなものはほとんど浮かんでこない気がします。だけど、そんなふうに、やはり具体的な言葉や文章に表れたりはしないのに、しかしどれほどの思いだったのかというそのことが、ふいに雪崩のように伝わってくる部分がある。たとえば、仲間のひとりだったシヴェイツェルの死は、特に段落に題名が充てられるわけでもなく、ただ静かに、いくつかの記事の写しと本人の残した手紙のコラージュで伝えられます。記事のひとつは、凄惨な死の現場を執拗に詳述した記録で、一方、手紙は母親に宛てられ、素朴で、やさしく、まっすぐな意思の強い青年の心のうちの伝わるものです。この落差に、ひとりの人の生と死がどれだけの側面を持ったものなのか思わずにいられない。そこに向けられたサヴィンコフのまなざしは、そういうすべてを眺めて、なにを映しているのか。具体的に文面に現れないまま伝えられるあらゆるものについて、とにかく思いをめぐらせる。

窓ごしに、すぐ下の通りを駆けぬける仲間を見つめながら、ガラスから顔を離したとき、そこにぼんやりと映った自分の姿にも気がついている。サヴィンコフの文章は、そんな感じがします。そして鏡映しになったサヴィンコフのことを思うとき、自分だったらということを想像する。

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現実と非現実が隣り合わせる、ものごとの薄い輪郭

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本は短編集ですが、物語の書かれ方にいくつかの種類があるように感じました。あるいは読み手の受け取り方にもよるところでしょうか。

たとえば、一見まったく無関係の世界、複数の視点が交錯して渾然一体となっている、マーブル模様のような物語、こういう言い方で大きく違ってはいないと思うのですが、「夜、あおむけにされて」や「すべての火は火」なんかはそういう作品のように感じました。印象がすごく鮮やかだったのですが、読んでいて、藤子・F・不二雄のSF(すこし・ふしぎ)作品のいくつかや、大友克洋の初期作品(「夢の蒼穹」)のイメージと重なる部分があるように思ったりもしました(引き合いに出すのがマンガで偏るようですが)。

現に今ここで体験している現実に違和感を持ったり、こうして確かに実感しているはずなのに何も証拠はないという不確かさ、既視感、存在していることの裏表のようなもの。コルタサルの描くものは、単に誰にも及びもつかない想像力の具現というよりも、むしろ言い得ない漠とした不安のようなものを文面に提示しているという気がします。どんなに突飛で空想的でも、思いもよらない物語として驚かされるのではなく、むしろ、そこに描かれているあらゆる意味での不確かさに、そういう不安は自分ひとりだけのものではなかったと安堵させられるような感じです。

イメージとして、メビウスの帯やエッシャーの「写像球体を持つ手」のように、どこかしらに一段想像の飛躍のある展開が、幻想的な作風といわれる所以かもしれませんが、そんなふうに現実から遠く、あり得ないものを描いているようでいて、ある意味、実際には、最も現実に近く寄り添った何かが描かれているという気がします。

「追い求める男」や「南部高速道路」は語り手の視点の定められた作品で、この短編集の中でもある程度の長さのある、語りに傾注された作品という印象です。内容的にも「追い求める男」なんかは、それまでとは著者の意図に変化があるようですが、ある強烈な人物を核においた物語として(必ずしも同じ方向性の物語ということではないのですが)、ウィリアム・メルヴィン・ケリーの「ぼくのために泣け」や、ラードナーの「相部屋の男」を思い出しました。「追い求める男」はチャーリー・パーカーを念頭に描かれた物語で、その点、「ぼくのために泣け」は黒人のミュージシャンが主人公という共通点がありますが、ラードナーの「相部屋の男」は野球選手の話です、にも関わらず、「相部屋の男」を初めて読んだときにジャコ・パストリアスのことが思い浮かんだという、その辺りで印象を重ねたんだと思います。

「続いている公園」のような短い作品は、不思議な絵という印象により近づく気がします。目の前の壁に絵が掛けられていて、読み手はそのまま足を踏み入れて紛れ込んでいく、そういう引力があります。

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紙の本むずかしい愛

2007/12/15 10:51

海塩をふりまく

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本を読み終わってとにかく印象に残ったことは、カルヴィーノという作家を読む上で重要なことなのかどうか、あるいはそれが意図的なことなのか、無意識のうちに出てきてしまうことなのか、カルヴィーノ作品を全て読了したわけでもない人間の目にはまったく判然としませんが、とても鮮やかで、それがいつまでも残っています。先に読んでいた短篇集「パロマー」が素晴らしく、中でも「はてしない草原」と「蛇と骸骨」という文章を読んだときに、カルヴィーノという作家に対して強い信頼感が生まれたのですが、しかし実は、その「パロマー」の冒頭、“浜辺のパロマー氏”としてくくられた3つの文章、とくに「太陽の剣」と題された文章を読んだときに、描かれたイメージをなかなかつかむことができずに苦労して、何度も読み直しながら、ちょっと投げ出しそうになったということがありました。いまでも「パロマー」ですきな文章は「はてしない草原」と「蛇と骸骨」で、しかもそこには作家の本質的なものが現れているとも思うのですが、しかし、また別の意味でずっと印象を残しているのが、「太陽の剣」と一連の海へ注がれたカルヴィーノのまなざしです。そのことが、この本を読んでいるあいだ、ずっと頭に浮かんでいました。

「むずかしい愛」と題されているものの、とくに直接的に愛が語られることはないという印象で、うっかりするとタイトルのことを忘れてしまいそうなほどです。大まかにいってしまうと、日常的な生活の中で起こりうるちょっとした脱線、逸脱に端を発した、漠然とした、あるいは転換点となるかもしれない、気づきのようなものが描かれているように思います。愛というのは色々で、ささやかなもの、毎日の生活に埋もれているようなもの、危うげなもの、偏向的なものと、その描かれ方もそれぞれです。

そんなふうに多様な場面が描かれた「むずかしい愛」の中で、「ある海水浴客の冒険」という文章を読んでいるときに、なにかを思いだすようだと思っていたら、「パロマー」収録の「太陽の剣」でした。どちらも話の中心になっている人物が、足のつかない少し沖合いを泳いでいて、そこで自分の周りの海についてなにか思いをめぐらせます。で、その「太陽の剣」を読んでいるときに頭に浮かんでいたのが、カミュの本なんかにも名前が出てくる、冬の大洋に泳ぎ出たまま戻らなかったジュール・ルキエという思想家のことでした。カルヴィーノの意図とは全く関係なく、あくまで勝手な一読者の連想ということですが、とにかくその3つのイメージがずっと漠然と重なっています。しかし、そういう印象を持っていることが要因でもあったかも知れませんが、「むずかしい愛」を読んでいると、海や水の関わる情景が多く描かれているということが強く感じられ、印象に残りました。

たとえば「ある兵士の冒険」や「あるスキーヤーの冒険」など、海や水にかすりもしない文章も多数収録されていますが、そういった短篇の印象が薄いということではなく、しかし、何かしらはっとしたところで、海の匂いがしている、潮風、波に乱反射する太陽の光、灼けた砂、そういったものが現れて、全体の印象としてはなんだか支配的に感じられる気がします。カルヴィーノの中に、そういう何かがあるのでしょうか。実は、いま読んでいる「魔法の庭」でもその印象はつづいています。

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最高に優雅な江分利満氏

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

昭和37年度下半期の直木賞を受賞している作品ですが、とにかく痛快な、というと、せつない場面だって、辛い場面だってあるんだけれど、それを全部乗り越えて最高におもしろい「江分利満氏の優雅な生活」です。的確で、リズムがあって、ユーモアがあって、たんたんとしていて、ときどき思いが込み上げてきて、というようなものすごく魅力的な文章で描かれていく江分利満氏の毎日です。かなり波乱万丈ですが、元気です。平均的な一サラーリーマンという主人公ですが、自分の決定的な弱点について考えてみたり、日々の不幸な出来事に、なんでこんな目に遭うんだと腹を立てたり、落ち込んでみたり、いろんな苦しい場面に出くわしていくのですが、それでもけっしてめげないし、くじけないし、けっきょくのところ、立ち上がって、なんだこれしき、理想があればいいんだと、前に向かって進んでいきます。
本の中には、辛い現実をみつめた経験を反映したやるせない、せつない挿話もあって、野球にまつわる話や葬式の日の話なんかはまさに出色です。でも、どんな現実にも打ち負かされない高い理想を持った江分利満氏の姿と生活は、中産階級を勇気づける誇らしい讃歌です。とはいえ、全般に正直さとユーモアとひねりが満載のおかしい本で、とにかく笑えます。大推薦。

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ある青年の肖像

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

1997年に出版されたニック・ドレイクのバイオグラフィーの待望の邦訳です。この本が出ることを心待ちにしていた人は多かったのではないでしょうか。1948年に当時イギリス領だったビルマに生まれ、シンガー・ソングライターとして3枚の作品を残しながら不遇のまま1974年に26歳亡くなったニック・ドレイクの、作品からは窺い知ることのできない側面を伝えてくれる本です。著者のパトリック・ハンフリーズはこの本のために多くの時間を調査に割き、また当時のニックを知る人たちからできうる限りの証言を取り、綿密に、かなり詳細にニック・ドレイクという、かつてプロのミュージシャンとして名をなそうとし、一部にその才能を認められながらもセールス的な成功を収めることができないまま夢破れた、ひとりの青年の人物像に迫っています。

その死から30年以上が経ち、ニック・ドレイクの名前を、若くて新しい色々なアーティストに関する紹介文や、アーティスト本人の言葉の中にいくらでも見つけることができるようになった今、いったいなぜニック・ドレイク本人が生きていた時代、その作品が評論家からは高い評価を受けていながら、一般のリスナーの耳に受け入れられることがなかったのか、そのためにニック・ドレイク本人は深く落ち込むことになり、あとにこんなにも高く評価される未来があることも知らずに亡くなってしまったというのに、この切ない時間のずれはいったいなんだったのかと不思議に思わずにはいられません。

どんなに詳細に書かれた本でも、その辺への手がかりとなるところは、過去を振り返る形で提示される限られた物であるとしか言いようがない気がします。実際、この本が出るころニック・ドレイクの家族として唯一の人となっていたお姉さんのガブリエルさんは、この本への協力を断っています。それでも、直接ニックを知っていた人たちから語られる当時の事情は非常に興味深く、共感を深く、新たにさせられる本です。



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紙の本蒼ざめた馬

2010/11/05 00:05

ひとりでどの星を見ているのか

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最後の数ページを残したところで、読み切ってしまうのがためらわれて、そのまま少しの間、読まずにいました。日割りで出来事が綴られていく文章は終始淡々としています。主人公の暮らしの中心はテロの実行に向けたものですが、そういう活動を軸に置いていればありそうな、誇張や強引さのようなものはなく、ただ淡々と、だからといって努めて冷静というふうでもなしに、目に映る景色の描写と等しく、見たまま、感じたままが書かれているという感じです。

これは、孤独で悲しい活動家のヒロイックな物語なんかじゃないし、そもそもテロやテロリストの宿命的な悲しさが描かれた話でも、その正当性や崇高さが謳われた話でもない、むしろ寒々しい極限的な位置から命の意味をみつめている人の話のように感じました。

テロリストの活動は、聖書の「汝殺すなかれ」ということばと矛盾するものですが、本文には聖書の引用がいくつも呪文のように現れるし、主人公の仲間には強い信仰を抱えたまま自覚的に乗り越えようとする人物もいます。主人公もそのことばに耳を傾けないわけではありませんが、そういったものは最初から否定の対象になっているように見える。そこに一定の真実は認めても、主人公には信じられるものではなく、その輪郭を滑るようにしながらも、到底受け入れられるものにはならないという感じです。実際、本人は最初からそういっているように思える。テロの正当性を求めようとしても理屈からは矛盾ばかりが迫ってきます。主人公は、ずっと懐疑的なニヒリストです。だから、もうほとんど最後の手段として、自分の命のぎりぎりのところで、その意味をみつめ、人生を回そうとしている。そんなふうに、この物語がいっているのは宗教や倫理観の問題でも、テロリストのことでもなく、行動自体の中で自分の存在の意味を問うている、そのことだという気がします。

この本を読み切らずにいるあいだ、代わりに何を読もうか迷って、もう何年も前に読んだ澁澤龍彦の本を引っ張りだしてきました。ページをぱらぱらめくりながら開いたところが、三島由紀夫について書かれた文章「絶対を垣間見んとして……」で、何気なく読み始めた感じだったのですが、ほとんどすぐに、これはまったく「蒼ざめた馬」の主人公と重さなるという思いがして、穿ち過ぎの個人的な印象にすぎないとしても、その偶然に驚きました。

三島由紀夫については何もいうべきものを持ちませんが、ただ三島由紀夫の最後の行動が、なんらかの理念や思想に裏打ちされたものというんじゃなく、むしろ生来ずっと存在の深くに持ち続けた衝動の発露であって、くだくだとした理屈も事件としての結果も、全てはそのアリバイでしかなかったと澁澤龍彦がいうように、「蒼ざめた馬」の主人公にとってのテロも、自覚的にではなかったにせよ、なにかに対峙することで自らの存在意義を作り出していた、命を確認するためのアリバイでもあったのだとしたら、「絶対を垣間見んとして……」の中で三島由紀夫を説明する“能動的ニヒリスト”ということばはそっくり、この作品の主人公にも当てはまるような気がするといっても、ひとつの感想として、いい過ぎにはならないでしょうか。

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紙の本パロマー

2006/04/27 23:23

ここから遠くを見つめるまなざし

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

結局のところ、いろんな意味でちがうのですが、読み始めるまえからパロマー氏について、ジャック・タチの映画、ぼくのおじさんシリーズの主人公ユロ氏に似た印象を持っていました。どういったわけかというと、この本の最初に海にまつわる文章があるのですが、本を手にとってぱらぱらめくっていたときに、そこでなんとなく海辺のユロ氏と重ねたせいかもしれません。更にいうなら、その海に関する項目には「パロマー氏の休暇」というタイトルがつけられている、これもさらに影響を与えている気がします。それに、パロマー氏もユロ氏も、なんだか寡黙です(わりとそうでもない可能性も垣間見えますが)。
この本では、なにか哲学が結果ありきの結論にむかって確信的に語られていくというのではなく、ごく素朴で日常的な場面をきっかけとした物思いが、読者の目の前で繰り広げられていく、といった感じです。だから、語られる思いはいろいろな可能性を探ってゆらぎますが、そこに、物を考えるということに関する強い共感が生まれる気がします。完成されただれかの意見を聴くのとはちがい、だれかが、なにかあるはずだと信じているほうへ今まさに向かっている、その過程そのものに耳を傾けている、見つめているという感じです。きっかけはいつも身近な自然や物、現象やできごとでありながら、パロマー氏の物思いはミクロからマクロへ通じる普遍的なこたえを目指します。ときには徒労にも似た思索が展開し、ときには諦めのようなものが現れながら、それでも考えようとする向こうにあるなにか、本当にたどりつくべき場所があるのかどうか、それすらわからないまま、けれどパロマー氏が常に考えつづけている、そのひと足ずつが証明するなにかがあるように思います。
不定期に長い時間をかけて、しかも掲載紙面を移しながらも、新聞紙上などにゆっくりと書き継がれた文章をまとめた短編集です。こんな文章の載っている新聞というのが、うらやましい。「はてしない草原」という一片がとくに美しく、パロマー氏の基本的なまなざしが描かれているように感じました。

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最良の自伝

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

すてきな、すてきな、すてきな本です。デッド・パン、バスター・キートンの、心底正直で、おかしくて、幸福で、この上なく素晴らしい自伝です。この本を読んだら、だれだってバスター・キートンを愛さずにはいられない、本当にすてきな本でした。誕生から、家族で興行したヴォードヴィルのこと、最盛期から低迷期、その後のできごとや、関わった業界と人について、色んなことが本当に詳細に語られています。とにかくいっさい忌憚なく、ただただひたすら正直な魂によって語られているんだというのが伝わってくるので、なんだかいつまでも読んでいたいという気持ちになります。おもしろくて、おもしろくて、それからときどきは、ちょっとせつなくなったりもします。良いことも悪いことも、過去に等しく対するキートンの姿勢には、何か特別なものがあるように思います。本場で映画を学ばれてきた藤原敏史さんの訳もすばらしく(訳注や資料も詳しい)、とにかくバスター・キートンのイメージをまったく壊すことなく、とても読みやすいもので、翻訳としてこの上なく、まさにベストの状態だと思います。読み終わると心がしんとして、たまらなく映画が観たくなりました。

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とにかく読もう

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最近、カルヴィーノ作品は未読という友人の誕生日にカルヴィーノの本を贈って、その際、簡単な紹介のつもりでノーベル賞受賞作家と書いたメールを送ってから、あれ? と思っいたって調べてみたところ、カルヴィーノは受賞者ではありませんでした。あと二年もあればそうなっていた、という人もあったようですが、しかしこの際問題なのは賞なんかではなくて、なにより彼の書き遺した文章の数々です。
「文学講義」の日本語の副題は、遺稿を纏めた奥さんによって考えられた原題を訳したもので、カルヴィーノは二千年代の文学を念頭に置いた上、六つのテーマを選び、それぞれについて独自の考えを語るつもりでしたが、実際この本にはその内の五つしか収められていません。最後のテーマとして語られるはずだった“一貫性”については、カルヴィーノ自身の不意の死によってついに語られることはありませんでした。すべてはハーヴァード大学での講義のために書かれた原稿で、その眼差しの向こうには未来を担う学生たちの姿があったのでしょうか、個人的には文中で次々に言及される古今東西の膨大な文学作品群に自分の浅学を思い知らされつづけたりした訳ですが、それでも文章全体に思いの至った配慮がなされ、簡潔でテンポの良い語り口でありながら、非常に丁寧に書かれているという印象です。
カルヴィーノはたしか、どんなに優れた評論であっても、そこで扱われた作品そのもの以上に伝えるところのある文章なんてない、だから作品自体を読むことだ、という意味のことをいっていたと思います。そうやって、直接、古今東西多種多様の作品そのものを読んで行こうとする人たちにとって、どんなふうに読むのかという指針として、大きな一助を与えてくれる本だと思います。そして読了後は、ここで触れられたか触れられなかったかに関わらず、とにかく色んな本を読みたいという気分にさせられました。

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逸品集

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寡作な、本当に寡作な高野文子さんの1995年出版のこの作品集には、’87年から’94年のあいだに、大切に、ていねいに描かれた作品が6本収録されています。帯には「昭和43年6月6日のお昼ごはん、覚えていますか?」という文章が書かれていましたが、これは、最後に収められた「奥村さんのお茄子」という、ものすごく(!!)おもしろい作品に関係していることばです。とにかく、やさしくて、ほのかにせつない物語あり、楽しくわらえるものあり、雑誌に連載されていた4コマあり、というヴァラエティに富んだ内容の上に、そのどれもが傑作という素晴らしさです。
とにかくどれをとってもすごいんだけれど、この作品集の中では1番最近作の「奥村さんのお茄子」の完成された世界。上からも下からも右からも左からも、近くからも遠くからも眺めることのできるひとつの宇宙が描かれているようです。絵も構成も、3Dのように自由自在で、かなりかなりダイナミックかつ自由奔放な展開も、素晴らしく自然にたんたんと流れていきます。高野文子さんにしか描くことのできない、特別な世界です。どの物語を読みおわってもなんだか思いが残ります。そして、こういう描き方があり、それが実現されてここにあるという誇らしさ。

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最良のメニュー

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とにかくかいつまんでアメリカ文学を読むのに、とても良い本でした。気分的にも、ひとつ読み終わると、まったくちがうの作家のまったく趣向のちがう話が読めるので、とても楽しめました。たとえばこの本で初めて“ウィリアム・メルヴィン・ケリー”という作家を知りましたが、ここに収録の「ぼくのために泣け(Cry For Me)」という短篇は、けっして暗い物語ではないけれど、結末がたまらなくせつなくて、とても印象的な話でした。あんまり良かったので、このあと同じ作家の本を苦労して探して何冊か読んだりしたくらいです。また、サリンジャーの有名な短篇「エズミに捧ぐ‐愛と汚辱のうちに」は、同じ野崎孝さんの訳でも、新潮社から出ている短編集「ナイン・ストーリーズ」のものとは、最後のところの訳文に少しちがいがあって、おそらくこの本に収録されているもののほうが訳し直されたものだと思います。J.ボールドウィン、S.アンダソン、スタインベック、マラマッド、アーウィン・ショウ、フォークナー、フィッツジェラルドなどなど、有名な作家の作品から、いまはここでしか訳出されたものを読むことのできない作品まで、かなり多彩な短編集です。読みごたえのある作品ばかり。これを書いている時点で入手不可になっているのが残念です。

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